一話 王都事変 その十 腕利きカラン
早速行ってきます。と言ったリィンだったが、その日は結局真っ直ぐに自邸へと帰った。もう昼を過ぎていたし、朝からの大捜索のおかげで肉体は少しばかり疲れてもいた。こんな時は、夢にまで見た出世への第一歩とはいえど、気乗りしにくい。気乗りしないときに無理に難問へ挑戦したところで良い結果が得られるとは到底思えない。そう考えた彼女は、文書に期限が書かれていなかったこともあって、マイペースに事に取り組むことにした。明日から始めよう。そう決めた。
だからその日は、自邸にこもり、肉体を休養させ、精神を落ち着かせた。よく食べよく寝た。明日を心技体、万全の状態で迎えるために。
その甲斐あって、翌日、リィンは絶好調だった。朝は相変わらず苦手だから、警察騎士団の仕事がある日よりは遅くの時間に起床したが、そのおかげで肉体は万全。肉体の調子がいいと、心まで気持ちよくなる。
リィンは馬の背に乗り、エリックに見送られ出発した。
気持ちのいい朝だった。千切れた小粒の白い雲が数えるほどしか青空になく、肌寒い大気の中を太陽光が燦々と降り注ぐおかげですこぶる暖かい。
大事な仕事を始めるのに、万事が好調だった。心技体のみならず、天候や気温といった自然現象でさえ、リィンの新たな門出を祝福するかのようだった。
リィンは馬をゆっくりと歩かせた。意気揚々と。久方ぶりに通る街道をのほほんと見物しながら進んだ。
別に急ぐ理由はない。むしろ、リィンは急がないように自らを戒めている。試験は難問。気が急いてはことを仕損じる。夢にまで見た出世なだけに、彼女は人生で一番の慎重さを見せていた。謹慎を破ったことでもわかるように、生来が我慢弱く、かつ行動の早い彼女にしては珍しい。ひょっとしたら変わろうとしているのかもしれない。大きな仕事を前に、今彼女の精神は大きな飛躍の段階を迎えているのかもしれない。
人間の心の成長というものは目に見えない。ゆえに気が付きにくいものだ。特に自分自身のこととなると尚更だ。大抵自分自身の成長というものは後になってふと気づくものだ。
だから、リィンも己の中に生じつつある変化に全く気付かなかった。リィンは馬に乗り、時折降りて、出店の軽くつまめるものなりを買い、それを馬の背で頬張り、暖かな陽光と澄んだ大気の中をただひたすらにゆっくりと進んだ。
カールーの町は、リィンの住む王都エタイトに比べればかなり規模が落ちる。人口は十分の一未満。広さはそこそこあるから、おかげで隣家が遠く密度はスカスカだ。エタイトでは繁華街が無限に続くのではないかと思えるほど長く続くのに対してカールーの繁華街はしっかりと視界の中におさまる。そこそこ賑わっているが、気を付けなくても人同士肩が当たることはないだろう。
町の住む者の多くが農民で。街の南側にある、王所有の広大な農場で、割り当てられた分を耕し、作物を育てている。ここで収穫された作物の半分以上が王都エタイトに運ばれ、エタイトの住民たちの食料になる。エタイトの一部、口と性格の悪い人間はエタイトから真っ直ぐに北、この国の最北端に位置するカールーの町を田舎と馬鹿にしたりするが、カールーとその農場がなければ、エタイトの町は成り立たない。
大事な町と農場だから、警備は厳重だ。警察騎士団と近衛騎士団が合体し、日中夜を問わず厳戒に警備している。
カールーの町北側にあるカールー砦が、警備の騎士団たちの根拠地だ。王城に比べるまでもなく小さな砦だから狭く、その狭い中に管轄は違うが仕事の領域の被る二つの騎士団があるから、自然とすこぶる仲が悪くなる。無論それは表には出さないし、協力することを命じられているだけに、王の耳には入らないようにしてはいるが……。
リィンはカールーの農場脇の小川沿いの道を馬で進んでいた。農場はこの小川の本流から水を引き入れている。小川のせせらぎがリィンの耳に心地よく、辺りは豊かな緑が広がり、農地にはまばらに仕事に励む作人の姿が見られ、いかにも平和だった。
眼前遠くには山があった。小川の本流はあの山から始まっている。頂の至る所が白くなっていた。雪が積もっている。あの山こそが、リィンの試験会場、こなすべき任務のあるガラキ山だ。美しい山だ。山裾、麓には深い緑が鬱蒼と茂り、それが昇るにつれて薄くなり、頂きの頃には禿げあがり、むき出しの山肌が荒々しく逞しい。
首都では望めないのどかな風景を楽しみつつひたすら馬をすすめ、夕刻、陽が赤みを帯び始めたころ、ようやくリィンはカールーの町へ入ることができた。
そこそこの規模のある大抵の町には、入り口に大なり小なり厩がある。この町の厩は小なりの方だった。いたるところが古びてはいるが、ボロになっているわけではなさそうだ。古さは味と風情を醸し出している。リィンはそこに馬を預けた。前金で数日分。過ぎればその不足分を後払いする仕組みだ。カールーの町は道や繁華街が混雑することは稀だから、馬に乗って町を通行してもいいのだが、彼女の愛馬は朝からほとんど休みなく歩き続けたために疲れが溜まっていた。馬のことを思えば、これ以上無理はさせられない。リィンはそう思い、この町にいる間は自らの足で行動することにした。
暮れなずむ陽を尻目に、リィンは己のすらっと伸びた二本の足で意気揚々と歩き出した。農作業を終えたのだろう、農場から引き揚げてきた人たちがまばらに町の往来にあった。リィンはその流れに乗るように歩いた。町の十人のほとんど、農作業に従事している人々にとっては一日の仕事納め、家に帰り家族と過ごすなり、盛り場に出掛けるなりして、一日を締めるのだが、リィンの仕事はこれからだ。夕暮れ時からでないと始められない。
ガレウンに貰った地図を片手に、リィンは意気軒高だった。長時間馬の背に揺られ、もう陽は落ちようというのに、それに逆らうかのように彼女の心は熱を帯びた。あわよくば山賊どもを一網打尽にしてくれる。その思いが強く彼女の心に根付いていた。
リィンは、ガレウンに、『この試験は不可能な任務に対して、どのように行動するかを試そうとしているに違いない』、などときいた風なことを言ったのに、内心では、自分の実力なら難しいだろうがこなせなくはない。と自信満々だ。そう思うには彼女なりの根拠があった。日傘で十人の犯罪者たちを一度に検挙したときに、彼女は己の実力が並々ならないものであることを確信した。神速剣は圧倒的なアドバンテージを生む。リィンはそう思い究めている。
あながち間違いとも言い切れない。確かにリィンの神速剣は圧倒的ともいえる剣速を誇り、瞬く間の内に必殺の一撃を放つ。凄まじき一撃。今までそれを食らって無事で済んだ奴はいない。だが、それはあくまでも今まではのことだ。そこにリィンの驕りがないとは言い切れない。先はどうなるか知れたことではない。ましてや、これから彼女が戦うべき相手は百戦錬磨の山賊だ。街のチンピラとはわけが違う。彼女もそれを百も承知しているはずだが……。
リィンは足を止めた。目の前には一軒の安酒場。くたびれた外観は歴史を感じさせる。木製の看板の塗料は剥げ、店へ上がるための小さな段差は一部が欠け落ちている。飲酒店でありながら、窓の外側には蜘蛛の巣がはっていたり、風のたまり場なのだろう、外壁の一部には砂と埃が堆く積もっている。とても衛生的とは言い難い。地方の安酒場といえば、えてしてこういうものだ。客も店主もそういうところは気にしない。良い店の基準は良い酒があるかないか。ただそれだけだ。
酒場の名はフラック。と、塗料の剥げた看板にある。
リィンは左手に持った地図にある名と酒場の名を見比べた。同じだ。つまりここが、この試験の最初の目的地だ。
リィンは手紙を納めると、ゆっくりと酒場に向かって一歩踏み出した。歩き、薄い木の板でできた段差、欠けたところをうっかり踏み抜かないようにゆっくりを足を乗せた。ぎしり、ときしんだ。きしみはしたが、割れたりするおそれはなさそうだ。リィンはトントンと軽い調子で段差を上り、酒場の戸の前に立った。近くでよく見れば見るほど戸は薄汚れている。埃、泥、手垢、様々な汚れが固着している。金属製の取っ手は戸から大きく張り出すようにカーブを描いていて、その一番膨らんだ箇所、多分一番持ちやすい部分だろう、塗装が剥げて、生の金属が剥きだしになってはいたがまだ錆びてはおらず、夕陽を反射しテカテカと輝いている。
リィンは息を小さく吸った。古い木と埃のすえた匂いが鼻をついた。思わず顔をしかめた。
リィンは取っ手を掴み、ゆっくりと戸を押した。ギギギギギィー。と、ゆっくり押したにしてはやけに大きな音が店中に響き渡った。酒場は酔っぱらいの住処だ。注意は常に酒に向けられているから、戸の大きな開閉音は彼らに何の影響も与えなかった。バーテンダーも、誰一人リィンの方を見た人間はいなかった。
店の中は、まだ陽も落ちきっていないのに賑わっていた。酒に溺れたダメ人間ばかりかと思えば、そうでもない。無論、そういう人間もいるにはいる。しかしそれはリィンの目当ての人間ではない。
リィンの後ろで、戸が再び大きな音をたてながらゆっくりと閉まった。リィンは店中を見回した。
見るからに泥酔しているダメ人間は意図的に除外した。リィンの欲しているのはこの試験に役立つ人間だ。一目見ただけでも、それらしい人間が何人もいる。一人で酒を飲む者もいれば、二人組で何やら話し合いながら一杯やる者たち、大勢で集まって騒いでいる者たちもいる。貴族は一人もいない。なるほど、とリィンは思った。この酒場は猛者たちの溜まり場に違いない。大きな戦が久しく絶えたからといって、猛者たちの出番が消滅したわけではない。都会を離れ、田舎の方へ出ると、未だに力によってしか解決できない物事がたくさんある。そんな時、猛者たちの出番だ。そして、酒場はそんな猛者たちの憩いの場、情報交換の場としてうってつけだ。それをガレウンは知っていた。だから、ここを自分に紹介してくれたに違いない。リィンは心の内でガレウンに感謝した。
リィンは左右に二台ずつあるテーブルを横切り、真っ直ぐにカウンター席へと向かった。その姿を何人かの客が見止めた。ほとんどの者が注視した。やはり貴族然とした姿は目立つ。その上、女でありながら見るからに騎士のようでもある。荒くれ者どもの好奇心をくすぐらずにはいられない。四つのテーブル全てで一斉に話題が切り替わった。勿論リィンについてだ。貴族である当の本人の目の前で声高に話をするのは、流石の荒くれ者たちにも躊躇われた。最低限の常識はあった。だから、彼らは最初、リィンの姿を盗み見ながらヒソヒソと話をしていたが、次第に声は大きくなっていった。酒が入っているから、気も大きくなるし、自制も効かなくなる。
リィンはカウンター席に座った。椅子も店に負けず劣らず安物だ。これも木でできていた。座面にクッションはなく、長い四脚はところどころささくれ立ち、長期の使用により脚底が削れたのか、もしくは木が縮んでしまったのかバランスを欠き、わずかではあるが傾いている。リィンが座った席がたまたまガタのきている椅子だったというわけではない。カウンターに並ぶ全席全てがそんな調子だった。リィンはそこそこに大きな尻を座面にのっけた瞬間に違和感に気付いたが、よく見れば他の椅子もそんな調子だったので、甘んじて椅子に居座ることにした。不思議なことに、他の客は椅子の傾きなど気にかけていないようだった。エタイトの平民向けの酒場に何度か入ったことのあるリィンだが、これほどまでに酷いのはなかった。
座り心地は悪いが、別段居心地は悪くない。リィンは思った。上流貴族の行くような酒場には数分といられないリィンだが、騒がしく、品のないこっちの方が水が合う。
リィンは、安酒場特有の気取らないバーテンダーを呼びつけた。四十代の男だ。ソフトなリーゼントスタイルの髪は白いものが幾条にも混じっていた。リィンは『パルウ』を注文した。この世界で一番の安酒だ。白く濁っており、舌触りは滑らかだが雑味が多い。リィンは特別この味を好んでいるわけではない。彼女が好きなのはその安さとアルコールの少なさだ。元来酒の苦手なリィンは普段から酒を好まず、どうしても飲まなければならないときはいつもこれを注文した。
気取らないバーテンダーはリィンをチラと一瞬見やっただけで、特にその姿を気にしている素振りはない。注文を受けると、コクリと小さく頷くだけで、一言も喋ることなく背後の酒棚へ振り向いた。安酒場の主力商品である瓶詰の『パルウ』がいくつも並べられている。そのうちの既に開いている一つを手に取り、これまた店の内装と同じように木製のコップへとなみなみと注いだ。コップはエタイトのどの酒場でみたものより巨大だった。ビールの大ジョッキよりもさらに一回り大きい。コトリ、と音を立て、リィンの目の前のカウンターへと置かれた。
「ありがとう」
リィンは礼を言った。
バーテンダーは目で頷き、リィンから離れると流しで洗い物を始めた。
途端に、リィンの背後での、彼女についてのヒソヒソ話が大きくなった。どうやら、バーテンダーに礼を言ったのが、彼らにとっておかしかったらしい。リィンにとっては礼を言うのが常識として当然だったが、この町は違うらしい。
彼らの会話はリィンの耳にもよく届いていた。背にヒシヒシと当たる視線にも気付いていた。だが、特に気にしてはいない。そんなことを気にしている場合じゃない。試験の期限が設定されてないとはいえ、無為に日を過ごすわけにもいかない。酒も苦手だから早いうちに、できるなら今日中にも、使えそうな人材を見つけ出したい。そうリィンは考えている。
一先ず、リィンはカウンターに座る他の客をチラリと見つつ、『パルウ』のなみなみ注がれたコップを手に取り、一口喉奥に流し込んだ。まろやかな味と香りが口中に広がった。かと思った瞬間、苦々しい雑味が下を痺れさせた。リィンは思わず眉をひそめた。エタイトで飲んだのと同じ物とは思えない後味の苦味。これは好きになれない。リィンは思った。
それでも、頼んだものを残すのもしゃくだから、リィンはチビチビと飲んだ。飲みつつ、使えそうな人間がいないか目で探った。しかし一通り見たところの印象は、どいつもこいつも頼りなさそうな面構えをしている。と、リィンは思った。酒に酔っているせいもあるだろう。だが、それにしてもしまりがない。下卑ていて、粗野。平民に、それも暴力を生業とする者どもに気品を求めるのもおかしなことではあるけれど、あんまり馬鹿面を晒している奴と隣り合って歩きたくはない。
『パルウ』を半分ほど消費したころ、リィンは微かな酔いを感じていた。頭が鈍っているというわけでもなく、気分は良かった。
その時、先ほどのバーテンダーがリィンの前へやってきた。バーテンダーの小さな目がリィンを見た。リィンは『パルウ』を一口含んで飲むと、コップを置いてバーテンダーを見た。
「誰かをお探しですか?」
バーテンダーが言った。低くも威圧的ではない柔和な声がリィンにかけられた。
「よくわかったわね?」
リィンが言った。言って、また『パルウ』を一口飲んだ。酔いが回ってきたせいか、苦味も気にならなくなっていた。それどころか、飲むたび苦味が美味しく感じられてゆくようだ。
「わかります。貴女のような貴族は時折参られますから。女性は初めてですがね。しかし貴族は男も女に変わりませんね、いつも誰かを探していらっしゃる」
「ご明察。それで、あなたは私の仕事を手伝ってくれるのかしら? それとも、ただ興味本位で話しかけただけ?」
「半ば興味本位ですが、私にできることなら、お手伝いしましょう」
「そう、なら、あなたは今ここにいる客について詳しい?」
「少々のことなら」
「森とか山、険しい自然に詳しい人がいいわ。それでいて腕の立つ人。誰かいない?」
バーテンダーはざっと店内を見回したあと、再びリィンへと目を向けた。
「自然に詳しいかはわかりませんが、皆様腕の立つお方と聞き及んでおります。貴女もそれを聞いてこちらにいらしたのでしょう?」
「そうね。じゃああなたは誰から聞いたの? まさか本人の売り文句を真に受けてるわけじゃないでしょうね?」
バーテンダーは目を伏せた。
「あら、図星なの? 私はね、自己申告じゃなくて客観的な評価が欲しいのよ。あなた、何か知らない? ここにいる人たちで実績のある腕の立つ人はいないの?」
バーテンダーは答えに窮してますます目を伏せた。答えにくい質問だった。実のところ、バーテンダーは客が何を生業とし、どんな実績を上げたのか正確には知らない。ただ、バーテンダーとしての長年の経験から、客の職種はある程度推察できる。しかし、それはあくまでも推察。実際のところはどうかしれない。それに、バーテンダーは基本的に聞き役。自分から話しかけはするが、突っ込んだところは聞かないのが彼のバーテンダーとしてのスタイルだ。余計なことは知らない聞かない、そうするのが一番ストレスなく生きられる。
リィンは『パルウ』を一口含み飲み下した。いつの間にか三分の二を消費していた。ますます酔いが回っていた。酒を飲みなれない上酔いなれない彼女は自分が酔っていることに気付いていない。肉体の動作には何の問題もないが、気が大きくなってきていた。
「腕の立つ奴ならここにいるぜ!」
リィンの後ろから大きな声がした。リィンは頭を傾け、チラリと声の方を目の端で見た。斜め左後ろ手前のテーブルからだった。テーブルには男が四人いた。リィンに一番近い席の男が椅子を立ち、リィンの方を見ている。あとの三人は着座しているが、これらもリィンを見ていた。どいつもこいつもむさ苦しい男どもだった。陽に真黒に焼け、不揃いな髭を生やし、薄汚れて今にも壊れそうな簡易な革鎧を胴に巻いていた。腰には幅広な剣。これはそこそこ手入れされているのか、あまり汚れていない。数日風呂に入っていないのだろう、顔すら洗っていないのだろう露出した手足と顔面は汗と油と汚れでテカテカになっている。
どれだけ腕が立とうが、これはご免こうむりたい。リィンは思った。だが、その心配はなさそうだ。確かに腕も脚も肩も、そこそこに筋肉がついていて、いかにもそのテの稼業の男なのだろうが、リィンの目から見て、使えるほどの腕があるようには見えなかった。まずもって風格がなかった。リィンは自分の直感を信じた。彼女は深く考えることはしない。行動や思考の最終決議は直感に任せてある。
立ち上がった男はリィンの傍近くへと歩いてきた。リィンとは比較にならないほど酔ってはいるが、足取りは確かだ。リィンの横、カウンターテーブルにどっしりと肘をつき、リィンの顔を覗き込むように見た。リィンはやや顔を背けた。汚さよりも酒の匂いの方がキツかった。
「あんた、貴族だろ?」
口を開けると余計に酒が匂った。
「そうよ。自然に詳しくて腕の立つ人を探しているの。良い人を知らない?」
「知っているとも!」
男はにやりと笑った。
「どこにいる?」
「ここに。あんたの目の前だ」
男は大口を開けて大笑した。革鎧に包まれた腹を大きくゆすって。
「面白い冗談ね。でも今の私は冗談を聞く気はないの」
「はっ、ははははは! 最初は皆そう言うんだよ! お嬢ちゃん! なんなら今から証拠を見せてやってもいいぜ!」
そう言って、男はズボンのベルトを外した。リィンは慌てて男の方から目を逸らした。リィンの背後で爆笑が起こった。
「冗談だよ! お嬢ちゃんにこっちの剣はちょっと早かったかなぁ?」
またリィンの背後で爆笑が起こった。
さすがに過ぎた侮辱だった。リィンの中に沸々と怒りが沸き起こった。酔ってもいるから自制も効かない。
「無礼者!」
リィンはさっと立ち上がって男を真正面に睨みつけた。
男は外したベルトをおどけるように左手に持って左右に振り、大股一歩後ずさって下卑た笑いをリィンに向けた。
「いやはやこれは失礼しました! 俺は学がないもんですから、貴族、それもご婦人に対してなんと接したらいいのかまるでわからんのです。いや、俺だけじゃあない。ここにいる皆そうです。お嬢ちゃんのような立派な出の男は一人たりともいません。皆女の扱い方といえば、ここを使えばいいと思っている次第でさぁ!」
男はズボンの上から、股間の一物を握る仕草をして大笑した。明らかにリィンを愚弄している。テーブルでもカウンターでも笑いが起こった。店中が下卑た笑いに包まれた。笑っていないのはリィンとバーテンダーだけだ。
もうリィンは怒り心頭だ。考えるよりも早く、右手が腰の剣を掴んでいた。
それを見て、男の笑いが止まった。男の目が据わった。男はささっと数歩後ずさると彼もリィンと同じように腰の得物に手をかけた。
一瞬、店が静まり返った。バーテンダーの顔は引きつっていた。リィンを愚弄した男と一緒に飲んでいた三人の男が仲間に加勢しようと席を飛び出し、距離をとってリィンを取り囲んだ。
一触即発。今にも血を見る惨劇になりかねないのに、外野は突如盛り上がった。血の気の多い男たち。その上酔いが回っているとなると、過激な余興が欲しくなる。外野は双方を囃し立てた。
リィンは後悔した。こんなはずじゃなかった。そう思った。しかし不幸中の幸い、まだ剣は抜いていない。剣を抜けば、騎士のプライド上、黙って納めるわけにはいかないが、抜いていない内はいかようにも納め方がある。はずだが、酔っているせいか名案は浮かばない。ただ、ここで剣を抜く騒ぎになってはまずい。そういう思いで頭が一杯だった。
その時、酒場の戸が音を立てて開いた。ボロ戸の軋むような音がやけに大きく店中に響いた。
「おや、誰かいらっしゃいましたね」
バーテンダーが言った。その声は震えていた。きっとリィンと男たち、双方の殺気をうやむやにしてしまおうとあえて場違いなことを言ったに違いない。
多少の効果はあった。リィンも見合った四人の男たちも外野も、それぞれ戸の方を見た。
開かれた戸の前に男が立っていた。身軽に見える軽装。年季の入ったトレッキングシューズ。腰の両脇に一本ずつ短剣を差している。上着に付属したフードを頭にすっぽりと被っている。フードからやや癖毛気味の栗色の髪と幼げな顔がのぞいている。背丈はリィンとほとんど変わらない。少年だ。少なくとも大人には見えない。
少年はカウンターに向かって歩き出した。少年の後ろで戸が音を立てて閉まった。少年はリィンを取り囲んだ四人の男たちのすぐ後ろに立ち、止まった。
「どいてくれ。カウンターに座れない」
少年は言った。変声期が済んでいるのか、はたまたその最中なのか定かでない声だった。大人と思えば大人っぽくも聴こえるし、少年といえば少年のようにも聴こえる。しかしこの場合、見た目が少年のようであるから、この場にいる皆、彼を少年と認めた。
「ガキが来るところじゃねぇッ!」
四人の男の内の一人、少年に一番近い男が怒鳴った。
「ガキじゃない。酒は飲める」
少年は全く物おじせず言った。
「うるせぇーッ! ガキンチョがッ! こっちは立て込んでんだ! 死にたくなけりゃ家に帰ってママのおっぱいでもシャブってな!」
「ああ、そうかい」
少年は露骨に呆れた顔をした。彼は男の言うことを聞かず、そのまま彼の側を通り過ぎようとした。その時、男の背に少年の肩がぶつかった。
「テメェッ! 何しやがるッ!」
男は少年に振り向き、すかさず剣を抜いた。
瞬間、少年は男に向かって素早く一歩踏み込んだ。男は剣を振るうまでもなくその腕を少年に取られた。男がそれに気付いたときにはもう遅い。少年の足が男の足を綺麗に払っていた。男の動作は少年に比べると、何もかも一歩遅れていた。男は自身が投げられていることに気付いたのは、視界が激しく揺れ、天井が目に入ったときだった。そして、それからしばらく彼の記憶は途切れる。
ズンと音が響き渡って男が床に背から落ちた。男は白目を剥きもはや人事不省だった。
鮮やかな投げ技。とても少年の技とは思えない。その場にいるほとんどの人間が瞠目していた。仲間の三人の男と、リィンだけは違った。三人の男は怒りに燃えた目を少年に向け、リィンは嬉しそうな視線を少年に送っていた。ようやく骨のありそうなのを見つけた! リィンは思った。
三人の男たちは仲間が倒され逆上した。一斉に剣を抜こうとした。
それより速く、リィンが動いた。リィンの神速剣は彼らの目には止まらない。リィンは目の前の男の腹部に愛剣の柄頭をぶち込んだ。いくら革鎧を身に纏っているとはいえ、鳩尾は人間の弱点だ。殺しきれない多大な衝撃が男の腹部を襲い、全身に波及する。男の意識は苦悶の喘ぎを漏らすこともなく一瞬のうちに消失した。白目を剥き、あんぐりと口を開けたまま膝をつき倒れた。
わずかの間に二人が倒れた。それでも残った二人の男たちは闘志を失わなかった。酒のせいもあっただろう、仲間が倒されればそれだけ意気盛んになる。
無事抜刀できた二人はリィンへと襲い掛かった。一人は前方、もう一人は後方から。挟みうちだ。視野が狭いのか、それもまた酒のせいなのか、後方の男はすぐ側にいる少年の存在を失念しているらしい。
少年はリィンとその後方の男の間に割り込み、男の剣を持つ手を取ってひねり上げた。激痛が男の手に走った。痛みのあまり男は剣を取り落した。剣が床に落ちるのとほとんど同時に、少年は男の突進の勢いを利用し、腕をひねりつつ投げた。大の男の突進のエネルギーは凄まじい、しかもそれが投げに転化されたされたのだから怖ろしい。男の身体は軽々と吹っ飛び、カウンターテーブルに叩きつけられた。衝撃に、テーブルの上の『パルウ』の入ったコップが滑った。幸い、見た目と違ってカウンターテーブルは頑丈だったから傷はついたかもしれないが壊れはしなかった。
それと同時進行に、リィンとその前方の男は剣を交えた。交えた、というほどのものでもない。神速剣は目にも留まらぬ速さで決着をつける。結局、男はリィンの神速剣の前に為す術を持たなかった。彼もまた、その腹部に柄頭を受け、昏倒した。
数分の間に、四人の男が床に這いつくばることになった。事が終わると、一瞬の静けさの後、周囲は歓声の嵐に包まれた。酔っぱらいどもにとっては良い見世物だったに違いない。
リィンは剣を鞘に納め、後ろの少年を振り返った。少年は何事もなかったかのようにカウンターについている。少年のような見た目によらず肝が太い。苦い顔をしているバーテンダーに注文をしている。
テーブルの上に置かれた飲みかけの『パルウ』の入ったコップを手に取り、リィンは少年の隣の席へとついた。隣に誰かが座ったというのに、少年は一向に気にしないようだった。チラリと見ようともしない。
まだ苦い顔をしたバーテンダーがやってきた。手にはリィンの持っているのと同じコップを持っている。それを少年の前に置いた。中身も同じ『パルウ』だ。バーテンダーは苦い顔のままリィンを目の端で見た。
「喧嘩をしてもらっては困ります。事が大きくなると、警察騎士団に届け出なくてはなりません」
バーテンダーが視線を少年とリィンを行ったり来たりさせながら言った。
「そりゃ悪かった」
言って、少年は『パルウ』を一口飲んだ。声にも態度にも反省が見られない。
「大丈夫よ」
リィンが言った。
「は?」
バーテンダーは意味がわからない、という風に眉を動かした。
「私がその警察騎士だもの」
その時、初めて少年がリィンの方を向いた。幼さを残した瞳が真っ直ぐにリィンを見つめた。
近くで見ると、やっぱり少年だ。リィンは思った。自分より年下に見える。自分より若いのに、あれだけの腕があるとは世界は広い。
「あれは正当防衛だよ。それに、僕はあんたを助けた」
少年は言った。
どうしてこう、田舎の酒場にいる人間は貴族に対する口の利き方を知らないのだろう? リィンは思った。田舎にだって貴族はいるだろう。よっぽど数が少ないのだろうか、接する機会もないのだろうか。いや、教育の差だろうか。まぁ原因は何にせよ、あまり良いことではない。貴族の威厳が薄れると国難にもなりかねない。リィンはそんなことを考えたが、しかしそれは今の自分の仕事ではないと思い直した。今の自分に必要なのは、目の前の少年の技だ。
「助けてくれてありがとう。別にあなたを逮捕しようなんて思ってないわ。それに、私は別件でここに来ているの」
客同士の話には関与しない主義なのか、バーテンダーは静かに二人から離れた。
「あなた、普段は何をしているの?」
「職務質問?」
「世間話よ」
「最近は特にあてもなく旅をしてる。元は猟師。罠とか弓で獣を獲ってた」
リィンは満足そうに頷いた。
「じゃあ、山とか森に詳しい?」
「どこの?」
「ガラキ山」
「ガラキ山は一度しか行ったことがないよ。それも峠道を通ってきただけ。詳しいには程遠いよ」
言って、少年は『パルウ』をごくごくと二回喉を鳴らして飲んだ。
「でも、猟師をしていたんでしょう? それならどんな山も大して変わらないんじゃない?」
リィンが言うと、少年はプッと噴き出して笑った。
「これだから素人は……」
少年は言って、『パルウ』を飲んだ。あまりに小馬鹿にした言い方だったので、リィンは少しばかりムカついた。
「騎士さん、あんたの目からしたら山なんてどれも同じに見えるかもしれないけど、入ってみたら全然違うもんなんだ。山を舐めちゃいけないよ」
「別に舐めてはいないわ。舐めていないからこそ、山の案内人を探しているの。あなた、心当たりはない?」
「ない。僕は旅でここに来ているだけだから、友人どころか知人もいない。そもそもあんたは山に入って何がしたいんだ?」
「ガラキ峠の山賊退治。ガラキ峠の山賊は凶悪なの。だから、山を知っていて、かつ腕の立つ案内人が欲しいの」
「なるほど。それで僕に声をかけたんだ。あんた、見た目に似合わずいい勘してるね」
見た目に似合わずとは一体どういう意味なのかと、リィンは小一時間程問い詰めてやりたい衝動に駆られたがグッと我慢した。ガキ相手にマジになってはいけない。そう自分に言い聞かせた。
「ちょっと聞かせてよ、その山賊のこと」
少年に言われて、リィンは山賊のことを語った。ガラキ峠で略奪にはたらくこと、何十年も前から捕まえられていないこと、ガラキ山を根城としていると推測されるが、正確な位置を掴めていないこと。
「私は山賊どもを捕まえたいの。そのためにまず入念な下調べが必要でしょう? 私は山に詳しくないから、詳しくてなおかつ……」
「うん、わかった」
少年はリィンの言葉を遮った。
「それは僕が一番適任だよ」
「えっ!? でも、あなたガラキ山には詳しくないって……」
「確かに僕は詳しくない。けれど、何十年も前から山賊を捕まえられていないんだろう? だったら、この辺りにいるような、ただ山に詳しいだけの奴を連れて行ってもしょうがないよ。それなら、ガラキ山には詳しくないけど、山自体には慣れていて、かつ腕の立つ僕が一番良いと思わない?」
「す、凄い自信ね……」
リィンは、少年の突然の大言壮語に若干引いた。
「僕なら通用する。あんたもそう思うから、僕に声をかけたんだろう?」
言われてみればそうなのだが、目の前の少年が自信満々に言うのを見ると、リィンは何故だか心配になってきた。が、この際贅沢は言ってられない。これ以上の人材に出会えるかどうかも定かでないのだから。リィンは思い切ってこの少年を連れて行こうと決めた。少なくとも腕の方はある。自己申告だが山にもそこそこ精通しているらしいし、逸材といえば逸材に違いない。
「そうね。あなたの言う通りだわ。それだけ自信満々に言うんだから、今さら私の依頼を断ったりしないわよね?」
「まだ正式な依頼を貰ってないよ」
「そうね」
リィンは懐から紙を取り出した。事前にしたためて置いた依頼書だった。それを少年に差し出した。少年はそれを受け取り、読んだ。
「それなりのお礼ってどれくらい?」
「それはあなたの働き次第ね」
「なるほど」
少年は笑った。そして、『パルウ』の入ったコップを手に取ると、一気に飲み干した。空になったコップをテーブルに置くと、スッと席を立った。
「依頼は受けた。明日の朝七時、町の北口で落ち合おう」
少年は言うと、踵を返し、酒場の出口に向かって歩き出した。
「ねぇ、あなた! 名前を聞いていないわ! 私はリィン! リィン・アットレイル!」
リィンは慌てて振り返り、少年の背に声をかけた。
「おっとそうだった」
言って、少年はリィンへと振り返った。
「カラン。カラン・サルアル」
酒場の喧騒の中に、少年の名がリィンの耳に確かに届いた。
それだけ言うと、カランという少年はスタスタと歩き、酒場を出て行った。
リィンはテーブルに振り返り、少年に倣って残った『パルウ』を一気に飲み干した。プハーッと息を吐いた。
「カラン……」
リィンは少年の名を呟いた。ほとんど無意識のうちに名を口にしていた。どうも酔ってしまったらしい。リィンは思った。さっさと帰ろう。そう思い、彼女も席を立ち、出口に向かって歩き出した。
「騎士のお嬢さん」
バーテンダーがリィンに声をかけた。リィンはバーテンダーへと振り返った。
「お代がまだですよ。お連れさんの分も」
言われてリィンは恥ずかしさのあまり頬を染めた。酔いのせいもあって完熟トマトのように真っ赤だ。酔いとは恐ろしい、酒代を払い忘れるとは、次からは酔わないように気を付けよう。そう自戒した。
直後に小さな怒りが湧いてきた。あのガキ、酒代を自分につけやがった。怒ると、酔っていたのが嘘のように醒めだした。リィンはもう去ってしまった少年にプリプリ怒りながら、カウンターへと引き返した。
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