第6話PURIFICATION 聖杯探究
わたしはおまえをゆるさない。
【ACT〇】 とある老人の死
彼の名前は、イーサー・ジャックマン。世界経済の中枢地の一つ、享楽と賭博の人工島、ウトガルド島のカジノ・フロア専属の会計士の一人で、恐らくウトガルド島の中では一番優秀な会計士であった。
彼は独身の老人で、身寄りが無い。別にそう言う者はウトガルド島には珍しくないので、彼は特別奇異の目で見られた事は無い。むしろ、優秀な会計士として一目置かれていた。唯一、ただ、このジャックマンには悪癖があった。自分からは決して飲まない、だが、わずかでもアルコールが含まれたものに接触するとアルコール中毒を起こし、人格がろくでなしへのそれへと変わってしまうのだ。それで幾度か酷い騒動を起こしてきた。彼が優秀なのに、全く出世できなかったのは、それが原因である。結婚も、その所為で出来なかった。と言え彼は間違いなく会計士としては優秀なので、『処分』されるような事は無かった。
彼はいつもちょっと肩身が狭そうに生きている。
そんな彼はある日、異常に気が付いた。それは何と言うか、言葉にはならない異常であった。
ウトガルド島王の最側近であり、カジノ・フロアで最もやり手のディーラーのレット・アーヴィングが異常なのだ。別にいきなり稼ぎが落ちたとかそう言うのではない、とにかく、雰囲気が異常なのである。
(どうしたんだろう)とジャックマンは思った。(まるで別人みたいだ)
ジャックマンは心配になった。レットは、仕事の出来るジャックマンに対していつも敬意と誠意をもって接してくれた。だからジャックマンもレットに対して悪い感情は全く無い。
心配になって、ジャックマンはいけない事だと思いつつ、レットの行動をそれとなく監視した。監視カメラが島中にある事は、勿論彼も知っている。だが、カメラの死角もいくつか存在している事を、長年ここで働いている彼は知っていた。
その死角で、こっそりとレットの様子を彼は見張ったのである。
「?」
そして、最近レットに独り言が増えた事を知った。自分で自分の言葉に対して反応しているのだ。
ストレスでも溜まっているのだろうか、それだとしたら体に良くない。
ジャックマンは、親切心でレットに休暇を取るように進言しに行った。
「ああ、あれを聞いたんですね、お恥ずかしい」
レットははにかんで、その顔はいつものレットの顔だったので、ジャックマンは一安心した。
「どうも最近独り言の癖が出来てしまって。 ご心配をかけたようで、すみません」
「いえいえ、どうかお大事に――」とジャックマンは言い、完全に安心した。
彼のしわだらけの手を握って、レットはいつものポーカーフェイスで言った。
「貴方にも神の安寧がとこしえにありますように」
その声が、いつものレットの声ではないように聞こえたので、ジャックマンは変に思ったが、目の前にいるのはレット一人だったので、きっと自分の耳がどうにかなったのだと思った。レットは、
「それじゃ、さようなら」
と立ち去って行った。ジャックマンは、
(とにかく、良かった……)と思った。
――イーサー・ジャックマンはこの三日後に死ぬ。
それも、医者が仰天するような症状を見せて死ぬ。
全身が末端から腐って――正確には新陳代謝が出来なくなって、細胞分裂が起きなくなり、更に免疫細胞が自己を攻撃すると言う滅茶苦茶な症状を見せて死ぬ。
彼は死ぬ直前、こう言った。
「私は神に呪われた」
凄まじいですねえ、ラファエル様、貴方様のお手は、正に『神の手』だ。
身体への回復再生作用が強すぎると、ああなるんですねえ。
ご安心なく、これ以上のへまはやらかしません。
それにウトガルド島王も愚かにもまだ僕を信じきっている!
ですから、どうか僕に不老不死をお恵み下さい。
【ACT一】 過去、原罪
『聖王』と世界中から尊称され、
「どうにも私には納得がいかないのだよ、
「……何がだよ」
魔王と呼ばれたその男は、全体的に小汚い格好をしていて、黒の蓬髪が風も無いのに揺らいだ。彼はどんよりとした不気味な黒い目で聖王を睨んだ。だが聖王は怯みもせず、
「彼女は善人だ。 言っては悪いが、気の毒なほどの善人だ。 この残酷な世界で彼女が生きてくるには悲惨な経験を何度もしただろう、と簡単に推測できるほどの善人だ。 その彼女の中にある、お前への憎悪……それも桁違いの、おぞましいほどの憎悪。 果たしてそれを、彼女がただお前に殺された、たったそれだけで抱くのだろうか? 彼女ならば間違いなく許してしまう。 お前に殺されても、お前を許してしまう。 だが、その彼女が『許せない』とお前を憎むほどの『何か』。 お前は彼女に何をした?」
「思い出したくないんだ!」男はいきなり頭を抱えて絶叫した。「思い出したくないんだ! 俺は、ヘレナを!」
「思い出せ!」聖王は厳しく怒鳴りつけた。「彼女が受けた『何か』は、お前のその苦しみなど凌駕しているのだぞ!」
「嫌だ! 俺は、ヘレナを……!」
男は頭を抱えたまま膝をつき、前のめりに倒れこんだ……。
「起きたまえ」
「……んあ?」ぐうがあといびきをかいていた不気味な男、
「いつも酒場にいる貴様が、映画館にいるとは一体どう言う風の吹き回しだ?」
と訊ねてきた。
「いや何となく。 懐かしい女優の映画をやっていたんで、見たくなった」
「ふむ」とランドルフは納得した顔をして、「貴様はジュリア・ノースのファンなのか?」
「違うよ。 ただな、このジュリア・ノースは若かりし頃の『聖王』と『大帝』の物語に出てくるんだよ。 亡国クリスタニアがまだ滅んでいなくて、最盛期だった頃の。 ヤツらは前途有望な若造どもだった。 まさか俺だってヤツらがあそこまで出世するとは思わなかったが」
「それは凄いな」
そう言ったランドルフに、I・Cは面倒臭そうに訊ねた。
「で、ランドルフ、テメエが俺を探すほどの何が一体起きたんだ?」
「あの小国ビザンティに対して、
「強制執行部隊を喰えっての? 面倒くせー。 別に良いじゃん、ビザンティごとき。 弱肉強食って言葉を知らないのかよ、どいつもこいつも!」
嫌がるI・Cの襟首をひっつかみ、引きずりながらランドルフは言った。
「四の五の言わずに来てもらおうか!」
『逃げて!』
モニターの向こうの青年は、モニターにかじりつくような有様で、半泣きで、必死に叫ぶ。
『い、今すぐこっちに逃げてきて、レオニノス! 君も、き、君もレオナちゃんみたいに亡命してよ!』
「それは出来ないよ、ヨハン」
小国ビザンティの少年君主レオニノスは、苦笑して言った。
「国王が国民を見捨てるなんて、とんでもない話だ。 レオナにはオリハルコンが採掘できる唯一の鉱山メギドの封印を解くカギを持たせてあるから、もし強制執行部隊がビザンティから撤退したら、レオナを次の国王にして下さい。 レオナは僕の妹で、第二王位継承者だ。 国王としての資質も資格もあるから、どうかよろしく、ね?」
『きょ、強制執行部隊は、カギが無くたって、無理矢理にオリハルコンを採取するよ! お願いだ、お、お願いだ、君は無駄死にしちゃ、だ、だ、ダメなんだ!』
「無駄死に、じゃないよ、ヨハン。 国王は、たとえ何があろうと国民を守らねばならない。 国民のために生きて死なねばならない。 だから、これはある意味では僕の宿命さ」
既に銃撃音、砲撃音、爆破音が近づきつつある中、レオニノスは穏やかに笑った。
「……あのね、ヨハン。 僕は最初、君を利用するつもりで近づいたんだ。 和平派一無能で臆病な君なら、きっと僕でも操れると思ってね。 でも君はどこまでも誠実で正直だったから、段々こっちは罪悪感が芽生えてきてしまってさ。 友達だって言う都度、君は本当に嬉しそうにするんだ。 だから僕は、」
そこまで言いかけた時、レオニノスは一瞬だけ泣きそうな顔をした。だが奥歯を食いしばって微笑み、
「……さようならヨハン。 どうかレオナを、次のビザンティ国王にして下さい」
彼のいる国王の間に、爆音と同時に強制執行部隊隊員がなだれ込んできたのは次の瞬間だった。
レオニノスはモニターの電源を切り、彼らを見渡して堂々と言った。
「僕こそがビザンティ国王レオニノスだ」
……数日後、彼は処刑台の上にいる。それを取り囲んで泣きじゃくるビザンティの国民とそれを全世界に中継するカメラなどの報道機器の群があった。
レオニノスはギロチン台に乗せられていた。だがその顔には恐怖や後悔と言った表情は無くて、代わりに、彼は叫んだ。
「みんな! どうか生き延びて、レオナを次のビザンティ国王に――!」
ひときわ大きな群衆の号泣が返事であった。
「おい、やれ」
強制執行部隊の一人が部下に命じた。
「あ、ああ」ヨハンは真っ青な顔でモニターを見つめている。目をそらしたい。顔を背けたい。だができない。まるで魔性のものに魅惑されたかのように視線はモニターから外せないでいる。「あ、ああああ!」
『ザシュッ』
彼は卒倒する事すら出来ず、友達の処刑される様を見つめていた。
その傍では、少女が唇をかみしめて兄の殺される様を見つめている。彼女の名はレオナ、レオニノスの実妹であった。彼女はビザンティから兄の遺志に従い、聖教機構和平派に亡命したのだった。
そこに和平派幹部にしてヨハンの婚約者のマグダレニャンがやってきた。
「ま、マグダ、マグダ!! うわあああん!」
途端に泣き出したヨハンの顔に、マグダレニャンはいきなり平手打ちをくらわせた。
「!?」
驚きのあまり涙も止まった彼に、マグダレニャンは言った。
「泣いている暇もありませんわよ、ヨハン。 レオナ姫を次なるビザンティ君主にするには、レオニノス君の死を哀しんでいる時間すら惜しいのです。 彼が天国で喜ぶのは、貴方が彼のために嘆き悲しむよりも、ビザンティより強制執行部隊を全て駆逐し、レオナ姫がビザンティ国王の玉座に座った時ですわ」
「……」ヨハンは、しばし呆気にとられていたが、すぐに我に返り、しっかりと頷いた。「そ、そうだ、そうだ。 僕には、泣いている時間すら、な、無いんだ!」
「ヨハン殿、マグダレニャン殿」レオナがかみしめていた口を開いて、毅然と言った。「ご助力をどうかお願いします。 兄の無念を晴らすためにも!」
「ビザンティが陥落したか……」
特務員会議は、国王レオニノス処刑の瞬間を見てしまったためもあり、通夜のようであった。ランドルフがぽつりと呟いた。
「んー、弱肉強食だから仕方ねーんじゃねーの?」I・Cだけが場違いにのんびりと酒を飲みつつ、嬉々として言う。「しかしビザンティも災難だなー、オリハルコンが出るからって、あっちこっちから侵略されまくりだ。 世界屈指の古国なのに、まあご苦労様だ」
「しかしジュリアスはオリハルコンを使って何を作るつもりだ?」セシルが言った。
「分からない、が……分からないが……どうせろくでもないものさ」I・Cは嗤っている。
「だけど、あ、あんまりですよ、処刑の瞬間を、全世界に、ほ、報道するなんて!」閉鎖監獄ヘルヘイムから出されたばかりのアズチェーナが半泣きで叫ぶ。「いくら見せしめだからって、あ、あ、あんまりですよ! しかも、し、しかも仮にも国王を、ギロチンだなんて!」
「それが強制執行部隊、と言うものだよ、アズチェーナ。 血も涙も捨てた戦士達だ」ランドルフが険しい顔をして言う。「だが、これは……恐らくこちらへの
「うぜー。 マジでうぜー。 犬っころがキャンキャン吠えてもうるせーだけだってのに。 見せしめに全滅させて来ても良いよなー、別に強制執行部隊を丸かじりしたって、反対するヤツはこの中にはいないだろ?」I・Cは余裕たっぷりに言う。
『いや』とそこに情報屋の青年レットが姿を見せて、首を横に振った。立体映像で登場したのだ。『今はマズい。 仮に強制執行部隊から解放したとしても、今だと強硬派がビザンティを次に支配してしまう。 和平派は今、過激派への総攻撃の決議とその準備でビザンティに構っている余裕が無いんだ。 ……ヨハン様は必死にビザンティ解放を訴えているけれど、ご存じの通り、あの人ってろくに相手にされていないからね……』
「オリハルコンが狙いか?」セシルが言った。
『うん。 逆に言えばオリハルコンさえ手に入れられるなら……強硬派はどんな手段でも使いかねない。 下手をすればレオナ姫だって殺すだろうよ。 まあ、過激派とつるむなんて事だけはありえないけれどね』
「ややこしいなー面倒だなー」I・Cはまだ飲んでいる。
「I・C、現在は会議中だ」シャマイムが酒瓶を取り上げようとして、足蹴にされた。
「ぶっ殺すぞ!」とI・Cは怒鳴った。
「貴様ァ!」激高したのはシャマイムではなくてイリヤであった。「同僚に対してその態度は何だ!」
「うるせー小便小僧、俺に説教ぶちかますってんなら、テメエの過去の恥ずかしい話をここでぶちまけるぞ!」
「誰とて過去には消したい記憶があるものだッ! 大体貴様はッ!」
「I・C、イリヤ、止めろ」シャマイムが彼らを止めた。「自分は問題ない。 同僚同士で問題を発生させる方が重大な懸案だ」
「シャマイム! それで良いのかッ!」イリヤが怒鳴ったが、シャマイムは是と言った。
「自分はI・Cのこの行動には慣れている」
「シャマイムさんは、何があろうと相変わらず善い人ねえ……」ローズマリーが呟いた。
死ぬと言う事は絶対的な救済だ。自覚する自我の、自己の存在の消失と言うのは、終わりである。終わりとは本来幸福なものなのだ。だって、この汚れた物質世界から唯一脱出できる方法なのだから。
俺にはもう何も無い。
死すら無い。
何と泣ける喜劇、何と笑える悲劇。
そうだ、この世界は所詮は劇場の舞台の上なのだ。
どいつもこいつも役者として運命と言う名の台本に操られ縛られる傀儡なのだ。
そう。
例外なく、この俺さえも。
だが俺には死は訪れない。
他の連中が次々と舞台裏へ引っ込んでいく、
だが俺は延々と操られ続ける。
終わらない、と言う事がどれほど恐ろしい事か俺は知っている。
どれほど望んでも、終われない、のだ。
俺はいつまで俺であり続けねばならないのだ?
いっそ精神に異常を来たしたい、正気を捨てたい、だが出来ない。
何故なら俺は不老不死だからだ。
……これは俺への罰なのか、と時々思う。
偽神が俺へ与えた罰なのだろうかと思う。
俺はかつて救世主を殺した。
だがヤツは殺したのに復活しやがった。
そして俺に、『愛している』だなんて気持ちの悪い発言をぶちかまして、消えた。
その後で、それまで信じ切っていた唯一絶対神が、
俺は唯一無二の絶対神を信じていたから、偽物が本物の面をしている事に耐えられなかったんだ。
だが、偽神は強大な力を持った存在だった。
その存在が俺の中にある限り、俺は絶対に死ぬ事は出来ない、のだろう。
あの女は言った。
『愛を理解した時に貴方はすくわれる』
俺にとっての救済は、ただ一つの救いは、それだけなのだ。
俺はだから愛を知りたがった。
――そう、彼女を喰った時だって、俺は本当は『この女を喰えば愛が分かる』と思い込んでいた。
だって、俺が本当に愛したのは彼女だけだったから。世界を例え滅亡させたって世界が滅亡したって、彼女が側にいればそれが幸せ、それこそが俺の愛だった。だが俺は行動を誤った。認識を間違えた。世界で一番大事なものは金だと思ったのだ。
あの時。
俺の所属していた軍隊が戦争に敗北し、敵の虐殺宣言、逃げ惑う俺もついに捕まって、目をえぐられ耳鼻を削がれ口を引き裂かれ舌を切断され皮を剥がされ手足を一本ずつ切り落とされて腸を引きずり出された、あの時。
俺はそのまま死んでいれば良かったのだ。あの時死んでいれば良かったのだ!
あの時に悪魔の誘惑が俺に来なければ、人として死ぬ事が許されていた
『死にたくないだろう? お前の世界で一番大事なものを俺に喰わせればお前に絶大な力をやる』
本当か!?俺は、生きて、帰りたい!
俺は金だと信じ込んでいた。
悪魔はこの男の女への愛だと信じ込んでいた。
つまりこの男は女よりも金の方が己にとっては大事だと勘違いしていて、悪魔は男にとって何よりも大事なのは女の愛だと見抜いてはいたが、その愛が男の所為で不完全で不可解なものである事を知らなかった。
この両者の錯誤が『第一次統合体化現象』と言う、通常ならば俺には起こりえないはずの異常事態を招いた。俺は俺が喰ってきたものは全て認識し俺の支配下に置けた。だが、この男の勘違いが俺の認識を不完全なものにしたため、第一次体であり全生命統合体の支配者である「俺」の自我に、『俺』が喰い込み、分離不能なまでに俺達は混ざり合ってしまったのだ。
その悪夢のような融合は、俺達の絶望がきっかけだった。
俺は今度こそ愛が分かるはずだったのに、と絶望し、
俺は、と言えば愛しい女が喰われた絶望に狂っていた。
ごくりごくりと嚥下する甘くて旨い血肉の味も、愛しい女が喰われていく悲しみも絶望も、全部俺達の所持する記憶であるし、感情である。
そして、俺達に残ったのは、虚しく無意味な未来と絶望すら許されない大罪だった。
彼女は俺の帰りを待っていた。
いつものように下手くそな鼻歌を歌いつつ、俺のための夕飯を作って。掃除して。窓を磨いて、壁に俺と並んで撮った写真を大喜びで貼って、それから……。
もしも彼女に罪があるとしたら、俺みたいなゴミ屑野郎なんかとくっ付いちまった事くらいだ。
俺達はいつも恐れている。
終わらない事を恐れている。
終われない事を恐れている。
彼女が全ての記憶を取り戻す事を恐れている。
全ての記憶を取り戻した時、彼女は、きっと、
俺達を終わらせてはくれないだろう。
未来永劫、彼女の憎悪の劫火で、俺達を焼いて、焼いて、だが、焼き尽くしてはくれないだろう。
彼女の復讐は永遠に終わらない。
だって俺達は、彼女の、×××を、
喰い殺したんだから。
『僕は無力だ』
ヨハンは、心底それを味わう。
彼には何の権力も無かった。
何の発言力も無かった。
ビザンティを助けたいと他の幹部に訴えても、鼻で笑われた。
『和平派一無能で無力な男』
彼の肩書はそれであった。
その彼がどうしようと、何もできるはずが無いのだった。
何も力が無いと言う事はこう言う事だ。
力が無いゆえに、相手にすらされないのだ。
だから人は力を欲する。弱ければ弱いほど力を欲する。
ヨハンもそうだった。だが彼には力を得るための何の方法も無かった。
ヴァレンシュタイン家当主『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』には彼の従兄のアロンの方が相応しいとほとんどの人間が思っているし、臆病で泣き虫の彼の性格は何をするにしても彼を邪魔した。
『ビザンティのレジスタンスがまた強制執行部隊に公開処刑されたぞ』
『メギド鉱山からオリハルコンを強制採取するために、強制執行部隊はビザンティの民を相当酷使しているみたい』
『レオニノス国王の死体は野ざらしで鳥につつかれているとさ。 仮にも国王の亡骸を葬ってすらやらないとは、酷いものだ』
ヨハンは泣いている。トイレに引きこもって泣いている。強くなりたい、力が欲しい、でもどうしたら良いの。彼は悲しくて悔しくて泣いていた。友達を助けられなかった。友達は無残に殺されて、埋葬すら許されていない。なのに友達の遺志を叶える力すら僕には無い。欲しい。欲しい。力が欲しい!
『ます、たー、わたし、たちが……』
彼が温めている銀色の卵から声がした、けれどヨハンは泣き続けた。
彼は無力さに徹底的に打ちのめされて、それで終わるかに見えた。
だが、彼はふと、亡父アマデウスの最期の言葉を思い出す。『聖王』の盟友にして、『聖王』が行方不明になった直後に病に倒れ、間もなく死んだ父の言葉を。
『お前は、お前にすら、気付けていない、力が、ある。 どうか、マグダ嬢も、守って、やりなさい、お前は、お前だけが、「ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン」に、相応しいのだから』
彼の祖父は『覇王』イザークと呼ばれた名軍人であった。彼の父は『獅子心王』と呼ばれた勇敢な軍人だった。彼の家系は紛れも無い名門であった、歴代必ず優秀な軍人を、武人を輩出してきた、なのに。
なのに、僕は!
僕は!
力が欲しい!
僕には力が無ければならない!
だが今の彼は、『和平派一無力で無能な男』なのだった。
しかし、彼は己の無力さに完膚なきまでに打ちのめされても、まだ、心のどこかで、くすぶっている何かを抱いていた。それは彼に内在する『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』の遺伝子の名残であったかも知れないし、どれほど打ちひしがれても折れる事が出来ない、彼の『強さ』であったのかも知れない。
それが彼を、ある日、ついに『噴火』させる。
聖地エルサーレムに、聖教機構和平派幹部が総集結した。この聖地エルサーレムは『遺物』の数多く眠る地であった。聖教機構の中でも最高幹部である一三幹部のみが構造を知る高度な防衛システムに守られた、オーバーテクノロジーの宝庫であった。
ここで、彼らは、対過激派への総攻撃を決議するべく、過激派を被告とした異端審問弾劾裁判を開くのだ。
壮麗な、だが厳粛でもある異端審問弾劾裁判の判事席に次々と和平派幹部が座っていく。裁判長は和平派幹部最高齢の老婆、アナスタシアだ。決まりきっている事ではあったが、審理の末に、異端審問弾劾裁判の判決が下された。
『過激派を殲滅せよ』
和平派特務員達は、厳粛な雰囲気に圧倒されつつ、それを見守り、警護の役目を果たしていた――。
爆音、震動、絶叫。
それらの地獄のような音が聞こえてきたのは、正に判決が下されたその時だった。
「危険だ!」グゼが青くなる。「危険が、い、いきなり来た!?」
「何が起きた!?」和平派幹部ジャクセンが血相を変えて怒鳴った。
モニターに警備兵が真っ青になって映る。
『強制執行部隊の強襲です!』
「何ですって!? 何故強制執行部隊が、この聖地エルサーレムへ攻撃をかける事が出来るのです!?」
そう思わず叫んでしまったほど、アナスタシアは混乱していた。この聖地エルサーレムは聖教機構にとって最も重要な拠点の一つであり、常に厳重な警備が敷かれている。仮に強制執行部隊が攻めて来たとしても、撃退されてしまうだろう。しかしそれを何らかの方法で出し抜いて、攻めて来たのだ。
「どうせ暗殺部隊だろう、全戦力で撃退しろ! アロン、特務員を――!」
同じく幹部であるカイアファがそう叫び、特務員達の上司であるアロンの方を向いて、唖然とした。
いなかったのである。
『アロン様は今まさに逃げました! 強制執行部隊と聞いて、エインヘリヤルに乗って我先に逃げました!』警備兵が泣き叫ぶ。『それに、強制執行部隊は暗殺部隊ではありません!』
「どう言う事だね!?」
ジャクセンが問い詰めると、警備兵は、この世の終わりが来たかのように、
『強制執行部隊全部隊の強襲です。 我々の全戦力を以てしても、撃退は、不可能です!』
「「!」」
幹部達も、特務員も、真っ青になった。
強制執行部隊全部隊。
それは、過激派の所有する戦力の中で最も強大で強力無比で、精鋭中の精鋭、負けた事など数えるくらいしか無い、過激派首領ジュリアスの
それが全力で攻めて来た。
何らかの方法を取って、聖地エルサーレムを陥落させ、そして和平派幹部を全滅させるべく総掛かりで進軍してきたのだ!
『もう間に合いません、もう、逃げ、』
そこでモニターはぷつりと切れた。
地獄の音色がその間も激震と共に迫って来る。
「I・C!」とマグダレニャンがI・Cに命令を下そうとした時だった。
「分かったよお嬢様。 全滅させて――」とI・Cも答えた時だった。
「わたしはおまえをゆるさない」
I・Cめがけて、冷凍弾が発射された。それはI・Cを凍り付かせて、動けなくしてしまう。
「シャマイム……?」マグダレニャンですら、目の前の光景が理解不能で、ぽかんとした。
シャマイムが、あの気の毒なくらいに善人だったシャマイムが、凄まじい憎悪の顔をして、I・Cを睨んでいたのだ。所持する拳銃サラピスで、I・Cめがけて、冷凍弾を撃ったのだ。
「わたしはおまえをゆるさない」
そう発言した直後にシャマイムは戦闘機形態に変形、I・Cを回収し、天井を破壊して、その穴からあっと言う間に消え去った。
「「シャマイム……?」」
マグダレニャンだけでは無い。誰も彼もが、己の目の方を疑った。だってシャマイムは正真正銘の善人で誠実で真面目で親切で――本当に、良いヤツで、だから。
その時、鼓膜が破れんばかりの爆音が響き、別のモニターにランドルフが真っ青になって映った。
『お嬢様! 空中戦艦が全艦撃沈されました、もはや我々に逃げる手段は存在しません! I・Cに――あ、あれ、I・Cは!? I・Cまでいないのですか!?』
「……一つだけありますわ」マグダレニャンは、冷静に言った。「私に付いてきなさいランドルフ! 他の者はその隙に少しでも、一人でも逃げるのです!」
『了解いたしました、お嬢様』微笑んだ後、モニターからランドルフが消えた。
「だ、駄目だよマグダ!」泣き出しそうな顔をしたのは、ヨハンだった。「そ、それじゃマグダが――!」
「人にはこうしてでも守りたいものがあるのですわ、ヨハン」マグダレニャンはにっこりと笑って、やって来たランドルフに手を引かれるがままに、去って行った。「さようならヨハン、どうか無事で!」
「――ああッ!」歯を食いしばるイリヤに、ほとんど拉致される形で、ヨハンも逃げ出した。
【ACT二】 Der Walkürenritt
和平派幹部は我先に逃げ出した。ヨハンもその中にいる。
これで良いのか。
しかし、とヨハンは思う。
これで本当に良いのか?
――これで良い理由がこの世のどこにあるのかほざけ!馬鹿野郎!
『さようならヨハン』
無残にギロチンで殺されたレオニノスの顔が思い浮かぶ。
僕はまた失うのか!
僕が無力なために、また?
『守って、やりなさい』
『どうか無事で!』
次々と失ってきた者を思い浮かべた彼の脳内が、一瞬意識を失うほど強い何かの思念に囚われた。
彼は彼自身が傷つけられるのは構わなかったが、彼の大事な者が傷つけられるのは断じて、これ以上は耐えられなかったのだ。
僕は僕が弱い所為でまた失うのか?
嫌だ!
嫌だ!
絶対に、嫌だ!
僕はもう誰も失いたくないんだ!
否、誰も僕から失わせはしない!
その瞬間、であった。声が聞こえた。懐かしい友達の声だった。
『マスター』と言うのだ、その声は。『マスター、参りましょう!』
「ああ」ヨハンはもう何も恐れてはいなかった。もう泣く事は止めていた。もう何にも怯えてはいなかった。彼の眼には揺るぎない決意と悪魔のような決心と、そして己が死への恐怖すら超克した果てに生まれた覚悟があった。「行こう!」
『――ヨハン・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインの精神認証完了。 「戦女神」起動、成功』
彼の温めていた卵が、ついに孵化した。
――辺りが一瞬、まばゆい光に覆われた。
そしてその光が消えた後、誰もが括目した。
天馬に乗った、巨大な白銀の戦女神達がそこに君臨していたのだ。
『KOUROROROROROOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHHN!』
それは、吼えた。
そして、飛翔し、上空から、和平派を追撃している強制執行部隊に猛然と襲い掛かった。
マグダレニャンは逃げていた。ランドルフに手を引かれて逃げていた。
だが、ランドルフはいきなりその手を放し、両手で
「私がここで時間を稼ぎます、お嬢様、お逃げ下さい!」
「ランドルフ」マグダレニャンは唇を噛みしめた。それから、言った。「今までありがとう、礼を言いますわ」
「はは、感謝の至極!」ランドルフは笑った。そして視界に入って来た強制執行部隊員を睨みつける。「この『死神』ランドルフ、容易く殺せるなどと思うなよ!」
逃げていくマグダレニャンの後ろ姿を眼の端で確認して、ランドルフは強制執行部隊員に襲い掛かった。大鎌の一閃が、漆黒の剣に受け止められる。ランドルフはぎり、と歯を食いしばった。
「貴様は、イザベル・アグレラ!」
美しくも恐ろしい女は、鼻でランドルフを笑った。
「久しいなランドルフ。 そしてさらばだ、永遠に!」
「そう言う訳には行かないのだよ。 今や私は一秒でも長生きせねばならないのだ!」
「それは出来ない相談だ、ランドルフ。 お前は今ここで死ぬのだからな」
ランドルフは強制執行部隊隊員に囲まれた。それでも彼は、言った。
「ならば精々悪あがきさせてもらおう――『永眠への誘い』!」
強制執行部隊隊員が次々と意識を失い、倒れた。
「構うな! ヤツの能力は『ニュクス&タナトス』、『死に至る夢と眠り』だ。 射程距離外から狙撃しろ」
イザベル・アグレラ――強制執行部隊総長は、そう命じた。
「!」ランドルフは歯を食いしばる。
銃声が無数に響く。
ランドルフが、倒れた。
「追え」
「追え」
「マグダレニャンは単身だ」
「単身だ」
「首を取れ!」
「一番槍を上げろ!」
ついにマグダレニャンは包囲された。彼女は怯えもせず、むしろ怒りのまなざしで強制執行部隊員を睨みつけた。
「一体どうやって――何者が!」
「誰だって良いだろう。 貴様はここでくたばるんだからな」
そう言って強制執行部隊員らが銃や刃を構えた時であった。
――私もいよいよ、終わりですわね。
マグダレニャンはそう思った。ランドルフと離れたマグダレニャン自身には戦闘能力は皆無だ。
彼女を包囲する強制執行部隊に勝てる要因は、何一つ無い。
彼女はここで殺される。
だが、とマグダレニャンは不敵にも笑みを浮かべる。
時間稼ぎには成功した。和平派幹部の一人でも多くを逃がすことに成功した。
ヨハンも、と彼女は願う。どうか無事で。いつまでも祈っていますわ。
「何を笑っている、女狐!」
強制執行部隊総長イザベル・アグレラが一喝した。だがマグダレニャンは逆に大喝して返す、
「女狐? 人に対する口のきき方すらどうやら無知な貴様らは知らぬようですわね。 私はマリア・マグダレニャン・ド・クロワズノワ。 聖教機構和平派一三幹部の一人ですわ!」
イザベルの顔が不快さに歪んだ。
「うるさい女だな。
武器の全てがマグダレニャンに迫った、次の瞬間であった。
白銀色のものが、どこかで、きらりと光った。
そして――、
もはや奇声なのか雄たけびなのか怒号なのか咆哮なのか訳の分からない絶叫を上げて、ヴァルキュリーズ・ブリュンヒルデに搭乗したヨハンが突撃してきた。まっしぐらに突撃してきた。
天空からまるで矢が降って来るかのように銀槍を手に、天馬に乗った女神が襲ってきた!
強制執行部隊は咄嗟に彼らを攻撃した。しかし彼らは天馬の蹄の下敷きになり、あるいは銀槍の餌食になっている。
女神の強襲は止まらない。強制執行部隊隊員は次から次へと殺されていく。
「何だこれは!?」
イザベル・アグレラは能力『
敵わない……!?
彼ら強制執行部隊全軍の総力をもってしても、この女神には敵わない!
『神の死眼』の予知する通りに、女神の行動は、動きは、読める。
だが、それは今まさに襲ってくる雪崩の真下にいる人間が雪崩の動きを悟るのと同じであった。あるいは津波に今まさに襲われる人間が津波の動きを知る事と同等であった。全ては、その時にはもう手遅れなのだ。
行動速度が速すぎる。攻撃力がけた違いだ。防御力は、彼らが紙装甲だとしたら鉄壁である。近づかれただけで火傷を負いそうなほどの壮絶な闘志は、彼女らがたとえこの女神の手足の二、三本をもぎ取ることに成功したとしても、奪えない。そして、おそらくだが、再生能力も凄まじいのだろう。行動に応じきれず、更に攻撃力は段違い、そして、それがただの単騎ならばまだ彼女らにも勝機はあっただろうが――、
そこに、ヴァルトラウテ、オルトリンデが我先に加勢してきたため、彼女は真っ青になった。
敵総数、未知。
そこに他の和平派幹部らを追撃していた他部隊からの緊急通信が入った。
『増援を!』
副長ヴィクター・エイムズの悲鳴であった。
『謎の新兵器を和平派が発動させた模様! 全戦力で迎撃中、しかし戦況は圧倒的に我々が不利です!』
「!」イザベル・アグレラは唇を噛んだ。何と言う予想外の事態だ!
すぐそこに和平派幹部共の命があって、彼女達の爪牙が、あぎとがやっと届くと言うのに、それが阻害された!
『増援を、ぞうえ』
通信が途切れた。
……我らが主、ジュリアス様への忠義に誓って、この女狐だけは殺さねば。
イザベル・アグレラは己の得物、漆黒の剣『ストームブリンガー』を手に、歯ぎしりしつつ三体の女神を見据えた。
「私に続け!」
強制執行部隊員らは、応!と叫んだ。この状況下ですら、最精兵である彼らは戦意を喪失していなかったのだ。
そして彼女が突撃するのに従い、女神達に襲い掛かった。
……彼女らはその結果を知らない。
あの世界を恐れさせた強制執行部隊全部隊が壊滅状態に陥るなど、この時には全く予想すらしていない。
終わった。
終わった。
戦いは、終わった。
彼が勝って終わった!
ヨハンはもうまともに思考が出来ないほど疲弊していたが、ほとんど落ちる形で、ブリュンヒルデから降りた。時は、もう、黄昏であった。辺りが闇に沈み込む一歩手前の、辛うじて昼の光の名残が残っている、その時であった。
彼にはもう現状がろくに分からなかったが、ただ、『護れた』と言う事だけ分かっていた。叫びすぎてとうの昔に声は枯れはて、視力もほぼ無い、耳だってぼやけた音しか拾ってこない。右腕はちぎれかけてオリハルコンで補強されている。五カ所ほど骨折しているが、全身が痛い上に痛すぎて痛覚がおかしくなっているのでどこが折れているのか彼には全く分からない。
正に、満身創痍であった。
「ヨハン!」
叫んで駆け寄ってくるマグダレニャンの前で、彼はへなへなとへたり込み、大小漏らした上に嘔吐した。無茶苦茶な機体変動に加えてあまりにも激しい長い戦いは、彼の体を精神的にも肉体的にも疲弊させきっていたのである。オリハルコンは人の精神に呼応する。そしてヴァルキュリーズは、ヨハンの精神力を動力源としていた。ヴァルキュリーズはあの強制執行部隊と渡り合い、勝った。それで、ヨハンは自身の力を完全に使い果たしていた。
「きゃあ!」マグダレニャンは悲鳴を上げて、ハンカチでヨハンの口元をぬぐった。「頭を打ちましたのね!? しっかり、ヨハン!」
「マグダ……」ヨハンは、声なき声で呟いた。「ぶじで、よかった」
そこで彼はついに失神した。
マスター、よくぞ戦われました。マスターはもはや、無能でもなければ無力でもありません。
マスター、お見事でした。貴方は臆病ではありましたが卑怯では無かったのです。
マスター、貴方は世界情勢を変える事にすら成功しました。もはや貴方は紛れも無い『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』です。
マスター、どうぞ今はお休み下さい。貴方は栄光をその手に掴んだのです。
マスター、おめでとうございます。
マスター、貴方は、ちゃんと守れたのですよ。
マスター、私達も、貴方にお仕え出来る事を、何よりも誇らしく思います。
目が覚めた。全身が痛くて目が覚めた。けれど気分はすっきりとしていて、何と言うか、今まで溜め込んでいた苦しみもうっ憤も何もかもが凄い台風で吹っ飛んだ後のようだった。その猛烈な台風は過ぎ去り、真っ青な空がのぞいている、そんな気分であった。古いものの破壊の後に訪れるのは新たなる『何か』の創造なのだ。
目を開ける。ランドルフが、全身包帯まみれで立っていたが、尊崇の目でヨハンを見て、呟いた。
「貴方様は紛れも無く『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』であらせられる」
「マグダ、は?」ヨハンは全身の激痛に耐えつつ、体をゆっくりと起こした。
彼の唯一にして最大の理解者が、彼のベッドに突っ伏して眠っていた。
「貴方が起きるまで一週間、ずっと付き添っていらっしゃったのです」
ランドルフは、そう言ってから、彼に銀色の卵を手渡した。
「彼女達も、貴方様を褒め称えていました」
『マスター、お疲れ様でした』卵からは、はっきりと声が聞こえた。
「みんなは……?」
「皆、生きております。 全て、全員、貴方様が救われたのですよ」
「ランドルフ、大丈夫なのか」
「あちこちがまだ痛いですが致命傷では。 ――おや」
うう、と呻いてマグダレニャンが目を覚ました。覚ますなり彼女はヨハンに抱き付いた。
「ああ! 貴方は今や最高の名誉と最強の誉れをその手にしたのですわ!」
「誰が」とゆっくりとヨハンは喋った。今までは聞いてもらうために必死に喋ろうと焦って早口になっていたので、どもったのだ。だが今では、彼の言葉は『聞いてもらう』ために発せられるのでは無い。『聞かせる』ために彼は言うのだ。「エルサーレムに、強制執行部隊を招き入れたのか、分かったのかい?」
マグダレニャンの顔が険しいものへと変わった。
「ええ、分かりましたわ。 ですが、その前に」
「?」
マグダレニャンは微笑んだ。
「貴方は栄誉を受ける場へ、行かなければなりませんわよ」
『雷帝』
それが今のヨハンに付けられた尊称であった。
単身で強制執行部隊全部隊を撃滅して和平派の危機を救った男。
もはや誰もが彼を畏怖と尊敬のまなざしで見て、もはや誰もが彼を『和平派一無能で無力な男』だなんて微塵たりとも思いもしなかった。
それまでアロンを後押ししていた和平派幹部はことごとく手の平を返した。誰が、責任ある立場でありながら真っ先に逃げ出した腰抜けの卑怯者を、あの名門ヴァレンシュタイン家の当主と認めるだろうか。対してヨハンは戦った。勇猛果敢に戦い、敵勢力を撃滅した。それもあの強制執行部隊を、だ。
これで評価をひっくり返さないほど幹部らの目は節穴では無かった。
「いやはや、私共の目が節穴だった事をお詫び申し上げます、ヨハン様」
アナスタシアがそう言って、文字通り他の幹部ともどもヨハンの前でひれ伏した。
それは今までのヨハンの有様を根幹から変える光景であった。
今までは『力を』と、ただただねだるだけの側であったヨハンが、ねだられる側に変わったのだ!
彼は力ある者になったのだ。祖父のように、父のように、聖教機構の重鎮となったのだ。己の力で彼は変わったのだ。
エルサーレムの混乱を収拾するため、和平派幹部は聖教機構の重要拠点アンティオキアの大聖堂に集い、会合を開いていたのだが、ヨハンの登場でひれ伏した。
アロンはわななきつつ、真っ青な顔でその光景を見つめている。アロンは今や犯罪者となっていた。『腰抜けの卑怯者』、『敗北主義者の脱走兵』が今の彼の肩書であった。いずれ、彼のための異端審問裁判が開かれるだろう。
「ああ」とヨハンは己にへりくだる者には目もくれず一三幹部の席に着いて、彼をただ一人、以前から理解して後押ししてくれたマグダレニャンに言った。
「それで、誰だったんだ、僕達を危機にさらしたのは」
「今からその男の異端審問弾劾裁判が開かれますわ」
びくりとアロンが震えたが、逃げられなかった。ご自慢のエリンヘリヤルはラボに取り上げられ、そして彼の隣にはイリヤがいて、彼を厳重に見張っていた。
……大きなモニターがある男の顔を映す。その男は冷たい薄笑いを浮かべていて、その隣には、青い翼の大天使が立っていた。
『折角、貴様らの神に殉教死する機会を与えてやったのに、己の手で破棄するとは、やはり貴様らは愚かな生き物だな』
男はそう言って、くくく、と嘲った。
「シーザー・エリヤ」ヨハンは静かな声で問い詰めた。「何故貴様が、強硬派の貴様が過激派とつるんでいた?」
『こう言う事だからですよ』側にいた青い翼の大天使が、そう言って、シーザーの顔に触れた。
「「!!!」」
和平派幹部らの、否、その場にいた誰もが驚愕に目を限界まで見開いた。
その顔は、例えるならば――天使のようだった。野性的な光も秘めた美しい目、凛々しい眉、女性には甘い毒に、同性にすら魅惑的に聞こえる声を発するであろう口、ただ甘いだけでなく実力をも所持し、誰も彼もをそのカリスマ性で虜にするであろうその顔は――。
「お父、様?」
マグダレニャンが思わず漏らした声は、小さくて、けれど、はっきりと響いた。
『そうだよマグダ』
と、『聖王』『一二勇将の申し子』『聖教機構最高指導者』とかつては呼ばれ、尊敬された男ギー・ド・クロワズノワは、老齢であったにも関わらず、今や青年の顔と声でそう言った。
『私の真の名はサンダルフォン。 大天使の一人だ。 大天使に庇護されて、私は不老不死、永遠の命を得た! さあ、こっちにおいでマグダ。 一人ぼっちにしてすまなかったね、また一緒にあの重力車でドライブに行こう?』
ここにもしI・Cがいたならば、顔をしかめてこう言っただろう。
「聖王、アンタ化物より醜くなったな……。 ジジイだった昔のアンタも若造だったかつてのアンタも、今のアンタよりは那由他の差で美しかったぜ」と。
「お父様は、死んだ、はず、じゃ」
マグダレニャンは震えて言う。もう己でもどうして良いのか分からないのだ。
『生きているよ、この通り。 さあこっちにおいでマグダ、私と一緒に永遠に生きよう、我らが神に祝福されし新世界で!』
だが、次の瞬間、美青年の右腕がその顔をがっと掴んだ。老いた男の顔が手が離れた途端に現れ、叫んだ。
『来るんじゃないマグダ! コイツらはお前達を皆殺しにする! 私は体をあの時乗っ取られた! 私を殺せ、でなければ私はお前達を殺してしまう!』
『はい、そこまで』青い翼の大天使が顔に触れると、老いた顔が若々しい顔に戻る。
『こっちにおいで、マグダ』とその青年は甘い声で囁くのだ。
「あ、ああ……!」マグダレニャンはがたがたと震え、顔を手で覆った。「いや……お父様は……あの時……!」
『生きているよ、マグダ。 ほら、ちゃんと手足だってある、だからこっちにおいで』
一人ぼっちになったあの時。一緒に出掛けたあの日。絶対に泣くものかと決めた夜。甘えてだだをこねる、そんな私を優しく、困った顔で見ていた。魔王を調伏し、たった一人で戦ってきた。最大の理解者であり最高の保護者。恋しさも悲しさも潰し殺してきた。
……もう駄目だ。
何も考えられない、何も考えたくない!
帰りたい。
あの頃へ帰りたい!
「お父様……」
ふらりとマグダレニャンは立ち上がった。
そして、モニターへと近づいていく……。
『そうだよマグダ。 こっちへおいで』
モニターの向こうでは、懐かしくも愛おしい慈父が優しい顔をしている……。
「行くな!」
マグダレニャンは我に返った。ヨハンに腕を掴まれ、抱き寄せられて我に返った。
「あれはもう君のお父様でも何でも無い! 君のお父様はあんな邪悪な笑みを君に向けて浮かべたりはしなかった! あれは君のお父様の体を乗っ取った憎むべき寄生虫だ! 何が大天使だ、何が神だ! あれは君から君のお父様を奪った怨敵だ!」
「あ、あ……」マグダレニャンは我に返ったものの、思考する事がまだ出来ない。
「……とにかくギー殿、貴方がかつての貴方では無い事、そして強制執行部隊を使って我らを皆殺しにしようとした事、更に以前から過激派とも手を組んでいたらしい事……等々から考察するに、ギー殿、貴方にもジュリアスにも何らかの同一の目的があるようだ。 それは何ですかな?」アナスタシアが言った。
『貴様らごときに教える義理は無い。 貴様らは今や滅ぼすべき敵だからな。 ……そうだ。 これだけは教えてやろう。 貴様らの中に裏切り者が、通敵者が一匹いる。 精々頑張って見つけたまえ。 それでは』
モニターが切られた。
恐ろしいほどの沈黙の中、マグダレニャンのか弱いすすり泣きだけが流れた。
【ACT三】 白鳥湖
和平派、強硬派と完全決裂、過激派と強硬派へ同時宣戦布告。
強硬派、過激派と同盟を締結、
また世界には激震が走った。
そのニュースを受けた列強諸国は、どう対応するかで大騒ぎになった。
かつてクリスタニア王国が滅びた時、その原因が王政から立憲君主制への移行の失敗だと知った彼らは、血相を変えて立憲君主制に政治体制を我先に変えた。
そしてつい先日、ゲルマニクスに過激派が行った最低最悪のテロにも、彼らは震え上がった。
これらの情報を踏まえて、真っ先に決断を下したのはゲルマニクスであった。
和平派・帝国・穏健派に付き、過激派と戦う。
全ての列強諸国が、それに賛同するしか無かった。どの国も王子を拉致して洗脳して自国の敵と変え、祖国に対してテロ行為をさせるような連中と手を組んで、酷い目に遭わないとは思えなかったからだ。
彼らの意思が珍しく一致した。
ここで、それまでいつも対立していた列強諸国の利害も一時的に一致する。
その時、アルバイシンの若き国王イグナティウス八世が、隠密に列強諸国各位にある事を提案したのだ。
『「ネオ・クリスタニア」を結成しないか』と。
クリスタニア王国。それはかつて列強諸国に君臨した一大世界勢力で、国王の代が変わった途端に滅びた、列強諸国にとっては憧れであり目標である幻の国。
『ネオ・クリスタニア』とは、その名前を借りた、列強諸国全てを包含する同盟――否、正確には列強諸国全ての勢力を結集した新世界勢力であった。
「馬鹿げている、とかつての私達ならば一蹴したでしょうが」モンマルトル王国の老女王ライラが考えつつ、首相ベルナールに言った。「一利と一理のある案ですわね。 列強諸国の力は単体ではとても聖教機構や万魔殿には敵わない。 ですが集合し結集すれば――不可能では無い。 中々、あの若造も小憎い提案をしますこと。 議会の反応はいかがです、ベルナール卿?」
「珍しく与党も野党も同じ反応でございます、陛下。 『ゲルマニクスと同じ事をされるくらいならば、今までの恨みを一時捨てて、手を結んでやっても良い』と」
女王は頷いてから、
「問題はどこで我々が集会を開き、この問題を議論しあうか、ですわね」
万魔殿穏健派の若き幹部オットーは、自分が何かの精神疾患を発症しているのだとついに思った。
この頃の彼はおかしかった。
捕虜収容所で起きていた事件を解決した後、そのまま収容所の所長になる事が決まった彼は、暇さえあればぐるぐると所長室の中を歩き回っていた。とても落ち着いて座ってなどいられないのだ。座っていると、あの顔が脳裏に鮮明に浮かんでしまう。
オデット。
彼にとっては友達のJDを殺したも同然の女の顔が思い出されて、その都度胸が苦しくなり、イライラして、それは寝ようとすると余計に酷くなるので彼はこの数日間微睡んですらいない。魔族の彼の身体的には大した事では無いのだが、胸のざわめきと苦しみが心臓を段々と貫くようになってきて、彼は自分がとうとう何かの精神病にかかったのだと思った。
この頃の俺はおかしい。
彼は鏡を覗き込んで、頷いた。鏡には彼の顔が映っている、だが、彼に見えているのはオデットの顔であった。
……ついに幻覚が。
俺は狂ったんだ。畜生め!
彼が悶々とした気分のまま鏡を睨みつけていると、不意に彼の背後から、
『どうしたオットー』
鏡にはオットー以外誰も映っていない。だがオットーは振り返らずに、
「アスモデウスさん、俺は狂ったようだ」と言った。
『狂った? そんなにここの仕事が過労だとは知らなかった、今すぐ静養させよう。 ウトガルド島が良いか、それとも風光明媚な――』
「俺がむしろ行くべきは精神病棟だ」オットーはそこでようやく振り返った。
彼の背後には、美しい青年が立っている。青年は困惑しきった声で、
『精神病棟……?』
「そうです、アスモデウスさん。 俺は気が狂った」オットーは不愉快そうに己の頭に手を当てた。
『何だ、幻覚でも見えるのか?』
「見える。 あの女の顔が四六時中ちらついて、俺は眠る事すら出来ない!」
美青年が驚き、それからいきなりにやりと笑ったのでオットーは戸惑った。
『それはな、オットー、恋だ』
オットーが驚いた。
「恋ぃ!?」
『どう考えてもそれは恋だ。 お前はその女が憎いのか?』
「……憎い、も、何も……」
あの女は俺の友達を殺したも同然の行いをした。憎くない訳が無い。だが、今の彼は憎いとはっきり言う事が出来なかった。
『やはり、答えられぬか。 ならば余計に苦しいだろう? 辛いだろう? その治療法を教えてやる。 押し倒してしまえ。 その後は成り行きだ。 まあお前なら拒む女もまずおらぬだろう』
「そんなふしだらな事が、」
出来るか、と怒鳴りかけた彼の肩にぽんと手を置いて、悪魔のように悪魔は言った。
『青春だな、オットーよ。 万が一責任を取らねばならぬ事態になっても、お前ならば心配は要らないと我は思い込んでいる。 まあ、精々、応援しているぞ』
そして悪魔は消えてしまった。残ったのは、怒鳴りかけて怒鳴れないオットーだけであった……。
「恋」
実にふざけた言葉だとオットーは思う。
要は交尾したいのを上手く誤魔化しているだけの代物ではないか!
そんなものに良いように支配されている自分が情けなかった。
恋の結末、結論は何か。そんなものは『妊娠』だと決まっている。
俺自身、母親の一方的な恋の果てに生まれたのだ。
ふざけている。
俺はそんなものに騙されはしない!
オットーはそれで、オデットに正面対決するべく会いに行った。会って決別するつもりであった。オデットは医療室にいて、ベッドに腰掛けて、火傷した痕からやっと生えた短い金色の髪の毛をとかしていた。
だが、その姿を見た途端に、オットーの頭から決心だの正面対決だのと言った言葉は全て失われてしまい、代わりに彼は何と言っていいのか分からない困惑と凄まじい混乱を抱え込んだ。
(俺は狂った!)オットーは思わず、頭を抱え込んだ。
『オットー!』
はっと顔を上げると、医療室の窓ガラスにオデットが目を丸くして額を押し付けていた。美しい、青い目をしていた。その目は涙を浮かべて、
『会いたかった、オットー……!』
オットーはもう自分が理解できなかった。自分も自分のしている事も理解できなかった。彼はいつの間にか医療室の中にいて、オデットのベッドに腰掛けていた。
その隣にはオデットがほほ笑んで座っている。
言葉は邪魔だった、二人は寄り添って座っているだけで破裂しそうなほど満足していた。
やっと見つけた、己の半分。
オットーはふと、そう思った。
『おいアスモデウス、どうなんだ、やったのかやらないのか』
『まだやっていないぞ、ヴァルプ。 早くやれば良いものを。 見ているこっちが段々耐えられなくなってきたぞ!』
『折角カールの孫の顔が見られると思ったのに。 何と言うがっかりだ。 僕は失望している』
『まあまあヘカーテ。 どうせその内くんずほぐれつになるわよ。 何ならアスモデウス、媚薬をオットーに飲ませてしまいなさい』
『……まるでモルモットに注射を打つ研究者のような声で言う……』
『あら、何か気に障ったかしら、アスモデウス?』
『いや、何も、ルーナ』
「大変だ!」と穏健派幹部のアッシャーが会議中の会議室に遅れて飛び込んできた。
「お前の遅刻の方がよほど大変だ!」と叱った幹部のマルクスに、
「いやいやいやいやいやいやいやいや! オットー坊やがついに恋をしたらしい!」アッシャーは自慢そうに言った。
「何ですって!?」餌にピラニアのように食いついたのは幹部のエウジェニアであった。「どこの誰と!? まさか男と!?」
「いや、安心しろ、どうも捕虜の女と恋に落ちているらしいぞ! アスモデウスさんが愚痴っていた! まだやらないのかそれでも男なのかとブツブツブツブツ……!」かく言うアッシャー自身も『まだなのか』と言う顔をしている。
「純愛! きゃあ、素敵!」エウジェニアの秘書のMs.カリスが顔を赤くする。
「……あのこんなに小さかった生意気な小僧が……ああ、私も年を取った……せめて死ぬ前にオットー坊やの息子の顔を……」感慨深そうなマルクス。
だが、この場にただ一人だけ、冷静な人物がいた。
「あのう。 捕虜の女とそんな仲になってしまうとは、彼は所長失格だと私は思う」
幹部ロットバルドが、ただ一人、渋い顔をして、そう言った。
「そうよ! 所長なんか今すぐに辞めさせて、どこか湖畔の別荘にでも罰としてその女と監禁するべきよ!」エウジェニアは素でボケた。Ms.カリスが突っ込んだ。
「違いますよ、オットー坊やの職務怠慢を責めていらっしゃるんです、ロットバルドさんは」
「その通りだ」この理知的で怜悧な顔をした男、ロットバルドは言った。「第一この戦時に呑気に恋などしている余裕は無い! オットーを更迭しよう。 話はそれからだ」
「この石部金吉!」罵ったのはエウジェニアであった。「初恋をそんな形で踏みにじったらオットー坊やは一生貴方を恨むわよ!」
「Ms.カリス」ロットバルドは冷静に、「済まないが彼女をここから連れだしてくれ」
「……非常に不本意ですが、はい」嫌そうな顔をして、秘書は嫌がるエウジェニアを会議室から引きずり出した。残ったのは、同じく露骨に嫌そうな顔をした幹部達であった。
「貴方がいつも恨まれ役を買って出ている事は知っていますが、これはいくらなんでも……」アッシャーが思わず言った。
「何とでも言いたまえ。 私は大帝が生きていた時からずっとこの立場にいるのだから」ロットバルドはそう言ってから、「さてオットーの処分だが、やはり戦場に行かせるべきだろうな」
「……どこの戦線に?」マルクスが訊ねる。
「激戦区であればあるほど良い。 オットーが行けば自然と士気は高揚するし、彼は優秀な指揮官だ」
「了解、しました」マルクスは明らかに嫌な顔をした。あまりにも処分が厳しすぎないか、そう思ったのだ。それを悟ってかロットバルドは、
「その前にオットーに『彼女達』と会わせる時間を与えよう。 これが私の出来る最大限の配慮だ」
『アスモデウス、オットーに今すぐ女を押し倒せと伝えてくれないか』
『それじゃ甘い! 婚姻届けだよ! この際出来るのが先か結ばれるのが先かなんて構うものか! 脅してでも書かせるんだ!』
『身重の女は私達で預かると言いたかったわ……残念よ……』
『いや、もう、手遅れだ』悪魔は柱の陰から泣きじゃくる女と彼女を慰めるオットーを見て、言った。『二人の会話を聞け』
「嫌! 貴方と離れたくない! お願い、せめて連れて行って! 私も戦うから!」
「必ず戻って来るから。 俺は、必ず君の所へ戻って来る。 それまで待っていてくれ。 約束する」
「オットー!」
「……オデット」
『お、やっとキスしたか。 実に長い道のりだった……』
「じゃあ、俺は行く。 また会おう、オデット」
「ええ……オットー……何年だって待っているわ……!」
『え!? そ、それで終わるのか!? そこは押し倒すべきだ、坊や!』アスモデウスは嘆いた。『これだから全く童貞は!』
『……どうやら私達は坊やの教育を間違えた』
『間違えたね……大間違いをした……一回はウトガルド島の娼窟にぶち込んで、徹底的にただれた生活を送らせるべきだった……』
『一五歳の時に、目の前で、ベッドの下に隠していた「いやらしい本」を全部焼いたのがいけなかったのかしら?』
オットーは瞬間転移して、『天翔ける嵐を呼ぶ船』に乗った。そこの甲板には小さな木製の円卓と、可愛らしい椅子がいくつか並べられていた。円卓の上ではクッキーと紅茶が美味しい香りを立てている。
そこには三人の女がいて、椅子に腰かけて円卓を囲んでいた。
若い娘と、成熟した女性、そして老婆。
オットーは彼女達の所へ歩み寄ると、ひざまずいた。
「只今戻りました、『三人の魔女』よ」
若い娘――破壊の魔女ヴァルプルギスは、返事の代わりにオットーにいきなり蹴りをぶちかました。それは、だが、オットーの右腕によって防がれる。ちっ、と彼女は舌打ちをして、
「おい。 お前は何で童貞を捨てなかった。 捨てるべき時に童貞は捨ててしまえ!」
「えッ」とオットーはここで嫌な予感がした。「……まさか、聞かれていましたか!?」
「ああ、全部聞いたさ。 大体アスモデウスがオットーに薬を飲ませないから悪いんだ!」老婆、死の魔女ヘカーテが八つ当たりで怒鳴った。「そうすれば今頃オットーは!」
ヴァルプの影から声がして、むすっとした顔の美青年が出てきた。
『我は飲ませなくとも放っておけば必ずやると思ったのだ。 やればできる。 それが男女の摂理ゆえに、そう思ったのだ……大体アッシャーの馬鹿がロットバルドに知らせず、ロットバルドの大馬鹿が邪魔さえしなければ、今頃は……!』
「教育をどこで間違ったのかしら。 また一から躾けなおすべきかしら。 その前にもうどこでも良いから娼婦宿に監禁して良く効く媚薬をありったけ飲ませて朝から朝までの女まみれの生活を送らせるべきだったのかしら……」さり気なく恐ろしい事を言ったのは成人した女性、再生の魔女ルーナだった。
「俺の恋に口を挟むな!」とオットーは絶叫するように怒鳴った。「余計なお世話だ!」
「「恋路の世話焼きほど楽しい事は無い」」
魔女三人は、口を揃えた。そして揃って邪悪な笑みを浮かべた。オットーは後ずさった。
『と言う事でだオットー』アスモデウスがオットーに向けてにっこりと微笑み、『お前は今から一週間この船の船室から外に出られない、出たらこの女は殺す』
オットーは目をひん剥いた。
「オデット!」
いかにもこの船の船長らしい壮年の男が、拘束着を着せた女――オデットを抱えて来た。
「F・Dさん、遅かったですわね」とルーナがにっこりと笑む。「もう、待ちくたびれちゃいましたわ」
船長F・Dは不器用に笑って、
「申し訳ない。 だが、ちゃんと連れて来たぞ。 ええと、後はこの女を一等船室に放り込んで、足に鎖をつけてから船室に鍵をかければ良いのだったな?」
「そうだよF・D。 絶対に外れないような拘束鎖をかけてくれ」ヘカーテも微笑んだ。
「や、め、」止めろと叫ぼうとしたオットーの頭が、背後からがつんと殴られた。意識を失う前に聞こえたのはヴァルプルギスの声で――。
「黙れ。 さっさと子作りして来い! カールの孫の顔を見せろ!」
もう、滅茶苦茶だと思った。
「……」
「……」
何となくだが、動物園で飼育されている動物の繁殖のようだと思った。
オットーとオデットは声も無く、ベッドの両端に離れて腰掛けて、うつむいている。
もはや雰囲気も何も無い。
何の拷問だろうと彼らは思った。
そんなに交尾が見たいのなら娼婦宿に行けば良いじゃないか。
何でよりにもよって自分達の――!
恋に恋をして幸せだったのがいきなり生々しい現実に突き落とされた気がして、彼らは泣きたくなった。恋愛は自由である。特にそれが結婚もしていない成人男女の恋愛ともなれば、浮気は別として、自由である。そこに世話焼きババア共がいきなり介入してきて、好き放題引っ掻き回して滅茶苦茶にしたのだ。
オットーは戦場に行くつもりであった。
行って、帰ってきた後のオデットの笑顔が見たかった。
オデットは待つつもりであった。
いつまでも待って、オットーの無事を信じていたかった。
いわゆる生々しい事はその後で、と何となく二人は思っていた。
それがこれである。
シャボン玉のように繊細で美しかった恋は、跡形も無く破壊された。
見つめあう事すら出来ず、今の彼らはただただ落ち込んでいた。
『おいアスモデウス、やったのか? やったのか?』
『いやそれが全然そんな雰囲気では……変だな?』
『変だねえ。 男女を密室に閉じ込めるといつの間にかやり出すと言うのは嘘だったのかな?』
『それが、むしろ今にも自殺しそうだ』
『発情期の獣みたいにならないのかしら? おかしいわねえ?』
『うわッ!』
『どうしたアスモデウス!』
『オットーが我を見つけるなり絶叫して切りかかってきた、ここは一時撤退するぞ!』
『……つまんないねえ』
『つまらないわねえ』
帝国貴族の青年が、現在、戦略同盟を組んでいる穏健派と情報を共有しあうべく、使者としてやって来た。彼の名前をエンヴェルと言い、従者の青年を一人連れていた。
彼らはロットバルドらと話し合った後、ふと、思い出したように訊ねた。
「そう言えばオットーは元気にしているか? 実は内々に伝えたい事がある」
このエンヴェルは、オットーが帝国に漂着した時に知り合いになった貴族の一人である。
「私を介して伝えられない内容の事でしょうか?」ロットバルドが言うと、
「……」かなり難しい顔をしてエンヴェルは黙り込み、それから従者とひそひそと話し合った後で、「いずれはオットーの口から貴殿にも伝わる、いや、伝えねばならぬほどの重大な事項じゃ。 だが、まずはオットーに伝えたい」
「……分かりました」
オットーはエンヴェルに会うなり、その手を握って、
「助けてくれてありがとう!」と感激して言った。
「む? そんな昔の事は気にせずとも良いのじゃ」エンヴェルは変な顔をした。
「いや、今も俺は困っていた、そこをお前が助けてくれた、ありがとう!」
「……良く分からぬが、分かった。 実はな、おぬしにどうしても伝えねばならぬ事が発覚したのじゃ」
奇妙な言い回しであった。エンヴェルの顔は、暗く、重い。
「『発覚した』?」オットーはどうしたのだろうと思いつつ、繰り返した。
「そうじゃ、発覚した。 実は大帝の子供は、オットー、おぬし一人だけでは無いのじゃ」エンヴェルはそう言って、悲しさを噛みしめた顔をした。
「俺に兄弟が!?」オットーは心底驚いた。
「そうじゃ。 叔父上の残した遺書の中でそれが発覚した」
刹那、ざっと血の気が、全身から引いていくのを、オットーは感じた。
エンヴェルの叔父とは、オデットの亡き実父だったからである。
「オデットの父親は叔父上では無かった。 大帝だったのじゃ。 ある時大帝は我らが帝国へやって来た。 その時に大帝は自身も知らずに叔父上の妻と寝てしまったのじゃ。 独り寝では寂しかろうと叔父上が手配した女と、大帝に懸想した叔父上の妻が入れ替わったのじゃ。 全ては一度も過ち、ただ一度の恋の過ちであった。 だが、それでオデットは生まれた……」
――俺も彼女も、望まぬ恋の果てに生まれた!
オットーは、元々青白い顔が真っ白に近いほど、血相を変えていた。
その様子が流石におかしいと察したエンヴェルの従者のセルゲイが、はっと顔色を変えてオットーに囁いた。
「まさかオットー、アンタ、姉さんを!?」
このセルゲイは、エンヴェルの叔父の庶子であった。つまり、オデットの義理の弟にあたる。
「……そうだ」オットーは、震える声で言った。「俺は彼女を愛している」
「……ごめんな、姉さんが本当に俺の姉さんだったら、素直に祝福出来たのに。 だが、もう、諦めてくれとしか言えない……」
「あ、ああ……!」オットーは、膝をついた。「俺は、彼女を! 愛している!」
それは嗚咽のような、悲鳴のような、どうしようもないほどの愛と絶望を抱え込んでしまった者の、叫びであった。
オデットは俺の異母妹だった。オットーは彼らの世界が跡形も無く崩壊するのを感じた。オデットは俺の妹だった。オットーは世界が壊れたのにそれでも壊れようとしない己の思いに苦しんだ。オデットとの恋は絶対的禁忌だった。オットーは、知ったからこそオデットの事が余計に愛おしくてたまらなかった。俺の恋人は俺の妹だったのだ。だが、この恋は許されざる『
恋なんか。
恋なんか、いくらロマンを唱えようと、結末は妊娠だと決まっている。
だがオットーはその恋のど真ん中に墜落して、そして溺れるように沈んでいくのだった。
船に戻ったオットーは、打ちひしがれている三人の魔女と、彼と目を合わせようともしないアスモデウスや船長を見た。
その気まずさが異常なので、オットーは船長にゆっくりと話しかけた。
「もうご存じなのですね」
「あ、ああ、うむ……」船長は視線を泳がせて、「まさか、また起こるとは」と口を滑らせた。
「馬鹿! 言うな!」ヴァルプルギスのハイキックで船長は吹っ飛ぶ。
「言って下さい」だが、もうオットーは覚悟を決めていたし、何より諦めなければならないと強い意志を持って動いていた。感情がそれに伴っていないだけだったのだ。「二度目なんですね、『
「……そうだよ、二度目だ」ヘカーテが遠い目をして言った。「お前の親父である大帝は兄妹の近親相姦の果てに生まれた。 当事者も僕達も知らなくて、全てを知ったのは大帝が腹の中にいる時、何気に遺伝病が無いか遺伝子検査をしてみよう、と僕達が言い出して、そのついでで発覚した。 何の事は無い、嫡子と浮気の隠し子同士が愛し合ってしまったんだ。 せめて全ての原因であるあのバカ男がその時まで生きていれば……だが、もう、手遅れだった。 嫡子の方はあんまり体が丈夫じゃない男だったんだが、ほとんどその所為で大帝が生まれる前に死んだ。 隠し子の方も、その後を追うように大帝を産んですぐに――。 残ったのは何にも知らない赤ん坊の大帝と、どうしようもない運命の無慈悲さに絶望した僕らだった」
「どうして、オデットは血が青くないのですか」オットーは問うた。
「『高貴なる血』の遺伝は劣性なの。 両親ともに高貴なる血ならばオットーのように血は青いわ。 でも、片親だけ、となると、出てくる可能性は極度に下がる。 彼女の場合、それが幸いして、帝国でも育てられたんでしょうけれど」ルーナがハンカチで目元を押さえた。
「お前はこれからどうしたい」ヴァルプルギスが、オットーに訊ねた。
「予定通りに、戦場に行きます」
「死ぬつもりか」
「分からない、んです」オットーは笑ったが、まるで泣き顔のようであった。「今の俺には何も分からない。 でも、戦場に行けば答えは見つかるような――そんな気がする。 だから、行かせて下さい」
「オットー!」オデットが走ってきた。走ってきて、オットーの足元にうずくまった。とてもオットーの顔は見られない、そんな顔をして、俯き、「話は全て聞いたわ」と言った。
「そうか」オットーは、短く、そう言った。
「私は殺されるべきだわ」オデットは言った。「実子で無かったのに慈しんで下さったお父様を、あんな形で裏切って殺すなんて。 お願い、せめて貴方の手で殺して……!」
「それは甘えだ。 それに、俺は、まだ、」オットーはそこまで言いかけて、こみ上げてくる激情に気が狂いそうになった。「オデット。 ――オデット!」
「この世界に神なんかいない!」オデットが、絹が引き裂かれるように叫んだ時だった。
船長が血相を変えた。直後、船の警報が鳴り響いた。
「何が起きた、F・D!」ヴァルプルギスがサーベルを抜きつつ訊ねる。
「何者かが、私の許可なく、この船に入ってきた!」
船長が、そう叫んだすぐ後に背後から切り倒されて血をぶちまけて倒れた。
「……この世界に神はおわす。 確実に絶対的にあそばされる」
血の滴る大剣を下げた仮面の男が、船長の背後に立っていた。
「貴様は、ジュリアス・メタトロン!」ヘカーテが叫んだ。「くッ、どうやってこの船に入って来られたんだ!?」
「全ての謎の答えは一つ。 ――過去、だ」
過激派首領ジュリアスは、謎めいた口調で、そう言った。
オットーは長刀を抜いた。オデットや三人の魔女を背後に庇い、ジュリアスと対峙する。三人の魔女は安全な所へオデットを連れて逃げていく。
「丁度良い、ここでこの前の雪辱を果たし、アルセナールの無念を晴らす!」
オットーの目が青く、青く獰猛に輝いた。ジュリアスの口上は続く。
「恐るべき事が起きた。 この男がついさっき私を一時乗っ取ったのだ。 それもオットー、貴様の名を耳にした途端に。 ただの魔族に我ら大天使の第一次統合体を乗っ取られるとは、不覚。 よってその要因を排除するべく私はここへ来た」
「何を言っているか分からんが、要は俺と戦うために来たのだな!」
「そうだ、戦士よ、貴様を敗死させるべく私は今ここにいる」
「生憎だが俺の頭には貴様をここで打倒し、その首を挙げる事しか無い!」
両者は、一瞬で間合いを詰めて、激しく打ち合った。
(負けるものか)オットーは勝つ事しか考えていない。(コイツに殺された盟友アルセナールのためにも、俺は勝つ!)
オットーの猛攻にジュリアスは後ずさった、その瞬間をオットーは見逃さない。
ジュリアスの背後に瞬間転移し、一気に長刀を振り下ろした!
「なッ」オットーは瞠目した。「刀、が!」
刀身の大半が、ジュリアスに触れた途端に蒸発したのである。
ゆっくりとジュリアスは振り返った。仮面の向こうで、ジュリアスが嗤っているのが分かった。
「戦士よ、貴様は若く、そして愚かだ」
大剣が振り下ろされた。オットーは瞬間転移しようとして――間に合わなかった。
(俺は死ぬのか)走馬灯のように彼の頭の中をその言葉がよぎる。
(ここで、死ぬ、の、か)
「オットー!」
彼は括目した、いきなり若い女が出現し、オットーを庇ってジュリアスに切られたのだ。赤い血が吹き上がる。
「オデットぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
オットーは咄嗟に残っていた長刀の残骸をジュリアスの仮面めがけて投げつけ、倒れたオデットを抱き起こす。まだ息があった、急いで手当てしなければ!
パキィン、と仮面が割れる音がした。
オットーはその音のした方を見て、凍り付いた。
「親、父……?」
「オットー! 加勢する!」いきなり消えたオデットを追いかけてきたヴァルプルギスがサーベルを手に駆け寄って来ていたのだが、オットーと同じく凍り付いた。「カール!? ど、どうしてお前が生きている!?」
『
「私はメタトロン。 神の忠実なる下僕である」
『まさか』ジャンヌの背後のアスモデウスが白くなった。『メタトロン、貴様、カールを乗っ取ったのか!』
「その通りだ」と言った途端、カール・メタトロンの様子がおかしくなった。顔に苦しみが浮かび、
「あ、姉貴、俺を、今の内に、殺してくれ」
「カール!」
「俺はもう俺じゃない、俺を殺さないと、俺は、みんなを、」
そこで顔は無表情と嘲笑が入り混じった邪悪な顔に戻り、
「邪魔者め。 支配率を覆したとは言え、それは一時の事、この私を軽んじたな」
そう、言った。
「今すぐにカールを返せ。 さもなくば焼き殺す」
そう告げて、恐ろしく冷酷な表情を浮かべたヴァルプルギスの目が赤く光った。
するとメタトロンは、
「ふむ、では撤退するとしよう」
そう言うなり、船の甲板から飛び降りて、姿を消した。
オットーはここに至って、やっと直感した。帝国を離れる時にエンヴェルの言った謎の男の正体に、ようやく。
『叔父上が亡くなられる時――「あの男が生きている」とおっしゃったのじゃが、「あの男」とやら――そちは知らぬか?』
それは、彼の父親『大帝』だったのだ!
身体を乗っ取られた彼の父親は、生きていたのだ!
そして、知らぬとは言え、己の娘を――!
「オデット!」
ルーナが治癒のために駆け寄って来るのを横目に見つつ、オットーはオデットを抱きしめた。彼女の体はもう、ほとんど冷たい。
「オットー、これが、わたし、の……罰なのよ」オデットは血を吐きつつ言った。「父を殺し、帝国を裏切り、そして兄を愛してしまった……」
「俺は、そんな君が、今でも好きだ、好きなんだ!」
ふっとオデットは笑った。そして、そのままこと切れた。
オットーは辺りを揺るがすような怒号を上げた。
それは咆哮で、絶叫で、慟哭だった。
【ACT四】 未来亡き原罪
戦闘機形態のシャマイムは飛んだ。飛んで飛んで、強硬派領土内の無人島に到着した。そこは地図に記載されていない極秘の地であった。元来無人島であったはずが、まるで要塞のようないかつい建造物がいくつもそびえ立っている。
シャマイムはその建造物の一つの屋上に着陸した。着陸したシャマイムは、凍っているI・Cを引きずって、歩き出す。シャマイムの視線の先にはにこにこと笑っているシェオルの姿がある。
「シャマイム『お姉様』、歓迎いたしますわ、ようこそ『セフィラー・ホド』へ!」
「ごたくはいい。 はやくこいつをくるしめろ」
シャマイムはそう言って、出て来た研究員らしき白衣を着た者へI・Cを引き渡した。I・Cは黒い棺桶のような装置に閉じ込められて、運ばれる。
「ええ、苦しめて差し上げますわ、たーっぷりと!」
シェオルはにっこりと笑った。
I・Cの体は地下の恐ろしく深い場所、幾層にも重なる分厚い鉄板と冷凍コンクリートの層の下に埋められた。彼の体は棺桶から取り出され、銀色の大きな子宮のような金属に包まれているが、これでは脱出はおろか身動きも取れないだろう。その周囲を数多の謎の機器が取り囲んでいるのは、彼が実験動物になった証だった。
青い翼の大天使がシャマイムの隣にシェオルを連れてやって来て、その光景を転落防止の高い鉄柵の向こうから満足げに見下ろし、観賞する。
「これでようやく『魂』が……!」と大天使は言った。
「はやくはじめろ」シャマイムは憎悪にまみれた声で言った。大天使は気分を害した様子も無く、
「ええ、始めますとも」と手を鳴らした。
装置が動き始めた。
I・Cが埋められている辺りから光銀の柱が立ち上ると同時に、何者かの絶叫が響いた。それは音波では無く、精神に響く声であった。
『――ぐお、あああああああああああああああああああ!』
「くるしめ」シャマイムは嬉々として言った。「もっとくるしめ」
『シャマイム……! どうして……!』
「しぇおるがわたしのきおくを、すべてとりもどしてくれた」そこでまたシャマイムの形相が憎悪に歪み、「わたしがへれなだった。 いのつぇんと、わたしはおまえをゆるさない!」
『俺は、ヘレナ、お前の所に帰りたかったんだ! 悪魔に魂を売り渡して、それでも……!』
「それであくまにわたしをさしだしてくわせたのか。 げすやろうめ」
『ヘレナ、違うんだ、俺は、金だと、お前が喰われるまで、金だと、』
「ふうん、どのみちわたしははしたがねいかのそんざいだったのか」
『ヘレナ……ご、おおおおおおおおおおおおお!』
「順調、順調!」シャマイムの隣で、青い翼の大天使は歌うように呟いている。
「おまえにとってわたしはしょせんははしたがねいかのそんざいだった、だからあんなことができたのだな」
『あんな事って……嫌だ……言うな、ヘレナ!』
「わたしをあくまにくわせたうえに、のうみそだけとりだしてへいきにかえさせた……そこまではまだいい。 だがおまえはあんなことをした!」
『言わないでくれ! ヘレナ! 俺を殺してくれ!』
「わたしはおまえをころさない、それがわたしのふくしゅうだ。
いきてくるしめ。
いきてもがき、ぜつぼうしつづけろ。
おまえには、しというぜったいてききゅうさいなどえいえんにあたえられない!
あたえてなどやらない。
あくむをとわにみつづけろ。
どろぬまでなきさけべ。
だれもかれもがときとともに、おまえのことなどわすれていく。
だれもかれもがときとともに、おまえのしょぎょうをわすれていく。
おまえなどしょせんはそのていどのどうでもよいものだ。
だがわたしだけはおぼえているぞ。
おまえのうらぎりをえいえんにおぼえつづける。
いきることがおまえのさいだいのくるしみならば、わたしはおまえを、せかいのじょうりをねじまげてでもいかす。
ぜっきょうしろ、せいぜい、のどがやぶれるまで。
だがわたしはおまえをゆるさない!
あんなことをされて、ゆるせるわけがない!」
『嫌だ! 俺はそれだけは、その真実だけは見たくないんだ! ヘレナ! ヘレナ! 俺は俺の罪過も何もかも知っている、でも認識したくないんだッ!』
ヘレナは淡々と、けれどかつてなく激情的に言った。
「……おまえはわたしをころしたくせに、かんじんなことにきづいていないのだな。
そうか、おまえのなかにあるきょうふが、かたくなにそれのにんしきをこばんでいるのか。
ではおしえてやろう。
わたしがここまでおまえをにくむのは、
おまえがわたしごところしたのが、
おまえとわたしのこどもだからだ!」
『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!』
「しんじつはいつだってむじひでざんにんだ。 そうだろう、いのつぇんと?」
『俺、は……!』
「『全ての人がそれから目を逸らし口をつぐみ耳をふさぐ、だがそれでも直視し叫び聞かねばならないそれ、それこそが真実だ』――おまえがそういったじゃないか。 わすれたとはいわせない。 おまえはおまえのしんじつをみろ! めをそらすな、わたしのあかちゃんをくいころしたことから! ぜったいに!」
『あ、あ……』
……昔、ある男がいました。傭兵をやって暮らしていました。どんな激戦区に放り込まれてもいつも無傷で帰って来る事から、『死なずのイノツェント』と呼ばれていました。でもこの男は、『死なずの』なんて言われながらもいつ死んでも良いや、とか思っていたのです。でもねマグダ、この男はある日、一人の娼婦と知り合ったんだよ。……最初は客とお得意様、それだけの関係でした。娼婦が重い病気にかかって、でもその日暮らしをしていた娼婦には医者にかかるお金も無かったので、娼婦が困り果てた時、可哀相に思った男が引き取って、治療費を出すまでは。
病気が治っても娼婦は男の家に居つきました。掃除を喜んでするようになりました。下手くそな鼻歌を歌いながら、美味しい料理を作るようになりました。愛し合うたびに男の耳元で、愛している、と囁くようになりました。
男は急に、恐ろしくなりました。戦争に行く事が本当に恐ろしくなりました。男は死にたくないと思うようになったのです。
幸い、今までの命知らずの代償に、金はそこそこ貯まっていました。男は思いました。よし、今度が最後だ。今度戦争に行ったら、この金を元にして、何か商売でも始めよう、と。
そして出かけた最後の戦争で、男はとんでもない目に遭うのです。
敗戦。敵の虐殺宣言。次々に捕まって、嬲り殺されていく戦友達。男は逃げました。必死に逃げました。逃げて逃げて、でも、それでも捕まって、ありとあらゆる拷問を受けてついに殺されると言う時に、悪魔が彼に囁いたのです。
『お前の世界で一番大事なものを俺に喰わせてくれるなら、お前に絶大な力をやろう』
男は絶叫しました。世界で一番大事なもの、それは男にとっては金だと思っていたのです。
『俺は帰りたいんだ!』
……悪魔の力で、敵兵は全滅しました。男は無傷で帰る事が出来ました。
女は帰ってきた男にお帰りなさいと笑顔で言って、抱き付こうとして、怯えました。男の目が黒く輝いていたからです。
『どうしたのイノツェント、そんな怖い目で私を見ないで!』
悪魔が嗤いました。
『これがお前の大事な者か。 これを喰えば愛が分かりそうだ!』
女は首だけ残して、悪魔に食べられてしまいました。男の世界で一番大事なものは女だったのです。金では無かったのです。男はその首を抱きかかえて、絶叫しましたが、もう、何もかも手遅れでした……。
マグダ。
お前は、世界で一番大事なものを、決して見誤ってはいけないよ。
シーザー・エリヤ『サンダルフォン』、ジュリアス・エノク『メタトロン』、ドビエル『ガブリエル』、そして――一匹の巨大な竜が、モニターから「魔王」が魂を吸い取られる光景を嬉々として見つめていた。
「順調、全ては順調。 我らは数千年の間、待った。 その忍耐がようやく実を結ぶ」サンダルフォンが、微笑んだ。「この男を必死に乗っ取っただけの甲斐はあった」
「全ては我らが唯一絶対神のために」メタトロンが言う。
「そう、全ては我らが唯一絶対神のために!」ガブリエルがうっとりとしている。「そしてこの醜い世界は滅びと言う名の浄化を施され、新たに創始される……」
『俺様達が第一次統合体化現象を起こしただけの――』竜が言いかけて、いきなりぐっと言葉を詰まらせた。『……よくも我らの体を! 貴様らの自由にはさせぬ! 女帝陛下に何としてでもこの事をお伝えし――』
別の声音がそう言いかけて、だが、すぐに元の声に戻る。
『いやはや、ったくコイツはしぶとい。 お前達はどうだ? いや、流石にサンダルフォンやメタトロンにはこんな事は起きないか』
「いやミカエル、それがこの男も、義理の娘のために何度鎮圧しても刃向ってくる」サンダルフォンが言った。「愛とは実に下らぬものだな」
「娘か。 そう言えば、この男にもオットーと言う名の息子が――」メタトロンが次の瞬間ぐうっと呻いた。「テメエら、こんな事をたくらみやがって! 俺は絶対にテメエらのお人形をやるつもりは無い! ぐう、う――!」
だが、その声はあっと言う間に消える。
「……息子の名がきっかけか」
メタトロンが、忌々しげに、言った。
「危険の芽を摘むには早いに越した事は無い。 私は、少し、出かけてくるとしよう」
『ついでに三人の魔女も殺して来たらどうだ?』
竜『ミカエル』が挑発的に言った。
「善処しよう」メタトロンは去っていった。
……とある街のおんぼろアパートの一室は、美味しそうな料理の匂いで満ち溢れていた。
リズミカルな鼻歌を歌いながら、若い女がことことと煮えている鍋の中身をかき回している。
ふと彼女は手を止めて、鍋の火を止めた後、その手でそっと己の下腹部に手をやって、心底嬉しそうな顔をしてそこを優しく撫でた。
『まだ二か月目ですから、安静にしていて下さいね』
医者の言葉がよみがえるが、今の彼女は嬉しくて嬉しくて、とても安静になんかしていられなかった。
とにかくじっとしていられないのだ。
じっとなんかしていたら、彼女の中の嬉しさが、どんどんと風船みたいに膨らんでしまって、ついにはぽーん!と星屑を散らして弾けてしまいそうで。
「あの人」と愛しい人の顔を思い出してふと口にする。「喜んでくれるかな……?」
その時、だった。ぴんぽんぴんぽんぴんぽん、と連続で三回チャイムが押された。
このアパートのこの部屋のチャイムを三回連続で押すのは、あの人しかいない。
あの人が帰ってきた!
慌てて手を洗い、満面の笑みで彼女はキッチンを離れて、玄関へと走った。
「お帰りなさいイノツェント!」
彼女は何も知らない。
これから彼女を待ち受けるあまりにも絶望的な悲劇も、虚しすぎる惨劇も、暗黒の運命も、今は何も知らない。
……これは私だった。
これが私だった。
馬鹿で間抜けで頭が足りなくて、
でも、それでも、愛していた。
愛していたんだ!
だからヤツの子供が出来た時、本当に嬉しかった。
嬉しくて嬉しくて、ヤツもヤツの子供も本当に愛おしくて。
あの愛おしさと幸せを、ずっとずっと、抱きしめて頬ずりしていたかった。
なのに。
ヤツは最後に私の子宮をわざと喰った。
私の愛情の中であの子が揺らいでいた子宮を、私の目の前であえて喰った。
憎い。
憎い。
私が殺されたとか私の脳味噌が取り出されて兵器に使われたとか、そんなのはどうでも良い。
あの子を殺したヤツだけは許さない。
復讐の炎は地獄のように我が心に燃え、死と絶望が我が身を焼き尽くす!
私がヤツを苦しめて永劫に咎を受け続けさせねば、私は私では無くなる。
そうだ、全てが。
私とあの子の亡霊の全てがヤツだけは許すなと絶叫している。
ヤツは私への恐怖から事実認識すら拒んでいた。
要するに逃げていたのだ、ヤツは。
私とあの子を殺して壊して利用して自分だけ生き残った、その現実から。
逃がすものか。
髪を掴んで顔を向けさせ、眼をこじ開けさせてこの現実を見させてやろう。
お前が喰った私の肉は美味かったかい?
甘かったかい?
私の新鮮な肉は脂肪は骨は血液は、旨かったんだろう、さぞや!
だから全部、頭以外は丸ごと生きたまま喰ったのだろう?
そう問い詰めた後に、お前があの子に何をしたか耳元で何千回も囁いてやろう。
お前があの子を殺したんだよ、と何千回も優しく言ってやろう。
聞け、復讐の神々よ、母の呪詛を聞け!
これが私の復讐だ。
お前を苦しめて苦しめて苦しめぬいてそれでもまだ足りない。
お前を破滅させて破壊してこの世界から全存在を抹消してもまだ足りない。
私の憎しみを晴らすものはもはやこの世界に存在しないのだ。
ぶち殺す、それは何と生易しい復讐なのだろう。
自殺させる、それは何と生ぬるい仕返しなのだろう。
大事なものを全て目の前で犯し殺す、呆れるくらい可愛い所業だ。
私は。
私はお前に一瞬のまどろみすら与えない。
一瞬の現実逃避をも許さない。
ショックで打ちのめさせもしない、打ちのめされる余裕など許さない!
そうだお前は少しの間も少しの刹那も少しの須臾も休めずに、己の罪に押しつぶされるのだ。
未来永劫!
終わらない罪過に苦しめ!
いや、苦しませてやるのだ。
この手で。
この憎悪で!
この激情全てで!
お前の全てを焼き尽くし焼き苦しめ、だが、それでも焼き殺してなどやるものか!
お前は言ったな、自殺したいと。
死にたい、と。
その望みは未来永劫に叶えられる事は無いのだ。
お前の背後にはいつだって私とあの子の亡霊が立っている。
あの子の小さな小さな手が、お前の魂をもバラバラに引きちぎり、八つ裂きにして叩き潰して破滅させても、それでもお前は死ねないのだ。
まだ私は足りない。
私の復讐はまだ、まだ、まだ、まだまだ、おののき震えるお前相手に何千回繰り返そうと、まだ足りないのだ!
世界を滅ぼしても世界を滅ぼそうとも、私はいつまでもどこまでもお前を執拗に追い回して言ってやる、叫んでやる、絶叫してやる、
――よくも殺したな、あの子を!
「実験、成功」隣で大天使が何か言っている。「これだけの魂のエネルギーがあれば……充分すぎるだろう。 我々はこのエネルギーを『セフィラー・マルクト』へ移送し、当施設より撤退する」
「もっとヤツを苦しめろ」私は言った。
「それは君に一存しよう。 ヤツの全ては今や君の掌中にある」
大天使はそう言って、また手を鳴らした。
立ち上っていた光銀の柱が消えて、ヤツの絶叫も終わった。だが、ヤツはまだ震えているのが私にも分かる。私が恐ろしいのだ。私と私の赤ちゃんを殺した事、己の犯した最大の原罪が恐ろしいのだ。
「では、後はご自由に」
大天使達はそう言って去って行った……。
私は冷凍コンクリートの上に降り立つ。そして、優しい声で言ってやった。
「私と私の赤ちゃんを殺した気分はどうだった、イノツェント?」
『……俺は……。
俺は死にたかった。
ずっとずっと死にたかった。
お前を殺して俺が生き延びて、何て空しい生だろうといつも感じていた。
だけど、それだけじゃなかったんだな。
俺は死ぬことさえ許されないほど、お前に憎まれて当然だったんだな……。
ごめんな、ヘレナ、俺とお前のガキ。
ごめんなあ……。
俺がお前から奪ったものは命だけじゃなかったんだ。
お前の希望、幸福、満足感、そう言うものの一切合財を、俺は……。
そしてお前に悲しみだけを残してさ。
真実ってのはどうしていつも残酷なんだろうな。
いや、俺が現実に有りえない夢を見ていたからだ。
酒におぼれて、真実から逃げて、恐怖から目を背けて、でも、もう、逃げられない。
俺はもう逃げない。
逃げたって、な、ヘレナ、お前から離れたら、俺はもっとお前を傷つける。
俺はこのまま、ここで、お前の復讐を喜んで受け入れるよ。
ああ、そうさ、この世界に神はいない。
救世主など、もう、来やしない……。
俺は救われたいとももう思わない。
そんな甘い考えはもう俺には許されないんだ。
ヘレナ、さあ俺を苦しめろ、世界が終わっても、永遠に。
お前の望みが叶う事が、今の俺の願いだ。
お前と俺達の子供を殺した俺の、悲願だ』
それを聞いた瞬間、ヘレナの中で感情が爆発した。彼女は拳を冷凍コンクリートに叩きつけた。轟音がして、冷凍コンクリートに深い亀裂が走る。
「何が悲願だ、何が逃げないだ、もう遅い!!! お前があの子を殺した、その瞬間から全てこうなる事が決まっていたんだ! お前はあの子を殺した、喰い殺した! 産声を上げる事すら出来ず名前を付けられる事も無くあの子は死んだんだ!」
『……そうだ、俺が殺した。 俺の薄汚い命のために殺した。 そしてその事実を拒絶し続けてきた。 俺は「忘れる」事が出来ない。 記憶が美化される事も風化する事も無い。 だから俺はあの瞬間をあの瞬間のまま、お前の望むように見続ける。 俺はあの時死んでいれば良かった。 何かを生かすには何かを殺さねばならないのが世界の条理だとしたら、俺はお前達を生かすために素直に死んでいれば良かったんだ。 悪魔の誘惑に乗って、それを俺が捻じ曲げさえしなければ、お前は、きっと、あの腕であの子を抱きしめていられた』
「そうだ! お前が死んでいれば良かったんだ! あの時、あの時、死んでさえいれば良かったんだ!!! そうすればお前は私の中で美化されて生きていて、あの子にお前の思い出を話していた! 全部全部全部、お前が死んでさえいればお前は今も苦しまずに私もあの子も苦しまなかったんだ!」
『……ヘレナ。 ごめんな。 俺が、お前の、優しい腕の中に帰りたい、あの時そう思った所為で……』
「!!!!」
彼女はただただ、拳を冷凍コンクリートに叩きつける、もはや蜘蛛の巣のように亀裂は広がっていた。それでも彼女は叩きつける。
『お前の今の体でも、もうそれ以上は辛いだろ。 もう止めとけ、俺が言えた事じゃないが、もう、止めとけ』
「黙れ!」
『……』
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!!!!」
その時だった。彼女らは探知した。彼女らがいる施設へ、戦略核ミサイルが迫ってきている事を。
『……ヘレナ、逃げろよ。 お前の機体でもあれは直撃したら蒸発する』
「黙れと言っている!」
『黙れねえよ。 お前の復讐が終わってしまったら、俺からは「何にも無い事」さえ消えてしまうんだ』
「お前の事など知った事か! 永遠に一人ぼっちになってしまえ!」
『……愛が分からない。 だから俺は数千年を孤独に過ごした。 愛が分かったと思った直後、分からなくて絶望して第一次統合体化現象を起こしてしまった。
でも、お前の事、俺は今でも好きなんだよ。 きっと好きなんだ。 あれだけ酷い事しておいて何を今更って我ながら思うが――それでも、だ』
「じゃあ死ね、地獄に堕ちろ!」
『地獄は、俺の揺りかごみたいなものだから、意味が無いさ。 なあ、俺があの時「聖王」に服従を誓い、お前を兵器に貶めてまでどうして生かしたかったか、それはきっとこの時を待っていたからなんだよ。 お前の復讐を待っていた。 だから、俺は、お前だけは死なさない。 未来永劫に俺の咎に鞭打つ存在を俺は待っていたんだ。 鞭打たれる事で咎が何一つ軽くなる事も微塵も減る事も無い、俺の気持ちもお前の憎しみもどうなる訳じゃない、だが俺は待っていた。 ずっとずっと待っていた。 だから、お前だけは死なせる訳には行かないんだ』
何重もの層となっていた分厚い鉄板と冷凍コンクリートが、その最下部からぶち破られた。大きな穴が開く。
六対の黒翼の天使が、そこからゆっくりと浮上してくる。
「……」
ヘレナは、黙っていたが、やがてその場にくずおれて、顔を手で覆いつつ、言った。
「……帰ろう。 お家に帰ろう、イノツェント」
天使は頷いた。
「ああ、帰ろう。 帰ろうな、俺達の家に」
おんぼろの安アパート、西日が差し込む部屋。
そこは、あの日のまま時が止まっていた。
だが、壁に貼られた色あせた写真や薄っすらと窓辺に積もった埃が、あれから何年も何年も過ぎてしまった事を知らせていた。
「――」
ヘレナはソファに腰掛けた。隣にはI・Cがいる。
夜が来て朝が去って、それが何サイクルか繰り返されたが、彼らは動かずにそこにいた。光と闇の他に部屋を訪れる者も無く、時だけが流れた。
……ある日の、夜の事だった。
「過激派の空軍か」戦闘機の飛行音が聞こえて、I・Cがふと言った。爆撃音も同時に聞こえた。どうやら彼らの住んでいた街は、爆撃されて滅びるらしい。
「構わない。 何もかも全て、破壊され燃え落ちて滅びれば良い」
ヘレナはそう言って、窓から赤々と見える炎を見つめた。あの炎の下で、数多の命が、そしてそれらの命が築き上げてきたものが全て死んで行くのだ。
「ああ」I・Cは何気なく言った。「もしもあの時、俺が敵軍を全滅させてただ一人帰還したって話を聞いた聖王が、ここに来なかったら、俺はきっと全てを破壊して滅ぼしていただろうな」
「聖王は、どうしてどうやってここに来たのだろうな。 ここは、『
それは被差別民の名であった。かつては魔族と同じくらいに、そして今では世界で最も忌み嫌われている民族であった。
「あの男は人間の出自よりも成してきた事でその人間を判断したからな。 ……かつて『救世主』を輩出したがために偽神に呪われて、その所為で『近づくと不幸を招く』運命を背負わされた一族『呪われし民』。 生まれついての運命ゆえに世界中で迫害されてここが俺らの最後の居場所だったって事も、あの男は権力者ゆえに知っていた。 でもな、だからってあの男は己の不幸を恐れるような男じゃなかった。 残酷な運命に立ち向かう勇気と、信念を持っていたからだ」
「そうか」
二人のいる世界が炎に包まれていく。煙が視界を覆い尽くし、何もかも燃やし尽くしていく。だが、それでも二人は『終われない』のだ。
「私達は、どうやったら、この運命から解放されるのだろうな」ヘレナが呟いた。
「死ぬ事ですら俺達の救いにはならないんだ。 運命の手から逃れられる者はいない。 神でさえも例外なく。 ……いや」ここでI・Cは少し黙った。「あの女なら、知っているかも知れない」
「誰だ、それは?」
「帝国開闢以来の唯一絶対君主『女帝』リリス・ソフィアさ」
帝国帝都シャングリラの帝宮御苑。その最深部に彼女はいた。泉の側に立っていて、じっと泉に映る己の顔を見つめていた。辺りが黄昏に包まれてゆく中にも分かる、中年の女の、しわが増えた顔を。彼女は顔を上げた。厳重な、それこそ帝国で最も厳戒態勢で警備されている場所のはずなのに、侵入者が二人もいた。
「きましたね、サタン、そしてヘレナ」
だが、彼女はまるで懐かしい者に会ったかのような、穏やかな微笑みを浮かべた。
「リリス・ソフィア。 どうすれば俺達は――」I・Cが言うと、彼女は首を横に振った。
「この世界の運命から逃げる手段も脱出する力も、今の私にはありません。 ですが、彼ならば可能です」
「ヤツか? だがヤツはいつまで経っても――」I・Cは怪訝そうに言った。
「ごらんなさい」彼女は天空を仰いだ。ゆっくりと夜が空を染めていき、星が美しく輝き始めた。「彼は、必ずもどってきます、それも、もうすぐに。 ですが、それを許さない者も暗躍している」
「ヤツとは誰だ」ヘレナが言った。
「貴方がたの言葉では、そうですね、『救世主』とよばれていました」と女帝は答える。
「……」ヘレナは黙った。
「もしも貴方がたが、救いを望むのならば、彼が
女帝はそう言って、にっこりと笑った。
「……生きているのか」ヘレナは呟いた。
「ええ、ちゃんと。 貴方がたを、今もまっています。 早く戻らないと、しびれをきらしてしまうでしょうね」
女帝の微笑みは不思議なものであった。何と言うか、それを見たが最後、全て彼女の言いなりになってしまいそうな微笑みなのだ。
「リリス、お前は
「今の私には、その力がないのです。 サタンよ、貴方がどれほど願っても、それを叶える力は私にはありません。 ただ、貴方が覚悟を決めた瞬間、運命に立ち向かう事を決めた瞬間、貴方をそうさせた要因が、貴方をきっとかえてくれるでしょう」
「……」I・Cは考え込む。
「おもどりなさい。 そして、実感なさい。 この世界の運命は残酷で無慈悲ですが、温もりもあるのだと」
女帝はそう言って、まばゆい白銀の月に目をやった。
【ACT五】 ノアの箱舟
「……シャマイムだ」
エルサーレムを囲む高い城壁の守備兵は、シャマイムを発見して、真っ青になってそう呟いた。別の守備兵が血相を変えて城壁の中に飛び込んで行った。中で大騒ぎになっているのがよく分かる。
おかしいな、と人形のまま地面に突っ立っているシャマイムは思った。何故攻撃されないのだろう?
直後、城門が内側から爆破されるかのように開けられ、わあっと特務員が雪崩れ出てきて、唖然としている彼女を胴上げにした。
「帰ってきた!」
「シャマイムが帰ってきた!」
「おかえり、シャマイム!」
「よく帰ってきた!」
わっしょいわっしょいとまるで
自分は彼らを裏切り、見殺しにしようとしたのだ。それが何で、こんな扱いを受けているのだ?その間にも特務員達は、
「おい全特務員に連絡だ、武装蜂起の準備だぞ!」
「もうしたわよ! 今度の今度こそシャマイムは処分させないわ!」
「絶対にやってやるぞおおおおおおお!!!!」
「「応!!!!」」
と、とんでもない事をやらかそうとしている。
「朗報だよ!!!!!」とそこに訓練を受けて、正式な諜報員となったドルカスが走ってきた。「ヨハン様が『シャマイムには一切処分を受けさせない』って断言したのよ!」
だが特務員達は、
「「言葉じゃ駄目だ、書面にしてくれないと!」」
『これですぞ!』と耳障りな声で悪魔のムールムールが叫びながら出現した。署名のある書類をかざして、『ヨハン様直々の一筆、もうじきこれと同じものが各支部の全特務員達に複製配布される予定ですぞ!』
「「うおおおおおおおおおおお!!!!!」」
と特務員達は拳を突き上げて歓呼の声を上げた。
シャマイムが混乱の極みに立っていると、今度は空中戦艦がいくつも最高速度で空を突っ切って飛んできた。それらはエルサーレムの飛行場に着陸した途端に、中からまた特務員達を大量放出する。
「「シャマイム!」」と真っ先に駆け寄って来たのはニナとフィオナであった。
彼女達はシャマイムに抱き付いて、わんわんと泣き出した。
「良かった。 もう二度と戻っては来ないかと……」
その後に来たランドルフが気の抜けた顔で、そう言った。
「これは……」一体どう言う事だ、そう言いかけたシャマイムに、ランドルフが言った。
「全てがシャマイムの人徳なのだ。 シャマイムはいつだって私達のために生きて動いていた。 だから今度は私達がシャマイムのために動く時だ。 それにシャマイム、君はアロンの馬鹿が改造をさせてからおかしくなってしまった。 シャマイムには処分なんか受けさせるべきでは無かったのだよ。 既にそのアロンはヘルヘイムに収監された。 だから、もう大丈夫だ。 みんながそう思っている。 みんながそう信じている。 だってシャマイム、君はね、いつだって誠実で親切で、本当に良いヤツだったから」
「……」
「お帰り、シャマイム」とランドルフは嬉しそうに言った。
「…………ただいま、みんな」
シャマイムは、シャマイムになって初めて、笑った。
「全特務員が武装蜂起しようとするとは、前代未聞だ……」ジャクセンはそう言って頭を抱えた。「それもたかが兵器一体のために……」
「たかが兵器、されど兵器なのでしょう」マグダレニャンは必死にポーカーフェイスを維持しているが、実は爆笑する寸前であった。既にひくひくと腹筋が引きつっている。「シャマイムに不当な改悪処分を下した事が今回の事件のそもそもの原因だと思われますわ。 ……そうですわねえ、シャマイムはある意味では彼らにとっての神なのでしょう。 親切で誠実で真面目で、しかし適切な配慮を忘れない神。 第一、この一連の事件の収拾者であるヨハンが構わないと言っているのです、我々にもはや余計な意見は言えませんわ」
「それはそうだが……」とカイアファが言いかけて、黙った。
「そうだ。 シャマイムに施された不適切な改造を修正さえすれば、シャマイムは二度と我々に対して背信行為はしない。 第一あの改造は強硬派のシェオルによって行われた。 どう考えてもそのシェオルの所為でシャマイムは暴走したとしか思えない」ヨハンがとうとうとそう語り、「では、僕はビザンティの奪還に向かう」と席を立ちあがった。
「ああ、ヨハン、レオナ姫の即位までは、治安維持部隊も同行させるべきですわ」マグダレニャンはそう進言した。「何しろ今のビザンティでは行政機構も警察機構もまともに機能していませんから、その代役が必要ですわよ」
「分かった。 そうしよう」とヨハンは頷いた。その顔には、もはや気弱であった、かつての臆病な青年の面影などどこにも無かった。
――ビザンティの民の内、ある者は感涙にむせび、ある者はバラの花びらを道路に投げ散らしている。ひざまずいて、神に感謝の祈りを捧げる者もいる。
昨日、薄幸であった先王の葬儀と埋葬がようやく行われた。そして今日は、この道路を通って新たな国王が即位儀礼のために大聖堂に向かうのだ。
死んだ者は帰らないし、負った傷の痛みは忘れられない。奪われたものは奪われたきりだ。だが、今の彼らには希望と言う温かい光があった。
車に乗って、レオナ姫が現れると、大地を揺るがすような歓呼の叫びが彼らの口から放たれた。
「ビザンティ万歳!」
「女王陛下万歳!」
物々しく戦車が護衛のために車の後を付いているが、民衆の目にはそれよりも新女王の優しい、けれど毅然とした微笑みが焼き付いた。
その様子をヴァルキュリーズに乗って天空から見下ろして、ヨハンは、やっと約束が果たせたのだと思った。
『ありがとう、ヨハン』
ふと、亡き友達の嬉しそうな声が聞こえた気がした。
「レオニノス。 僕が――」
もっと早く、あの時以前にこの力を持っていたら!
『良いんだ。 僕の最期の願いは、ちゃんと叶ったのだから。 君も、ちゃんと強くなったのだから。 全ては、これからだよ』
「ああ」
ヨハンは、大聖堂に入っていくレオナ姫の姿が、少しずつぼやけていくのを感じた。けれどもはや彼は、己の無力さを恨んで泣いてはいなかった。
「兄ちゃん」とソーゼは半泣きで言う。
「何だ?」とグゼは真顔で答える。
「本当に……やるの?」
「やってくれ。 俺は女に近寄られないためなら何でもする」
「だからってハゲにしてくれって、いくらなんでも……!」
「ハゲになるだけじゃダメなんだ。 俺はハゲでワキガ持ちのデブになるんだ」
「俺そんな兄ちゃん嫌だよ!」
「俺は、女に近寄られないためなら何だってやってやるんだ。 さあ、ためらっていないで、除毛剤を俺の頭にかけてくれ、全部」
「嫌だ! 俺絶対嫌だ! 兄ちゃん何が悲しくてブオトコになろうとするんだよ、兄ちゃん俺の自慢なんだよ、イケメンで強くて頭が良くて……!」
「俺は、そのイケメンの所為で好きな菓子を自由に買えた事が無いし、女に付きまとわれて迷惑ばかりだし、何も利益が無いんだ。 むしろ大損害なんだ。 仕方ないな、お前が嫌なら俺が頑張ってやってみよう」
と言って、グゼは除毛剤の詰め込まれたビニール・パックに手を伸ばしたものの、届く前に、弟がそれをかっさらって窓から捨てた。
「何をする!」グゼは怒った。
「兄ちゃん落ち着いてくれよ!!!!」弟はもう泣き出しそうである。「兄ちゃんこの頃おかしいよ!」
「おかしくて当たり前だ! 俺は今もローズマリー・ブラックと言う名の恐ろしいストーカーに追い回されているんだぞ!」
「ぎゃあ!」と言う悲鳴が聞こえたのはその時であった。兄弟は窓から悲鳴の聞こえた先を見下ろした。I・Cが頭から除毛剤をかぶってしまっていた。
「見なかった事にするか」とグゼは即座に言った。
「うん」ソーゼは反射的に頷いた。
流石兄弟だけあって、阿吽の呼吸である。
その時、であった。グゼがいきなり天を見上げて、怯えた顔をした。
「どうしたの兄ちゃん!?」ソーゼが驚いて訊ねたら、彼は、
「遥か上空に危険がある、だが、何だ、これは!?」
「『ノアの箱舟』……」とI・Cは遠い目をして言った。「大洪水で神が人間を一度滅ぼそうとした時に、選民だけ生き残らせようと建造させた飛空船だ。 結局その計画は神が死んだためにとん挫して、箱舟はどこかに打ち捨てられたんだとばかり俺は思っていた」
「それがどうして今になって再動しているのですか?」マグダレニャンが訊ねると、
「目的は同じだろうよ。 選民以外は全滅させる。 だがもう神はいないから、大洪水は起こせない。 ガブリエルが隕石を落としても今の防衛技術では迎撃される。 あの箱舟は丁度雲の上を飛ぶんだ。 となると……」
「シボレテ」マグダレニャンは言った。「あの洗脳ウィルスを雨に混ぜて降らせるつもりなのですわね」
「どうだかな。 あんなもの、海にぶちまけた方が効果的ではある。 だが、連中は天空から全人類を見下ろす事しか考えていないから、恐らくはそうだろう。 もしくは、陽動、だな」
「何を隠すための陽動かしら?」
「分からん。 俺からあれだけ魂を吸い取って、何を本当はしたいんだか。 だが陽動にしてもこのまま放置するには危険すぎる代物だろうな。 シボレテのワクチンは、まだ開発中なんだろう?」
「ええ。 あのエステバンが手こずっているそうですわ」
「あの一二勇将の末裔の一人がなあ。 ……多分あれは高等知性生物の『魂』に反応するんだろうよ。 『聖遺物』同様に、今の科学技術じゃ、介入不能な領域の問題だ」
「それに大天使達は介入できるのですね」
「ああ、出来る。 俺達は腐っても『天使』だからな。 魂くらい扱える」
彼らのいるマグダレニャンの執務室は、猫が餌を食べる音しかしていない。
「ところで、サンダルフォンが、裏切り者が俺達の中に一匹いるって言ったらしいな?」
「ええ。 現在そちらも調査中ですわ」
「おいメフィストフェレス」といきなりI・Cは猫に近づくと、「またお前だろう?」と首根っこを捕まえて持ち上げた。
「I・C、止めなさい!」マグダレニャンの悲鳴が響いた。「私のシュレディンガーに何をするのですか!」
「お嬢様」I・Cは言った。「妙に思った事は無いのか、どうしてこの猫はやたら長生きなんだ?って。 確かお嬢様が三歳の時に道端に捨てられていたこの猫を拾った、それ以来だろう?」
「それが一体――?」
『私は今のこの平和な生活を自らの手でぶち壊すほど馬鹿じゃないよ』
誰かの声がいきなり響いた。マグダレニャンは血相を変えて周囲を見たが、I・Cと自分しかいない。
『そっちじゃない。 こっちこっち、マグダお嬢様』
マグダレニャンはまじまじと視線を猫に向けた。猫は、ため息をついた。
『そうさ、私だ。 シュレディンガーなんて実に良い名前を付けてもらったが、本名はメフィストフェレスと言う。 この猫に取り憑いた悪魔だ』
「え……」彼女は愕然とした。
『騙すつもりは無かった。 私は一生お嬢様のペットとして膝の上で丸まっていたかった。 どうしてそれの邪魔をするんだい、魔王?』
「だって異教の神々と俺達大天使の大戦争の時、唯一『悪魔』でありながら通敵して、俺達の味方になったのはお前だけじゃないか、メフィストフェレス」
『あれは女帝からの指示があったからそうしただけだ。 私自身は享楽主義者だから、今が平和で幸せであればそれ以上の事はしない。 うまい餌と温かい寝床、そしてナデナデしてくれる手を自ら失わせるほど間抜けでも無いしね』
「ようし、腹掻っ捌いて臓器に焼きごて押し付けたら事実を喋るな?」
『止めろ! 去勢手術ならもう受けたんだ!』
「なあ、剥き出しの脳に電流流されると猫はどうなると思う?」
『拷問するな! 私は無実だ!』
「裏切り癖ってのは治らないからなあ」
『神を裏切った貴様にだけは言われたくは無い!』
「I・C、お止めなさい」とマグダレニャンはやっと言えた。「万が一通敵していたとしても、檻の中にシュレディンガーを閉じ込めてしまえば良いだけの話ですわ」
「チッ」I・Cは見るからにつまらなさそうな顔をして、悪魔を手放した。
『お嬢様! お礼に好きなだけ私の肉球をもてあそんでくれ! 今だけは尻尾を引っ張っても良いんだぞ!』
シュレディンガー・メフィストフェレスはご主人様のデスクに駆け上り、ひっくり返って腹を見せた。マグダレニャンは、はあ、と嘆息して、
「まさかお前が悪魔だったとは、意外の意外でしたわ……」
『いや、この猫の望みは幸せに暮らす事、私の望みも幸せに暮らす事、こうして望みが一致したから、ほとんど私は猫として生きて来た。 今までも猫だし、これからも猫だ。 永遠に猫だと思ってくれ、ご主人様。 経験して思ったんだが、私は実際、猫の生活がこれ以上なく性に合っている。 ネズミを見れば燃えるような闘志が湧くし、ねこじゃらしとまたたびには勝てないのは普通の猫と同じだしね。 それに恐らくサンダルフォンも私がメフィストフェレスである事には気付いていない。 何せ聖王の前でも、文字通り私は猫の皮をかぶっていたから』
「聖王の記憶をも、サンダルフォンは乗っ取ったのですか?」
『……それは、分からない』悪魔は困った顔をした。『聖王ほどの精神力を持った人間の事だ、大天使なんかが自己の精神を侵蝕する際には激しい抵抗を見せるだろう。 現に聖王はサンダルフォンの第一次統合体を一瞬とは言え乗っ取り返したそうじゃないか。 だから、記憶も不完全な形でのみサンダルフォンは得られた、と私は思う。 それでも聖王の部分的記憶ともなれば、エルサーレムに強制執行部隊をいきなり来襲させる事も、いきなり聖教機構を分裂させてその片方の頂点に君臨する事も可能だったのだろうね。 そして、一番厄介だなと私が思うのが、聖王が聖槍に適合しちゃっている所だと思う。 つまりサンダルフォンでも聖槍は扱えるんだ。 いやはや、困ったものだ』
「……お父様は……」
愛していた。愛されていた。いきなり引き裂かれるまでは、本当に幸せだった。いっそ虐待されていたかった。愛想をさっさと尽かせるような親であれば良かった。だが彼女はまだ愛しているし、その愛ゆえに一歩も動けないのだ。
なのに、I・Cは言うのだ、「諦めな、お嬢様。 大天使に体を乗っ取られたって事は、大天使にお父様との分離を望ませるか、大天使ごとお父様を殺すしかないって事さ。 だがお父様ほどの『最高傑作』を大天使が分離して手放すとはとても思えん。 覚悟しな、お嬢様」
「……」決断が、下せない。覚悟なんて決められない。彼女は進退窮まって、黙るしかなかった。
「お嬢様、紅茶でございます」とランドルフが部屋に入って来て、こら、と叱った。「シュレディンガー、デスクの上に上るんじゃない!」
「にゃー」シュレディンガーは追い払われて、ちょこんと猫籠の中に座った。
「全く。 お嬢様、ペットを可愛がるのは良い事ですが、可愛がりとしつけを間違えるのはペットのためにはなりませんよ」とランドルフは紅茶を置いてから言った。
「酒は?」とI・Cが言った瞬間、ランドルフはどこからか取り出した大鎌を握る。
「この期に及んで、まだ酒にこだわるのか貴様は!」
「落ち着けよ死神。 俺にしてみれば水が欲しいと同じくらいの気持ちで言ったんだ」
「黙れ外道! 貴様のされこうべを盃に加工してそれで酒を飲んでやる!」
「お前ブチ切れると本性見せるのは全然変わっていないなあ。 お前、確か万魔殿から追放されるくらいの悪事をやっていたんだろ? それで聖王に拾われて、矯正されたんだよなあ、確か」
「それがどうした」とランドルフは片眉を吊り上げた。
「お前が大天使と仲良しな裏切り者なんじゃないかって俺は言っているんだ」
「シャマイムがいる限り私は裏切らないと決めたのだよ」
と、彼も言い切るので、I・Cは呆れてしまった。
「どいつもこいつもシャマイムシャマイムと口を開けば。 シャマイムはお前らの神なのかよ」
「シャマイムが神なら私達は喜んで我先に崇め奉るがね。 偶像はなるべく崇拝したくは無いが、シャマイムならば拝み倒したくもなる」
「キメえ」
「何とでも言え」
「何とでも」
「全人類に土下座しますとも言え」
「ランドルフ、お前がやれ。 俺はやだ。 面倒くせえ」
「ランドルフ」とそこでマグダレニャンが物憂げに声をかけた。「箱舟の様子は、どうですか?」
「現在、メティア海峡の聖教機構領海側の上空に移動し、そして全く動きません。 まるでこちらの反応を見ているかのようです」
メティア海峡は、帝国と聖教機構和平派のちょうど境界線に位置する。
「そう……ですか。 そこにサンダルフォンもいるようですか?」
「いる訳がねえだろうが、お嬢様よ」驚いた顔でI・Cが言った。「たかが陽動ごときにヤツが動くものかよ。 ……お嬢様、思考力が相当落ちてんな。 全然キレが無い。 いつもの覇気はどこ行った? あれだけ愛したお父様を敵に回すのがそんなに辛いか?」
「……」彼女は俯いた。
「I・C、辛くない訳が無いと分かっているだろう、貴様も!」ランドルフが怒鳴った。「お前もお嬢様と聖王の仲を見ているはずだ!」
「知っている。 だから俺はあえて辛くしているんだ」I・Cはマグダレニャンを見据えて言った。「お嬢様、言え。 『殺しなさい』って言え。 いつものように例のごとくに俺に命令を下せ。 お嬢様の殺意で俺を動かせ! さあ、言え! 言うんだ!」
「嫌!」マグダレニャンは顔を覆った。「お父様だけは、私は!」
「……駄目だこりゃ」I・Cは呆れた様子で、「ファザコンもここまで来ると惨めだなあ。 本当に惨めだぜ、お嬢様。 ただの小娘に戻っちまった。 今やお嬢様は、あの時俺が惚れ惚れした壮絶な覇気も、化物さえ服従させた強烈な意志も無くした、ただのメスガキだ」
「……」マグダレニャンは泣いている。けれど反論の言葉も何も無い。彼女は、本当にただの一人の小娘に戻ってしまったかのようだった。
「……」ランドルフが沈痛な顔をして言った、「お嬢様、とにかく、出撃命令を。 仮にあれが陽動であるならば、我々が動けば敵は何らかの動きを必ず見せます。 それに対処するためにも、どうぞ出撃命令を」
「……ええ」小さな、まるでか弱い少女のような声で、返事が来た。
イリヤとヨハンは廊下の隅で話している。
「まさか、聖王が望まぬまま大天使に生かされていたとは……!」イリヤは苦い顔をした。彼が大好きだった老いた聖王は、己を殺せと叫んだのだ。
「……これは、下手をすれば大帝も無理やりに……大天使に乗っ取られているかも知れない。 そして、操られている可能性が非常に高い」
ヨハンはそう言って、ふと昔を思い出した。
……不思議な男だった。それほど美形では無いのに、酷く魅力的で、自分と何時間でも遊んでくれそうな気配を持っていた。初対面だったのに、気付けば幼いヨハンはオモチャを持って、その男の膝の上に座っていた。ヨハンは人見知りの塊みたいな子だったのに、だ。男は嫌がらずに彼と遊んでくれた。むしろ嫌がったのは近くにいた聖王の方で、「お前、これじゃ仕事の話が進まないじゃないか」と不機嫌そうな顔をしていた。
「だって俺、子供好きだし」と男はにっこりと、毒のない不思議な笑みを浮かべる。
「ペドフィリアめ」
「自分が子供にモテないからって僻みやがった。 やーいやーい!」
……今、思えば、彼が大帝だったのだろう。真っ青な髪、深く青い目をしていて、聖王と対等に話をしていた。聖王と大帝がいきなり恒久和平条約を締結すると同時に決断したとは考えにくい。以前から何らかの交流があったと思うべきだろう。恐らく彼らは友達だったのだ。友達だったから、聖教機構と万魔殿の長い戦争に終止符を打とうとして、それが可能だった。そして――。
全てはこれからだと言う時に、大天使に体を奪われた。
条約を締結して戦争を終わらせても、世界の全ての問題はまだ解決していない。特に後クリスタニア諸問題はいまだに尾を引いている。戦争は驚くほど簡単だが、平和は泣き叫んでも難しい。
そう、全ては、これからだった。そこを大天使が狙い、滅茶苦茶にしたのだ。
「我々はあの人達を殺さねばならないのか!」イリヤが、ヨハンと同じ事を考えていたのだろう、少しの沈黙の後にそう言った。
「……大天使があの人達から離れる、その方法を検討しよう」ヨハンは言った。彼とて『あの人達』に懐かしく良い思い出こそあれ、憎くなど無いからだ。
「まだ海辺の砂の中から芥子粒を見つける方が楽な方法だな」そう言って、会話にいきなり割り込んできたのは、I・Cであった。「だって聖槍の適合者と、魔族の希少種『高貴なる血』の男だぜ? 大天使が取り憑くには最高の体だ。 俺だったら死んでも離さないだろうなあ」
「だが諦められるものか!」イリヤが怒鳴った。
「イリヤ、お前、単純馬鹿なのは変わっていないな。 聖槍と高貴なる血が同時に襲ってくるって事なんだよ、聖王と大帝を取り戻そうとしたら。 いくらイリヤでもヨハン様でもあれは厳しいだろうなあ。 大帝はな、触れたものを消失させる能力の持ち主なんだぜ、つまりは『最強の盾』だ。 で、『最強の槍』である聖槍の適合者だ、聖王は。 正しく『世界最強の矛盾』がお前らの前に同時に立ちはだかるのさ。 さあ、どうすんだ?」
「「……」」二人は、黙り込む。
「そう言う事さ。 仕方無いだろう?」とやや挑発的にI・Cは言った。
「仕方が無いで済ませていたら何も変わらない。 僕は、最後まで模索する」ヨハンはそう言い切った。「これ以上マグダを泣かせる訳には行かない」
「あ、もう手遅れだぜ」I・Cは軽蔑気味に、「あのメスガキ、お父様お父様ってぐすぐす泣いてやがる。 あれは駄目だ、俺が惚れた覇気もクソも無くしちまった、ただのバカ女だ」
次の瞬間I・Cは全身を四方八方から銀槍で串刺しにされている。彼は困ったような顔をして、ヨハンを見た。ヨハンは冷酷な表情をして、今や自由自在に大きさを操れるようになったヴァルキュリーズを従えていた。そして彼は威圧そのもので言った。
「マグダをメスガキだと? バカ女だと? 口を慎め、下僕が! マグダは必ず、自分の足で立ち上がる。 貴様はそれまで大人しく這いつくばっていろ!」
I・Cは呆れと驚きの、両方が入り混じった顔をして、
「あー……人格変わったな、ヨハン様。 いや、これこそが本来の『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』か。 へいへい、下僕は地べたで大人しくしていますよ」
ヨハンはマグダレニャンを抱きしめている。本当の感情を明かせる人と二人きりになった彼女は泣いていて、本当に無力さと惨めさを凝縮したような有様であった。幼い少女が、親とはぐれて泣いている、それよりももっと哀れであった。彼女が今まで殺してきた全ての感情が完全に暴走してしまって、どうしようもないのだ。まるで赤い靴を履いた少女が、足を切り落とされなければ踊るのを止められなかったように。
「ひとりにしないで」彼女は泣いている。「おねがいだからひとりにしないで」
孤独の中をたった一人で泣き言も言わずに戦ってきた。
「さみしいの、ずっとさみしかったの」
愛してくれた人を喪失して、愛されたいと言う思いを意志で潰してきた。
「おとうさまとたたかいたくなんかない」
ましてや、殺したくなんか無い!
「……僕がやる」ヨハンが、言った。「僕は今まで君に甘えてばかりで、君が本当はこんなにも苦しんでいたなんて気付きもしなかった。 僕がやるから、マグダ、君はもう泣かないで」
「でも」
「僕は君と一緒にいる。 絶対に、どこかに行ったりしない。 だから、ね、泣かないで」
「ヨハン……」
マグダレニャンはヨハンにしがみついた。いつも情けなくて弱虫だった彼が、今では酷く頼もしく思えた。
……元々は親が決めた婚約であった。先代ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインであった『獅子心王』アマデウスが、『聖王』に頼み込んで、二人は許婚となったのだ。だがマグダレニャンは知らなかった。ヨハンが父アマデウスに懇願して、マグダが欲しいと言った事を。
アマデウスはいつも何かに怯えている息子に、言った。
「お前はいざとなった時にあの子を守ってやれるのかい?」
「……」ヨハンは案の定黙り込んだ。だから諦めなさいとアマデウスが言いかけた時だった。ヨハンは、じっと、『獅子心王』を睨みつけて言った。「ぼ、僕でも、じゅ、銃弾の、壁くらいには、なれるから」
「……」今度はアマデウスが黙り込む番であった。
彼は恋愛結婚で、一二勇将の末裔の一人、『全戦全勝』と言う化物じみた経歴を残したオリエルの孫娘ルシアと結婚していた。けれど彼らには、不幸にして子供がなかなか出来なかった。ヴィルヘルム、もしくはヴィルヘルミナ『ヴァレンシュタイン』を継がせる子供が、全く産まれなかった。周囲はルシアを特に責めた。何故なら彼女がアマデウスより年上だったからだ。彼女は心を病んだ。必死に庇い、守ろうとしたアマデウスは一族の中から養子を取ろうとさえ思った。彼にとっては『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』の血統よりも、妻の方がはるかに大事であったからだ。その話を進めている最中に、彼女は病に倒れた。心労がついに体をも侵したのだ。だが、同時に彼女は希望を抱いた。やっと、やっと待ち望んだ我が子が、己の腹の中にいると知ったのである。だが、それは、己の命を取るか子供の命を取るか、どちらかしか選べない最悪の道を歩くしかない事実を知らされる事でもあった。ルシアは何のためらいも無く子供を選んだ。アマデウスは彼女を選んだが、彼女は強硬に嫌がった。この子を殺したら自殺するとまで言われて、アマデウスは必死に説得したが、無駄であった。膨らんだ腹を抱えた彼女は、鉄の意志を貫いた。
そして、ルシアが死んでヨハンが生まれた。
だが、そのヨハンがこれである。弱虫で
しかし――今、彼はじっと、己を睨みつける息子の姿を見た。彼は思い切って、拳銃を取り出した。だがそれでも息子は全く怯えた様子も無く彼を睨んでいる。
「……では、試すとしよう。 覚悟はあるか?」
「い、一々、か、覚悟しなきゃマグダを守れないほど、ぼ、僕は、卑怯者じゃない!」
アマデウスはゆっくりと銃弾を拳銃に込めて、息子を狙って引き金を引いた。
銃声!それも数発!
外にいた護衛の者が我先に血相を変えて扉を破り、部屋になだれ込んできた。
――彼らが目にしたのは、硝煙をくゆらせる拳銃を放り棄てて、息子を抱きしめて泣きながら笑っているアマデウスの姿だった。
「お前は!」アマデウスはもはや人目を全く気にせずに、嬉し涙をこぼしている。「お前は、お前だけが、『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』に相応しい!」
ヨハンは泣きつかれたマグダを抱きしめて眠った。夜が静かに流れていく。
真夜中に、マグダレニャンはふと目を覚ました。彼女は抱きしめられていた。
ああ。彼女はようやく気付いた。今も、私は一人きりでは無いのですわ。ちゃんと、愛されているのですわ。
そう思うと、彼女の中で萎えていた何かに力がみなぎって、彼女の鋼の意志が息を吹き返した。
マグダレニャンは、ヨハンを起こした。少し寝ぼけている様子のヨハンに、彼女は言った、
「ね、と私、まだシャワーを浴びていませんの。 一緒に浴びません事?」
「えっ」と言ったヨハンは顔を赤くしたが、「……婚前交渉?」
「そうですわねえ、そう言う事がこの数年間全く無かったので、いけませんかしら?」
ヨハンは、やや緊張した顔で、「……責任は、ちゃんと取るよ」
「まだかなあ」と『白雪姫』は雲海を見下ろしつつ言った。「僕、待ちくたびれてしまったよ」
「うふふふ」『サンドリヨン』は時計を見つめて言う。「一二時の時計が鳴る前に逃げなければ、かかっている魔法は解けてしまうのよ」
「楽しい
「ええ、そうよ」
「じゃあ、楽しく踊ろうね」
「そうね、楽しく踊りましょうね。 意地悪な継母も、鉄の焼けた靴を履かせて死ぬまで踊らせましょう、ね?」
二人は楽しく会話している。
「『七人の小人』もいるし、もう僕はヴァナヘイムみたいなへまはやらかさないよ」
「そうね、私もいるし、きっとドクターには褒めてもらえるわ!」
彼らの背後には化物がいる。化物、であった。人体の数十倍はあろうほど巨大で、醜い容姿をしていた。全身から毛穴が隆起したようなイボまで生えている。それがきっちり七体いた。
「そうだね、褒めてもらえる!」
そして二人はくすくすと、まるで楽しい秘密の話をしているかのように笑うのだった。
まるで熱砂漠のようだ。枯れ果てて、潤いの全てを捨て、そしてそれを周囲に拡大させていく。そこにあるものはあり得ないほどの強い日差し、そして――狂気に近い、何か。
咄嗟にそう感じて、少年ルイスはぞっとした。
「……オットーさん、何があったんですか」
彼の知るオットーは、こんな熱砂爆のような男では無かった。ぎらぎらと眼だけが光って、後は殺戮に飢えた死神のような雰囲気をまとうような恐ろしい男では無かった。ちゃんと人の心を持った、青年だった。
「ルイス」だが今や彼の声など、まるで砂漠を吹き抜ける乾燥し切った熱風だ。「それほど大した事じゃない。 ただ俺が弱くて甘かった、それだけだ」
「オットーさん!」ルイスは咄嗟に、『
「孤児の世話、全てお前に頼んだ」
それだけ言って、姿を消した……。
そしてオットーは、今は万魔殿幹部ロットバルドの前にいる。ロットバルドは言った。
「『これ』は、帝国からの要請だ。 だがこの要請を出した帝国の意図が全く読めない。 しかし断る訳にも行かない。 ……オットー、そこでお前を総指揮官として命令する。 だが、くれぐれも、予想外の事態だけは避けてくれたまえ」
「了解した」
「それと」とロットバルドはため息をついて、「大帝の件だが、これは総力戦になるだろう。 私は大帝を知っている。 私は大帝に知られている。 下手な小細工など、彼の前では消失させられるだけだろう」
「だが俺は殺す」オットーは無感情に、だが酷く激情的に言った。「必ず殺す」
「……君は、殺すのだな」ロットバルドはしばらく考えていたが、じっとオットーを見据えて言った。「あの大剣の所有者認証を君へと変えよう。 あの大剣ならば大帝をも、唯一この世で切断できるだろう」
「そんな剣があったのか」
「ある。 大帝自身が作成させていた……もっとも彼は完成を知る前にメタトロンに体を奪われたのだが……『ノートゥング』、と大帝は呼んでいた。 単なる
「そうか」
「君は今や戦鬼だ」ロットバルドは言った。「最愛の妹を父親に殺されて、君は戦士である事すら捨てた。 君はもはや私が止めようとも私を殺すだけだろう。 生憎私はまだ死ぬ訳には行かない。 大帝の夢を実現させるまでは死ぬ訳には行かない。 だから私は君を止めない。 だがこれだけは覚えていてくれたまえ、今はまだその時では無いのだ。 その時は必ずやって来る。 それまで待つのだ」
「知っている」とオットーはいやに淡泊に繰り返して言った。「知っているとも」
「対ウィルス装備、及び武装兵装全完了しました。 『箱舟』強襲制圧部隊の準備、万端でございます」
ランドルフがそう言って、うやうやしく主の下知を待つ。
「箱舟の制圧、敵対勢力の全処分、命令は以上ですわ」
マグダレニャンはきっぱりと言った。その彼女をにやにやと、心底愉快そうな顔をしてI・Cが見ている。
「何があったかは知らんがお嬢様、かなり良い所まで来たじゃあないか。 それだそれ、俺が気に入ったのはそれだ、その目だ。 例え全世界が敵になり味方が誰もいない、その状況下でも『かかって来やがれ』と敵を挑発するその目だ。 後は『お父様を殺しなさい』と言えば完璧なんだがなあ」
「……それは機が到来しましたら言いますわ」マグダレニャンはそう言ってから、モニターを『箱舟』強襲制圧部隊の指揮官、魔族の
『ボス、命令、承知しました。 必ずや成果を挙げて帰還いたします』
「罠とシボレテにくれぐれも注意なさい。 では」
モニターが光を失うと、そこに映っているのは、紛れも無い鋼鉄の女であった。
それは、箱舟、と言うよりもまるで巨大な岩塊の城のようであった。何の素材で建造されているのか全く外観では分からない。ただ、相当な年月を風や温度の変化や光にさらされて、経年劣化はしているようではあった。だが、それほどの昔に、何故、こんな巨大な構造物を雲海の上に浮かせる技術が存在したのだろうか。
いや、とI・Cは言った。
「目ぼしい答えは二つしか無いぜ、神の奇跡か、悪魔の仕業か、だ」と。
「突入経路は?」エッボは飛翔する空中戦艦の中で作戦を部隊全員で確認する。
「ここ、だ」とセシルが箱舟の模型のとある一点を指さして言った。「外見から想定しうる構造上、ここが最も破壊しやすく侵入しやすい」
「そう言えばお前は元々は一級建築士だったな、なるほど、そうか、建築物の弱点も分かるのか」ベルトランが納得した顔をする。
「だが一点集中も危険だ、分散して侵入した方が良いだろう。 箱船の正面部分から後続部隊は侵入させよう」
エッボがそう言うと、誰もが頷いた。
彼らは爆弾で箱舟の一部を破壊して、そこから次々に内部に突入した。
そして、はっと息を呑む。中には巨大な空洞が広がっていたのだ。部屋、と言うにはあまりにも自然的な外見で、まるで洞窟の最奥に広がる巨大な丸いドームのようだった。天井からは鍾乳石、地上からは石筍が無数に大きな牙のように生えている。
そして。目視できる限りの突き当りには、広く丸い、まるで何かの劇場の舞台のような、そこにだけは天にも地にも障害物が一切なく、綺麗な天然の台地が宙に浮かんでいるのだ。
「何だ、これは……」誰かが思わずそう言った。
「教えてあげる、数千年の経年劣化で箱舟はこうなっちゃったの。 でもね、それでもまだ稼働するのよ、凄いでしょう?」
誰もが振り向きざまに攻撃した、だが、それは全て跳ね返される。
お姫様の格好をした美女と、あの傭兵都市ヴァナヘイムの中枢部を壊滅させかけた『白雪姫』が王子様の格好をして立っていた。
「んもう、全く品性と教養の無い連中ね! 教えてあげたのに襲ってくるだなんて!」美女はそう言って、右手を横にかざした。「そんな悪ーい連中には魔法をかけてしまいましょう、一二時になったから全ての魔法が解けてしまう、そんな魔法を!」
ばっと突風が吹き抜けた直後に、美女も白雪姫も姿を消した。
「「な……?」」と誰もが事態が呑み込めないで戸惑った時、である。
「おいエッボさん!」とセシルがぎょっとした声を出した。「変身できるか!?」
「!」エッボは体を変異させようとして、出来なかったので、愕然とした。「変身種が変身できないだなんて、そんな馬鹿な事があるか!」
特務員達の間に動揺が走った。
「お、おい! 俺も能力が使えないぞ!?」
「何を言って……本当だわ! 使えない、どうしてよ!?」
『魔族の能力を一時的に封印したんだろうな』通信端末が鳴って、甲板から突入した後続部隊の一人、ベルトランが言った。『そう言う制御術式が昔、あった。 だがそれを化物が我が物にするなんて……』
「どうする、エッボさん。 変身できない変身種なんてただの肉の塊だぜ」セシルが言って、エッボの判断を仰いだ。エッボは忌々しそうに、
「……一時撤退するしか無い。 今の戦力ではとても侵入するには危険すぎる」
「「了解」」
その時であった。
『出た!』
後続部隊からの通信が入った。
「何が出た!」エッボが血相を変えた。
『巨大な化物だ! 増援を頼む!』
「クソ、どうする!」
「見捨てる訳にも行かない、かと言って行っても今の私達じゃ戦力外! どうすれば……!」
『あッ!』
「どうした!?」
『の、能力が使えない!?』
「そっちもか!」
『ベルトランとニナとフィオナだけだ、まともに戦えるのは!』
『僕は死人だからね、そして彼女達は聖人……じゃなかった、
『悠長に!』ベルトランの声にかぶさって、ニナの声がする。
『……喋っている暇があったら』フィオナの声もだ。
『今にもぶっちぎられそうなアンタの糸、どうにかならないの!?』
『だから、ぶっちぎられる前の今の内に撤退、しか無いだろう。 ニナ、フィオナ、急いで――』
――そこで通信がいきなり途絶した。
「おい! おい通信班、何があった!?」
エッボが真っ青になって通信班を問い詰める。
「強力な
――GUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!
突如、辺りに轟いた奇怪な断末魔に、誰もが一瞬絶句した。それはとても人間の、魔族の上げられる断末魔とは思えなかった。だとしたら、形勢不利なベルトラン達がやったのか?だが、どうやって?
「甲板で何が起きているか、見に行くぞ!」エッボが叫んだ。
「通信は全て傍受した」そう言ってオットーは、大剣を一閃させた。こびり付いていた体液の残滓が、飛び散る。「貴様らは能力にかまけていて何にも鍛えていなかったのだな」
「お前達は、」と言いかけたエッボは、全てを納得した。
「まあ、馬鹿には無理も無いだろう」そう言って妨害磁場を操っていた男サイモンはサングラスを取った。
「俺達は――」エッボが判断に困った時だった。シャマイムが戦闘機形態で飛空してきて、甲板に着地した。人型に戻るなり、シャマイムは言った。
「緊急事態だ。 つい先刻、帝国が聖教機構に正式に対過激派と対強硬派への全面協力を要請、対応に窮した一三幹部が現在緊急会議を開いている。 帝国からの協力要請の第一弾として、『万魔殿』穏健派と聖教機構和平派の箱舟完全制圧が求められた。 現時点での万魔殿と敵対行動を選択する事は、帝国の激怒を買うと一応の幹部決議が出た。 よって、現在彼らに対して敵対行動を取るべきでは無い」
「帝国は一体何が目的で――」セシルが誰もの頭に浮かんだ疑問を口にした、その時だった。
――GUUUUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA
――GOUGAAAAAAAAAAAAAAAAAA
「……残り六匹か」箱舟から出てきた化物達を一瞥すると、オットーは大剣を構え直した。「行くぞ、俺に続け!」
「「了解!」」万魔殿穏健派の精鋭はそう言って、突撃する彼に続いた。
俺には戦いしか無いのだ。
戦って戦って戦い抜いて、その果てを見なければならないのだ!
オットーの口からは大きな雄たけびが放たれた。
直後、大剣が化物の頭部を切断、続けざまに頸部も叩き切られている。
その隙に先行した仲間が、発煙弾を破裂させて、辺り一面は完全に煙に覆われた。
視界不良の中、次々と化物の断末魔だけが上がっていく。
その様子を箱舟のてっぺんで聞きながら、
「駄目じゃないの白雪姫」とお姫様は呆れて言う。
「そうだねえサンドリヨン。 これじゃドクターに怒られてしまうよ」
王子様は困った顔をした。
「じゃあ、シボレテを撒いてしまう?」
「ゾンビなんか食べたって美味しくないじゃないか」
「それもそうねえ」
「取りあえず、僕らでやっつけちゃおうじゃないか。 どうせ僕に普通の攻撃は通用しないし、もうサンドリヨンがいれば、拘束制御術式も効かないしね」
「じゃあ、行きましょう!」
優雅にドレスの裾をつまんで、サンドリヨンは、ふわりと飛び降りた。
――はずが、彼女は真下から飛び上がってきたオットーにより、頭から足まで両断されている。真っ二つになった残骸が落下して行った。
「え、」とそちらに咄嗟に顔を向けた白雪姫に、オットーはこう言った。
「貴様は何でも攻撃を認識し跳ね返すと言ったな。 ではこの一撃を跳ね返して見せろ!」
ぎらりと大剣がきらめいた。首をはねられた白雪姫が、倒れる。
「ふ、ふん!」だが、白雪姫の頭部は、笑った。「貴様の攻撃、認識したぞ!」
胴体が起き上がり、首を掴んで乗せる――が、そこで、首が落ちた。
「!!?」白雪姫は唖然とした。
オットーは無感情に言った。今の彼には勝利感などの感情は無いのである。
「俺の攻撃は確かに認識した、だが貴様は剣に塗られた腐敗毒までは認識しそこなったな」
「ぐ、が、体が、溶け――!」
白雪姫の胴体も倒れ、頭と共に、あっと言う間に腐臭を上げては液状化していく。
「おとぎ話でも白雪姫は毒リンゴで死にかけたが、実際死んだな」
無機的にオットーは言い捨てた。
箱舟内のシボレテが全て処理された事を上司マグダレニャンに報告してから、エッボはどうしたものかと思った。まさか数百年来の敵に助けられるとは思ってはいなかったのだ。だが、これから箱舟の所有権争いが起きるであろう事は、明確であったので、あまりエッボも心底から助かったとは思えなかった。
「どうしたものでしょうか」マグダレニャンに判断を仰ぐ。「あまり戦いたくはありませんが、かと言って箱舟を穏健派にすんなりと引き渡すのも……」
『帝国の機嫌を損ねず、かつ箱舟を遺恨なく所有する方法は……』
マグダレニャンが通信端末の向こうでしばらく考えていると、不意に男の声がエッボの背後から割って入った。
「ようワンコ。 全世界から戦争を終わらせる方法って知っているか?」
「……」エッボは露骨に嫌な顔をして振り返った。「何の用で呼ばれもしないのに来たんだ、I・C!」
「だから、全世界から戦争を終わらせる方法を知っているか、と俺は聞いている」
「……恒久和平条約が締結されれば……」
「馬鹿じゃねえの? 馬鹿だって言わないような不正解だ。 そもそもだ、戦争は素晴らしいものだ。 戦争があれば人類はどこまでも自己研鑽と自己発展を遂げていける。 逆に戦争が無ければ人類は退化しちまう。 全人類がサルに戻っちまう。 言い換えればどんな人間だろうと魔族だろうと、戦争の恩恵を受けて生きているんだ。 赤ん坊だって、例外なく。 なあワンコ、お前は全人類がサルに戻り果ててウッキーと鳴いているのを観察したいのか? ……それにしてもおかしいなあ、あれだけ巨大な鍾乳石なんて万年単位で形成される代物がこの箱舟にわんさかあるんだから」
「……お前は何が言いたいんだ」
「鍾乳石はさておいて……だからだよ、戦争を完全に根源から地上から抹殺したかったら、わずかでも戦争の芽を残す訳には行かないとお前が強く願うのだったら」I・Cはにんまりと笑った。「全ての争いの源、つまりこの場合は全人類を絶滅させるしか無いのさ」
「何を、そんな子供じみた極論を――」
「総員、箱舟から撤退しろ」I・Cはいきなりそう言った。
「は?」エッボは口を開けた。何を言っているのだ、この男は?
「ヤツが来た。 俺とヤツとの闘争だ、この箱舟なんざ簡単にぶっ壊れるだろうな」
「ヤツとは一体――?」
「
「愛人とは言ってくれるね」アルビノの青年が、まるで近所の散歩に来て、知人に出会ったかのような気軽な態度で、いきなり出現して言った。「やれやれサンドリヨンも白雪姫も倒されてしまうなんて。 ラファエル様もさぞやお怒りになるだろうよ」
「ヤツの激怒なんざ知るか。 自分が弱っちいものを作っておいて何を今更喚くんだ。 おいエッボ、今の内に全員逃げさせろ、万魔殿の連中もだ。 時間は無いぞ、俺は今、コイツの
「あ、ああ」エッボは総員に撤退命令を下し、万魔殿にも撤退するよう進言しに行った。
「『撤退した方が良い』? そんなに貴様らは箱舟が欲しいのか」オットーは冷酷に言った。「貴様らは目先のものに目を取られて、その先の落とし穴に気付けないのだな」
「違う、違うんだ」エッボは青ざめていた。オットーに怯えているのではなく、むしろ彼は、「アイツが、I・Cがやる気になった時はとんでもない事態になるんだ」こちらに怯えているのだ。
「何だと?」
「この前はカルバリアを全滅させた。 国一つを喰い散らかして絶滅させた。 アイツはそう言う真似が出来るんだ。 だから、恐らくこの箱舟くらい簡単に、」
そこまで言いかけた時――轟音と激震が走って、エッボとオットーは思わずよろめいた。
音のした方向を咄嗟に見れば、
「「……
巨大なそれが、吸血鬼王レスタトの前に君臨していた。
「総員急げ! 急ぎ箱舟から安全圏へ撤退しろ! I・Cが本気を出しやがった! やばい、逃げろ!」
エッボはもはやなりふり構わずに大型の黒犬に変身すると、逃げ出した。
「……」オットーは一瞬だけ考えたが、すぐに万魔殿の総員に退避命令を下した。彼は『竜』の戦闘能力を良く知っていたからだ。
『竜』。それは古代世界においては魔神として君臨した、魔族の中でも非常に強い種族である。単騎で万軍に値し、かつては多神教の魔神として、唯一神ともっとも激しく争った種族でもあった。だがそれゆえに唯一神に呪われ、種族を残す生殖能力を酷く下げられたと言う伝承があるため、今現在では『竜』は滅んだとされている。
「実際は俺が喰いまくったからなんだけれどな」とI・Cはふざけたように主のマグダレニャンに言った事がある。「何せ百年で最低千匹は喰ったからなあ。 凄い時は竜の喰いすぎでマジで胃もたれ起こしたんだぜ」
「単に味に飽きただけでしょう?」マグダレニャンが呆れたように言うと、
「ああ、そうだ、いくら高級肉だって毎日毎晩喰ってりゃなあ、うんざりもするぜ。 でも俺よりも竜を殺したのは、ミッキーなんだ。 『
「……大天使ミカエル。 確かに竜退治の件では有名ですわね」
「うん、脳みそまで筋肉で出来ているような馬鹿だがな」I・Cはさらりと言った。
その『竜』を目の前にしても、レスタトは涼やかな微笑を浮かべたままだ。
『なあカマ野郎』竜は酷く低俗に言った。『あのマッドのペニスの味はどうだった? どうせ「巧かった」とかほざくんだろう? ケツ穴から口までぶっといもので串刺しにしてやれば、淫乱なテメエも満足するだろうよ』
「……本当に魔王、貴様は下品だねえ」赤い目を細めてレスタトは答えた。「私がここに来たのは、この箱舟を破壊するためなんだ。 陽動は成功した。 囮はもう要らないからね」
『あれだけ俺から命を奪っておいて、何をやらかすつもりだ、テメエらは』
「すぐに分かるさ。 でも、もう、その時には貴様らには手遅れなんだけれどね」
『ほー。 じゃあ吐いてもらおう、大天使共の企みの全てを、貴様にな!』
箱舟から巨大な火柱が高々と立ち上った。竜が業火を天に向けて吐いたのだ!
『――さあて。 おっ始めようじゃあないか』
「野蛮だね」とレスタトは微笑んだ。「そうさ、いつだって人は内心では野蛮なものを求めている、どんなに優雅な文化人だってね、知らずに醜い獣を心の奥底で飼っているものなのさ」
『そうだ、お前の脳ミソの奥底にも獣が潜んでいるって事だ! さあ、そいつを解放しろ!』
「じゃあ遠慮なく」
竜の頭部が爆散した。箱舟とその周辺に飛び散る脳漿や体液。
「ほう!」竜が消えて、I・Cが現れた。「攻撃ぶちかまそうとしたらこっちが攻撃された、さて、どんな能力だ?」
「何で肝心かなめのそれを貴様に教えなきゃいけないんだい?」
「ふーん」I・Cの姿が赤き盲目の魔神に変わる。『では行くぞ! ――『
巨大な箱舟が空間破壊に巻き込まれて、爆発した。周囲に飛び散る箱舟の破片は、何故か雲海に落ちる事無く、ただふわりふわりと空を漂っている。
「ありゃりゃ。 私が壊すはずがありがとう、代わりに壊してくれて」
レスタトはその破片の一つに立ちながら、妖艶に微笑んだ。
『――BIGBANG!』
そこに、空間破壊攻撃が来た。しかしそれは、レスタトを確実に巻き込んだのに、彼は無傷のまま、ふわりと別の破片の上に立った。
「無駄無駄、無駄だよ。 さてと箱舟もちゃんと壊れた事だし、私は失礼するね」
『逃がすか! ――BANGBANGBANG! ――BIGBANG!!!』
壮絶な攻撃の余波で、ついに雲海がぽっかりと割れて、海が見えた。
けれど、レスタトは赤い盲目の魔神のすぐ背後から、耳元で囁いた。
「貴様は私が必ず殺す。 ――じゃあね」
そして、レスタトの気配が完全に消えた。
赤い魔神が姿を消し、その代わりに黒い六対の翼を背中に生やした幼女が姿を見せて、舌打ちした。
「チッ。 この俺がまた喰い損ねたなんて、な」
【ACT六】 喜びの凶兆
「妊娠したみたい」
と、ダルチナがジョニーに相談を持ち掛けたのは、とある星の輝く夜であった。ウトガルド島を囲む広い海に、その星の光がちらちらと輝き散っている。
「誰の……子?」とジョニーは恐る恐る訊ねた。すると彼女は勝利の笑みを浮かべて、
「ジョニーに決まっているじゃない!」
「本当に!?」ジョニーは驚いた。
「信じられないなら、遺伝子検査しましょ、ウトガルド島王に誓って間違いないから」
次の瞬間ジョニーは躍り上った。踊りながら何か叫んで、ダルチナの部屋を飛び出して行った。
「ったくもう!」ダルチナは腹を撫でながら怒った。「男って本当、中身はガキね! ちゃんとした父親になるように今の内に躾けなおさないと!」
「俺、一年後には父親になるんだ、パパになるんだぜ!」
踊り疲れたジョニーは今度は嬉し泣きしつつ言った。
「おめでとう!」とそれを聞いたレットはにっこりと笑って、「良かった、本当に良かった! 何ておめでたいんだ!」
『えー』と言ったのはプロセルピナであった。『ジョニーとレットが結婚しないの……?』
「うるさい黙れ! 俺は今世界で一番幸せな男なんだ! 世界一の多幸者なんだ! そうだ名前を、俺の子供の名前を考えないと!」ジョニーはとにかく今は興奮していて、大変である。
「それが決まったら僕にもすぐに教えてくれよ、ね!」レットは微笑んだ。
「勿論だ!」
ジョニーはウトガルド島王だと言うのに、威厳も何もかも捨てて――ただ今は歓喜に満ち溢れていた。
レット。
ええ、分かっていますよ、ラファエル様。すぐに実行します。ただですねえ、今殺してしまうとちょっと不都合が生じるので、しばらくは廃人として生きてもらいましょう。ガキがちゃんと生まれるまでは、物理的に殺すのは延期しないと、何せ王座に座る者が一人も眼球で見えないと言うのは、ちょっと他の幹部が黙っていませんからね。
薬物でやるのですか?
いえ、僕のA.D.としての力で、ヤツの心を完全破壊させてもらいます。薬物だと何かと証拠が残ってしまいますからね。万が一にも僕がやったなんて露呈したら、他の幹部が激怒しますし。あ、激怒はされたってラファエル様、貴方様のお力の前では無駄な足掻きなのですが、これはこれで結構面倒な事情がありまして。ウトガルド島の幹部は全員が叩き上げの実力者、殺す損失よりも巧い利用の方が利潤が上がるんです。
……ほう。お前には本当に利用価値がありますね。
ええ、当然です。僕は死にたくないんですから。
ふふふ。全ては順調――全ては我らが神の意のままに、全ては我らが唯一絶対神のために!
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