二話 闘技場の吸血鬼 その十七 リィンとウィル

 朝のみそぎを終えたリィンが宿を出たのはそれから約三十分後だった。治安維持部隊本部へ向かうためだ。本日が初出勤。リィンは総身に気合を充填し、威風堂々と大股で道を歩いた。大通りに出ると、馬車停で辻馬車を拾う。馬車代は『お上』が持ってくれると、先日ウィルが言ってくれていた。そうでなければ懐の寒いリィンに、馬車は手も足も出ない。馬車がなければ、徒歩で向かうしかない。徒歩だと宿から本部までは優に二時間近くかかることになる。


 馬車にゆられ約三十分。ようやく本部のある通りに差し掛かった。そこからはもうすぐだ。通りの右側遠くにあの円形闘技場『ケサン・ワント』が見える。『ケサン・ワント』がぐんぐん近づく。近づくと、今度は左側に本部の城壁が姿をあらわす。

 さらに数分後、馬車はその足を停めた。リィンの右手側には『ケサン・ワント』がどんとそびえ、左手正面には紋章の印された本部へと続く門があった。


 門と馬車の丁度中間の距離に、リィンの知った顔があった。


 ウィルだ。彼が一人で立っていた。騎士らしくその立ち居は悠然としていて気品がある。


 リィンは御者に代金を払い、領収書をしっかりと受け取ると彼女もまたウィルに倣って悠然と馬車を降りた。


 リィンの姿を見止めたウィルが彼女に向かって小さく手を挙げ、ゆっくりと歩み寄ってくる。


 リィンの方からも彼に歩み寄り、程なくして二人は足を止めた。


「おはようリィン」


 ウィルは朝に相応しい爽やかな笑みとともに朝の挨拶をした。


「おはようウィル」


 リィンも微笑みを返した。


「リィン、早速だが仕事だ。昨日、古書店が燃えて灰になった。検死と現場検証に行かなければならない。馬車を拾おう」

「あ、さっきの馬車待たせておけばよかったわね」

「ん、いや、あの馬車は現場にはいけない。この街の法規でね、街中は非常に混雑しているし、馬車道もそう広くはない。そんな場所で自由にターンされては危険だからターンは禁止されていて、ルートもある程度決まったルートを行かなければならないのさ。さっきの馬車は『上り』で、私たちが乗らねばならないのは『下り』だ」


 この街に着て数日、この街の馬車がそんなシステムになっていたなんて、リィンは今日初めて知った。世界は広い。リィンはしみじみと感じた。


「そうだったの……」

「『上り』と『下り』の見分け方は簡単だよ。それはまた馬車に乗るとき教えよう。さ、下りの馬車停はこっちだ」


 言って、ウィルが歩きだす。

 その隣をリィンは付いて歩く。

 そこから五分も歩かない内に馬車停についた。


 二人は足を止め、停留所の標識の側で並んで立つ。他に利用客はいない。朝の通勤時間帯に、郊外から職場の多い中心地に上りの馬車でやってくる人は多くても、その逆は少ない。それが逆転するのは、夕方になる頃だ。


「ほら、この停留所の標識、青い矢印が下を向いているだろう? これが『下り』の印だ。『上り』は赤い矢印が上向きになっている」

「なるほど」

「知っていれば簡単だが、知らなければ、ま、気にも留めない印だな」

「ところで……」

「ん?」

「火事の現場に行くって言ってたわね? 私はそこで何をすればいいの? というか、火事の現場で私にできることってあまりないと思うんだけど、大丈夫かしら? 警察騎士団にいたけれど、私は巡回警備専門だったから」

「心配しなくていい。君は何もしなくていい」

「えっ?」


 予想だにしない言葉に、リィンは思わず隣の男の顔を見た。


 ウィルはそんなリィンのことを意にも介さず、眼前の通りを行き交う人々、馬車等を眺めている。


「何もしなくていいって、じゃあ何のために私は雇われているの? それで給金が貰えるの?」

「もちろん、『キ号事件』の解決、吸血鬼を捕らえるためだし、ちゃんと給料は払う」

「なのに、私は何もしなくていいっていうの? それは御免よ。何もしていないのに給金を受け取るのは私の流儀に反するわ」

「ん……? ああ、リィン、君は勘違いしている。今から向かうところは『キ号事件』とは何の関係もないんだ」

「えっ……」


 これまた予想外の答えだった。リィンはてっきり、早速吸血鬼の足取りを追うものとハナから思い込んでいた。


「私としても、吸血鬼だけを追いたいんだが、あいにくそうもいかない現状だというのは、昨日説明しただろう? 不本意だが、上からの命令は絶対なんだ。『バトロン』の時期は『バトロン』の警備が第一という本部長の至上命令があるからね。本来の管轄から外れて、ただの火事を処理しなければならないというわけさ。だからコレに関しては、君の出る幕はないというわけさ」

「それなら、何も毎日私があなたに付く必要は無いと思うわ。『キ号事件』を追うときだけ私を……」

「そうもいかない」


 ウィルはリィンの言葉を遮った。ウィルの首が回り、リィンを見た。


「なぜなら私の手がいつ空くのか、私自身にもわからないからだ。火事だって今朝突然に受けた仕事なんだ。火事は昨日の昼間に起きたというのに、まだ騎士格の人間が検証に行っていないらしい。人手が足りず、みんな汗だくになって右往左往の状況だから、予定なんてあって無いようなものなのさ。だから、手が空いた時間は一秒だって惜しい。一秒も無駄にせず吸血鬼を追うには日中、君にずっとついてて貰ったほうがいいというわけさ。何もしなくていいって言ったけど、あれは語弊があったね。仕事はある。『私にずっと付いていること』、それが仕事だ」


 ウィルはにっこりと微笑んだ。それには不思議な魅力があった。普段のウィルは、リィンより十くらいは年上に見えるのに、笑顔は、こと今のようなにっこりとした微笑みは、まるで幼童のような無邪気さがある。そのギャップがなんともリィンの女心をくすぐる。


 リィンは照れて、思わず彼から顔をそらした。


「なるほど、そういうことね。それなら仕方ないわね」


 リィンは目をつむり、ツンと顔を澄まし、腕組みをして言った。騎士の悠然さを装った。単なる照れ隠し。


 リィンの様子がおかしくて、ウィルは思わず笑った。音に出さずに笑ったので、ウィルが笑ったことにリィンは気づかない。気づいていたら、リィンのことだから、へそを曲げたかもしれない。


 ウィルはリィンに倣って腕を組み、目を閉じた。そうすると、雑踏が、空気が、そして隣のリィンの存在が、目を開けているときよりもずっと近くに感じられる。


 たまにはこういうのも悪くないな。

 ふと、ウィルは思った。


 隣のリィンも、ふとしたことが頭によぎっていた。昨晩帰ってこなかったカランのことだ。ウィルの笑顔が、リィンにカランのことを思い出させた。一方は大人なのにふと、少年のような笑顔を見せる男。もう一方はリィンより若年なのに普段から大人びている男。まるで正反対の二人の男。その対比がなんとなくリィンに面白かった。思わず口角が上がってしまうほどに。


 馬蹄の音が近づいてきた。馬蹄は目の前に来ると、やがてその歩みを緩め、やがて止まった。


 リィンは目を開けた。目の前に辻馬車が停まっていた。よく見ると、青い下向きの矢印が馬車のドア部分に描かれている。

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