一話 王都事変 その九 試練

 良い天気だ。余すことなく広がる空を、太陽は自由気ままに輝いている。彼方の山々にわずかなちぎれ雲が、まるでマフラーを巻いているかのように覆っていた。


 そんな気持ちのいい朝、リィンは馬をせめた。気持ちのいい朝だから馬をせめたわけではない。せめなければ、到底出仕には間に合わないのだ。


 だから、馬上のリィンの顔は、焦り、怒りの混交した、厳しい表情だった。今朝の手紙のこと、その内容を思い出しては何度も舌打ちをした。


 鬼気迫る表情で、リィンは『馬通り』を疾駆した。緊張した手で手綱を握り、疾れ疾れと馬をせめたてる。


 『馬通り』とは、乗馬による通行を許された通りだ。事故を防ぐため、町中での馬の通行は厳しく規制されている。『馬通り』以外の通りでの乗馬は固く禁じられている。もし破れば相当の罰金、場合によっては何らかの刑に処せられる。『馬通り』以外の道では、馬を降り、牽いて歩かなければならない。


 いくら急いでいるからといえ、さすがに違反はできない。遅刻したくないがゆえに違反したことがバレてしまえば意味がない。どちらにせよ出世は水泡に帰すことになるだろう。


 リィンはひたすら馬をせめた。馬もそれに応えた。愛馬は見事な働きを見せた。街から城までの長き道のりを、馬は一度も休むことなく走り続けた。城についたとき、馬はもうヘロヘロだった。四脚はフラフラ、息もゼーゼー、目は半開き。


「よく頑張ったぞ」


 リィンは馬の長い鼻面を撫でた。帰ったら上等の餌をくれてやろう。彼女はそう思いつつ、何度も鼻面を撫で、無理を強いたことを内心恥じた。


 リィンは馬から降り、牽いて、城門をくぐった。


 城門をくぐり、すぐ左側にある駐車場ならぬ、駐馬場というべき建物、厩へと向かった。馬で登城、出仕する場合、一時預かりとして厩に馬を預ける仕組みとなっている。無料ではない。そこそこ値段が張る。リィンのような下級貴族、下級公務員にとって馬鹿にならない値段だ。だから普段リィンは馬で出仕したくないのだが、そうも言っていられないときが、朝の弱い彼女にとっては多々ある。


 リィンは厩に料金を払い、愛馬を預けると、すぐに身を翻し『白鷺門』へと急いだ。




 リィンは白鷺門へと到着した。遅刻ギリギリだ。彼女はガレウンがいるだろう、彼のために与えられた白鷺門の一室へと足を運んだ。


 そこは白鷺門一階、正面玄関から入って左手側をずっと行った突き当り右手側にある。外見に他の部屋と変わった所はない。内部にもない。強いて言うなら、あまりにも人が来ないせいだろう、戸の開閉が少ないせいで、他の部屋に比べるとわりかし完成時の綺麗さを保っている。戸の上には相談役室。と書かれたプレートが張り付けてある。プレートにはうっすら埃が積もっていた。相談役といえば、大層な役職にも聞こえるが、実際のところは長年忠実に仕えた老人に敬意を顕すためだけに作られた閑職だ。名誉という実体のないものとわずかな俸禄が与えられ、時々仕事が与えられる。仕事といっても、もう老人だから騎士らしい肉体労働など回ってくるはずもなく、もっぱら若い騎士達へのアドバイス、または訓練の監督ばかりだ。


 リィンは、他の部屋に比べて綺麗な戸をノックした。しんとしていた。ここは白鷺門の中でも忙しい中央から遠い。ノックの音がやけに余韻の尾を引いた。中から返事はない。てっきりリィンは、ガレウンは既に自分のことを今か今かと待ち構えているだろうと思っていた。しかし、留守のようだ。リィンは肩透かしをくらった。神経質なガレウンのことだから、ノックに気付かなかったということもないだろう。それに、普段ならノックをした瞬間、間髪おかずに中から返事が返ってくる。


 それでも、リィンはもう一度ノックをしてみた。やはり、返事はない。ノックの音がやけに響くだけだ。


 やはりガレウンは部屋にいないようだ。ということは、探さなければならないだろう。ガレウンが遅刻するとは考えられない。老人は朝が早いから、まず遅れない。遅刻するなんて見たことも聞いたこともない。では病欠か、老人だから考えられないこともない。まずは誰かに聞いてみるのがいいだろう。リィンはそう思い、すぐさま踵を返し、元来た廊下を戻った。


 リィンは、とりあえず白鷺門の同僚の騎士たちにガレウンの行方を尋ねて周った。ほとんどの者はこう言った。いつものところにいるんじゃないか? と。いつものところ、とは相談役室のことだ。リィンがいなかったというと、やはりほとんどの者は、では、わからない、と言う。一部目撃した、という者もいたが、それらは皆、出仕途中の目撃者で、やっぱり、他のほとんどと同じようにいつものところにいるだろう、じゃなけりゃわからない。と言った。結局、ガレウンがどこにいるのか知っている者は誰一人いなかった。


 ということは、多分ガレウンは白鷺門の中にはいないのだろう。と、リィンは考えた。しかし、門外だとすると、では、どこに? 全く見当がつかない。


 出仕しているなら、白鷺門で待っていればその内会えるだろう。しかし、その間リィンはジッとしていられそうになかった。リィンは今すぐに吉報を欲していた。吉報とは近衛騎士団への異動のことだ。彼女は、まるで誕生日プレゼントのために誕生日を待ちわびる子供のような心持になっていた。遅刻しそうなときは、時間が停まればいいとか思っていたのに現金なものだ。


 とにかく、リィンは白鷺門を出た。当てはなくとも探さなければならない。そう思い究めていた。ただの欲望がいつの間にか義務感にすり替わっていた。


 とりあえずリィンは城内をブラつくことにした。城内をブラつく、とは言っても、リィンのような下級騎士は自由気ままに城内をうろついてはいけない。リィンのような端役の騎士は第二の城壁を超えてはいけない。その先は高級官僚たちの職場で、機密保持、漏洩防止の観点から、無許可の通行は固く禁じられている。無論のこと、リィンは許可など持っていないから、第二、第三の壁の間でしかガレウンを捜索できない。ガレウンもリィンと同じ下級騎士ではあるが、もし、何らかの使命を帯び、許可を得て第二の壁の向こう側へと行ってしまっているなら、もはや見つけることは叶わない。しかしそれはレアケースだ。


 きっとリィンの行けるエリア内にいるはずだ。と、リィンは前向きに考えた。


 根拠の乏しい希望的観測は、往々にして上手くゆかないものだ。二時間ほっつき歩いて、リィンは何の成果も得られなかった。聞き込みできないというのも成果を得られにくい要因だった。同じ警察騎士団の同僚なら気安く声をかけられるが、ほとんど見ず知らずの、その上仕事中であろう者たちに話しかけるのは躊躇われた。自分の異動が公的なものであったり、任務の範疇ならリィンはそれを躊躇わなかっただろうが、さすがに私事も多分に混じっているため、そうはできない。


 気付けば陽が高くなっていた。気温が上がり、二時間も歩いたリィンの身体はかなりの熱を持っていた。頬が赤くなり、額から汗が流れた。リィンは汗を服の袖で拭った。小さなため息をついた。少しの疲れが、ガレウン捜索の気力を奪っていた。気落ちしたリィンは、騎士らしく胸を張ってはいたが、内心と肉体は疲れ、白鷺門へと帰る姿はどこか力なさそうに見えた。


 結局、リィンは白鷺門へと戻ってきた。自分にできることは全てやった、後は待つだけだ。やれることはやったのだ、偉いぞリィン。彼女は自分で自分を慰めつつ、白鷺門の相談役室へと向かった。ひょっとしたら入れ違いになったかもしれない。そう思ったからだ。


 リィンは二時間前と同じ場所に再び立っていた。二時間前と違っているのはリィンの身体が少しばかり疲れているのと、廊下の窓から入る陽光が明るくなったくらいだ。


 相変わらずここは静かだ。白鷺門の雑務も会議の声も、耳をすませて微かに聴こえる程度だ。


 リィンは二時間前と同じように戸をノックした。


「入れ」


 ノックの音は余韻を残さなかった。中からの返事が、余韻を打ち消した。いかにも厳格そうな老人の声。間違いない、ガレウンだ。やっぱり入れ違ってしまっていたようだ。


 リィンは自分の努力が全くの無駄であったことを知ると、中の老人に聞こえないように音もなくため息をついた。しかしすぐに気を取り直し、ドアノブに手をかけた。栄光の近衛騎士団入りへの第一歩は目の前の戸の先にあるのだ。それに比べれば、二時間ぐらいの徒労など、大した苦労ではない。


「失礼します」


 言って、リィンは戸を開け、部屋の中へと入った。こじんまりとした部屋だった。十畳あるかないかの広さだ。その窓際、木製の事務机の備え付けのこれまた木製の背もたれ付きの椅子に、ガレウンはどっしりと腰を下ろし、細い目でリィンを見つめていた。ガレウンの背後の窓はカーテンが開け放たれているから、陽光がとっぷり部屋を明るく照らし、ガレウンの顔に深い影を作っていた。


「遅かったな」


 ガレウンが言った。


 リィンはムッとなった。それはあんただろう。そう言ってやりたかったが、さすがに堪えた。


「二時間ほど前、ここを訪ねたときおられなかったので、探し歩いておりました」

「そうか……」


 ガレウンはやや顔を伏せた。そのせいで、さらに顔の影が深くなった。表情も読み取れないほどに。


 数秒間があって、ガレウンは顔を上げた。


「おぬし、まだ近衛に入団する意志はあるか?」


 ガレウンが言った。


 リィンは胸が熱くなった。いよいよこの時が来た。リィンは思った。


「はい」

「絶対だな?」

「はい」

「間違いないな?」

「はい」

「絶対に間違いないな?」

「はい」

「辞退するなら今だぞ?」

「辞退しません」

「おぬしは知らんだろうが、近衛は並大抵の厳しさではない。任務が辛くともおいそれと投げ出すわけにはいかんぞ。それをよく考えたか?」

「はい。先刻承知の上です」

「どうしても近衛にゆくのか?」

「はい」


 ガレウンは顔を伏せた。両手を組み、両肘を机についた。その体勢は何やら考えこんでいるようにも見えるが、逆光で顔は影となっているから、実際のところは何かを考えているのか、それともただ体勢を変えただけなのか、判別つかない。


「近衛に入らねばならん理由でもあるのか?」

「王のお傍近くでお仕えする。これに過ぎる名誉はありません」

「なるほど。では、考え直す気はないのだな?」

「はい」

「どうしてもか……?」


 いい加減しつこい! リィンは思った。イライラが募りはじめていた。一体どうしたことだ。今日のガレウンはどこかおかしい。竹を割ったような性格の老人にしては、同じことをネチネチと繰り返している。普段のガレウンからは想像できない言動だ。ひょっとしたら、これは近衛騎士団入団のテストの一環なのだろうか? こんな奇妙なテストがあるのだろうか? そんなこと聞いたことがない。そんなテストをする意味もわからない。テストでなければこれはガレウンの個人的な質問なのだろうか? それこそ彼の性格に合わない。では、これは何なのだろうか? さっぱり理解できない。リィンは不快感を顔に出さないように注意した。注意しなければ、すぐにでも眉間に皺が寄りそうな心境だった。


「私は近衛騎士団への入団を希望します!」


 リィンは内心の不快とイライラを強い語気に転化して言った。宣言だった。もはや、彼女はこれ以上の無駄な問答をしたくなかった。


「そうか……」


 ガレウンが小さな声で言った。まるで独り言のようにか細く消え入りそうだった。また彼は顔を伏せた。顔を伏せた時の彼は、逆光も相まって、深い影が、その老人の全身に哀愁にも似た寂しさのような、冬の夕闇のような哀しさを、その全身に纏わせていた。


 そんなガレウンを見ると、リィンは胸の内にあったイライラや不快感がスッと霧散していくように感じられた。ひょっとしたら、ガレウンは警察騎士団から巣立ってゆく自分のことを心配して、寂しくて、同じことを何度も繰り返したんじゃないか。老人特有の老婆心、不器用な愛情表現の吐露だったのではないか。リィンはそう思った。そう思うと、リィンの胸はカッと火の点いたように熱くなった。普段はそういった人の心の機微、特に情に疎い癖に、一旦それを感じると、若い時分にはありがちな、抑えかねるほどの感動に打ちひしがれる。


 ひょっとしたら、今朝の手紙はガレウンがその寂しさのあまりにしたためた物だったのではないか。本来なら栄転を喜ばなければならない立場ながら、孫娘のように昔から可愛がっていたリィンが手元を離れてゆくのに耐えかねて、苦肉の策としてあんなお粗末な手紙を同封したのではないか。だとしたら、何とも可愛らしい爺様ではないか。


 リィンは思わず、自らの胸元を左手で強く握り締めた。そうでもしなければ、涙を流してしまいそうだった。さすがに涙を見られるのは恥ずかしいので、リィンはグッと歯を食いしばって我慢した。


「よし、わかった」


 ガレウンは顔を上げて言った。大きく息を吸い、ゆっくりと息を吐いた。組んだ手を解し、机の抽斗を開けた。中から一通の封筒を取り出し、丁寧な手つきで机の上に置き、抽斗を閉めた。何の変哲もない白い封筒。しかしそれこそが、何やら重要な物であることは、ガレウンの手つきから察することができる。


「これはお主のものだ」


 ガレウンが言った。


「はい」


 リィンは途端に緊張した。強張った表情で机の置かれた封筒を見つめる。


「俺は中身を見ていない。さぁ」


 促され、リィンは封筒を手に取った。封筒は薄く軽い。きっと中身は紙一枚程度だろうか。


「今開封しても?」


 リィンが言った。すぐに中身が見たかった。いても立ってもいられなかった。緊張と興奮で封筒を持つ手が震えている。


「別にいいが……」


 言って、ガレウンは再び抽斗を開け、リィン愛用の自宅の机とは違い、整理整頓された抽斗の中からペーパーナイフを取り出した。リィン愛用のそれとは違い、何の飾り気もない、鉄でできた質素な物だった。


「お主、何か勘違いしておらんか? これはおそらく近衛騎士団加入を認める文書ではないぞ。そんな大事なことをこんな安っぽい封筒に収めたりはしないからな」


 そう言って、ガレウンはペーパーナイフをリィンに差し出した。


「はい。ありがとうございます」


 リィンは礼を言って、ペーパーナイフを受け取った。


 ガレウンにそう言われても、リィンの緊張と興奮は治まらなかった。おそらくはガレウンの言う通りだろう。と、リィンも思っている。しかし、それがガレウンの言う通りのものだとしても、それがリィンの出世への大事な文書であることには変わりない。


 リィンはガレウンの机に封筒を置き、ペーパーナイフを使って開封した。


「ありがとうございました」


 リィンは礼を言って、ガレウンにペーパーナイフを返却した。そして、先ほど開封した封筒を手に取り、中から一枚の紙を取り出した。リィンはすぐさまそれを黙読した。


 それほど長い文章ではなかったから、リィンはすぐにそれを読み終えた。読み終えると、リィンの表情は険しくなった。心中は複雑だ。それは近衛騎士団長、ザッケン・ローンゴーの捺印のある正式文書で、彼女の期待した通り、出世に関わる重大文書だった。同時に命令書でもあった。前文は近衛騎士団長によるリィンへの期待の言葉がつらつら書き並べてあり、半ばに、しかしながら類例のない若年ゆえに反対意見も多いから、入団テストを実施する旨、後文では入団テストの概要が、ここからは公式の辞令なのだろう、格式のあるかたっ苦しい言葉遣いで書かれてあった。表情が険しくなった理由はこの後文にある。


「どうした? 何と書いてあった? 言ってみろ」


 ガレウンが言った。


「は、はい……」


 リィンはガレウンに話す前に、もう一度文書を頭から尻まで黙読した。口外厳禁と書かれていないか確認したのだ。


「近衛騎士団入団のためのテストを行うと書かれてあります。それが中々……、面白そうな内容でして……」

「ほう、どのような内容だ」

「この国の北部、ガラキ峠に出る山賊を退治せよ、と書かれてあります」

「何ッ!? 山賊の退治だとッ!?」

「はい。中々にやり甲斐のあるテストです」

「強がるなッ! ガラキ峠の山賊がいかに怖ろしい奴らか、お主もわかっているだろう!?」

「はい」


 リィンは瞑目し頷いた。


 ガラキ峠の山賊というのは戦争が絶えたころ、今から数十年も前から存在する山賊の一団だ。戦争が絶え、稼ぐ手段を失った食い詰め傭兵たちが山賊に身をやつし、ガラキ山を根拠としたのが発祥と言われている。彼らについて詳しいことを知る者はいない。彼らは生きて捕まることを良しとしない。生け捕りにしようとしても自害する。きっとそのように定める掟のようなものがあるのだろう。その徹底した掟により、数十年間、彼らが草深い山中でどれだけの規模でどのように暮らしているのか、その実態は全く不明なままなのだ。彼らは元々が傭兵なだけに、その実力もあなどれない。王も何度か討伐部隊を送り込んだが、期待しただけの成果を上げることは叶わなかった。成果を上げることのできなかった理由の第一は、戦後今もって続く慢性的な人手不足だ。山狩りをするのにまともな人数を割けなかった。国の根幹である農地と町の治安維持に充てるだけで精一杯だった。とても国境の山奥に人員を割いている余裕はない。そういった理由もあって、今なお山賊をのさばらせることになっている。


 国家の長年の頭痛の種であるガラキ峠の山賊を、リィンという若い娘一人に負わせるには、あまりにも重すぎる難題ではないか。今までに何人もの騎士が山賊たちに挑み、ことごとく不首尾に終わったのだ。それを、どうして一人の女騎士が成し遂げられよう。


「して、どれだけの人数がつけられる?」


 ガレウンが苦々しい顔をして言った。まるで食べた渋柿の中に虫でもいたかのようなもの凄い顔だ。


「いえ、そのようなことは書かれておりません。きっと、一人でやれということなのでしょう」


 リィンは言った。リィンの声も重苦しい。


「なっ、なっ、かっ、かせッ!」


 ガレウンは椅子を飛ぶように立ち上がり、顔を真っ赤にさせてリィンの手にある書状をひったくった。老人とは思えない素早さだった。伊達に生涯現役を自称していない。


「む、むむむむッ……」


 はたして、リィンの言った通りのことしかそこには書かれていなかった。書状を持つガレウンの手に力がこもり、ぷるぷると震えている。顔は真っ赤。開いた口は歯ががっしりと食いしばられている。


 ガレウンは怒っていた。書状に書かれていることは、あまりにもデタラメで無謀が過ぎるからだ。これを馬鹿正直にこなそうとすれば、死あるのみだ。そもそも、こんな無謀な命令を出す意味がガレウンには飲み込めない。近衛騎士団はリィンを入れる気がないと暗に言っているように思えてならない。そんなところに、孫娘のように大事に思うリィンを送り込みたくはない。ガレウンは強く思った。


「リィン! 俺が代わりに返事をしておいてやる! あの阿呆のひよっこどもに、俺の方から説教をしてくれる!」


 言うなり、ガレウンは歩き出し、部屋を出て行こうとした。


「それには及びません、ガレウン様。私はこれをお受けいたします」


 ガレウンの背に、リィンの声が凛とした声が突き刺さった。ガレウンはハッと足を止めた。後ろを振り返り、驚愕の目でリィンを見た。


「お主、正気か?」


 ガレウンが言った。


 リィンの顔は、任務の重さに強張ってはいたものの、その目には光が宿っていた。一人前の騎士の目をしていた。


「こんな試験誰がこなせるッ!? そんな奴は誰一人としてこの世におらんわッ! そんなことができれば、お主は近衛騎士団入団どころか団長にでもなれるわ!」

「仰る通りですガレウン様。ですから私は、これを文面通りには実行しません」

「なっ、何ッ!? どういうことだ?」

「これはガレウン様の仰る通り、誰にもできない難題です。誰にもできない難題を、近衛騎士団がそのまま試験として出題するでしょうか? 私はそうは思いません。きっと、これは私を試しているのです。私がこれを読んで、どのような行動に出るか、それによって近衛騎士団にどのような利益をもたらすか、などなど、私を推し量ろうとしているのではないでしょうか?」


 言われてみれば、それもそうだ。ガレウンは思った。試験を文面通りにこなすことは絶対に不可能だ。それはガレウンのみならず、リィンにもわかっている。当然、エリート集団である近衛騎士団にもわからないはずはない。ということは、近衛騎士団はそれを承知の上でこの書状を出したということになる。とくれば、なるほどこれはリィンの言う通りかもしれない。近衛騎士団が、まさか一介の下級騎士にこのような法外な成果を要求したりはしないはずだ。ガレウンは一応納得した。まだ胸底には雨上がりの水たまりのような違和感が残っているが。


「なるほど、確かにお主の言う通りかもしれん」


 ガレウンは咳ばらいをした。年甲斐もなく、短慮に先走ってしまった。そう思った。顔は恥ずかしさに赤くなった。しかし、先ほどより怒りのため赤くなっていたから、傍目にはそれとわからなかった。


「ガレウン様、ご心配なく。決して無謀な真似はいたしませんから」

「む、そうか……」


 ガレウンはまだ自分の手にリィンへの書状を握りしめていることに気が付いた。彼はゆっくりとリィンに歩み寄り、書状を差し出した。リィンはそれを受け取り、握りしめられ皺が寄った部分を伸ばし、それから封筒に戻して一先ずズボンのポケットへと突っ込んだ。


 ガレウンはよろよろと歩いて椅子へと戻り、座った。年甲斐もない激昂で疲れたのだろう、顔が急に老け込んで見えた。


「それでは、早速行ってまいります」


 リィンが言った。


「そうか……、あ、ちょっと待て」


 ガレウンは再び抽斗を開け、今度は紙とペンと年季の入った革袋を取った。そして、紙に何やらさらさらと書き込んだ。書き終わるとペンを置き、紙と革袋をリィンへと差し出した。紙には地図が書いてあった。


「そこへ行け、きっとお主の助けになる奴が見つかるだろう。それと、こっちは餞別だ」


 リィンは紙と革袋を受け取った。革袋はずっしりと重い。リィンはそれを開けてみた。中には硬貨がたっぷりと詰まっていた。リィンは驚いて顔を上げた。


「それは上司としてやるのではない。まぁ、その、なんだ、まぁ、なんでも良い、餞別として受け取れ!」


 ガレウンの言葉は非常に不器用でぶっきらぼうだったが、リィンの心にはよく響いた。長年の付き合いである彼女には、ガレウンの言わんとするところがよくわかった。


「わかりました。ありがたくいただきます」


 リィンはそう言って、押し頂いた。


「うむ。気を付けろよ」


 ガレウンは言って、椅子を後ろに引き、角度を変えて半身で窓の方を見やった。ガレウンの顔が陽光に包まれ白んだ。


「はい。行ってまいります!」


 リィンは深くお辞儀をした。終えると、クルリと踵を返し、


「失礼しました」


 そう言って、部屋を出た。


 部屋に一人残ったガレウンは、陽光を全身に浴び、ふと微睡んだ。うとうととしながらも、胸底に残った水たまりのような違和感が拭いきれずにいつまでも残り続けた。

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