一話 王都事変 その十五 国家反逆罪

 カールーの町北方にカールー砦なる、警察騎士団と近衛騎士団の詰める砦があることは既にチラッと述べた。あれからさらに数時間歩いたリィンは、眼前にこの砦へと迫っていた。干し肉も水筒の水も既につき、空腹と渇き、その上に疲労も積み重なり、彼女の肉体は既に限界に達していた。


 リィンはやっとの思いでカールー砦門前へと辿り着いた。粗末ではあるが、一応土塁、石垣、柵、この三つがない交ぜになって砦を囲んでいる。正門は二メートルばかりのちょっとした城壁に木製の門扉がある。砦の四方にはかがり火が赤々と燃えている。


 リィンは城壁を見上げた。どうにも様子がおかしい。城壁の上にあるべき見張りの兵士が見当たらない。一体これはどういうことだろうか。リィンは小首をかしげた。いくら昨今は戦が途絶え、多勢の外敵が町へ押し寄せることはなくなったとはいえ、これはあまりにも不用心が過ぎる。リィンは門をそっと手で押してみた。開かない。リィンはホッとしたような悲しいような複雑な気持ちになった。戸締りがされているのは良いことだが、門番もおらず、扉も開かないのでは山中の事件を報せることができない。リィンの肉体はとっくに限界へと達している。ここからさらに南のカールーの町へはとても歩けない。


 リィンは門扉に背を預け、その場にへたり込んだ。急激に眠気が押し寄せてきた。雨に濡れた身体は震え、頬は青白くなり、目の下のクマも酷い。


 駄目だ、眠っちゃいけない! リィンは心中自分に言い聞かせ、頬をパンパンと叩いた。あまり痛くない。叩く手にすら力が入っていないのだ。リィンは今の自分のみすぼらしさに泣きたくなった。悲しくなった。思わず空を見上げた。満点の星がいつもと変わらずそこにある。彼女に知らん顔をしている。何故か、途端に彼女は悔しくなった。


「馬鹿にしているのかッ! 私はリィンだ! 誇り高い騎士だ! いくら高所にあるからといって私を馬鹿にすることは許さんッ!」


 リィンは突然空に向かって咆えた。不思議と、声は平常時と変わらないくらい精気に溢れていた。叫んでいる間は、彼女も疲労を全く感じなかった。叫び終えた途端に、彼女はぐったりとしてしまった。辛うじて意識を保ってはいるが、気を抜くと落ちてしまいそうだった。


 直後、リィンの頭上で叫びが上がった。天高く輝く星がリィンに応えたにしては、情けない叫びだった。寝耳に水でもかけられたような驚いて跳び上がるような甲高い叫び。リィンは驚き目を見開いた。


「い、今開けますぅ!」


 続いて、そんな声が上から聞こえた。上でばたばたと何かが慌ただしく動く音がする。星が落ちてきたにしては妙に人間味がある。ばたばたと音がしたかと思うと、次に、リィンが背を預けている扉が大きな音をたてた。その直後、ギィと軋みながら門扉が開かれた。突然背もたれがなくなり、リィンは仰向けに倒れた。幸いにも頭は打たずに済んだ。


 寝転んだリィンの目の前に、二人の男がいた。どちらも壮年期を過ぎ、老年期へと差し掛かっていた。二人の男は服の上から、安っぽい革鎧の胴を身に着け、その手に槍を握りながら、目を大きく開いてリィンを覗き込んでいる。


「失礼しました騎士様」


 男の一人が槍を持たない方の手で後頭部を掻きながら、ひきつった愛想笑いを浮かべた。


「あの、決してうたた寝していたわけではありません。ただ、少々気付くのが遅れまして……」


 男はペコペコと頭を下げながら何やら言い訳じみたことを言いだした。もう一人の男は何も言わないが、同じように頭を下げている。


 今のリィンに深く考える余力はない。この男二人について考える必要もない。リィンはよろめきつつ起き上がった。


「私はリィン・アットレイル。警察騎士団所属。火急の件あり。至急、ここの責任者に会わせない」

「えっ、あ、は、ははっ! わかりました! おいベッツ。お前はこのお方を控えの間に通しておけ」


 言い訳じみたことを言っていた男が、もう一人の男に言った。言うなり、彼は槍を持ったまま走り出した。取り残された男は走ってゆく同僚の背にコクンと頷きかけた。


「では、こちらへ」


 初めて男が口を聞いた。そして歩き出した。リィンはその後をゆっくりとついていった。狭い砦だから、門を超えればすぐに幾つかの建物が姿を現す。リィンはその内の一番手近な建物に上げられ、一番手近な部屋に通された。どうやらここが控えの間らしい。


 カールーという田舎町を守る拠点、それも近頃は安穏としてさして役立つこともないから、年々予算が削られていったカールー砦は、ろくな兵士もいなければ、ろくな設備もない。控えの間を修繕する金もないのだろう何もない。テーブルもなければ椅子すらない。剣道場のような板敷の間があるだけ。板敷の床にどこかから隙間風が吹き込み、いやに底冷えがする。カーテンも閉じられ、真っ暗な部屋に手燭がリィン側に一本だけ置かれている。灯りはそれだけ。蝋燭も経費削減のため粗末なものなのだろう、弱々しい灯りが吹く隙間風に今にも消えそうに果敢なく揺らめいている。


 一瞬、強い風が吹き込み、灯は敢え無く消えた。辺りは消えた灯の焦げ臭い残り香を残し、真っ暗になった。リィンは溜息をついた。聞きしに勝る辺境だ。こんなところで大丈夫なのか。リィンは少し不安になった。


 リィンはその場に横たわった。座して待つのがマナーではあるが、マナーを守れば上申に差支えが出そうだった。それだけ彼女は疲れ果てていた。マナー違反だとは知りつつも、そうせざるを得ない状態だった。自分のためにも、カランのためにも。


 横になるとリィンは人心地ついた。隙間風吹き込む冷たい板敷の間であったとしても、雨中の山中よりは断然マシだ。むしろ板敷の床に火照った頭をつけると、ひんやりと気持ち良い。リィンは思わず、とろんと瞼を落とした。五秒後、すぐに目を開け頭を振った。寝てしまうところだった。さすがに眠ってしまうのはまずい。彼女は眠らないように目を見開きながら床に全身を預けた。


 それから五分ほど経った。ドタドタと廊下を歩く音がリィンの失いかけた意識に反響した。リィンは思わず眠ってしまっていた。足音にハッとなり、急いで身を起こし、居住まいを正した。涎が床に垂れていたが、暗かったので気付かなかった。


 ガチャリと戸が開かれた。戸から月明かりが差し込み、部屋の中に人影をつくった。月影に男が二人いた。一人は壮年の男。手燭を持っている。その後ろに老いさらばえた老人。


 リィンはよろめきつつもサッと立ち上がり、お辞儀をした。二人の男も軽く頭を下げた。


「暗いな」


 老人が言った。


「手燭が消えてしまいました」


 リィンが言った。


「そうか。トマ、火を分けてあげなさい」


 壮年の男がゆるゆるとリィンの側へと歩み出た。リィンの足元を手燭で照らすと、そこに火の消えた手燭が浮かび上がった。彼はその手燭を拾い上げ、自らの手燭の火を移した。火が二つに殖えた。弱々しい火の手燭も、二つになればそこそこに明るい。少なくとも、三者の間の闇を埋めるくらいにはなる。


 老人もトマも、明るく照らし出されたリィンの姿を見てハッと息を呑んだ。雨や泥に汚れきったリィンの姿に、火急の件が尋常事ではないことを読み取った。


 老人はするするとリィンに歩み寄り、すぐに腰を落とした。リィンの目に老人の姿が鮮明になった。色が黒く、無精髭が濃い。禿が進行し、前頭部はほとんど髪がなかった。たれ目だが鋭い眼光。トマに比べて身長が低く、リィンと同程度。齢のせいか、それとも生来のものなのか、骨格も萎びている。


 トマも腰を落とし、リィンも尻を床についた。


「私は、カールー砦を預かるベリドンだ。気楽にしてよい」


 老人、ベリドンは言った。


「はい。私は警察騎士団所属のリィン・アットレイルと申します」

「うむ。夜も遅く、お前もさぞ疲れていることだろう、手短に申せ」

「はい。私はガラキ峠の山賊討伐の命を受け、朝から山へ入ったところ、突然何者かの奇襲を受けました。辛くも逃げきったものの、案内人とはぐれてしまいました。つきましては、エタイトへの報告と、賊の退治、案内人救出のためにご助力を給われないかと」

「ふむ」


 ベリドンは頷いた。ベリドンとトマが顔を見合わせた。揺らめく手燭の灯りのせいか、二人の顔は何やら緊張しているようにも見える。


「わかった。全てがお前の希望通りにはゆかんかもしれんが、私の出来る限りの努力はしよう」


 ベリドンは笑って言った。


「ありがとうございます!」


 リィンは平伏した。あまりにもあっけなく、ことがトントン拍子に進んだ、とは、彼女は思わなかった。もはやそういったことを考えられる余力はない。二人の男の表情に不穏なものを感じ取るだけの力はもうない。


「うむ。一先ず今夜はこの砦に泊まってゆくがいい。客間を用意させてある」

「かたじけなく思います」


 リィンはもう一度平伏した。安心すると、緊張の糸がプッツリと切れ、途端に激しい睡魔が彼女を襲った。一瞬、平伏したまま上体が起こせないほどに強力だった。さすがにこの場で眠りこけるわけにもいかない。彼女は必死の思いで上体を起こした。


 ベリドンは手燭を手に取った。


「トマ。お前が案内してやれ。私は急ぎの用がある」


 この時、ベリドンとトマの間では目配せによる何らかのやり取りがあったが、リィンは全くそれに気付かなかった。疲労もあるが、当たりが暗く、絶えず揺れる手燭の灯のせいで、表情が読み取りにくいせいもあった。ベリドンは足早にその場を去った。


「行きましょう、リィン殿」


 トマは言って、手燭を持ち立ち上がった。


「はい」


 リィンも立ち上がった。先導するトマの後ろを付いてゆく。


「客間はこちらになります」


 剣道場のような板敷の間を出、カールー砦中央部、兵舎と騎士たちの居館、それに防御施設を兼ねた、俗に言う本館へと二人は向かった。


 リィンはフラついている。眼前に揺れる手燭の灯が霞んで見える、足も浮ついた感覚があるのみで、上手く歩けているのかさえ定かでない。カランには悪いが、あともう少し、もう少しで休める。リィンは自分に言い聞かせた。


 突然、リィンの目に、手燭の灯が迫った。トマの足が止まっていた。リィンは危うくトマの背に衝突しそうになって、すんでのところで足を止めた。どうしました、と、リィンは言おうとしたが、口がパクパク動くだけで声が出なかった。トマはリィンへと振り返り、突然後ずさった。リィンはその行動の意味が理解できず、ただそれをボーっと眺めていた。


 その時だった。リィンの周囲、視界の死角で何者からが駆けてくる音がした。リィンが音に気が付いた時、既に彼女はその諸腕を何者かにらに絡めとられていた。両腕を拘束された! このことにリィンが気づいた時はもう遅い。両脇にそれぞれ男がぴったりと身を寄せ、男らの諸腕が、リィンの腕に巻き付いて離れない。思いもよらない変事にリィンの眠気は飛んだ。彼女は目を見開き、正面のトマを見た。


「奸賊の女狐めッ!」


 夜闇に大音声が響き渡った。それは正面のトマのものではなかった。声はリィンの背に浴びせかけられた。リィンは両脇の男に身体の自由を完全に奪われているから振り向くことも叶わない。しかし振り向かずともその声には覚えがあった。さっき聞いたばかりで忘れるはずもなかった。ベリドンだ。彼の両脇に護衛が二人ついていた。


「こ、これは一体なんですかッ!?」


 リィンは叫んだ。かすれていたが、さっきの大音声に負けない、疲労困憊とは思えないほどの大声だった。


「それはお前が一番知っているだろう。国家反逆は大罪だ。覚悟はできているだろうな?」

「わ、私が、こっ、国家反逆……!?」


 ベリドンの言っている言葉の意味、この状況、何もかもが、リィンには理解できない。いや、理解できないというよりは、脳が理解を拒んでいた。心臓が死神の魔手に握られたように冷たく痛んだ。身体の中心からまるで体温を失ってゆくような冷ややかさが全身に伝播する。微かに震えが起こり始めた。疲れ切った顔が真冬の月のように青ざめている。


「まだしらを切るか! 太々しい女狐め! 国家転覆を企て、山賊を扇動したと、お前がここに来る直前に使いが報せに来たわ!」

「そ、そんな馬鹿なッ! 何かの間違いでございます!」


 リィンは身をよじった。だが、両脇の男に絡めとられ、微動だにできない。むしろあがけばあがくだけ体力が奪われてゆく。


「間違いなぞあるものか! 書状にはちゃんとヘレルボー大臣殿の名も入っている!」

「ヘレルボー殿の……!?」


 この国の筆頭大臣の名を持ち出され、リィンの目に、顔に、身体に、絶望感が拡がった。罪自体は全く身に覚えのないものだ。しかし大臣がサイン付でそのような触れを出しているとなると、もはやリィンに逃げ道はない。言い逃れの場は裁判をおいて他にない。


「見えるか!」


 言って、ベリドンはヘレルボーのサインの入った書状兼逮捕状をリィンの眼前に突き付けた。リィンはヘレルボーのサインを見たことはない。が、それらしい物を見せられては、もはや抵抗する気力も失せてしまった。元より気力だけでここまで来たリィンだった。気力も尽きると、彼女は頭をガクリと垂れた。精も根も尽き果て、気を失った。


「地下牢に押し込めておけ」


 ベリドンは言った。寒空に負けない冷たい言葉だった。トマが再びリィンに背を向け歩き出した。その後ろを、リィンは両脇の男に抱えられ、足を引き引きずらせながら連行されていった。ベリドンはその様子を眉間に皺を寄せ、憐みの目で見送った。その目はリィンを見ているようで、どこか宙空を彷徨っていた。複雑な思いが、彼の脳裏を渦巻いている。


 気を失ったリィンの閉じられた目から、絶望の滴が一つ、地に落ちた。

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