一話 王都事変 その八 差出人不明

 登城日の朝になってようやく、リィンはもう一通手紙があったことを思い出した。

 朝の弱いリィンはベッドを抜け出すにも時間がかかる。毎日がそうだから、仕事のある日は遅刻こそしないもののいつも時間ぎりぎりだ。朝の支度をいつも通りに行い、そのうえ手紙を読む時間は到底ない。かといって、手紙を読まないわけにもいかない。出世に関する大事なことが書いてあるかもしれない。


 そんなわけだから、リィンは貴族として行儀が良くないとは思いつつも、朝食を食べながら読むことにした。

 リィンは普段とは違い、自室に朝食を運ばせ、昨日手紙を読んだテーブルの上に朝食と封筒を並べた。

 よし、これなら間に合うはずだ。我ながら良い手を思いつくものだ。と、大したことでもないのに、リィンは自画自賛し、作られたばかりで湯気の立つ朝食に手を伸ばしつつ、左手に持った手紙に目を通した。


 手紙は奇妙な書き出しで始まっていた。


 『手紙の内容は誰にも話してはならない。読んだ後はすぐに燃やすこと。』


 リィンは眉を潜めた。未だかつてこんな書き出しで始まる手紙を受け取ったことがない。それが、どういった意味を持つのか、このときのリィンは分かっていなかった。


 リィンは、訝しがりつつ手紙を読み進めた。手紙の字は非常に汚かった。幼児でももう少しマシな字を書くだろう。ミミズの這ったような、虫の足跡のような、なんとも形容しがたく、特徴的で、それでいて読み辛い文字だ。

 リィンは、それを読み終えるのに非常に時間がかかった。汚過ぎて読めない字を、形状や前後の文脈から推察しながら読まなければならなかったせいだ。そのうえ、彼女は食事をとりながら何かを読むことにも慣れていなかった。ただでさえ読み辛い手紙に、慣れない読書中の食事。結果、どちらもおざなりになり、かなり余計に時間がかかってしまった。


 手紙を読み終えたとき、リィンは不快の混じった難しい顔をしていた。朝食のスープはもうかなり温くなってしまっていた。

 手紙は『警告』という体裁をとっていた。手紙にはこう書かれてあった。


 この手紙を読めば、即焼き棄ててください。

 貴女様には近衛騎士団異動の話が出ておりますが、今回はお見送りください。よくない噂があるのです。詳細は述べられません。これは決して脅迫ではありません。貴女様の御身を思ってのことなのです。素直にお聞き届けください。


 貴女の身を想う者より。

 

 読み終えればすぐに焼き棄ててください。


 何から何まで怪しい手紙だった。

 リィンは、『警告』という体裁の中に、脅しや侮辱が多分に含まれていると感じ取った。彼女は朝が弱く、まだ覚醒しきっていないから、激発するほどの怒りはないが、覚醒とともに、徐々に怒りがこみあげてきている。

 これは私に対する脅し、侮辱、嫉妬だ。リィンはそう思った。誰か私を妬む者が、私の出世を妨害しようとしているに違いない。彼女は頭ごなしにそう決めつけ、そう受け取った。


 それは少々恣意的でもあった。確かにぶしつけで無作法な手紙ではあった。今回の出世は君のためにならないから辞めておけ。というのも、リィンにすれば馬鹿にされているように思えてならない。彼女は文面を素直には受け取れなかった。差出人不明、作法もない手紙を文面通りに受け取ることの方が珍しいかもしれないが、とにかく、彼女はこの警告を無視することにした。


 この手紙の主が、本当にリィンの身を想いやって警告の書状を送りつけたとしたなら、それは大失敗だった。リィンは逆に、俄然近衛騎士団に入団する意志を固めた。元より純鉄の意志が、手紙のおかげで鋼の強靭さを持った。

 リィンは立ち上がり、手紙をくしゃくしゃに丸めた。彼女の頭はもう九割方覚醒した。怒りも心頭寸前だ。彼女は鼻息荒く自室を出、足音荒く居間に向かった。

 居間ではエリックが掃除をしていた。普段なら居間の掃除はもうリィンが出仕に屋敷を出た後に始めるのだが、今日はリィンが自室で朝食を摂っているから、都合早めに開始したのだった。


 エリックはどたどたと足音荒く入室したリィンへと振り返り、立ち上がって腰を深く折りお辞儀した。


「お嬢様、ご出仕なされますか?」


 エリックが言った。


「その前にやることがあるわ。暖炉に火を点けなさい」

「はい」


 エリックは主の機嫌が悪いのを明敏に察した。こういうときは口数を減らし、寡黙に忠実に主にお仕えするのが最善と彼は心得ていた。彼は命令されるなり、すぐに居間の暖炉の前へとゆき、屈み、暖炉のすぐ側に置いてある細い木の枝などを投じた。


「薪はいらない。紙一枚が燃えるだけでいいわ」

「はい」


 エリックはポケットから小さな瓶とマッチ箱を取り出した。瓶の蓋を開けると、暖炉の中の、燃えやすいように組まれた木の枝や諸々の上に少量垂らした。瓶の蓋を閉め、ポケットへと戻し、今度はマッチ箱を開き、マッチ棒を一本取り出し、擦った。ぽっと先端に火が灯る。それを、先ほど油を垂らしたところへと投じた。火はゆっくりと燃え広がり、枝や諸々の燃焼材を燃やした。


 そこへ、リィンがクシャクシャに丸め、握りしめていた紙を投じた。紙自体も燃えやすい材質だったのだろう、あっという間に火に包まれ灰になった。

 リィンはその様子を厳しい目で睨みつけていた。エリックはそれに気付かないふりをした。


「よし。後片付けしておいてくれ」


 言って、リィンはチラリと時計を見た。もう屋敷を出なければいけない時刻だった。手紙の処理に思いの外時間を割かれていた。リィンは苦々し気に舌を打った。


「今日の見送りは不要。後を頼むわ」


 それだけ言うと、居間に入ってきた時と同じように慌ただしくリィンは立ち去った。

 エリックはお辞儀して主を見送った。一連のことは深く考えない方がいいだろう。彼はそう思った。彼はチラリと暖炉の火を見た。火は淡く穏やかに燃えている。もうしばらくは燃え続けるだろう。彼はその場に屈みこみ、暖炉の火を見つめた。

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