6-6
山頂公園を出たのは夕方少し前のことだった。
あたしは狭い山道をとんとんとテンポよく下りながら、次はどこに行こうかと考える。母が家に戻るまで、少なく見積もってもあと三十分はある。今はまだ家に帰りたくなかった。
やがて、T字路にさしかかったあたしは、来た道と逆方向に曲がった先に小さな神社が建っているのを思い出した。公園にいたとき以上の懐かしさがこみあげてきて、あたしは思わず笑ってしまう。
中学生の一時期、ちょっとした反抗期の渦中にあったあたしは、しばしば母と衝突し、感情にまかせて家出をしたものだ。もっとも、あたしの家出は長くても半日程度で終わるのが常で、駆け込む先は決まってこの道の先にある神社だった。
あーくそ、恥ずかしい。家出をするならするでもう少し遠くまで行く根性はなかったのか。中学生の自分よ。
心の中で自分に毒づいているうちに階段を下りきり、あたしは神社の境内に出た。玉砂利の質感を靴越しに感じながら、あたしは拝殿へと近づいた。ちょっといかめしい狛犬さんたちの奥に建つ古めかしい三角屋根。祭祀の時にしか開かれない漆黒の両開き戸は昔のままで、賽銭箱だけが妙に真新しいものに代わっていた。
どうにも今日は思い出の場所めぐりになってるな。あたしは前髪を掻き上げながら、拝殿の脇を通り抜けて、裏手へと向かった。中学生時代のあたしは、拝殿の裏にある大きな桐の木のうろを隠れ家に決めていたのだ。そうして、あたしがいつまでもそこに留まっていると、決まって迎えにきてくれるのは――。
ざりっと派手な音を発てて、あたしは立ち止まった。問題の桐の木の前に人が立っている。誰だろうと目を細めて、あたしは再び驚くことになった。
「初芝先輩……何やってるんですか、こんなところで?」
「川原……さん?」
木陰に立つ美人の表情はあたしのいる位置からでは不明瞭だったが、あたし以上に驚き、戸惑っていることは確かなようだった。
「明星学園との練習試合を明日に控えていてね。泉田君が亡くなってから初めての練習試合だから、お賽銭ぐらいははずんでもいいかなって」
「ここ、安産祈願の神社ですよ?」
あたしの言葉に、初芝先輩ははっと息をのみ、次いでそれを隠すように手を口に当てた。
「専門外の願い事を聞き届けてくれないほど狭量なのかしら。神様って」
何とも澄ました言いぐさだったが、目線が宙を泳いでいる。
再び口を開くタイミングをうかがうあたしと、いつになく落ち着かない様子で話を打ち切るタイミングをうかがう先輩の、奇妙なにらみ合いが続いた。
「それじゃ」
「前から聞きたかったんですけど」
初芝先輩が言いかけた別れの言葉を叩きつぶすように、あたしは言った。
「先輩は、泉田君の死因についてどんな考えを持っているんですか?」
「どういうこと?」
「あれは事故だったのか、自殺だったのか――それとも誰かが彼を殺したのか」
あえてジャンピング・ジャックのことは匂わせることはせずに、あたしは先輩の反応をうかがった。
「泉田君は部屋の窓から転落して亡くなったんでしょう? 普通に考えたら、事故か自殺だと思うけど……でも、遺書があったって話は聞いてないわね」
「ええ。それに泉田君は事件当時ジャージ姿でした。覚悟の自殺というならもう少しましな格好にするでしょう」
「なるほど。それじゃあ結論は事故ってことになるわね」
「いいえ。事件当時、泉田君の部屋に誰かがいた可能性があるんですよ」
「そうなの?」
警戒レベルが一段跳ね上がった声で尋ねてくる。
「少なくとも敷島は、そうだと確信しています」
「あら」
途端に声の調子が普段に戻る。安堵しているのが丸わかりだ。
「そういうのを可能性とは言わないわ。敷島君が泉田君の死を誰かのせいにしたがってるというのは伝わってくるけど」
「初芝先輩は他殺の可能性を一切考慮していないんですか?」
「そういう言い方はないんじゃない? 私は普通に考えてるだけよ」
「普通の考え、ですか」
あたしはできるだけ馬鹿っぽく聞こえるように言った。高慢な人だ。あたしのことを知恵の足りない女だと思ってもらった方が、話もしやすかろう。
「敷島君は個人的な理由で泉田君と付き合ってた女の子を犯人に仕立て上げたいだけなのよ。ま、もし本当に犯人が実在するなら、朝早い時間に泉田君と一緒にいられるくらいなんだから、彼の考えもあながち間違ってはいないのかも知れないけれど」
そこまで言ってから、先輩はわざとらしく首を横に振った。
「ううん、ダメだわ。やっぱりありえない」
「どうしてですか?」
「……泉田君の交際相手が犯人だったとして、彼女はどうやって泉田君を窓から突き落としたのかしら。力では勝てないはずよね?」
「ええ、まぁ」
「おそらく犯行は、泉田君が眠っている間に行われたんでしょう。何しろ泉田君の寝起きの悪さと言ったら、サッカー部でも語りぐさになるほどひどかったみたいだから。敷島君も同じようなことを考えたんじゃないかしら?」
「どうでしょうね」
あたしが曖昧に応じると、先輩はにっこりと邪悪な笑みを浮かべた。
「ところで川原さん、健全な高校生男子が、交際相手の女の子が自分の部屋に泊まりに来ているのに指一本触れないなんてことあると思う?」
「敷島ならありうるんじゃないですか?」
いまいち発言の意図がわからず、あたしが答えをぼかすと、邪悪は「彼は不健全だもの」と言い切った。
「泉田君とその交際相手がお盛んだったとしたらどうだって言うんです?」
あたしは不快感を押さえつけて、話の続きを促した。
「わからない? 二人が指一本どころでなく触れあったのだとしたら、泉田君は就寝前にわざわざジャージを着直したってことになるじゃない。そんなことってありうるのかしら」
思わずジャージを着直さなかった想定で状況を想像してしまい、あたしは頬を朱に染めてしまう。くそ、いきなり何を言い出すんだ。
「あなたも敷島君もお子様のくせに、難しく考え過ぎなのよ。泉田君は寝間着姿で窓から転落した。だったら寝ぼけた状態での事故って考えるのが普通でしょ? そりゃあ色々と理屈をこねくり回せば、他殺だとか交際相手の仕業だとか言えるのかも知れないけど、そういうのを真実の追究とは言わないと思うの」
あたしが目に見えて動揺したのを好機と取ったか、先輩はほとんど嘲るように言いつのった。だが、そんな先輩の態度は、あたしにとってはかえって冷静さを取り戻すきっかけとなった。
「ところで川原さんはどうしてここに? 今日は敷島君と一緒じゃないみたいだけど、探偵ごっこはもうやめにしちゃったの?」
「どうなんでしょうね。あたしにもよくわかりません」
すっと頬から血の気が引いていくのを感じながら、あたしはぼんやりした声で呟いた。
「それより先輩、サッカー部の男の子って、自主的に早朝ジョギングしたりするってこともあるんですかね?」
「……人それぞれだけど、結構いるみたいよ」
「泉田君もそうだったんですかね」
「どうかしら。別にしててもおかしくはないと思うけど?」
「なるほど」
こいつ、やっぱり馬鹿なんだな。あたしは小さく溜息をついて、昨日までのパートナーのことを思い浮かべる。
――秀彦が死んだのは、話じゃない。現実のことなんだ。
かつてあたしに対してそう言った敷島のことだ。自分が推理小説の名探偵のようには上手くふるまえないことなど重々承知していたはずだろう。それでも敷島は真相の追及を決して諦めはしない。諦めはしない故に、未だ真相に達し得ない己に忸怩たる思いを抱き続けているというのに。
なんなんだ。なんでこの馬鹿女は、推理も論理もすっ飛ばして、あたしなんかみたいなどうでもいいロボーの石ころに不用意なことを言ってしまうんだ。
「……それで、初芝先輩はどうして泉田君がジャージを寝巻き代わりにしているってことを知ってるんです?」
あたしは乾ききった声で先輩のアキレス腱を強く、鋭く、切りつけることにする。まだ先輩の顔に張り付いたままの邪悪な笑みが、ことさら不愉快だった。
「事件当時ジャージ姿だったと言ったのはあたしですが、寝間着とは一言も言っていません。サッカー部で早朝に自主練習するのが当たり前の習慣だったなら、ジャージと聞いて寝間着を思い浮かべるのは少数派だと思うんですよね」
あたし自身、ジャージが寝間着の代用品だとは今の今まで思っていなかったし。
ともあれあたしは吐き捨てるような声で最後の一撃を浴びせかける。
「泉田君とヤってたんすね。つか、泉田君を
冷静に考えれば、初芝先輩には『以前に本人から聞いた』だとか『部活の合宿でもそうだった』などと言って弁解する余地があったはずだ。
しかし、今日の先輩は精神の安定を欠いていた。ついでに言うと馬鹿だった。
先輩は返答の代わりにあたしの頬を平手で強く打った。
バシンと派手な音が神社の境内に鳴り響くのをどこか人ごとのように聞きながら、あたしは初芝先輩の細くて魅力的な指が、何故か土で黒く汚れていることに気づいたりもする。
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