一話 王都事変 その十二 地図作り

 二人は森へと分け入った。森の中は濃厚な空気が立ち込めていた。木々、草花、土などが混合したなんとも言えない匂い。自然に慣れているのだろう、カランは平然としていたが、リィンは最初森へと入った時、その匂いにあてられ、気分が悪かった。鼻もなんだかムズムズするし、空気を吸い込むと、胸に野菜が詰め込まれたような妙な感じがする。しかしそれも、最初の十分くらいまでだった。徐々に慣れてゆき、一時間もすれば気にならなくなっていた。


 リィンにとって、地図作りは非常につまらないものだった。興味も技術もないものだから、彼女はすることがなかった。ただカランの後ろを付いて歩くだけだ。歩くよりも止まっていることの方が多く、また、先へ進んだかと思うとすぐに立ち止まる。いくら進んでも、森の景色は変わり映えしない。野鳥や野生動物は鳴き声こそするものの、その姿はほとんど見えない。見つけたかと思うと、鳥にいたってはすぐに飛び去り、動物にいたっては影ほどしか見せない。


 カランはひたすら方位磁石と地図を交互に見つめ、時折、地図に書き込む。リィンの存在など全く気にしていない。リィンが時々話しかけても、気のない返事をするだけだ。いや、返事をするときはまだマシだ。酷い時には完全に無視する。無視されたとしても、リィンは怒るわけにはいかなかった。彼は仕事をしてくれていて、彼女はその邪魔をしていることを自分自身十分理解していた。


 そうしている内に日が暮れ始めた。結局その日は昼食も摂らず、ぶっ続けで地図作成に終始した。リィンの持ってきた、水筒(竹に似た植物の幹をくり抜いた物)はもうとっくに空で、喉も渇けば腹も減っている。それなのに、カランの方はそれほど腹が減っているようにも喉が渇いているようにも見えない。超人なのだろうか? リィンはふと思った。リィンは素直に彼を尊敬した。


「今日はここまでにして帰ろう」


 カランが言った。リィンはすぐに同意した。


 二人は森を出た。陽が西へと消えつつある。陽が低くなると、気温がグッと下がってきた。二人は森を背にし、その場を後にした。それから実に三時間弱、二人は歩きつめ、ようやくカールーの町へ戻ってきた。


 リィンはもう精も根も尽き果てていた。しかし貴族が平民の前で、年上が年下の前で弱味を見せるのは彼女にとっては恥だから、気合を振り絞り気丈に振る舞った。町に到着し、リィンはカランと別れると、張りつめていたものがプツリと途切れ、大きなため息をついた。もう限界だった、彼女はヨロヨロとよろめきつつ、宿へと帰った。宿の自室へと帰ると、服も着替えずにそのままベッドにダイブした。直後にはもう彼女の意識はほとんどなかった。一分もすると寝息を立て始めた。普段ならまだ寝るには早い時間だったが、よっぽど疲れていたのだろう。


 翌朝リィンは、昨夜早寝をしたおかげでまだ陽も出ない内に目が覚めた。随分と長い間昏々と眠ったおかげで肉体に疲労はなかったが、空腹と渇きが酷かった。水浴びもしていないため、身体中が汗でベトベトだった。それらも早急に対処しなければならない問題だが、目下の問題は彼女の下腹部にあった。起床と同時に急激な尿意に襲われた。そういえば、昨日は朝起きてからの一度しか用を足していない。そのことをリィンは思い出した。彼女はベッドから飛び起き、急いでトイレへと駆けこんだ。


 二時間後、リィンは全ての問題にケリをつけ、待ち合わせ場所である北口へと向かっていた。今回は準備に余念がない。水筒は二つに増やしたし、保存食の干し肉も持ってきた。


 今回もカランが先にきていた。


「待たせたわね」


 カランに歩み寄り、言った。


「そうでもないよ」


 カランは言った。言ってから、懐から紙を取り出した。それをリィンに差し出した。リィンはそれを受け取り開いた。昨日の地図だ。


「それはあんたの分。森に着く間、それ見て覚えておいて」


 それだけ言うと、カランは歩きだした。リィンはカランに言われた通り、地図を見ながら彼の後ろをついて歩いた。


 道に慣れたせいか、昨日に比べて随分と早く森へと辿り着いた。


 カランは懐から地図を取り出し、それを見ながら森へと進んだ。その後ろを同じく地図を見ながらリィンが行く。二人は昨日作った地図を一通りおさらいしながら歩いた。さらい終えると、カランは立ち止り、懐から方位磁石と筆を取り出した。地図製作の再開だ。リィンにとっては暇な時間の始まりだ。


 このパターンがそれから四日続いた。さすがに三日目、四日目になると、二人は土地に慣れてきた。地図製作も歩く速度も早くなる。五日目が終わると、森の大部分の地図製作が終わっていた。終わったと言っても、出来上がったのはかなり大雑把な地図だ。細かい所では間違いも多いだろうが、この森を歩いたことのある人間なら理解できるくらいには完成されていた。


 六日目。二人は森の道を真っ直ぐに歩き、止まりの入り口、峠道を目指した。峠道それ自体は別段険しくはない。慣れているなら子供の足でも十分登ったり下りたりできるだろう。しかし、道を一歩でも外れると、途端に厳しい自然が姿を現す。渓谷があり、沢があり、崖があり、とても素人の分け入るべき場所ではない。山に入って初日の目的はとりあえず峠道を道なりに歩くことが目的だったから、山賊に襲われること以外の危険はない。


 リィンは峠を歩きながら辺りを注意深く見回した。道沿いの景色はそのほとんどが深々とした緑ばかりだが、時に切り拓かれた沢があり、崖があり、谷があり、それらの景色は目を見張るばかりに美しい。切り立った崖は灰と茶の岩肌が剥きだしになり、悠然としている。山に挟まれるようにして流れる谷沢は深い緑の中に一筋の青を映し出し、わずかに差し込む陽光をあますことなく反射させている。ただ峠道から眺めるだけなら美しいの一言だが、山賊どもを退治するにはそこまで分け入らなければならないことを考えると、リィンは少しばかり憂鬱になった。美しい崖も谷も沢も、一歩間違えれば命を失いかねないほどに危険を孕んでいる。


「こんなところを本当に山賊が根城にしているのか?」


 カランが突然リィンに声をかけた。


「実際にこの峠では略奪の被害があるの」


 リィンは、ちょうど道の脇に広がる崖を見ながら言った。


「険しすぎる。隠者だってもう少しマシなところに暮らしそうなもんだ」

「天険だから、何十年も隠れ続けられるのよ」

「こんなところに何十年も隠れ続けたい奴なんているのかな」

「山賊どもも、別に好きで隠れてるわけじゃないでしょう」

「好きじゃなかったらこんなところにずっといられないと思うけどね。僕ならこんなところに暮らそうなんて思わないけどね」


 結局この日は峠道を半ばまで歩いただけで、


「今日はもう止めにしておこう」


 と、カランが言ったから、道の半ばで切り上げカールーの町まで戻ることにした。峠道を降りる道中、幾人かとすれ違った。孤独な旅人もいれば、荷駄車の隊商もいた。皆軽重に差があるものの武装していない人間はいなかった。まだ陽は落ちていない。何故今日に限ってカランが早めに切り上げたのか、リィンは解らなかったが、その理由を聞くようなこともしなかった。一週間近く行動を共にして、カランのことを信用していた。その道に詳しいカランのことだから、何かしら考えがあるに違いない、リィンはそう思っていた。


 町へ帰ってくるまでの道中、カランはずっと何かを考えてるような風だった。フードを常に被っている癖に、顔は真っ直ぐに前を見て歩くのが常の彼だが、この時の彼はわずかに顔を俯かせていた。陽が傾き、フードの下の顔により濃い影ができていたから、リィンの目にそう見えただけだったのかもしれない。しかし、何故だかリィンはその表情が気になって堪らなかった。カールーの町へ着き、さぁ、今日は解散だというとき、リィンは堪りかねてカランに表情の真意を尋ねた。


 カランは俯かせていた顔を上げ、リィンを見た。やはり、その目は何かを考えているような色を湛えている。


「どう考えても、あんなところに人が住んでいるとは思えない。一人や二人ならともかく、山賊なんだろう? 変人が一人、人里を嫌って暮らすならともかくね。まとまった数の人間があんなところに暮らせるだろうか?」


 カランが言った。峠道からずっとそのことだけを考えていたのだろうか。

 リィンはカランが何故そんなことに疑問を持つのかがそもそもわからなかった。


「そういう報告があるし、現に私はそういう任務を受けているわ」

「嘘じゃないだろうね」


 リィンはムッとなった。


「嘘じゃないわ! 私は騎士よ! そんなわけのわからない嘘なんて絶対に吐かないわ! 任務を受けている証拠だってあるわ!」


 リィンは懐から近衛騎士団長の名の入ったあの紙を取り出そうとした。しかし、カランはそれを手で制した。


「いや、いい。わかった。別にあんたを疑ってるわけじゃないんだ。ただ、何となく納得がいかなくてさ」

「納得?」

「ああ。山賊ってさ、どれくらいの頻度で現れるんだ?」

「正確なことはわかっていないわ。報告があるのは月に一、二回と聞いているわ」

「あんたが聞いたわけじゃないんだね」

「ええ。私はエタイトの町配属だから」

「じゃあ、山賊を見たこともないわけだ。見たことある人っているの?」

「私はないけど、襲われたという報告があるんだから、いるでしょう」

「見たっていう人を知っているわけじゃないんだね」

「ええ、そうね。ねぇ、あなた、一体何を考えているの?」

「本当は山賊なんていないんじゃないか。僕はそう思うんだ」

「そんなわけないわ! 実際報告はあるんだから!」

「騙されてる、とかそんな可能性は? あんた、人から恨まれてたりしないかい?」


 リィンは絶句した。そんなはずはない! と声高に言いたかったが、騙されるはともかく、恨まれている可能性は否定できなかった。彼女はとっさに暖炉に燃やしたあの手紙の内容を思い出した。


「恨まれている可能性は否定できないわ」


 リィンは若干気落ちさせて言った。


「以前に嫌がらせの手紙を受けたわ。でも、それには今回の仕事を受けるなと書いてあったから、嫌がらせの主が今回の仕事を裏で手を引いているというのは考えられないわ」

「そうか……」


 言って、カランは目を閉じ顔を俯かせた。何やら考えているようだった。


「リィン、この仕事は慎重にやったほうがいい。危険な予感がする」

「どういう意味?」

「わからない。上手く言葉にはできない。何となくそんな感じがするんだ。場合によっては仕事を辞退した方がいいかもしれない」

「それはできないわ!」


 リィンは声を大きくして言った。


「これは大事な仕事なの! 絶対に辞退はできないわ!」

「そんな意気込まない方がいいよ。下手すると命を落とすことになるかもしれない」


 二人はしばしの間見つめ合った。リィンの目には仕事を遂行する強い意志が爛々と輝いていた。何を言っても引き下がらないあまりにも固すぎる意志。カランはそれを見てとり、それ以上何も言わなかった。


「わかった。精々互いに気を付けよう。それじゃあ、僕は宿に戻るよ。今日はなんだか疲れた」

「ええ、それじゃまた明日」


 その日はそれで別れた。去ってゆくカランの後ろ姿をリィンはぼんやりと眺めていた。そのリィンの姿を、町の辻の間から、盗み見る者が一人いた。それは注意深く見、決して悟られないように潜んでいた。


 リィンは宿への帰路を歩み始めると、それは素早くその場を去った。誰かに見られていたことをリィンは全く気が付かなかったし、元より、そんな注意を全く払っていなかった。

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