一話 王都事変 その四 誘拐集団

 リィンは町の南大通りを軽やかに歩いていた。尻の痛みはひき、ハイヒールにはもう慣れたらしい。


 南大通りは平民の繁華街だ。その名称は単純明快、町の中央を通る巨大な大通り、その全体の南側に位置するからだ。町の南側、そこは平民の居住区だ。北へ行けば行くほど生活レベルも身分も上がる。町の最北には王の暮らす城がある。町全体が城郭の役割を果たしていて、町をぐるっと城壁が取り囲み、町の中でも区画ごとに幾重にも城壁が巡らされている。戦争時なら言うまでもなく、平時でも番兵が立っていて、平民が貴族の区画に侵入しないように監視している。まるで町の中にいくつも関所があるかのようだ。


 平民は貴族の生活区画へ入ることを許されないが、その逆は禁じられていない。ただ、推奨もされていない。南側の平民区画は、警察騎士団の派出所がいくつもあるが、それだけではまるで手が足りないくらい事件多発地帯だ。平民だけで構成された警察騎士団の下部組織、『自警団』があり、多くの自警団員たちが町を警らしているが、検挙率も抑止力も決して高くなく、犯罪を撲滅するには至らない。


 そんなところへ好き好んで往く貴族はほとんどいない。平民の区画にあるもののほとんどは、貴族の区画にもある。逆に平民側にはないものが、貴族側にはある。


 そういうわけだから、よほどの物好きか、仕事の都合でもない限り、そんなところへ出掛ける貴族はいない。ましてや貴族の女一人で出かけるなんてことはありえない。


 その唯一の例外がリィンだった。幼少から貴族の居住区画でも、平民の区画のかなり近くに暮らしてきた。剣の腕がそんじょそこらの大人を凌ぐようになってからはこっそりと身一つで平民の区画へと出入りしていた。彼女はどちらかというと、貴族の区画よりかは、平民の区画の方が気に入っていた。性に合っていた。雑多で猥雑。ごみごみとした通りを行き交う、多種多様な人間。着飾る者もいればボロ布を纏っているだけの者。溢れる雑音、人の話し声、笑う声、怒る声、それらが混線したラジオのようにぐちゃぐちゃになっていた。


 そこは混沌の坩堝だった。観衆や、世間体にがんじがらめの貴族たちとは違う。リィンはそう思った。往来を往く人々は自由そのものに彼女の目に映った。リィンは貴族に生まれた自分を誇りに思っていたが、平民に対する憧れもあった。自分もあれだけありのままでいられたら、彼女は初めて平民の区画に入った時から、常にその思いが胸にあった。それは今も変わらない。


 リィンは今、慣れない恰好で、彼女の憧れる自由の人々の間を流れていた。


 帽子を目深に被り、日傘で視線を避けていても、周囲の注目の視線が自分へと注がれているのをリィンは感じた。騎士として、腰に剣を差して平民の区画を歩いていた時には感じなかった視線だ。もちろん、女騎士というのも珍しい存在だから、今までにも奇異の視線を受けてはいたのだが、今日のそれはまたいつもとは違う、彼女はそう思った。


 当然だ。貴婦人がたった一人で似つかわしくないところを悠々と歩いているのだから。注目を浴びないはずがない。平民にとっても貴婦人を間近で見る千載一遇の機会だから、ここぞとばかりにジロジロ見つめる。


 初めの内は不快に思っていたリィンだったが、それも一時間もしないうちに慣れてしまった。元より目立つことは嫌いではない。ただ、慣れない貴婦人姿を見られるのが少しばかり恥ずかしかっただけだ。


 リィンは大通りを人の流れに乗ってただひたすらに歩いた。一週間ぶりの外出だから、ただ歩いているだけでも爽快だ。一歩進むたびに、鬱屈した気分が晴れてゆく。


 リィンは二時間ばかりも大通りを歩いた。流石に疲れはじめていた。慣れたとはいえ、さすがにハイヒールで二時間も歩き続けるのは辛い。


 幸い、リィンはこの辺りに詳しかった。南大通り沿いは彼女の庭のようなものだった。どこに休めるポイントがあるかも知っている。


 人混みの中、ハイヒールのゆったりとした歩みとはいえ、二時間も歩けば貴族の区画からは遠く離れる。あの麺処『ケイアン』をさらに過ぎ、平民の区画の中でも貧民層の集まる、いわゆる貧民街にかなり近づいていた。まだぎりぎり貧民街ではないにせよ、そこに近づくにつれ、犯罪発生率は上昇する。


 もちろん、そんなことは重々承知のリィンだ。だが、彼女はそんなことは大した問題とは考えなかった。犯罪の多く起こる時間帯は夜だし、今はまだ日中。さすがに日中から誘拐もないだろう。もし事件に巻き込まれたとしても、自分は人呼んで『神速剣』のリィンだ。切り抜けられないはずがない。と自信満々だ。


 リィンは南大通りを外れ、細い脇道へと入った。ちょっと脇道へ入っただけで、そこは平民の生活の匂いが充満していた。アパート群も平屋もいかにもボロく。着古した着物が軒先に干され、脇道をはしる風にぱたぱたとなびいていた。


 そういうところもリィンは好きだった。一般的な貴族たちなら鼻をつまみ、目を背け、口を閉じ、身を震わせて走り去るような場所も、彼女には安らぎすら感じられる。


 リィンは足の痛み、主に爪先の痛みを我慢し、脇道を歩いた。曲がりくねり、入り組んだ脇道ではあるが、ほとんど真っ直ぐに行くだけで、小さな公園へと出ることができる。十数メートル四方の小さな公園で、遊具の類もないが、芝生があり、人が腰を落ち着けるくらいはできる。そこを目指し、リィンは行く。


 リィンの行く脇道沿いにあるアパートの一室、視線が一つ、リィンへと向けられた。三階の窓、隠れ窺いながら好奇の視線を注ぐ。好奇の視線は、すぐに悪意に満たされた。悪意の目が笑った。直後、カーテンがサッと閉められた。


 視線はアパートの窓から、リィンの後方、建物の陰へと移った。悪意に満ちた目は数を増していた。幾つかの目が、彼女を油断なく見張っている。


 リィンは全くそのことに気付かない。普段被らない帽子を被っているその上に日傘まで差している。さらには、この謎の追跡者たちは巧妙にその気配を隠ぺいしている。リィンが気付かないのも仕方がない。


 十分ほど歩いただろうか、リィンはようやく目的の公園へと辿り着いた。


 それほど広くはない空間に緑の芝生が隙間なく敷き詰められていた。大きな木が三本、隅に並んで立ち、小さな日陰を作っている。


 公園には先客がいた。六人の少年少女たちがボールを蹴って遊んでいる。三対三のチーム戦。いずれのチームの背後には、二メートル近くもある長い棒が二本、間隔をあけて芝生に突き立てられていた。少女がボールを蹴り上げ、突き立てられた二本の棒の間をボールが通り抜けた。少女が両手を上げて喜んだ。少女のチームメイトは少女の健闘を讃えた。相手チームは芝生に寝転び嘆息を上げた。


 リィンは少年少女たちの微笑ましい光景を眺めつつ、木のつくる日陰へと移った。そこで、帽子を脱ぎ、痛みの原因であるハイヒールを脱ぎ、その二つを揃えて芝生の上に置くと、日傘は畳まずにそのまま芝生に置き、隠すように日傘の中に頭を潜り込ませ、帽子とハイヒールの隣にごろんと横になった。両手両足を広げて大の字だ。寝転がるのはともかく、足を広げるのは貴族の娘としては少々いただけない。だが、リィンは一向に気にしない。どうせ口うるさい連中は誰も見ていないのだから。


 木陰の芝の冷たさを背に感じつつ、リィンは目を閉じた。歩きつめて火照った体に芝の清涼感は心地良い。緑の湿っぽい香りも心を落ち着かせてくれる。


 リィンはしばらくそのままでいた。傍目に眠っているように見えるが、眠ってはいない。さすがに野外で一人で眠るような不用心な真似はしない。しかしリラックスはしていた。全体重を芝生に預け、目を閉じ、耳でボール蹴りに興じる少年少女たちの歓声と風のそよぎ、木々のざわめきを感じつつ、身の疲れと足の痛みを癒していた。


 その間にも、悪意を孕んだ視線はリィンを監視していた。その数はさらに増していた。今では四方からリィンを見つめている。リィンが公園のどの出口から出てもいいように、全ての出口に監視者がいる。


 日陰に横になって一時間くらい経ったころ、リィンは瞑っていた目をゆっくりと開けた。頭を覆う日傘をどけつつ、上体を起こした。そして、さも眠っていたようにわざとらしい大あくびをしつつ、ゆっくりと首を回した。回しつつ、油断なく周囲を窺った。


 リィンは気付いた。尋常ならざる視線が、自分の身に容赦なく張り付いていることに。正確な数はわからない。しかし少なくはない。十人近く、ひょっとすればそれ以上かも。リィンはにわかに緊張した。容赦のない視線が、好意的な人間のものであるはずがない。悪意のある人間。つまりは敵だ。


 リィンの脳は敵が何者であるかを推測しようとした。しかし、彼女はすぐに小さく頭を振り、それを打ち切った。敵が何者であるかはどうでもいい。敵が何者であっても、敵は敵だ。敵と対峙した場合、騎士としてリィンの取るべき行動はただ一つ、倒して押し通るのみ。


 リィンは自然体を演じつつ、ハイヒールを履いた。いつでも脱げるようにかなり緩めに。まだ痛みは完全に取れていなかったが、謎の敵に監視されて休んでいるわけにもいかない。


 日傘を手に取り、今度は顔を隠すことよりも視界を優先させて日傘を差し、足の痛みに耐えつつ、リィンは来た道を戻り、公園を出た。


 視線は絶えず流動的だった。リィンが一歩踏み出すたびに、監視者たちは位置を変えた。それはリィンにもわかった。監視者たちは隠密性を失いつつあった。いや、もはや必要としなくなった、というのが正確だろう。彼らは『監視』から、『包囲』へとシフトしつつあった。


 リィンは公園を出て、細い路地へと入った。三階から四階建てのアパートに挟まれた暗い路地だ。路の隅で白猫が、この辺りの住人が与えたのか、焼き魚をしゃぶっていた。白猫はリィンに気付くと焼き魚を咥え、さっと路を小走りし、先の十字路を曲がり、リィンの視界から消えた。


 狭い路地の半ば程に達したとき、リィンは背後に人の気配があるのを感じた。振り向くまでもなかった。彼らはもはや気配を隠す気などなかった。一人二人ではない幾つもの足音が背後で起こり、ゆっくりと近づいてくる。リィンは足を止めた。先ほど猫が去った十字路から数人姿を現した。


 男だ。六人いる。どれも平民階級にしては身なりがいい。だが、貴族階級にしては服装にも顔にも品がない。下卑た薄ら笑いを浮かべている。おおよそ品という言葉とは縁がなさそうだ。ただ腕っぷしは強そうだった。全員肩幅が広く、筋肉質。日に焼けた二の腕など岩のようだ。


 そこそこ金を持っている。だが、豪商でもないだろう。恐らくはその腕っぷしを使った公にはできない類の商売人たちだろう。と、リィンは判断した。


 前の男たちも後ろの連中も足を止めた。リィンとの距離は二メートルくらいだろうか。


 まさかこの男たちは日中から堂々と犯罪を犯そうというのか。リィンは内心驚いた。


 アパートの建ち並ぶ細長い路地、太陽の光さえ満足に届かず、人通りの少ないこの路は不法行為を働くのに絶好の場だ。良識あるアパートの住人がいて、この状況を目撃していたならばすぐに通報してくれたかもしれない。しかし、それは望めないだろう。犯罪がある一定の地域で起こる理由は、そこが犯罪者にとって最も都合が良い地域だからだ。こと重犯罪者はどこで犯罪を犯すのが最も都合が良いかを徹底的に調べているものだ。


 一時間以上も前からリィンを監視し、今ようやく行動を起こしたことから察するに、今この場所は彼らのようなごろつきにとってベストプレイスなのだろう。


 しかし、リィンはこの危険な状況下で内心気分が高揚していた。彼女は恐れていない。騎士はただのごろつき相手に恐れない。恐れないどころか、彼女はこの危難を逆に、未だ知らぬ犯罪組織撲滅の絶好の機会と考えた。敵は、見張り、包囲と統制が取れている。きっと相応の犯罪組織だろう、その犯罪履歴も凶悪な者に違いない。それだけの犯罪組織を一網打尽にすることができたなら、どんな名誉だろう。彼女はそれを思うと、胸が熱くなった。蟄居の身で、それを破っていることなど、彼女の頭にはない。敵を倒し成果をあげればいい、単純にリィンはそう思いこんでいる。それこそが出世の早道と思い究めている。


「お嬢ちゃん、あんたは俺の仲間が囲んでいる。痛い目を見たくないなら大人しくした方がいい」


 リィンの前に立つ男の一人が言った。嘲るような調子があった。


 リィンはそれを敏感に感じ取った。逆に嗤ってやりたい気持ちになった。気持ちが、思わず微笑となって面に表れた。


「あら、どういう意味かしら?」

「言葉通りだお嬢さん。俺はあんたのためを思って言っているんだ。黙って大人しく俺たちについてくるのが、あんたのためなんだ」

「これはどうも御親切に。で、いずこへお連れ下さるのかしら?」

「楽しいところだよ」


 男は黄ばんだ歯を剥いて笑った。下卑た笑いだ。


「楽しいところへ行かずとも、楽しいことならここでできます」


 リィンの言葉に、男たちは皆が皆、満面の笑みになった。思わず吹き出しそうなのを堪えている者もいた。しかし誰一人も声は出さなかった。彼らはその道のプロとして、あくまでも目立つことはしない。


「お嬢さんは俺たちを勘違いしている。俺たちは商品には傷をつけない主義でね。そのおかげで顧客にもウケがいい」

「いえ、勘違いしているのはあなたたちの方です」


 リィンの声が突然、凛とした強い響きを持った。それは彼らを威圧した。男たちは一斉に笑顔を引っ込めた。驚き、訝しがり、リィンを見つめる。


「私は騎士です」


 その言葉に、男たちは瞠目した。


「警察騎士団員として至上の楽しみは、お前たちのような無頼漢を一人残らずまとめてしょっ引くことだ。それならここでやるのが一番早い。それが嫌なら自首するか、もしくは無謀にも私に一戦挑み、その愚かさを肉体の痛みをもって知ってから縄につくかだ。お勧めは自首だ。後者はかなり痛いぞ。なにせ私は未熟で手加減というものを知らんからな」


 フッと、リィンは笑った。男たちには、日傘と帽子に隠れ、その口角がわずかに上がったところしか見えなかった。それで十分だった。十分過ぎた。腕っぷしの強そうな男たちは、程度の差はあれど、皆一様に怒りを胸に抱いた。貴族のお嬢様が自分たちを見下すように嘲った。彼らにとって怒るに十分な理由だった。


「しゃらくせぇぇぃぃーッ!」


 リィンの真後ろの男が、一番過剰に反応した。背後から、諸手を上げてリィンへと迫った。顔面が憤怒に染まり、掴みかからんと持ち上がった諸手も筋肉が盛り上がっている。


 瞬間、リィンは日傘を綺麗さっぱり畳んだ。顔をわずかに傾け、目の端で背後に迫る男を見た。男の手が今にもリィンに掴みかかろうとしていた。リィンは日傘を逆手に持ち、鋭く引いた。


 鈍い音が狭い路地を駆けた。


 リィンの背後の男の諸手は、すんでのところでリィンには届かなかった。代わりに、彼の腹部、腹筋のど真ん中にはリィンの日傘の先が深々とめり込んでいた。


 男は一瞬ピクリと身体を痙攣させた。苦悶の表情を浮かべた。直後に顔の筋肉は弛緩し、目は裏返り白目を剥いた。筋肉質の肉体が力なく膝を折り、地に崩れ落ちた。これが真剣なら即死だっただろう、だが、彼にとっては幸いにもただの日傘だ。


「大人しくした方がいい理由、わかったかしら?」


 リィンは帽子の鍔を指で押し上げ、目の前の男の目を見て言った。


 リィンの目の前の男を除いて、皆反射的に隠し持っていた短刀を抜いた。抜いただけだった。事を起こす確実な一歩誰も踏み出せないでいた。ごろつきに共通する仲間思いを持ち合わせる彼らだが、その彼らが目の前で仲間がやられるのを見たというのに、反撃の一歩を踏み出せない。ただ単純に仲間がやられたわけではないからだ。いや、あまりにも単純過ぎた、呆気なさ過ぎたといえるかもしれない。一瞬のうちにリィンに敗れたあの男も、仲間内では決して弱いわけではなかった。それなのに、決着は目にも留まらぬ速さで着いた。背後という絶対的有利な状況、かつ先制攻撃だったにもかかわらず。その上彼らは、リィンの鋭い日傘の一撃、その決定的瞬間、目の前で起こった出来事であるにもかかわらず、肉眼で捉えることができなかった。リィンの突きは見えなかった。だが、その実力差はまざまざと見せつけられた。これでは、敵討ちを躊躇うのも無理はない。


 リィンの目の前にいる男、彼だけは他の仲間に比べていくらかは落ち着いていた。恐らく、彼がリーダー格なのだろう。驚きが全くなかったわけではない。彼の目にもリィンの『神速剣』は捉えることができなかった。しかし、実力差を見せつけられても、彼は自分たちの状況の有利を信じて疑わなかった。一人脱落しても十一対一。見たところ相手に刀剣の類はなし。これなら倒されても死ぬことはない。


「手前ェらぁッ! 何ビビってやがるッ! 女一人に傘一本、高々そんなモンにビビってどうする!? 男として恥ずかしくねぇのかッ!!」


 リーダー格の男は狭い路地に響き渡るような大音声で一喝した。言いつつ、懐から短刀を抜きはらった。目立つような行いは慎まなければならないはずだが、この際そうは言っていられない。目の前にいる女騎士はどうあっても捕まえる、最低でも殺さなければならない。取り逃がすようなことは絶対にあってはならない。取り逃がし、手配書が回ればこの町どころか国から出て行かなければならない。自分のためにも仲間のためにも、女をどうにかしなければならない。そのためにもまず第一に、ビビっている仲間を奮い立たさなければならなかった。


 多少の効果があったのだろう、男たちはリーダーの言葉に少なからず落ち着きを取り戻したらしい。いくらかましな顔つきになった。短刀の切っ先は据わり、油断なくリィンへと向けられている。彼らはジリジリとすり足でリィンとの距離を縮めてゆく。


 リィンは彼らがやる気になっているのを感じ取り、安心した。彼女はまだ全然暴れたりなかった。一週間にわたる謹慎生活による溜まりに溜まった鬱屈は数時間の外出程度では解消できない。まだまだ剣を、傘を振るう理由がなくなっては困る。


「そうこなくっちゃ……」


 リィンは小さく呟いた。暴れられる嬉しさのあまりに思わず声が漏れていた。

 次の瞬間、リィンの『神速剣』が疾った。


 それは先ほど背後の敵を破った一撃よりもさらに高速の一撃だった。が、男たちにとっては目にも留まらないという意味では一緒だった。


 最初にそれを関知する者は、まず痛みで以てそれを知る。


 リーダー格の男は喉でそれを感知した。喉を襲う激しい痛み。意識が薄れかかる、その時初めて彼は喉に傘が突き立てられたことを知る。彼は薄れゆく意識を取り戻すことができなかった。もはや手足が自分のものでないかのように反応しなかった。彼はそのまま気を失った。


 ほとんど同時とした思えないほどのわずかな時間差で、リーダー格の男の両脇にいた二人の男たちもぐらりと体勢を崩した。二人とも、リーダー格の男と合わせて三人が並んで白目を剥き、力なく崩れる。


 その崩れ落ちようとしている瞬間、彼らの合間を縫うようにリィンは素早く駆け抜けた。この時、ようやく男たちは仲間の三人が一瞬にして倒されたことに気が付いた。


 逃がすまじ! と五人が追い、三人が振り返った。振り返った三人のうちの一人、真ん中の男は、鈍い音と共に、身体をピクリと一瞬痙攣させ、地に崩れ落ちた。


 包囲を抜けたリィンは、いつの間にか振り返り、その振り返りざまに一人を倒した。


 男たちは足を止めた。一瞬のうちにさらに四人が倒された。絶対的有利なはずの包囲も破られた。その事実が、彼らの足を止めさせた。唯一、数的有利だけはなんとか維持していた、が、もはや彼らの頭の中にはそれが何の意味も持たないことがわかりはじめていた。


 男たちは硬直していた。全員、どんな行動をとればいいのかわからなくなっていた。目の前の女に仕掛けるのも躊躇われる、かといって、投降したり、逃げだしたりするのも考え物だ。投降すれば言うまでもなく、これまでの罪科が明るみに出、相応の処罰を受けることになるだろう。逃げだせば手配書が回り、厳しい逃亡生活。それでも逃げ続けられれば御の字、捕まれば投降した場合以上に厳しい罰が待っているだろう。


 進も退くも待受けるは地獄か。しかし男たちにとってそれは因果応報、自業自得。彼らはそれだけのことをやってきていた。罪を重ねればいつかは報いがくだる。

 さすがのリィンにも疲れが見えていた。少しばかり息が上がり、額から汗が一筋流れ落ちた。動いていた時間はわずかだったが、彼女自慢の『神速剣』は彼女の肉体に激しい負担を強いる。体力だけではない。その『魔力』をも著しく消費する。

 『魔力』、それは人間なら誰もが持つ不可視の力。その程度は個人差があり、この世に生まれ落ちたその瞬間に決する。つまりその性質や総量は天賦の才によるものだ。『魔力』を自在に行使するには類稀なる天賦の才の持ち主でなくてはならず、『神速剣』はその中でも殊更に希少価値がある。

 『魔力』についての説明は、今のところはこのくらいにしておこう。また必要の都度に応じて、詳細は描かれるだろう。


 『神速剣』の連続使用は肉体に強い負荷を生じさせる。ゆえに、短時間での多用は厳禁。一対一での戦いにはめっぽう強いが、集団戦となると遣いどころを上手く見極めなければならない。


 幸いにも、男たちはリィンに休む時間を与えてくれている。数秒ジッとしていられれば、『神速剣』一撃分の『魔力』は回復できる。


 十秒近く、リィンと男たちは対峙していた。リィンの方は気息も整い、気合もみなぎっている。だが、男たちの方は、一秒、また一秒と時が経つにつれ、焼けた鉄が冷えるように、その闘志を萎えさせてゆく。


 男たちの降参は秒読みだった。


 リィンはそれを彼らの暗い表情、得物の柔弱な構えから感じ取った。覇気がない。戦いの場においては、ピアノ線のように張りつめていなければならない空気感がもはや午睡のように和らいでいる。


「もう、終わりなの? 見た目によらず案外呆気ないのね」


 フッ、とリィンは鼻で笑った。見え透いた挑発だった。しかし挑発でもしなければ、彼らはすぐにでも得物を捨て跪いて降参を乞うてくるだろう。そうなってはリィンとしては物足りない。一週間の謹慎での鬱屈は、五人のごろつきどもをノしただけでは晴らせない。


 男たちは若い女に鼻で笑われ、十分とは言えないまでも気力を取り戻した。特にリィンに近い二人が、端正な顔に嘲りが浮かぶのをまざまざと見せつけられ、目を見開き鼻息を荒くした。怒りは十分。後はそれが圧倒的実力差という恐怖に負けず、闘争心と転化させられるかどうかだった。


「うわああああぁぁぁッッ!!!」


 その内の一人が、悲鳴にも似た咆哮を上げ、リィンへと突撃した。顔にも目にも、恐怖と怒りのない交ぜになった、錯乱ともいえるべき色を表していた。

 勝負は一瞬で決した。やはり誰の目にもリィンの『神速剣』は留まらなかった。しかし結果だけははっきりと表れている。

 骨身を揺るがす打撃音が一瞬起こり、続いて男がバタリと仰向けに地に転がる。


 これで六人。


 一瞬でまた一人倒したリィンは、すかさず日傘を構え、残った六人の攻撃に備えた。その立ち姿には一分の隙もない。

 リィンの一番近くにいた男が得物をポロリと取り落した。もはや彼には気力どころか、その肉体に力すら入らないようだった。彼はガックリと膝を地に落とし、背を丸め項垂れた。もはや降参の意志を問うまでもない。そのジェスチャーこそが、敗北そのものだった。


 戦いの趨勢は決した。

 他の五人もそれに倣うようにして得物を捨て跪いた。


「ふぅ……」


 リィンは大きく息を吐いた。そして吸った。まだ少々運動不足気味ではあったが、まぁ、これで良しとしよう。と、自分を納得させた。肉体の充足感はまだ五分といったところだが、精神的には大きな満足感があった。ごろつきどもを一度に十二人も逮捕できたのもそうだが、何よりも、ガレウンの言いつけ通りに、誰一人殺さずに済んだのが大きかった。それは未知の爽快感だった。たとえ悪人でも殺さずに逮捕できるなんて、なんて清々しいんだ。彼女は心からそう思った。あまりの気分の良さに、謹慎の身でありながら、外出しているということも、この時彼女は完全に忘れてしまっている。

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