第5話FICTION 虚構なる愛

【ACT一】 アズチェーナ・ミラルカ


 ……あたしは少女娼婦でした。でも周りの女の子はほとんど娼婦をやっていたので、あんまり悲壮感なんかは無くて、お客の愚痴を言い合ったり、お化粧の仕方を教えあったり、喧嘩や、もちろんいざこざもあったけれど、自分の将来を悲観している子はほとんどいなかったと思います。

あたしの住んでいたウェルズリー地方は、いわゆる戦地で、聖教機構ヴァルハルラ万魔殿パンテオンが戦っている前線のすぐ近くだったので、お客の大半が軍人さんでした。軍人さんは終わらない戦争に疲れて癒されたくて娼婦を買うので、そんなに酷い目には遭わされる事は少なくて、お小遣いチップをもらう事だってありました。顔なじみになった軍人さんにはこっちからプレゼントを贈る事だってあって、他の娼婦はお酒とか煙草とか贈っていたんですけれど、私はプリザーブドフラワーをよく贈りました。そうすると、結構、軍人さんの中で涙ぐむ人、いるんですよね。

「……俺の故郷にもさ、これと同じ花が咲いているんだよ。 ああ、ちょうど今の季節に野原一面がこの花で満開になるんだった。 もうそこら中が臭いくらい、この花の匂いでいっぱいでさあ。 畜生、帰りてえなあ、帰りてえ……!」

でも、そう言う軍人さんの多くは、故郷に生きたまま、帰れないんです。あたしはそう言うの、経験上知っていましたから、せめてもと思って、花をずっと贈り続けました。

人が魔族を支配する聖教機構と、魔族が人を支配する万魔殿の争いは、もう数百年の間、延々と続いていて、それの功罪が今の世界を作り上げている。そう言っても過言では無いくらいに、もう誰にもどうしようもないものだと私は思っていました。戦争は仕方ないものだって、何となく、生まれつき、思っていたんです。

そんなある日の事でした。

「ねえ、アズチェーナ、あたし昨日、隠れスポット的なランジェリーショップ見つけたの! 今日仕事が終わったら突撃しない?」

「ま、マジで!?」あたしは歓喜のあまりに友達の少女娼婦、ゼンタに飛びついて、一緒に手を取り合ってくるくると回りました。「誰が行かないって、い、言うと思ったのよー、もう!」

「やっぱり! 行こう行こう、キュートこそジャスティス、突撃ー!」

それであたし達は仕事が終わったら、ランジェリーショップに行こうって約束をして、仕事に行ったんです。あたし達を雇っている娼婦宿の一室でいつものようにセックスをするんです。相手は顔なじみの軍人さんのベニートさんで、今夜は物凄くご機嫌で、娼婦宿の女将さんにチップをはずみ、娼婦の子にも片っ端からチップをばらまいたので、ああ、これはきっともうすぐ故郷に帰れるんだな、とあたしにも分かりました。

「俺には息子がいてさあ」夜更け、お酒もたっぷりと飲んで陽気そのもののベニートさんはセックスをする前に語りだしました。きっと、今のベニートさんは幸せなんでしょう。「生意気だけど可愛いんだぜ! いつもは馬鹿とか死ねとかしか言わなかったのに、俺が戦争に行くってなったらさ、これを作ってくれたんだ」とぼろぼろのミサンガを彼は見せびらかしました。「これがずっと俺のお守りだった。 コイツのおかげで俺は今まで無事だったんだ。 帰ったらあのクソガキをうんとハグしてやらねえとな! 何とか金も貯まった、きっと大学まで行かせてやれる。 カミさんもきっと喜ぶぜ、まあ、俺の留守に男作ってなけりゃだがな!」

「お、おめでとうございます!」その様子が、声が、本当に幸せそうだったので、あたしまで幸せになってきました。「そ、それじゃあ今日は奮発して、と……」

あたしがピンクのバラの花束をベッドの下から取り出すと、ベニートさんはさすがにびっくりしたみたいで、

「うお、すげえ! アズちゃんよ、君の植物を操る力は知っているが、コイツは素敵だぜ!」

「そ、そうでしょう。 でしょうでしょう!」あたしも何だか嬉しくなってきて、くすくすと笑いました。ベニートさんも笑いました。

「あははははは。 あ、それじゃシャワー浴びてくる。 ミサンガここに置いておくぜ、くれぐれもパクるなよー」

そしてベニートさんがシャワールームに姿を消した時の事でした。

遠くから、悲鳴と、断末魔と、銃声と、その他もろもろの、ぞっとするような音が聞こえてきたんです。音は徐々に近づいてきます。あたしがびっくりして部屋を出ると、他の娼婦の子やお客さんも何事だって顔をして廊下に出ていました。

「何だい、この騒ぎは!?」女将さんが血相を変えています。「ちょっと様子を見てくるよ!」

そして夜のネオン輝く闇の中へ駆け出して出て行った女将さんの後ろ姿が、あたしの見た最期の姿でした。

部屋の三階の窓から娼窟通りの様子を見たゼンタが、真っ青な顔で叫びました。彼女も吸血鬼でしたから、夜目が効くんです。

「大変だ! 軍隊がみんなを殺している!」

そんな馬鹿な。誰もが唖然としました。あたし達は民間人です。そして軍隊や軍人さんのおかげで生活している者が大半で、同時に軍隊や軍人さんはあたし達のおかげで維持できているようなもので、つまりあたし達が軍隊に殺される理由なんかどこにも無いのです。

「おい、何の騒ぎだ!?」ベニートさんが腰にタオルだけ巻いた姿で飛んできました。ゼンタがパニックになって繰り返します、

「軍隊がみんなを殺しているんです! 何で!? 何で!?」

「馬鹿な!? そんな馬鹿な! 民間人を殺せなんて命令が下るはずが無い!」

「死にたくない!」叫んだのは少女娼婦の中でも一番生意気で意地悪で、でも幼いリアでした。「あたし死にたくない!」

そこに、重武装した兵士が銃弾をまき散らしながらやって来たので、みんなバタバタと廊下に倒れ、あるいは負傷して呻きました。あたしは咄嗟にゼンタに部屋の中に突き飛ばされて無傷でしたけれど、ゼンタは。ゼンタは!

「殺せ、殺せ!」兵士共は狂ったように喚いています。「どうせ俺達は殺されるんだ、だったら全部殺してやれ!」

あたしは腰が抜けて、ドアから、みんなが何をされるのか、ただ見ている事しか出来ませんでした。殺して犯して辱めて、ぐちゃぐちゃに、肉の塊に、生きているものがただのモノに変えられていく。どす黒い血が一面に飛び散って、肉が飛び散って、眼球が転がって、腸がでろんと伸びて、脳みそが白くて、骨が、脂肪が、妙に黄色くて。

「止めて!」ゼンタの声。あたしははっとして、我に返りました。「痛い、痛い、止めて、お願い!」

「ゼンタ……!」あたしは、ゼンタを助けたくて、助けたい一心で震える足を叱咤して立ち上がりました。そうだ、仕事が終わったら、ランジェリーショップに一緒に突撃するんだって、ゼンタと約束したんだ!

でも次の瞬間あたしはひっくり返ります。ボールが飛んできて顔面に命中したからです。

ボール?

あたしはボールを良く見て、血の気がざあっと引いていくのが分かりました。

ゼンタ。

ゼンタの、頭。

「ぎゃはははははははははは!」

血まみれの肉まみれの狂った連中は笑っています。

「どうせ俺達は死刑なんだ!」

「だったら、なあ? 道連れは多い方が楽しいじゃないか!」

そして銃口が、刃の切っ先が、あたしをついに狙うのです。

その瞬間でした。

あたしの中で何かが壊れました。

 故郷に帰れるよ、ありがとうな、と渡した花を見て言ってくれた軍人さんも、喧嘩したり仲直りしたり、一緒に客の悪口を言ったりした同じ娼婦の友達も、優しくてお化粧を教えてくれた先輩娼婦も、あたしの貧乳を馬鹿にした意地悪な娼婦の子も、みんなみんな殺されました。まるで野草が踏みつぶされるみたいに惨殺されました。

死にたければ。

そんなに死にたければ!

勝手に手首を切っていろ!

生きたいと叫びながら殺されていったみんなは、何のために殺されたんだ!


 ……『過剰放出オーバードライブ』、と言うのだそうですね。魔族の能力が過剰に酷使された結果、まるで災害レベルの事態が発生する事をそう呼ぶのだそうですね。

後から脱走兵の連中を追ってきた軍人さん達は、ウェルズリーの有様に真っ青な顔をして、何度もおう吐した後にその言葉を教えてくれました。

あたし、そこまでの力が欲しかったんじゃないんですよ。ゼンタだけは助けたかったんです、でも出来なくて、その無念が爆発しちゃったようなものなんです。

……ウェルズリーで生き残った人、たったの数人だったそうですね。

脱走兵が戦況不利だからって勝手に戦線離脱して、そんな事をしたら当然死刑だから、やけになってみんなを、皆殺しにしたんですね。

それで私に殺された。

ねえ、戦争って何なんですか?

どうして戦争は終わらないんですか?


 「困ったなあ」とマッドサイエンティストの青年エステバンは言った。「どこにも異常は無いんだよ。 シャマイム、本当に異常を感知したのかい?」

彼のラボの中で白い兵器シャマイムは様々な計器に繋がれていた。モニターにシャマイムの顔が浮かび、

『是』と言った。『自分は変化した』

「いや、でも、どこも……変化なんかしていないんだよ。 もしも変化したとするならば……」とこの奇矯な性格の青年は、珍しく口ごもった。

『エステバン?』

「『聖遺物』の『聖十字架』と言ったね、シャマイム? 今の科学でも先代文明ロスト・タイムの『遺物レリック』、ましてやこの聖教機構が救世主の奇跡の証として崇める『聖遺物』ともなれば、解明できない事の方が多いんだよ。 例えば、どうして『適合者』のみが『聖遺物』を操れるか、とかね。 かの『聖王』が『聖槍』の適合者になった時も、色々僕のパパが調べたんだけれど全く分からなかった。 今じゃ聖槍はシーザーなんかが適合しちゃっているけれどさー。 だから、可能性としては、恐らく心や魂とか言う、科学では手を出しにくい分野の問題なんじゃないかなーと思う」

『自分は兵器だ。 心も魂も無い』

「シャマイムになら、心も魂もあるよ。 だって、ねえ、言っちゃ悪いけれどシャマイムほどの善人を僕は知らない。 否とか言わないでよ、事実なんだから。 後、心なんて薬でどうにでもなるとか言わないでね、まあシャマイムなら絶対言わないって分かっているけど。 とにかくシャマイム、君は異常なしだ。 って事で、無罪放免ー」

『……』

「さ、シャマイム、何かねー、今ね、フー・シャーが書類仕事で忙しいらしいから、手伝ってあげなよ」とエステバンはシャマイムを解放した。


 アズチェーナ・ミラルカはせっせと書類整理を行っている。事務室には今、彼女と、同じ吸血鬼の青年フー・シャーしかいない。フー・シャーは仕事の悪魔のように凄まじい勢いで事務処理を行っていて、彼女はその補佐的な役割を務めていた。

「お、おめでとうございます!」アズチェーナは覆う包帯で日光から顔を隠しているのに、はっきりと分かるほど笑みを浮かべていた。「ええと、そ、それで、男の子ですか、女の子ですか?」

「まだ分からないさ、でもありがとう! 僕も本当に嬉しいんだ!」フー・シャーはにこにこと微笑んで、「ボスも転属届を出したかったら書類の仕事はきっちり片付けなさいって、ありがたい限りだ。 特務員の仕事は、報酬も多いけれど、危険そのものだから……僕はせめてあの子が成人するまでは生存していたい。 でも、その」フー・シャーはそこでちょっと情けない顔をして、「グゼが行方不明の今、僕が抜けるだなんて本当に迷惑をかけてごめんよ……」

特務員の仲間の一人、グゼが今、行方不明になっているのだ。特務員の欠員に重なる欠員、それを彼はやや苦にしていた。

「良いんですよ! あ、あたしも頑張りますから!」アズチェーナは両手を握って、「それに、噂の新人もやって来るそうじゃないですか! ですから、フー・シャーさんは、今は一番、奥さんのお腹の中の子の事を考えてあげて下さい!」

そこに、同僚にして兵器のシャマイムがやって来た。もちろん兵器の癖に気遣いが出来て親切で有名なシャマイムは、コーヒーを二杯持ってきている。

「アズチェーナ、フー・シャー、適度な休憩は仕事の効率を高める」

「ありがとう……」フー・シャーは涙ぐんだ。「本当にありがとう……!」

吸血鬼二人はゆっくりとコーヒーを飲んで、ふう、と一息ついた。

「それにしても、だ……シャマイムももう聞いているよね、例の新人の事……」

フー・シャーがちょっと困った顔をして言った。シャマイムは、是と答える。

「特務員の養成所で、ありとあらゆる特務員適性項目で満点のSSSを取ったあの新人さんの事ですよね」アズチェーナが頷く。「でも、どうしてあの人ともあろう人が特務員になろうとしたんだろう……?」

「理由は単純明快、僕でさえ容易に推測できるさ」フー・シャーが苦い顔をして、「今の僕ら、特務員の総指揮権を掌握しているのは一応は和平派幹部のヨハン様だ。 でもあの人は仕事も何も出来ないから、ボスが代理でその仕事を行っている。 例の新人が特務員として大活躍したと言う既成事実を作れば、他の和平派幹部の心証はとても良くなる。 特務員として成果を上げればヨハン様を幹部と言う地位から更迭させるのに役立つ、それが狙いさ。 あの男はヨハン様の所持する地位も高貴な家柄もその職務も全部奪い取りたいのさ。 ボスが一度言っていたよ、憎々しげに。 あの感情を表に出さないボスが、感情丸出しであの男を罵っていた。 いやはや、もう聞いている僕らの方が怖くなるくらいに嫌っていたよ」

「ええええッ!」アズチェーナは驚いた。「す、凄い野心家なんですね……」

「野心が無い男なんて雑草みたいなものだけれどね。 まあ、卑怯な男なんて雑草以下だけれど」フー・シャーは言った。

「ですねえ」とアズチェーナはまた頷いてから、「まあ、でも、あくまでも扱いは新人ですから、あんまりにも生意気だったらみんなでがっちり説教しちゃいましょう!」とつるぺたの胸を張って言った。

「そうだね、そうしてしまえ。 ……よし」とフー・シャーは仕事を再開した。

今度はシャマイムが加勢した事もあって、更に仕事は順調に進み、数時間後には終了した。

「終わった! ありがとう! 本当にありがとう!」

フー・シャーは万歳をした、つられてアズチェーナも万歳をした、だがシャマイムは冷静に、

「フー・シャー、ボスへの書類の提出が完了するまでは『終わった』と言う表現は不適切だ」

「あ、そうだね! 行ってくる!」もっともだ、とすぐに納得して、フー・シャーは書類の塊を抱えて部屋を飛び出して行った。

彼は間もなく戻ってきて、少し嬉しそうに、

「ボスから聖教機構の管轄下にある聖音楽学院リエンツィに行きなさいって言われたよ。 僕の次の仕事は、どうやら音楽学校の教師らしい。 ありがたいなあ。 本当ボスは公正で公明だ。 僕は確かに上手にはバイオリンは弾けなくなったけれど、演奏技術や方法まで教えられなくなった訳じゃない」ここでちょっと彼はまたしても涙ぐみ、「……今までありがとう、二人とも」

「こちらこそ、ありがとうございました!」アズチェーナはぺこりと頭を下げた。

「送別会の日程と会場が決まり次第、フー・シャーに即時連絡する」シャマイムは淡々と言った。


 「どうして貴様がここにいる!」

フー・シャーの送別会の会場は人気の庶民向けレストラン・ソクラテスを貸し切ったものだった。そこに特務員達が集結して、ワインやビール、飲めないものはソフトドリンクを頼んで、ほかほかの料理も運ばれてきて、さあ宴会が始まろう、と言う瞬間に登場したのだ。

I・Cイー・ツェーが。

アル中で性格が腐っていて存在するだけで場の空気が汚れる男が、呼ばれてもいないのに、否、誰もこの特務員にだけは送別会の会場や日程を教えず秘密を厳守していたのに、のこのこと出てきたのだ!

特務員のセシルが思わずそう怒鳴ったのに、I・Cはけろりとした顔で、

「俺は酒の匂いのする場所には目隠しされたってたどり着けるんだぜ」

特務員達は血相を変えて囁きあう、

「おい誰だよ、情報漏らしたの!?」

「俺じゃねえよ、お前か!?」

「そんな馬鹿な事を私がする訳が無いでしょう!」

その時だった。特務員に持たされている通信端末が、一斉に鳴った。

『ごめんなさい』

聖教機構屈指のマッドサイエンティストの青年エステバンの泣き声が、そこから聞こえる。

『拷問されて、フー・シャーの送別会の事、自白しちゃった……ごめんなさい』

「「……」」

誰もが軽く目の前が真っ黒になった。I・Cが来た事で、楽しくなった宴会など一度も無いのである。誰もの頭に仕切り直し、と言う言葉が浮かんだが、フー・シャーが明日には転属先の音楽学校に出向く事を思い出して、思わず神に祈りたくなった。

「名案がある」言い出したのはベルトラン、正式な特務員では無いが、ほぼ同等の扱いを受けている青年であった。「少し見苦しい所を見せるが、良いか?」

「こ、この、この状況をどうにか出来るなら、す、少しくらい見苦しくたって全然構わないですよ!」アズチェーナが何度も頷いて、誰もがそうだそうだと言った。

「よし」ベルトランの指先が妖しく動いた。それは『糸』を操り、その『糸』は一瞬でI・Cをぐるぐるに拘束して、しかも喚かれるとうるさいので、唇をも縫い留めてしまった。むーむーと何か叫んでいる、まるで蜘蛛の巣に引っ掛かり、そのエサにされたかのようなI・Cの体を、レストランの柱に特務員が総出でぎっちりと鎖で縛りつけて、完了。

「いやあ、危なかった……」作業を終えてセシルが冷や汗をぬぐった。「フー・シャーの結婚式みたいになるかと思ったぜ」

「その時は何があったんだ」ベルトランが訊ねると、セシルは忌々しそうに、

「招待されてもいないのに勝手に来て、フー・シャーの奥さんを暴行しようとしたり、汚い飲み方をして泥酔した挙句、ウェディングケーキを蹴り倒しやがったんだ! 結婚式も披露宴も危うく滅茶苦茶になるところだったんだ。 シャマイムとグゼがいなかったら本当どうなっていたか……」

「それは酷いな……」とベルトランも顔をしかめる。

「ま、まあ、これで一件落着です、フー・シャーさんの送別会、始めましょう!」

アズチェーナが言うと、誰もがそうだそうだと乾杯のグラスを手にした。

 和やかに宴会は進行していく。陽気に酔っぱらった彼らは、様々な余興をやった。

変身種ライカンスロープのセシルは虎から象にまで変身して驚かせたし、アズチェーナは様々な花を咲かせて特に女性陣から脚光を浴び、そしてフー・シャーはバイオリンで色々な曲を弾いた。元々が一流のバイオリニストだっただけあって、本当に巧かった。けれどこれでもフー・シャーに言わせれば、

「駄目になってしまったんだ」と言うレベルらしい。

「何と言うかね、弾いても心に響かなくなってしまったんだ。 でもあの頃の僕は天才と言われて驕り高ぶっていた。 だから、僕は少し無念ではあるけれど、今の僕でいた方が人間としてはまともだと思うんだ」

それからフー・シャーはリクエストに応えて、コマーシャルの曲から映画のテーマソング、今流行っている歌曲まで弾いた。場は大いに盛り上がって、拍手と歓声が飛んだ。誰もがあえて、「これを聞けるのが最後だなんてさみしいなあ」とは言わなかった。さみしいのは、彼が『仲間』だったからにはどうしようもないもので、それでも、フー・シャーの葬式ではないのだから永訣のさみしさを抱く事なんて必要ないのだった。

「それじゃ、最後にこの曲を……」とフー・シャーはアンコールに応じて、穏やかなテンポの曲を弾いた。誰もが知らない曲だった。けれど心に染み入る酷く優しい曲で、誰もが思わず目を潤ませた。

「おい、今の」とセシルが曲名を聞こうとした時、フー・シャーが少しはにかんで言った。

「子供が生まれたら子守唄代わりに聞かせてやりたい曲なんだ。 僕が生まれて初めて自作した」

「そうか……」と誰かがしみじみと、けれど彼の今後の幸せを心底祈って呟いて、送別会は終わった。


 フー・シャーと入れ替わりにやって来た男は、すぐに特務員の誰からも『クソ上司』と呼ばれる事になる、アロン・ヴァレンシュタンであった。この男はヨハン・ヴィルヘルム・ヴァレンシュタインの従兄であったが、性格は全く似ておらず、傲慢で自信過多そのものであった。特務員としては非常に優秀だが、上司としては最悪であった。己の優秀な血脈を事あるごとに自慢し、ヨハンの事を堂々と腰抜けだの臆病者だのと罵った。少しでも己に対して反論した特務員には執念深く眼をつけて苛め抜き、差別した。例えその反論が正論であったとしてもだ。人を褒めると言う事を知らず、部下の手柄は俺の手柄、己の失態は部下の所為、であった。

真っ先に目をつけられたのはシャマイムであった。

シャマイムはアロンを制止しただけなのだ。アル中のI・Cから酒瓶を奪い取ろうとした彼を、危険だからと止めたのだ。

「その行為は推奨できない。 貴殿へI・Cが危害を加える恐れがある」

くわっとアロンは目を見開いた。

「たかが兵器の分際で、この俺様に意見しようと言うのか!」

その言葉に特務員の誰もが反感を抱く。シャマイムは兵器であるとは言え、誰からも信頼されていたし、あれは良いヤツだ、誠実なヤツだと非常に人気があったのだ。アロンはシャマイムを蹴り飛ばし、ぼけーっと突っ立っていたI・Cから酒瓶を奪おうとした。直後、I・Cの拳がアロンの顔面にめり込んだ。アロンは吹っ飛び、痛い痛いと喚いた。

「クソうぜえ野郎だな、相変わらず」I・Cは酒を死守しつつ言った。「クソガキ、テメエは学校のテストじゃいつだって百点満点を取る優等生だが、現実じゃテメエはな、生ゴミを漁るドブネズミ以下なんだよ」

「な、何だとぉ!?」アロンは激怒した。「貴様はあの女狐の狗の分際でこの俺様に何と言う事を言うのだ!」

「なあ」とI・Cは特務員を見渡して言った。「コイツ、今ここでぶっ殺して良いか? 絶対コイツ、生かしておいたってろくな事無いぜ?」

「止めろ、I・C」シャマイムが止めた。「アロン・ヴァレンシュタンは我々の上官だ。 上官への攻撃は反逆罪に該当する」

特務員達にとって更に不運な事に、アロンは新人扱いでは無かった。彼らの上司であった。

「面倒臭えなあー」とI・Cは酒を飲んだ。

「貴様は異端審問裁判にかけてやる!」アロンは喚く、怒鳴り散らす。「ヘルヘイムにぶち込んでやる!」

「あ?」I・Cはどうでも良さそうだった。「俺がヘルヘイムをぶっ壊しても良いんだな? 俺は酒を飲むためなら破戒の破壊くらい何て事無いぜ?」

「き、貴様ァ!」いきり立つアロンをシャマイムが抑えた、必死に抑えた。

「I・Cは社会常識を完全に持たない。 通常の特務員と同等に考えては貴殿に不利になる事態を招来する可能性が高い。 放任する事が最も適切な対応だと提唱する」

「このクソッタレはッ!」アロンは恨みに恨みを重ねた声で叫ぶ。「この俺様をいつも愚弄してきたッ! ……この恨み、ただで済むと思うなよ?」

「あのなー」とI・Cは怠そうに言った。「俺は聖王存命時からヨハン様を虐めに虐めぬいてきた貴様を、今や毛虫よりも嫌うお嬢様の従僕なんだ。 大体俺が買ってきた恨みなんかもう相当量で、俺にすら桁が分からん位だ。 それが今更、このドブネズミ一匹の恨みなんか正直どーでも良すぎて……」

「I・C、それは失言だ、アロンに謝罪しろ」シャマイムが言ったが、I・Cは、

「はーい、ちょ~ごめんなさ~い」

物凄く腹の立つ謝罪をした。アロンは額に青筋を浮かべるが、シャマイムが必死に取り成した。

「繰り返す、彼は放置するべきだ、積極的関与は貴殿の不利益になる」

「クソ兵器が!」吐き捨ててアロンは己のデスクに座った。「こんな茶番よりも仕事だ仕事!」

……と言う訳で、シャマイムを罵った所為で、特務員達のアロンへの第一印象は最悪であった。彼らはこそこそと話し合う。

「何だ、あれ」

「シャマイムを兵器の分際でとかクソ兵器とか……」

「シャマイムがどれほど良いヤツなのか、知らないとは言え、クソ野郎と呼ばせてもらっても良いよな?」

「それじゃ甘いわよ。 I・Cの言ったドブネズミでも十分すぎるわ」

そしてこの第一印象は、改善するどころか悪化の一途をたどる。


 「どいつもこいつも!」マグダレニャンの機嫌も最悪であった。「何故ヨハンの力に気付かないのです! どいつもこいつもアロンごときを贔屓して、ヨハンを軽んじて!」

彼女の執務室の片隅で猫が怯えている。彼女は基本的に冷徹な人間であったから、それが怒るとなるとなまじ凄まじいのであった。

「お嬢様」秘書のランドルフも忌々しげに、「アロンには『機動重装歩兵エインヘリヤル』があります。 そしてそれを駆使して戦場で華々しい戦果を挙げてきた。 ですから、どの和平派幹部の方々も、それに惑わされているのでしょう」

「その華々しい戦果の背景をどいつもこいつも忘れていますわ。 アロンの出撃し指揮した戦場では、決まって自軍の被害も甚大なのですわよ!? アロンは人の上に立つべき器ではありません! アロンは平気で人を踏み台にしますわ!」

「……」ランドルフは沈痛な顔をして、「せめて。 せめてヨハン様が一度でも良い、何らかの功績を挙げられたならば……」

「……『戦女神計画ザ・ライド・オン・ヴァルキュリーズ・プログラム』が成功する事を、願うしかありませんわね……」

マグダレニャンはそう言って、大きなため息をついた。


 「おい! 貴様ら! 任務だ!」

アロンは怒鳴って、一番デスクが近かったアズチェーナに書類の束をぶつけた。

「あいたッ!」アズチェーナは頭に命中したのでひっくり返って、シャマイムに助け起こされた。「な、何の書類ですか……?」

「読みもしないのに聞くな! 魔族の分際で!」

「「……」」特務員の誰もが露骨な嫌悪感をアロンに抱いた。魔族だろうが人間だろうが特務員である限り同僚であり、彼らの仲間である。それを魔族であるだけで差別するなど、一番やってはならない事だった。魔族とは人間とは別種の特殊能力を持つ存在であり、人体を食べる性質を持っていたが、現在では合成肉を食べればその悪癖は回避されるので、今どき魔族だからと差別するような人間はほぼいない。そのためにかなりの反感を誰もが抱いたが、辛うじて耐えている。アズチェーナは半べそをかきながら書類を読んだ。

「ええと、ええと……ご、護衛任務ですか?」

「全部読んでから聞け、このクソ吸血鬼ヴァンプ!」

アズチェーナはしくしくと泣きだした。まだ怒り狂っているボス・マグダレニャンの方がマシだと彼女は思った。だってボスが怒り狂うのは、それに見合う理由があり、道理があるからだ。こんな理不尽な叱責など一度もされなかった。ヨハン様が無能だからと代わりに彼女らの総指揮権をボスが取っていた、あの過去に戻りたかった。

誰が予想しただろう、ある意味ではI・C以上に厄介な、いや、I・Cの方が同僚である分マシだとすら言えるクソ上司が来るなんて。

「任務の発令対象は誰だ?」シャマイムがアロンに訊ねた。

「貴様とそこのクソ吸血鬼と、後はこの俺様だ!」

「は、はい、頑張ります!」とアズチェーナは涙をぬぐって頷いたが、

「貴様が頑張ろうが頑張るまいが知った事か。 結果を出せ、結果を!」

「……はい」また涙目になるアズチェーナだった。

(おい)特務員の間で、こそこそと会話が飛び交った。

(何だよ、あれは)

(酷すぎない?)

(酷いと言うか……あんまりだと思うが)

(何か、嫌な印象しか抱けないんだけれど)

(君は優しいな。 俺は既に不快感を抱いている)

「では行くぞ! 付いてこい!」アロンはそう言って、席を立った。

「何か嫌な予感がする」そこに、いきなり言い出したのはI・Cであった。「かなり嫌な予感がする。 おいシャマイムにアズチェーナ、行かない方が嫌な目には遭わない気がするぜ」

「な、何を言っているんですか、I・Cさん?」アズチェーナが怪訝そうな顔をした。「仕事で嫌な目に遭うなんて、あ、当たり前ですよ、ね、シャマイムさん?」

「……」シャマイムは黙っていたが、彼に訊ねた。「I・C、どうして自分達の心配をした?」

「違え。 俺がこんな嫌な予感がするって言ったのはな、俺がわざわざ出る羽目になりそうだって予感がするって事さ。 俺は任務とか本当どうでも良いんだが、面倒事に巻き込まれるのは嫌なんだ」

「それは」アロンが憤怒の形相で怒鳴った。「この俺様の采配に不満や不足があるとでも言いたいのか!」

I・Cは鼻の穴に人差し指を突っ込み、「アロン。 テメエは優秀な卑怯者だ。 それが今度の今度で、本性見せるだろうよ」


 任務内容は、聖教機構和平派と提携している巨大国際軍事企業スピノザ社の社長の箱入り娘マルグリットの護衛であった。何と世界最悪の暗殺組織、『デュナミス』から彼女が見せしめに暗殺されるとの情報が入ったのだと言う。デュナミスと聖教機構は対立関係にあったから、暗殺計画そのものはやむを得ないのかも知れない。当然それを阻止するために和平派幹部マグダレニャンは特務員を動かした。

「あ」とアズチェーナは驚いた。先ほど投げつけられた書類の内、マルグリットのスケジュールを見て、である。「リエンツィ聖音楽学院にマルグリットさんは通っていらっしゃるんですね!」

「フー・シャーに再会できる可能性は非常に高いと推測する」シャマイムは言った。

「うわあ、楽しみだ!」と無邪気にアズチェーナが喜んだ次の瞬間、怒声が飛んだ。

「真面目に仕事をやれ!」アロンであった。「これだから魔族は駄目なんだ。 人間様にこき使われなきゃ分際と言うものを分かろうともしない。 本当に駄目だな」

「!!!」

瞬く間に涙目になるアズチェーナを庇うかのように、シャマイムが抗議した。

「現和平派教義では魔族と人間は対等、平等の関係にある」

「黙れポンコツ! たかが兵器の癖に俺様に何か言うつもりか!」

「是。 貴殿の発言は特務員の士気を非常に下降させる。 熟慮を重ねた上に発言をする事を」と言ったシャマイムが、吹っ飛ばされた。

『敵性体発見、敵性体発見、コレヨリ排除活動ニ移行シマス』

くろがねの機動大型歩兵、殺戮兵器『エインヘリヤル』が一二機、腕の一閃で吹っ飛ばしたシャマイムを取り囲んだ。流石に見るに見ていられない特務員を代表して、セシルが間に割って入った。

「お待ち下さい! 味方同士で相討ちだなんて、馬鹿げています! どうかお止め下さい!」

空気を読んだシャマイムが、言った。シャマイムは本当に場の空気が読めるのだ。

「自分の失言を謝罪する」

その場にいた特務員の誰もが思った。

失言じゃない。至極まともな、もっともな、正論をシャマイムは言っただけだと。だが上司がクソなので謝らされたのだ。アロンはやっと機嫌を良くして、

「ふん、やっと身の程をわきまえたか。 じゃあ行くぞ!」


 「先生!」と呼ばれてフー・シャーは学院の廊下を振り返る。女学生が楽譜を抱えて走ってきた。

「どうしたんだい、マルグリット君?」

少女はにっこりと笑って、

「先生、確か、元は和平派の特務員でしたよね? あの、私、その和平派特務員にとある事情で護衛される事になったんです。 ですから、もしかしたら、元同僚の方々に先生もお会いできるんじゃないかって……!」

「ありがとう! そうだね、知らせてくれてありがとう!」フー・シャーは元同僚達の顔を次々と思い浮かべて、「アイツらにもう一度会えるなんて、これは喜ぶべきか嘆くべきか、あはははは!」と笑った。

「あー、ずるーい、マルグリット!」他の女学生達が我先に走ってきた。「先生を独り占めなんてずるーい!」

「早い者勝ちー!」べー、と少女はあかんべーをした。

「こらこら」フー・シャーはなだめて、「先生は我が家の唯一絶対神の奴隷なのさ。 先生を取り合うんじゃない。 我が家の唯一絶対神にバレたら、先生は殺されてしまうからね」

「先生って恐妻家ー!」と女学生はいっせいに転がるように笑った。

「こら! 愛妻家と呼んでくれたまえ! 恐妻家だなんてバレようものなら……!」フー・シャーは真顔で言った。一度それがバレた時は彼の正妻から苛烈なる制裁を受けたのだ。

「きゃはははは、チクっちゃえー!」と女学生達は我先に逃げ出した。

「うわー、待ってくれ、それだけは止めてくれー!」フー・シャーは必死で追いかける。

 これが、彼の、新たな人生の日常であった。


 (はてさて、誰が来るのやら)残業して教員室でテストの採点をしつつ、フー・シャーは元同僚の顔を思い浮かべては、考える。(シャマイムだと良いなあ。 セシルは相変わらずかなあ。 ベルトランは慣れてきたかな? アズチェーナは頑張っているだろうか。 ローズマリーとI・Cだけには会いたくないなあ……)

その間に、テストの採点が終わった。彼は一息つくためにコーヒーを飲んだ。それから、携帯型の通信機器を取り出して、彼の正妻に連絡を入れる。

「あ、もしもし?」

彼の妻は今、つわりなので、時々心配になって連絡を入れるのだ。

『辛い物が食べたいの!』

妻の第一声がそれであった。

「え、昨日はアイスが食べたいって」フー・シャーは目を丸くする。

『今は辛い物が食べたくてしょうがないの!!!!』

「でも、冷凍庫のアイス、まだ一〇個も」残っているのだ。

『もう食べられない! 辛い物! 辛い物! そうだ、辛いピザが食べたいわ! ね、仕事帰りに買ってきて!』

「……はい。 分かりました。 買ってきます」

連絡が終わった後、フー・シャーは嘆息した。

「今月の僕のお小遣いは、全部彼女の食費で消えるね、これは……」

だが『妊娠中と産後の妻は野生動物と同じ』『妊娠している時に恨みを作ると一生ねちねち責められる』『女は腹を抱えて子供を産む、だったら男は頭を抱えて育てるしかないだろ』と結婚経験のある元同僚達の説教が効いている彼は、今はひたすら我慢しかないと決意するのであった。

「おお、フー・シャー君」

このリエンツィ聖音楽学院の校長であるピエリ老人が、校長室から出てきて、彼を手招きした。常に子供のような悪戯を愛好しているこの老人がフー・シャーは好きだった。聖音楽学院の校長なのにエレキギターに手を出し、髪の毛をピンクに染めて文化祭の日にバンドの真似事をして舞台に乱入し、生徒から大歓声を浴びたり、雪が降った日にはもう大変、生徒と一緒に雪玉をぶつけ合い、教頭のティーテ女史に土下座させられて説教をくらう。だが、この老人が一度ピアノの『白と黒エボニー&アイボリー』に触れると、まるで音楽の神ですらうっとりするような素晴らしい音色が奏でられるのだ。その色は極彩色であったり、虹色であったり、モノクロであったりセピアであったりと、本当に多彩で、まるで音符が生き物のように跳ねて回っているようであった。そして、この奇天烈で憎めない天才がフー・シャーを招く時は、決まって新手の悪戯を思いつき、それの協力を要請してくる時なのであった。

「校長先生、何でしょうか、今度は?」

「うむ、ワシは今、猛烈にデスメタルをやりたいのだよ、フー・シャー君」

ほら来た。フー・シャーはワクワクした。

「やりますか!」

「女史からは大説教が来るだろうがやるしか無かろう。 芸術とは表現の限界への挑戦であり命の爆発なのだッ!」

それで彼らはデスメタルバンドを結成するべく密かに工作活動に走る事になった。何の事は無い、有志の生徒を募ってバンドを結成し、朝礼の時間に長々と校長が説教を垂れる代わりに、一発ぶちかまそうと言うのだ。

「先生! これ、デスメタルっぽくないですか?」

その有志の生徒の中には、マルグリットもいた。このベースから放たれる咆哮で地面をも揺るがそうと彼女は決めていた。彼女はデスメタルバンドに相応しい化粧もしていた。親が見たら卒倒するであろう、顔を白塗りにした上に、髪の毛はメタリックパープルのウィッグ、そして顔面にはでかでかと、『死神』の言葉が……。

「甘い!」フー・シャーは振り返って叱った。「これくらいやりなさい!」

フー・シャーの場合は、もはや人間の顔をしていなかった。特殊なメークで、化物、死霊の顔をしていたのだ。彼が特務員だった時に、同僚から教わったのだ。

「おお! 先生、私もっと頑張ります!」

マルグリットは気合を入れた。それから、ふと、

「本当、先生達のおかげです」といやにしんみりとした口調で話し出した。

「どうしたんだい?」

「……いえ、私、もう将来が決まっているんです。 結婚相手も、仕事も、何もかも。  私の自由なんてどこにも無くて、この学院に通っている事ですらお父様のご意志なんです。 教養を身に付けなさいって。 でも、校長先生があんな人で、先生達もみーんな変人で、だから私、生まれて初めてありのままの私でいられる気がしているんです。 青春を謳歌するって言葉がありますけれど、きっと今の私は間違いなく全力で青春を謳歌している。 これだけ謳歌したら、後悔も全部飛んじゃうってくらいにです。 既に決められた人生ですけれど、この思い出があったら、私はきっと私の一生を自分の足で歩いて行ける気がするんです。 だから本当、先生達に出会えて良かった、そう思っているんです」

「そうか」フー・シャーは頷いた。「だったらもっと全力でしなければ後でくすぶってしまうぞ。 頑張ろう!」

「はい!」とマルグリットは、にいっと笑って、大きく頷いて返した。

「ヒャハハハハハー!」奇声を上げてそこに登場したのがピエリ老人である。「どうだねフー・シャー君! これならば文句の付け処もあるまい!」

老人はミイラの格好をしていた。フー・シャーは、

「ただの白い包帯じゃ、衝撃インパクトが弱いと思うんです、ここは包帯を全て真っ赤に!」

「そうか! では鮮血色に染めてくるとしよう!」老人は飛んで行った。

「先生、これはどうですか!」と同じデスメタルテロの仲間の男子生徒の一人、オーリンが水泳パンツだけで後は全身を金色に塗りたくったとんでもない格好を見せびらかして、言った。

「及第点だ! だがもっとやりたまえ!」

「はい!」オーリンは胸を張った。それから、「見てろよ、悪魔のデスメタル声でがなってやる! 鼓膜をぶち破って脳みそをシェイクだ!」

「じゃあ私は地獄の伴奏をやるわ!」マルグリットも意気揚々である。「みんなを絶叫マシンに変えてやるんだから!」

 ……朝礼の音楽テロの準備が整った。

準備がひと段落したので、フー・シャーは妻の事を思い出して、連絡を入れた。

『……炭酸!』

ああ今度は。フー・シャーは嘆きたくなったが、こらえる。

『炭酸水が飲みたくて死にそうよ! ね、買ってきて!』

「分かったよ……。 他でもない僕の子のためだもの……」

『……私の事はどうでも良いのね?』

「ち、ちが、違、!」

しまった、地雷を踏みぬいた!フー・シャーは慌てたが、何か言おうとする前に、連絡は向こうから切られて、かけ直しても無視された……。

 ともあれ、彼は意気消沈してもいられず、音楽テロのために頑張るのである。

朝礼の時間がやって来た。

生徒達が、朝から説教だなんて、と憂鬱な顔で講堂に次々やって来る。

講堂には朝の光が窓から差し込んでいる。だが、次の瞬間、全ての照明が落ち、カーテンが閉められて、辺りは真っ暗闇に変わった。

「「!!?」」

生徒の誰もが驚く中、いきなり爆音が響いた。

『ギャハハハハハハハハハー! 生徒の諸君よ、地獄へようこそ!』

血まみれのミイラがスポットライトの光を浴びて登場して、マイクを握ってそう言った。生徒から次々に歓声が上がった。今日は退屈な朝礼では無く、刺激的で興奮する何かを、また校長先生がやってくれるのだ!これに乗じずして何の青春だ!期待のあまりにまだ始まっていないのに跳ね出す生徒も続出した。

舞台にライトが当てられると、既にそこにはデスメタルバンドがいた。

『我々は貴様らを死に至らしめる』

声楽を習っているオーリンの声は、まるで魔王の声のようであった。

『泣き叫ぼうと地獄への道連れにしてやる。 一曲目、「我が手による死」!!!』

次の瞬間、ベースとドラムとギターが我先にうなり声を上げた!

 講堂から出てきた生徒達の顔は、皆晴れ晴れと、生き生きと、あるいは興奮で赤く染まっていた。

「叫びすぎて喉が痛いー」

「でもチョー最高だったじゃん!」

「校長先生もう大好き。 愛してる。 デスメタル風に言うと、我が手で殺したい!」

「やっちまえ!」

「朝からこんなに興奮したら、午後の授業はお昼寝タイムだ!」

……そしてデスメタルバンド決行犯の面々は教頭のティーテ女史に説教をくらっていた。だが誰も内心では反省のハの字もしていないし、後悔もしていない。それどころか、次は何の音楽テロをやろうかと説教そっちのけで考えている。

「全くもう! 由緒正しき我らがリエンツィ聖音楽学院を何だと思っていらっしゃるのですか!」

「だって……普通に説教するだけだなんて……つまらないって思ったのだ……」

ピエリ老人は案の定土下座させられている。

「良いですか! リエンツィ聖音楽学院は、」

一度始まると足がしびれても許してもらえない、長い長い説教であった。


 「その計画には賛同しかねる。 再考を要請する」

シャマイムは言った。リエンツィ聖音楽学院に向かう移送車の中で、である。シャマイムがそう言った途端にシャマイムは『エインヘリヤル』によって殴り飛ばされた。アズチェーナが悲鳴を上げてシャマイムに駆け寄る。

「大丈夫ですか、シャマイムさん!?」

「俺様の計画が不完全だとでも言いたいのか。 このクソ兵器」アロンは腹立たしげに言った。「俺様は完璧なんだ。 不完全なんかでは無い!」

「否。 貴殿は『デュナミス』の残忍性を認識できていない。 マルグリット嬢を護衛するだけでは不完全だ。 学院の生徒全員を、」シャマイムはまた吹っ飛ばされて、移送車の壁に叩きつけられた。シャマイムの普段が小柄な人型であるのが災いしていた。

「黙っていろ、壊されたくなかったら」アロンは吐き捨てた。

だがシャマイムは黙らない。この状況で黙る事などシャマイムの性格上、絶対に出来はしない。

「『デュナミス』が学院の生徒並びに教員を皆殺しにする可能性が非常に高い以上、自分は同様の進言を繰り返す」

「おい、やれ」

エインヘリヤル二機がシャマイムの両腕を押さえつけた。

「なッ、何をするんですかッ!?」アズチェーナが悲鳴を上げた。

「こうするんだよ」アロンは親指を下に向けた。

ぼきり。

シャマイムの両腕がもぎ取られた。

「!」アズチェーナが絶叫の形に大きく口を開けたが、もう声が出なかった。

「これで少しは大人しくなるだろ」

アロンがけらけらと笑って言った時、移送車が止まった。リエンツィ聖音楽学院に到着したのだ。

「さてと、『デュナミス』の連中を血祭りに挙げてやろうじゃないか!」

アロンはエインヘリヤルの指揮機に搭乗すると、移送車を降りた。

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」アズチェーナは真っ青な顔をして、シャマイムの腕を慌てて拾い、シャマイムに近づいた。「シャマイムさん、シャマイムさん!」

「自己修復に時間が必要だと判断。 アズチェーナ」シャマイムは彼女に向かって言った、「アロンの護衛計画では無関係の生徒並びに教員の大規模な被害が予想できる。 フー・シャーに協力を要請し、生徒並びに教員を全て登校停止・もしくは下校させなければ危険だ」

「わ、分かりました!」日光を防ぐ包帯の下で、アズチェーナは唇を引き結び、頷いた。「すぐに行ってきますから、シャマイムさんは全力で腕を治してくださいね!」

「了解した」


 「マルグリット様」とアロンはかしずいて恭しく言った。「貴女の護衛を任されましたアロンと申します。 全力で守らせていただきますので、どうぞご安心を」

アロンらは今、校長室にいた。ピエリ老人が不安げにマルグリットを見ている。

「……」少女は、何故か、不審そうな顔をしていた。「私の命を狙っているのは、あの『デュナミス』だそうですね?」

「ええ、おっしゃる通りです」とアロンは答える。マルグリットは言った。

「たったの一二機と一人で、この学院全体が守れるとはとても思えないんですけれど」

「どう言う意味だね、マルグリット君?」ピエリ老人が訊ねると、少女は叫んだ。

「私、お父様から聞きました、『デュナミス』は暗殺対象の周囲まで皆殺しにするって! 恐らくこの学院の生徒も巻き添えを受けます! 私、聖教機構はこの学院ごと守ってくれると思っていたのに!」

「なッ」老人は絶句した。「それは本当かね、アロン殿!?」

「ご心配なく、私の『エインヘリヤル』に敵う者はおりません」

「でも、」とマルグリットが何か言おうとしたのを、アロンは睨みつけて黙らせた。

「この私に全てお任せ下さい、心配はご無用ですから」

 ――ノックも無しにそこに駈け込んで来たのが、フー・シャーであった。

「校長先生! 今すぐ全生徒全職員を一時帰宅させて下さい、さもないと全員が皆殺しにされます!」

「フー・シャー君、『デュナミス』とは一体どんな――!?」老人は問うた。

「一つの事例をお話ししましょう。 ヤツらは一人の標的を殺すために、大型客船を丸ごと海に沈めました。 中には乗客や船員がぎっしりと詰まっていのに、です。 ……『サン・アリシア号事件』、お聞き覚えはあるでしょう?」

それは酷い事件だった。生存者はほんの数名で、数百人が亡くなった。だがその事件は表向きは聖教機構により不運な海難とされていた。だが、実態はそうであった。老人はすぐに全ての事情を察して、

「うむ! 直ちに全職員と生徒を帰宅させる!」

「貴様がフー・シャーか!」アロンは怒鳴りつけた。「俺様のやる事に口を出すな!」

怒鳴られようとフー・シャーは毅然と、

「いくらだって口だろうが手だろうが足だろうが出してやるとも、この学院を守るためならね!」

老人が校内放送で、直ちに全ての職員と生徒に帰宅するように伝えた。理由は学院へテロ予告が入ったと言う嘘っぱちだが、この場合は半分は事実であろう。

「フー・シャー」そこへ、ようやく腕の修復が終わったシャマイムがやって来た。「協力感謝する」

「こちらこそさ!」フー・シャーは首を激しく横に振った。「知らずにいて生徒や教員のみんなを皆殺しにされたら堪ったものじゃない! アズチェーナから事情は聴いた、たったの三人と一二機でこの学院を『デュナミス』から守ろうなんて無茶苦茶にも程がある! ……I・Cならまだしもね」

「I・Cが奇異にも、今回の案件に対して警告を発していた」シャマイムは淡々と言った。「嫌な予感がする、と言う抽象的だが注意すべき発言をしていた」

「そりゃ、『デュナミス』が出てきて良い予感がするはずが無いよ!」

その時、であった。

シャマイムがいきなり二丁拳銃サラピスを構え、フー・シャーはどこから取り出したのか、巨大な音叉を二本握りしめる。血相を変えて彼は、

「もう来たかッ! マズい、生徒がちょうど下校中だッ!」

「自分とフー・シャーは生徒の安全を確保する。 アロン、貴殿はマルグリット嬢の護衛を」そうシャマイムは言うなり、フー・シャーと駈け出した。その背中に、ピエリ老人とマルグリットが叫んだ。

「フー・シャー君! ど、どうか、生きて戻って来るのだぞ!」

「先生、またバンドやりましょうね!」

「ええ!」フー・シャーはしっかり頷いた。「また一緒に、ティーテ女史に土下座しましょう!」

「待て! この、待て! このクソ共ッ!」とアロンが叫んだが、もう二人は聞かなかった。あっと言う間に、姿を消した。


アズチェーナはフー・シャーに事情を話した。血相を変えて、フー・シャーは彼女に生徒を頼むと言って、校長室へと飛んで行った。アズチェーナもその後を追おうとしたのだが、そこに、驚いたような声がかけられた。

「アズチェーナ!?」

あれ、とアズチェーナは思った。この学院に自分の名を知っている人がいるはずが無いのである。振り返れば、どこにでもいそうな男子学生が驚きの顔で立っていた。彼は叫ぶ、

「アズチェーナじゃないか! どうしてここに!?」

「あ、貴方は、だ、誰なんですか!」アズチェーナは問い詰めたが、途端に彼は納得した顔をして、

「そうか、知っている訳が無いよな……。 僕はオーリン。 オーリン・リーウズって言う名前だ。 将来は聖ラウレンティヌス大教会の聖歌隊に入る事になっている。 僕を養子にしたのがそこのパイプオルガン奏者のレイって男でね、僕の声に何だか知らないけれどぞっこんなんだ。 ……あー、性的な意味じゃなくてね? 僕は性的な意味じゃなくあの人が好きだし、あの人から性的な意味じゃなく愛されている。 時には『このクソ野郎!』って殴り合いの喧嘩もするけれど。 僕はそう言う訳で、今やどこにでもいる普通の少年だ」

「そ、それを聞いているんじゃないんです! な、何であたしの事を――!?」

「それは言えない。 でも、僕は何があろうと君の敵じゃない」

アズチェーナは混乱してきた。この少年は、何故か己の事を知っている、だが、己はこの少年に見覚えすら無いのだ。少年はふと首をかしげて、

「とにかく君がここに来たって事は、一体何があるんだい? もしかして、フー・シャー先生に会いに来たのかい? あの先生も元特務員だったそうだから」

「……」何と言えば良いのかアズチェーナは困ってしまった。だが、そこではっと我に返る。己がどうしてフー・シャーに会いに来て、シャマイムからの要請を伝えたか、その理由を思い出したのだ!

「き、君も今すぐに逃げてください!」

とアズチェーナは叫んだ。

「何で?」

「こ、この学院、『デュナミス』に襲撃される可能性が、とても、と、とっても高いんです! に、逃げないと皆殺しにされてしまう!」

「何だって!?」少年は目を見開いた。「あの『デュナミス』が!?」

そこに、校長からの生徒や教員への避難指示が流れた。

『――鞄も何も捨てて逃げなさい! 命さえあればまた取りに戻れます! 良いですね、全速力で、全力で、逃げなさい! 繰り返します、たった今、当学院へ爆破テロ予告がありました、急ぎ生徒と教員は当学院より避難なさい! 鞄も何も――』

「さ、さあ、君も!」アズチェーナは少年の肩を掴んで、引っ張った。「逃げましょう! もう、脱兎のごとく、に、逃げるんです!」

「……君は?」

「あ、あたしは、戦います、でゅ、『デュナミス』と戦うのがこの任務ですから!」

「じゃあ僕も逃げない」

「はあッ!?」アズチェーナは面食らった。「あ、貴方、頭おかしいんですか!?」

「多分おかしくない。 僕は逃げない」

「死にますよ!?」

「僕はそれでも逃げない」オーリンはきっぱりと言った。「僕にだってできる事はあるはずだ。 僕はそれをやる」

「じゃ、じゃあ逃げて下さいよ!」

その時だった。アズチェーナはしまったと言う顔をした。

「もう、来たッ!」

『アズチェーナ』シャマイムからの通信が入る。『フー・シャーは校内の生徒並びに教職員、自分は校外の生徒並びに教職員を護衛し、「デュナミス」を排除する。 アズチェーナは校庭の生徒並びに教職員の護衛の担当を要請する』

「分かりました!」

アズチェーナはそう叫んで、校庭へと走った。だがその後をオーリンが付いてくるので、慌てて立ち止まって彼を止める。

「な、何をやっているんですか?! 逃げるんですよ! 逃げて下さいよ!」

「僕は逃げない。 今逃げたら男がすたる」

「す、すたっても良いから逃げて下さいってば!」

「絶対に嫌だ」

もう仕方ない!アズチェーナは彼を気絶させ、安全だと思われるロッカーの中に彼を隠して、単身校庭に向かった。そこは今まさに、逃げる生徒達を襲おうとしている『デュナミス』の暗殺者達がいた。

「――行けえッ!」

アズチェーナは地面に手を押し当てて、気合の声を放った。

ぐらぐらと地面が揺れたかと思うと、まるで地面から牙が生えるかのように植物のツルが伸び、それは暗殺者達を串刺しにした。遠くでは銃声と破壊音が聞こえる。シャマイムもフー・シャーも戦っているのだろう。ならば。彼女は思う。あたしだって!

……『デュナミス』の増援がやって来たが、一瞬、校庭の有様を見て、立ち止まる。まるで熱帯雨林ジャングルのように樹木や草花が所狭しと生い茂っているのだ。その植物らは、増援の彼らを見て、明らかに敵対行動を取った。我先に襲ってきたのだ!

「く、クソ、ナパームだ!」彼らはナパーム弾で焼き払おうとした。

だが、この熱帯雨林ですら囮であった。

彼らの背後から、静かに這い寄るツルが、彼らの首に巻き付いて、皆殺しにしたのである。

「は、はあ、はあ」アズチェーナは汗をぬぐう。既に生徒達の多くは逃げていて、その生徒達に彼女は熱帯雨林からの安全な脱出路を教えていた。ピンクの花が咲いている枝の方へ逃げれば、安全な場所へ逃げられる、と。だが、彼女も能力をかなり使っていた。広い校庭一面を熱帯雨林にしたのだ。疲労と消耗が激しい。これはいけない、と彼女は錠剤を飲もうとした。合成肉――魔族が本能的に人体を食べる代わりに与えられた代替食――の成分を抽出して錠剤に変えたものだった。これを食べれば、吸血鬼である彼女の体力も、ある程度は回復する。

「あれれー」と能天気な声がしたのは、その時だった。「すごーい。 ジャングルだー!」

アズチェーナはまだ生徒が残っていたのか、と慌てて周囲を探ったが、誰もいない。

「あ、ごめーんごめーん、君の上」

ばっと天を仰ぐと、そこには白い異国風の服を着た少年が、木の枝の上に立っていた。

「お、」お前は誰だ、とアズチェーナが叫ぶ前に、少年は名乗った。

「僕はねー、シンドバッド。 『インドの風シンドバッド』さ。 『デュナミス・エンジェルズ』の『白雪姫』がこの前お世話になったねー。 仲間として、お礼に来たよー」

『デュナミス・エンジェルズ』!?

アズチェーナはぞっとした。それは、『デュナミス』を率いる黒幕、大天使ラファエルが生み出した、とんでもない化物達の総称だと、同僚のI・Cが言っていたのだ。

「えーとねー」とシンドバッドは言った。「まー、取りあえず、死んじゃって?」

突如としてカマイタチが、彼女の体を切り刻んだ。

「ぐ、あ――!?」アズチェーナは何が起きたのか分からなかった。血をまき散らして、うずくまる。妙に間延びする口調で、シンドバッドは言った。

「あはははー、カエルみたいな声を出すんだねー、君って結構、オモチャとしては面白いのかもねー。 ……君の、えーと、何だっけ、おっきな音叉をぶん回す元同僚さんも、今頃は面白半分に虐められて死んじゃっているだろうしねー、君達、中々いじめられっ子の素質があるよー」

何だって。アズチェーナはぞっとした。

「フー・シャー、さんに、何を、し、したんですか!?」

「んー、僕は何にもしていないんだよー。 ただ『シボレテ』に感染しちゃったからねー、もうお終いかなー。 全くあの男の人ってば、えげつなーい!」


 フー・シャーは校内に侵入してきた『デュナミス』を片端から処分していた。それこそ死力を振り絞って、学院を守っていた。彼はこの学院と、この学院にいる全ての人間が好きだった。憎めない奇人の校長、おっかない教頭、彼をからかう一方で慕ってくれている学生。

――その彼らを誰一人として死なせてなるものか。

それでフー・シャーは、悪鬼阿修羅のように戦っている。

既に彼の周りには暗殺者共の死体がごろごろと転がり、そして彼はそれを飛び越えて次の暗殺者を始末するべく疾走していた。

彼はまるでコウモリのように超音波を放ち、それで学院内の不審人物の存在を走査している。

――いた!

フー・シャーは音楽室の前で立ち止まった。防音壁越しなので少しぼやけているが、この中に、がっしりとした体格の、恐らくは男であろう、暗殺者がいる!

フー・シャーは音楽室の分厚い防音壁を超音波で破壊して、その男の背後から奇襲をかけた。巨大な音叉で、一撃の元に撲殺する――、

ガキィン、と金属同士がぶつかり合う音がした。

「!!?」

フー・シャーは驚愕に目を見張った。

「き、貴様はッ!」

男は心外そうに言った、

「……貴様? 生憎私にはちゃんとした名前がある」

その名前などフー・シャーは耳にタコが出来るくらいに聞いていたし、知っていた。何せ、得物で分かる。あの悪名高い『ソードブレイカー』で己の音叉を受け止めたのだから。

強制執行部隊アクセス・ゼロ副長ヴィクター・エイムズ! く、クソ、やはり過激派と『デュナミス』が結託していたと言うのは事実だったのか!」

聖教機構の敵対組織万魔殿の過激派と、『デュナミス』が通じ合っているらしい。それは未確認の情報であったが、この男が今ここに現れた事で確実な情報となった!

「少し勘違いをしているな。 我らはただジュリアス様の命令に従うのみだ。 全てはジュリアス様の意のままに。 それ以外に我らの忠義は無い!」

「どうしてここに貴様がいる!?」

「ジュリアス様が少々試してみたい事があるとおっしゃった」

次の瞬間であった。天井のスプリンクラーがいきなり作動して、フー・シャーに水を浴びせかけた!仕掛けられた罠が作動したのだ。

「な、何をッ!?」

驚くフー・シャーに、ヴィクター・エイムズは淡々と言った。

「『シボレテ』だ。 『死歌レクイエム』のフー・シャーよ、貴様ほどの精神力を持つ元特務員が、一体何分何時間で完全に『シボレテ』に侵されるか、それを確かめたいとジュリアス様はおっしゃった」

「!」

『シボレテ』――それは高等生物思念反応型ウイルスで、過激派首領ジュリアスに好意を持たぬ者全てに水を媒介にして感染し、一日以内にジュリアスに忠実なゾンビに変えると言う恐ろしい毒性を持つ――。

フー・シャーは、絶叫した。

「嫌だ!」


 アズチェーナは嬲り殺しにされていた。今や彼女は全身が血まみれで、負傷していない個所は眼球と口腔だけであった。手足を合わせて、残指も三本しかない。

「が、ひゅう、ひゅうぅ――」

力を使い果たして、補給しよう、と言うところを襲われたため、彼女はもはやろくに力を使えない。か細く呼吸をして、まるで芋虫のように地面にはいつくばるだけだった。

「あっれー?」シンドバッドはそんな彼女の頭を踏みにじる。「確かアズチェーナちゃん、君って『ウェルズリーの惨劇』を生み出した張本人なんでしょー? これっぽっちでくたばっちゃうなんて、予想外だったなー」

そして、ぎり、と足に力を込めた。

「あ、が」アズチェーナは己の頭が踏みつぶされていくのを感じた。「が、あ――!」

けれど直後、かすかな振動を感じる。それは地面がかすかに、人の体重で振動しているのだった。アズチェーナが這わせた植物の根がそれを感知している。

(も、もしかしたら、シャマイムさんが!)彼女は希望を抱いた。(だったら今、大人しく死ぬもんか!)

地面から生えてきた植物のツルが、シンドバッドの足に弱々しく絡みついた。

「あ、ウザーい」シンドバッドは、あっさりとそれを振りほどく。「最期の悪あがきー? ちょっと何か、可哀相だねー、君ってー」

シンドバッドが次の瞬間、何者かの体当たりでよろめいた。その背中には、カッターナイフが深々と刺さっている。

「痛いッ!」シンドバッドは地面に倒れて、じたばたともがいた。「痛いよー、痛いよー、誰だ、刺したのー!」

「あ」アズチェーナは視線を上に向けて唖然とした。だが、喉が切り裂かれているので、まともな声が出なかった。「あ……」

オーリンだった。オーリンは何も言わずに彼女を背負うと、脱兎のごとく逃げ出した!

けれど、ただの少年が、おぞましい化物から逃げられるはずが無かった。

「殺してやるー!」

カマイタチが、オーリンの頭に命中して、彼は、血をまき散らして倒れた。

「あ!」アズチェーナも地面に落ちて、ちょうど、オーリンのすぐ隣に倒れる。起き上がる力が辛うじてあったので、彼女はせめてシンドバッドから庇おうと、オーリンの体に覆いかぶさった。

「ああ、」とオーリンが苦笑するのが分かる。「フー・シャー先生、なら、助けられたの、かな……」

喋らないで、今すぐにシャマイムが来てくれるはずだから!アズチェーナは必死にそう伝えたかったのだけれど、オーリンは言う。どうしても言いたいんだ、と目が訴えていた。

「……僕の血を、吸って、君は、生き延びて、くれ」

「!!!」

アズチェーナは死なないでと叫ぼうとした。人の生き血を吸った事なんて彼女は一度も無かった。吸いたいとも思わなかった。けれど声が出なかった。

オーリンはニヤッと笑って、言った。それが最期の言葉になった。

「あのね、僕の、かつての、名前はさ、ロビン、って言ったんだ」

それは、かつて、任務で彼女が救った少年の名前であった。


『ありがとう』


あ。

あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


アズチェーナの中で、何かが、今まで彼女を押さえつけていた何かが、割られたガラスのように砕け散った。

 シンドバッドは、何か変な気配を感じて、今度こそアズチェーナの頭を踏みつぶそうと近づいていた足を止めた。

「あの白い兵器がもう増援に来たのかなー?」

ごくり。その時、何かを、飲み下す音がした。

「?」

シンドバッドは思わずアズチェーナを見つめた。アズチェーナは少年の上にまたがって、何かをやっていた!

ごくりごくりごきゅごきゅごきゅごきゅどくどくどくどくどく――ごくり!

アズチェーナが、ゆっくりと、うつむきながら振り返った。

「!」

シンドバッドは背筋に冷たいものを感じる。

アズチェーナの口周りが血の色で染まっていて、そして彼女の口には、まるで猛獣のような鋭い牙が生えそろって、鮮血にまみれていたから。そして、にょきにょきと切断したはずの指が生えてきて、傷口が塞がり、彼女はゆっくり二本の足で立ち上がった。うつむいていた顔が持ち上げられて、血走った目がシンドバッドを見据える。

「よくも殺したな」と彼女はまるで感情の無い声で言った。

何だこれは。シンドバッドは怯えた。何が何だか分からないが恐ろしいのだ!咄嗟にカマイタチでアズチェーナを切り裂く――!

けれど、地面から出現した樹木が盾となり、カマイタチを受けた。

「よくもこの人を殺したな」

シンドバッドは自分がその時には独自の生命体としては絶命している事を、後になって理解した。気付いた瞬間には彼は植物の中に取り込まれて、そして寄生されていた。生きた苗床にされていた。暴れようとしたが神経系が全て脳の時点で断絶されていたため、一切の抵抗が出来なかった。舌を噛む事すら出来なかった。

彼の外見は、もはや人型では無い。ぼってりとした、緑の植物らしきものの丸い巨塊である。視力がまず奪われた、次に聴力、触覚、味覚、痛覚、全てが奪われた。そして、じわりじわりと、彼の最後に残された自我に、脳みそに、植物達の根が、触手が、一本一本食い込んできて、少しずつ蝕み、跡形もなくぺちゃぺちゃと舐め、ざりざりと喰らいつくして行った……。

 生徒を襲う『デュナミス』を全て撃退し終えたシャマイムは、拳銃サラピスの残弾を確認しようとしたが、地震が起きたかのように体が上下に揺らぎ、背後から凄まじい地鳴りがしたため、その動作を中断した。

「!?」シャマイムは背後の光景が認識できなかった。

アズチェーナが生徒達の安全のために校庭をジャングルにしたのは知っている。

だが、これは、何だ!?

それはまるで、緑の巨大な塔であった。そして塔からは無数の巨大な植物の根が伸びて、それは地鳴りや地震を起こしながら校庭から街へと溢れ出している!緑が街を侵食する!

シャマイムはもはやこの事態は自分の認識外にあると判断し、この光景をマグダレニャンに中継した。

『これは!』マグダレニャンが息を呑むのが分かった。『「ウェルズリー事件」と同じ事が起きていますわ! アズチェーナが何らかのきっかけで「過剰放出」しています! アズチェーナを説得、それが出来なかったならば冷凍爆弾を投下し、植物のこれ以上の侵食を防ぎなさい!』

「了解した」シャマイムは戦闘機に変形し、塔に近づいた。

『アズチェーナ』拡声器で、シャマイムは呼びかけた。『応答を要求する!』

「……シャマイムさん」

塔のてっぺんに、彼女がいた。血の涙を流しながら、少年の遺体を抱きしめて。シャマイムは彼女がいつもの包帯で体を日光から隠した姿をしていなければ、彼女だと即座には分からなかっただろう。いつもはがりがりに痩せていたのに、今の彼女の体は、成熟した女性の、それであった。

「あたし、また、守れなかった……!」

『……アズチェーナ』

「分かっています、分かっています、でも、今のあたしはこのあたしをどう止めたら良いのか分からない! ウェルズリーみたいに、体力が尽き果てるまで暴走するしかない! あたし、あたし――!」

『……麻酔を投与する、アズチェーナ』

「そうですね……そうして下さい……あたし、あたしを許せそうに無いんです……だから……今は……無理やりにでも大人しくさせて下さい……」

シャマイムは、彼女の側に降りると、人型に戻り、彼女の腕に注射器を刺した。


 『僕』が『僕』じゃなくなる。

かつては天才と呼ばれて、思い上がっていて、でもバイオリンを弾く事だけは大好きだった傲慢な僕。

腕を失い、再生治療は受けたのに、そのバイオリンがまともに弾けなくなって、ショックのあまりに自殺未遂を繰り返した哀れな僕。

それがあまりにも酷かったので、友達を全員無くした愚かな僕。

そこをウルリカに救われて、恋をして、結婚を申し込んだ、幸せな僕。

仕事も見つけて、同僚が出来て、修羅場も潜ったけれど、充実していた僕。

そして――、

思い出せない!

『ジュリアス』

とても大事な事なのに、最近の記憶から、どんどん書き換えられていく!

嫌だ!

『ジュリアス』

嫌だ!

『ジュリアス』

僕は、記憶を忘れたくなくて、肉体に刻み込もうとした。爪で自傷行為をするこの姿はとても滑稽だけれど、でも、僕は、必死に腕に爪で刻み込む、僕の名前と妻の名前と、それから、それから、

『ジュリアス』

「ふむ、想像以上に早いな」誰かの声がした。でも、僕はそれどころじゃなくて。「そうか、精神力の強さに『シボレテ』が過剰反応し、精神汚染速度もそれに比較して加速的に早まるのか」

……どんどんと思い出せない事が増えていく!記憶は削られた空白で残る!

『ジュリアス』

嫌だ!僕は、僕は、僕は、ぼくは、ぼくは、BBBBBBBBBBBBBBBBOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKう、HA、

『応答を要求する!』

……だれ?

『フー・シャー、応答を要求する!』

わからないよ、わからないんだ!

「おや、増援がもう来るか。 だがまあ良い。 ジュリアス様へ報告するには十分だ」

だれかのけはいがきえた。ぼくはもう、うでにきざみこんだもじがよめなくて、ぼけーっとそのきずあとを、みつめていた。あかいえきたいがたらたらながれている。

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』

『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』『ジュリアス』


ぼくのあたまのなかは、そのことばで、いっぱいで、あふれだしそうだった。


「フー・シャー!」

ええと、だれ?

でも、ぼくは、でも、そのとき、おもいだした。

けりたおされて、たおれるうぇでぃんぐけーき、とびかうひめい、でもそれをすんでのところでささえてくれた、だれよりもしんせつな、あいつのことを。

「しゃまいむ」ぼくは、さいごのぼくは、いった。「ぼくをころしてくれ」


 「フー・シャー!?」

応答が無いため、急ぎ駆けつけたシャマイムは、元同僚の言葉に仰天した。元同僚は、まるで子供に戻ってしまったようだった。

「ぼく、しぼれて、にかんせんした、ぼくが、ぼくで、あるうちに、ころしてくれ……」

「……」

「はやく、ころして……あ、ああ!」だが、その時、一瞬だけ、その目に理性と知性が戻った。「みんなに……ごめんねって……あと、うるりかに、たんさんすいを……」

そして、フー・シャーは、狂ったように次の言葉だけを、シャマイムが何を呼びかけても繰り返すようになった。

「じゅりあす」

シャマイムは、マグダレニャンに判断を仰がなかった。その時間が無いと判断したのだ。

イエス。 ……了解した、フー・シャー」

シャマイムは拳銃サラピスの照準をフー・シャーの心臓に定めて、引き金を引いた。


 「……そうですか」

マグダレニャンはシャマイムから報告を受けて、この手で殴れるものならアロンを殴り飛ばしたいとすら思った。シャマイム達は取った行動こそ適切であったが、上官アロンの命令に違反してしまったのである。しかも民間人の被害も出してしまった。アロンは間違いなくその責任をシャマイムとアズチェーナに押し付けて、自分は責任逃れをするだろう。だがシャマイム達は何ら悪くないのだ。破綻している計画を立てたアロンが全て悪いのだ。

だが、他の聖教機構幹部がどう思うかなど、今の時点で分かりきっている!

それに、フー・シャー。

身重の妻を残して死んだ、音楽学院の教師にして、彼女の元部下。

彼の無念を思うと、マグダレニャンはアロンへの怒りがますます激しくなった。

「フー・シャーの遺体を回収なさい。 『シボレテ』のワクチンを開発するためにも。 シャマイム、それから、貴方にはしばらく自由行動の時間を与えます」

『ボス?』シャマイムは不思議そうな声を出した。いつもの無機的な機械音声ではあったものの。

「シャマイム、アズチェーナ共に命令違反の処分が下るでしょう。 それまでの、執行猶予ですわ。 フー・シャーの配偶者に、知人に、彼の最期について伝えに行くには辛うじて足りるでしょう」

『……了解した』


 ウルリカは呆然としていた。夫が死んだと言う知らせが来て、葬儀やら何やらでてんやわんやで忙しかったのだが、彼女は泣く事も出来なかった。あまりにも突然だったからだ。それに彼女の夫は、並大抵の事では死なない強者だった。

つわりで苦しんでいた事すら忘れて、彼女は、ただ、空虚の中にいる。

葬儀も終わり、小さな家の中に彼女が一人きりになった時だった。

玄関のベルが鳴らされた。

彼女はふらふらと玄関のドアを開けた。

「あら、貴方は……確か……シャマイムさん?」

倒れかけたウェディングケーキを必死で支えてくれた、夫曰く、出会った中で一番の善人、の兵器がそこにはいた。

「是」と玄関前に立っているシャマイムは答えた。「譲渡するべき物品と伝達事項のために来た」

応接室にシャマイムを通して、彼女はシャマイムと対面して座った。

シャマイムは真っ先に言った。

「フー・シャーを殺害したのは自分だ」

ウルリカはその言葉がよく飲み込めなかった、今の彼女は本当に正気の中にいなかったのだ。

「フー・シャーは敵の生体兵器に感染し、治療方法が一切無かったため、殺害するのが最も適切だと判断した」

「そう、なの……」

つまり、シャマイムも夫を殺したくて殺したのではない、と言う事だけ、分かった。けれどそれには感情がともなわなかった。まるで他人事のようだった。

「そして、これが譲渡品だ」とシャマイムは小さな電子オルゴールを取り出した。「フー・シャーが演奏した自作の曲を自分の記憶媒体から抽出した」

「え……?」

オルゴールが鳴りだした。素朴だけれどとても優しい、心にしみる曲だった。ウルリカはいつの間にか泣いていた。彼女を現実に引き戻したのは、音楽であった。

「フー・シャーはこの曲についてこう発言していた、『自分の子供が生まれたら、子守唄代わりに聞かせてやりたい』と」シャマイムは言った。

ウルリカの返事は号泣であった。

「……彼の遺言は、謝罪と、貴女にこれを届けるようにと自分への依頼だった」

ウルリカは炭酸水の瓶の詰まったプラスチックの箱を見て、もはや、わあわあと子供のように泣いた。

何もかもがもう遅かった。彼女の優しかった夫は死んでしまったのだ。悲しかった。さみしかった。けれど、オルゴールの音が、彼女を辛うじて負の感情から救っていた。その音色は、彼女の心にそっと入り込み、囁くのだ、僕はまだ生きているよ、と。どうか君も生きてくれ、と。

彼女は決心した。何が何でもこのお腹の子だけは産んで、育ててみせる!と。

「……ありがとう」

真っ赤な目をして、彼女はシャマイムにお礼を言った。


 いつも子供のように元気であったピエリ老人はまるで死にかけの老人のよう、マルグリットの方は泣きじゃくって手が付けられない状態であった。

リエンツィ聖音楽学院の校舎はアズチェーナの「過剰放出」の直撃を受けて半壊状態で、しばらくはとても講義など出来ない有様であった。更にシボレテを消毒するまでは完全に立ち入り禁止にされていた。仕方なく生徒らは姉妹校のローエングリン聖音楽大学の講義室などを間借りする事になっていた。

ピエリ老人達は、そこでシャマイムと会って、フー・シャーの死を知らされた。

「せんせい」マルグリットはその言葉ばかり繰り返している。「せんせい、せんせい、せんせい、せんせい!」

「本当に嫌なものじゃのう……」ピエリ老人は、呟いた。「生きるべき若者が死んで、死んでも良いような老いぼれが生き延びてしまうなど……」

「……」シャマイムは何も言わない。

老人は、やがて、もう一度だけ言った。

「もう一度だけ、女史に一緒に土下座するような事をしでかしたかったなあ、フー・シャー君よ……」


 アズチェーナはヘルヘイムに一週間の禁固刑、シャマイムは兵器として不全で不適切な思考回路を改良するためにラボ入り。彼女らに下された処分はそれであった。

だが特務員達からの猛反発が発生した。特にシャマイムの思考回路を変えると言う処分命令には、もはや和平派特務員が総集結しての大反乱が起きかねないほどの抗議が殺到した。

「アイツに限ってそんなのはおかしい!」

「シャマイムに限って命令違反だなんて余程の何かがあったのよ!」

「アイツの思考回路を変えるな! アイツは良いヤツなんだ!」

「本当に良いヤツなんだよ、それを改悪するな! しないでくれ!」

 ――「減刑嘆願の署名、こっちは三〇〇。 そっちは?」

セシルが血相を変えて訊ねた。ベルトランは無言で分厚い紙の束を突き出し、

「七〇〇名だ。 貴様はもっと仕事をしろ!」

「おう、やってくる!」セシルは特務員の会議室を飛び出して行った。

和平派特務員は、今、会議室に緊急集合して、シャマイムを助けるために必死に活動している。署名を集めたり、聖教機構の幹部らに減刑嘆願のために直訴に行ったり、とにかく必死だ。

けれど、一人だけ、この場におらず、しかも何もしていない男がいた。


 ……I・Cは、例のごとく酒場で酒を飲んでいる。

彼の影から、耳障りな声がした。咎めるような口調で、である。

『I・C殿。 貴方様はお仲間が処分されるのに何もなさらないのですか!』

「ムールムール」I・Cはどうでも良さそうに、「俺、今、祝杯を挙げてんだぞ?」

『何の祝杯ですぞ?』声の主、悪魔のムールムールは怪訝そうに訊ねる。

「フー・シャー死亡記念、乾杯ー!」

『……』声は、黙り込む。

「大体俺は警告したじゃねえか、『行くな』って。 それなのに今更どうしろと言われてもな、ぎゃははははははははは!」

『とは言えですぞ……個人的にも、あの優しいシャマイム殿が人格改造されるのを、黙って見ているのはとても堪えられない事ですぞ……』

「ヤツはもっと攻撃的になった方が良いんだ」I・Cは言った。「否、凶悪になるべきだ、兵器なんだからな!」

『そんなシャマイム殿はシャマイム殿では無いですぞ!』

「それこそが本来の、そして俺の理想とするシャマイムなのさ」

I・Cは何か、夢を見ているように憧れを含んだ口調で言う。

「殺して殺して殺して殺して死なせ、そして俺をも殺して死なせてくれれば、俺はこの終わらない悪夢からようやく……」

『I・C殿……!』

「救世主なんか二度と来ない。 この世界に救いようなど微塵もありはしない。 全人類が滅亡し、全生命が絶滅し、そしてこの星が破壊され無限の宇宙に消えて、その宇宙すら遠い未来に終わる……俺はその日が恋しい。 俺はその日が待ち遠しい。 この物質世界に終止符が打たれれば、なあ? 全ての罪過は消える。 死と終わりと絶望のどん底こそが、真実の、唯一の救いだ」


【ACT二】 ウィッカーマン


 俺は、親父に息子として愛された、と言う記憶が無い。

虐待をされた、のだろうか?いや、違う。親父は俺への憎しみすら無かった。親父は俺を徹底的に無視しようとした。俺の事を何も考えまいとしているようだった。俺は、親として最低な人間だとか、色々と親父を責めたが、その原因を親父が死んだ後に周りの人から聞いた時、それがあまりの事だったので、もはや親父は責められなかった。

俺の母親は親父が愛していた女を殺し、更に親父の親友の命まで脅して、無理やりに親父を夫にしたのだ。

親父が俺を徹底的に無視したのは、俺を憎まないためだった。憎い女の血を引く俺を憎みたくなかったから、無視したのだ。ちなみに俺の母親は、親父にいつまでたっても本当の意味で愛されない事を悟って、俺がいたのにほとんど自殺に近い形で死んだ。

でも、俺は幸い、俺を代わりに愛してくれる人には大勢恵まれていた。

生意気な小僧だと言いながらも、笑って俺の頭を撫でてくれる人が、大勢いた。

誕生日には両手に余るほどのプレゼントの箱が枕元に置かれていたし、姉さんと呼んでいた人の焼いたクソ不味いケーキを朝飯代わりに無理やりに食べさせられた。食べないと姉さんが殴って来るのだ。昼食はシチメンチョウのグリル焼き。これは俺が母さんと呼んでいた人の作成したもので、非常に美味しい。ただ、少しでも行儀が悪いと爪で思いっきりつねられるので、俺は母さんも恐れていた。夕食は、闇鍋としか形容の仕方のない、謎の肉と謎の物体が煮込まれた、実験シチュー。不味くは無いのだが、正体不明のあのシチューが俺は怖かった。これは婆さんが作ったもので、一度俺が「何の肉なんですか」と聞いたら、気味の悪い笑顔で「そんなに知りたいかい?」と言われて、俺は即座に首を左右に振りたくった記憶がある。俺は孤独では無かっただろうと思うし、さみしいと思う暇すら無かったような記憶がある。暇さえあれば姉さん達のオモチャにされたし、反抗期には俺は一人になりたいんだ、一人にしろと怒鳴った記憶もあるから。

 一度だけ親父が、俺と話をした事があった。親父が死ぬ事になる、ほんの少し前だった。

「お前は、俺が憎いだろうなあ」と親父は苦笑した。「でも、いつか、この俺自身も、その憎しみさえも、強くなったお前が超えてくれる事を、俺は願っている」

「……」俺は無視した。当時反抗期だった俺は、いつも以上に親父を毛嫌いしていたからだ。親父は、そうだよな、と言って――出かけて行った。聖教機構の最高権力者、聖王と恒久和平条約を締結するために、行ったのだ。

そして発生する、『BBブルーブラッド事件』。

親父も聖王も取り巻きも全員が条約の締結現場で行方不明になった、世界を揺るがす一大事件。万魔殿と聖教機構の両最高指導者が、行方不明になり、やがて死んだと認定されたのだ。

俺は悲しいとは思わなかった。ただ、変に思った。親父は強かった。百戦錬磨の強者が挑みかかろうと、暗殺者共が不意打ちしようと、一個大隊の軍隊に強襲されようと、返り討ちにできるだけの力を持っていた。

その男が、どうして――。

否。

親父がいくら強かろうが、殺す方法など手段を問わねばいくらでもある。

俺はそれが許せなかった。親父は強かった、それだけは絶対的な事実なのだ。

それを倒したヤツと倒された親父が、俺にはどうしても許せなかった。

俺は親父が死んだとされてから、戦いの道に身を置いた。

そして闇雲に、戦ってきた……。

けれど、そんな俺の前に、JDジェラルディーンと言う帝国の高貴な貴族が現れて、俺の友達になった。

JDは俺に問いかけた、何のために戦うのか、と。

俺は何のために戦うのか。

……。

まだ、その答えは、見つかっていない。


――だが、今の俺が取るべき行動は一つだ!


瞬間転移して背後を取り、双子の首筋に長刀を突きつける。

「貴様らは誰で、何が目的だ」俺は問い詰めた。

「あっちゃー、しまったね、お兄ちゃん!」

双子の妹……は何ら怯えていない様子で言った。兄も、

「そうだね、グレーテル、どうしようか」

俺は刃をぐいと肉に少し食い込ませて言った。

「俺の質問に答えろ」

「分かったよ、お兄さん。 僕達の名前はヘンゼルとグレーテル、目的はね、お金と魂の雫を集める事だよ」双子の兄は答える。だが、それは双子の知る真実を隠す『蓋』のようなものだと俺にも分かる。

「魂の雫? それは何だ!」

「えーっとね、命のエネルギーって言えば良いの? とにかくね、お金とそれをいっぱい集めてきなさいってラファエル様がおっしゃったんだ。 別に良いでしょ? ここは万魔殿の捕虜収容所で、死んでもお兄さん達にとって悲しい人なんかいないんだし」兄のヘンゼルは言った。

「ラファエル……あの、大天使ラファエルか!?」

それは今の俺達万魔殿穏健派の宿敵、万魔殿過激派と癒着していると言う世界最悪の暗殺組織『デュナミス』を率いていると言う化物の名前だった。俺は驚く。

「様を付けてよ、呼び捨てなんて最低!」妹のグレーテルはむくれたが、場違いにも程がある。

「金とそれを集めて、貴様らは何をするつもりだ!」

「分かんない。 いや、本当にね、知らされていないんだ。 でも僕らは、ドクター・ラファエル様のために、そうするだけさ」

「そうか」俺は長刀を一閃させた。グレーテルの首が飛び、体が倒れる。「では聞く。 貴様らはどうやって魂の雫とやらを集めた?」

「お兄さんって残酷だね……」ヘンゼルは動揺すらしていなかった。「まあいいや、じゃあ、魂の雫の集め方を実演してあげるよ! グレーテル、連れてきて!」

「はーい、お兄ちゃん!」首なし死体が起き上がると、首を掴んで切断面に乗せた。そしてとことこと歩いていき、部屋のドアの向こうから、鎖で縛られた若い女を引きずり出した。俺はぞっとした。その、気絶している女は、

「オデット!」俺は思わず叫んだが、遅かった!

「「それじゃあ!」」

俺の背後に燃える大きな人形が登場した。オデットはその中に吸い込まれた!

「「行くよ、『供犠焼殺人形ウィッカーマン』!」」双子は声を揃える。

「あ、ああ!?」オデットの戸惑いの声がした。「こ、ここは!? あ、熱い! 熱い! きゃああああ!」

「オデット!」

俺は瞬間転移して、燃える人形の中に飛び込んだ、そしてオデットを抱きかかえて脱出する。

「あれ?」とヘンゼルが怪訝そうな顔をしていた。「お兄さん、やり方を知りたいんじゃなかったの?」

「と言うか、その女と知り合いなの?」グレーテルは呆れたように、「危険を冒してまで女の人を助けちゃうなんて、まるで白馬の騎士気取りだね!」

そして双子は申し合せたように、

「「つまんなーい!」」と言った。

「オデット!」俺は酷い火傷を負っているオデットに呼びかける。だが、目は閉じられたままで、呼吸も浅い。俺はそっとオデットを寝かせると、双子に向き合った。

「あ、ちなみにお金はね、所長に不老不死をあげる事と引き換えにもらう事にしたんだよ!」ヘンゼルは俺の眼光にも全くひるまずに、むしろ余裕たっぷりに言った。

「お兄さんも不老不死になりたくないの?」グレーテルは甘い声を出したが、それを聞いた俺は反吐が出そうになった。

「断る。 俺は、そんな化物に落ちぶれたくは無い!」

長刀を構えて、俺は双子と対峙する。

「そっかー」ヘンゼルとグレーテルは、交互に言った。

「じゃあ」

「焼き殺しちゃおう!」

「お兄さんの魂の雫」

「もらっちゃおうっと!」

俺は、燃える人形の中に吸い込まれた。だがこの程度で俺が殺られるものか。俺が瞬間転移しようとした、その時、だった。

「え」

双子の驚きの声と、何者かが動く気配がした。

「消えた!?」

ザシュッ。

「きゃあ、お兄ちゃ――」

グシャッ。

そして物音がしなくなり、直後、俺は元の部屋にいた。燃える人形が消えていた。

「ああ」あのオデットが、あの傷で、恐らくは動くのもやっとだっただろうと思うのに、うずくまっていた。その両隣には、絶命したヘンゼルとグレーテルの死体が転がっている。「無事で、良かった、オットー……!」

「どうして助けた!」

「違うわ、『ウィッカーマン』を作動させて、いる時のみ、この双子から、不老不死性が失われる、みたいだったの。 今しか、無かったのよ。 ……みんな、次々、私達の、目の前で、焼き殺されて、いったわ……でも、恐慌状態に、陥った、一人が、双子に、襲い掛かって、怪我を、負わせたの……すぐに彼も、焼き殺された、けれど」

「……何故それが俺に伝わらなかった!」

「看守に、いくら訴えても、囚人の妄想として、相手になんか、されなかったわ」

「オデット、それ以上喋るな! すぐに医者に――!」

気配。だが銃弾が俺の体に当たるより早く、俺は振り返りざまに長刀を一閃させていた。銃声。この捕虜収容所の所長ヘルベルトが胴体を斜めに切られて倒れる。だが、まだ、生きていた。すぐに傷は塞がり、立ち上がる。ただの吸血鬼にあるまじき生命力、再生能力だった。ヘルベルトは薄笑いを浮かべて、

「……オットー君、君もとんでもない男だね。 流石はかの大帝の息子だな。 まさか『ヘンゼルとグレーテル』を倒してしまうなど……驚きだ」

「貴様はこの捕虜収容所の囚人が焼き殺されるのを歓迎していた上に、金まで流していたのか」

「だって、私は不老不死になりたかったんだ、その代償には仕方が無いだろう?」

「そうか」俺は、ぶん、と腕を大きく振った。

「ぐあッ!?」ヘルベルトが長刀で壁に縫い留められる。否、壁に固定された。心臓は貫いたのだが、まだ生きていた。余裕の笑みを浮かべて、「む、無駄な事をするね、オットー君、やはり君は、評価こそ高いものの、まだまだ若輩だな!」

「いや」と俺は部屋の隅のコンセントをちょっと細工して、そこから銅線を引っ張った。ヘルベルトの顔が強ばる。「ちょっとやそっとではと言うのは、実にありがたい事だ、何せ、ちょっとやそっとではのだからな!」

俺は長刀の鋼の刃に銅線をつなげ、瞬間転移した。

「!!!!」通常ならば感電死出来ているが、出来ないヘルベルトが全身から青い火花を散らし、煙を上げて痙攣する。どうやら悲鳴すら出ないようだ。

俺はそれを尻目に、オデットを抱きかかえて部屋から転移した。

 俺は、俺にこの調査を命じた万魔殿穏健派幹部マルクスさんに一切合財を無音通信で報告すると、医療室に戻った。オデットが火傷の再生治療を受けている。

医者は一週間ほどで回復するでしょうと言ったので、俺は、何故か、安心した。

安心してからその俺自身に驚愕する。

このオデットは、元『帝国』の貴族でありながら、己の父親も帝国の唯一絶対君主の「女帝」をも裏切り、ジュナイナ・ガルダイアを空爆させようとし、そして数多くの犠牲者を出した「ジュナイナ・ガルダイア空爆未遂事件」の首謀者の一人だ!俺の友達だったJDだってこの女達の所為で死んだも同然なんだぞ!

「何でだ……」俺は思わず頭を抱えて呟いた。


【ACT三】 神のために我はあり


 イリヤ・シードロヴィチ・ツァレンコは困惑していた。彼は過激派特務員の代表格であった。

彼が尊敬する過激派指導者シーザーが毒殺未遂で入院し、その間の己の全権代理人として指名したのが、ドビエルと言う名の女であった、そこまでは良いのだが、このドビエルと言う女のやる事なす事が、イリヤには訳が分からないのだ。

「過激派との戦争は、一時中断としましょう」とドビエルはやや女にしては低い声で言う。イリヤは驚いた。

「何故ですか! 過激派のような異端者共を絶滅させる事は、我らが聖教機構強硬派の至上使命でしょう!」

「シーザーが回復しない内に戦争を継続しても、勝てる見込みはありませんから」

「勝った負けたの問題では無い、異端者共をこれ以上跳梁跋扈させる訳には行きません!」

「無駄に戦力を消耗する事こそ我らが神の最も望まれていない事ですよ?」

……と言う訳で、イリヤとドビエルは一事が万事、ソリが合わなかった。


イリヤが忠実な対象が強硬派の教義であって、シーザーそのものでは無かったと言うのも不運であった。シーザーはあくまでも強硬派教義の体現者、神に忠実なる尊敬すべき信徒の一人、それがイリヤの見方であった。他の強硬派特務員達はシーザーの権威と権力に仕えていたのに対し、彼だけは純粋に強硬派の唱える唯一神を信じていたから、シーザーに仕えていた、と言う事実が彼とドビエルと対立する都度に判明するにつれて、彼は部下からの忠誠も同僚からの信頼も己から失せていく事を感じた。

部下も同僚もドビエルの、シーザーから継承した権力と権威に仕える事をよしとしたのだ。

一般に考えれば、イリヤの方こそ融通が利かなくて、部下や同僚の方が普通であろう。だがイリヤは運悪く理想主義者であった。そしてその理想のためにいつも戦ってきた。彼の理想とは、唯一神とその忠実な信徒の元、絶対的平等と永遠の平和であまねく統治された世界であった。


その理想は世俗の権威のために、排斥される事になる。


「もうアンタは」と彼の部下であった女、スージー・マクラミッツが蔑んだ口調でイリヤに言った。他の同僚や部下達のいる、会議室の真ん中で、である。「修道院に入るべきだと思うがね。 アンタに付いていくと出世なんかほぼ見込めないし、もう誰もアンタを支持しても尊敬してもいない」

この侮辱に、イリヤは耐えた。

彼は聖教機構屈指の名門に生まれていた。それこそヴァレンシュタイン家と並ぶ、名門聖職者の家系の御曹司として生まれ育っていた。彼は幼い頃から神学を学び、そしてその教えに心酔していった。そのずば抜けた戦闘能力もさながら、彼がまだ少年であった頃から、『聖王』は彼の才覚を見出して非常に可愛がった。だから彼は、その聖王を殺したとされる万魔殿に対して宗教上の理由と個人的な理由で、激しい敵対心を持っていた。その万魔殿と和平を結ぼうとする和平派など彼にとっては言語道断の存在であった。だから彼は強硬派の教義を熱烈に信じた。だが、彼の信仰心は現実にとっては邪魔なものでしかなかったのだ。それをイリヤは悟った。そうだな、修道院に入ろう、と彼は思った。もはや己の神への愛も信仰心も祈りも何もかも、この世界には必要とはされていないのだ。ただ――一つだけイリヤにとっては気になる事があった。和平派が現在、どちらかと言うと対過激派相手の戦争を決断しよう、と言う雰囲気である事を彼も知っていた。もしもそれが実行されたならば、己は、どうか、最前線で一兵卒として戦いたい。戦って、己の家柄に相応しく討死したい。それが己を可愛がってくれた聖王への恩返しであり、己の生き様を、信仰心を貫いた証であるような気がする。それまで、待とう。

イリヤは辞表を提出して、小さな田舎の教会の修道僧になった。彼ならばもっと華々しい司祭や司教と言った聖職者としての道もあったのだが、それは彼の信仰心が良しとしなかったのだ。

彼は毎日毎晩、熱烈に神に祈り、奉仕した。かつての敬虔な教徒の見本のような生活を送った。堕落と腐敗は彼の前から静かに立ち去り、ただ、一人の人間として神と向き合った。そうすると、彼の心は一点の曇りも無く澄み渡った。彼の心には神の声が聞こえていた。それは人間の言語では到底理解のできない啓示であったが、イリヤにはこう聞こえていた――人として、真っ当に生きなさい、と。

神よ。

人として真っ当に生きるにはどうすれば良いのですか。

簡単だよ。

愛しなさい。この世界の全ては儚いけれど、愛だけは違う。

愛とは何ですか、神よ。

受け入れる事、と一言に言ってしまえばちょっと雑な言い方だけれど、許す事、と言ったら君にも分かるだろうか。

己の敵をも愛せ、と言う事でしょうか。ですが私は――!

君は聖王が好きだった。名門の御曹司だからと言う理由では無く、君だからと言う理由で君を可愛がってくれたあの男の人を。だが、聖王を奪われた君の心にあるのは復讐心だ。それは、愛では無いよ。

……。

君がその復讐心を乗り越えられた時、君は本当に強くなる。


 イリヤは薪を斧で割っていた。彼のいる修道院は文明の便利な生活を否定し、素朴な過去の暮らしを歓迎していた。今週に必要な分の薪を全て割り終えてしまうと、彼は額の汗をぬぐい、森の方を見て、

「誰だ!」と言った。

「……ここは、懐かしい所だな」森の中からベルトランが姿を見せた。「まだこんな所が、今にも残っていたのか」

「何の用だ!」

「その前に。 ……五人、だ」ベルトランはそう言って、背後から人の生首を取り出した。「イリヤ、貴様を殺すために放たれた刺客の数だ。 どうやら強硬派は貴様を殺すつもりらしいぞ」

「それがどうした! 私は、神の敬虔な信徒として、喜んで殉教しよう!」

「……僕の生きていたあの時代にいたら、間違いなく聖人扱いだな」とベルトランは聞こえないように言って、「ボスからの命令だ。 貴様を味方に引き入れてこい、だとさ」

「断る! 私は、神は一人だけだと信じている! 和平派の教義など聞きたくも無い!」

「お前の信じる純粋な教義は素晴らしい。 ボスは、それは別に変える必要は無いと言った。 現にこの僕だって唯一神を信じている。 必要なのはお前のような力ある者が和平派特務員になる事だ、と勧誘に来た」

「断ると言っている! 私は、『護教者』イリヤ・シードロヴィチ・ツァレンコだ! 私はただ神にのみ従う!」

と叫ぶように言い、イリヤは背中をベルトランに向けた。

「……こんな男がまだこの今にも残っていたのか」やや驚きを含んだ声でベルトランは言った。「……なるほど。 ボスが『どうしても見殺しにするには惜しい』と言ったのも頷ける」

「あの女狐め! 異端者め! 私は異端者に首を垂れるなど断るぞ!」

「『イリヤちゃん、悪い事をしたらごめんなさいでしょ!』」

「!!!」

ベルトランの口から放たれた『誰か』の言葉に、イリヤは凍り付いた。がちがちに固まってから、振り返る。

「聞いたぞ、全部。 お前も小さい頃はボスやヨハン様と一緒に寝ていたそうじゃないか。 そしてお前だけが一四才を過ぎても寝小便」

「言うなあああああああああああああああ!!!」

絶叫してイリヤはベルトランへ突進した、ベルトランはまるで闘牛士のごとく、それを華麗にかわして、

「何だ、言って欲しくなかったのか。 じゃあ言おう、お前のから聞いた事を全て。 ……何でも告白は玉砕どころか粉砕されたらしいな――『おねしょする人なんて絶対嫌!』と」

「だァまァれェええええええええええええええええ!!!!!」

イリヤの手に雷槌ミョルニルが出現した。それは稲妻をまとって放電している。

「案外お前が強硬派になった理由と言うのは、振られた失恋の反撃だったのかも知れないな。 さて、今お前はその異端者に首を垂れないと過去の恥ずかしい記憶を全て暴かれるぞ。 それは死ぬよりも辛い事じゃあないのかい?」

「ぐぬぬぬ……!!!」イリヤは歯噛みして、「た、たとえあの女狐がどんな姑息な手を使おうと、私の信仰心は岩のように揺るがぬぞ!」

「いや」とベルトランは首を横に振った。「先に姑息な手を使ったのは、ドビエルの方だった」

「お兄ちゃん!」ベルトランの背後から、イリヤと同じ金髪の少女が、泣きながらイリヤに駆け寄った。「お兄ちゃん、あのドビエルは人間じゃないよ!」

「イリーナ!」どうしてここに、とイリヤが言いかけた時だった。

「和平派特務員が武力介入してくれなかったら、みんなお家ごと焼き殺されていた! おじい様も、おばあ様も、犬のジーマも! 私達は強硬派の神様を信じていたのに、そんなもの、ただの大義名分だって……! あの人達はおかしい! 神様なんかちっとも信じていなくて、ただ、絶大な権力に酔っている! お兄ちゃんも騙されていたんだよ! あの人達は神様の信者じゃない! ただの権力の亡者なの!」

「……」イリヤは、黙り込んだ。己が強硬派を追い出された理由を思い出して。


『アンタに付いていくと出世なんかほぼ見込めないし』


「それでも、私は……!」

神のために生きて死ぬ。それしか、彼には前に進む道が無いのだ。愚直と言えば愚直だし、頑迷と言えば頑迷であった。それでも彼は、自身の生き様を変える事など出来なかった。絶対に、出来なかった。ベルトランが言った。

「お前は本当に、中世に生きていたら生きながら聖人として敬われていただろうに。 ……お前の家族は和平派が保護する。 お前は、でも、もう、分かってはいるんだろう? 『それでも』と言ったのはお前が迷っているからだ。 お前も人間だからだ。 神のみが正しい。 だがその正しさはいつだって人間には本当には伝わらない。 だからお前は、ただ、祈れ。 己のためでもなく神のために祈れ。 そうすれば、きっと迷いは晴れるだろう。 『求めよ、さらば与えられん』……昔から人はそうして神と対話しようとしてきた。 迷っても、苦しんでも、どんな状況でも、だ。 神ありてこそ我あり。 お前もそうだ。 幸いボスからはこの任務の期限は定められていない。 いつでも良いし、いつまででも構わない。 じゃあ、僕とこの子は行く」

そしてベルトランはイリーナを連れて歩いて行く。

「……」イリヤは天を仰ぎ、それから深くうな垂れた。

その時、であった。

羽音と共に白いハトが彼の前に現れた。はっとイリヤはハトを見た。

彼が思わずそれに手を伸ばした直後、そのハトは天上へと舞い上がって行った。

驚くほど青い空に、白いハトが吸い込まれて行った……。

「待て!」

イリヤは、ベルトランらの後ろ姿に、思わずそう声をかけていた。


 「大丈夫だって!」とエステバンは胸を張って言う。「結果なんかねつ造すれば良いんだ! シャマイムの人格を改造するだなんてクビにされたって僕ぁ断る! それは改悪と言うんだ! 第一そんな事をしたら僕ぁ特務員のみんなに袋叩きの目さ! 大体何だ、事情を聞けばシャマイム達はなーんにもちーっともどーっこも悪くないじゃないか! 学院の生徒をみんな守ろうとしなかったアロンの馬鹿が悪いんだ!」

「それは推奨できない。 万が一露呈した場合のエステバンの危険度が、」と言いかけたシャマイムを遮って、跳ねまわりながらこのマッドサイエンティストは叫んだ。

「それ見ろ! こんな自己犠牲的なまでの善人を悪人にしろだなんて! 命令の方が間違っている!」

だが、その時、ラボに入ってきた男がいた。アロンであった。

「おいエステバン」と命令口調でアロンは言った。

「何だよ!」エステバンは喧嘩腰に叫んだ。「僕ぁ今忙しいんだ! 出て行け!」

「どうせ貴様の事だ、手抜き処分をするだろうと思ってな。 適材を連れてきた」

そう言ったアロンの後ろから、シェオルが姿を見せる。

「はーい、シャマイムお兄様。 お久しぶりですわね! ちゃんと人格を改造して差し上げますわ!」

エステバンが青くなった。このシェオルは、聖教機構和平派でなく聖教機構の強硬派が所有している精神感応兵器だからだ。

「アロン! アンタ、強硬派と繋がっていたのか!?」

「いいや。 このクソ兵器の人格を変える適材ならば、どこの誰でも良かっただけだ」アロンはにやにやと笑って言った。

「このゴミ野郎!」エステバンが喚いた。「アンタぁI・Cと同等だね! いいやI・C以下だ! だってI・Cは僕らに対して命令権なんざ持っていないもの! 僕にもしも権力があったらアロン、テメエを閉鎖監獄ヘルヘイムに真っ先にぶち込んでやったのにさ!」

「何だとう!?」アロンは激高した。「貴様はあの『一二勇将』の血を引いているからと、少し思い上がっているようだな!」

ぱちんとアロンが指を鳴らすと、ラボの扉が外からぶち壊されて、エインヘリヤルが登場する。

『アロン様、何ナリト、ゴ命令ヲ』

「アイツを殺れ」とアロンは片手の親指を下に向けた。

「!!!」エステバンが真っ青になった。本当に殺られると悟ったのだ。

「待て」と間に入ったのはシャマイムだった。「アロン、貴殿の目的は自分の人格改造だ。 エステバンの殺害はそれとは大きく乖離している。 早急に自分の人格改造を終え、ラボより退去する事を推奨する」

「シャマイム!」エステバンが悲鳴を上げた。

口だけの自分がアロンに喧嘩を売ったと言う愚かな状況で、シャマイムの性格を考えれば、シャマイムがこの行動を取る事は分かりきっていたのに!

だが、もう手遅れであった。

「うふふふふ」シェオルがにっこりと微笑みながら、シャマイムの額に己の額を押し当てた。「シャ・マ・イ・ム・お・兄・様。 たっぷり変えて差し上げますわね!」


 ……赤ん坊の泣き声がする。

これは……産声?

誰の赤ん坊の産声だろう?

いや、これは……。

産まれる事無く殺された、わたしの、××××、の。


 「俺自殺しようかなあ、シャマイムがシャマイムじゃなくなるなんて、俺、本当に死にたくなってきた」

和平派特務員会議は、末世的であった。セシルが思わずそう言った。

「直訴もダメ、減刑嘆願署名もダメ、ストライキもダメ、こうなったら反乱よ!」

ニナがヒステリックに叫び、双子の妹のフィオナにたしなめられる。

「……姉さん、それは、シャマイムが一番望まない事だよ」

「じゃあ、どうしろって言うのよ!」

「落ち着きたまえ。 きっとエステバンだって我々と同じ思いだ、きっとにしてくれるに違いない」

ランドルフがそう言った時、通信が入った。モニターにわんわんと泣きじゃくっているエステバンが登場して、

『もう僕ぁ虫けらみたいにぶっ殺されるべきだあああああああ!!!』

「何があった!?」ベルトランが問い詰めるまでもなく、エステバンは事情を泣きじゃくりつつ話した。

……特務員達の間に、沈黙と、絶望が流れた。

そこに、

「シャマイムの改造、終わったかー?」

I・Cが酒の臭気を漂わせて登場する。足取りからして、相当飲んだらしい。

「貴様何をやっていた!」ベルトランが叱責した。「シャマイムの危機だと言うのに!」

「ん? フー・シャー死亡万歳!って事で陽気に飲んできた。 こんなに楽しい酒は久しぶりだった」

「このゲス野郎!」ニナが絶叫した。「フー・シャーを殺すしかなかったシャマイムの気持ちや、フー・シャーの奥さんの心情を考えなさいよ!」

「もう考えたって手遅れじゃないか? だって、死んだヤツは死んだんだし、シャマイムは人格改造されたんだしー、ぎゃはははははは!」

「I・C」ランドルフが殺意を剥き出しにしてI・Cに詰め寄った。あまりの気迫に他の特務員らが怯んだほどであった。「貴様は、シャマイムを、どう思っているのだね?」

「介護要員。 奴隷。 便利屋。 だって実際そうじゃん」

ランドルフの手に、大鎌デスサイズが握られた。

「よろしいI・C、ならば私は貴様の首を刈る!」

「お、落ち着け、落ち着いてくれ、ランドルフさん!」セシルが必死にランドルフを止めた。「こんな屑、貴方が殺す価値も無い!」

I・Cは呆れた様子で言った。

「だからー。 ランドルフ、お前なら分かっているだろ? 俺は死ねないんだって。 無駄だって、無駄無駄。 それにしてもアレだ、シャマイムも馬鹿だよなあ? 見殺しにすれば良かったんだ、学院の生徒なんざ。 アロンにへいへいと従っていれば良かったのに。 強いヤツには媚びる、弱いヤツには威張る、これが世界の常識だろうに。 馬鹿は死ねば良いんだ」

「うわッ!」セシルが咄嗟に巨大な獣に変身し、必死にランドルフを押さえつけた。ランドルフがついに大鎌をぶん回して暴れそうになったからだ。

「止めるなセシル! あれだけ世話になっておきながら、シャマイムを見捨てるこの男だけは! 素っ首を刈らねばならない! 絶対に許しがたいのだ!」

温和なランドルフが咆哮した。誰もが怯えたが、I・Cだけは、

「まあ落ち着けよ、『死神』。 シャマイムなんかどうせたかが兵器なんだ、そんなに熱くなるなよ。 それともお前は、シャマイムの事が好きなのか?」

「生憎だが、和平派特務員の中でシャマイムが嫌いな者に出会った事が無いな、私は! ……セシル君、放してくれ、さもないと私は君をも殺しそうだ」

『ランドルフさん、お、お、落ち着いて下さい! 俺は別に死んでも良いですが……かつてのシャマイムだったら、きっと、俺を殺したランドルフさんに対して怒るでしょう』

「……」

ランドルフはようやく大人しくなった。セシルは人形に戻るが、へたり込んだ。

特務員が声も無く黙り込んでいると、ドアが開いた。誰もがそちらを見て、いっせいに叫んだ。

「「シャマイム!」」

白い小型の人形兵器が歩いて入ってきたのである。

「シャマイム、大丈夫!? 大丈夫!?」駆け寄ったニナに、シャマイムは言った。

「是。 自分に問題は無い。 自分は和平派所有試作機トライアル自律自動型可変形兵器オートトランスフォームロイド機体名称シャマイムだ」

「……シャマイム!」思わず涙ぐんだフィオナに、シャマイムは言った。

「自分の人格プログラムの変更点は、以前と大差無い。 強いて変更点を挙げるならば、『効率性』の追求により忠実になり、『任務遂行』のために以前より適切な行動を取る事を第一優先事項と見なす点だ」

「良かった……シャマイム……」誰かが、思わずそう呟いた。

だが、この男だけは違った。

「……何嘘ついてんだ、シャマイム? お前からは俺への殺意だの敵意だのをひしひしと感じるぞ? まあ良いさ。 それで良いんだ。 お前は兵器、殺して破壊する、それが至上使命だからな。 で、シャマイム、酒買ってこい」

I・Cが、そう言ってのけたのだ!

この言葉に、特務員達が完全にキレた。

「……やばい、俺、I・C限定の快楽殺人鬼に、今ならなれそうだ……」

そう、特務員の誰かが言い、

「私も!」

「僕も!」

「俺だって!」

次々と賛同者が出て、止める者は誰もいなかった。かつてだったならば止めたはずのシャマイムも、人格プログラムが改造されたために止めなかった。シャマイムは任務遂行のために特務員全体の総意と士気を、煮ても焼いても問題ないI・C個人の身の保安よりも重視したのだ。

「どうするコイツ、焼くか?」

「延々と水責めってのもアリだわ」

「電流で黒焦げにしてやりてえ」

「内臓えぐって痛めつけられるだけ痛めつけてやりたい」

「どうせ死なないんだから何したって良いよねー」

「おい、テメエら、」と言いかけたI・Cのこれからは、決定していた。「ちょ、おい、何を、」


 「あら?」と外から煙が立ち上っているのを窓越しに見たマグダレニャンは何事だろうとランドルフに訊ねた。「嫌だわ、火事ですの?」

「ああ、いえ、単にI・Cを特務員が総出で焼いているだけです」ランドルフはにこやかに答えた。マグダレニャンは納得して、微笑み、

「火の後始末だけはちゃんとしなさいと伝えなさいな」


 イリヤは聖典を読んでいた。彼は、任務時以外は、聖典かもしくはそれの注釈書を愛読していた。もうぼろぼろの聖典の文面に、彼はじっと目を落としている。

「あのう」とそんな彼に声をかけたのは、ローズマリーであった。イリヤはうっとうしそうに顔を上げる。「信じていれば、神様は私達を救って下さるの?」

「神は我々のために存在しない! 我々が神のために存在するのだ! 人間ごときが信仰心を代償に神へ救いなど求めるべきでは無い! 全ては神の意のままに世界はあるべきなのだ!」

「凄い考え方ねえ……」ローズマリーは目を丸くして、「でも、それこそが、信じる、と言う事なのでしょうね。 イリヤさん、お邪魔をしてごめんなさいね」

「……」イリヤは答えない。もう彼は聖典に集中している。


『イリヤ。 今の君の年では少し難しいだろうが、君ならば本当の意味で神に仕える事が出来るんじゃないかと思ってね。 ほら、聖典のプレゼントだよ。 私にも出来なかった事を、君ならば間違いなく出来る。 私なんぞ「聖王」などと呼ばれているけれど、実際は世俗の権力に身も心も染まったただの人間だからね。 どうか君の、純粋で強い心が損なわれる事なく、否、損なわれても立ち上がる強さを持って、神に仕えて欲しい』


【ACT四】 オロチ


 「我ながら恐ろしい速度の回復力だな……」美男子、と言うにはあまりにも色気があって、女性と言う女性が一目見ただけで人生を破滅させてまでの恋をしそうな男が、ふと寝台の上で半身を起き上がらせて呟いた。「半年は寝たきりだと思ったんだが」

あんちゃーん」その隣でへそを出して引っくり返って寝ていた青年が、ごろりと寝返りを打った。にこっと彼が笑うとえくぼが出来て、「腹減った。 おみおつけ作ってー。 あのね、夕顔買って来たんだ、夕顔のおみおつけ欲しい!」

「こら、お前、いつの間に俺の隣で寝ていた。 もう大人だろうに一人で寝られないのか」

「えへへへへ、良いじゃんか、ね?」

あまりにも無邪気な笑顔に、男は怒れなかった。

「全く。 夕顔だな、分かった、作ってやる」

それが己のリハビリも兼ねていると知っているので、男はゆっくりと壁伝いに歩き、台所に行った。包丁を手にして、それを水で洗い、ざくりと、もう洗ってあってぴかぴかと輝いていた夕顔を真っ二つにする。

「……そう」とそこで彼は振り返らずに調理を続けつつ、訊ねた。「俺の体をどうやって治した?」

「んっとね、今の『六道りくどう』にはね、癒しの術を持った暗殺者……暗殺はしていないから暗殺者じゃないけれど、そんな人がいるんだ」背後の青年は言った。

「人に命を与えすぎて死んだのようにか。 俺はそれだったらお断りだ」

彼の妹は、それで死んだ。

「ううん、そうじゃない、『人から命を少し吸収して、それを集めて怪我を癒す力』だから、兄ちゃんの場合は六道のみんなが少しずつ命を出し合って治したんだよ。 だから心配要らないよ。 知っていると思うけれど、みんな多少命を吸われたくらいじゃくたばらない連中ばっかりだからさ」と青年はにこにこしている。「みんな喜んでいるよ、兄ちゃんが帰ってきたって」

「……俺はあんなに殺したんだぞ」

彼は数年前、とある理由で六道を裏切って、大勢の同胞を殺害したのだ。

「でも兄ちゃんがあえて悪人にならなきゃ、ときが皆殺しにしていたでしょ。 みんな知っているよ。 だから兄ちゃんは恨まれてなんかいない」

「そうか。 だが」と男はそこでやっと振り返った。「今のこのナラ・ヤマタイカは何かがおかしいな。 過激派の支配下には入ったとは聞いていたが、何が起きている?」

六道の根拠地は小さな島国ナラ・ヤマタイカであった。男や青年の故郷も、ナラ・ヤマタイカであった。それが数年前、王の交代と共に、過激派の支配下に入ったのだ。

「……」青年の顔に重苦しい表情が浮かんだ。「今のナラ・ヤマタイカの支配者のスサノオ大王は知っているね?」

「暴君なのか」

「狂君さ」青年は吐き捨てるように言った。「趣味が何の罪もない民衆の虐殺で、しかも残虐なやり方を好むんだ。 反対勢力の指導者や仲間達は俺達六道が暗殺させられた」

「それは酷いな。 だが、だったらどうしてお前達が暗殺しないんだ?」

「『梟の眼ストリクス』さ」青年は悔しそうに言った。「ヤツはそれをいつも身に着けていて、それは『使用者が油断しない限りほぼ全ての攻撃を受け付けない』と言う『遺物』なんだ」

「ほぼ全ての?」

「流石に核ミサイルとかは通用するみたいだけれど、俺達がそんなもの持っている訳が無いじゃん。 それでお手上げなんだ……」

「そうか……」男は、悲しそうな顔をしている青年に言った。「みんなにそろそろ会いたい。 良いか?」

青年の顔が輝いて、「誰が悪いなんて言うもんか!」


 男にとって懐かしい顔ぶれが揃っていた。かつての友達、かつての先輩、かつての後輩、そして、新顔。大人から子供まで。

「よう」と洒落た格好の男が松葉づえの彼の頭を小突いた。「俺の事忘れてなんかいないよな?」

けい」男は苦笑まじりに呼んだ。「あの時お前を殺さないように苦労した事はちゃんと覚えている」

「痛かったぞ」

「すまない」

「おにいちゃん、このかっこいいひと、おなまえ、なに?」幼い少女が啓世の背後から顔を出す。「このまえ、おけがをなおしてあげたときから、きになっていたの」

「ああ、コイツは――」と啓世が言いかけたのを遮って、男は言った。

「俺は求世ぐぜだ。 君が俺の怪我を治してくれたのか、ありがとう」

「!!!」少女の顔が一瞬で赤く染まって、逃げ出してしまった。

「……」求世の顔が真っ青になった。

「ど、どうしたの兄ちゃん!?」宗世が訊ねると、

「俺は、女から恋愛感情もしくはそれに近しい感情を持たれると、必ず不幸な目に遭うんだ!」悲鳴のように求世は叫んだ。

「相変わらずの色男だな」啓世が呆れたように言った。「おーい、いち、戻ってこい、お前の彼氏が嘆き悲しむぞー」

「あの年でもう彼氏がいるのか」ほっとした顔をする求世に、啓世は首を横に振り、

「『おおきくなったらけっこんしようね!』だ。 おままごとも良い所だ。 お前、そのおままごとをぶち壊すなよ?」

「俺から意図してぶち壊した事なんてほとんど無いんだ! 俺は嫌だと言っているのに女の方から暴走を始めて勝手にぶち壊してくれるんだ!」求世は半泣きである。

「まあまあ」なだめたのは宗世だった。「兄ちゃん、泣かない泣かない。 今夜は宴会だぜ! 兄ちゃんの帰還祝いだ!」


 「俺は男だけしかいない世界に行きたい」宴もたけなわ、ふと求世は口にした。「それか去勢して男では無くなりたい」

「んぁにふざけたことをぬかしてんでィてめェ!」酔っぱらって出来上がった啓世が絡んできた。「酔っぱらって前後の見境も無くなったかァ!?」

「俺は酒は酔わないように飲む事にしている。 本当に汚い飲み方をする男がいてな……そいつが反面教師だ」

「ってか、兄ちゃん、兄ちゃんってうわばみじゃーん。 を通り越してじゃーん。 そもそもー、酔った事ってあるのー?」宗世が言った。

「無い。 と言うか、宗世、お前はもうへべれけだな……」

「だってー、兄ちゃんが帰ってきたんだもーん!」

「良い年こいて俺の膝枕で寝るんじゃない!」

「やだー、やだー……ぐー」

また彼の弟はへそを出して寝てしまった。求世は嘆息した。

「お前は全く、変わっていないな……」

そこで求世ははっとした。宗世が目を開けた。啓世が、全ての六道の暗殺者が、宴の雰囲気を失った。

「誰だ?」求世は、宴の間の障子の向こうに声をかけた。

「……やはり、『六道』は、鋭いですね」

その声の後、すぐに障子が開いて、少年が姿を見せた。

「貴方は!」古参の暗殺者が驚いたように、「ウマヤトノミコ!」

「ミコ、と言うと、ナラ・ヤマタイカの王族の一人か……」求世は呟いた。「誰の暗殺依頼だ?」

少年はその場に正座した。そして、一同を見据えて、言った。

「率直に言いましょう。 スサノオを殺していただきたい」

「……それは、無理だ。 ヤツを殺せるものなら、私達とてとうの昔に殺している」誰かが悔しそうに答えた。

「僕は、もはやヤツのこれ以上の暴虐を看過できない。 あなた方に口封じされる危険性も覚悟の上でここに来ました。 どうか、お願いしたい!」

「……」求世は少し考えた。それから、口にした。「俺がやってみよう」

「!?」宗世が血相を変え、啓世は顔から血の気を完全に失った。

「俺は、今から六道を辞める。 無関係だ。 もしも失敗してスサノオに捕まり、お前達の前に引きずり出されたとしても、『誰だコイツは』と言う顔をしてくれ」

「嫌だ!」宗世が絶叫した。

「何、心配するな。 俺の力を忘れたのか。 俺は狙った標的は必ず殺してきた。 それに、」求世はウマヤトノミコを見て、「相手が男なら俺はどうと言う事は無い」


 夜中に宮殿にスサノオ大王の命を狙いに来た男が潜入し、失敗して捕まった。その情報は直ちにスサノオ大王の所に届き、残忍性ではナラ・ヤマタイカ一とも呼べるこの男は、どんな処刑法で殺そうかとうきうきしつつ、その男の面を見に行った。

そして、驚く。否、彼だけでなく、彼の周りにいた寵臣も寵姫も誰もが驚いた。

夜のかがり火に照らされ、鎖で縛られて青あざを顔に作っていたとは言え、これほどの美男を見たのは、彼らの人生で初めてであったからである。

「これは……」と寵姫のウズメノキミがため息をついた。それほど、妖しく美しい、悩ましいまでの色香と魅力を持っている男である。

「どうして余を殺しに来た?」

スサノオが訊ねると、男は噛みつくように、

「貴様が俺の恋人も殺したからだ!」

「スサノオ大王、これは……」寵臣にして奸臣のサルタヒコが囁くと、勿論だと彼は頷いた。

「これは殺すには惜しいな。 しばらく牢に放り込んで、とにかく洗脳してしまえ。 俺の愛人の一人にしてやろう。 こんな美男、次が見つかるかは永遠に分からん」

それで、男は、牢屋に一人放り込まれて、薬だの機械だのによる洗脳を受ける事になった。


 ウズメノキミは堪らなかった。もう、体が、あの男を見た瞬間から熱を持って、どうしようもなかった。恋情、思慕、情愛、情念。そう言ったねっとりとしてどろどろとしたものが、彼女にまるで悪魔のように取り憑き、彼女の心身を完全に支配していた。

彼女は、真夜中に、ひっそりと、牢屋への道を歩いている。

牢番に金を握らせて、彼女はあの男のいる独牢に入った。

男は鎖に繋がれて、寝ていた。その寝顔を見た瞬間、彼女は、我を忘れた。美しい。妖しい。狂おしいまでに女を惹きつける。

「ああ……!」

ウズメノキミは、衣をはだけると、男に枝垂れかかった。

……牢番は、女の軽い悲鳴が牢の奥で聞こえたので、振り返りもせずに、

(ったくあの色情狂め)と思った。(それにしてもあの男も幸運なんだか不運なんだか分からんな。 あんな色男に生まれたがために、ウズメノキミに夜這いされて、でもこれから洗脳されちまうんだから。 まあ、俺には関係ない事だ)

それから間もなく、ウズメノキミが、妖しい笑みをたたえて、牢から出てきた。牢番は何も見なかったふりをした。

ウズメノキミは誰もいない所へ行くと、男の声で不意に呟いた。

「向こうから来なくても、俺は勝手に牢から脱出して隙を狙うつもりだったんだが……まあ丁度良い。 さて、るか」


 スサノオ大王は寵姫の一人、コノハナサクヤノキミと戯れていた。淫らな戯れであった。彼は今、完全に油断していた。王族の中で彼に逆らう者は粛正させた。それに彼には『梟の目』がある。おまけに彼は今や、万魔殿過激派の中でも重鎮であった。独裁者が一番恐れるべきなのは、己の油断であるのに。

「あれあれ、恥ずかしゅうございます」裸にされて、コノハナサクヤノキミは笑う。

「何が恥ずかしいのだ、うん?」

「まあ酷いお方!」

そこに、ウズメノキミが乱入して来た、と言っても彼女もかなりいやらしい格好で、邪魔をするために入ってきたのでは無い事は一目でスサノオにも分かった。

「どうした?」と彼は訊ねた。するとウズメノキミは目に涙をためて、

「独り寝がどうにもさみしくて……」

スサノオはぞっとした、と言うのも、いつになく彼女が妖艶であったからだ。

「……全く仕方の無い。 そうだ、二人で俺の相手をしろ! たまには趣向を変えてと言うのも悪くは無い。 さあ、来い、ウズメ、こっちに来い」

「はい」とウズメノキミはまるで流れるような動きでスサノオに擦り寄る。負けじとコノハナサクヤノキミもスサノオに寵愛を求めた。その次の瞬間であった。

「あれ」とウズメノキミの腕がすうっと横に動き、コノハナサクヤノキミの首に触れた。コノハナサクヤノキミが昏倒した。スサノオがはっとした瞬間には、彼の首には腰ひもが巻き付き、ぎりぎりと締め上げている。抵抗する前に、彼の体から力が抜けた。あっと言う間に、意識がぼやけていく。

「おい」と男の声が、もうろうとするスサノオの意識の遠くから聞こえた。「これだけは冥途の土産に教えてやる。 『殺した者は殺される』、だ」


 ……あっさりと求世は朝には六道の元へ帰ってきた。帰ってくるなり、

「腹が減った」と言った。

「兄ちゃん、大丈夫なの!?」

宗世が血相を変えて訊ねたが、返事は、

「大丈夫だから、とにかく何か食べさせてくれ」だった。

茶漬けをがつがつと食べ終えると、求世は、

「スサノオを殺してきたぞ」と言った。

「ど、どうやって!?」と叫んだ啓世に、うるさいぞとたしなめてから、

「わざと捕まったふりをして宮殿に侵入し、ヤツの愛人の一人に変装した。 一番手間取るだろうと思った脱獄が、予想以上に上手く行き過ぎて怖かったくらいだ。 しかし、何で俺はモテるんだ?」

啓世は殺意を抱いた。それで求世に殴りかかったが、宗世に止められた。

「落ち着いて! 流石兄ちゃんだ! 凄いや!」宗世は目を輝かせている。

「テーメーエーはー!」啓世は額に青筋を浮かべている。「気付け馬鹿!」

「だから、何に気付けば良いのか具体的に教えてくれないか」

「殺す!」啓世は暴れたが、宗世が羽交い絞めにして、

「まあまあ! 結果が良ければ、ねえ?」

求世はしばらく黙っていたが、とうとう口に出した。

「これでまた、世界の情勢も変わるだろう。 六道のお前達は、これからどうありたい? やはり、この小さなナラ・ヤマタイカの島国にずっと引きこもっていたいか?」

その時、足音がして、暗殺者達は身構えたが、障子を開けて現れたのはウマヤトノミコであった。顔を紅潮させて、

「よくぞあの暴君を殺してくれました! 次のナラ・ヤマタイカの王位は僕がどんな手段を使ってでも奪い取ります。 いえ、もう手は打ってあるので、確定事項です。 そこで、六道の貴方がたには、僕の親衛隊になっていただきたいのです」

「良かったな」と求世は言った。「もう暗殺者じゃなくなる。 腐れ金のために人を殺さなくても良くなる。 正々堂々と日の当たる場所で生きられる。 良いことずくめだ。 良かったな」

「な、何だよ、それじゃテメエ、まるで――」自分だけはそれに該当しない、と言っているようなものではないか。啓世は目を丸くした。

「いや、な」求世は言った。「俺の迎えが来たんだ」

不意に、気配も暗殺者達に感じさせずに、双子の姉妹がそこに登場した。誰もがまた身構えたが、グゼだけは違った。

「ニナとフィオナか。 ……いずれここまで、たどり着くだろうと思っていた」

「グゼ」とニナは言った。「帰ろう、グゼ」

「……ボスが待っている」とフィオナは言った。

「ああ」とグゼは頷いて、ゆっくりと立ち上がった。

「待って!」と叫んだ宗世に、彼の兄は苦笑気味に、寂しそうに言った。

「――どうか元気でな、宗世、みんな」


 ナラ・ヤマタイカは小さな島国であったから、グゼらは船に乗って、出航を待つ。

「まさかアンタが単身でスサノオを殺っちゃうなんてね……」ニナは呟いた。「これはもしかしたら、ヘルヘイム送りは免れるかも。 だって過激派の重鎮を殺したんだもの。 功罪が打ち消しあって、ゼロになるかも知れない」

「いや、俺は別に女がいない所なら、ヘルヘイムでも全然……あ、ヘルヘイムにはあの女がいたな!」グゼは頭を抱えた。「俺はあの女が大嫌いなんだ!」

「……そんなグゼに悪報。 その女は、今、特別に仮釈放されて、特務員として活動しているの」フィオナが言った途端にグゼは発作的に船から飛び降りようとした。勿論双子により押さえつけられて、足掻いても無駄だと知ったグゼはしくしくと泣きだした。泣きながら、喚いた。

「俺はあの女が生理的に、物理的に駄目なんだ……! 俺はヘルヘイムに入る! どうか入れてくれ! あの女がいる場所に俺はいたくない!」

「……女性恐怖症もここまで来ると……」ニナがやや引いた様子で言った。

「……うん。 姉さん、ある意味立派だね……」フィオナが頷く。

その双子が、ブッ飛ばされて、船室の壁面に着地し、何事だと顔を引き締めた。

「テメエら兄ちゃんに何してんだあああああああああああああ!」

泣きじゃくるグゼを抱きかかえて、宗世が鬼の形相でそう怒鳴った。

「宗世……!」グゼは弟にしがみついて本格的に泣き出した。「俺は女のいない世界に行きたい! どうして俺には徹底的なまでに女難の相があるんだ!」

「テメエら」宗世はナイフを両手に構えた。声が一気にトーンを落とし、「兄ちゃんに何をした」

「あ、あのね、君」とニナが一生懸命に説明する。「ちょっと誤解しているみたいだから、落ち着いて話を聞いてほしいんだけれど」

フィオナが続けて、「……冷静になって。 私達は入水自殺しようとしたグゼを、止めただけなの」

宗世は構わずに二人を殺そうとしたが、既にノイローゼ気味の兄がまるで子供のようにしがみついていたので出来なかった。

「俺は女が嫌いだ! どうして女は俺から幸せを奪うんだ! 平穏な生活をぶち壊しにしてくれるんだ! 俺は何もしていないんだ! なのにストーキングしてきて、俺が一日何回トイレに行って大小どちらをしたかまで見ているんだ!」

「おーい」と船室の戸が開いて、啓世が登場し、修羅場に唖然とする。「何じゃあこりゃあ!?」

「あ、啓世さん」宗世は無感情に言った。「コイツら、兄ちゃんを虐めたんだ。 殺して」

「待て待て。 このクソ色男は昔から女運が最悪だったから、何か誤解があるのかもしれねェぞ。 おい!」と啓世はグゼを蹴った。「泣いていないで説明しろ!」

「あ」蹴られてようやくグゼは我に返った。いつもの冷静な彼に戻った。「……。 啓世に宗世、どうしてここにいる?」

「いや、権力者の親衛隊だなんぞ俺ァ性に合わねえから、宗世と抜けてきただけさァ」

と言った啓世に同調して、宗世も、

「うん、俺も兄ちゃんに付いていく!」

「それで、良いのか……?」グゼは驚いた。「六道は勝手に抜けたお前達を殺そうとする。 それでも良いのか!?」

「いや、それがなァ」と啓世は振り返った。グゼははっとした。船にどやどやと乗り込んでくる足音が聞こえたからである。「みんなのほとんどが、お前に付いていくってさ。 ――もう、この国は駄目だ。 スサノオの改革だの革命だのでぐちゃぐちゃで、しかもぐちゃぐちゃなだけならまだしも、未来を担うべき若者の大半を俺達に殺させた。 老害が威張り腐って、希望なんざァどこにも無い。 この国にはもう、未来が無いんだ。 俺ァ、泥船にいつまでもしがみついていたくはねェよ。 ナラ・ヤマタイカは本当に俺達のたった一つの故郷だと思っている。 でもな、今のナラ・ヤマタイカは俺達が愛して慕ったあのナラ・ヤマタイカじゃあねェんだ。 もしも俺らが戻る気になった時は、そうだなァ、取りあえず老害共が死んで、万魔殿の過激派なんぞとは手を切った時、だろうなァ」

「……分かった。 好きにしろ」

グゼがそう言うと、啓世はにやっと笑って、

「あたぼうよ!」

つん、つん、とグゼは背中をつつかれた。振り返れば、双子が瓜二つの顔に瓜二つの表情を浮かべて、それぞれこう言った。

「グゼ、アンタは」

「……正真正銘のモテ男、だね」


 「きゃあ」とローズマリーは顔を赤らめて恥らいの表情を顔に出す。「グゼさんが戻ってくるだなんて……私、嬉しいですわ!」

「キモい」と言ったのはI・Cでは無くセシルだった。「お前、またストーキングするつもりだな。 グゼがトイレに一日何回行こうが、そこで何をしようが、お前とは一切関係が無いじゃないか」

「だって」きゅうっと手を合わせてにっこりと微笑み、ローズマリーは言った。「あの人の全てを知りたいんですもの、私」

(おい)と過去のローズマリーのグゼのストーキング行為を知らないベルトランが、シャマイムに小声で訊ねた。(何をコイツはグゼにやったんだ)

(二四時間体制でのグゼの監視、二四時間体制でのグゼの行動行為の全把握、具体的にはグゼの排泄行為の回数まで計上していた、また二四時間体制でのグゼの交友関係並びに会話の盗聴、具体的には)

空気の読めるシャマイムは小声で答えたが、ベルトランはその返答内容にぞっとし、それ以上聞きたくなくて、こう呟いた。

(それは、ノイローゼで入院もしたくなるな……)

(ベルトラン、ローズマリーの偏執性には警戒する事を強く推奨する。 グゼは一度敵対勢力に捕まり、苛烈な拷問を一週間連続で受けた事もあるが、その時には大した精神的負傷は負っていなかった。 だがローズマリーに粘着された際は三日で完全なノイローゼに陥り、入院した)

(……ヤツが時々真面目な顔をして全女性に世界から消えてくれと呟いていたのは、その所為もあるのか……そう言えば、何でニナとフィオナはグゼから警戒されていないんだ?)

(ニナとフィオナは同性愛者だ。 グゼはグゼ自身を完全に性的対象としない女性は『女性』と認識しない傾向にある)

(なるほど……)

その間、アロンは目を嫌な意味でぎらつかせて、特務員の机の端にいるイリヤを睨んでいた。イリヤはそんな視線には全く構わずに、あの聖典を読んでいる。

家門の格で言えば、イリヤの家とヴァレンシュタイン家はほぼ同格であり、しかも現役の当主である分、イリヤの方がアロンよりは和平派幹部に良く見られるだろう、と思うと、アロンは嫉妬心と、わざと特務員の中にイリヤを加えたマグダレニャンの意図を察して、腹立たしくなるのだ。イリヤは即ち、アロンへの抑止力なのである。イリヤならばアロンに真っ向から反対出来て、しかもそれで咎められると言う事態にはならない。何故ならシャマイムやアズチェーナの場合と違って、イリヤは由緒正しき高貴な名門の血を引いているからである。

(あの女狐め!)アロンは視線に殺意を交えながら、イリヤを睨みつつ思う。(俺の勝手にさせないつもりだな。 何と言う権力欲と独占欲の権化だ、それでも一三幹部の一人か! しかも強硬派のイリヤを転身させるなど、ふざけている!)

自分の横暴は棚に上げて、アロンはそう思うのだった……。


 「グゼが……そうですか、分かりましたわ。 あのスサノオを単身で暗殺するとは……グゼは本当に女さえ絡まなければ優秀ですわねえ」マグダレニャンは驚くと同時に、納得した。

「グゼ君は、ヘルヘイムに収監してもどうと言う事は無いでしょう。 むしろ罰を与えるには、ローズマリーと一緒の今の環境下に置いた方が……」

ランドルフは、そう言った。グゼが耳にしたならばその場で舌を噛み切りそうな事を、である。

「ですわね。 下手にヘルヘイムに入れたならば、最悪グゼはヘルヘイムからアズチェーナを抱えて脱獄しかねませんもの」

それにマグダレニャンも賛成した。

「それに……グゼのおかげと言うべきか、過激派の力が弱まったのは事実です。 もうじき開かれる和平派幹部総会での対過激派総戦力戦の決議……今が好機ですわ」

「ええ」とランドルフは、しっかりと頷いた。


 「ヨハン様」

「え、エステバン、ええと、その……」

ためらいがちなヨハンの、ひょろひょろの肩をがっと両手で掴み、この狂科学者は叫んだ。

「やりましょう! これが成功すれば、ヨハン様は世界最強の武人になれるんですよ!」

「で、でも、ヴァルキュリーズが……」とヨハンはおどおどと言った。「論理的に可能なのは、わ、分かるんだけれど……『戦女神計画』……ヴァルキュリーズの人格プログラムとオリハルコンの機体を合体させて、あ、新しい、全く新しい兵器にしようだなんて……ぼ、僕……」

ラボのモニターに若い女の顔が映った。

『マスター、私達は、マスターの力になりたいのです。 そのためならば、どのような形になっても構いません。 必ず、実験には成功してみせます』

「ブリュンヒルデ……」ヨハンは泣き出しそうな声で彼女に向かって言った。「ぼ、僕、馬鹿にされても、無力だの無能だの、罵られても、よ、良いよ、友達が、い、いなくなる方が嫌だ!」

『マスターは己の才能に気付くべきです。 それに、私達は、いつも、いつまでもマスターのお側におります。 ……どうか、お強くなって下さい』

「う、うう……」

ヨハンは涙目で黙り込んだ。そして、頷いた。

「良いですねヨハン様! 行きますよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

エステバンが絶叫し、スイッチを押した。それはラボのど真ん中に設置されていた天馬に跨る銀色の戦女神に、周囲の機器から駆動エネルギー、対人操作人工知能プログラムなどを同時に送り込む。まばゆい光がラボに満ち溢れ、ヨハンもエステバンも目を覆った、直後。

光が止んだ。

「あ、あああああああああああああああ!」

ヨハンが絶叫して、駆け寄った。彼の視線の先には――、

「銀色の卵!? そんな馬鹿な!? こんな失敗なんか起こるはずが――!」

エステバンが青くなって叫んだが、もうヨハンには聞こえていなかった。

小さな銀色の卵を抱きしめて、ヨハンはわあわあと泣き出した。

「ブリュンヒルデ、ゲルヒルデ、オルトリンデ、ヴァルトラウテ、シュヴェルトラウテ、ヘルムヴィーゲ、ジークルーネ、グリムゲルデ、ロスヴァイゼ、ああ、あああああああ!!!」

『ます、たー……』

ヨハンは泣き止んだ。卵から、小さな声が聞こえたからである。それは彼の聞き慣れた友達、アンドロイド・ヴァルキュリーズの声であった。

「みんな!? みんな、そこにいるの!?」

返事は無い。けれど、気配がする。彼の友達の気配がするのだ!

ヨハンは、その卵をいつも懐に抱えて、温める事にした。

その卵がいつか孵化して、彼の友達が帰ってきてくれる、そんな予感がして。


 「よう馬鹿のヨハン」とアロンは廊下ですれ違った従弟に声をかけた。「実験、大失敗だったんだって? 実にお前らしい結果だな! ぎゃははははははは!」

「……」ヨハンはうな垂れて、何も言えない、言った所で倍に言い返されるのだ。

「お前って本当にダメ人間だな。 生きている価値、あるのか? 女の腐ったみたいな気持ち悪い分際で、よくもまあ『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』を名乗れるもんだよ、全く。 お前なんか人間失格だ。 お前なんかゴミだ。 お前のお父様もお母様もお前を作った事、絶対後悔しているぜ。 マジでお前の親は可哀相だ。 うわ、泣いた、キメエ! ぎゃははははははははは!」

言い返せない。全て事実だからだ。そうヨハンは信じ込んでいた。

それでも、どうして、涙が流れるのだろうか。

「お前なんかヴァレンシュタイン家の恥さらしだ。 これだけは覚えとけ。 お前よりも俺様の方が『ヴィルヘルム・ヴァレンシュタイン』に相応しい」

言いたい放題言って、アロンは立ち去った。

ヨハンは、廊下の突き当りのトイレの個室に引きこもって泣いた。


【ACT五 信頼と背信】


 「サンダルフォン、問題が発生した」

「どうしたラファエル」

「神体は完成したのだが、起動エネルギーの『魂』が足りないのだ。 魂の雫を『ヘンゼルとグレーテル』に集めさせていたのだが、何者かにより奴らは殺された。 それに、魂をいくら集めたにせよ、それを保持する器が無ければエネルギーはこぼれてしまう事が判明した。 唯一、この世界でそれが可能な物質は……オリハルコンだ。 それも並大抵の量では足りない。 莫大な量のオリハルコンが必要だ。 だが唯一のオリハルコン産出国ビザンティは和平派寄り……どうにかならないだろうか」

「ふうむ。 メタトロンと話し合ってみよう。 ……何、『魂』などは裏切り者のサタンから一気に吸い取ってしまえば良いのだ。 それまでにはオリハルコンを我らが手中に収められるように、動いておこう」

「うん? サタンをどうにかする方法が見つかったのかね?」

「ええ。 とても素敵な、致命的な方法が見つかりましたわ、ラファエル」

「ガブリエル、どんな方法だ?」

「ヤツが統合体化現象を起こしたほどの衝撃を受けた、とある出来事。 その出来事の関係者を、ハニエルが洗脳する事に成功しましてよ。 『彼女』を使えば、サタンはほぼ無力なただの化物になる。 うふふふふ、楽しみですわ、サンダルフォン」

「それは楽しみだ。 サンダルフォン、その計画の進展はどうだ?」

「順調そのものだ。 全く心配ない。 バカが一匹いてくれたおかげで、恐ろしいほど順調に進んでしまった」


 小国ビザンティの少年君主レオニノスは、その日も執務で忙しかった。彼は聖教機構和平派幹部ヨハンととても親しく、仲が良かった。

ビザンティはカルバリア共和国の侵略を最近まで受けていたので、主にその後始末でレオニノスは忙しいのだった。

「兄上!」と一七歳になる彼の妹レオナ姫が走ってきた。「またカルバリア軍の残した不発弾が一五発も見つかりましたわ!」

「分かった、すぐに対処する!」

「いえ」と彼女は言った。「私にやらせて下さいまし、兄上! 兄上はどうか民の安寧のために、一秒をも惜しんで働かれるべき。 それに私とて、もう無力で無知なただの姫ではありませんから!」

レオニノスは思わず微笑んだ。彼らの両親が政治紛争で暗殺されてから五年、彼が必死に育ててきた彼の妹は、こんなにも立派になった。

「ああ、分かった、任せる!」

「では!」と妹はまた走って国王の間を出て行った。

「……嬉しいなあ」とレオニノスは、その後ろ姿に、ぽつりと言って、それから顔を引き締めると、また執務に励むのだった。

 まだ、この時の彼らは、ビザンティを襲う残酷で無慈悲な運命を、何も知らない。


 ウトガルド島。この世界の金融の中枢地とも言える、享楽と快楽、そして賭博の治外法権である人工島の王ジョヴァンニは、無数の監視カメラの映像を映すモニターで島のあちこちを観察していたが、ふと立ち上がった。その背後でザクロを手にした女が突然出現し、こう言った。

『ジョニー、またレットの所へ?』

「ああ」とこの青年王は頷いた。「近頃アイツ何か様子がおかしくてさ。 まあ、和平派の動向が気になって仕方ないんだろうけれどね、心配だから、会いに行く」

『もう。 レットと結婚しちゃえば良いのに』

「あのねプロセルピナ。 僕は異性愛者なんだけれど」

『だって私、最近腐女子に目覚めたんですから!』

「……とんでもないものに目覚めてくれたね。 とにかく僕とアイツは親友だ。 結婚とかセックスとか、そう言うのは必要ない関係なんだよ?」

『……』

「なッ、何を目を輝かせて妄想しているんだ!」

『とても、うふふふふ、言えませーん』

この二人の会話は、まるで姉弟のようであった。

「この悪魔め」ジョニーは毒づいたが、

『そりゃ私、れっきとした悪魔ですから』と平然と流された。

 レットは少女娼婦達の中にいる、と言っても目的はセックスでは無く、情報収集であった。差し入れにケーキなどの甘い甘いスイーツを持っていくと、彼女達は喜んで、閨の中で客が喋った事を話してくれるのだった。

「何て言うか、気持ち悪いのよ」と言ったのはウトガルド島一番の人気娼婦で、少女娼婦の取締役のような立場にいる少女、ダルチナであった。「過激派の連中、何て言うか、操り人形みたいで気持ちが悪いのよ。 口を開けば『ジュリアス様』、『ジュリアス様』……ジュリアスは神かっての。 自爆テロをやらせる神なんか神じゃないのにねー」

「「だよねー」」と娼婦達は次々に賛同する。

「アイツら、自分の意志を持っていない感じがしない? 本当、ダルチナの言う通りにお人形みたいでさ」と言ったのはダルチナの良き『恋敵ライバル』イメルダであった。

「ふんふん。 なるほどねえ」とレットは相槌を打つ。そこにレットの友達であるカジノ・フロアのボーイ、ジョニーがこれまた美味しそうなフルーツ・ジュースを沢山持って登場したので、少女娼婦達はわあっと歓声を上げた。

「やあジョニー、カジノ・フロアは良いのかい?」レットが聞くと、

「しーッ。 サボっているんだ、秘密にしてくれ」とジョニーはジュースを配りながら彼に言った。

「きゃあジョニー、結婚して!」と言ったのはダルチナで、先手を取られたが負けるものかとイメルダがジョニーの隣に座り、彼の腕に抱き付いて、胸を押し付けた。

「あ、この泥棒猫! ジョニーは私のよ!」ダルチナがジョニーのもう一本の腕を掴み、引っ張った。

「うるさいわねこの邪魔女! ジョニーは私のものなの!」イメルダも引っ張る。

「あ、あのう、痛いから引っ張らないで?」ジョニーは困った顔をしている。

「モテる男は辛いねえ?」レットはにやにやして言った。「まあ、絶望的なまでにモテる男を僕は知っているけれど」

「絶望的なまでにモテるって?」ジョニーが聞くと、

「うん、あまりにも女にモテすぎたから深刻な女性恐怖症に陥って、いつだったっけ、『同性愛者になりたいんだがどうすれば良い?』とかマジで言っていた男を、僕は知っている」

「うは。 それは壮絶だな……」ジョニーはドン引きした。

「何それ、会ってみたい!」ダルチナがはしゃいで叫んだ。

「……いや、彼はね、女娼窟に連れてこられるなんて知ったら本当に自殺しかねないんだ……そのレベルで女性恐怖症なんだよ」レットは嘆息した。

「余計に会いたいわ!」イメルダが目を輝かせる。

「無理無理。 自殺されるから。 それより、ジョニーを忘れていないかい?」

レットが言うと、二人の少女娼婦はジョニーの引っ張り合いを慌てて再開する。

「ねえ」とレットはうらやましそうに言った。「どっちにするかもう決めたの? それとも両方?」

「……今のところは両方って言ったら君達は怒る?」

遠慮がちにジョニーが言うと、娼婦達はふんぞり返って、

「「等分に愛してくれたら怒らない!」」

「善処します……」ジョニーは委縮して答えた。


 レットとジョニーは娼窟を揃って出て、エレベーターに乗る。ジョニーはでたらめにエレベーター・フロアのボタンを押した。するとエレベーターは急速に高層へと昇っていく。

「いやはや。 たぶらかすつもりは無いんだけれどなあ……」

ジョニーが、ぽつりと言った。

「両手に花の何が悪いんだい? しかもその花は条件付きで納得しているじゃないか」

レットはくすくすと笑っている。

「まあな。 俺もそろそろ結婚だのを考えなければいけない年だ。 特に、」

とジョニーが言う前にザクロを手にした女がエレベーターの天井から逆立ちで出現して、

『ええー。 私はレットとジョニーが結婚して欲しいのに』

そう、のたまった。

「……こう言うのがいるから」ジョニーは落ち込んだ声で言った。

「……これは困るね、うん、凄く困る」レットもジョニーと同じ表情を浮かべた。

『良いじゃないですか、愛ですよ、愛! 性別なんて愛の翼で乗り越えて』女は自分のご高説に夢中である。『いやあん、愛ですよ、愛! もう男同士の愛じゃないと真実の愛じゃ』

「ねえ」レットがふとつぶやいた。

「何だ」ジョニーは耳をふさぎたい気分であった。

「プロセルピナ、殴っても良い?」

「偶然だな、僕も同感だ」

今、二人は同一の意思と意見を共有していた。

「でも殴っても彼女、悪魔だから大して堪えないんだよね……」とレット。

「それでも黙らせたい」ジョニー。

「何だっけ」

「何だったかな」

「そうだ、聖水だ! 今、聖水、手に入れる方法って今あったっけ?」

「聖教機構になら残存していそうだな。 金で買ってくるか」

「銀の十字架と白木の杭と聖餅とニンニクと」

「それは古典的吸血鬼退治方法だ」

「聖なる御言葉で……」

「悪魔だって聖典くらい利用する」

ずっとその間、プロセルピナは、

『男同士で見つめあってどきりとして君の瞳に恋をして、きゃあ!』

「……腐女子って、何でこうなの?」レットが嘆いた。

「知るか!」ジョニーは頭をついに抱えた。

エレベーターが、止まった。

二人は分厚い絨毯の敷かれた廊下を歩き、突き当りの豪奢な部屋に入る。

そこには無数のモニターと、贅沢な調度品の置かれた部屋であった。

ジョニーが『意識する』と部屋の灯りが点き、モニターが輝き、ウトガルド島のあちこちを映し始める。ジョニーはソファに座り、レットに向かいのソファに座るよう目で言った。レットが座るや否や、彼は言った。

「なあレット、最近お前おかしくないか?」

「そりゃ、おかしいよ。 和平派がどう動くかが気になってね、神経がちっとも休まらないから」レットはメイド・アンドロイドが運んできたティーカップの紅茶を口にして、言った。

「いや、それだけじゃないように思えるんだ。 お前は最近、何か変わった。 何と言うか、変なものに取りつかれたみたいに……大丈夫か、何があった?」

「……」レットは黙って紅茶の液面を見つめた。「色々とね、あったんだ。 でも、僕は大丈夫だ。 僕は全世界だって裏切れるけれど、君だけは裏切らない」

「……」ジョニーは黙っている。黙って、レットを見つめていたが、ややあって、「そうだな。 お前はいつだって僕の味方だった。 何があろうと何をされようと。 分かった。 僕はお前を信じている」

「……ありがとう、ジョニー」


 ……部屋から出た途端、監視カメラの死角の方を向いて、レットはにやりと嗤った。

『ヤツは殺すべき存在です』

「ええ、でも、まだその時じゃあありませんよ、ラファエル様」

レットは一人で会話している。監視カメラには彼一人の姿しか映っていない。

「今ヤツを殺すと後継ぎ問題がね……幸いご覧の通り、ヤツには女が二人もいる。 その腐れ腹の中にガキが一匹でも出来たら、殺しましょう。 そうすれば次期ウトガルド王は僕の完全な操り人形、つまりは貴方がたの従順な傀儡でもある」

『恐ろしい男ですね。 あれだけ忠誠を誓った主君への背信行為を全く何とも思っていないとは』

「だって僕は死にたくないんです、ラファエル様。 僕は死にたくない。 だからお願いします、僕をどうか――」

『お前には利用価値が恐ろしいほどあります。 安心なさい。 このラファエルがお前に憑いている限り、お前は決して死ぬ事は無い』

「助かった。 ありがとうございます」

レットは歩き出した。その顔は、いつものポーカーフェイスを浮かべていた。


 「?」いつものように酒を買いに、街をうろついていたI・Cは、ふと小さな映画館の前で足を止めた。国際的大女優ジュリア・ノース、老いたからこそ美しさを増したレディの、昔撮影した映画をリバイバル放映しているのだった。I・Cは珍しく常識を守ってチケットを買い、映画館の中に入った。席に座ると間もなく照明が落ちて暗くなり、いくつか予告が流れた後、ジュリア・ノースの映画が始まった。ジュリア・ノースの半生を描いた映画であった。駆け落ちしてまで一緒になった夫が、たったの五年で死んでしまい、嘆き悲しむ彼女。一度は女優を辞めかけて、家に引きこもった。けれどそれでも彼女は、己の足で立ち上がり、女優として復活した。そんなストーリーである。

I・Cは寝ていた。ぐうがあとうるさくいびきをかきながら、映画館の中で寝ていた。

だが、幸い他の客がいなかったため、咎める者もおらず、彼は延々と眠り続けるのだった……。


 ころしてなどやらない。

おまえだけはかんたんにころしてなどやらない。

くるしめてくるしめて、いためつけて、きりきざんで、そうだ、それでもころしてなどやらない。

わたしをころしたおまえを、わたしはゆるさない。

じごくにおちてもゆるさない。

ころしてなどやらない。

おまえはくるしんでくるしんで、それでもくるしむのがおにあいだ。

ぞうおはなにもかもをほろぼす。

ほろびてしまえ、すべて。

だがおまえだけはそれでも、ゆるさない!

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