二話 闘技場の吸血鬼 その十六 リィンのお風呂事情

 朝、カーテンの隙間から差し込む陽光と外から聴こえてくる鳥の声に、リィンの意識は徐々に覚醒してゆく。


 騎士といえば、規則正しい生活を送っているもの、と世間は思っているが、もちろん大多数の騎士はそのイメージ通りなのだが、リィンは騎士でありながら非常に朝が弱かった。こればっかりは体質なのだからどうしようもない。彼女は朝の弱い体質を『気合』とか『根性』といった精神的な努力でカバーしている。


 朝、目が覚めても、意識は覚醒に向かうと見せかけて再び微睡みへと落ち込もうとする。それを阻止するためには主に精神的な部分で多大な労力を要する。睡眠という欲求から逃れるのはそう簡単ではない。


 まず目を開ける。目を閉じたままでいるといつまた寝入ってしまうかわからない。その次に上体を起こす。これもできるだけ素早く行わなければならない。上体を起こしたなら、あとはベッドから離れるのみだ。起床するということにおいて一番大事なのが、いかにしてベッドから離れるか、これに尽きる。


 ベッドから離れ、立ち上がると、その勢いを殺してはならない。上体を起こし、ベッドから離れる、この動作から行動を連続して続けてゆくのが大事だ。


 立ち上がると軽い体操をする。運動によって筋肉も細胞も血も意識も、全てを活性化させる。首を回し頭を上げ下げ、腰も回し上体を前に後ろに倒し、屈伸運動、各筋をゆっくりと伸ばしてやれば、もうほとんど起床したも同然だ。


 仕上げは水で顔を洗う。この安宿には水道がないから、井戸から水を汲まねければならない。普段なら着替えてから汲みに行くところだが、昨夜彼女は寝間着に着替えることなく、カランを待ち疲れて就寝したために、汚れや匂いなどを気にしなければ、そのままの格好で外出しても特に問題はない。


 リィンは部屋の外へ出た。宿の狭っ苦しい廊下は全ての小窓が開け放たれ、爽やかな朝の空気に満たされていた。これを鼻から吸い込むだけで、すっきりと目が覚めるようだった。


 リィンは階段を降りて、小さな裏庭の井戸へと向かう。裏庭の中央に井戸があり、その両側それぞれ少し離れたところに小屋が一つずつ立っていた。その他には隣接する建物との間に、いくつかの木々が並び、木々には緑色の葉と黄色く小さな実がたくさんなっている。


 宿を出たリィンから見て左側の小屋には男を示す記号が、右側の小屋には女を示す記号が戸にデカデカとある。


 小屋は、かいつまんでいえば風呂のようなものだ。記号はそのまま男湯と女湯というわけだ。しかし、浴槽があるわけじゃない。小屋の中には脱衣所と洗い場があり、桶が置いてあり、その桶に水を汲み、小屋の中で身体を洗う。安宿にはこの程度の簡素なものしかないが、もう少しお高い宿に行けば、サウナのような蒸し風呂もあり、浴槽があり、湯を張った風呂もあるところにはある。


 銭湯は特別値段が高いというわけではないが、その日生きるに必要なもの全てをカランに賄ってもらっている立場では余計な出費は控えなければならない。生来風呂好きなリィンだけに、一月以上も風呂に入れないのは苦痛だった。カランに金を支払い、今までの旅費も返済するまでは好きな風呂も我慢して耐え忍ばなければならない。


 リィンは女性だから、『女』の記号の描かれた小屋へ入ろうとした。引き戸に右手をかけ、引こうとするも、立て付けが悪いため中々動かない。片手ではらちがあかないので両手で引き戸を力いっぱい引いてやると、ガラガラと大げさな騒音を上げてようやく戸が開いた。


 中へ入ると誰もいない。貸切状態というやつだ。

 リィンはさっきと同じ要領で戸を閉めた。やはり大げさで仰々しい音がした。


 小屋の中には、壁に面した二段の棚があり、上段には植物を編んで作られた籠、下段には大きな桶がいくつも並んであり、大きな桶の中には手桶が入っていて、籠の中には大小のタオルが一つずつ入っている。


 二つの桶を持ち出し、リィンは再び立て付けの悪い戸を開け外へ出た。井戸へと向かった。


 井戸は綱、桶、滑車の一体になったつるべ式だ。

 持ってきた一式を井戸の側へと置き、手桶を大きな桶から取り出し、その隣へと置いた。


 井戸に元々備え付けられている桶を井戸底へと投げ込み、桶に水が入ったら綱を引く。滑車のお陰でテコの原理を利用して水を汲む。テコの原理を利用しても、その日一日の使用分を汲むとなるとかなりの労力だが、身体を清める分だけなので、さして疲れない。ちょっとした労働は水を汲んだ後だ。


 十杯ほど汲んだ水を全て大きな桶に移し、手桶をその中にぽちゃんと浮かべる。水のたっぷり入った大きな桶を洗い場まで持ち運ぶのがちょっとした労働だ。並々注がれた水をこぼさないように慎重にゆったりとした足取りで小屋の中へと戻る。小屋の戸のたてつけは非常に悪いから、一旦桶を地面におかなければならない。置いた後に両手で戸をこじ開け、再び大きな桶を持ち上げる。この一連の動作は中々腕や腰に負担をかける。リィンが、いかに若い女性で日頃から鍛えられているとはいえど、この動作は疲労感を感じずにはいられない。


 小屋の中に入ると、また桶を置いて戸を閉める。そしてまた桶を持つ。

 小屋には戸が二つある。リィンの入ったのが表口なら、もう一つの戸は裏口というべきか。裏口は洗い場へと繋がっている。小屋は脱衣所で、洗い場は裏口を出たところにある。


 リィンは裏口の前でまた大きな桶を置いてから裏口を開ける。裏口は表口と違ってすんなり開いた。大きな桶をまたまた持ち、裏口を出る。するともうそこは洗い場だ。


 洗い場は同時に五人ほどの使用できるくらいの広さがあり、四方を三メートル近くはある板で囲まれている。これは覗き防止のためだ。洗い場中央から奥の板の境界あたりまで石畳が敷かれてあり、この石畳の上で身を清める。石畳はわずかに傾斜しており、奥の板との間には小さな側溝が掘られている。


 石畳の上に適当に桶を置くと、リィンは小屋に戻った。それから数十秒後、再び洗い場に姿を現したリィンは、一糸も纏わず珠の素肌を朝陽の中にさらけ出していた。その手には籠があり、その中には大小のタオルの他に、先程着ていた服が畳まれてある。


 先程用意した水の入った大きな桶の側にかがむと、片手を水につけ、ちゃぷちゃぷとかきまわした。汲み上げたばかりの井戸の水は、汲み上げた直後よりかは幾分温かくなっていたがまだ冷たい。水の入った手桶を取り出し、そっと足にかけた。やはり冷たい。体中に鳥肌が立つ。


 一ヶ月以上、リィンの風呂といえばこれだったが、まだこの冷たさには慣れない。ちょっぴり溜息をつくが、こんなことで臆する彼女ではない。騎士たる者、冷水ごときに負けはしない。


 リィンは徐々に、徐々にと水をかける位置を高くしていった。ふくらはぎ、もも、股、腰、腹、胸、そして肩へと。たっぷりと時間を掛けていったから、腰のあたりで水は随分ぬるくなってきていた。そして、頭になみなみの水をぶっかけると、頭を左右に払って水しぶきを飛ばした。濡れて滴るいい男ならぬ、濡れて滴るいい女。白い肌は水に濡れ、珠と滴りきらめく。髪はつややかにしなだれ、胸乳へと臨む。陽光に輝く全身のラインは細いながらも確かな女性の丸みをシャープに描く。淫靡といえば淫靡であり、清廉といえば清廉である。どちらにせよ、それは美しい。


 籠から小さいタオルを取り出し、手桶の水につける。水にひたされたタオルをしぼり、程よく濡れたタオルを肌に重ねる。もはや温度は心地良い。ゆっくりとタオルで肌をこすり、昨日の垢を落とす。丹念に丹念に、身を清める。

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