二話 闘技場の吸血鬼 その二十二 追跡者

 リィンとウィルの二人は灰と瓦礫にまみれた焼け跡から脱出し、治安維持部隊の本部への帰途についた。


 帰りは、行きとルートが違っていた。が、リィンはそのことにすぐには気が付かなかった。初見で覚えられるほどこの辺りの通りは単純ではないし、リィンも特別、道を覚えるのが得意というわけでもない。彼女がそのことに気がついたのは、歩きはじめて十五分ほど経った頃だった。行きと帰りが全く同じルートならば、所要時間はそう大して変わらないはずだ。なのに、行きと同じくらいの時間をかけても、まだ二人は貧民街を抜け出しておらず、馬車道にも出ていない。


 次第にウィルの足取りがゆったりとしてきた。子供か老人並の速度。


 てっきりリィンは、ウィルが一秒でも早く、焼け跡の地下室から見つけたあの書物を鑑定したいものと思っていた。しかしどうやら違うらしい。急ぐどころかその真逆。呑気にゆっくりゆっくり歩く。体調でも悪いのかとウィルの顔色をうかがってみた。平常通り。血色良く、落ち着いた表情。体調が悪いわけではなさそうだ。となると、ゆっくり歩く理由がわからない。しかし雇い主がそうしている以上、リィンはそれに疑問を差し挟む必要は今のところ無いと思った。ただ、ウィルがそうしたいだけかもしれないのに、事細かに理由を伺うなどは野暮ったい、とリィンは思った。

 二人はゆっくり歩き、貧民街を彷徨った。


 インテグロンの貧民街は三階建以上のアパートがひしめいていた。二人は乱立するアパートの隙間を縫って歩いた。アパート間の間隔は狭く、二人並んで歩くので精一杯だった。もし前から誰かが来れば、リィンかウィルのどちらかが避けなければならないだろう。しかし、そんな起こりえそうな状況が、もう三十分は歩いただろうに、一度も発生しなかった。リィンは異常を感じ取った。貧民街全体が二人を歓迎していない。そんな空気感を感じ取った。


 ときにアパートに挟まれ、遠く細くなった空を見上げると、左右のアパートのいくつもの窓が目に入る。窓には何人かの人がいた。しかしリィンが顔をあげると同時に、姿を隠してしまう。リィンが視線を正面に戻すと、再び窓からの視線を感じる。じっとりと視線が二人に張り付く。たっぷり歩いても、彼らは視線を投げかける以外のことはしない。


 リィンは視線に懐かしさを覚えた。故郷エタイトの貧民街でも、やはりこうだった。きっとこれは万国共通なのだろう。治安を預かる騎士は、治安悪化の元である貧民を敵視と蔑視の目で見る。貧民街の悪党は生きる糧を騎士に奪われ、時には命さえ奪われるからやはり敵視している。貧民街の善良な人間も、悪党と一緒くたにされてしまっているから、これもまた騎士に対して悪感情しか持てない。これはもはや社会の仕組みなのかもしれない。仕方のないことなのだろう。リィンはそう思った。


 さらに歩くうちに、リィンは窓からの無数の視線より、もっと質の悪い気配が近づきつつあるのに気がついた。リィンの本能的勘というか、動物的感覚なのか、それとも警察騎士団の頃に培われた才能なのかは定かではないが、背後から迫りくる異質の視線はリィンの心胆寒からしめるものがあった。


 リィンはウィルにこのことを伝えようと彼の顔を見た。瞬間、ウィルはリィンと隣り合っていた左手を自らの腹の辺りまでさっと上げ、手のひらを地面に水平に向けると軽く左右に振った。ハンドサインだ。治安維持部隊に共通するサインでもなければ、二人が前もって取り決めたものでもない。それでもリィンは意味を理解した。彼女はハンドサインに従ってそのままウィルと歩き続けた。


 もはや頭上の視線は問題にならなかった。背後の視線はそれらより遥かに危険を孕んでいた。長く異質の視線を背に受け続けていると、リィンはその視線から更なる違和感を感じ取った。警察騎士団をやっていると、反社会勢力から尾行を受けることもままあった。それらの視線からは明確な敵意というものがあったに対して、今現在の尾行者からは敵意をほとんど感じない。それなのに、視線からは恐怖と危険が感じ取れた。こんな不気味な視線は初めてだった。大体、人間というのは人間を殺そうとするとき、特にそれが計画的であるときには明確な殺意が存在する。しかしこの背後の視線からは殺してやろうという意志を感じ取れない。では尾行が目的なのかといえば、そうではないと感じられる。敵の明確な目的は不明だが、結果としてそこに流血が、そして死がつきまとう、という予感がリィンにはあった。それはあまりにも感覚的なことだから、リィンにもうまく説明はできない。だが、こういうときほど、リィンの感覚は正しかったりする。


 二人は背後からの敵に気を配りつつ、狭い路地をいくつも抜けた。二人と敵はいつでも等間隔だった。仕掛けるにしては遠い距離は、尾行と逃亡には打ってつけの距離だった。


 角を曲がると、そこはだだ広いだけの空間だった。多分元は、ここにアパートか何かが建っていたのだろう、空間の三方を囲った石壁は焼けて黒くすすがついていた。リィンとウィルのいるところにはきっと門があったのだろうが、石の門柱が立つのみで、門そのものは灰燼に帰してしまったらしい。火事はずいぶん前のことらしく、火事があったと思わせるものは石壁のすすくらいで、あとは綺麗サッパリ片付いている。誰かがここでボール遊びをしていたのだろう、壁の隅にボールが一個転がっている。石壁の高さは一メートル半くらいか。追跡者にとって絶好の袋小路。


 ウィルは追いつめられたわけではない。わざとここへきて、あえて袋小路に入り込んだ。追跡者に仕掛けさせるために。ウィルはリィンよりもはるかに早いうちに追跡者に気がついていた。火事跡を出てからすぐについてきたことから、追跡者はきっとこの事件に何らかの関係があるとウィルは考えた。できれば捕らえて話を聞きたい。しかし、とっさに踵を返し、追いかけても入り組んだ貧民街では逃げられる危険が高い。ならば逆に自ら追い詰められた餌を演じて、追跡者に仕掛けさせようと考えた。ただの尾行者ならこの作戦は失敗するが、ウィルは追跡者が尾行のみで終えるようなものでもないと感じ取っていた。きっと何か仕掛けてくると感じ取っていた。ウィルとリィンの勘は一致していた。二人の騎士が勘を一致させたなら、それはもうほぼ正解だ。


 そして現に、追跡者はその姿を現そうとしていた。


 こともなげに、追跡者は物陰から姿を現した。勿体も何もない、逡巡の時間すらなかっただろう、いや、逡巡するということすら必要なかったに違いない。それくらいあっさりと姿を現した。


 二人は振り向き、その姿に瞠目した。身長は二メートルはあるだろう大男。その巨体だけでも十分に驚くことができるが、大男には更に驚くべきところが多々あった。まず肌だ。衣服の隙間から除く肌は死体のように青ざめていた。筋骨隆々。肌と同じく青い顔は無表情。薄く開かれた目は濁りながら二人を見据えている。肌、顔色、目、これらは死体を想像させたが、無論死んでいるわけではないだろう。その証拠に大男はゆっくりと大股で二人に近づきつつある。


 まさに吸血鬼。リィンは大男を見て思った。大男は彼女の思う吸血鬼像と通じるところがあった。


 二人は同時に抜剣した。不気味な大男を目の前にしても二人に動揺はない。リィンに至っては少々拍子抜けの感もある。なにせ大男は得物一つ持たず、無手だった。いくら巨躯を誇り、膂力に自信を持っているとしても、得物を持つ騎士に立ち向かうのは無謀だ。ルール無用の戦いにおいて勝敗を決する条件の第一には、まず武器の性能だろう。武器が同程度なら次に技量の差。一方が武器を持ち、もう一方が武器を持たないのでは話にならない。武器を持つ方が素人で、持たない方が熟達した玄人なら可能性はあるが、リィンもウィルも剣のプロフェッショナルだ。リィンが拍子抜けするのも無理はない。勝負は見えている。リィンはそう思った。


「止まれ! その場に跪け! 手を頭の後ろに上げろ!」


 ウィルは剣先を大男へと向け、警告を発した。


 よくあるショボい犯罪者ならこれで終わり。従順になって、縄について連行される。リィンはそうなるだろうと予想したが、それは裏切られた。大男は歩みを止めない。眉一つ動かさず、無表情のまま向かってくる。


「もう一度警告する! これが最後だ! 私はウィル・コーダー!治安維持部隊の騎士だ! 不逞の輩には『剣による執行』を許可されている! 意味はわかるな? わかるなら跪き、手を上げろ!」


 これも無視された。なおも大男は堂々と歩く。ならば、あとは『剣による執行』を進めるしかない。


 方針は決まった。二人はサッと左右に分かれた。互いの刃が届かぬ距離に。互いに戦いやすい位置に。


 その時だった。リィンとウィルの動いたその瞬間、大男は突如突進を仕掛けた。野生の猛獣的瞬発力。蹴りつけられた地面は抉れ、土煙が舞った。狙いはウィルだ。二人の反応は遅れた。大男の瞬発力が化物じみていたせいもある。だが一番の原因は二人の油断だった。武器と数で優るが故の油断があった。


 ウィルは向かってくる巨体に向けて剣を突き出した。意表と油断を突かれたにしては鋭く正確な突き。間違いなく、突きは大男の胸を貫く確信があった。


 しかし、ウィルの剣は空を裂いた。ウィルは先程以上に、遥かに強烈な緊張、恐怖、驚愕をもって瞠目した。一瞬、あの巨体が完全に目の前から消滅してしまったように見えた。


 リィンは何が起こったのかを正確に捉えていた。リィンは見た、大男が瞬時に身体を地を這うように屈め、さらにその状態から加速するのを。


 大男は減速することなく、そのままウィルに突っ込んだ。巨大な肩がウィルの腹に刺さった。


 衝撃音、骨が折れる音をほとんど同時にウィルは聴いた。反吐が出そうな嫌な音だ。それが自分の肉体であった場合は特に。実際に血反吐を吐いた。視界は閃光を受けたように一瞬にして白み、意識が遠のいた。ウィルの強靭な意志が自らに命令した。落ちるな! 意識を保て! まるで現世と冥界を彷徨うような場違いな浮遊感があった。実際に肉体は大男によってはね飛ばされ、宙を浮いていた。かなりの距離を吹っ飛んだウィルは不格好にもなんとか受け身を取りつつ地面に落下し、勢いに数メートル転がった。意識を失わず、その上剣を離さなかったのはさすが騎士と言うべき気力の強さだが、さすがにすぐには立ち上がれそうになかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る