一話 王都事変 その十六 虜囚

 最初の夜こそ地下牢に押し込められていたものの、下級ではあるが貴族ということもあって、翌朝から座敷牢に移された。手荷物は剣も、カランから預かった包みも、衣服さえも没収された。代わりに与えられた衣服は、適当にみつくろったのだろう、貴族向けではあるが、質素で素朴な白のワンピースだった。


 座敷牢とはいっても、カールー砦には元々そのようなものがなかったから、中央本館にある貴人用の客間を、脱走のできないように窓に格子をハメ、堅固な戸に変え、錠を施したものだ。戸は中を覗くことのできるように小さな窓が取り付けられている。地下牢に比べれば、窓もあり、トイレもあるから、格段に過ごしやすい。部屋の中では三食の食事、自由な水分補給、自由行動を保障されている。それ以外に自由はない。無論、外に出ることなどもっての外。戸の外には交代制で看守が一人付いている。


 格子のハマった窓があり、個室になったトイレがあり、開かない戸があり、テーブルがあり、その上には水差しとコップがあり、椅子があり、寝返りをうてば軋むベッドがある。それら以外には何もない。殺風景な部屋だ。


 リィンの心は、彼女の目に映る部屋の風景以上に殺風景で閑散としていた。荒んでいた。何の意欲もなく、一日をベッドで寝転んで過ごした。牢に押し込められて数日が経過していた。毎日変わるのは食事と水だけだ。下着すら、ろくに与えてくれない。


 その間、生理現象以外に行動を起こさなかった。健常な人間のあらゆる行動は二つの『いし』に根差している。意志と意思だ。リィンにはその二つのどちらも失っていた。彼女の心は空虚だった。つい数日前まで強い意志と希望に溢れていた部分には、現実感の薄い小さな絶望が横たわっていた。思考も空っぽだった。彼女の頭と心は雨中の山中を彷徨っていた時よりも、ずっと疲れきっていた。『国家転覆を企て、山賊を扇動した大罪人』といういわれのない罪が、恥辱が、彼女の弱った心と体を打ち砕いていた。


 そのせいで、何も考えられなかった。突き付けられた理不尽な現実に対する拒否反応、一種の肉体と心理の防御反応。現実を見るだけの力はとうに無く、ただ、それを意識しないようにするだけで精一杯だった。頭も心も虚ろだから、その目も光を失ってしまっていた。痩せ始めていた。食事はとっていても身体がそれを十分に吸収していなかった。廃人一歩手前の状態だった。


 この日もリィンは、見えているのか見えていないのか定かでない虚ろな瞳を天窓へと向け、ベッドの上で仰向けになって過ごした。監禁されて五日が過ぎていた。


 その日の晩、リィンはやはり天窓の方を虚ろな瞳でボーっと眺めてベッドに横たわっていた。寝付けない日々が続いていた。心が疲れているせいだろう。部屋に手燭はなく(あっても火をつける気力はない)、暗い。天窓から見える空の星空だけが明るい。


 その時、天窓から見える星空にサッと影が差した。雲ではない。何か得体のしれない影が天窓の外に塞がっている。影が夜空に揺らめている。影が一瞬、その姿を消したかと思うと、同時に天窓の外の格子までが姿を消した。再び影が現れた。影は外から天窓を音のしないようにゆっくりと開いた。その時になってようやく、リィンは目の前で起こっている異変に気が付いた。彼女の目に光がわずかばかり蘇った。


 影から、小さな塊が降ってきた。それはリィンの鼻の頭へと落ちると、ほんの小さく跳ね、ベッドの上へと転がった。リィンは驚いただけで痛みを感じなかった。それは実際に全く痛くなかった。リィンはベッドに落ちたそれを、暗闇の中手探りで探した。すぐに見つかった。それはクシャクシャに丸められた紙だった。痛くないはずだ。リィンは思った。彼女はそれを今すぐ確かめたい衝動に駆られた。牢に押し込められ、空虚だった心に、衝動が生まれた。衝動は意志に根差している。彼女の空虚だった心に、ちっぽけではあるがようやく意志が復活した。だが、今はその意志を断行する術はない。辺りは暗闇。手燭もなければ蝋燭一本ない。朝が来るまで、それが何であるかを調べることはできない。


 リィンは紙つぶてを大事に胸に抱き、薄い毛布に包まり、戸に背を向け、壁の方を向いて眠ることにした。朝になり、その日一日の食料と水を差し入れに来る看守に、万が一にも紙つぶてを見つかるわけにはいかないからだ。見つかれば取り上げられるかもしれない。看守は差し入れればすぐに牢を出てゆくから、胸に抱いていれば、見つかることはないだろう。


 リィンは朝を待ち遠しく思った。片目にチラリと天窓を見た。もう影はなく、閉じられた天窓の向こうには固い鉄格子と、その先に星空があるのみだった。


 夜は更け、いつの間にかリィンは眠りに落ちていた。その胸に紙つぶてが固く抱かれている。


 夜は過ぎ、空が白んだ。遠く地平線の先から太陽が頭を出した。払暁。夜は明けた。闇は失せ、窓から朝陽が部屋に注がれた。陽はリィンの包まった毛布を照らし出した。陽が昇るにつれ、部屋に光が満ちてゆく。陽は彼女の瞼をくすぐった。リィンはゆっくりと目を開けた。


 リィンは目を覚ました。久々の熟睡。気分は悪くない。起き抜け一番に胸の紙つぶてを確かめる。それは変わらず胸にあった。チラリとそれに視線を落とす。紙つぶては粗末な紙でできていた。表面はザラザラしているし、不純物が混じっているのだろう、再生紙のようにチップのようなものが目立つ。色も純白ではなく、黄がかった薄茶色だ。


 リィンは今すぐ紙つぶてを広げたい衝動に駆られたが、今は我慢することにした。まだ看守は本日の差し入れを持ってきていない。紙を広げるのは差し入れの後がいい。


 部屋に時計はないから、正確な時刻はリィンにはわからないが、それから一時間ほど経っただろうか、コンコンと戸をノックする音がした。リィンは戸に背を向けベッドに横たわり、胸に紙つぶてを隠し、寝ているふりをした。


 ガチャリ、と錠の外される音がした。続いて、戸が開いた。足音が部屋の中へと入ってくる。リィンは目を瞑り、耳に意識を集中させた。心なしか、今日は看守の数が少ない気がした。それは気のせいでなく、実際にこの日は看守の数が減っていた。得物を取り上げたとはいえ、リィンは腕の立つ騎士だ。万が一にも脱走されないためにも、通常、差し入れ時に部屋に入る看守は三人だ。だが、今日は一人減り、二人だった。顔ぶれも変わっていた。老爺一人に、若い男二人。という編成だったのに、老爺二人に変わっていた。しかし、リィンは背を向けているからそれには気付かない。


 老爺二人は、その日一日分の食料と水を置いてゆくと、すぐに部屋を出て行った。


 リィンはそれを確認し、たっぷりと間をおいてからゆっくりと起き上がった。ベッドの上に胡坐をかき、やっぱり戸に背を向けて、胸の紙つぶてを手に取った。そして、破れないように丁寧にゆっくりと広げた。


 リィンの期待した通り、そこには文字が書かれてあった。たった一行だけの短い文章。


 『明日夜、また来る』


 たったこれだけだ。リィンは少々拍子抜けした。もっと重大事が書かれているのかと期待していたからだ。拍子抜けだったが、しかし、おかげで夜を待つ楽しみができた。と、リィンは前向きに考えた。たった一枚の紙きれ、たった一行の文章が、絶望の淵にあったリィンの心を少しばかり立ち直らせた。一枚の紙にしては十分な効能だ。


 たった一行の要領を得ない文書でも、看守に見つかればコトだ。リィンはそれをクシャクシャに丸め、枕の下に押し込んだ。そして、枕に頭を埋めて横になり、天井を見上げた。天窓の向こうの空を見た。今日も良く晴れている。


 その日の日中、リィンは落ち着きなく過ごした。あの手紙のおかげで夜が待ち遠しかった。しかしいくら急かしたところで時が早く流れるわけもない。リィンは部屋中を歩き回ったり腕立て伏せなどの筋力トレーニングなどをして、はやる気持ちを紛らわせた。


 そうしている内に時は流れた。いつの間にか、陽は空の片隅に追いやられ、遠く地平の果てへ去ろうとしている。リィンは窓から遠くに見える、赤く燃える太陽を見送った。光が失われ、暗い夜がたちこめはじめた。


 夜といっても、手紙の主が再びここを訪れるのはきっと前の晩と同じくらいの時間帯に違いない。と、リィンは考えた。まだ宵の口。しばらく時間がある。この日リィンははやる気持ちを紛らわせるために、久方ぶりに運動したせいで疲れていた。丁度良い、今の間に一眠りしておこう。リィンはそう考えた。リィンは戸に背を向けてベッドに横になった。その時だった。


 ドンドン、と戸を乱暴に叩く音がした。突然の物音に、リィンは野生動物のような俊敏さではね起き、戸の方を見た。戸の方でまた音がした。ガチャリガチャリと錠の外される音だ。戸がゆっくりと開き、三人の男が部屋の中にドカドカと入ってきた。リィンはベッドに腰掛け、彼らの方を見た。三人の男の背中越し、部屋の外にまだ幾人かが見える。


 部屋に三人の男は皆初老だった。禿げている者がいる。白髪の者がいる。痩せた者がいる。彼らはベッドに腰掛けるリィンを油断なく取り囲んだ。三人とも手に仗を持っている。禿げた男の手には、さらに縄まである。


 リィンは落ち着きをはらって、彼らの容貌、装備、漂う雰囲気を観察した。これから何が起こるのかを推測した。縄があるということは、これから縄にかけられるのだろう。縄にかけられるということは、きっと何処かへ引きだされるに違いない。リィンはそう思った。


「リィン・アットレイル殿。ベリドン様の元へお連れします。つきましては、失礼ながらお縄をつけさせて頂きます」


 禿げが言った。無論、リィンに拒否権はない。だからといって、リィンがそれを素直に受け入れるわけがない。縄目の恥辱は貴族であり騎士であるリィンには耐え難い苦痛だ。罪を犯したという自覚があるのならまだしも、リィンは罪の意識などない。なぜなら罪を犯していないから。でっち上げの罪で牢に監禁されることですら憤慨ものなのに、その上縄目に引き回しとなると、我慢も限界を超える。


「縄など無用! 私は騎士よ! 騎士の名誉にかけても逃げも隠れもしない! そもそも私は素手だ。武器を持った男たち相手に、どのように逃げるというのだ」


 リィンは一喝した。だが、彼らは無反応だった。それどころか、彼らは冷たい目をリィンに向けた。彼らの仗を持つ手に力がこもる。取り囲んだ三人は仗を構え、さらにリィンへと詰め寄った。


「縄は絶対だと、ベリドン様のお言いつけです。大人しくして下さらねば、非常の手立てをもってお縄につけなければなりません。どうか、大人しく従い下さい」


 禿げが言った。声は先ほどより明確に殺気を孕んでいる。辺りに冷やりとした空気が漂い始めたのも、陽が落ちたせいばかりではあるまい。


 一瞬、沈黙があった。騎士にとって到底受け入れられることではない。だが、逆らったところで結果は見えている。相手は三人。さらにその後ろに幾人かが控えている。伝家の宝刀『神速剣』があれば話は別だが、そのための剣がないのだから論じるまでもない。それに、ここで反抗的な態度を取り、地下牢に移されては、待ちに待った客にも会えなくなる。つくづく損になる。ここは忍び難きを忍び、ひたすら耐え忍ぶしかない。韓信の股くぐりだ。リィンはその旨を内心己に言い聞かせた。


「好きになさい」


 リィンは吐き捨てるように言い、すっくと立ち上がった。


「それでは失礼します」


 禿げがリィンの後ろへ回り、彼女の両手を取り、後ろ手に縛りあげた。後ろ手、というのがリィンにより一層の屈辱感を与えた。彼女は顔を真っ赤にし、俯いた。


 そうしている間に、周囲は深い闇となっていた。しかし戸の方には灯りがあった。彼らは準備が良かった。既に日の暮れることを折込済みで、手燭を持ってきていた。


「行くぞ」


 白髪が言い、歩き始めた。リィンの背に、軽く仗がコツンと当てられた。縛った縄を持つ、禿げだ。彼はリィンの後ろにいて、歩け、という催促をしているのだ。リィンは怒り狂いそうだったが、後ろ手に縛られては怒りをぶつけることも叶わない。彼女は歯を食いしばって己を抑えた。


 手燭の灯に導かれるようにして、皆歩く。リィンはただ歩いた。ただ頭にあるのは怒の一字で、それ以外のことは何も考えられず、何も意識することができなかった。彼女はただ前を行く男の背中を怒りにまかせ睨みつけて歩いた。


 一行は本館から外へと出た。外は冷たい空気がはりつめていた。どうやら陽が落ちてから急激に気温が下がったらしい。一行は皆息を白くさせている。ベリドンとの対面所は本館外にあるのだろうか。リィンは思った。


 リィンは、前を行く痩せ男の背中越しの景色が、やけに明るいのに気が付いた。篝火だ。いくつも立てられた篝火が、煌々と輝き、闇夜を打ち払っている。太陽の光とはまた違った赤くゆらめく火が、朧げにその一角を描き出している。まさか、篝火に染められた一角で、ベリドンと対面するのだろうか。リィンは思った。しかし、その理由までは解らない。寒い夜、わざわざ篝火をたいてまで外で対面する理由はないようにリィンには思われた。

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