二話 闘技場の吸血鬼 その二十三 化物

 無残に倒れ伏すウィルにとどめを刺そうとさらなる突進を繰り出す大男。が、リィンはそれを許さない。全身にマナをみなぎらせ、神速剣を発動させ、大男との間合いを一瞬で詰めた。大男がそれに気がついたとき、すでにリィンの剣は空気を切り裂き迫っていた。狙いは胴体。だが、大男は刃に臆しない。どころか、リィンの顔面めがけて拳を突き入れた。それを見て、リィンはとっさにスウェーバックのように上体をのけぞらせつつ、剣の軌道を変化させた。リィンの剣は突き入れてきた腕をかすめつつ、踏み込んだ膝を薙いだ。大男はグラリとよろめいた。しかし倒れない。斬られた足を引き、仁王立ちになった。斬られた足にその姿勢は負担が強い。膝から血が吹き出した。リィンはスウェーバック、その勢いのままに三歩後退した。二人に少しばかりの距離ができた。


 大男は腰を落とすと、両手を左右に大きく広げた。それが大男の『構え』なのだろう。重心を大きく下げた姿勢は膝に更なる負担をかけた。傷口から血が溢れ出す。傷から下の衣服は真っ赤に血塗られている。出血量は傷が決して浅くないことを物語っている。それなのに大男は眉を動かすどころか、ずっと無表情から変わらない。


 リィンは予期せぬ事態に少々狼狽えた。大男の膝を斬ったとき、リィンは確かな感触を得ていたはずだった。敵の膝を破壊し、動きを封じたと確信していた。だが手応えに反して敵は今も堂々と立ち、闘志もなお盛んという有様だ。


 リィンと大男が一定の距離を保ち見合う中、ウィルはようやく立ち上がった。腹を打ったタックルのダメージは全身に波及していた。腹部は腫れ上がり、息をするだけで胸と脇腹の辺りに激痛が走る。おそらく骨にヒビが、最悪の場合折れていることを、長年の経験から察した。立つのもやっとという状態だ。これではリィンを援護できない。それどころか、足手まといにもなりかねない。苦痛と悔しさに歪んだ唇の端から血が滲んだ。吐血ではない。吹っ飛ばされた際に歯で口を切ってしまっていた。細かな傷は全身のあちこちにある。が、それらの傷は胸と腹のダメージに比べれば、さしたる問題はない。だが、胸と腹のダメージこそが、戦いにおいて致命的なハンデキャップとなっている。


 リィンは目の端でウィルの姿を確認した。リィンの目から見ても、ウィルはもはや戦力から脱落している。あれだけのタックルを受け、死ななかっただけでも儲けものだ。しかし、生きているからこそ、リィンにとっては負担となる。傷を負い、戦えなくなった雇い主を守りながら戦わなければならないからだ。だが、リィンはそれをあまり問題視していない。敵が複数ならいざしらず、一対一ならその程度の負担などあってないようなもの、と考えているし、そもそもリィンは自らの腕に、そして神速剣に絶対の自信を持っていた。たとえ膝を仕損じたとしてもそれは揺るがない。


 お見合い状態から先に仕掛けたのは大男だった。


 大男は右腕を高く振り上げた。直後、振り上げた腕を足元の地面に向けて勢い良く振り下ろした。貧民街の地面は舗装もされていない。そのまま『地面』だ。白く乾ききった硬い地面に手が手首まで突き刺さった。人間離れした恐るべき怪力。地面に突き刺さった手を、今度は勢い良く振り上げた。大量の土塊、砂が飛散し、そのいくつかはリィンへと向かって飛び散った。


 砂嵐のように迫りくる砂、投石ならぬ投土塊にリィンは思わず目をつむりかけた、が、つむらない。目を細めつつ、最低限の視界を確保しつつ目元を手で覆った。小さくなった視界の先、砂や土塊の間から大男が迫るのが見えた。不鮮明な視界、その上一瞬の出来事に、距離感も計り難い。リィンは己の勘に任せて剣を突き入れた。神速剣に加速された切っ先は砂のカーテンの向こうへと突き進んだ。


 ドッ、と鈍い音。


 リィンは確かな手応えを感じた。膝をやったときよりも強く剣から指に、手に、腕に伝わってきた。それはある意味では目で見るよりもはるかに信じられる。投げつけられた砂や土塊がその効果を失うと、リィンの目の前には大男の姿があった。大きく手を広げ、今にも襲いかからんとする体勢。しかしそこから前に進む気配はない。進もうにも進めないのだ。リィンの剣が、大男のみぞおちのやや上を深く貫いていた。傷から血が流れ出し、剣を伝って地面に赤い水たまりを形成していた。リィンは勝利を確信し、一気に剣を引き抜いた。それから一拍遅れて二歩軽やかにさがった。


 血の水たまりの上に覆いかぶさって倒れる大男。剣を引き抜かれ、大穴が空いた傷口からさらに多くの血が流れだし、血の水たまりを血の池へと変えんばかり。


「見事だ……!」


 ウィルがよろよろとリィンに歩み寄りながら言った。ウィルのダメージはやはり深刻なのだろう、張り上げたつもりの声は小さく、か細かった。


 リィンはウィルに駆け寄った。


「大丈夫か?」


 全く大丈夫そうには見えないが、そう声をかけずにはいられなかった。


「ああ……」


 呻きとも吐息ともつかぬ声を発し、ウィルは前のめりに倒れかけた。それを素早くリィンは受け止めた。その際の衝撃が、平常ならなんのこともないささいな衝撃に、ウィルは短く小さな声を発した。顔は歪み、脂汗が浮いている。ウィルは膝を曲げようとした。立っていられず、地面に座りたいのだ。それを察したリィンは彼を支えながらゆっくりと地面に座らせた。


「ありがとう。骨が何本かダメになっているらしい。息をするだけで全身に鞭打つような痛みが走る。最悪だ。一体奴は何者なんだか……」


 リィンはちらりと背後を振り返った。目の端で倒れ伏す大男を見た。死人のように青い体色。鮮やかに赤かった血溜まりは、もうどす黒くなっている。ふと、吸血鬼という単語が頭をよぎった。つい最近、目の前の男から聞かされた単語が背後に横たわる男と符号しているように感じられた。ウィルとシンカの追っている事件の犯人、それが吸血鬼。しかし、それは事件の特徴からの比喩表現としての吸血鬼だ。決して吸血鬼という架空の化物の存在を示唆したわけではない。だが、大男はまさに化物だった。人間とは思えない体色。人間とは思えない怪力。人間とは思えないタフさ。だが、吸血鬼イコール化物だとしても、化物イコール吸血鬼というのは無理がある。あまりにも安直な結びつけだ。あまりに安直とわかっていても、リィンはそれがあながち間違いでもないような気がした。


「奴こそが吸血鬼、つまり『キ号事件』の犯人、という線は?」


 リィンが言った。


「それはどうかな。もちろんその可能性がないわけではないし、それを否定するものもない。まずは奴を取り調べてみないとな。死体からどれだけのことがわかるか、あまりは望みは持てないがね。『死人に口なし』ってやつだ。死人に口を割らせる魔法、知らないか?」


 おわりの一言はウィル流のジョークだった。ウィルはリィンに過剰な心配はさせまいとあえておどけてみせた。効果はあった。リィンの張り詰め、こわばった顔がわずかにほころんだ。


「さぁ、行こうか。ここは休むには適した場所とは言えないし、通常の業務に加え、本の解読、死体の搬送要請などやることは山盛りだ。息をつく暇もない」

「そうね。立てる?」

「手を貸してくれるとありがたい。そう、肩を……」


 リィンがウィルを支えようと彼の脇腹に自らの身体を滑り込ませようとした時、ウィルの目が大きく見開かれた。何かを見つけた。一瞬にしてウィルの双眸は驚愕の色を湛えた。目の前で信じられないことが起きている。それはほんの一瞬の間だ。ゆえにリィンは気付かない。気付けない。気付きようがない。瞬きの間、背後で起こったことだからどうしようもない。


「リィン、どけッ!」


 ウィルは残された体力の全てを使ってリィンを払い除けた。大きく体勢を崩し、地面に倒れるリィン。


 倒れ込みながら、リィンは己を払ったウィルを見た。視界の中央に瞠目したウィルがいた。ウィルの目と鼻の先に、信じられないものを見た。あの大男だ。リィンが仕留めたはずのあの大男が腹に開いた大穴から血を流しながらも、ウィルに猛然と踊りかかっている。リィンの思考が追いつかない。殺したはずの敵が何故今も威勢衰えることなく襲い来るのか? 死を確認したわけではない。だが、通常人間という生物は胴体の中心部を剣に貫かれて生きられるわけがない。運良く一命をとりとめたとしても、立つことなどかなわないはずだ。ましてや反撃するなど。しかし、それが現実だ。


 大男の長く太い右腕が振り回された。鉄球のような拳がウィルの胸先をかすめた。かすめただけで、ウィルの騎士団の装束が切り裂かれた。拳の威力に胸元がはだけ、懐に入れていたあの本がすっ飛んでいった。大男の一撃をかわしただけでも、今のウィルには上出来だった。もはやそれ以上の威力はひとかけらも残っていなかった。ウィルは無様に後ろに大きくのけぞり、尻もちをついた。激痛が全身を駆け抜けた。もはや体力の限界だった。それでもなお、ウィルは抵抗を試みんと腰の得物に手をかけた。手をかけるのみで握る力は残されていなかった。


 ウィルをやらせはしない! と、リィンは素早く立ち上がると同時に剣を抜き払い、神速剣を使用し、大男へ突撃した。


 大男は、リィンとウィルの予想に反した行動を取った。大男はウィルの胸元からすっ飛んでいった本めがけて駆けていった。


 それを追うリィン。


 大男が屈んで本を手に取るとほとんど同時に、リィンは逆手に持ち替えた剣を、その背中に突き立てた。今度は間違いがないように、もろに心臓を狙い、貫通し、抉った。狙いは正確無比、間違いなく殺した……、はずなのに、大男は少しよろめいたぐらいで、倒れもしなかった。それどころか、背後のリィンに左肘で肘鉄を食らわせた。剣を根本近くまで刺し込んでいたため距離がなく、その上、完全な勝利を確信していただけに、リィンはもろにそれを顔面に受けてしまった。


 リィンの目の中で星が砕け散った。頭が揺さぶられくらくらしていた。全身の感覚が麻痺し、立っていられなかった。風にゆられる落ち葉のように、リィンはふらふらとよろけ、地面に倒れこんだ。目の前が暗くなりつつあった。

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