二話 闘技場の吸血鬼

二話 闘技場の吸血鬼 その一

 漆黒の夜。月影さえもない。空は暗雲が垂れ込め、深くどす黒い。


 ある邸の一室には二人の男女の姿があった。


 部屋は広い。燭台に灯された小さな火では、全てを照らすにはあまりに弱い。夜の闇と燭台の灯によって、一室は全てが朧げだった。


 二人の男女は互いに向かい合い、対峙していた。二人には少々距離があった。男は部屋の戸の前に立ち、女は部屋奥のベッドに腰掛けていた。


 燭台の灯に、二人の影が揺れていた。


 がっしりと大きな男の影が、よろめくようにして緩やかに、女の方へと伸びつつあった。女の元へ近づくにつれ、燭台の灯が強く当たり、男の影は鮮明となる。燭台の灯に、男の姿が露わになった。男は薄汚れていた。着衣は汚れ、袖も裾も擦り切れていた。陽に焼け、浅黒い肌は汗に塗れ、燭台の灯をてらてらと反射した。男は貴族ではない。きっと農民だろう。


 男は一歩、また一歩とよろめきつつ、ゆらめきつつ女の元へと近づく。


 遠雷が起こった。稲光が窓から、カーテンを貫き、一瞬だけ部屋を真っ白に染めた。続いて雷鳴。


 一瞬の閃光に、男の顔が露わになった。陽に焼けた壮年の顔。そこに血走った眼があった。それでいて脱力した口元。男は正気ではない。血走った眼は、ベッドに腰掛ける女の方を向いてはいたが、その焦点は定まらない。脱力した口元は半開きに、何事かを口ずさむように、ゆっくりとパクパク動く。


 それを見留めて、女はほんの一瞬微妙な表情を浮かべた。それは微笑むようでもあったし、あざ笑うかのようでもあり、哀れむようにも見え、蔑みに見えなくもない。


 風もないのに、燭台の灯は大きく揺れた。一瞬消えかかり、続いて一瞬大きく燃え上がった。灯の一瞬の隆盛に、女の姿が露わになった。


 女は、男とは対照に貴族的だった。長い髪。白のネグリジェに一片の汚れもなく、手足は白く長い。女は女性の中でも小柄な部類だった。まるで少女のようだった。少女が着るには、彼女のネグリジェは幾分扇情的だった。胸元が大きく開いている。そこには慎まやかではあるが確かな膨らみが存在し、小谷を形成している。小谷は浅いが、男にとっては深い。深淵の魅力を潜ませている。


 また雷が起こった。今度は音と光が同時に部屋に到達した。音は微かに部屋を震わせ、光は女のネグリジェをほのかに透かし、黒い下着のシルエットを浮き彫りにした。


 それはほんの一瞬のことだった。だが、男の血走った眼はそれを逃さなかった。雷光に照らし出された女の肢体が網膜へと焼き付いた。男の口がパクパクと音を立てる。


 女は笑った。燭台の灯に、女の口元は確かに笑っていた。女の艶っぽい唇がゆっくりと閉じたり開いたりした。それは何かを囁いているようだった。しかし声はない。今、この部屋にある音は、蝋燭の燃えるわずかな音と、雷鳴、男の足音以外には存在しない。


 女の唇の動きに、男の眼は釘づけだった。男の眼は血走りながらも、恍惚の様相を呈してきた。


 また一歩、また一歩と男は近づく。

 女の唇が、それを誘うようにとまた動く。

 それを見留めると、男はまた一歩足を動かす。


 男の足が止まった。もう足は踏み出せない。何故なら、彼の膝一センチ先には、スラリと伸びた女の白い脚がある。


 もはや二人の間に距離はない。手を伸ばせば相手に触れ、腕を伸ばせば相手を抱き、声を出せば息がかかる。


 女の唇がまた動いた。その時、今度は微かに声があった。蟻の足音程にも小さな声。何と言ったかは知れない。目の前の男を除いては。


 男の耳は小さな声を聞き洩らさなかった。女の声を聞いた途端、男の身体は、まるで背筋に電流を流されたようにビクッと震えた。


 男の半開きの口から小さな喘ぎが漏れた。口の端から涎が垂れ、糸を引き床に落ちた。


 女はまた何かを囁いた。

 また男は身体を震わせた。


 男の呼吸が荒くなる。半開きの口から洩れる喘ぎも歓喜に猛りはじめる。俄かに汗ばみ、むせかえるような男の香りが部屋中に立ち込めた。


 女は笑った。女も興奮しているようだった。頬に赤みが差している。


 女はまた何か言った。それは先ほどよりも長い言葉だった。依然として不明瞭。しかし男はそれをはっきりと聞き取っていた。


 男は突然跪いた。荒い呼吸の口を突き出し、恍惚の目を涙に濡らし、何かを待った。それはまるでお預けを待つ大型犬のような恰好だった。


 男が跪いたおかげで、男と女の顔は同じ高さにあった。


 女は目の前の男のジッと見つめた。女は唇を開いた。女が唇を開くと、男は開いた唇を、ムズ痒がるようにヒクヒクと動かした。女は自らの唇を自らの舌で舐め濡らした。自らを慰めるように執拗だった。男は女の下の動きに反応して、息を荒くした。女は十分に濡れた自らの唇に指で触れた。湿りを拭きとるように、指で隈なく唇を弄る。その指を今度は男の肌へと向ける。男の素肌に触れ、素肌に文字を書くように撫で回す。そうなると、男は一層息を荒くする。


 ふと、女の指の動きが止まった。


 女は両手を男の頬にそっと沿わせた。かと思うと、両手は緩やかに下降を始めた。そして、両手は男の逞しい首元へと沿った。


 瞬間、女の両手が、男の首へ深く食い込んだ。見る見るうちに男の顔が変色する。しかし男の表情に苦痛はない。未だ恍惚にのぼせ上がっている。


 男の眼が妖しい光を放ち始めた。実際に男の眼は光を発していた。血のような赤い光。それに照らされる女の顔。真っ赤に染まった女の顔。その口の端から、ツーと何かが垂れ落ちた。赤い液体。血だ。真っ赤な鮮血が垂れ落ちた。


 女は口を開いた。すると、そこから大量の鮮血が滝のように流れ落ちた。パシャリと床を打つ血の音。むせかえる程の血の臭い。煌めく稲光、つんざく雷鳴。


 稲光に二人の姿が照らし出された瞬間、女は男の口に、自らの口を合わせた。一ミリの隙間なく合わさる二つの唇。女は男の首から手を離す。圧迫から解放された咽喉は何度も上下し、何かを飲み下す。それが一分ほど続いた後、ようやく口づけは終わりを迎えた。


 二つの唇が離れ、その間を血と唾液の混じった糸が繋いだ。それが床に落ちるとほぼ同時に、男はゆっくりとその場に崩れ落ちた。


 女は倒れた男を見下ろした。口の端から滴る血を拭くこともせず。


 すると、男の身体がピクリと動いた。次の瞬間、男の身体に不思議な変化が現れた。


 浅黒い肌が見る見るうちにその色を失ってゆく。ものの十数秒の内に、男の身体は病人、いや、まるで死体のように青白くなってしまった。しかし、男は死んではいなかった。男はゆっくりと立ち上がった。安らかな表情で目を閉じている。まるで立ったまま眠っているようだ。


 女はその様子を満足げに見つめた。そして、また小さな声で何かを言った。

 すると、男は目をカッと見開いた。その眼は尋常ではなかった。白目も黒目も存在しない、鮮血のような赤一色だった。

 フフッ、と女は小さく笑った。


 外は雨が降り出していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る