一話 王都事変 その十四 雨中の孤独

 リィンはひたすら走った。どれだけの間走り続けたかわからない。ただ、無我夢中だった。耳は一切の音を拾わなかった。肌に寒暖も、痛みも、何も感じない。五感の内で機能しているのは視覚だけだった。目だけが真っ直ぐに前だけを向き、道なき険しい山をひたすらに駆け抜ける。


 ついに限界がおとずれた。リィンの意志に反して、両の足が言うことを聞かなくなった。昂ぶった集中力は疲労すら麻痺させていたが、集中力にも限度がある。体力も集中力も、同時に限界を迎えた。


 突然の足の命令違反に、リィンはよろめいた。倒れかけ、傍にあった太い木にしがみつき、身を預けた。


 足は一歩も動かない。熱を持ち、鉛のブーツを履かされているかのように重い。いや、足だけではない。全身がそうだった。全身に厚手のコートを何重にも羽織っているような重みがある。心臓が早鐘を打つ。血が、肉が灼けるように熱い。吸う空気は冷たく、吐く息は熱風。


 リィンは木に背を預けると、地を這い隆起する幹に相応しい木の根にドスンと腰を下ろした。その時、彼女は手に持っていた、方位磁石と包みを取り落した。しかし、疲れすぎてそのことには気付けない。もう一歩も動けなかった。耳の中で虫が鳴いているような音がする。目を開けるのも辛い。それでも、彼女は薄目を開けた。敵の襲撃に備えた。


 気が付けば、雨はさらに勢いを増していた。幾重にも折り重なる枝葉のもこれを防ぐことはできない。相当量の雨が、リィンの全身へと降り注ぐ。熱した身体には、冷たい雨粒は逆に心地よかった。かすむ目で、降りしきる雨の山中の周囲を見回した。誰かのいる気配はない。鳥や獣、虫でさえ、その鳴き声の一つすらしない。この一帯にいるのはリィンだけ。存在する音は、耳鳴りと雨音と時折吹く風に木々のざわめき。


 リィンは自分の来た方角をボーっと見つめた。疲労に回らない頭で、後から来るはずの少年の姿を思い浮かべつつ待った。しかし、いくら待っても少年は姿を現さない。胸の鼓動が落ち着き、呼吸も整い、身体の熱が引き、濡れた身体が寒さを感じ始めても、少年は姿を見せない。


 頭脳が冷静さを取り戻すと、リィンは、途端に嫌な想像に憑りつかれた。ひょっとしてカランは殺されたんじゃないか。ふと、そう思った。それは疲れからくる、負の感情の作用だったかもしれない。しかし、それはただの空想の産物ではない。実際問題、現実にして、カラン少年がリィンに追いついてくる気配はない。リィンの疲労に充血した両目が、滂沱と流れる雨の隙間の先を、文字通り血眼にしていくら眺めても、カランの影一つ見つけられない。そこにないものは見つけることができない。だが、それ即ち彼が死んだということにはならない。賊から逃げおおせたが、はぐれてしまった可能性だってある。リィンが平静の冷静さと肉体の健常さを失っていなかったなら、希望のある考え方ができたに違いない。


 リィンは木に手をつき、よろめきつつ立ち上がった。カランを探しに行こうと、一歩足を踏み出した。もう一歩は踏み出せなかった。疲れきっていた。リィンは思った。こんなに疲れているのに、あそこへ戻ってどうする? いや、そもそも戻れるのだろうか? 方位磁石を持っていたとはいえ全力疾走だ。正確に一直線に南下できたとは限らない。方位磁石を頼りに北へ戻っても、あの場へ戻れるかわからない。よしんば戻れたとして、この疲れではろくに戦えない。そもそもカランが自分を真っ先に逃がしたのは、自分がこの場では役に立たない足手まといだと判断したからだろう。いや、そうに決まっている。自分がいるより、一人で戦ったほうが勝算がある、カランはそう思ったのだろう。


 リィンは再び、木に背をもたれて、木の根に腰を下ろすと体育座りになって、膝の頭に顔を埋めた。抱えた足を強く抱きしめた。悔しかった。泣きそうだった。悔しさに顔を歪ませたが、涙だけは零さなかった。それだけはグッと堪えた。彼女のプライドがそうさせた。泣いてなるものか。リィンは強く自分に言い聞かせた。泣いたところでどうにもならない。カランが心配ではあるが、いや、心配だからこそ泣いている場合ではない。リィンは無理矢理自らに言い聞かせた。言い聞かせることで闘志を奮い立たせた。今自分が為すべきことを考えた。


 一先ず、今はカランの言葉に従うのがいいだろう。ひたすら南に行こう。南にはカールーの町もある。その前には砦もある。まずはそこへ行き、ことの顛末を報告しなければならない。その上で助力を乞い、カランを助けなければならない。リィンは考え、決意した。


 やるべきことは決まった。そうなると、元来が行動派のリィンだからすぐさま立ち上がった。来た道に背を向け、南を向いた。南へ歩き出そうとして、その手に何も持っていないことに気が付いた。リィンは慌てて辺りを見回した。地を這う幾条の木の根の谷間に、方位磁石と包みが落ちているのにようやく気が付いた。彼女はそれらを拾い上げた。二つともずぶ濡れだった。方位磁石はともかく、包みの方を濡らしてしまったのが気になった。


 そもそもこの包みは何なのだろう、リィンは気になり、特に何の罪悪感も持たず、興味に任せて包みを広げてみた。中には文庫本サイズの本一冊と、ほぼ同サイズで、それよりかは薄い手帳が現れた。どちらも濡れてふやけている。本の方は元々使い古されていて、表紙のいたるところが黄ばみ、傷んでいる。手帳は、さすがにプライベートなものだから、リィンもそれだけの常識は持ち合わせているから見ずに、文庫本の方を手に取ってみた。


 『神の剣』


 表紙にはそう書かれてあった。どうやら小説のようだった。文字だけ見れば、自分の『神速剣』に似ている。リィンは思った。今は読んでいる時間もない。そもそも彼女は流行りもの以外は読まないし、タイトルも『神速剣』に似ている以外に気になるところはない。彼女は丁寧に手帳と本を包みでくるみ、濡れにくいように懐へとしまった。しかし、もうすでに彼女の身体は濡れ鼠になっていたから、いかほどの効果があるかは知れない。


 リィンは方位磁石を頼りに、南への第一歩を踏み出した。雨の止む気配はまだない。




 陽は落ちた。夜になってもリィンは山中を彷徨い歩いている。歩くにつれて、山中の景色が変わってきた。まず足場が良くなった。今もパラつく雨のおかげでぬかるんではいるが、カランといたころのように起伏の激しい地形ではなく、概ね平坦。狂ったように繁殖していた草花は、なりを潜め、所狭しと密集していた木々はある程度の間隔をとっている。リィンは山を抜け、麓の森へと抜けていた。


 雨そぼ降る闇夜の森。視界はほとんど無いも等しく、方位磁石の針を触り、後は手探りでひたすら南下する。環境も、自らのコンディションも最悪だ。疲れ果てた肉体での強行軍は苦難の道のり。リィンは些細な段差、地表に突出する木の根、石などに足を取られては何度も転んだ。もう全身が泥だらけだった。泥だらけになっても、それを気にするだけの余裕すらない。彼女は一心不乱に南下するのみだ。


 雨が止んだ。やがて空は晴れ、星空が現れた。満点の星空がその弱々しい光を地上に投げかけても、リィンにはその半分以下しか届かない。彼女の頭上には、山中ほどではないにせよ、相変わらず木々の枝葉に溢れ、隙間から辛うじて星の幾つかを見ることができる。それでも、雨が降っていた頃よりは随分と視界が開けた。星明りも馬鹿にできない。


 それから数時間歩いた。時折、懐から干し肉を出して食べ、水筒を出して水を飲んだ。水筒の水は雨水を溜めたものだった。リィンが宿屋から持ってきた水はもうとっくに飲み干していた。そういう意味では、雨も悪いばかりではなかった。


 木々がまばらになってきた。リィンは空を見た。星明りが眩しいばかりだ。さらに歩いた。視界の先、遠くの方でどんどん明るさが増してゆく。ああ、もうすぐ森を抜けられる。リィンは思った。そう思うと、自然と足は速くなった。もう躓いたりはしない。外縁に迫り、薄くなった木々は星明りを遮らない。十分に足元を照らしている。


 突然、光が目に溢れた。森を抜けた時、リィンはそう感じた。安堵のあまり思わず膝を落とした。遠くではカールーの町の灯が輝いている。ようやく森を抜けた。後は、この道を行くだけだ。リィンは「ふっ」と腹に力を入れ、立ち上がった。そしてゆっくりと歩き出した。

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