一話 王都事変 その二十七 永訣の夜空

 先を行くリィンに、ガレウンが追いついた。


「では、ゆるゆる参ろう」


 ガレウンが暢気な口調で言った。

 二人は肩を並べて歩き出す。ガレウンの言葉通り、まるで庭園を散歩でもするようなゆったりとした足取り。


 ある個所を起点に始まった戦の喧騒は、流行り病のように拡がり、即席の拠点をグルリと包んでいた。戦闘は過激の一途をたどる。もはや後には引けない。


 リィンは先行しがちだった。意図せず、意識せず、ついつい見送りのガレウンより先へと突出してしまう。気が急いている、周囲をグルリと包む喧騒に、戦いの熱情に彼女は当てられ、浮足立ち、焦れている。戦場初心者によくある症状だ。


「あちこちで戦の音が聴こえます。そのようにゆっくりしてて良いのでしょうか?」


 たまらず、ガレウンに訊いた。


「リィン、焦るな。戦の趨勢を決するのは、兵の多寡でも、装備の優劣でもない。時節を見極めることが肝要。早すぎても遅すぎてもいけないのだ」


 言っていることはリィンにもよく分かる。それは兵法の基本中の基本。騎士たる者、その手のことは、他人から習わずとも、自ら教本などで得る。しかし、そうして得たものは知識であっても知恵ではない。知識は頭だけを使えばいいが、知恵は五感を、時には第六感さえも動員しなければ得られない。自室で知識は身についても、戦場に出、戦場の音、匂い、肌触り、風景、土や血の味を知らなければ、知恵は身につかない。戦場の知恵は、感覚を鋭敏にし、かつ、場数を踏まねば得られない。


「講義をしてやろう」


 要領を得ていないであろう表情を浮かべるリィンに、ガレウンは口元に笑みを浮かべつつ言った。


「まず緒戦は、双方やる気になる。戦場の熱気がそうさせるのだ。殺さなければ殺される。鬨の声、怒号、絶叫、悲鳴、馬蹄、それらの音に興奮と勇気をかき立てられる。初めからやる気になっている人間には、それが長く持続するが、敵方のような軟弱ふぬけの青瓢箪共には却って毒だ。ああいうのは熱しやすく冷めやすい。無我夢中で戦場を駆け、ふと我に返った時、勇気もタマも縮み上がる。得物すら捨てて、ひたすら遁走しかねない。まだ敵方は熱狂の中にある。今しばらく待ち、熱が冷めれば敵は一時崩れるだろう。その時こそ、おぬしがここを出る時。焦ることは何もない。今しばらく、熱狂の冷める頃合いを待とう」


 言って、ガレウンは足を止めた。あまつさえ腰を下ろした。ガレウンの背には井戸があった。彼は井戸端の一段盛り上がったところに座った。


「おぬしも休め」


 ガレウンが手招きする。


「近衛騎士団が戦っている中で、そのようなことをしていて……」

「良いんだ。それがお主の役目だ。近衛もおぬしも俺も、自らの役目をこなせばいいのだ。さぁ、休め」


 リィンはガレウンの隣に腰を下ろした。

 戦の喧騒は一層増してゆく。二人の耳にもそれが伝わる。


 ガレウンは平然としている。戦をBGMに、少しばかり顔を上げ、空を眺めている。井戸には屋根がある。といっても、井戸に雨水が落ちないようにするだけの最低限の大きさのものだから、空を見るに支障はない。


 月に薄雲がかかっている。薄雲は空の半分ほどを散り散りに覆っている。切れ間から幾つかの星が見える。


 リィンもガレウンを見習って空を見上げた。喧騒が勢いを増す中では落ち着かない。戦士たちの魂の叫びの中で見る星は、ロマンティックなのか、そうでないのか、判断に難しい。少なくともリィンは、現状をロマンティックだとは思えなかった。


 ふと、リィンは昔のことを思いだした。幼少の頃、自邸の庭で今と同じようにガレウンと共に夜空を眺めたことがあった。その時は、まだ祖父も存命だった。祖父とガレウンの間に小さなリィンが入り、もう何を話したのかはほとんど覚えてはいないが、何事かを三人で楽しく話したのを覚えていた。ふと、懐かしさに包まれた。しかし浸ることはなかった。喧騒がそれをさせない。


「警察騎士団が、近衛側に付いているとは以外でした」


 先ほどから落ち着きを失っているリィンに、沈黙という選択肢はない。気の赴くままに、彼女は語り掛けた。内容はなんだってよかった。何かを喋っていたかったのだ。


「いや、警察騎士団のほとんどは敵方だ」

「えッ!?」

「当然だ。表向きはこちらが反逆者だからな。国の治安を取り締まる警察騎士団が、反逆者側につくはずがない」

「では、何故爺様は近衛についたのです?」

「俺はたまたま近衛と繋がりを持っていたからな。ザッケン様をよく知っていたし、ヘレルボーのことも知っていた。ザッケン様は忠臣。ヘレルボーはいけすかない奴。それが分かっていれば、ヘレルボー側につく真似はできん」

「ザッケン様をよく知っておられたということは、山賊退治の真の目的も、知っておられたのですか?」

「繋がりがあるといっても、それはプライベート上だけのことだ。ザッケン様は仕事のことは何も話されなかったし、ここ一年は会ってもいなかった。政治上、近衛の立場が怪しくなってきたころから、俺とは疎遠にしていた。俺に慮ったのだろう。ガラキ山の件も、山賊退治という風に装っていれば、事がヘレルボーに露見した際に、おぬしに類が及ばないようにしたのだろう。それでもヘレルボーはおぬしを殺そうとするのだから、あそこにはそれだけ重大な何かがあるらしいな。おぬし、あそこには行ったのだろう? 何か見なかったか?」

「いえ、特別なにも。調査を開始したばかりだったので……」

「そうか。リィン、気に病むことはない。相手が一枚上手だっただけだ」


 ガレウンがリィンの背をポンポンと叩いた。若かりし頃、戦場を往来していた男の手はゴツゴツと硬く、荒々しかった。それが不思議と、リィンを落ち着かせた。


「そういえば、昔にもこんなことがあったなぁ。覚えているか? まだおぬしがこんなに小さかった頃だ」


 ガレウンは両手を広げた。その幅は五十センチ程しかない。流石にそこまで小さくなかった。リィンは思いつつ、苦笑しながら頷いた。


「あの時はアルタもまだ居た。俺、アルタ、おぬしの三人で夜空を見たな」


 ガレウンの目は一層遠くを見るようになった。目は空を見、思いは過去へと馳せられている。

 リィンはまた頷いた。


「あの時の夜空は、今よりもっと澄んでいたな。雲もなかった。今でも思い出せる。綺麗な夜だった」


 ふと、リィンにはガレウンが泣いているように見えた。涙が流れているわけでもない。表情が変わったわけでもない。それでも、何故かリィンの目に、彼が泣いているように映る。


 リィンは間違っていない。実際に彼は泣いている。男の涙というものは、目から流すものだけではない。その上、彼は騎士だ。男であり、騎士であるならば、涙は心の中でしか流してはいけない。リィンは気が付いてしまった。本来なら男の見せるべきではない、脆く弱い部分に、我知らず踏み込んでしまっていた。


 踏み込んでしまえば、泣いている理由は自ずと分かってしまう。ガレウンはこの瞬間を想い、涙しているのだ。もう二度とは過ごせない、孫娘とも思うほど大事なリィンとの時間が、もはや永久に訪れないことを想い、涙している。この瞬間が最期の二人の時間だった。


 ガレウンが死を覚悟してここにいるのは、リィンにもとっくに分かっていた。反逆軍につくとはそういうことだ。ここは死地だ。確実な死を覚悟せずして、ここにはいられない。サーブ含む四人の兵士たちでさえ、そうに違いない。


 リィンは不意に涙していた。涙の大粒が、頬を伝って流れ落ちた。


「あ、あれ……? 私……」


 一瞬、何が起こったのかリィンにはわからなかった。大粒はとどまることを知らない。滂沱と流れ落ちる。

 泣くな泣くな、と自分に命令する。しかし、すればするほど涙は溢れる。涙が涙を呼ぶ。


「うっ……、ううぅ……」


 ついに嗚咽まで混じり始めた。この時になって、ようやく彼女はこの状況を正しく理解した。これは涙を我慢することが出来ないほど、悲しいことなのだと。歴戦のガレウンでさえ、心の涙を少女に悟られてしまうほど、悲しいことなのだと。


 リィンは頭で理解していたことを、ようやく心で理解した。

 心で理解すると、感情が爆発した。涙は増量し、顔面は濡れてクシャクシャになった。


「爺様……!」


 リィンは堪らずガレウンの胸に飛び込んだ。騎士らしさをかなぐり捨て、感情のままに動いた。それが本心だった。今の彼女は騎士でなく、あるがままの、ただの少女だった。


 ガレウンはそんなリィンを叱らず、ただ優しく抱きしめ、頭を撫でてやった。彼もまた、この時ばかりはただの優しい老爺だった。


「爺様、すみません……、騎士としてはしたないこととはわかっているのですが、どうしても……止まらないのです……」

「うんうん。わかっておる」

「すみません、すみません……」

「うんうん」


 ひたすら謝るリィンを、ガレウンはひたすら優しく撫でた。


「リィン、おぬし、まだまだ子供だなぁ」


 ガレウンが呟くように言った。リィンはただ泣きじゃくるのみだ。


 戦場にあって優しく美しい時間は、それ自体が珍しく、また長続きしない。別れの時が来た。

 喧騒の質が変わったのを、ガレウンの耳はしっかりと捉えた。脱出の好機が訪れた。


 ガレウンは未だ泣きじゃくるリィンの肩を力強く握った。


「リィン、時が来た。もう泣いている暇はないぞ! 騎士の本分を思い出せ!」


 ガレウンはリィンに活を入れた。リィンを見つめるガレウンの目は、もはや遠くを見ていない。戦場の騎士の目だ。騎士の目が、リィンの騎士を目覚めさせる。


「はい……!」


 リィンは涙を拭った。未だ目も鼻も赤いが、顔は平素のように引き締まった。


「よし! それでこそ俺が育てた騎士だ!」


 ガレウンは立ち上がった。リィンも続いて立ち上がった。


「あの櫓の方へ向かえ!」


 ガレウンは先ほどから目指していた櫓を再び指差した。


「あの櫓の下には門がある。そこから外へ出ろ! 今頃は崩れた敵を味方が追撃しているはずだ、外へは楽に出られるだろう。後はおぬしの才覚で逃げろ!」

「味方が追撃していると、何故わかるのです?」

「戦場に長くいると、音でわかるようになる。無駄話をしている時間はない! 行け!」

「はい! ご武運を!」

「おぬしも達者でな!」


 ガレウンは身を転じ、元来た道を駆け戻って行った。別れの際の会話はあっさりとしていた。それで十分だった。言葉には出さずとも、二人の間には通じるものがあるのだ。


 さようなら、爺様。


 リィンは心の中で呟くと、ガレウンの背を見送ることなく、櫓へ向かった。

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