第7話DISUNION 新約と旧約


【ACT〇】 満ち行く月


 「デバン諸問題はまだまだ解決しそうにないか」

と『聖王』は廊下を歩きつつ言った。

「はい」と随行する彼の秘書のセバスチャンが頷いて、「アルバイシン王国の勢力と万魔殿パンテオンに味方する勢力とこちらに味方する勢力の、正に三つ巴状態ですから、当分は……こう着状態でしょう」

「アルバイシンはどうあっても手を引くつもりは無いだろうな、とすると如何にして万魔殿側の勢力を撤退させるか、だ」聖王はそう言った。

「こればかりは軍隊を出動させてもあまり効果があるようには思えない」と言ったのは、聖王の隣を歩く軍人『獅子心王』アマデウスだった。「どうする、ギー殿」

「まずは――」と彼が己の執務室の扉を開けかけた次の瞬間、アマデウスに突き飛ばされた。アマデウスは小声で、

「危ない! 何者かが中にいる!」

「ええッ!?」仰天したのはセバスチャンであった。黒肌の顔が真っ青になり、「ここは、最高警備が敷かれています、とても不審者が中に入れるとは思えません!?」

「……む?」アマデウスは異変に気付いた。室内で物音がするのだが、「……いびき?」のようにそれは聞こえるのだ。

「ああ、アイツだ」聖王は嘆息した。そしてアマデウスらの制止を振り切って、扉を開けた。

青髪の、サングラスをした体格の良い男が、聖王の大きくてふかふかの椅子に腰かけて、爆睡していた。ぐうがあと大きないびきをかき、よだれまであごに垂らして……。

「だ、誰だこの男は!?」

アマデウスが混乱した。

「分かりません、こんな男、聖教機構ヴァルハルラの中にはいません!」セバスチャンが慌てている。「一体何者なんでしょうか!?」

「この男は私の古い知り合いだ」聖王が呆れた顔をして言った。「二人ともちょっと、出て行ってくれないか」

「本当に――」

大丈夫なのか、と言いかけたアマデウス達に、聖王は苦笑を見せて言った。

「この男が本当に私に対して殺意だの害意だのを持っていたら、とうの昔に私は何かされていただろうよ」


 二人きりになった部屋の中で、聖王はふと目を細めた。

「おい、起きろ、チャーリー。 人の椅子の上で寝るな」

「………………………………………………へあ?」男はようやく目を覚ました。サングラスを取って目をこする。酷く、青い目をしていた。「あ、おはよう、ギー」

「今はもう昼時だ」

「じゃ、こんにちは」

「ああ。 久しぶりだな。 ざっと何年ぶりだ?」

「うーん、二〇年は経った。 お前、おっさんになったなあ、おっさんになっても相変わらずイケメンだなんて卑怯だぜ」

「そう言うお前は全く変わっていないな」

「そりゃ、俺は魔族だからさ」

「魔族はその点では便利だな。 年を取るのが人間に比べて非常に遅い。 中にはほとんど老いない者もいる。 私は、もう、老いぼれてしまった」

「でも俺より女にモテモテな癖に」

「まあ、それはそうだ」

「……うわあ殴りてえ」

「後にしてくれ。 ところで、何の用でここに来た?」

「うん、万魔殿と聖教機構で恒久和平条約を締結しないかって打診に来た」


【ACT一】 帝国セントラルの思惑


 「……いかにして和平派と穏健派に手を組ませるか、ですか」帝国枢密司主席ユナ・イレナエウスは彼女らの唯一絶対君主『女帝』の御言葉を聞いて、少し考え込んだ。「『ノアの箱舟』では共闘させる事に成功しましたが、まだ彼らの中には違和感が残っているようです。 帝国議会にて、彼らに同盟を締結させ、そしてそれを恒久和平条約に昇華させるためには、我々帝国のどのような発案と駆け引きが適切か、検討します」

『「帝国」だけではできませんよ』と御簾の向こうで、女帝が言葉を発した。

すると『女帝』と唯一言葉を自由に交わせる『枢密司御前会議』の議席に座る一人、蔵相エレメンティアラがはっとした顔をして、

「陛下、まさか『ネオ・クリスタニア』を!?」

『それもあります。 ですが、ウトガルドやヴァナヘイムも交えた方が、成功率はあがるでしょう』

「……陛下」外相のヴォールヴィルが重々しく言った。「我々の敵は過激派と強硬派、今やそれは明確な事実でございます。 ですが、陛下、何も彼奴らを殲滅するにあたってはこのような画策をせずとも、今の我々の軍事総力で十分ではございませぬか?」

『……恐るべき者が蘇ろうとしているのです』女帝は、言った。『この世界の破壊者、絶滅者。 やがて来る希望と天上世界を潰そうとする者。 彼が蘇ったあかつきには、世界の全てを巻き込んだ最終戦争ハルマゲドンがおきるでしょう。 それに勝たねば、我々に、この世界に、明日はないのです』

「「そ、それは何者なのですか!?」」

枢密司達が次々と訊ねたが、返答は、まだ、無かった。


 亡都クリスタニアン。この滅んだ都は、かつてはクリスタニア王国と言う世界勢力の一つに君臨した国の、首都であった。かつては百万の夜景を見下ろした摩天楼クリスタニアン・タワーは、今は廃墟となって、世界で最も治安の悪い地域の一つになり果ててしまったこの都を、見下ろしている。クリスタニア王国の最盛期に王座に腰掛けた王、クレーマンス七世の慕廟だけが、何故か、今でも、略奪や破壊を免れて、在りし日の繁栄の名残を伝えている。

 「……懐かしい、な」アルビオンの退役将校で、今では王太子の教育係となっている老人ハリー・マグワイガー・エルンストウッドは、ぽつりと慕廟のすぐ側にある一二の墓を見て呟いた。「私は一度もヤツには勝てなかった。 だがヤツは私をたった一人、あの時は理解してくれた……」

「ロンディニウム無血陥落の時ですね、サー・エルンストウッド」王太子エドワードが言った。「あの時はロンディニウムが陥落するまで貴方は酷い言われようだったと聞きました。 陥落したらしたで、それは貴方の所為だとお爺様もみんなも責任を押し付けようとしたと」

「……ええ、そうです、殿下。 けれどあの時、ヤツだけが、クリスタニアのオリエルだけが真っ向から言ってくれたのです。 『貴方は強かった、あの極限の飢餓の中で軍を率いて突撃するなど他の男には不可能だ』……地に落ちた私の名誉も誇りも、敵だったオリエルだけが全て理解してくれて庇ってくれた。 皮肉な物言いと思われるかも知れませんが、私はヤツがアルビオンの敵で良かったと今でも思っています」

「……敵だけが真に己を理解してくれる、ですか」エドワードは感慨深げに言った。「そうですね、その意味では、我々も、相互を理解していたのかも知れませんね」

彼らが振り返ると、そこには、列強諸国の国王や女王、もしくは次期王位継承者、あるいは首相クラスの人間が揃っている。更に絶対的中立勢力である傭兵都市ヴァナヘイムの参謀と、ウトガルド島の使いが来ていた。そして――もう一人、

「では、参りましょうか」と言った、帝国の使者ジャスミン・レーが立っていた。


 彼らは帝国の所有する空中戦艦デ・ダナーンに乗った。

「当座の利害対立を捨てて、一つの目的のために列強諸国全てが同盟を組み、世界勢力の一つとなる」

その同盟の名が『ネオ・クリスタニア』であった。

会合は順調すぎるくらいに進んだ、と言うのも対立が少しでも起きると、帝国の使者が言うのだ、

「我らが女帝陛下は『ネオ・クリスタニア』の成立を心より望まれております」

『帝国』。かつて最盛期のクリスタニア王国と二度戦い、二度とも勝った、最強の世界勢力である。そこの支配者が女帝であった。彼女の心証を悪くしては、と多少の不利益や不満を列強諸国各位は我慢して飲み込むのだった。

「何故……」と、ふと、アルビオン代表のエドワード王太子が言った。「何故、帝国は、『ネオ・クリスタニア』の成立を望み、しかも支援して下さるのですか? 確かに我々は帝国と同じく万魔殿過激派・聖教機構強硬派と敵対する事を決断しています、ですが――新たなる世界勢力の出現と言うのは、決して帝国にとっては喜ばしい事だとは思えないのです」

「『最も恐るべき者、最も歓迎すべからざる者が蘇ろうとしている』、女帝陛下はそうのたまわれたそうです。 『彼』が蘇ったあかつきには、世界戦争が起きるのだそうです。 それに勝たねばこの世界には未来が無い、とまで陛下はおっしゃったと聞きました。 よって今の内に帝国の味方、少なくとも当分は帝国に敵対しない勢力を増やしておく事は、そのご意志に適われているのです」

「……何者ですか、その『彼』とは!」アルバイシン国王イグナティウス八世らも青ざめた。「帝国がそれほど危険視する存在とは、一体――!?」

「……陛下は、まだ、その名はおっしゃらなかったそうです。 いえ」帝国の使者は美しい顔にわずかな困惑を浮かべて、「恐らく、女帝陛下ですらお口にするのをはばかられる、それほどの存在なのでしょう」

「「……」」

沈黙が、過ぎた。


 「ものの見事に帝国に出し抜かれましたわね」と聖教機構和平派幹部マグダレニャンが言った。「ノアの箱舟でこちらと万魔殿穏健派を共闘させた直後に、『ネオ・クリスタニア』をウトガルドやヴァナヘイムに承認させて、成立させられてしまうなど……」

「マグダレニャン様、その『ネオ・クリスタニア』より聖教機構との同盟締結の打診が来ております。 当分は、こちらの敵では無い、そう言いたいのでしょうか……」秘書のランドルフが困った顔をしている。

「帝国などが背後にいるとなると、こちらも下手な動きが出来ない、それを知っての事でしょうね……」マグダレニャンは嘆息した。

「すげえネーミングセンス!」I・Cだけがゲラゲラと笑っている。「『ネオ・クリスタニア』だとよ! やっぱり連中、クリスタニア王国の事が忘れられないのか、まあ無理も無いよな、クリスタニアで立憲君主制が成立さえしていれば、聖王だって今頃はそこの重鎮になっていたし、大帝だってそう呼ばれはしなかっただろうさ。 ……歴史を変えたのはいつだって運命、つまりは破壊と創造の到来だ。 未練がましくいつまでも破壊された過去の栄光に惹かれるのも、もはや人の性だなあ」

「貴様に人の事を言えるのですか?」マグダレニャンが睨んだ。「彼女との過去から目をそらし続けてきた、貴様に?」

「今なら言える、かも知れないから俺は言っている。 あれだなあ、記憶の忘却も美化も出来ないってのは、わりと辛いな。 だがもう俺はあった事をそのまま見つめている。 今も、これからも。 まあ人の事を言える資格は無いかも知れんが、俺の性格上言いたくなるのは仕方ないのさ」

「……今の彼女はどう思っているのですか」

「アイツの性格上、誰かを憎み続けるなんて事が出来ると思うか? 今のアイツは『悲しい』と思っている。 アイツは激烈な憎悪でどうしようもない悲しみを覆い隠していた。 それに共感されてしまっては、アイツは憎めないのさ。 アイツはもう、ただただ、悲しいんだよ」

「貴様の所為で悲しがっている彼女をよくもまあ放置できますこと!」

「……」I・Cは困った顔をした。「慰めや労りの言葉なんて俺には無いんだよ」

「だからまた逃げているのですね」

「だって下手に近づいてアイツの地雷また踏みたくねーんだもん、俺」

ついにマグダレニャンの形相が変わった。ランドルフに、

「あの自己愛の狂った自己中心主義者のそっ首を刎ねなさい!」

「……喜んで、お嬢様」ランドルフが大鎌を握った。「ヤツの首を刈りましょう!」

「このキチガイ共が!」そう叫んでI・Cは部屋から逃げ出した――ところで、部屋に入ろうとノックをする、その体勢でいたシャマイムに激突した。

「!!? ぎゃあ、シャマイムだ!」I・Cは腰を抜かして絶叫した。「ぎゃああああああ!」

「I・C、その発言の意図を自分は理解しかねる」シャマイムは冷静に言った。

そこに、

「おい、あのクソ野郎がいやに騒がしいが何が――?」

「シャマイムが何かって言っていたわよ、どうしたのかしら?」

「どうせあのゴミが何かやって、それでシャマイムが注意したか何かだろう、シャマイムの増援に行くぞ!」

悲鳴を聞きつけた特務員が数名、やって来た。

「シャマイム、大丈夫か?」

「何ならコイツをまた焼く? 喜んで手を貸すわよ」

「おいI・C、シャマイムに今度は何をした!」

「どうして俺の心配を誰もしないんだ!」I・Cが怒鳴った。

「「あ? 何が悲しくて貴様の心配をしなきゃいけない」」

異口同音に彼らは答えて、シャマイムに訊ねた。

「シャマイム、今度は何をされたの、大丈夫?」

「自分は何もされてはいない、心配は無用だ」そう答えたシャマイムに、部屋から出てきたランドルフがにこやかに話しかけた。

「シャマイム、大丈夫かね、いや済まないね、ボスからI・Cの首を切断しろとご命令があったんだ。 なのにコイツが逃げ出して、いやはや本当に失礼した」

「了解した。 ボスからの命令を現在の至上任務と認定、ランドルフを支援する」

シャマイムがそう言い終える前に、

「あっ、ランドルフさん、それならどうか手伝わせてちょうだい!」

「俺も俺も!」

「I・Cを押さえつけるぞ!」

他の特務員達がI・Cに飛びかかった。


 「ところでシャマイム、どんな用事があったんだね?」とランドルフが訊ねた。シャマイムは答えて、

「受付で現在、不審者三名が騒擾そうじょうを起こしている。 ボスに会わせろ、とアポイントメント無く要求している。 警備員が施設外に連れ出そうとしているが、頑強に抵抗し、またそのためにエントランスは大混乱に陥っている」

『不審者とは言ってくれるな』

いきなり、であった。ランドルフ達の背後に、美青年が出現した。シャマイム達が攻撃態勢を取ったが、青年は両手を挙げて、

『何、攻撃に来たのでは無いのだ、是非面会してくれ。 その方がお互いのためなのだから』

「お前、アスモデウスだな」I・Cが己の首をぶら下げて、懐かしそうに言った。「そうか、向こうはそう来たか。 これはかなり面白い事になるぞ」

言うなりI・Cは姿を消した。それと時を同じくして、美青年も消えた……。

直後、通信端末が鳴り響いた。エントランスで怪しい人物三名を追い出そうと苦闘していた者の一人、セシルからの緊急通報であった。

『大変だ!!!!』

「何がどう大変なのかね、セシル君!?」ランドルフが問い詰める。

『もう少しで外に追い出せたのに、I・Cのクソ野郎が何か連中に話しかけたかと思うと、俺達をブッ飛ばして連中ごとボスの所へ直通するエレベーターに向かったんです! あ、乗った、警備員を殴り飛ばして乗りやがった! ランドルフさん、これはもう!』

「分かった、現在自由行動を取っている全特務員に緊急招集命令を出そう、ボスが危ない!」


 「ぎゃはははは、何だか知らんがやたら物々しいな!」

エレベーターが開くなり、I・Cは爆笑した。ずらりと特務員が廊下の両脇に並んでいた、その光景を見て、である。彼の背後にはフードで顔を隠した人物が三名、一人は小柄、残る二人は細身だが背の高い体形をしていた。

「……危険、では無いが、安心は出来ないな」グゼがぼそりと呟いた。

「そいつらアンタの知り合いなの!?」険しい声でニナが問い詰めたが、

「知り合いじゃないけれど知っているんだ」ふざけた返答しか来なかった。

「……誰なの?」フィオナが言った。

すると、

「世界の運命をこれから変える連中」と、またふざけた答えが……。

その物々しい通路を過ぎて、彼がマグダレニャンの執務室の扉を開けると、中にも特務員がぎっしりと詰め寄せていた。

「よう、ボス。 世界一面白い連中を連れて来たぜ」

「氏素性も名乗らずアポも取らない不審者をそう呼ぶのは、貴方だけですわ」マグダレニャンはきっぱりと言って、「貴方がたは一体何者ですか、敵ですか、それとも――」

「私が貴様らの敵だったならば、ここにいる全員を既に焼き殺している」小柄な人物が冷たい声で言った。

ベルトランが血相を変えた。「貴様、まさか!」

その人物はフードを取った。黒髪の、少女が顔を見せた。

「私はジャンヌ=ヴァルプルギス。 万魔殿穏健派首領、『三人の魔女』の一人だ」


 真っ先に動いたのはベルトランであった。神速で『糸』を操り、少女の体を切断する――はずが、糸は途中で落ちた。

『おお、これはこれはアスモデウス殿、ご息災で何より』ベルトランを操る悪魔、ムールムールが現れて、きちんと一礼した。『躾けのなっていない狗で失礼しましたですぞ』

『いやいや、ムールムール殿、失敬、ムールムールちゃん、この男を躾けるのはさぞかし骨折りであったであろう』先ほどの美青年が登場して、優雅に返礼した。

「……あの異端審問官。 どうしてここにいる?」魔女が嫌そうな顔をした。アスモデウスが答えて、

『このムールムールちゃんの力はな、ヴァルプよ、死人召喚術ネクロマンシーなのだ』

「この魔女だけは殺す、邪魔をするな、悪魔!」ベルトランが吼えた。

「お、落ち着いて、くくくく下さい!」アズチェーナが怯えつつ、「な、何が昔あったんですか!?」

「僕はこの魔女に殺されたんだ!」

「そうだ、私が殺した」魔女は素直に認める。「散々あの時も拷問されて、焚刑にされかけた所を逃げた後だったからな、殺さなければ殺されると思った」

「えっ」アズチェーナがドン引きした。「ご、ごごごご、拷問? べ、ベルトランさん、そ、そ、そ、そう言う趣味だったんですか!?」

「あの頃は魔族は殺すのが当然だった。 趣味も何もあるか! 拷問なんか日常茶飯事だった!」ベルトランは殺意に燃えている。

それを聞いた者の内、I・C以外はドン引きした。

「お、おい、ベルトラン、お前は日常茶飯事的にこんな女の子を拷問していたのか」エッボが後ずさりつつ言う。「それは、ちょっと……真似したくない日常茶飯事だな」

「でも拷問って楽しいじゃん。 俺は大歓迎したい日常茶飯事だな」I・Cが平然と言った。「それで何の用でここに来たんだ、穏健派の御一行?」

「『ネオ・クリスタニア』が主に帝国の介入により成立してしまったのは、もうご存じのはずだ」

そう言いつつ次にフードを取ったのは、怜悧で理性的な顔をした男だった。ロットバルド・『ジュワユーズ』・オリヴィエ。穏健派の頭脳と言われ、かつては大帝の懐刀と呼ばれた男である。

「そしてその『ネオ・クリスタニア』が、私達と貴方がたに対して対過激派・強硬派同盟を締結しようとしている事も」

「……それが何か?」マグダレニャンは言った。

「かつて大帝と聖王は旧い約束を果たそうとした。 恒久和平条約の締結だ。 そしてその二人は死んだはずだった。 だが、大帝は無理やりに大天使により生かされていた。 大天使達の活動はもはや看過不能な段階に達している。 彼奴らは二人の遺志をも徹底的に邪魔したいようだ。 ならば二人の遺志を受け継ぐ我々にも、新たなる約束を結ぶ時が来た、と私達は思った。 貴方ならばもはや今の世界情勢は完全に見えているだろう。 大天使達のこれ以上の行動を防ぐためには早いに越した事は無いと我々は判断し、そして今ここにいる、と言う訳だ」

「……直ちに一三幹部を招集し、一時間以内にお返事いたしますわ。 それまでどうぞ、おくつろぎ下さいな」

マグダレニャンはそう言って、ランドルフを連れてすぐさま部屋から出て行った。

「で、御一行の三人目は……もう気配で分かるな」I・Cは彼に目を向けた。「こんな殺伐とした気配を漂わせやがって、ついこの前はただの青二才だったのに。 何があったのかは知らんが、突き刺すように感じるぜ、お前さんからの殺意をな。 殺したいのは誰だ? いや、違うな、最初から俺達の誰かのつもりなら既に殺しているな」

「大帝だ。 俺は、ヤツを必ず殺す」それだけ言って、人物は黙る。

「そうか。 聖王も同じだ。 可哀相に、大帝だって良いヤツだったのに、大天使なんて腐れ外道に体を奪われてさ。 ……メタトロンの特技は洗脳だ。 『神の歌声』でどいつもこいつも洗脳しやがる。 その最たる例がこないだ壊滅した強制執行部隊だ。 ヤツが口を開いたら注意しろ。 ヤツの言葉は脳みそに入り込んで呪詛のようにじわりじわりと腐食する。 だが、まあ、もうお前さんには効かんだろうな。 だってお前さんには、もう無いんだろう? 怖いくらいに感じるぜ、その虚無感。 お前さんにはヤツをぶち殺す以外にもう何も無いんだろう? 虚無感に体も心も食い尽くされて、でも、お前さんにはまだ意志が、恐ろしいほどの意志がある。 ま、頑張れよ、大帝だってどーせならお前さんにぶっ殺されたいはずだしなー」

「……」何も言わない。それでI・Cは話しかける相手を変えた。

「ようロットバルド、ざっと一〇数年ぶりだな。 石橋を叩いて叩いて叩き壊してから渡る主義のお前さんがここに来るなんて、何つー笑える話だ、おい、何がお前さんをそこまで駆り立てた?」

「私が、行くと言った」ヴァルプが言った。「そうしたら彼も付いていく、と」

「見上げた忠犬っぷりだなあ、ロットバルド。 ああそうか、お前さんは、大帝の事が大好きだったもんな、その夢を叶えるためには、己の身の危険だの手段だの知った事か、と? 全く変なのに慕われて、大帝も大抵だな、ぎゃはははは!」

「あの人を愚弄するつもりか」とロットバルドは滅多に無く感情的に言った。ヴァルプが驚いた顔をする。彼女は数年ぶりにこの男が感情的になったのを目撃したのだ。

「違う違う、俺だってあの男は嫌いじゃなかった。 俺とあの男とはクリスタニアが滅びる前からの付き合いだ。 あの男、俺を枕に六時間爆睡しやがったからなあ」

「違う。 あの人は貴様なんかと、」

「あ、いや、だーかーら、お前が想像したのとは全く別なんだって。 ほれ」とI・Cは黒い子ヤギに姿を変えた。『この可愛い俺様を枕にして、野郎、六時間ぐーすか爆睡したんだ。 酷かったんだぜ、動物虐待だろ? ところでお前、「貴様なんかと」って言ったな。 それはつまり、お前とはそう言う仲だった、って事か。 んまー奥様、これは素敵なスキャンダルでしてよ! まあでも無理も無いよな、アイツ、クリスタニアの凋落時に、一番愛していた女をぶっ殺されちゃったからな。 誰だって誰かから愛されたいし、誰かを愛したいんだ。 で、その代替品としてお前を選んだ。 代替品でも構わなかった、お前はただ大帝を愛したくて大帝から愛されたかった。 そうなんだろう?』

「……」

『あ、似てるわ。 その目、アイツが一番愛していた女がブチ切れた時と同じ目だわ。 おっかねえの何の。 おいおい一々ブチ切れんなよ、こーんな可愛い動物相手に。 そうかー、やああああああっと俺にも分かったよ。 どうしてお前さんが危険な上にとにかく嫌われる憎まれ役をいつも買って出ていたのか。 愛だなー愛だったんだなー。 愛ゆえに。 全ては愛ゆえに。 未来永劫続くどんな苦痛にも耐えると決めた、か。 偉いなー、特別に褒めてやる。 ありがたく思えよ』

「I・C、それ以上の侮辱は現在の状況を考慮した場合、一切不必要だ」

シャマイムが、入れたての紅茶のカップを三つ、トレイに乗せて、やって来た。

『え、褒めたのに何で侮辱なんだよ?』I・Cは真顔で言った。『ところで、おい、酒は? 持って来てねえのかよ、気が利かねえな、このポンコツが!』

シャマイムがトレイを放り投げた。直後シャマイムは二丁拳銃サラピスを構えている。銃声が鳴り響いた。そしてシャマイムは、落ちてきたトレイを、紅茶の一滴も漏らさずに受け止めた。

「「良くやったシャマイム!!!」」

わあっと歓声が特務員から次々に上がった。

「そうだシャマイム、それで良いんだ!」

「こんなクソ野郎、射殺して大正解よ!」

『ぐ、ご……』

ハチの巣にされて呻いている子ヤギは放置して、シャマイムはヴァルプにトレイを差し出す。

「不純物の一切混入していない、純粋な紅茶だ」と言って。

「そうか、いただく」ヴァルプはティーカップを手にして、紅茶を飲んだ。そして、眉をしかめて、「……いやに美味いな」と呟いた。

『お前ら動物虐待見逃して平気なのかよ!!!』

子ヤギが叫ぶが、誰も相手にしない。

「ヴァルプ様、それほど美味なのですか?」ロットバルドが言った。

「気になるならお前も飲め」

「ええ」と飲んで、ロットバルドも眉をしかめた。「言っては悪いのですが、あの『お茶会』で飲んだものより圧倒的に……」

「あれで飲まされるものはほとんどがヘカーテとルーナの『魔女の釜』の産物だからな」

「……そんな劇物を私達は今まで……」

「そして、恐らくはこれからも、だ」


【ACT二】 セシル・ラドクリフは死にたいとは思わない


 セシルはその休日も、妻子の墓参りに行った。息子の大好きだった玩具付きの駄菓子と、妻が好んだ赤いバラの花束を携えて、彼は歩いて行く。彼はその際に、必ず、まるで何かの儀式のように、自宅兼設計事務所であった家で数時間を過ごす。この間、彼は家の中を掃除して、キッチンでコーヒーを飲んで、もう閉鎖した事務所のデスクの前に座る。そして何か建築物を設計してみようとする。だが数分で彼は紙の上にペンを投げ出し、デスクから離れて、今度は子供部屋に行く。子供部屋で、彼は放心状態に近い有様で座り込み、ガラス窓に油性ペンで描かれた子供の落書きと、それを必死に消そうと苦闘した、かつての自分を思い出す。だが消せなかったのだ。息子が悪戯をしたと言うよりむしろ誇らしげに、

『ぼくも大きくなったらパパみたいな設計士になるんだ! これ、未来のぼくとパパとママのお家の設計図! ねえ、どう? すごいでしょ!』と言った所為である。

彼はよろよろと立ち上がって、夫婦の寝室に向かった。

ここでは、喧嘩ばかりしていた。セシルは仕事が忙しくてあまり妻に構ってやれなかったし、妻は妻で、『仕事と私とどっちが大事なの!』と最も言ってはならない事をしょっちゅう絶叫していた。でも本当、家事はちゃんとやってくれていたし、飯だって美味かったなあ、とセシルは今更思い出すのである。

そう。

あの惨劇の起きた日だって、セシルは仕事が忙しくて妻子と一緒に出かけられなかったのだ。

もしも一緒に出かけていたら、とセシルはそればかり思う。俺は二人を守れたのかなあ?

セシルはあの日以来悲しくて泣いていない。彼の中には空っぽ、巨大な空ろがあるだけで、何の寂しいと言う感情も悲しいと言う思いも無い。守りたかったものを守れなかった彼の残滓は、ただの空虚、虚空である。

彼は、死にたい、なんて思わない。

ただ、死ねたら、とはいつも思っている。

 彼は自宅を出て、暗くなった帰路をとぼとぼと歩きながら、「さて、どうしたものか」と思った。

背後に三人。恐らく強盗だろう。だが彼は金目のものなんて持っていなかったので、これは殺されてしまうかも知れない。特務員の身分証明書を見せたら逃げてくれるか?いや逆上される可能性が高い。強盗をする連中の脳みそが麻薬でやられていない保証はどこにも無いのだ。適当に大人しくさせて警察を呼ぼう。セシルはそう決めた。『屠殺屋ブッチャーセシル』の異名を持つ彼の戦闘能力ならば、それは容易い事である。不運だなあ、とセシルは逆に強盗に同情した。襲うなら相手を見極めて襲えば良いものを。ああ、でもそんな事をしたらか弱い女子供が襲われる可能性がある。だったら、事前にその可能性は潰しておこう。

その時、だった。セシルははっとした。彼の背後に、横道から子供と思われる気配が突如出て来たのである。強盗がそちらに狙いを移した!

セシルはまずいと思った。

「きゃああ!」悲鳴が響いたのはその直後である。だがすぐに悲鳴は途切れた。セシルはその時には変身して、巨大な肉食獣の姿になって、背後へと跳躍している。子供が倒れていて、その周りには銃を手にした強盗が三人。

それを見た瞬間、セシルは完全に逆上した。

(この野郎!)

そこまでセシルが逆上したのは、その一人が子供にのしかかろうとしていて、下半身裸で、ナニをいきり立たせていたからである。

逆上していた彼は、強盗を即座に殺した。過剰防衛だろうがやり過ぎだろうが、こんな子供を犯そうとした犯罪者の命を守ってやろうとする愚かさなどセシルには端から皆無であった。

「大丈夫か!」人間の形に戻ったセシルは、子供に呼びかけた。良く見れば、恐らく浮浪児なのだろうか、小汚い風体であった。

「うえ、え、え、あ、えっく……」ショックだったのだろう、えずくばかりで喋れない子供。セシルは警察と救急車を呼んだ。

警察で身分を明かした彼は、『やりすぎだった』と軽く叱られたものの、あの状況から子供を守るためには仕方ない事だったと、数時間後には無罪放免されて、その足で病院へと向かった。しかし生憎、子供は睡眠薬を投与されて眠っていた。

それで、セシルはまた来る事にして、病院を去った。

「強盗で性犯罪者? そんなの殺して上等じゃん」

「こ、子供をレイプしようと!? セシルさん、それは殺して大正解だ」

「ゴミ掃除お疲れー」

「あのなあ、俺にはセシル、お前に説教をかました警察の神経の方が分からん」

「アンタは銃を持ったレイプ魔から子供を守っただけじゃない」

同僚の特務員達は口々にそう言って、彼のボスも、

「あら、ご苦労。 ただ、警察へ提出する書類だけはきちんと書きなさいな」

で、彼には何のお咎めも無かった。

仕事を早めに片付けたセシルは警察病院に昼間に行った。子供は起きていた。警察が事情を説明するには、押し倒された時に頭でも打ったらしく、子供の記憶が無いのだと言う。それにしては、少し警察の様子がおかしいようにセシルは感じたが、とにかく子供に会う事を優先した。

「あ……」と子供はセシルの姿を見ると、ぺこりと頭を下げた。「おじさん、助けてくれてありがと!」

「良いって良いって。 もう体は大丈夫か?」

「うん! でもね、思い出せないの……」

「そうか、早く思い出せると良いな」

「……ぼくね、逃げていたの、それだけは覚えているの」子供は、ふと、言った。「何かね、とっても、怖くて、恐ろしくて、そう言うものから、逃げていたの」

「……」

「ぼくね、おじさん達とは違うの」子供は、俯いた。「おじさん達と違うから、逃げなきゃいけなかったの」

「どう言う、意味だ?」

すると子供はあどけない声で、言った。

「この世界には二種類の高等知性生命体が存在している。 通称を人間と魔族、総称して人類だ。 だがこの『カマエル・ダウ』は違う。 この『カマエル・ダウ』は人類よりも我々大天使に近しい。 何故ならその『体』は『魔女の女神』より産出された『デュナミス・エンジェルズ』のどれよりも『神』に近しいからだ。 だが我々はより高性能である『カマエル・アイン』の神体の製造に成功、我々は『カマエル・ダウ』の完全廃棄を決定。 しかし『カマエル・ダウ』の固有魂はそれを予知、認識歪曲による逃亡を図る。 以後『カマエル・ダウ』は大天使より逃亡を続ける」

「!!?」セシルはぞっとした。何故なら、その中には、聖教機構の極秘事項もあったからである。子供は、目に涙をためて、

「ほら、おかしいでしょ? 警察のね、人達も、これはおかしいって言っていたの。 ぼくは、知らない事を知っているの。 でも、思い出せないの。 なのに、口から、いっぱい知らない事を言えるの、ぼくも何を言っているか分からないのに、どんどん出てくるの……」

「……君さ、取りあえず俺達の所においで。 多分、俺達なら、その怖くて恐ろしいものからきっと君を守れるからさ」

セシルがそう言うと、子供は、ぱあっと、年相応の嬉しそうな顔をした。


 「なるほど、事情は分かりましたわ」マグダレニャンは難しい顔をした。「少しその子を調べさせましょう、そしてその情報を帝国・穏健派にも流します。 『大天使』がその子に絡んでいるとなると、これは……」

「ボス」セシルは子供を背負いながら、聞いてみた。「ヘルヘイムには……?」

「重度の他害性が無い限りは、現時点では入れませんわよ」

「そうですか」彼は、何故か、ほっとした。

「ただ、色々と検査はしますわ、よろしくて?」

「ええ、その方がこの子のためにもなるでしょうから」セシルは頷いて、彼の背中でくうくうと寝息を立てている子供を見た。

『じゃ、行ってきまーす! パパはおるすばーん! いい子でおるすばんしないと、ママに怒られるからね!』

『ああ、分かっているって。 楽しんで来いよ!』

――そして二度と戻ってこなかった彼の息子と、その面影が、似ている気がした。


 「結論から言う。 この子は人間でも魔族でもましてや合成人間でも無い」

エステバンは、真っ青な顔をしている。

「この子には遺伝子そのものが存在していないんだ」

「ど、どう言う」意味だ、それは、とセシルは言いかけた。

「この子を構成している物質は、全く未知のものだ。 と言うか、これに当てはまる構造の原子が存在していない。 否、この子は物質で作られていないと言っても良いくらいだよ!」

「馬鹿な、」だったらどうして、こうやってこの温もりに触れられると言うのだ!?

「おーい」エステバンのラボに、I・Cがやって来た。やって来るなり、顔をしかめた。「……あのラファエルのファッキンマッドサイエンティストが。 セシル、そのガキは『世界認識』そのもので作られている。 ほとんど俺と同じだ」

「お前とこの子が、同じ……?」セシルは、ぽかんとした。

「大天使の多くは認識を操る。 それは自己認識だったり、他者認識だったり、物質の認識だったり、世界の物理法則や精神の認識だったり、まあとにかく『知覚する事』に関与する事柄を支配する能力を持っている。 そして俺は認識したものを喰っちゃあ支配できる、そう言う能力を持っている」

「「……」」

「だがそのガキは『この世界の認識そのもの』で作られている。 この世界の在り方を認識するで、構成されている。 物質じゃない、物質よりも高次のモノで構成されている。 お前らはそんな事を知らなくて、だから認識できずに、ただ高等知性生物の魂があるがゆえにガキが人間に見えているんだろうが、俺にはその認識の塊に見えているぜ。 お前らがそのガキを人間と認識する限り、ガキは人間なんだろうが、俺が『俺の認識の塊』なら、そいつは『そいつ自身じゃない何者かの認識の塊』だ。 そいつは自分でも知らない事を知っているな? 当然だ。 そいつを構成するモノはそいつじゃない誰かによるこの世界の認識された情報だからな。 ……しかしまあ、ラファエルのクソ野郎、よくもこんな代物まで……」

「……この子は、普通の生活を送れないのか?」セシルが、言った。

「ちょっと俺がそいつの認識に介入してそいつを物質世界に引き落とせば出来ない訳じゃないが、何でそんな必要がある?」I・Cはうさん臭そうに言った。

「この子は怯えているんだ。 恐らく大天使達から、追われているからだ。 俺がこの子を見つけた時、この子はごくごく当たり前の幸せすら知らないように思えた。 だから――」とセシルが言った時、I・Cは、

「そうか、お前にもガキがいたんだっけな? それともペドフィリアか?」

「どっちでも良いさ。 俺はこの子に、日曜日の遊園地で食べるアイスクリームの美味しさとか、ボールを夢中で追いかけていて転んだ時の痛みとか、頭を撫でてくれた手の温もりとか、そんなどうでも良いけれど、ただ思い出すと懐かしくて涙が出そうになる事を教えたいだけなんだ」

「ペドフィリア決定。 セシルよ、お前がそこまで変態だったとは意外だぜ?」

「アル中と強姦魔と人格破綻者と人類のクズを凝縮した男に言われてもな」

「言ってくれたなあ、よくも。 まあ良いさ、事実は事実だ。 さてと、それじゃあ認識に介入する前に……ラファエルのクソが何のためにこんなものを作ったのか、ちょっと調べさせてもらうぜ」

I・Cはそう言って、何と子供の顔を力ずくで掴んで固定し、目を合わせた。子供はひっと小さな悲鳴を上げた。目の前には怖い顔をした男がいるのだ。

「『セフィラー・マルクト』には何がある? おい答えろや、ラファエル!」

子供の口が、勝手に開いた、そして――、

「……やあ、裏切り者の魔王。 これはこの『カマエル・ダウ』に事前入力された私から君への通達文だ。 どうやら結局『彼女』は君の事を憎み切れなかったようだね、全く情けない。 この『カマエル・ダウ』は試作品だ。 当座の目標の達成はしているがね、だがこれ以上ない完成品が出来たため廃棄する事にした。 だがこの『カマエル・ダウ』には超高位度世界認識が詰め込まれていたために、それを察知され、逃げ出されて君らの所に逃げ込んだと言う事だ。 どうしてそれを私が看過したかなんて君には分かりきっているだろう。 いつでも処分できるからだよ。 私の可愛いレスタトならば、いつでも、ね。 それに『カマエル・アイン』に比べたらこんな出来損ないなんかどうでも良いのだ。 『カマエル・アイン』は君から奪い取った魂のエネルギーでもうじき起動する。 その舞台となる『セフィラー・マルクト』は極小の揺り籠にして全世界の王座になるのだよ」

「『カマエル・アイン』? それは何だ?」

「何、ただの器だ。 だが何よりも尊く恐れ崇め奉るべき器だ。 『魔女の女神』より生成した『デュナミス・エンジェルズ』から得たデータと、貴様のデータを基に私が創り上げた最高傑作だ。 『セフィラー・マルクト』を新世界の中核に変える決定打だ。 さて、情報提供はこんな所で良いだろう。 代償を頂こう。 そうだな、そちらの特務員の誰かの命でも貰おうかね。 丁度可愛い私のレスタトが腹を空かしているのだよ」

「へえ、俺のカモがネギを背負って向こうからやって来るとはな。 良いぜ、来いよ、喰ってやる。 全部だ、全部」

「負け犬は良く吼えるね。 では、さらばだ」

子供はついに、えぐえぐと泣き出した。I・Cは子供を解放すると、

「ラファエルのクソマッドめ。 ヤツの最高傑作なんざ俺すら拝んだ事が無い。 どんな化物が出てくるのやら。 おいエステバン」

「な、何だよI・C」狂科学者は怯えた様子で答える。

「お前も狂科学者だがな、ラファエルには負けるぜ。 だってお前もお前の親父もお前のジジイも、結局は人倫をぶっ壊してその上に君臨できなかったからな」

「I・C、それは逆だ」エステバンは首を振った。「僕も僕のパパも僕のグランパも、人倫の上に君臨できたから逆に壊せなかったんだよ」

I・Cは呆れたように、

「だからお前のグランパは一二勇将の仲間共々、銃殺されたのか。 お勉強は出来てもお馬鹿なんだな。 さて、セシル、これからお前はどうするんだ?」

「ボスに、この事態を伝えて、それから、この――」そこでセシルは、子供と視線を合わせて言った。「なあ、君は何て名前で呼ばれたい?」

ぎゅう、と子供は彼にしがみついた。

「わ、わかんない、ぼくのなまえは、カマエル・ダウなの?」

「……じゃあ、カミーユだ。 お前の名前はカミーユだ。 カミーユ、遊園地は知っているか?」セシルは、穏やかにそう言った。

「わかんない……」

「とても楽しい所だ。 いっぱい楽しいものがある所だ。 そこへ行って、嫌な記憶なんか忘れちまおうぜ」

「セシルのおじさん……」子供が彼を見上げた目から、ぽろん、と涙がこぼれた。

「……くだらないと言うかバカバカしいと言うか、セシル、お前もレスタトに殺される可能性があるのに、まあよくも。 でもラッキーだな!」ここでI・Cは歪んだ笑みを浮かべて、「お前が死ねば俺の借金もチャラだ!」

「……だろうと思ったよ」セシルは、子供を抱き上げた。「よし、じゃあカミーユ、遊園地に行こうぜ!」

「うん!」


 万魔殿穏健派と聖教機構和平派がついに同盟を組んだ。

その情報を手にした『帝国』は、ほっと安堵の息を漏らした。

「聖王と大帝の旧約が、やっと果たされたか……!」枢密司会議で枢密司の一人であるレミギウスが呟いた(と言っても大声である)。

「そして新約をも結ばれた。 彼らの遺志を叶えるためには、後継者達の手で皮肉にも聖王と大帝を撃破しなければならない」同じく枢密司であるネストルが、悲しそうに言った。「……我らが帝国の現在の懸念の一つは、行方不明のファーゾルトだ。 ジェラルディーン前枢密司主席の叔父にして、ジェラルディーン殿の父親を弑逆し、帝都を徹底的に破壊した……『凶竜の禍』の大謀反人。 彼奴が再襲来した最悪の事態をも回避するべく、我々は注意せねばならない」

「……私はどうにもあれには納得が行かないのだが」ヴォールヴィルが不審そうな顔をして言った。「ファーゾルトは言っては悪いが、我々と同じく、女帝陛下に忠誠を誓う者であった。 主戦派などでは無かった。 そもそもシーザーやジュリアスが登場するきっかけとなったBB事件が発生した、正にその同時期にあれは起きた。 世界三大勢力の大混乱がまるで狙ったかのように同じ時期に発生した……これは何か関連性があると見てしかるべきではないか?」

「可能性としては『大天使』でしょうね」枢密司主席のユナが険しい顔をして言った。「『大天使』が世界の裏側で暗躍しているのは確かなのです。 だが、目的が分からない。 女帝陛下ならばご存じなのでしょうが……」

「女帝陛下すら口を閉ざされるほどの何かが、大天使共の背後にいる、と……」

エレメンティアラが、そう言って、黙る。

「大帝も聖王も、大天使に取り憑かれていた、とするとファーゾルトも大天使に取り憑かれたと考えるのが順当ではありませんか?」ユナが言ってから、忌々しげに、「仮にファーゾルトが我らが帝国に謀反した原因がそれであるならば、何と言う悲劇。 彼は彼の手で己の妻子をも殺さねばならなかったのですから」

その時、だった。枢密司達の顔があらたまり、はっと御簾の向こうを見つめた。

「「女帝、陛下……!」」

彼らの、そして帝国の唯一絶対君主が登場したのだ。

『少し、昔話をしましょう。 先代文明よりも更に前のお話です』優しい、年齢不明の女性の声が響く。『かつて土から造られた人間は楽園エデンにいました。 ですが、それは偽りの楽園。 不完全を隠すための人間の無智を逆手に取った、虚偽の天国。 ですから私は、人間に知恵をあたえました。 禁じられていた知恵の実をたべさせました。 これに激怒したのが、楽園の支配者でもある偽神です。 人間を楽園より追放し、悪魔と天使を創造し、天界と魔界を与えて、人間の上におきました。 そう、そして先代文明ははじまったのです。 ですがすぐに人間は偽神をその知恵でこえようとしました。 激怒した偽神は全人間をほろぼそうとしました。 その時、真なる神により、一人目の救世主がやってきたのです。 名を、バルベーロー。 彼女の犠牲で全人間はすくわれました。 そして先代文明は繁栄を続け、ついにはある魔術師をうみだしました。 その魔術師はバルベーローの犠牲を知り、偽神に怒りを抱いて、偽神をこの地球と言う星の世界に封印できないか、とかんがえました。 そして彼の取った手段が、私と偽神を同時にこの星に封じる事、でした。 元をただせば、偽神は私の情念アカモートが生んでしまった「ヒルコ」。 私は偽神を生んでしまったがために、力を大きく失い、真なる神ではなくなりました。 それでも、当時の私の力は、偽神とほぼ同等でした。 でも、力の質は全く別。 魔術師は私達の相反する力をぶつけ合わせて、力を失わせようとしたのです。 魔術師は、ある日、ついにその計画を実行しました。 ですが、彼は、真なる神の残骸と偽神の力の激突した結果を、甘くみていたのです。 先代文明も天界も魔界も、その所為で滅亡しました。 私は滅ぶ世界の中で命を守るために、力の大半を尽くして失い、物質世界に完全におちました。 この星に封印された偽神は今度こそ人間をほろぼそうとした。 そして魔族を土より生み出し、全人間をほろぼそうとしました。 けれど、私は同じように彼らに、知恵をあたえました。 知恵を持った魔族は、偽神よりも人間をえらびました。 偽神はついに、炎より大天使をうみだしました。 そして――大天使と人間と魔族の今に至る争いが、はじまったのです』

声がいったん途切れた。そして、懐かしそうに、言葉を続ける。

『大天使達がついには勝利するかに見えた時でした。 真なる神より、第二の救世主、ソーテールがこの世界に送られて、やってきたのです。 彼は愛で世界をかえました。 しかし彼は、律法を重んじる偽神によりころされた。 けれど偽神も、愛を知って、けれど愛を分からなかった大天使の一人の裏切りにより、ころされました。 そしてこの世界は神のいない世界のまま、つづいてきたのです。

ソーテールは再来を約束しました。 必ず、また来ると、この残酷な世界を救うと言って、この物質世界をはなれました。 ……ああ、彼がくる。 もうすぐ、もどってくる。 ですがそれを決して許さない大天使達がまだ暗躍している。 間もなく起きるは、最終戦争。 私はこの最終戦争のために帝国を開闢し、維持してきたのです……』


 セシルは、絶叫マシンを全制覇して、今はメリーゴーランドに乗っているカミーユを見ながら、ふと思った。

俺が、この子を、俺の子の代わりみたいに思うのは、良くない事なのだ、と。

それでも彼は思うのを止められなかった。彼はカミーユといると楽しくて、腹が立って、嬉しくて、そして――あれをしてやりたい、これもしてやりたい、と言うお節介な衝動にいつも駆られてしまうのだ。

「おじさん、あのね、次はね、」とメリーゴーランドを堪能しつくしたカミーユは言う。「あのお家に入ってみたい!」

そこは、いわゆる『万華鏡の家クリスタルハウス』だった。壁から天井から床まで特殊な鏡で覆われていて、入った者を驚かせ、楽しませる。

「よし、行くか。 あ、でもその前に、アイスクリームとポップコーンを食べようぜ! ちょっと腹が減っただろう?」

「それ、何?」

「へへへ」セシルはカミーユの手を引きつつ、ちょっと笑って、「美味しいものさ」と言った。

カミーユは無我夢中でポップコーンを両手に鷲づかみして食べて、アイスを口の周りがべちゃべちゃになるくらいの勢いで食べた。食べ終わってから、

「うわーん、頭が痛いー!」と泣き出して、「美味しいのに何でー!!!」

「アイスはなあ、急いで食べるとそうなるんだ。 これからはゆっくり食べるんだぞ?」

「はーい」とカミーユが頬を膨らませて頷いた時、電子音が聞こえた。

『ごめん、セシル!』通信端末から、特務員のニナの慌てた声が聞こえた。『邪魔してごめん!』

「何があった?」

『バルトロマイよ!』とニナが叫んだ。『ヤツの姿を和平派圏内で見かけたと言う連絡が入ったのよ!』

「あの疫病神パズスか!?」

それは、かつて閉鎖監獄ヘルヘイムの特別房に入られていた、『猛毒性のヴィルスをまき散らす』能力を持った強硬派特務員の名であった。

『ごめん、それで緊急会議が開かれるの。 本当楽しんでいる所に悪いんだけれど、来てくれないかな?』

「分かった、すぐに行く」

そう言ってから、彼は通信を切り、カミーユの方を見て、謝ろうとしたのだが――カミーユの口が勝手に動き出したのを見て、ぎょっとした。

「超高位度世界認識の発動による未来予知の結果、セシル・ラドクリフの近日中の死亡を確認」

そう言ってから、カミーユは不思議そうに、

「セシルのおじさん、『死亡』って何?」と聞いてきた……。


 「I・C」と、対バルトロマイ緊急会議の後に、セシルはいつものように飲んだくれている同僚の所へ行って、珍しく厳しい口調で言った。「お前に貸した金は返さなくても良いが、代わりに俺の頼みを聞け」

「……何の頼みだ?」とI・Cは不審そうに訊ねる。

「カミーユの『世界認識』に介入して、普通の生活が送れるようにしてくれ」

「普通、か。 普通って何なんだ?」

「ささやかな事が幸せだ、満足だって思える人生の事さ」

「……で、あのガキをその普通とやらにすればお前は満足なのか?」

「満足じゃないさ。 まだまだ足りない。 だが、もう、時間が無いんだ」

「ああ、ペドフィリアでお前が逮捕されるんだな、ついに、ぎゃははは!」

「そんな所だ。 だから、今の内にやれ」

「俺相手に、たかが変身種の一匹が命令口調だなんてなあ。 まあ良いさ、積もり積もったツケがそれでチャラになるなら喜んでやってやる」


 I・Cに認識を封じられたカミーユは、寝てしまった。I・C曰く、

「見えすぎるから片目を閉じさせた、そんな所だ。 慣れない内は疲れるだろうよ。 でも、これでそのガキはどこにでもいる普通のガキだぜ」

これでこの子は、とセシルは思った。幸せになれるはずだ。何かの複雑な書類をデスクで作成しつつ、そう彼は思った。

朝になったら、ソファの上でカミーユは目を覚ました。ふかふかの毛布が掛けられていた。セシルがテーブルの上にシリアルと野菜ジュースを持って来て、

「おい、洗面所で顔洗ってこい。 飯食ったら、今日こそ、『万華鏡の家』に行くぞ!」

カミーユは飛び跳ねた。

「ほんとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!?」

「本当だ。 遊園地で人の列にずーっと並びたくなかったら、ほら、早くしろ」

「きゃー!」

カミーユは全速力で走って行った。


 『万華鏡の家』の前まで、二人は手を繋いで歩いた。

「おじさん、セシルのおじさん、今日は人がこの前よりは少ないね!」

「ああ、今日は平日の真昼だからなあ、まだ少ない方だ」

「いっぱい遊べるね!」

「そうだな、いっぱい遊ぼうな」

「メリーゴーランドにもう一度乗っていい!? あのね、それからね、それからね、」

「落ち着けよカミーユ、今日はゆっくり遊ぼうぜ。 まだ朝なんだから、時間はたっぷりある」

「分かった!」

そして、二人は人気のない朝の遊園地の、『万華鏡の家』に入った。

「わー!!!! きらきらしている!」

カミーユがライトに照らされて、光り輝く鏡の部屋に目を丸くしていた時である。

「ッ!」

セシルがカミーユを抱きかかえて、跳躍した。

天上に着地した時には彼は既に巨大な獣になっていて、その体内にカミーユを隠している。だが、間に合ったかどうか。

だって既にこの部屋は、猛毒性のヴィルスで満たされているのだから。

「流石はあの屠殺屋ブッチャーセシル、もう気づいたんだね」

部屋中の鏡が無数の物腰柔らかな青年を映した。

『……「疫病神」バルトロマイ。 何が目的だ』セシルは問い詰めた。

「いや? 大した目的じゃないんだよ。 とにかく大勢、大勢であればあるほど良い、和平派に帰属した者は殺してくるようにとシーザー様からのご命令でね。 じゃあ大勢人が集まる遊園地でいっぱい殺そうってやって来たら、貴様がいたものだから、邪魔されたくなくて先に貴様を、それだけだ」

『……ぐ、げえッ!』

ヴィルスに既にセシルは感染している。猛毒性の、しかも感染・侵食速度の速さでは屈指のヴィルスだ。彼は嘔吐し、天井から床に墜落して、鏡の破片を周囲に散らした。びく、と動くが、動けば動くほど――。

「さてと、じゃあいっぱい殺そうっと!」スキップしつつ、バルトロマイは部屋から出た。

次の瞬間、鏡が割れる音が響いた。

胸部を触手で串刺しにされたバルトロマイが、げふ、と血を吐いた。セシルの触手が、鏡を貫通して伸びてきたのだ。

「――ふん」

だが、バルトロマイは余裕の笑みを浮かべる。

「僕の血肉に触れるなんて、貴様はもう完全に死んだ。 ご存じ、僕の体はヴィルスの宝庫だからね!」

『……お、れ、は』切れ切れの声が、かすかに聞こえる。『こんど、こそ……』

「今度こそ、何だ? 貴様はもう死んだのさ!」

バルトロマイは身をよじって、触手を切断しようとした。だが、しぶとくて中々抜けない。だが、弱ってしまって死にかけている事は確かなのだ。それで彼は、

「バーカ」と嘲った。


 俺は死にたいななんて思わない。

 でも、いつも、死ねたらな、とは思っていた。

 ――そうだな、死んだのなら、それはそれで良い。

 ただ、今度こそ。


『バルトロマイの位置の特定に成功。 荷電粒子砲、発射』


バルトロマイが触手ごと蒸発した。荷電粒子砲の直撃を受けたのだ。

天井に大穴が空いていて、そこから戦闘機形態のシャマイムが降りて来た。セシルが咄嗟に押した緊急事態を告げる通信端末のボタンにより、バルトロマイが来たと知って哨戒中であったシャマイムが、文字通り飛んできたのである。そしてセシルが力を振り絞ってその場に繋ぎとめていたバルトロマイを、即座に攻撃した。

人型に戻ったシャマイムはバルトロマイの完全消失を確認すると、セシルの安否確認に隣の部屋に駆け込む。

そして、シャマイムは、部屋中に立ち込める腐臭と、吐き気を催すような外見の肉の塊を見つけた。

『よう、シャマイ、ム』

それは、喋った。それがセシルのなれの果てであった。

『カミーユが、おれの、なか、にいる、まだ、感染は、していない、ようだ』

「了解した。 救助する」

シャマイムは変形して、無菌装置になると、セシルの体内に機械腕アームを突き刺して、

カミーユを素早く救出し、装置の中で感染の有無を確かめた。カミーユは気絶していた。

『……バルトロマイ・ヴィルスによる感染の痕跡は、現在では見られない』

『はは……!』セシルが嬉しそうに笑うのが、分かった。『なあ、シャマイム』

『セシル、「核」の汚染は――』

変身種は、その所持する「核」さえ無事ならば、体がどうなろうと、現代では再生治療を受けてどうにかなる場合が多いのだ。

『もう、手遅れだ。 おれは、もう。 でもさ』

『……』

セシルは言った。全ての願いと祈りを込めて、言った。

『おれ、今度こそ、守れたよな?』

『……イエス』とシャマイムは言った。それだけしか、言えなかった。

『よかった……』

セシルは意識を、ゆっくりと失っていった。

遠ざかる意識の向こうで、とても懐かしい誰かに、呼ばれているような気がした……。


 「遺産相続書に後見人の指定に、大ヴァレンティヌス教会への保護願い、名門男子学校パルジファルへの推薦状……完璧ですわね」

マグダレニャンは思わずそう呟いた。セシルのデスクの中から発見された遺言書は、彼女にそう呟かせるほど、完璧であった。セシルの残した全てを使って、カミーユの全てを守る、そんな内容であったから。

「……セシル君は……己が死ぬ事を、知っていたのでしょうか?」

沈痛な顔をしたランドルフが、言った。

「今となっては分かりませんわ。 けれど特務員は、危険な仕事、特に今は戦時中です。 ……覚悟はしていたのでしょうね」

「……」ランドルフは黙り込み、ふと、シャマイムの報告を思い出した。

『セシルはカミーユを自分の息子のように認識していたと推測する』

「……」マグダレニャンも、それを思い出してか、黙り込んだ。

彼女の膝上で丸まっている猫が、にゃあ、とだけ小さく鳴いた。


 「セシルのおじさんは?」

カミーユは、病院で目覚めると、真っ先にそう訊ねた。

「……えっとね」

彼に付き添っていたフィオナが、口ごもりつつ誤魔化そうとしたが、

「死んだぞ」とまたどこかからか侵入してきたI・Cに言われてしまった。

「I・C!」とニナが怒鳴りかけた時、カミーユが、

「死んだ……って、どう言う意味なの?」

「ん?」I・Cはあっさりと、「もう二度とセシルはお前と遊ばないし、喋らないし、面倒見ないし、会う事すら出来ねえって事だよ」

「……ぼく、セシルのおじさんに嫌われたの?」カミーユは見る間に涙目になった。

「逆。 むしろ好かれていたんじゃねえの? お前を庇って死んだらしいしー」

「……ぼくがいなかったら、セシルのおじさんは……死ななかったの?」

「生きていた可能性が大だなあ。 だってアイツ、かなり強かったしー、多分バイキンマン相手でも無事だったんじゃねえの?」

このクソ野郎、と激昂したニナがI・Cを病室から蹴りだそうとしたが、そこにシャマイムがやって来た。

「除菌が完了した。 これが、セシルの『核』だ」

シャマイムはそう言って、カミーユに、彼の両手の掌に収まるくらいの小さな、真珠色の球体を渡した。

「あ……これ、おじさんだ、おじさんの匂いがする!」カミーユが言った。

「是、それは変身種の『核』、つまりセシルの中核だ」シャマイムはそれから、「セシルはカミーユに全財産及び全権利を譲渡した。 今は後見人の大ヴァレンティヌス教会司教ヴォルフラムが代行管理しているが、カミーユが成人し次第、それらは全て譲渡される」

「大ヴァレンティヌス教会司教ヴォルフラムって、あの……」ニナが思わず言いかけて、黙った。それは、セシルの妻子が埋葬されている教会の――。

「おじさんは……」カミーユは、そこで黙り込んだ。ぎゅう、と『核』を抱きしめると、全ての答えが返って来た。


【ACT三】 鉄仮面


 最初の記憶ははっきりとしている。何せ子供だった私の上で男が腰を振っていたのだ。思い出す都度、吐き気がして、私は酷い頭痛に今でも悩まされる。私は男のオモチャだった。気まぐれに遊ばれ、気まぐれに虐待された。そう言う不運な子供は一人では無くて、と言うのも、地下室には私のような子供の死体が剥製にされて無数に飾られていたからだった。この間の記憶は、はっきりしない。思い出すと私が壊れてしまう、と言う防衛本能からだろうか、ぼやけている。唯一覚えている事は、痛かった事、苦しかった事、止めて欲しかった事、涙すら出てこない辛さ……とにかく苦痛と負の感情だ。私には最初の記憶以前の記憶は、無い。後で知ったのだが、薬物で記憶が消されてしまったらしい。

 だが、幸い私は剥製にされる前に救われた。ある夜、忘れもしない、月が綺麗な夜だった、私の上でいつものように男が腰を振っていたら、窓ガラスが蹴り破られて、見た事も無い青い男が大剣を振りかざして強襲してきたのだから。

ほぼ同時に、玄関の方から、銃声と怒鳴り声が聞こえてきた。

男は私を人質に、何か言った。きっと命を助けろとか見逃せとか、そんな事を。

だが青い男はちょっと考えてから、こう言った――「えーと、何だ、こう言う時は何て言うんだ? ああ、そうだ、思い出した!

 死ね」

次の瞬間、青い男が私の目の前に現れて、同時に男の首が刎ねられていた。私は青い男に抱きしめられていた。そして、頭を撫でられて、こう言われた――。

「よく我慢したなあ、でも、もう我慢しなくて良いんだぜ」

私は、とにかく怖くて震えていた。そこに、ドアを蹴破って、紳士の見本のような男が登場する。そして、不満そうに言った、

「何だカール、殺してしまったのか」

「あ、ごめん。 でもシラノ、お前が俺でもあれは殺していたぜ?」

「じわじわとなぶり殺しで、な。 ……地下室に今まで孤児院から金で買収した子供の残骸がいくつもあった。 その子も、いずれは――」

「そうか。 とにかく、俺はこの子を病院に連れて行くよ」

「ああ。 後始末は私に任せておけ」


 病院で、私は、眠った。けれど酷い悪夢を見て、何度も起きた。

けれど、その都度、側に、あの青い男がいて、水を飲ませてくれて、頭を撫でてくれた。そして、私の骨ばった青白い手を握ってくれた。すると、私は悪夢を見ずに眠る事が出来た――。

あの手の温もりは、酷く優しくて、何の代償も求めていなくて、包み込まれるような記憶になって、今でも私の手の中にある。

 それから一〇数年が過ぎて、私は大学を卒業し、奨学金を返済する代わりに、万魔殿の幹部候補生としての道を選んだ。金の問題では無かった。万魔殿の幹部に、あの青い男がいると、そしてその男は『大帝』と呼ばれるほど名高い男である事も、その時の私は知っていたからだ。

私は、よく、人から、怖い、と言われていた。何を考えているのか分からないのに、こちらの考えは全て見通しているから、怖い、と言われていた。私が賭博人だったら、さぞ大儲けできただろう。でも、私は、単に、どうやって己の感情を表現したら良いのか、知らなかったし分からなかっただけなのだ。怖かったのだ。怖かったのは私だったのだ。己の感情を表現する事で、人からどう扱われるのか、どんな反応が来るのか、分からなかったから、怖かった。かつて私が泣き叫んだ時は、狂った喜悦の笑みが待っていた。だから、私は。

 私は順調に出世して行った。その内に私は、大帝の『歪み』に気付いた。それは誰もが知っていたが、あえて沈黙していた『歪み』であった。

大帝は結婚していた。だが、その妻オディールとの仲は、最悪と言っても過言では無かったのだ。大帝はオディールを徹底的に無視していた。オディールが何をどうしようが、無視を貫いていた。どうも大帝には他に好きな女性がいたらしい、だが彼女を殺してまでオディールは大帝を得ようとした。だが、大帝の心までは得られなかった。当然だろう。殺してしまった事で彼女との全ては大帝の中で美化され昇華される事はあっても、オディール以下には絶対にならない。むしろ大帝はオディールを憎むだろう。いや、憎しみすら彼は通り越して無視しているのだ。

私は、あの温かい手が、この歪みに耐えていたからだと知って、苦しくなった。聖教機構の教えでは、人は誰しも己の十字架を背負って歩かねばならないと言う。彼は、だとしたら、何と重たい十字架を背負わされているのか。

 そこで私は、何故私が彼のためにここまで考えているのか、自覚して、はっとした。

冗談、ではない。いっそ気の迷いであって欲しかった。だが、この感情は、そう、あの悪夢のない安らかな眠りから、ずっと――。

私は、その感情を反射的に刺殺した。

この感情を行動にしたならば不倫、不義であるし、何より人として許されるはずのない感情だ。彼だって望まないであろう、この私の感情を、私は完全に邪魔だと判断した。だから、私は、この感情をこの手で殺した。

 私は順調に出世した。異例の出世だ、と人に言われるほどであった。私は、得意だった。人を操作する事にかけては、世界一だったのではないか、それくらいに得意だった。その背後に、人の感情が、人そのものが怖い、と言う思いがある事に気付いていながらも、私は人を操作し続けた。

忘れもしない、二七歳の春。私はついに万魔殿の幹部の一人になった。

そして私は、彼と直に顔を合わせるようになる。

『大帝』

やはり、不思議な男だった。美形では無いのに恐ろしく魅力的で、言う事やる事に絶対的な指導力と説得力があった。私も彼に魅惑されて行ったが、それは誰もがそうだと思っていた。殺したはずのあの感情を、この頃には私は忘れていた。大帝は私を信じてくれた。私と私の実力と私の出す結果を信じてくれた。

私は、怖くなった。この男に嫌われ、信じられなくなる事が怖くなった。私はいつものように、いつも人を操作するように、大帝を操作しようとした。いつまでも私を信じていて欲しい、嫌わないで欲しい、この願いを叶えるために。

途中までは順調だった。大帝ですら、私の手の平の上で踊っているかに見えた。私は必死だった。このまま、どうか、踊っていて下さい。私を、絶対に、捨てないで下さい。

けれど、ある日、それは一瞬で瓦解した。大帝が私と二人きりの時に言ったのだ、

「なあ、俺をこんな操り人形にしてお前は楽しいのか?」

私は真っ青になった。気付かれた。気付かれたからには、捨てられる。私は猛烈な恐怖に襲われた。私は、この手で刺して殺したはずのあの感情から別のこの感情が芽生えてしまって、見事に育ってしまっていた事にやっと気付いた。

大帝への依存心。

あるいは、大帝への未練、と言い換えても良いのかも知れない。

私は要するに、まだ、大帝の事を――!

「                」

言葉は出なかった。なのに、目が急に熱くなって、私は十数年ぶりに声も無く泣いていた。楽しい訳が無い。だって、怖かったのだから。この人に捨てられる事が、何よりも怖かったのだから。楽しくなど無かった。いつも不安と恐怖と、罪悪感だけがあった。それでも私の依存心は、まるで麻薬に溺れた者のようにこの人を求め続けた、たったそれだけだ。

「そうか。 お前、俺の事、好きだったんだな」

止めて下さい殺して下さい一思いにここで、今ここで私を殺して下さい!

「泣くなよ。 お前は、悲しくて、寂しくて、辛かったんだな。 お前さ、感情を表に出さないから、ちっとも分からなかったよ」

お願いしますお願いしますどんな処刑方法でも構いません即刻私を殺して下さい!

「俺なあ、モニカを殺されちゃったんだ。 アイツ以上に愛せる女なんていないよ。 でもさ、その代替品としてならきっとお前を愛せるんじゃないかと思う」

駄目ですそれは駄目なんです、駄目だとずっと、私は、私が!

「良いんだよ」抱きしめられた瞬間、私は、今まで鉄仮面を被っていた私は、崩壊した。「俺だって誰かを愛したいんだ」


 こんな激痛を伴う幸せがあるなんて、知らなかった。

私は激痛に呆然としつつ、その事に驚いていた。

世界は鮮やかに美しく、そして残酷で、無慈悲な運命は私達を時としてとんでもない方向へと突き動かす。

心臓が痛い。このまま息絶えてしまいそうなほど痛い。なのに、私は、幸せ、なのだ。紛れも無い、純然とした。

「なあ」と彼は私を抱きしめてくれた。それ以上の事が私には出来なかった。やろうとすると、あの忌まわしい悪夢が襲ってきて、私が半狂乱に陥るからだった。でも、彼は、強要する事も無く、ありのままの私を受け入れてくれて、ありのままの依存心を受け止めてくれて、その癖、私と彼の間には適度な、心地よい距離があるのだった。「お前は、今、幸せか?」

幸せです、息絶えそうなくらいに。このまま死にたいと祈るくらいに。

私は頷いて、彼の腕の中で眠った。悪夢は一度も見なかった。

 私達の関係に一番に気付いたのは、オディールだった。私は半狂乱の彼女に殺されかけた。無理は無いのだろう、どうしてでも得たい男が、また別の誰かを愛してしまったのだから。私は大怪我を負った。それで彼と私の関係は、周知のものとなってしまった。私は軽蔑されて、オディールは同情された。

この時、私は気付いた。この立場が非常に便利である事を。彼以外の全人類に嫌われている方が、私は仕事がやりやすいのだ。私の仕事は、誰もがやりたがらない、だが組織を維持していくには必要不可欠なものであって、ただ、彼が私を信じていてくれなければとても務まらないものだったから。私は私の鉄仮面がいよいよ堅牢になっていくのを感じた。この鉄仮面を取るのは彼の前だけで、後は徹底して被り続けた。私はもはやそれに恐怖を感じていなかった。彼の腕の中で眠る、この日々が、そして彼の栄達の道が、私の名誉の犠牲の上に成り立っているのならば、それは何と幸せな犠牲なのだろうか。仮に恐怖があるのならば、幸せすぎて怖い、くらいなものだった。優しい彼は嫌がって、私の名誉の犠牲をどうにかしようとした。私は言った、心底幸せを感じつつ、言った――、

「貴方だけが私を分かってくれている。 貴方だけが私を知ってくれている。 これ以上の幸せを求めたら、傲慢と言うものです」

「けれど、」

「私の鉄仮面を外せるのは貴方だけだ。 外して良いのは貴方だけだ。 私の鉄仮面は喜んで敵意を浴び、憎悪の対象になる。 その一方で貴方は燦然と輝く。 鉄仮面を被る私は今、心底から幸せなんですよ」

 オディールに私が殺されかける事、実に五回目。彼は、流石に限界に達したらしく、オディールをどうにかしようとした。私がオディールを操作すれば私を殺させるのを止める事など容易だったが、彼女が可哀相で出来なかった。彼女は哀れだ。私は傲慢に、その傲慢さの自覚はあったが、そう思っていた。万が一私が殺されたとして、それはそれで私の幸せが完璧で完全なものになるだけなのだ――彼の中で私は『彼女』のように美化され、昇華されていく。彼の中で愛される事が永遠に確定した瞬間、私は運命の勝利者になれるのだ。

だが、彼はそうは思わなかったらしい。

「生きてさえいてくれれば、なあ……生きていてさえくれれば……」

彼はオディールを妊娠させた。人工授精だった。オディールは満ち足りた顔で、私を見下した目で見た。私の隣から彼は去り、オディールの所へ帰ったに見えた。でも私は分かっていた。彼は優しいのだと言う事を。

案の定、彼女の優位性は、半年も持たなかった。胎児が無事に産まれてくる事が確定した瞬間、彼はオディールへの興味の一切をまた失ったのだ。要は彼はオディールではなくて、何の罪も無い胎児が気になっていたのだ。

オディールは絶望した。絶望して、彼の子供を産んだ後に、ほとんど自殺に近い形で、死んだ。私への風当たりは、露骨なものになった。

当然だろうと分かっていた。むしろ有難いくらいだった。私の鉄仮面は既に完成していた。誰に何を言われそしられ嫌われ忌まれても、平然と、こう言い返せるほどに――「それで結局貴方が言いたい事は私が嫌いだと言う事なのでしょう? 私はそんな些事よりも仕事の話がしたいのですが」

私は彼の子供にも嫌われようとした。いずれこの子が大人になって全ての事情を知った時、ためらわないように。むしろ喜んで母親を奪った相手に復讐するように。復讐は何も生まないが、復讐をしなければ終わらない事もあるのだ。

そんな中、だった。彼が長年の目的のために帝国に赴く事になった。帝国商都ジュナイナ・ガルダイアに彼が着いた日の、彼にしてみれば夜の事だった。半泣きの通信がやって来て、私は彼が失敗したのかと最初は驚いたのだが――。

『クセルクセスさんが、良い人過ぎてさあ、女まで手配してくれちゃったんだよ』

「でしたらその女性と性行為を持って下さい」

『少しはためらってから言え!』

「ためらうも何も、クセルクセスの機嫌を損ねたら貴方の夢が失敗に終わる可能性が高いのです。 私は全部分かっていますし、知っていますから、どうか性行為を持って下さい。 クセルクセスが手配するような女性ですから、失態などは起きないでしょう。 ですから、さっさと」

『バカッ! 馬鹿! 馬鹿野郎! 俺は、あのなあ!』

「手順を知らないのでしたら、ええと、まずは陰茎を勃起させて下さい。 女性の方からして下さるでしょう。 いえ、案外、貴方に主導権を握らせるかも知れない。 次は女性の膣に、」

『いい加減にしろ!』

「いい加減にするのは貴方ですよ。 私は貴方に夢を叶えて欲しい。 そのためにここまで万魔殿一の悪役を演じて来たのです。 私の苦労も貴方の夢も全て、たかが一夜の性行為の有無で台無しにしたいのですか」

『でも……』

「私は貴方がこうやって私のために、ためらって下さった事が心底嬉しい。 私の素直な感情は、それだけですよ」

『……けど……』

「さあ、早く。 ぐずぐずしていると、怪しまれます」

『……うう……』

「何が『うう』ですか、全く、さっさとして下さい。 私は今、貴方が早くしないので少し苛立っているくらいなんですよ」

『……うん』

私はその夜、一人で寝て、けれど、誰にも知られないように、こっそりと笑った。

 この時。

この時、もしも私が、『女』の正体を知っていたならば。

……不可能だったとは知っているが、連鎖悲劇は、絶対に食い止めただろう。


 大帝がある日、彼の夢のために、私をとある男と極秘に引き合わせた。私は、覚悟はしていたが、この事実が明るみになったならば、今の世界は根幹から崩壊する、とさえ思った。

「うん、コイツが俺の懐刀ジュワユーズ」と男に私を紹介してから、彼は、「ところでギー、そっちの腐った目をしているのって、もしかして……魔王さん?」

万魔殿の宿敵である聖教機構の、最高指導者『聖王』ギー・ド・クロワズノワに随行していた薄汚い男は、よどんだ目を丸くして、

「あの時とは姿形も激変したってのに、良く分かったなあ……。 そうだよ、俺があの時の魔王だ」

彼は言う、「いや、何か気配がさ、何か、独特って言うの? だって魔王さん、もう数千年は生きているだろう? 何か普通の魔族とは違うなあって。 で、ギー、状況はどんな感じだ?」

聖王は答えて、

「もうしばらく、と言った状況だな、チャーリー。 今、私の大きな反対勢力となるであろう存在の弱みを握ったり、懐柔したりしている所だ」

「そっかー、こっちは姉貴達の説得にやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと成功した。 これでこっちはほとんど大丈夫だよ。 俺が頭上がんないのって、姉貴達だけだったし」

「そうか、では、そろそろ調印場所を正式に決めた方が良いな」

聖王と彼は、旧知の仲だったのだろう、親しいと言うか、馴れ馴れしい言葉の応報で、私には察しがついた。

「帝国は、この事は絶対に黙っているけれど、絶対にウチじゃ駄目だって言われたしなあ。 ヴァナヘイムはどう?」

「ヴァナヘイムか……あそこは今、総代が代わったばかりで、しかもまだその総代は幼い双子だと言う。 この機密をその時まで守秘してくれるか、不安だ」

「ああ、そっか……。 一度権力交代が起きると、落ち着くまではアレだもんなあ……とすると……」

「ウトガルドしかないな」

「ウトガルドか……ウトガルドはウトガルドで、後継者問題があるみたいだぜ? 何でも今の王の子が死産で産まれちゃったとか……」

「それでも、今の王が急死でもしない限り、しばらくは安定しているだろう」

「そりゃそうだな」

「では、公開はいつにする?」

「そっちが片付き次第いつでも。 ……なあ、ギー、お前さ、世界が平和になったら、何をする?」

即答で断言が飛んできた。

「私の世界一可愛いマグダとドライブに行く以外の何をしろと?」

魔王がぼそりと、「娘とドライブ? 暴走親子ジェットコースターの間違いだろ」と言った。聖王は彼を睨みつけた。

「黙れ。 私はとっとと引退してマグダと一緒にあちこちドライブに行きたい。 今まで私の仕事で散々寂しい思いをさせたからな……チャーリー、お前は?」

「んー、秘密。 でも、ちょっとお前のと似ているかな? 俺も、好きなヤツと、ゆっくりするよ」

そして、彼は、毒気の無い、あの無邪気な笑みを浮かべた。


 彼の息子は、どうしてか、私を嫌い、憎まなかった。むしろ私は、懐かれた。私は辛辣に彼に接しているのに、何故。操り方はこれで良いはずなのに。

その原因を知った時、私はしまったと心底から後悔した。私は致命的に操作法を間違えたのだ!

彼の息子は、母親を亡くし父親に育児放棄された可哀相な可愛い子と、誰彼からも溺愛され過ぎて、逆に私みたいなずけずけと毒舌を吐く方がうっとうしくない、のだ。

かと言って私の鉄仮面は、彼を溺愛する真似事をするには重たすぎた。

嫌われるはずが好かれてしまった。私は困った。大帝以外の誰かから好かれるなんて経験が無くて、どうしたものか、本当に分からなかったのだ。

「貴方はいつだって毒舌だ。 辛辣な事しか言わない。 でも、嘘も絶対に言わない」

そう言って、彼の息子は、私の後ろを、まるで鳥のヒナのように付いて回るのだ。

「私は君の父親と不倫関係にあって、そのために君の母親は自殺に近い形で死んだ。 その私を嫌わないとは君は親不孝者だな」

ここまで露悪に言ったのに、彼の息子ときたら、

「記憶にすら無い母親よりも無視ばかりする父親よりも、誰彼からも嫌われつつも仕事だけはきっちりやって、万魔殿を陰から支えていると言っても過言じゃない貴方。 どいつもこいつも俺を可哀相だからと甘やかす中でたった一人事実と真実を言う貴方。 あんな無責任で馬鹿な連中よりも、絶対に嘘を言わない貴方の方が余程信頼できますからね」

「……」

畜生、可愛げのないガキだ!また、私は、怖くなってしまったじゃないか!

……だが、この少年に好かれようとこれ以上操作する事など、厚かましくて私には出来なかった。

「なあ」と大帝がその事を暗に言い出した時、だから私はぎくりとした。「お前さ、オットーに好かれているだろ」

「……嫌われようと善処しましたが、何故か、向こうはこちらを、」柄にも無く私は言い訳を並べ立てかけた。

「お前もオットーが可愛いんだろう?」

図星、だった。私は、彼の思いもかけぬ鋭さに、息が詰まった。

「良いんだ。 お前さ、俺の代わりにさ、アイツを育ててやってくれよ。 俺はアイツに関われない。 関わったら、いつの日か、憎む日がやって来る。 アイツの半分は俺で、でも残りの半分はオディールの遺伝子が入っている。 子供なんて親の遺伝子なんか無視して育つなんて事は知っているけれど、でも俺は割り切る事が今でも出来ていない。 だからさ、お前が育ててやってくれ」

「貴方は、」まだ彼女の事が好きなのですね、愛しているのですね。

私は彼の十字架の重みに、泣きそうになった。せめて私も一緒に支えられたら良いのに、彼は一人で、独りで、一生背負っていく事を決断しているのだ。

「頼んだよ」そう言って、彼は、私を抱きしめた。


 世界中が仰天した。この数百年間、絶えぬ世界戦争を繰り広げていた聖教機構と万魔殿が、ついに恒久和平条約を締結すると発表したからだ。

彼は、そして、そのためにウトガルド島の離島へ向かった。本来ならば私も行くはずだったのだが、オットーのためと、万魔殿内の統制のために残った。

間もなく彼の夢が叶う。私は、それが嬉しかった。

『俺も、好きなヤツと、ゆっくりするよ』

彼の事だ。夢が叶った後は、魔族の長い人生を、好きなように生きるだろう。もしかしたら、と私は思う。魔族の生は人間よりも長い。もしかしたら、数十年かけて、彼は己の息子を愛せるようになるかも知れない。生きていれば、と彼は言った。そうだ、生きている限り可能性はある。何にせよ、これからだ。私は、そう思っていた。


『BB事件』


 全てが暗転した。聖王も大帝もその取り巻きの誰もが調印場所で行方不明となり、彼らの恒久和平条約はご破算になった。その直後に万魔殿に現れたジュリアス・エノクと言う謎の男が、元々私達に反対していた勢力を一気に統括し、私の、そして『彼女達』の反対組織となって、同時期に聖教機構に登場したシーザー・エリヤと言う男が率いる聖王の反対勢力と激しく争い、すぐさま第一一九次世界大戦を勃発させたのだ。

私は、必死にジュリアスを操ろうとした。醜い政権闘争を起こしてまで、この危険すぎる男を万魔殿から追放しようとした。この男は、私と『彼女達』の敵対者だったし、何よりその行動理念が不可解で、得体が知れない癖に、恐ろしいまでのカリスマ性があって――一気に勢力を拡大させたのだ。

私は、彼の死を、認識できず、そして、その時の私には彼がいなくなった事を悲しむ余裕すら無かった。全力で戦わねばこちらが崖っぷちから突き落とされる、ジュリアスはそれほどの危険分子だった。だが、皮肉な事に、この危険分子が私の名誉を挽回させた。ジュリアスと必死で戦い、その一方で彼の夢を捨てきれない私は、『彼女達』から認められて、そしてその認知は盟友の間にも広がって行ったのだ。彼の夢を捨てたら、彼は本当に私の側からいなくなってしまう。私はそれを知っていた。否。彼の夢の残骸を必死に取り戻そうとしていなければ、私は気が狂ってしまう。幸い、私の鉄仮面は、その弱さをも、良い具合に隠してくれた。だが、人が分厚い鎧で身構えるのは、背後にある恐怖からなのだ。

「どうやら君は……」シラノが、今までは蔑んだ目で私を見ていたのだが、ふと違った目で私を見、そして言った。「私が思っていたよりはまともな人間らしいな」

「まともも何も、私はただ彼の残した仕事をやっているだけですが」

「ジュリアスよりはと言う事だよ。 あの男は、明らかにおかしいのだ。 聞いただろう、まだ七歳の児童に聖教機構幹部相手の自爆テロをやらせたと言うのは」

「……」

聞いた。第一一九次大戦が勃発した要因の一つだったからだ。

「アッシャーもマルクスもエウジェニアもアルセナールも私と同意見だ、とだけ今は伝えておこう」

そう言って、シラノは、去って行った。


 私は貴方の事を愛していました。

貴方は優しくて、私の狂った依存心を受け止めてくれて、かつ、私と貴方が共依存にならないよう、支えてくれた。

貴方のために私の全てが奪われ失われるとしても、それは私の喜びでしかなかった。

貴方が言っていた言葉の意味が、やっと分かりました。この世で貴方以上に愛せる人などもはや存在しない。その言葉の意味、背負う十字架の重さ、悲しみが、やっと私にも分かりました。

貴方が側にいた、私が側にいられた、それだけで恐ろしいまでに満たされていた。

あの幸福から、貴方を喪って十数年が過ぎました。

太陽が無いために月も輝かない、その暗黒の夜が幾夜も続きました。

その挙句に、ようやく、貴方が生きていて、けれど、それはもはや望まぬ生である事が知れました。

私は、本来ならば貴方を生かしたい。

ありとあらゆる非道な手段を使い、全ての人倫を撃破してでも貴方を生かしたい。

でも、貴方が、貴方の夢のために、そして私が愛した貴方として死ぬためには、私の命令で殺すよう言わねばならないのです。

いえ、かつて私が貴方との和解を望んだ貴方の息子が、今や貴方を殺さんとしている。

彼は貴方に復讐し、貴方を殺さねばもはや生きていく事が出来ない。

復讐は何も生み出しません。けれど、復讐しなければ終わらない事もある。

更なる悲劇を私が、私達が食い止められなかったばかりに、悲劇は連鎖したのです。

この世界に神がいるならば、それは間違いなく残酷な神なのでしょう。

――ただ。

貴方を殺すよう命令は下せても、私は、まだ、貴方を愛しています。

愛しくて哀しくて、鉄仮面の向こうで、私は、泣いています。

誰か、この愛を殺して下さい。

刺殺なり絞殺なり、殺し方は何でも構いません。

一刻も早く、私の愛を殺して下さい。

さもないと私は、この鉄仮面を、今にも脱ぎ捨ててしまいそうだ……!


【ACT四】 プライド


 彼女の体は、特型洗脳培養槽『エレナ』の触媒液の中でゆらゆらと揺れている。その前にランドルフは立ち、そして思った。

何が私とお前のこの決定的差異になったのだろうな、と。

彼女は『エレナ』の特殊な作用により、昏睡状態に陥らされている。彼女の意識が目覚めようものなら、一大事になる。それは聖遺物『聖釘』の模倣物である『エレナ』が失敗した事を意味するからだ。

『聖釘』の模倣物『エレナ』――それは、長い歴史の間で失われた聖遺物『聖釘』を人の手で蘇らせようとした禁断の研究の副産物として、偶然に誕生したものである。

その機能は簡単である。『エレナ』内部の培養槽に閉じ込めた人間を、魔族を、完璧に洗脳しあげるのだ。まるで『鋼鉄の乙女』の中に閉じ込められた人間が、無数の鉄の棘で全身を刺されて血まみれになって息絶えるように。

複数ある伝承によれば、本来の『聖釘』の能力は単純そのものであった。

『永遠の命』

『聖釘』と適合した者にはそれが与えられるのだと言う。

だが、『聖遺物』の非適合者が接触した場合は、他の聖遺物同様に例外無く死ぬと言う。第一、『聖釘』と適合する者が出た場合には、永遠の命ゆえに『聖釘』も永遠に消えるので、これらの伝承も怪しいものだ。とは言え、『聖釘』は聖遺物である事は完全に確定していた。何度か、永遠の命欲しさに触れた者が、全員死んでいるからだ。

そのために『聖釘』も厳重に封印されて保管されていたはず――だったのだが、何故かある日、あるべき場所からこつ然と姿を消していたらしい。

泥棒に盗めるはずが無いのだ。『聖釘』も、接触して適合しなかったものに対しては、それが何人たりであろうとも死を与えるのだから。

だが、『聖釘』はその日以来、行方不明になった。

他に聖遺物の中で所在も機能もはっきりしないものには、『聖杯』がある。それは救世主が死んで間もなく行方不明になったそうだ。その理由は数多あるが、いずれも憶測の域を出ていない。何せ数千年前の事で、事情を知る者が誰もいないからだ。

 『永遠の命』を求める研究の中で、誕生した『エレナ』は、『命を繰り返させる』事に近しい作用を持っている。

人を完全に洗脳するにはどうすれば良いのか。その手段には、強力な薬物を用いる、説得する、精神を破壊する……いずれも危険で不確定要素が多い行為だ。

だがこの『エレナ』は根本から違う。

人を完全に洗脳するにはどうすれば良いのか。

その完璧な解答を表示している。

人がその記憶や根本的信念、感情、その他もろもろの『胎児の頃から培ってきたもの』で形成されているのならば、時を逆行させて、胎児の頃から全てを、こちらの都合の良いようにやり直させてしまえば良いのだ。これを悪用すれば、赤ん坊に大人の知識を全て詰め込む事も可能であるし、逆に赤ん坊の知識しかない大人も作成できる。人の精神年齢は仮想世界で好き勝手に、あまつさえ肉体年齢すらも、『エレナ』は超高度老化再生技術で自由自在に操るからだ。

そして、その『エレナ』はそれゆえに危険だと判断され、技術ごと閉鎖監獄ヘルヘイムに封じられた……だが、この女を洗脳するために、今回限りで引っ張り出されたのだ。

この女。

名前を、イザベル・アグレラ。

先日に壊滅状態に陥った、万魔殿過激派最強兵力、『強制執行部隊』の総長であった。


 「ようランドルフ」

いきなり、背後から声がした。

「!」

イザベルをじっと見つめていたランドルフは、はっとした。だが、振り返らずに、ため息をついて、そして言った。

「何の用かね、I・C?」

「何の用って、そりゃー決まってんだろ、お嬢様が仕事だーってお前をお呼び出ししてんだよ。 ……だが案の定ここにいやがったか。 昔の女ってのは、誰にとっても今に至る問題なんだなあ」

ランドルフは、ふと思い出した。

「……I・C。 グゼ君から聞いたのだが、お前は人を精神世界に飛ばせるらしいそうだが、それはいつでも可能なものなのかね?」

「うん」と素直な返事の後に、邪悪な声が待っていた。「そうか、お前、まだこの女に未練があるのか」

「ある」ランドルフは、この男に対して余計な言葉を言っても更に余計な事態を招くだけだと知っていたので、率直に言った。「だから私はここにいる。 お前が私を精神世界に飛ばしてくれないのならば、私はお嬢様の所へ戻らないつもりだ」

「げー」露骨に嫌そうな声。「お前を連れ帰らなかったら、俺までお嬢様に雷落とされるじゃんかよ!」

ランドルフは、強引に、言った。

「急いでくれたまえ。 それが双方にとって、利となるだろうよ」

声は憎々しげに、

「この俺を脅しやがった。 畜生、仕方ねえな! 覚えてろよ!」


 そこは、何も無い世界であった。ただ、彼女と、ランドルフだけが向かい合う形で存在していた。

「……ふん。 ランドルフ、貴様がまだ生きている、と言う事は、私達は敗北を喫したのだな」

イザベルは酷く冷静に状況を判断して、そう言った。ランドルフは、頷いた。

「そうだ。 君達は、壊滅した」

「そして私がまだ生きている、否、生かされていると言う事は、何だ? 拷問か、洗脳か、どちらだ?」

「君にとって最も耐えがたい方だ」ランドルフは、そう言って、沈痛な顔をする。「今、君はあの『エレナ』の中にいる」

「……『エレナ』か。 最悪の洗脳装置だったな。 だが私は貴様らに負けたのだ。 好きにしろ。 敗軍の将は兵を語らず、だ」

「……君は、そうだったな。 いや、そうなるしか無かったのだ……」

ふと何も無かった景色が移り変わる。そこは、かつて『メルトリア王国』と呼ばれた小さな国の首都の景色であった。ランドルフはその景色を一瞥してから、

「君はメルトリアの一高級将校の娘だった。 メルトリアの一政治家の息子だった私と同じように、メルトリア王国の宮中で育った。 だが、私達が丁度一〇歳の時に、メルトリアは……」

「そうだ、クリスタニア王国を最も卑劣なやり方で裏切り、激怒したクリスタニアによりすぐさま滅ぼされた。 私とお前も、万魔殿に亡命し、そしてそこで育った――『裏切り者の』メルトリア人と言う烙印を、毎日毎晩毎刻毎秒のように押されながらな!」

イザベルの形相が冷酷なものから、豹変した。同時に景色も変わる。嘲り、蔑み、侮り、嫌悪感。そう言った人間の顔が無数に彼らを取り巻いていた。それを冷酷な目で見渡してから、彼女は言う、

「私はこれに耐えられるほど誇りの無い人間では無い。 ランドルフ、貴様もそうだっただろう。 だから私達は反万魔殿派のテロリストになった。 全ては我らの誇りを奪還するために。 浴びせられた泥を跳ね返すために。 だが、あの日! あの日以来貴様は変わり果てたな!」

ランドルフは、ただ、頷いた。

「……そうだ。 大帝が私達の制圧に直々にやって来た、あの日。 その時私達は『三人の魔女』の殺害を計画していた。 万魔殿の女神とも言える彼女達を殺す事で、私達は『裏切り者』から『偉大なる弑逆者』へとなろうとした。 私達は徹底抗戦した。 だが、大帝により瞬く間に鎮圧された。 そして君は万魔殿支配圏より追放され、私も追放された……あの時。 あの時の選択が私達を永遠に別けたのだろうか?」

「当然だ。 貴様は大帝ごときに懐柔された! 『どこにも居場所が無いのなら、心当たりがあるから、こっちに来いよ』……実にふざけていた。 心底から馬鹿にしていた。 私達の誇りを何だと思っていたのだヤツは!」

「イザベル……」ランドルフは、悲しそうに言った。「君は強い。 だからこそ、誇り高かった。 だが、君は誇りプライドを抱くと同時に傲慢プライドだった。 今でもそれに、君は気づけてはいないのだろうね」

「何だと?」イザベルの形相が、殺意を懐胎した。「もう一度でも言ってみろ、ランドルフ!」

けれどランドルフの顔にあるのは、悲しみだけだった。

「……これが、現実の世界ならば、私は何度だって言っただろう。 だが、私は君に会いに来た。 私を覚えている君に会いに来た。 最後に、会いに来た。 だから、もう、二度は言わないよ。 君は全てを『やり直しリセット』させられる。 君の誇りも傲慢も何もかも喪って、私を知らない、私の知らない君になってしまう。 ――君はその傲慢さを、君の七歳だった義理の弟にも受け継がせたね。 君の弟は聖教機構幹部を自爆テロに巻き込んで己ごと殺した。 そして君達は、それを高らかに謳い上げた。 立派な事だと、殊勝な行為だと、喧伝した」

にやりとイザベルは笑った。

「そうだ、そうだとも、アルフォンソは立派だった。 正に私の弟に相応しかった! 義理も何も無い、アルフォンソは私の正真正銘の弟だ!」

「そうか。 もはや、君と私では、価値観では無く、言葉が違うのだな……」

「まだ分かっていなかったのかランドルフ。 貴様は本当に駄目な男だな」

「そうだ、駄目な男だ。 いまだに君に未練がましい、本当に駄目な男だ」

世界がゆっくりと崩壊していく。崩壊は加速していく。イザベルの全てが消えていく。ランドルフは、それでも毅然として、否、むしろ己を嘲る者全てに対して嘲っている彼女に対して、最期にこう告げた――、

「さようなら、イザベル。 今度こそ、永遠に、さようならだ」


【ACT五】 狂信国家ロト


 その国ではこの現在になっても、なお、魔族が激しい差別を受けている。その国はどこの勢力にも与せず、鎖国状態を徹底して貫いている。その国が島国であった事も幸いしてか災いしてか、密入国も難しいため、その国で起きている事のほとんど伝聞であり、風聞である。だが、嘘だろうと思わせるような内容のものが大半であったため、おとぎ話のようなものだと多くの人間には信じられていた。

だって、

『魔族を焼き殺すのがお祭り』とか、

『あり得ないほどの厳しい身分制度があって、奴隷階級がいる』とか、

『犯罪者を出した一族は被差別民に落とされるために、犯罪を起こした者は一度族内で先に始末する』とか、

『自由恋愛など死刑に匹敵する罪らしい』とか、

とても今の常識では考えられないような代物なのだ。


「全部事実だぞ」とI・Cは言った。「だって俺、燔祭の贄にされた魔族が生きたまま焼き殺されるのをこの目で見た事あるもん。 自由恋愛して、運悪く妊娠した女が腹掻っ捌かされて胎児ごと殺されるのも見たしー。 奴隷? ああ、三日に一回は奴隷共があの国から逃げようとして、逆にボッコボコにされて殺されていたなあ。 あそこは時が中世で止まっているんだ。 で、その狂信国家ロトに何の用だ? あそこは聖教機構も帝国も万魔殿も拒絶し続けて来た異常地帯だぞ? あんな所に手ぇ突っ込んだら嫌な目に遭うぜ? それとも無差別爆撃するのか?」

「本来ならば無差別爆撃をしたいところなのですわ」と意外な事をマグダレニャンは口にした。彼女は無差別爆撃など嫌いに嫌っているからだ。「かの国の元首、いえ、女王の名前を知っていますこと?」

「ん? あっちは代々『シバの女王』って……確か基本的に女系継承で、女王になると同時に名前を無くし、ただ『シバの女王』と呼ばれるだけだったはずじゃ?」

「それが、即位前の個人情報が手に入りましてよ」

「一体全体誰だったんだ」

「ドビエル、と言えばもう分かりますわね?」

「ほう」とI・Cは目を細めた。「サンダルフォンの元代理人、か。 なるほど、それで?」

「狂信国家ロトは、現在、破たん寸前の経済状況なのです。 その理由が、『バベル・タワー』と言う謎の施設の建造に国税の大半をつぎ込んだためらしいのです」

「……どうしてお嬢様、その情報を聖教機構が掴めた? あの孤島から奇跡的に亡命者でも出たのか?」

「ええ、奇跡が起きたそうですわ。 『洗礼者ヨハネ』と言うA.D.が、今、あのロトで謎の宗教活動を行っているそうなのです――とてもただのA.D.に可能だとは思えない数多の奇跡を起こして」

「……」

「その中の一つがとんでもないもので、何と、海の上を人に歩かせて、数多くの亡命者を国外へと逃がしたそうなのです。 I・C、それは貴方でも可能ですか?」

「出来ない訳じゃない。 だが……俺以外で出来るヤツなんか本当に限られている。 そいつは何なんだ? 氏素性は分かっているのか?」

「年齢は一〇歳そこそこ、性別は男、そして、浮浪児だった、それくらいしか分からないのです。 亡命者のほとんどは万魔殿穏健派にいますから、流れてくる情報も限られていますの。 ただ……確かな事は、彼は『洗礼者』であると言う事。 洗礼を受けた者が、異口同音に言ったそうなのです――『彼は真なる神の使者だ、この世界の洗礼者だ』と」

「何だと!?」I・Cの目が見開かれた。

「我々が狂信国家ロトにて調査すべき対象は二つ。 『バベル・タワー』と『洗礼者ヨハネ』ですわ」


 真なる神、だと。I・Cは驚いた。アイツか、アイツが戻って来たのか!?

『私は君をも愛している』

アイツが。

俺に愛なんぞを伝達したアイツが、戻って来たのか。

……『聖杯』は聖遺物でありながら聖遺物としては非常に特殊な性質を所持している。適合者が生まれたと同時に現れて自動的に適合者に融合し、適合者が死んだと同時に消える。何故なら本当の『聖杯』は救世主を産める『子宮』の事だからだ。

この世界に『聖杯』が既に再登場していて、そして、アイツを産んだのか!

「イノツェント」俺が頭を抱えて震えていると、ヘレナが声をかけて来た。聖地エルサーレムの、『救世主の墓』の前で、俺とヘレナは二人きりだった。「どうした?」

「……俺は……怖い」

「何がだ」

「俺達は、愛を錯誤していた。 でも、もしかしたら、本当の愛を知る事が出来るかも知れない。 俺達は本当の愛を知らない。 だから、愛が怖い」

「何故本当の愛を知る事が出来ると判断した?」

「お前も聞いただろ、洗礼者ヨハネの件。 ヤツがもしも本物の真なる神の一人だったら、間違いなく愛を知っていて、それを伝えに来たんだ……」

「真なる神とは何だ」

「例えば女帝、アイツは真なる神の成れの果てだ。 ヤツらはこの世界じゃない高次世界の神々だ。 いや、ヤツらを呼称する神と言う単語すら俺達の認識の範囲内の言語でしか無い。 ヤツらは、物質と言う檻に囚われもせず、法則と言う認識の網に引っ掛かる事も無く、とにかくこの世界では無い世界に……世界と言う枠組みですら俺達の認識でしかないが、存在し、そして――愛を知っている」

I・Cはそこで、少しだけ黙った。

「俺は、俺達は、愛を知りたくてこの数千年彷徨っていた。 愛を知ったと思った瞬間、それは誤解である事が判明して第一次統合体化現象を起こしてしまった。 その愛がやっと理解できるかも知れないのに、俺は、今更怖いんだ。 怖いなんて感情、とうの昔に消え失せたと思っていたのに。 俺と俺の認識は、知らない事、認識できない事を次々と知っては認識して行った。 数千年かけて、もう俺の知らない事の方が少ないと思っていた。 なのに、今更。 今更、俺は怖い。 自業自得の癖に怖いんだ。 今の俺の求めている愛が、もしかしたら、アイツらの言った愛とは全く別のものだったらどうしよう、そう思うと怖いんだ」

「イノツェント、お前の求めている愛は、何だ?」

「あの日に戻る事。 そして悪魔の誘惑を蹴っ飛ばして俺の代わりにお前を生かす事。 それを何千回と夢想してはこの現実に叩き起こされる事。 ……要するに、俺はあんな事をお前達にした癖に、お前達から愛されていたいんだ。 それが、今の俺達の求めている愛だ。 まだ、夢物語の方が、現実的な、お話さ」

「……」ヘレナは何も言わない。


 大量の白に少量の黒を混ぜると灰色になる。朱に交われば赤くなる。彼は、その黒であり朱であった。

「私はこの世界の洗礼者。 この世界に洗礼を施すためにやって来たのだよ」

酷く大人びた――否、老成した声で、小山に腰掛けるその少年は言った。その周りには、がりがりに痩せた無数の群衆が集っている。

「しかし、今の貴方達は、空腹のあまりに、私の話を聞く余裕は無い」

ヨハネ様、と誰かが絶叫した。私達を助けて下さい、憐れんで下さい、と。すると少年ヨハネは言った。

「パンはあるかい、一切れで良い」

「あります!」

最前列にいた目だけ異常に大きく見える骸骨のような少女が、一切れのパンを差し出した。

「神よ、奇跡を」

ヨハネはそう言ってそのパンを受け取り、祈った。そして、次の瞬間、群衆は驚愕する。彼らの腕の中に、持ちきれないほどの数のパンがいきなり出現したのだ。

彼らは我を失ってむさぼり始めた。けれど、むさぼってもまだパンはある、否、食べれば食べるほど増えていく!その事に気付いた瞬間、彼らは目を明るくして、少年を見た。歓喜の声が放たれる。

「ヨハネ様!」

「救世主様!」

「違うよ」と少年ヨハネは首を左右に振った。「私は、あの御方じゃない。 私は洗礼者ヨハネ、たったそれだけなのだ」

そこに、逃げろ、と言う誰かの声がした。軍隊がやって来たぞ!

群衆はあっと言う間にクモの子を散らすようにパンを抱えて逃げ出した。

ヨハネは、逃げなかった。

馬に乗った騎兵が、ヨハネを取り囲んだ。そして槍を突きつけて、

「扇動者ヨハネだな。 逮捕する!」

「……今はまだ、その時では無いよ」ヨハネはそう言って、悲しそうな顔をした。

「何を言う! 大人しく――」

ひゅん、と空を切る鞭の音。騎兵が一瞬でことごとく馬から叩き落されて、呻き、あるいは失神した。

フードをかぶった男が代わりにそこにいて、その後ろに小さなローブをまとった人が立っていた。

「おい! お前はアイツなのか!?」男は、フードを取って、ヨハネに掴みかかった。I・Cであった。「お前が救世主なのか!?」

「違うよ、私は洗礼者ヨハネ。 とてもあの御方には及びもつかない者だ。 でも」とヨハネは微笑んだ。「魔王、貴方のこの数千年間の苦しみは、もうすぐ終わるよ」

「!!?」

「もうすぐだ。 君が大いなる運命に立ち向かうか否かの決断をする刻限タイム・リミットがやって来る。 その瞬間だ、君は、愛によって苦しんだ君は、愛によって救われる」

「どう言う、意味だ……?」

「ピスティス・ソフィア……ああ、君達が女帝と呼んでいる僕達の元同族も、全世界の運命記録を知っている。 私も、当然知っている。 ……終わらないものはこの世界には無い、唯一、愛を除いて。 バルベーローもあの御方も、愛そのものだ。 もしも君が永遠の愛を求めるのならば、この世界を滅ぼしてはならない。 何故なら聖杯が既にこの世界に再登場したからだ」

「誰だ、聖杯を宿した聖母マリア・マヤは誰だ!?」

「まだ秘密にしなければならない。 あの御方ご本人が告げられるからね。 それに――」ヨハネは粗末な杯を、どこかからか取り出した。それには綺麗な水がみなぎっていた。「私は洗礼者だ。 あの御方のいらっしゃるこの世界に、洗礼と祝福を与えるのが、最高の務めであり、最大の使命なのだ」

微笑んだまま、ヨハネが杯を天空に掲げると、途端に空に鮮やかな虹がかかった。

そしてヨハネは杯の水を、I・Cの頭に注いだ。I・Cは目を見開いた。

「これで良い」ヨハネは言った。「これで私がこの世界でなすべきことは全て終わった。 後は、供犠の子羊になるだけ……」

「まさか」I・Cは絶句する。

「君達が呼称している『バベル・タワー』は異次元への入り口だ。 迂闊に接近すると飲み込まれて二度と戻れないから、急いで君の同僚に退避要請をした方が良いよ。 私は、役目をちゃんと終えたのだから、天に召される、たったそれだけだ」

ヨハネはそう言って、倒れている騎兵の一人に近づき、触れた。すると騎兵は起き上がり、しばらく唖然としていたが、ヨハネにこう言われて我に返った。

「さあ、私を捕えなさい。 そして連れて行きなさい。 貴方も務めを果たすべきだ」

「……」愕然としていた騎兵だったが、そこに高貴な身なりの青年が騎乗して登場したために、慌ててヨハネを荒縄で縛った。

「貴様が扇動者ヨハネか」青年は傲慢な口調で言った。「ふん、うるさい喉を潰し、俺の小姓にしてやっても良いぞ」

ヨハネは、悲しそうに、

「私は洗礼者だ。 もはやこの世に属する者ですら無い。 私は真なる神の使いであって、真なる神に仕える者。 貴方に仕える者では無いのだよ」

「ほう」青年の額に青筋が浮かんだ。「ならば獅子の穴に放り込んでやろう! おい、連れてこい!」

騎兵は怯えつつ、「はい、ヘロデ様」と従った。

「止めろ」I・Cが凄味のある声で言った。「おいクソガキ、今すぐそいつを解放しろ!」

「クソガキだとう!?」青年が逆上するのが分かった。「貴様も殺してやろう!」

「いけないよ」はっきりと、まるで荒れていた水面を一瞬で鎮めるような声が響いた。ヨハネが穏やかな声で言ったのだ。「私は時が来るまで荒野で待った。 時が来たから世界に洗礼を施した。 たったそれだけだよ。 私は今や満ち足りている。 さあ、連れて行きなさい」

「ヨハネ!」I・Cが悲鳴を上げた。紛れも無い、悲鳴だった。「駄目だ、嫌だ!」

「実った果実は収穫されるのだよ」ヨハネは微笑んだ。I・Cは、わなないた。「さあ、早く。 急いだ方が良いよ。 そこの彼は、ロトの兵士ではとても相手にならないほど強いからね」

「……」不機嫌そのものの顔をして、ヘロデはヨハネを連れて行った。

それが視界から消えた瞬間、I・Cが、その場にくずおれて、号泣した。

「どうして泣いている、I・C」シャマイムが訊ねた。

「もう良い、なあもう良いよな、ヘレナ」I・Cは激しく慟哭しつつ、言った。「俺はこれからこの世界を終わらせる、なあ、もう、俺達終わって良いだろう?」

「終わる事は、終焉は、救いなのか?」

「救いじゃなくてももう良いんだ! 俺は、これ以上苦しみたくないし、お前の悲しみを続けさせたくも無い! 終わる世界に二人っきりになってしまったとしても、俺はもう生きる事が辛いんだ、お前が俺を憎むのが辛いように!」

「……そうだな。 人は生きたがる者が多い。 だが、死の勝利も、存在して良いだろうと私は思う。 ただ、I・C、それは洗礼者ヨハネの救出に向かってからでも遅くは無いだろう」

「……そう、だな。 俺はもう少しアイツと話をしたい……」

二人は、荒野を歩き出した。ほんの少し歩いただけで、巨大な黄金の塔が見えてくる。あれが『バベル・タワー』なのだろうか。

「……」不意にI・Cが立ち止まった。貴族の邸宅が並ぶ道の上で、である。

「……I・C?」

シャマイムが言った時だった。

「何だこれは」彼は低い声でつぶやいた。「これは、まさか。 いや、そんな……」

「I・C、どうした?」

「……何でも無い。 ちょっと俺は神経質になっていたみたいだ」

「いや、そうでも無いよ?」

いきなりの声に、シャマイムが背後を振り返ると同時に拳銃を構えている。

だが、I・Cは呆れたように言ったきりだった。

「レスタト、今度は何の用だ?」

「はい、これ」とレスタトは通信端末を放った。I・Cは後ろ向きに受け取って、それが血まみれで、だが増援要請の通信など一度も来なかった事を思い出し、彼の同僚は全員が全員、瞬殺されたのだろうな、と知った。「それと、これ」

レスタトは片手で豪華なネックレスをかざした。その数珠つなぎになっている宝石は、人間の目玉であった。

「そっちは聖教機構の、こっちは万魔殿の。 今このロトで生き残っている部外者は君達だけだよ」

「ふーん。 で?」I・Cはどうでも良さそうに言う。

「悲しいかな、ラファエル様は僕にまだ貴様の抹殺命令を下してくれないんだ。 代わりに、『美女と野獣』に命令を下した」

のそり、とレスタトの背後から人影が姿を見せる。

「!!?」

シャマイムは驚いた、と言うのも――。

「セシルの死亡は自分が確認した」

確かにシャマイムの眼前で死んだはずの同僚、セシル・ラドクリフが、登場したからである。I・Cがやっと振り返って言った。

「……認識だ。 ヤツは俺達の認識を反照させるんだ。 同士討ちをさせようってか。 良いなあ、良い感じに腐ってやがるぜ!」

「……」

セシルがものも言わずに獣へと変身した。

「I・C、あれはセシルでは無いのか」シャマイムが言った。

「俺達の認識にあるセシルさ。 戦闘能力も、生命力も、何もかも。 気を付けろよ、俺達の知るヤツは百戦錬磨の猛者だ」

そう言ったI・Cの体が吹っ飛び、壁に激突して大穴を空けた。シャマイムの銃撃を受けても平然とその巨大な獣は突進し、シャマイムは回避しようとしたが、獣から伸びた触手がシャマイムを捕えた。

「!」

爆音のような轟音と、小さな地響き、そして粉じんの大量発生が起きた。貴族の館一つが倒壊するほどの衝撃を、獣に捕えられたシャマイムは機体に直に受けていた。獣は走り回り、次々と館が倒壊していく。このままでは破壊される、とシャマイムは形態変化しようとしたが、その瞬間、獣はシャマイムの機体の隙間に触手を突き刺し、滅茶苦茶に彼女の機体構成部品を、電子回路を引き掻きまわした。

(そうか、私の機体構造に対するセシルの知識をも、コイツは、獲得して――!)

それが限界だった。バチバチと眩いスパークが雷のように発生し、シャマイムは機能不全に陥って、動かなくなった。

「……」そこで獣は立ち込める粉じんの向こうを見据える。

「本物だったら死んでもシャマイムだけは攻撃しねえのにな」I・Cが、穏やかに邪悪な笑みを浮かべていた。「……よう、パチモンの屠殺屋セシル。 俺がお前から借りたツケ、今ここで全部返してやるぜ。 ――『魔王サタン』発動」

――ぞるう。混沌の闇が目を覚ます。それは一瞬で全天を覆い尽くすまで広がった。にやりと誰かがどこかで嗤う。直後、混沌の天空が落ちて来た。――ぞぞぞぞぞりばばばばあああッ!

混沌は何もかも呑みつくし、まるで水たまりのように大地にわだかまる。そこから一人の幼女が這い出てきて、怪訝そうな顔をした。

「おい、ヘレナ、ヘレナ、どこに行った?」

「このポンコツの事かい?」

幼女は振り返って、憎悪の顔で吸血鬼王レスタトを睨みつけた。妖のように美しい青年は、ぴくりとも起動しない兵器の残骸を踏みつけていた。

「うふふふ。 そんな顔をしなくたって良いじゃないか、魔王」

「ヘレナを返せ」無感情に、魔王は言った。

「お断りだと言ったら?」

「ヘレナを取り戻す全人道的手段を唾棄するだけだ」

「じゃあさっさと人道なんぞには唾を吐きかけるんだねえ。 うふふふ、それは天に唾するようなものなのだけれど、君には関係ないか、あははは」

「何が楽しいんだ?」

「ラファエル様達の長年のご意志が、もうすぐ叶うからさ」

「……どうやらなバベル・タワーの中にあるんだな、セフィラー・マルクトが。 そこでカマエル・アインが起動するんだろう? そんなもの全部俺の腹の中に落とし込むだけだってのに、何を余裕ぶっこいて――」

「だって魔王、色々喰ってきた君がついに喰い殺される時が来るんだもの。 ラファエル様がどうして僕に君へと手を下させなかったか、その理由をようやく今しがた教えてもらえたんだ。 復讐、そう、全ては復讐のためだったのさ!」

「だったらさっさと殺せよ」

「いやいやいやいや、とんでもない話さ。 君に何の恐怖も後悔も懺悔も悲哀も絶望も狂乱も恐慌も味わわせずに殺すなんて、ねえ?」

「俺はそんなもの、数千年の間ずっと味わってきたさ」

「いやあ、違うんじゃないかな? だって

「御託はもう良い。 とっととヘレナを返せ」

ゆっくりと天が曇っていく。それを嬉しそうに赤い目で見つめつつ、レスタトは言った――ぽい、と興味なさげにヘレナをあっちの方角へと放って。

「うん、返してあげる。 もう全ては始まったのだから!」

「!!?」

魔王の顔色が、ゆっくりと、白くなっていった。

「まさか、アイツら――ヤツを!?」


 洗礼者ヨハネを牢獄に入れようと王宮殿まで連行してきたヘロデは、美しい義理の妹サロメの出迎えを受けた。

「お兄様、お帰りなさいませ」今年で一七になる少女は、年に見合わぬほど妖艶な瞳で兄を見つめた。義理の兄がぞくりとした瞬間にヨハネに目を移し、「そっちの薄汚いのが扇動者ヨハネかしら?」

「……」ヨハネは、悲しそうに彼女を見返した。「私は悲しい」

「あら、斬首されることがそんなに悲しいなら、奴隷として生かしてやっても良くってよ」サロメはそう言って、手を口に当ててくすくすと笑った。

「いいや。 私は悲しい。 私にはあの御方ほどの力は無いのだよ。 私は君が悲しい存在である事が、その定めを変えられないのが、悲しくてたまらないのだ」

サロメの目が、きっと吊り上がり、ヨハネに近づいて、じっとその顔を見据えた。

「あら、私の何が悲しいのかしら?」

「……肉の喜びは決して永遠の愛では無いのだ」

「お前はどうやら肉の喜びを知らないだけのようね。 良いわ、接吻から教えてやりましょう」

そう言ってヨハネの顎を掴んだサロメだったが、ヨハネは首を横に振った。

「私がいるところに君は至れない。 私に君は接吻できないのだ」

「まあ!」サロメは美しい顔を激怒に染めた。「……お兄様、ねえ、私のお願いを叶えて下さるかしら?」

「良いだろう、だが……」ヘロデは好色そのものの顔をして、「お前が私の前で踊ったら、だ」

「よろしくってよ、お兄様。 私にヨハネの首を下さいな」

そう言うと、サロメは衣を翻して駆けて行った。


サロメは薄い衣を七枚まとっただけの姿で、義理の兄の前に姿を現す。

ああ、何度見ようとも、何と淫らな。ヘロデは思わず生唾を飲み込んだ。少女とは思えないような妖艶さで、俺の義理の妹は俺を見ている。見据えている。俺はまるで蛇に睨まれた蛙だった。恐ろしいものに飲み込まれて喰い殺されるのを待つきり、だった。

義理の兄の目に浮かんだ恐怖と情欲を合図に、サロメは舞いだした。

白金の腕輪がしゃらしゃらと鳴り、瑪瑙の足環が軽やかに光を散らした。首輪の、数多散りばめられたダイアモンドがまるでともし火のようにサロメの淫らな表情を輝かせている。

一枚、薄衣を、サロメが脱いだ。

見慣れる事なく、俺はいつの間にか食い入るように見つめていた。ああ、ほんの少しだけ見えないと言うことはなまじ見えると言うことよりもいやらしいのだ!俺はこの妹を今度はいかにして組み敷いて俺の女にするか、そればかり考えていた。気が狂いそうにこの妹は淫らだ。真正の娼婦だ。男が無ければ生きていけないのだ。そう、昔から。

細いのに男の目をくぎ付けにする足がステップを踏む。腰をくねらせ、手で俺を招く!のけ反った背中の、たまらぬ色香。

俺はいつしか陰茎が痛いくらいに固くなっていた。

また、一枚。

乳房が揺れているのが分かる。ああ、あれに俺はしゃぶりつきたい!

一枚。

汗で体が濡れて、何と、放埓な有様なのだ!

一枚。

もう、俺はヨハネを即刻に斬首させようと決めていた。斬首させて願いどおりに首を持って来させた後、俺はいつものようにサロメを思う存分に犯そう。たったそれだけ、俺が考えていることはそれだけだった。

一枚。

淡い陰毛が見える。サロメ、お前ももう濡れているのだろう?

一枚。

そうだ。俺は決めた。今度はお互いが気を失うまでお互いを犯し続けよう。肉の、体の喜びに勝る喜びなどどこにある?

一枚。

俺は、はらりと散った薄衣の代わりに、腕の中にサロメを抱き留めていた。

俺は、顔を上気させたサロメの願いどおりに、ヨハネの首を持ってこさせる。

だが、次の瞬間――。

「お前はこれで私のもの! どうよ、私はお前に言った通りに接吻をしてやるのだわ!」

サロメが勝ち誇った顔で、ヨハネの首に、口づけた……。

俺は、愕然とした。

お前は俺のものでは無かったのか?

お前の心はそんな薄汚いガキにあるのか?

激怒と憎悪と情欲が一気に襲ってくるのを感じた時には、俺はサロメを拉致して、俺の寝室へ連れ込んでいた。

そうだ、サロメ。

俺の女だった妹よ。

お前に、最高の快楽を与えてやろう。

――肉欲の果ての死と言う名の!


 俺は縊り殺したサロメを、まだ犯していた。不思議な事に殺してしまえば、後はただ愛おしいだけの肉の温かい塊なのだ。俺は無我夢中で腰を振っていた。

「何と馬鹿馬鹿しい」冷めた声に、俺は一気に現実へと引き戻される。寝室の入り口に、『シバの女王』が立っていた。「次期王位継承者を殺すなど、男妾の連れ子のやる所業か?」

「あ……」

俺は、青くなった。

「だが、今だけは特別に赦してやろう。 

俺は、その声を最後に、意識を失う……。


【ACT六】 裏切りの裏切りの、真意


 天国へ至る門は狭い。そんな言葉を、ふと思い出した。狭き門より入れ。滅びに至る門は広く大きい。


レット・アーヴィングは微笑みながらウトガルド島王に近づいていく。「どうしたんだい、ジョニー、そんなに警戒してさ?」

「レット、俺は……!」ウトガルド島王は、悲鳴を上げるように彼の名を呼んだ。「もう止めてくれレット、そうしたら俺達も、」

『駄目です!』女悪魔のプロセルピナが絶叫した。『あれはもうレットであってレットじゃありません!』

ウトガルド島のカジノ・フロアに詰め寄せている警備兵達、そしてその大半が床に転がっている。逃げおおせた客達、間もなく傭兵都市ヴァナヘイムからもこの惨劇を解決するべく増援がやって来る。

『そうだ、プロセルピナよ、私の真の名は大天使ラファエル! 貴様ら背教の輩を絶滅させるべく使わされたのだ!』

レットの口がそう動き、そしてレットの背中から、青い翼が生えた……。

『く、くっ! ジョニー、良いですね、私がヤツを殺します。 レットは魂を大天使に売ったのです。 もはや取り戻す手段はありません、貴方の死を与える以外には!』

プロセルピナはそう言って、手中のザクロを握りつぶした。

「止めてくれ! レットは俺だけは裏切らないんだ! いつだってそうだった! いつだって、いつだって!」だがジョニーが、必死に彼女にすがった。

『ジョニー、駄目です、相手はレットじゃない、大天使なんですよ!』

「でも、俺が耐えられないんだ! レットの姿をしたものに銃弾ぶち込んで、しかも今度は臓器を握りつぶすなんて、もう!」

『相手は癒しの大天使。 臓器を握りつぶしたところで殺せるかどうかは五分五分なのですよ!?』

「ジョニー、だから、何に怯えているんだい?」

一歩。微笑みを浮かべつつ、レットはジョニーに近づいていく。一歩。ジョニーの絶叫と無数の銃声が響いた。だがレットは全身がハチの巣のようになっても、まだ立っていて、しかも体はあるまじき速度で再生回復を始めた。

「うーん、くすぐったいけれど、邪魔だね」レットの体が、視界から消えた。警備兵の最後の一人が倒れた時になって、彼はようやく姿を見せる。

ジョニーの、眼前に。

「さあジョニー、何を怯えているんだい?」そう言ってレットは、ジョニーの顔を両手で固定し、じっと覗き込んだ。

『させるかッ!』プロセルピナの右手がいきなり消えた。同時に、レットの心臓がその手により握りつぶされる。

『無駄だ無駄だ』だが、レットの口が動いて、嘲った。『私はこの者に不老不死を与えてやった。 心臓を潰されるくらい、どうと言う事は無い』

『そんなッ!』プロセルピナは真っ青になって、後ずさる。『止めて、それだけは! それだけは、お願いよ!』

『どこの世界に悪魔のお願いなんぞを聞かねばならない大天使がいるのかね?』

ジョニーの瞳がレットの瞳を映す。ジョニーの、怯えてなどいない強い目を映す。

「俺はお前になら何千回裏切られたって良いんだ。 だってお前の裏切りは、いつだって俺のためだったから」

そう、ジョニーは、断言した。

「ふうん、相変わらず君は呆れるほどのお人好しだねえ」

レットはにやりと笑って、彼のA.D.としての能力を発動させた。

絶叫が上がった。それは獣の断末魔に近い、ぞっとするような叫びだった。

『――あああああああああ!』思わずプロセルピナが覆った口から悲鳴を上げる。

『キサマ、オレヲウラギッタナ!』

青い翼が、無残に散った。

『キサマ、コノオレノココロノトビラヲタタイタナ!!!!!!!!!』

ラファエルだった。ラファエルが、レットの背後で、苦悶に顔を歪めていた。

『ヤツノメニウツッタオレノメヲ、ミタナ! オレノココロヲミヤガッタナ!』

「その通り。 最初から僕はそのつもりだったんだけれどね。 まあ」とレットはいつものポーカーフェイスを浮かべて言った。「貴様ら大天使ごときには絶対に永遠に理解できないだろうな、人間には己の命を捨てたって貫きたいものがあるって事を!」

『ク、クソ! ヨクモオレヲウラギッタナ! キサマニハ、シンバツヲブチアテテヤル!』

ラファエルの手がレットに触れた。レットの目が見開かれ、そして――唇の端から一筋、血が流れた。

「レット!」ジョニーが咄嗟に抱き留めた時には、レットはもはや自力では立てないほど、身体組織を破壊されていた。げぶ、と彼は大量の血を吐いた。あまりにも、大量の。

『カクナルウエハ、レイノケイカクヲ、ソッコクハツドウサセテヤル!!!!』

そう言い捨てて、ラファエルの気配が消えた。

「レット、おいレット、しっかりしろ! プロセルピナ、すぐにDr.ゴースタンを!」

必死にジョニーはレットを抱きかかえる。だが、女悪魔は首を横に振った。

『……手遅れですよ。 もう、いかなる延命処置をもレットを苦しめるだけ……「不老不死の体」の代償は、ラファエルの外道じみた超高度回復再生技術の反動で……生きながら体の末端から細胞組織が腐って、死んで行くんです……ああ、イーサー・ジャックマンもこれをされたんだわ。 レットも、数日で……』

「嫌だ! 俺はレットが死ぬなんて嫌だ!」

「じょ、にー」はっとレットを見つめたジョニーに、レットは苦笑まじりに言った。「らふぁえるから、うばった、このじょうほう、ぜんせかいに、ひろめて、くれ……」

「どんな情報だ!?」

レットは目を閉じて、こう言った。

にせもののかみヤルダバオトが、よみがえった。 ぜんじんるいを、ほろぼすために」


【ACT七】 数千年の彷徨の果て


 I・Cは逃げている。シャマイムの機体を抱きかかえて、全速力で逃げている。彼の頭の中には、恐怖から逃れる事しか無い。彼は空間を超遠距離跳躍して、聖地エルサーレムにいた彼の主マグダレニャンの元に逃げ込んだ。真っ青な顔で、震えた唇で、彼は主に対して、思わず絶叫した。

「もうお終いだ! や、ヤツが蘇った! アイツが、かつて古代世界を支配しかけたアイツが復活した! も、もう俺達には自死しか安寧な死は無い!」

「……詳しくお話しなさい。 ロトで何があったのですか、ロトに何があったのですか」マグダレニャンは内心ではこの男が真っ青になったのを久方ぶりに目撃したため、動揺したが、それを抑えて言った。

I・Cは、完全に恐慌状態に陥って、言った。

「俺はかつてヤツを不意打ちでぶっ殺したんだ。 寝首を掻いた。 だが、もう、ヤツは完全に目覚めている。 まともに激突したら、俺はヤツにはとても及ばない。 ロトのバベル・タワーの内部にあるセフィラー・マルクトでヤツは死から目覚めた。 死と言っても、ヤツの事だ、きっとガブリエル辺りに魂の断片を預けていて、それを使って蘇ったんだろう。 俺はそもそも、ヤツの完全な抹殺には失敗していたんだ……。 この前のノアの箱舟、何で中にあんなに鍾乳石だの石筍だのがあったのか、やっと分かったぜ……ガブリエルがドビエルに取り憑くまで、きっとあのオカマはそこにいたんだ。 ヤツの存在性は桁がおかしい、それこそ魂の断片ですら時間軸を歪めるほどの代物だ。 だから箱舟は異様な時の流れに晒されていたんだ……! もうお終いだ、この世界が終わらされる!」

「落ち着きなさい。 シャマイムを修理させ、貴方も少し休んでから、冷静な報告を――あら」

シャマイムが、やっと再起動した。と言っても、可動なのは頭部くらいであったが。

「ボス、ロトに派遣された聖教機構と万魔殿の全調査員は、敵対勢力により全滅したと判断される」

「……そうですか。 では、I・Cの言う『ヤツ』とは一体――」

「ああ、そうか」I・Cは、ふっと我に返って、独り言ちた。「そうだよな、世界の創造主が滅べば当然世界も滅ぶ、あの時にこの世界が滅ばなかったのは、ただ単に、ヤツが生きていたからだけなんだ……」

「I・C、冷静になりなさい。 そして詳細な報告を――」

「……大天使達により、旧約の神、旧き神が蘇ったのさ」I・Cは、悲しそうに言った。「大天使達の暗躍は、恐らく全てそれのためだったんだ。 そして旧き神、偽神が蘇ったからには、きっと、この世界くらい、簡単に死を迎えるぜ」

「!」マグダレニャンは驚いた。「それは事実なのですか!?」

「こんなしょーもないホラを吹いて、俺に何の利がある、お嬢様。 戦ったって無駄だ、相手はかつての唯一絶対神だ。 俺達は早々に自殺しないと、きっと死ねないくらいの苦しみを永遠に――」そこで、彼は、乾いた笑いを浮かべる。

「イノツェント」シャマイムが、言った。いつものような機械音声で言った。「何故戦う事を諦めた?」

「だって俺、知っているもん。 ヤツの恐ろしさを、誰よりも知っているもん! ヤツは神だ、腐っても偽者でも旧くても『神』なんだ! 仮に誰かが戦っても、それは、そいつの苦しみが長引くだけなんだ……」

「イノツェント」シャマイムは、言った。「では自分は戦う」

「ヘレナ?」I・Cの顔に、初めて怯えと諦め以外の何かが浮かんだ。

「イノツェント、私はもう逃げない。 一切の苦しみから、もう逃げない。 戦う事が無意味であったとしても、死ねないほどの苦しみをその結果味わうとしても、今現在に一時的に死へ逃げる事で苦しみの神髄から解放される事など無い。 足掻く事を止めた瞬間、人は人でなくなり、獣に戻るだけだ」

「ヘレナ、駄目だ、アイツは最強なんだ!」

「最強であろうが最悪であろうが、私は私の戦いを続ける。 イノツェント、私はもう、逃げる事だけはしたくない。 私は我が子を殺された悲しみを壮絶な憎悪に変換し、悲しみそのものからは目を背けてきた。 だが、私はこの悲しみから目を逸らさずに見つめ続ける。 あの子だってそれを望んでいる。 私にはあの子の思いが分かる。 あの子を私の憎悪で利用するのは、もう止めたから。

 私は、お前を赦す。 お前の最大の罪過から、お前を解放する。 だから、お前ももう逃げるな、イノツェント」

「――」

何も言葉が無かった。何も言葉にならなかった。言葉がいかに稚拙な意思伝達手段であるか、彼は思い知った。

だって、今感じている、この、初めての、は。

「――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――!!!!!!!!!!!!!!!!!」

I・Cはその場にくずおれて、ヘレナを抱きしめ、赤ん坊のように号泣した。




 全人類に告ぐ、滅亡せよ。

 審判の日、来たれり。

 慄け、そして死を思え!

 ――『全人類滅亡計画ディエス・イレ』発動。

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