一話 王都事変 その二十八 王都脱出

 ガレウンの言っていた櫓の下の門は、門というよりはバリケードだった。打ち壊した近隣の住宅の廃材を利用し、継ぎ接ぎにして組み立てたもので酷く不恰好だった。一応開閉するようにはできているから、バリケードではなく門なのだろう。


 門にも櫓にも人の気配はない。リィンしかいない。きっとここを固めていた兵士や騎士たちは打って出たに違いない。不恰好な門は半ば口をポカンと開いている。門の向こうから、戦の音が聴こえてくる。


 リィンは半ば開いた門に身体をピタリとつけた。そこから顔を出し、辺りの様子をキョロキョロと窺う。


 右良し、左良し。敵影なければ人影すらない。


 リィンは門を飛び出した。大きな通りは避け、裏通りへと駆けこんだ。侵入時と全く同じ手口。それを今度は脱出に使う。


 平民街と違って、貴族街の裏路地は整然としている。道幅も平民街のそれより広く、ほとんど真っ直ぐだ。ことにこの辺りは貴族街の中でも高級地だから区画整理は行き届いている。


 おかげで行き止まりというのがほとんど存在しないが、整然とした区画は一見、どこの辻も同じように見える。とくにリィンはこの辺りに詳しいわけではない。その上、今は夜だ。陽の光の下で見る風景と、夜の闇の中に見る風景は全く違ったものに見えがちだ。


 リィンは極力曲がらず、真っ直ぐに進むことを心掛けた。門を出てから向きを変えずに進めば、いずれどこかしらの町の外郭にぶち当たるはずだ。外郭には少数のやる気のない兵士たちが配備されているのみだから、そこまで辿り着ければ、脱出は成功したも同然だ。


 慎重に、足音を立てず、ゆっくりと裏道を歩いた。十字路が現れるたびに、そこから左右を窺う。右は小路が連なり、一つ左には大通りがある。


 大通りのすぐ隣の辻は、身を潜めるのにいささか不都合がある。リィンのいるところからでも、大通りに転がる死体が幾つか見える。戦闘は大通りで行われている。戦場から近いというのはそれだけで危険だったし、また遁走する兵士たちがリィンのいる路地に逃げてくる可能性もある。


 見つかるリスクはあるが、かといって、大通りから離れるのもまたリスクがある。大通りから離れると、道に迷う危険性がある。大通りは、いわば道標だ。大通りが視界にある限り、迷うことはないだろう。大通りに沿ってさえ行けば、いつかは外縁部に辿り着ける。大通りから離れ、迷ってしまい、朝が来れば、もはや脱出は困難になる。明るくなればそれだけ見つかる危険は高くなる。そして、その頃には、近衛騎士団が鎮圧されている可能性もある。戦闘のどさくさに紛れつつ脱出するのがベストだ。


 進むにつれ、喧騒が近づきつつあった。

 近づくにつれ、リィンは神経を尖らせた。


 大通りには、まだ死にきれない身体が転がっている。夜の帳にか細い呻き声が怨念を込めて響く。


 騎士道物語のように、華々しいばかりが戦場ではない。むしろ、今リィンが見聞きしているものこそが、戦場の実態だ。


 物言わぬ死体は、見なければ怖ろしくはない。目を逸らすか、覆えばいい。今まさに死のうとしている瀕死体のほうが遥かに怖ろしい。彼らはまだ言葉を持つ。死の直前まで、彼らは思い思いの言葉を紡ぐ。親を呼ぶ者、愛する者の名を呼ぶ者、とどめを欲する者、言葉にならない呻きを発する者、口汚く何かを罵る者、呪いの言葉を遺す者。


 戦場にあって神経過敏のリィンの耳に、それらは纏わりついてくる。たとえ耳を塞いだとしても、それらは僅かな隙間から滑り込んでくるだろう。今、脱出最中のリィンに耳を塞ぐ余裕などない。音も重要な感覚器官なのだ。それを失うわけにはいかない。


 リィンは緊張とおぞましさのあまりに吐き気がしてきた。仕事がら、何人も殺した彼女だが、かつてここまで人の死に過敏になったことはなかった。神速剣が即死の剣技ということもあるだろう。死の際にこの世に未練の言葉を遺した奴はいない。殺した相手が罪人だから、罪の意識を持つこともなかったというのも、多分にあるに違いない。


 リィンは足を止めた。気分が悪いせいではない。そのくらいでは足を止めるわけにはいかない。喧騒がさらに近づいたせいだ。どうやら、リィンから近づいているだけでなく、喧騒の方からもリィンへ向かって迫っている。


 リィンは闇に目を凝らした。耳は大通りに、目は裏道を真っ直ぐに。


 喧騒は怒涛の如く訪れ、すぐにリィンを飲み込んだ。数え切れない足音が、剣の打ち合う音が、男たちの叫びが、辺りを反響し、埋め尽くした。


 初めて肌に感じる戦場の音に、リィンは高揚した。殺すか殺されるかの興奮がそこにあった。戦場は人を酔わせる。魔に魅入られる。恐るべき場。


 落ち着け! 落ち着け!

 リィンは自分に言い聞かせた。


 すぐ隣の大通りでは死闘が繰り広げられている。直接目で見なくてもわかる。肉を裂く音、悲鳴、倒れる音、雄叫び、何もかもがはっきりと耳に残る。


 リィンのいる裏通りに敵影はない。来る気配もない。ここをジッとして乗り切れば、一先ず安心できるはず。


「退けーッ! 退けーッ!」


 一際大きい声が全ての音をかき消すように響き渡った。直後に、喧騒はその歩みを早め、リィンの背後へと遠ざかっていった。


 リィンは路地から顔出し、逃げ行く近衛騎士団と、それを追う鎮圧軍を見た。

 彼らの去ったあと、大通りの死体の数が増えていた。


 リィンはホッと息をついた。死体が増えているという怖ろしい事実は、リィンにとって問題ではなかった。一先ず危険が去ったことが、何よりも幸運だった。

 一難去って気が軽くなった。足取りも軽くなる。リィンは歩を早め、先へと急いだ。


 その時、暗がりに人影があった。


 一瞬、リィンはそれに気付くのが遅れた。リィンが気付いた時、人影の方も、リィンの存在に気付いた。


 兵装に身を包み、槍を持っている。男は一人ではなかった。三人いる。三人ともリィンを見ている。

 安心感が油断を生んだ。戦場に慣れない故のミスだった。


「貴様、反逆者の一味か?」


 兵士の一人が言った。言葉は、リィンの敵であることを示していた。


 突如訪れた危機に、考えるよりも早く、身体が反応した。リィンは聖騎士の剣を抜いた。同時に、神速剣を遣う。聖騎士の剣によって増幅された魔力により、神速剣はさらなる速度を生む。


 光の如く、リィンは間を詰めた。瞬時に槍の間合いを越え、剣の間合いへ達する。兵士たちはようやく構えを取ろうとする。だが遅い。その時には既に二人の兵士の首は宙を飛んでいた。最後の一人が構えを取った。同時に、彼の首も飛んだ。三つの首が、ほとんど同時に地に落ちる。音を立てて転がる。


 首を失った三つの身体が倒れる。その先に、兵士の姿をリィンは見た。一人ではない。三人、いや、さらに増える。援兵を呼んでいる。


 しまった!

 リィンは舌打ちした。


 隠密裏の脱出は失敗に終わった。となれば、やるべきことは強行突破の一点に尽きる。

 リィンは剣を片手に走った。血沸き肉躍る。元よりコソコソとするよりは、派手に暴れたい性質なのだ。


 四人の兵士が立ちふさがった。槍の穂先を向ける。槍のリーチを生かした基本戦術だ。だが、神速剣の前では無意味だ。聖騎士の剣による魔力増大の恩恵を受けた神速剣は、かつてない速さを発揮する。労せず、リィンは槍の間を潜り抜けた。兵士の目が驚愕に見開かれる。その時すでに、彼の首筋の動脈は断たれている、熱い血潮を噴出している。他の三人も同じだ。


 まさに神速の剣。神速剣に斬られた者は、死ぬ間際に何が起こったかをようやく悟る。


 四人を斃しても、またその背後に敵が殺到するのが見える。

 前も左右も、敵が詰める。開いているのは後ろしかない。しかし、戻るという選択肢はない。強行突破するのみだ。


 リィンは前へ前へと走った。新手が現れるたびに剣を振るった。剣を振るうたびに血がほとばしり、人が死ぬ。


 一人、二人、また倒れる。返り血がリィンを染める。

 返り血の生臭さに気を留めている暇はない。進むたびに、背後からも敵が迫る。四方八方槍がある。斬り進む以外のことを考える余裕はない。


 敵が現れるたびに、リィンはそれを斬り伏せる。斬り伏せては走り抜ける。

 もう何人斬っただろうか、リィンは覚えていない。元より数えていない。どれだけ走ったかも分からない。後どれだけ走れば脱出できるか、それすら分からない。


 既に疲労困憊だった。神速剣は持久戦に向かない。聖騎士の剣が無理矢理魔力を引き出し、増幅させるのも、疲労の原因だった。疲れても疲れても、魔力が無尽蔵のように引き出せてしまう。それに頼り、神速剣を遣いすぎる。しかし、それに助けられている面もあった。普段の限界を超えた、神速剣の連続使用のおかげで、かなりのハイペースで敵を突破してゆく。


 また、聖騎士の剣はどれだけ敵を斬っても切れ味が落ちなかった。それもまた、ハイペースを維持するのに必要不可欠な要素だ。


 また、リィンの前に敵が立ちふさがった。今度は六人もいる。どれも油断なく槍を構えている。リィンは神速剣を遣い、槍の隙間へと潜り込もうとした。が、槍先がリィンの動きについてきた。リィンの行動は阻止された。そして、槍先が、リィンへ向かって突き入れられる。咄嗟に後ずさり、紙一重の差でかわす。


 神速剣が敗れた。一瞬リィンはそう思った。すぐにそれが間違いであることに気が付いた。神速剣は敗れていない。そう、あの瞬間、神速剣は機能していなかった。原因は極度の疲労困憊と、魔力切れだ。いくら神速を誇る無敵の剣でも、源となる魔力が無ければ無力だ。


 リィンは呼吸を整えようとした。体力回復に務めた。十分な時間があるわけではない。左右と後ろに敵が迫り、前方の敵はジリジリと距離を詰めてくる。体力回復に要せる時間は僅か数秒。


 数秒後、六本の槍がリィンに向かって同時に突き入れられた。


 兵士たちは勝利を確信した。並の人間ならば、今の突きを回避することは不可能だ。それだけ鋭い突きだった。しかし、相手は並の人間ではない。


 勝利の手応えは空虚だった。勝利というにはあまりにも味気ない。無味乾燥過ぎた。そんなものが勝利であるはずがない。彼らは勝利していない。勝利無き所に敗北有り。彼らが空を突いた瞬間、神速剣がその真価を発揮した。リィンは疾風のように槍の間をすり抜けると、六人を斬り伏せた。


 六人が倒れるよりも早く、リィンはその場を走り去った。


 もはや限界だった。魔力は完全に尽きた。いつ足が止まってもおかしくない。目がかすむ。耳鳴りがする。頭は熱っぽい。


 幸い前方に敵はいない。だが、背後に大量にいる。ぞろぞろと付いてくる。足が止まればすぐにでも追いつかれるだろう。


 疲れ果て、朦朧とする意識の中、リィンは走り続けた。


 ふと、前方に行き止まりが見えた。

 万事休す、か。リィンは内心で呟いた。


 それでもリィンは走った。行き止まりの僅か五メートル先で、ついに足が止まった。体力の限界だった。リィンは崩れるように転び、倒れると、仰向けになった。呼吸が荒い。胸が大きく上下する。手足はもう動くこともままならない。


 リィンは目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開いた。いつの間にか、空には雲が立ち込め、月を隠してしまっていた。


 ふと、さらに上へと目を向けると、行き止まりが目に入った。よく見ると、それはただの行き止まりではなく、町を覆う壁だった。脱出まであと一歩のところだった。


「惜しかった」


 リィンは呟いた。不思議と、それほど悔しくはなかった。やり切ったという感覚があった。あれだけ頑張って無理だったのだから仕方がない、という諦めもあった。


 兵士たちがリィンへと迫った。いくら倒れているからといって、彼らは容易にリィンに近づかない。実力をまざまざと見た後では警戒せずにはいられない。倒れているリィンに向け槍の穂先を向けつつ、慎重にジリジリと接近する。


 あの世で爺様に叱られそうだ。

 リィンは内心で苦笑した。


 リィンは目を閉じた。覚悟を決めた。無様な死にざまは晒さないように、心を落ち着けた。


「貴様、何者だ!」


 男の怒声が響いた。


 リィンに名乗るほどの体力もない。名乗るのは億劫ではあったが、騎士として、問われれば答えないわけにはいかない。しかし、答えるにはもう少しばかりの間が必要だった。


「僕は神だ」


 別の誰かが、リィンの代わりに答えた。リィンはてっきり自分に訊ねられているのだと思っていた。しかしどうやら違うらしい。リィンは目を開けて、状況を確かめてみた。


 目を開けると、そこにはローブを身に纏った何者かが立っていた。『僕』というからには男なのだろう。男にしては小柄で、リィンと同じくらいの身長だ。フード付きのローブで、頭から脛まですっぽりと覆っているから、全く正体が知れない。正体不明の男が、リィンを庇うように、兵士たちの前に立ちふさがっている。


 ぽたりぽたりと、にわかに雨が降り出した。


「神だ? ふざけたことをぬかすな! その女の仲間だろう!?」

「いや、違う。僕はこの女を攫いに来たのだ。邪魔立てするなよ。神に逆らうとどういう目に遭うか分かるだろう?」


 そう言って、神を名乗る男は右手を高々と空に向かって掲げた。


「何が神だ! 構うことはない! こいつも一緒にやっちまうぞ!」


 言って、兵士は槍を構えて一歩前へ出た。しかし、それに続く兵士は誰もいなかった。他の兵士は全く逆の行動をとった。何かに怯えたようにサッと数歩後ずさった。


「な、なんだお前ら、こいつが本当に神だと思っているのか!?」


 兵士は振り向いた。振り向くと、後ろにいた仲間たちは皆一様に怯えた顔をして、空を見ている。指差している者もいる。兵士は指の先へと視線を動かした。


「あッ……!?」


 いつの間にか、暗雲立ち込める空に、巨大な塔があった。いや、塔ではない、剣だ。あまりにも巨大な剣は正に巨塔に等しい威容を誇る。


「僕は神なり! 愚かな人間よ! 貴様は神の怒りに触れた! 見るがいい、これが神剣『威神鎚いかづち』!」


 瞬間、雷光が眩くきらめいた! そして、雷鳴と共に神剣は振り下ろされた。狙いは兵士たちではない。真逆の、壁に向かって。瞬く間に神剣が壁を直撃した。雷鳴に似た轟音と共に粉砕される壁。飛び散る破片。舞い散る砂埃。腰が抜ける兵士、顎が外れる者までいる。逃げ出すものまで出る始末。


 壁を打ち破った神剣がその姿をフッと煙のように消した。


「見ただろう、これが神の怒りだ」


 直前まで威勢の良かったあの兵士は、目と口を一杯に広げ、涙と涎を滝のように垂らし、プルプルと震えている。


「そうだ、大人しくしているがいい」


 言って、自称神様は兵士へ背を向けた。リィンの方を向くと、屈んだ。


「案外足が速いんだな。歩けるか?」

「あなた、神様だったの?」


 言ってから、リィンはよろよろと立ち上がり、聖騎士の剣を鞘に戻した。


「なわけないだろ」


 自称神様は笑った。


「まぁ、あんたにとっては、救いの神様みたいなもんかもね」

「そう、救いの神様なら、最後まで責任を取ってね。やっぱり私、駄目みたい……」


 リィンがふらついた。それを慌てて自称神様が支えた。神様の腕の中でリィンは気を失っていた。


「僕も疲れているんだけどな」


 言いつつ、神様はリィンを抱えた。お姫様抱っこの形だ。

 二人は、崩れた壁の向こう側に去っていった。

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