一話 王都事変 その三 従者エリック
リィンが蟄居してから一週間が経った。
始めは大人しく自室にて書物を読み漁ったり、使用人に任せっきりだった自室の清掃配置換えなど普段はしないことをして無聊を慰めていたのだが、まだ幼さの残る若い身、真昼間からジッとなどしていられない。すぐに居ても立ってもいられなくなった。
そう思うと、リィンはすぐに洋服箪笥を漁り身支度を整えた。着飾ることをことを嫌い、動きやすさを優先するためにピッチリとしたズボンを好むリィンだが、この時は年相応、どこにでもいる貴族の婦人といったいでたちをした。
リィンなりの変装だった。流石に謹慎中だというのに、堂々と表を歩く気はないらしい。その辺りの分別はついている。
朱色の上下一体の腰からふっくらと広がる大きなスカートの両端を両手で摘み上げ、パタパタと自邸の廊下を駆けた。家中の誰かに見られるとまずい。彼女はそう思い、急いだ。
普段滅多にしない恰好を家中の人間に見られれば、何事かと尋ねられるだろう。無視をするのも嘘をつくのも気兼ねする気質のリィンだから、極力見つからずに家を抜け出したい。ひょっとすると察しの良い人間なら、外出のための変装だと察するかもしれない。
幸いにも、玄関まではなんの障害もなかった。リィンは、それこそ普段は履かないような新品同様のハイヒールを履くと玄関を飛び出した。慣れないハイヒールに悪戦苦闘しつつ門を目指して走った。蟄居の身であるから閉門してある。そこを抜ければ晴れて自由の身だ。
玄関を出ると暖かな日差しがあまねく地上に降り注いでいた。一週間蟄居していたリィンには眩しすぎるくらいだった。目を細めた。陽はリィンの心に浸透し、塊となった憤懣を溶かすようだった。美しい陽は人を陽気にさせる。彼女は、慣れないハイヒールで不恰好ながら、意気揚々と走り出した。
リィンは門に到達した。あと少しだ。そう思うと自然に笑みがこぼれる。門に手をかけ、ゆっくりと押した。ギィ、とわずかに軋むような音を立て、門がゆっくりと開かれようとした。
ピタリと、門が止まった。まだ半分も開いていない。人一人が抜けれるか抜けられないかの隙間が空いたに過ぎない。
何故門が開かないのか、リィンにはわからない。もう一度力を入れてみる。それでも門はピクリとも動かない。門が開かない原因はわからないが、取りあえず人一人分抜け出るだけのスペースはあるから良しとしよう。そう思って、リィンは身をよじってその隙間へと上半身を突っ込んだ。胸と尻がひっかかった。一度身を引き、胸を手で押さえ、身をずるずるとよじらせるとなんとか上半身は外へ出ることに成功した。さぁ、後は尻だ、そう思って今度は尻を隙間へと滑り込ませた。
その時だった。
「何をしているのです?」
若い男の声がした。
リィンはハッとなった。それは明らかに自分にかけられている言葉だったからだ。そして、彼女はその声に聞き覚えがあった。
リィンのすぐ目の前には背の高い若い男が立っていた。鼻筋が通り、目も顎も細かった。顔だけ見れば優男然としているが、その体躯はガッシリとしていて、身長も百九十センチはありそうだ。背に風呂敷を背負っている。
その男がニコニコ顔でリィンを見つめている。
「……エリック、あなたの方こそ何をしているの?」
言って、リィンは俯いた。
エリックとは彼女の婢僕だ。彼の親の代からリィンの家に仕え、彼ら親子はリィンの屋敷の離れに一家を設けている。親子ともども何かにつけて気の付く優秀な婢僕なのだが、気が付くということは主人をよく理解しているということ。彼は主人の行動を先読みしていた。
リィンの俯いた視線の先には彼の丸太の様な太い脚があり、それが門を文字通り『足止め』していた。リィンはため息をついた。さすがに彼女も察した。先回りされていたことに気付いた。
「門前のお掃除をしておりました」
エリックはニコニコ顔を崩さずに言った。よく見れば、彼の丸太の様な太い脚の先には箒と塵取りが転がっている。が、見たところゴミはなさそうだ。
「で、本当のところは?」
「お嬢様が無謀にも外出なぞしないように見張っておりました」
エリックはしれっと言った。
「無謀ではないわ。ちゃんと変装しているし」
エリックは細い目をさらに細くし、目だけを動かして、リィンの恰好を眺めた。
リィンはいつもとは違う自分の恰好を見つめられ、必要以上にエリックの視線を敏感に感じ取った。リィンは何だか急激に気恥ずかしくなった。
「ぶ、無礼者! そのような目で主人を見る奴が……」
「お声が高いです。そのように目立つ行動をされては折角の外出の機会がフイになります」
「えっ……」
予想だにしないエリックの言葉に、リィンはきょとんとなった。
「といってもそのままのお姿で外出するのも無謀。ですからこれを」
エリックはそう言って、背の風呂敷をおろし、しゅるしゅると解いた。中には鍔広の帽子と日傘。それら二つをリィンに差し出した。
「これならば『ムボウ』ではありません。しかしくれぐれもお気を付けを、決して顔を人に見られてはなりません。人に見られれば噂が立ちます」
リィンは恐る恐る帽子を被った。目深目に被ると視界は極端に悪い。しかし、それは同時に他人から自分の顔を隠してくれる。
「うん、中々良いわ」
「それはようございました」
「では、出掛ける。門を開けて」
「いえ、今しばらくお待ちを、人目がありますゆえ」
「うっ、そうか……、ではちょっとだけ門を開けてくれないか?」
エリックは答えない。門を開ける素振りもない。彼の足は門を『足止め』したまま、顔は門前を行く人々を見つめている。
この間も、リィンの尻は門に挟まれたままだ。尻がそろそろ痛みを覚え始めていた。ジンジンとした痛みが臀部の辺りを伝播してゆく。
「少しだけ門を開けてくれないか……?」
「今しばらくお待ちを」
そう言われては、これ以上門を開けることを強いるわけにはいかない。いい歳の貴族の女性が、若い男相手に尻が痛いから門を開けろとは言いだしにくい。その上、彼女は騎士だ。騎士が尻の痛みに耐えかねたと思われるのもしゃくな話だ。
リィンはひたすら尻の痛みを我慢した。たったの数分間だったが、彼女にとっては何十分にも感じるようなむず痒い時間だった。
「ようございます」
ようやくエリックは門を開けた。
リィンは突然の尻の解放と慣れないハイヒールによろめきつつ門外へ躍り出た。門外へ出るとすぐさま日傘を差した。左手で日傘を持ちつつ、右手はエリックに見えないように自らの丸い尻をいたわるようにさすった。
「ささ、早くおたち下さい。ここを見られても噂が立ちかねません」
「む、そうね……。では留守を頼むわ」
「お任せ下さい」
まだまだ尻をさすり足りなかったが、そう言われては一秒でも早くこの場を去らなければならない。まだジンジンとした痛みは去っていない。その上慣れないハイヒール、一歩、また一歩と踏み出すたびに、尻にむず痒いような痛みが走る。おかげでかなり奇妙な歩き方になる。
エリックは奇妙な歩き方をする主人の背を見送っていた。歩き方が奇妙なのはハイヒールのせいだと彼は思っていた。自分の丸太の様な太い脚が主人の尻を圧迫していたせい、などとは夢にも思わない。
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