第4話DESPERATION 神災
【ACT〇】 真実と思い出
……父親が生きていた時に受けた愛情は、
「おとしゃま」とまだ舌足らずな幼女は大きな分厚い本を一生懸命に抱えて言う。「おねんねのまえに、ごほんよんでくだちゃい!」
「ああ、良いよ、マグダ」と父親は穏やかに笑って快諾した。「それで今日は何の本を――ああ、それか」
『政治家と倫理 ――一二勇将の生涯―― サミュエル・グラッジ著』
「あい!」幼女は元気よく本を差し出す。「おとしゃま、はやくよんでくだちゃい!」
「……」父親は本を受け取って、それから少しだけ哀しそうな、懐かしそうな顔をした。「マグダ。 一二勇将はね、私の家族だったんだよ。 私の親だった」
「おとしゃまのおとしゃまだったの?」
「そうだ。 ……最後の最期まで私の事を愛してくれた」
「まぐだも、おとしゃまだいしゅき!」
「はは」と父親は微笑む。「お前は本当に賢い子だ。 本当に優しい子だ。 お前が私の子で本当に嬉しい」
……父親が亡くなってから知った真実を、なお、否んで余りあるものだった。
「お嬢様。 お嬢様の実の親父はな、お父様により殺されたんだよ。 どうしてかって? そりゃお嬢様、お前さんが原因だ。 生まれ付いての難病を患い、そのために実の母親からは捨てられ、その治療費を捻出するためにお嬢様の実の親父はマフィアと手を組んじまった。 部下の親父のしでかした所業に、お父様が哀れにも気づいたのは、もう自分の手で殺してやるしか最善の救いようが無い、そんな状況下だった。 それで残されたのが天涯孤独のお嬢様、お前さんだ。 難病は治ったもののぜーんぶ亡くしちまった哀れな娘だ。 己の命令で自殺させた男の娘だ。 お父様はそれでお嬢様を引き取った。 ……どうだ、驚いたか?」
子守歌。寝る前に読んでくれた本。膝の上に座る、それが一番のお気に入りの場所だった。一緒に出かけたあの日。いわゆる虐待など一度もされなかった。あれが愛情であると分かっていたし、その愛情も歪んでなどいなかった。何よりも愛情に満たされて幸せだった毎日が、父親との記憶が思い出が過去が、全てその真実を強固に否定した。
私はあの人の娘だ。
彼女はそう思っている。そう感じている。そうだと信じている。無理やりに奪われた父親との、あの優しかった日々が彼女をそうさせている。
「マグダ。 ……私はね、この世界がもう少し優しくても良いんじゃないか、この世界がもう少し救いようがあっても良いんじゃないか、そろそろ世界をそう言う風に変える時が来たんじゃないか、と思っている。 ……だから行ってくるよ。 心配は要らないよ、何せアイツは卑怯者じゃ無いからな。 そうだ、お土産は何が良い?」
「お土産よりも、私、お父様の
やれやれ少し困ったなあ、と言う優しい顔で父親は言った。それが彼女の聞いた最後の言葉になった。
「そうだな、お前が十五才になったら、あの車をお前にあげよう。 大事に乗るんだよ? あれに傷を付けられたら、私は卒倒するから。 ……あんなに小さかったお前も、こうして大人になっていくんだな……」
あれほど欲しがった重力車に一度も乗らないまま、私はあの人を待っている。
【ACT一】 合成人間
「ご存じ『オリハルコン』の特性は」小国ビザンティ君主レオニノスはやっと苦痛から解放された、まだやつれた痕が残る顔をして言った。「『人の意志に共鳴し成長する事』です。 金属でありながら生物的、それも知性ある生き物の性質を兼ね備えている。 これの産出のおかげでビザンティは存続できているようなものです……同時に戦争の火種にもなりえますが」
『で、でも、当分は、その心配は要らないとお、思うよ』モニターに映る童顔の青年はほっと笑って言った。
「そうですね、本当にありがとう……ヨハン」この少年君主は心からそう言った。「あのままだったら、今頃この国は……」
『お、お礼なんか、良いよ、だ、だって僕達、友達だから! ……それにマグダが、や、やってくれたんだし』
「……どうぞマグダレニャン様にも、僕がお礼を心から申し上げていたとお伝えいただけないでしょうか」
『う、うん! で、でも、ほ、本当に良いの? こ、こんなにオリハルコンを、も、貰っちゃって……』
「袖の下ですよ」レオニノスは顔をほころばせて、「これからも
聖教機構。人間が魔族を統治する世界勢力の第一角である。
『わ、あわわわ、わ、ワイロ貰っちゃった!』青年ヨハンは面食らった顔をしたがすぐに笑って、『う、うん、僕、で、出来るだけ、ビザンティと、こ、こっちが、仲良くできるよう、が、頑張るよ! ……ぼ、僕、無能だけれど』
「……無能では無いと僕は思うのですが」レオニノスは考えつつ言った。「現に貴方の御父君も御祖父様も、いえ代々貴方の家系は、とても優秀な戦争指揮官を必ず輩出してきました。 正に名門と言って差し支えは一切無い。 ……貴方だけ例外だなんて僕には思えないのです」
青年は泣き出しそうな顔をした。「……で、でも僕、ず、ずっと虐められてきて、一族の、は、恥さらしだって……と、当主にな、なれたのだって、お父様の、ゆ、遺言書があったから、だけで……従兄達からは、い、今すぐ、今すぐ辞めろって言われていて……ま、マグダがいなかったら、多分、や、辞めさせられると、お、思う」
レオニノスは言う、「……本当の無能者とは、己の無能さに気付けない者です。 貴方は違う。 けれど貴方には自信が無い。 いつか、いつか、貴方が自信を得られる事を僕は願っています」
万魔殿とは聖教機構とは対極的に魔族が人間を支配する世界的大組織であった。だが聖教機構と同様に内部分裂を起こしており、それがついに戦端を開かせた。魔族は人間を捕食する性質を持ち、優れた特殊能力を持つ種族であった。
「ジュリアス様」
「――何、お前達が出るまでも無い」ジュリアスは顔を隠している仮面の裏側でにやりと笑ったようだった。「スサノオ
「ええ」と同じ円卓に座っている男が頷いた。「よろしいですとも。 『
「……」
イザベルの顔がわずかに歪む。『六道』とはこのスサノオ大王が支配する世界最強の暗殺結社の名であった。ジュリアスは彼女達強制執行部隊よりもそちらを優先した、それが彼女の誇りに障ったのだ。
過激派強制執行部隊とは、ジュリアスの
「では私はこれで」とスサノオ大王が円卓から離れた後、ジュリアスは彼女の方を向いて言った。
「違うぞ、イザベル。 言った通りにお前達が出るまでも無いと言う事だ。 汚れ仕事を押し付けられて喜ぶ愚か者に、お望み通りに押し付けてやったまでだ」
「……はい」
「お前達には別に頼みたい事がある。 『帝国』からの亡命貴族に関しての事案だ」
イザベルの顔が引き締まる。確かにそれも重要な案件であった。
「帝国」、世界勢力の最後の一角を人はこう呼ぶ。巨大な大陸一つを支配する大国であった。それが過激派の煽動により内部で貴族が主体となって反乱を起こしたものの、帝国の絶対的支配者「女帝」の暗殺には失敗し、亡命貴族達が万魔殿過激派に大勢逃げてきたのである。
「はっ。 彼らの処遇、いかがいたしましょう?」
「可能な限りお前達の支配下に置け。 くれぐれもお前達以上の権力を持たせるな。 連中はまだ肥え太った豚の思考をしている。 それは徹底的に、根本から、変えねばならない。 その全ての裁量はお前達に任せる。 生かすも殺すもお前達次第だ」
「仰せのままに」とイザベルは頭を垂れた。
「何だと!?」話を聞いた元『帝国』貴族達はいきり立った。「我らを一兵卒にする!? ふざけるな! 我らは帝国の貴族だったのだぞ!」
「その地位を自ら裏切ってまで捨てたのはどこの誰だ?」イザベルが言い捨てた。「ここ万魔殿には万魔殿の掟がある。 それを忘れるな。 いまだにぬくぬくと肥え太った『帝国』の豚の気分でいられては不快だ」
「何様のつもりだ!」
「何様? 私は万魔殿過激派強制執行部隊総長イザベル・アグレラだ。 文句があるのならばかかって来い」
そう言い放った彼女の周りを、殺気立った面々が囲む。
彼女はかすかに嘲笑さえ浮かべて、漆黒の愛剣『ストームブリンガー』を手にした。そして感覚を遮断する。聴覚、視覚、嗅覚、味覚、痛覚を遮断、全ての感覚を絶つ。そして――研ぎ澄まされた第六感を解放する。
『見えた』
イザベル・アグレラはその時にはもう勝っていた。
数名の元『帝国』貴族達がわずかな時間差を置いて次々と彼女に襲いかかってくる。その移動経路も行動も何もかもが全て彼女には事前だと言うのに見えていた。
「まるで神の眼のようだ」とジュリアスはその能力を褒めて言った。
だからイザベルはこの行動予測能力を『
「――!」
元『帝国』貴族達の間に恐怖が走った。帝国貴族、すなわち魔族が何名も襲いかかったのに、それが瞬時に撃破されたのである。結果として肉塊が辺り一面に血しぶきをまき散らした。
「な、何と言う事だ!」
「強制執行部隊は……ジュリアスは……何と……!」
「黙れ」イザベルは彼らを一喝した。「そして従え、豚共め」
「何だこれ」『帝国』最大の商都ジュナイナ・ガルダイアの華美な館の地下室にある金庫、いや、地下室自体が巨大な一つの金庫であった、それを目の前にした青年セルゲイは思わず言った。「何で遺言状一つを隠すのにこんな仰々しい要塞みたいな金庫にしたんだ。 誰が見たって親父の遺言状の内容なんて分かり切っていただろうに。 唯一の嫡子である俺の姉さんに全ての遺産が行くって……」
「セルゲイ」隣の青年貴族のエンヴェルが首をかしげて、「もしかすると、秘宝でもあるのやも知れんぞ? 何せ叔父上は帝国一の大金持ちでいらっしゃったから」
「……だが親父の性格上、秘宝なんていつも身に着けて自慢していたと思うんだが……ほら、あれだったろ、親父、派手好きだったし」
「むむ……とにかく開けねばなるまい。 万魔殿穏健派への金融支援に叔父上の財産の一部をも当てるようにとの陛下のお達しであるからな。 ……しかし本当に良いのか?」
「何が?」セルゲイは不思議そうに言った。エンヴェルは言う、
「お主が叔父上の遺産を継承したいと申し上げれば、女帝陛下はそれをお認めになったはずだ。 お主は庶子でこそあるが、まぎれも無く叔父上の子であるからな。 相続放棄なんかして、本当に良いのか?」
「……金じゃどうにもならんものってのもあってな。 良いんだ良いんだ、俺はそれを知っているから」
金ではどうしようもないもののために、彼は裏切りに裏切りを重ね、そして今では前科者となっていた。「帝国の唯一絶対君主『女帝陛下』への謀叛を企てた」と言う「帝国」では最も重い罪を犯したとは言え、最後に彼の取った行動が同時に「帝国」の重大な危機を救ったとして、幸い刑罰こそ科されなかった。だが、一生彼は白い目で周囲から見られるだろう。それで良いのだ、と彼は思っている。それで彼は己にとって一番大事なものを守れたのだ。だから、後悔だけは無い。
「そうか……」エンヴェルは、黙った。
「それにしても、な……」セルゲイは続ける。「親父の唯一の嫡子である俺の姉さんが、
つい先日「帝国」の絶対的権力者にして貴族と平民の母のような存在である『女帝』を裏切って反逆して殺害しようとしたものの、そのクーデターに失敗して国外に逃げた連中を、残った貴族や平民達は主戦派と蔑んで呼び、あるいは『異端者』となじっている。
「……」エンヴェルはまだ黙っている。
……どうにかこうにか、何時間もかけて地下金庫の扉を開けて、彼らは中に入る事に成功する。その時点で既に疲れていた彼らは同時に、
「「うわ……」」と言った。
これまた大きな金庫が、地下金庫の中にあったからである。
「……俺は今、一瞬、荷電粒子砲で扉を消し飛ばしたくなった」セルゲイが呟いた。
「……余は今、とても恐ろしい予想を抱いた」エンヴェルが落ち込んだ顔をした。「この金庫の中にまた金庫が入っていると言う……」
「あり得る。 あり得るな。 だがとにかく開けなければ話にならん、ジュナイナ・ガルダイア中の鍵屋を呼んでやるしかないな。 電子ロックや遺伝子鍵なんかは俺が開けるから」セルゲイがため息気味に言った。
――結局、金庫の中にあったいくつもの金庫が全て開いたのは、それから一週間後であった。
「クソ親父クソ親父!」疲れ切った顔でセルゲイが喚いた。「そんなに俺には財産の残したくねえってか!? 俺は一度だってテメエの金をアテにした事なんか無いぞ! ったくクソ親父!」
「落ち着くのだ、セルゲイ」エンヴェルは荒れているセルゲイをなだめて、沢山の金庫の中にあった小さな金庫を取り出した。「後はこれだけじゃな。 ……うむ? これはどうやら……」
「指紋認証型の鍵か。 これまでの錠前と比べたら驚くくらいに易しいな。 開くか分からんがまずは俺でやってみよう」
セルゲイがそう言って、己の人差し指をパネルに押し当てた。
『――認証完了。 セルゲイ様ですね。 鍵を開けます』機械音声がして、がちゃりと鍵が開いた。一斉にその中を覗き込んだ二人は目を丸くする。
そこには分厚い遺言書の塊と、薄い手紙の封筒が一通あっただけなのである。
『……セルゲイ』彼の亡父の声がその金庫からした。『この声を聞いていると言う事は、私が死んだ後なのでしょう。 真実と言うものはいつも残酷なものだ。 それでも真実を知りたいと言うのならば、まずは手紙を。 知りたくなければ手紙は焼き払い、遺言書だけを開けなさい』
「どうする?」セルゲイは言った。「俺はどっちでも良い。 どうせろくな内容じゃないからな。 あの放蕩親父の事だ、俺が実は妾の子ですら無かったとか、他に庶子がいるとか、きっとそんな内容だぜ?」
「……いや、知らねばならぬ」エンヴェルはきっぱりと言った。「我らは叔父上の跡を継いだ。 だから、いくら残酷であろうと叔父上が目にした真実から目を逸らす事だけは決して許されぬ」
「分かった」セルゲイは手紙を取り出した。その時、金庫からまた声がした。
『オデット、オデット。 お前は私の娘です。 まぎれも無いたった一人の娘です。 それは、それだけはどうか……』
「余程何かあるみたいだな」セルゲイは重い声を出した。「うん?」
そこで彼は異変に気付いた。手紙の方の封蝋が既に開いていたからである。
「何でじゃ?」エンヴェルが首をかしげた。
「とにかく読もうぜ」セルゲイは折りたたまれていた便せんを開けた。
その冒頭には、『私は罪を犯しました』と見た事の無い筆跡で書かれていた。
一度の浮気。それで孕んでしまった罪の子。罪悪感に耐えかねての自殺。読んでいる二人の目の焦点が衝撃のあまりに段々と合わなくなっていく。……そして最後の便せんは新たに付け足されたもので、セルゲイの亡父の筆跡であった。
『セルゲイ、お前は遺伝子鑑定もしましたが私の実子です。 ですがオデット、お前は……お前の遺伝上の父親は、あの「大帝」カール・フォン・ホーエンフルトです。 でも、お願いだ、どうか私の娘でいて下さい。 どうか……!』
「……だから俺は放置されたのか」セルゲイが低い声で言った。「そうだな、クソ親父、血の繋がりってのはかなり強固な絆だ。 でも……姉さんは愛情が無ければただの……ただの他人だ」
「何と言う……何と言う事じゃ……!」エンヴェルは震えている。「遺言書は、では――」
そう言って開けた遺言書の内容は、様々な事業や慈善行為などに投資もしくは融資しているものを除いて、残った遺産はセルゲイと彼の姉に等分するように、と言うものだった。
「……」
「……」
二人は声も無い。
「だからクソ親父は万魔殿を毛嫌いしていたのか……」しばらくして、セルゲイが言った。「そりゃ嫌いにもなるってものだぜ」
「……叔父上は……」エンヴェルは何か言おうとしたが、もうそれは周知の事であったので、止めた。彼の叔父が死ぬ間際に『オデットを頼む』と言ったのは、そう言う事だったからか。彼は泣きたくなった。彼の叔父は変人で奇人でワガママな男であったが、身内には優しい男であった。いつだって金は出しても口を出すと言う事はしなかった。もう少し、とエンヴェルは早くもこらえきれずにだあだあと涙を流しながら思う。もう少し生きていて欲しかった!
(お前達を殺してやる)書類を机の上で整理していると、彼の脳内に声が響く。(お前達だけは殺さねばならない)
「全くしぶとい男だ」彼は付近に誰もいない事を確認して呟く。
(しぶといとも!)その声は、とても強い意志と憎悪にまみれた声だった。(地獄に堕ちようと俺はよみがえってみせる!)
「ただの人間の分際で仰々しい事を言うものだ」
(お前達は俺の娘を殺そうとしている。 生憎俺にはあの子を見殺しにするつもりは一切無い!)
「だったらどうすると言うのだ?」彼の呟きには、明らかに嘲笑が含まれていた。「所詮、何の力も持たぬ人間の分際で」
(人間を舐めるなよ、人外風情が!)
彼の右手がいきなり動いた。それは机の上にあったペーパーナイフを掴む。右手はそれを彼の首に突き刺そうとした――が、寸前で止まる。
「自殺をも恐れぬとは、恐ろしい男だ」彼は左手で右手を撫でる。すると右手はペーパーナイフを取り落とし、彼に従順になった。「だが少々相手が悪かったようだな? 貴様の体の支配率は圧倒的に私によって占められているのだから」
声は、もう彼の頭の中で響かない。完全に静かになっている。
トントン、と扉がノックされて、彼は、
「入れ」と言った。
「失礼します、シーザー様、どうぞ、インディア産の高級茶葉でございます」
秘書のキャメロンが紅茶を持って入ってきた。
「ああ、済まない」
彼は受け取って、紅茶の香りを楽しんだ後、口に含んだ――直後、それを吐いた。嘔吐物には血が混じっていた。彼は二、三度けいれんしたかと思うと、そのまま机に倒れ伏した。がちゃんとティーカップが割れた。
「きゃああああああああああああああああああああああああッ!」
キャメロンが絶叫して、人が駆けつけた。
「何事だ!?」シーザー腹心の部下イリヤが現状を見て、「医者を呼べ!」と己の配下に怒鳴った。「紅茶に毒が盛られていたのだ! 急げ!」
――聖教機構強硬派首領シーザー、毒殺未遂により入院、絶対安静。
強硬派は大混乱に陥った。
「何と言う事だ!」イリヤが歯噛みしつつ怒鳴る。「何者の仕業だ!」
「イリヤ様」同じ強硬派特務員ダリウスが言った。「厳重な警備をかいくぐってのこれほどの手並みは、恐らく過激派に指示された『リクドー』の仕業かと……」
「『リクドー』か!」イリヤは激しい口調で言った。「過激派め、こちらに総攻撃をさせぬためにシーザー様に毒を盛るとは、卑怯にも程がある! 許さん、許さんぞ!」
「けれど、どうしましょう……?」同僚のメアリーが不安そうに、「シーザー様のご指示無しでは、こちらは戦争を続行するのも正直難しいですわ」
「……ご回復を待つしか無かろう!」イリヤの口調は、激しいままである。「『リクドー』め! だが『リクドー』ですら暗殺し損ねるとはやはりシーザー様には神のご加護があらせられるのだ! 必ずや過激派ごと潰してくれるわ!」
「シーザーなんて死ねば良かったのに」と聖教機構和平派特務員の
「そうだな」と女殺しで有名な同僚のグゼが賛同した。彼は美男子で、そして、異常なまでに女性にモテた。どのくらいかと言うと、現在彼が深刻な女性不信に陥っているほどにモテたのだ。「シーザーの致死量を盛らないなんて絶対におかしい。 シーザーほどの大物を殺すのを『
「あ、そう言えばグゼは元々『リクドー』にいたんだっけ?」同じく和平派特務員のニナがクッキーをかじりつつ、はっと顔を変えて、「あ、聞いちゃいけない事だったらゴメン!」
「いや、気にするな。 確かに俺は『六道』出身だ」とグゼは認めた。
「……世界最強の暗殺結社だったよね。 どう育ったらそうなるの?」ニナの双子の妹、フィオナがいつもの重苦しい話し方で訊ねた。
「幼少期から徹底的な訓練と洗脳を重ねるんだ」とグゼは言った。「でも楽しんで人を殺すのだけは止めろと俺は父親から教わった」
「へえ」と同僚のフー・シャーが言う。「確かにそうだよね、楽しんで人を殺したりしたら……ぞっとしない」
そこで彼らの視線はI・Cに自然に集まった。
「……何だよ、示し合わせたように俺を見て」
ちなみにI・Cは面白半分に殺人を、殺人以上のむごい事を、平気で、楽しんで、心底愉快にやる。
「「何でも無い」」と特務員達はそっぽを向いた。
そこに白くて小型の、和平派所有兵器の一つ、シャマイムがコーヒーを運んできた。今は人間の形を取っているが、様々なものに変形できる。
「お、ありがとうな、シャマイム」シャマイムの一番近くにいた同僚のセシルがお礼を言ってカップを一つ受け取った。「毒は入っていないよな?」と冗談で言う。
「コーヒーに異物混入の形跡は無い」とシャマイムは機械的に言った。「シーザーの例を教訓に、カップの表面にも毒物が塗られていない事は確認した」
「そりゃ安心だ!」セシルは笑った。
『羨ましいなあ』と立体映像で情報屋のレットが登場する。『僕もシャマイムの紅茶とかコーヒーとかをまた飲みたい……美味しいんだよねえ……』
「酒持ってこない時点でクソ不味いがな」I・Cが無茶苦茶を言い出した。誰もが顔をしかめる。I・Cは非常識で異常者で狂った性格をしている、側にいられるだけで不愉快になる、と言うのが彼らの間では常識になっている。大体、書類整理とは言え勤務中なのに酒を飲みたいと言い出すI・Cがおかしいのだ。そして折角の和やかなひと時をこうして粉砕されるのにも、もう彼らは慣れていた。
「……シャマイムさん」新人の特務員アズチェーナが慰めるように言った。「大丈夫ですからね、みんな分かっていますからね」
「了解した」とシャマイムは言った。シャマイムは兵器だが、I・Cよりは遥かに空気が読めるのだ。
『……そうだ、穏健派と過激派の戦争なんだけれど』レットがここに登場した目的を告げる。『今のところは穏健派の圧勝だね。 だってありとあらゆる支援を「帝国」から受けていて、そして万魔殿と言う組織を存続させるために必死だからね』
「それにしたって、つくづくだらしねえなあ、シーザーは」I・Cがわざとらしく言った。「折角の万魔殿をぶっ潰す好機なのに暗殺未遂されて寝込むなんてなあ。 よっぽど神から嫌われているんじゃねえの? この異端者め!ってな」
「何だと!?」紛れも無い怒りに震える声が辺りに響いた。誰もがうんざりした顔でそちらを見る、そこには黄金の長髪を束ねて、見るからに頑強な、白鋼の鎧を着用した男が立っていた。「I・C、貴様もう一度言ってみろ! シーザー様が異端者だと!?」
「俺悪くないもん」I・Cはけろりとした顔で言う。「だって悪いのは俺じゃなくて毒殺ぐらいで死にかけるどっかの馬鹿だから」
「貴様! 貴様ァああああああああああああああああ!!!!!」
突進してきた彼を闘牛士のごとくかわして、I・Cは何と天井に逆さに立ちながらげらげらと笑った。
「上司が馬鹿だと部下も馬鹿になるのか、ぎゃはははははは」
「シーザー様を馬鹿だとォおおおおおおおおおおおお!」
男の手中に稲妻のように光る槌、『ミョルニル』が握られた。
「イリヤ」シャマイムがいきり立つ男の前に立ちはだかって言った。「ここで戦闘をした場合、我々和平派が強硬派に宣戦布告しなければならない事態も発生しかねない。 端的にここに来た用件のみ伝えて帰還する事を要求する」
「……ッ! ッ! ッ!」男は歯を食いしばったが、辛うじて怒りを抑え込み、言った。「現在交戦中である万魔殿穏健派と万魔殿強硬派を強襲しろとのシーザー様からの依願だ! 我々強硬派の代理で戦争をしろ!」
「俺達は聞くだけ聞くが、ボスが受けるかどうかは分からん。 それがこちらの返事だ」セシルが言った。それがI・C以外の和平派特務員の総意でもあった。
「……!」イリヤは、今度は、来た時とは逆に足音も荒く去って行った。
「あれ、戦争しねえの?」I・Cがその後で、和平派特務員達に向かってつまらなさそうに言った。「戦争は楽しいぞ、人がいっぱい死ぬ。 そして人間も魔族も戦争を通して進化してきた。 時代を変えたかったら戦争が一番だってのに」
「……もう飽きた。 我々は戦争には飽きたのだよ」ランドルフが言った。老成した雰囲気を持つ彼は、和平派幹部マグダレニャンの秘書を今はやっていた。「もう沢山だ。 もう良いのだよ。 I・C、戦争が我々を進化させたのは確かなのかも知れないけれど、平和が無ければ我々が安心して暮らせないのも事実なのだよ。 さて、では私がマグダ様にお伝えしに行こう」
紳士的にそう言って、ランドルフは部屋を出て行った。
「つまんねえの」I・Cは机の上に足を乗せて、あくびをした。「平和な方が世界は異常だってのによ、誰もそれに気づきゃしねえ」
執務室の隅で、哀れな猫が震えている。雷を落とさんとする曇天のような雰囲気が辺りに充満しているからだ。
「……ヴィトゲンシュタイン社が、
マグダレニャンは書類を見た途端に、険しい顔をする。先日和平派により滅ぼされたカルバリア共和国、そこに本社があった国際軍事企業、ヴィトゲンシュタイン社が、世界最悪のテロリスト指定を受けている暗殺組織『デュナミス』と提携していた事が判明し、和平派はこの軍事企業を根絶させるべく動いていた。しかも『デュナミス』は過激派とも癒着していたのだ。もう滅茶苦茶である。
「ええ」とランドルフは頷き、「表向きはヴィトゲンシュタイン社の寄付によって存続している福祉施設の一つである障害児育成所、ですがその実態は合成人間の研究所のようです。 A.D.研究の行きついた果ての……」
A.D.とはいわゆる超能力者の事だ。人間でありながら魔族のような不思議な力を所持している者を指して言う。かつて聖人や預言者と呼ばれた事もあった。
「……ニナとフィオナが聞けば卒倒しそうな話ですわね。 調査と制圧のために誰を行かせるべきかしら……」彼女は少し考えたが、「シャマイムとグゼ、そしてI・Cに行かせましょう。 任務を発令します」
「承知いたしました」とランドルフはかしこまった。
「それと強硬派のイリヤからの依頼の件ですが、和平派幹部の総会にて返事を決定します」マグダレニャンは続けて言った。「私個人の意見ですけれど、この際に過激派を攻める事は賛成ですわ。 過激派は危険すぎます。 そして残った穏健派とならば、恒久和平条約の交渉もようやく始められるでしょう」
「同感です」ランドルフはきっぱりと言った。「恐らくマグダ様、貴方様のお父上もそうされただろうと私は思います。 そしてその御遺志を継がれる事は、貴方様にとってはもはや悲願。 いえ、至上使命であらせられる。 もう、もう世界戦争には我々は飽きたのです。 本当に今の、そしてこれからの我々に必要なものは何か。 あの御方はそれをご存じでいらっしゃった。 正に『聖王』であそばされた」
マグダレニャンは少しだけ笑い、
「父が聞けば、『そんな言い方は止めてくれ』と困ったように返事したでしょうね」
「A.D.研究? 合成人間?」I・Cはあぐらをかいて酒瓶を持っていたが、急にご機嫌になって笑い出す。「ぎゃはははははは、またニナとフィオナみたいなのが出てくるのか! こりゃ正しく傑作だ!」
「……」いつもは何か言い返すであろうニナが、真っ青な顔をして何も言わない。妹のフィオナはそれに加えてがたがたと震えている。
「I・C、止めたまえ!」普段は穏やかなランドルフが、怒っている感情を隠さずに言った。「彼女達がどんな目に遭ってきたか、I・Cも見ただろうに!」
「そんなのもう忘れたー」
「I・C、貴様ッ!」ランドルフが怒鳴りかけたのを、シャマイムが制した。
「ランドルフ、ニナとフィオナの現在の精神状態に、怒声は大変な悪影響だ。 冷静に対処する事を推奨する」
「……済まない。 そうだな、シャマイム」ランドルフは一呼吸をして言った。「私の引退試合があの研究所の案件だったからな……まだ思い入れがあるのかも知れない」
「了解した」シャマイムはそう言うと、何か用事があるのか、去って行った。
「……ランドルフさん」とグゼが言った。彼らは和平派拠点ビルのロビーにいた。「あの事件――『A.D.造成事件』の真相は何だったんですか?」
「グゼ君。 言いたくない。 とても言いたくない」ランドルフは重い顔をして、「だがグゼ君も目の当たりにするだろう、人間の恐ろしさを、おぞましさを」
そこにシャマイムがココアの入ったマグカップを持って戻ってきた。震えている双子にそれを渡す。
「……ありがとね、シャマイム」ニナが小声で言った。
「精神的苦痛が耐えられない段階であればカウンセリングを受ける事を推奨する」シャマイムは機械的に言った。「もしくは投薬治療を受けるべきだ」
「……大丈夫。 もう、大丈夫」フィオナが言った。「シャマイムがいれば、私達は、大丈夫だから」
「了解した」と淡々とシャマイムは言った。過度に甘やかすのでもなく、かと言って突き放すでもなく、お互いがお互いをきちんと認識できる距離感を持って。
「そうか、禁じられている違法なA.D.研究所なのか……」シャマイム(車)の運転席に乗りながら、グゼがぽつりと言った。「俺もそこにいた」
『グゼ?』今は車の形になり、自動走行しているシャマイムが不思議そうな声を出す。彼らは今、列強諸国の一つアルバイシン王国の街ラカサスにいた。ここは表向きこそアルバイシン王国の領土ではあるが、万魔殿の実効支配が及んでいる特別地域だ。この街の郊外に、ヴィトゲンシュタイン社が密かに設営していた違法なA.D.研究所があって、そこの調査と制圧のために彼らは移動しているのだ。『今の発言の詳細な説明を要求する』
「いや、な……俺も幼い時はA.D.研究所にいたんだ、それも違法な」
『グゼは「リクドー」出身だと自分には登録されている』
「そうだ。 俺はな、幼い頃に妹を連れてそこを脱走して、でも行き詰った所を父親に救われたんだ。 その父親が『六道』の人間でな……あの人が全力で俺達を守って庇ってくれたから、俺は今ここにいられる。 血の繋がりこそ無いが、俺の父親はあの人しかいない」
『了解した』
「お前ファザコンなの?」後部座席で寝ていたI・Cが、どうでも良さそうに言った。
「ああ、そうだ」グゼは言ってから、目を細めた。「俺に、俺の力で生きていく方法を教えてくれた。 親の本当の愛情と言うのは、子供に子供自身の力で生きていけるように育てるものじゃないかと俺は思う」
「うぷぷぷぷ」I・Cの顔にあざけりが浮かぶ。「一見美談に聞こえるがよ、それが結局はテメエを暗殺者に育て上げたのか。 何て素敵な愛情だ」
「何とでも言え」
「じゃあ言うぜ。 テメエの親父はただのクソッタレだ。 だってまともな神経をしていたら子供をだ、それも可愛がっている子供をだ、人殺しのドブネズミみたいな仕事に就けるよう育てるなんて真似は絶対にしねえよ。 紛れも無い偽善なのにテメエは盛大に勘違いしていやがる。 可哀相なグゼちゃんは偽善に気付けない! まだ虐待とかされていたらお前も真実を見られたんだろうがな、優しさと言うのはこの世で最も残酷で、真実を霧の中に隠してしまうのさ」
「……」
『I・C、I・Cにグゼの父親を評論する資格は無いと判断する』シャマイムが珍しく食ってかかった。『グゼの心証を考慮する事を』
と言いかけた所でI・Cが怒鳴った。
「黙れポンコツが! 俺は真実を言ってやったんだぞ!」
『否。 この場合の真実とはグゼが認めたものだ』
グゼがそこで次のように言った。グゼは怒っても気分を害してもいなかった。何故なら彼は父親の愛情を絶対的に確信していたからだ。たとえ神がそれを全否定しようと、彼は自信を持って全肯定するだろう。
「シャマイム、俺のために反論してくれてありがとう。 でも俺は大丈夫だ。 俺の父親はI・Cみたいなろくでなしじゃなかった。 俺と妹を守ってくれて、本当に可愛がってくれた。 誰がどう言おうと俺は心底親父が好きだった。 それが俺にとっての全てだよ」
『了解した』
「ケッ」I・Cが舌打ちをした。「どいつもこいつも死ねば良いのに」
――ランドルフは形相を変えていた。いつもは温和なこの男が、並大抵の事では動じない百戦錬磨の魔族の特務員が、今にも爆発しそうな顔をしていた。
目の前に広がる光景は、人の尊厳を台無しにした上に、人の全てが醜く歪んでいて、もしも人類愛があるのならば、これ以上醜く歪む前に全人類を殺して粛清してやらねばならない、とまで思わせるほどのものだった。
奇形児や元々は人間のような生物だったと思われる標本が、ずらりと、謎の液体に入れられて、数多の実験装置や培養槽の中で無数に揺らいでいる。
「これは……!」
人類のクローン研究が厳禁され技術も封印されてしまった今現在、その代償に合成人間の研究が進んでいる。ただの人造の人間の研究では無い。人工合成した人間に魔族の特殊能力を植え付けて、人間のA.D.能力を研究開発する代物だ。もしも成功したならば、大幅な軍事力の強化に繋がる。それはこの世界大戦の起きている世界では切に求められているものであった。ランドルフらのボスは言った、『だがそれは聖教機構の教義倫理を破壊し生命の禁忌を犯している』と。
今、ランドルフはその言葉に心底同感した。この有様を見て彼は愉悦を感じられるほど狂ってはいなかった。
「ボスのおっしゃった合成人間の失敗作だと考えられる」シャマイムが言う。「ランドルフ、ここで待機する事を自分は推奨する。 ランドルフの精神的苦痛は、これより先に侵入した場合、加算されるだろう」
「……いや、行くよ」ランドルフは首を横に振った。「行かねばならない。 私も真実を知らねばならない。 A.D.研究の行きついた果てを!」
「……了解した」
「うっわーグローい!」I・Cだけがにやにやと笑っている。「おいランドルフこれ見ろよ、右腕が五本もあるぜ! こっちは目ん玉が三つだ! すげえすげえ、人の遺伝子を極端にいじくるとこうなるのか、ぎゃはははははははは!」
「I・C」ランドルフは呆れてしまった。怒る段階は既に通り越している。「お前こそここで待っているべきじゃあないのかね?」
「やだ。 もっと俺は面白いものが見たい!」
I・Cは邪悪に、そう言った。
電子ロックをシャマイムが解除し、三人は研究所の奥へと侵入した。そこはまるで地獄のようであった。地獄の門はくぐる時に一切の希望を捨てねばならない。研究員が何人も、人間とも化物とも区別のつかぬ生物を虐待したり、気まぐれに殺して解剖したりしていた。研究員は全員シャマイムの麻酔弾で眠らされ、彼らは最深部の、厳重なセキュリティロックのかかった扉の前に立つ。シャマイムが開錠して、罠に注意しつつランドルフが一番に飛び込んだ。
「! 貴様は誰だ、どうやってここまで入ってきた!?」所長と思しき老人が怒鳴った。ランドルフはついにのど元までこみ上げる嘔吐感を覚えた。老人は下半身が裸で、そして双子の女の子に奉仕させていたからである。
「当研究所所長、オレク・ニキートヴィチ・ロマネンコと虹彩により特定。 投降しろ」シャマイムが二丁拳銃サラピスを構えて言う。「こちらは聖教機構だ」
「ッ!」老人は、だが、邪悪な顔になった。「生憎とこちらにはそのつもりは無い! おい、『ステンノー』、『エウリュアレー』、行け!」
「「……」」双子がシャマイム達を無感動な目で見た。そして、襲いかかってきた。
「――『永眠への道連れ』」
だが、ランドルフが
「な、何をした!?」
「少しお寝んねしてもらっただけだよ」ランドルフは続けて鎌を振るう。老人の両腕が切断された。絶叫を上げる老人を、彼は酷く冷たい目で見ている。「本音を言うと貴方には今すぐこの場で永眠してもらいたかったのだがね」
「げえ」I・Cが倒れた双子をよく観察するなり、嫌そうな声を上げた。「貧乳じゃん、死ねば良いのに」
「う、うう……」その二人の内、一人が目を覚ました。「……」
彼女は全く生気の無い目で彼らをぼんやりと見つめる。老人がわめいた。
「何をやっている、コイツらを殺せ! 早く殺せ!」
「……」彼女は、立ち上がった。
「洗脳もしくは命令系統を解除する必要がある」シャマイムが老人の耳に大型拳銃サラピスの銃口を押し付けた。「命令だ、即刻解除しろ」
「だ、誰が――ぎゃああああああああああッ!」
耳元で放たれた銃弾に外耳を吹き飛ばされ、老人はのた打ち回る。
それを踏みつけてランドルフが紳士的に言った。
「解除したら貴方の命だけは助けてやろう。 どうかな?」
老人は蜘蛛の糸に飛びついた。
「する、するから――命だけは!」
命令系統が変更されて、双子は束縛から解放された。けれど相も変わらずぼうっとしていて、彼女達は人形の様だった。
「どうしたものでしょうか」とランドルフは通信端末で彼らのボスに訊ねる。既に聖教機構和平派軍によりこの研究施設は完全に制圧され、研究員達及び所長は拘束連行されようとしている。
『そうですわね……』とボスは少し考え込む。
その時だった、シャマイムが気付いた。
「ボス、彼女達の染色体を精査した結果、彼女達は合成人間である可能性が発生した」
『何ですって!?』
「遺伝子構造が人間や魔族とはわずかに異なっている。 これは合成人間である可能性を排除しては論証しえない事象だと判断した」
『……良いでしょう、その双子を連れ帰りなさい。 詳しく調査させる必要がありますわ』
「あ、ボス」I・Cが今更やって来て、言った。「あのジジイはどうする? 取りあえず足は二本もぎ取ってみたんだが、次は目ん玉くり抜いて良いか? とにかく殺さなきゃ良いんだろ?」
『……合成人間をいかにして作り出したか、それを聞きだすまではお止めなさい』
「へいへい」
双子は体を寄せ合って、震えている。寒くは無いはずなのだが、怯えているのだろうか。シャマイムがココアをマグカップに温めに淹れて持ってきた。双子は不思議そうな顔で、シャマイムと、ココアを交互に見る。シャマイムはココアを差し出した。双子はしばらくそれを見つめていたが、犬のように舌を出して、ココアを舐めた。シャマイムは何も言わなかった。次の瞬間双子はマグカップを奪って、まるで貪るかのように舐め始めた。舐め終える頃、シャマイムはお代わりを持ってきた。結局双子は五杯近く飲んで、寝てしまった。
「脳髄同調転移接続(シンパシー・アクセス)をやってみる?」マッドサイエンティストのエステバンが言い出した。「この双子の脳波とシャマイムの
「了解した」
――シャマイムが出現した先の世界は、穏やかな風が駆け抜ける草原だった。地の果てまで緑が覆っていて、柔らかな雲を乗せた青空がその上にあった。シャマイムはふと、天国がもしもあるのならばこのような穏やかで優しい世界なのだろうな、と思った。
「え、えーと」と転移された双子の姉らしき少女が口を開いて、びっくりした顔をする。「話せる! 私、話せるよ!? 何で!? どうして!? うるさいのは嫌だって、声帯を取られたのに!」
「ここはいわゆる精神世界で、物質的な情報伝達手段の必要は無い」
シャマイムは説明した。すると、妹らしき方が、
「あ……本当だ。 思っただけで言葉になるや。 あの……ところで、貴方は誰?」
「シャマイムだ」とシャマイムは己の正式名称:「
「兵器、か……私達も、それになるためにいっぱい実験を受けてきたんだ」姉が言う。「あまり楽しい実験じゃなかったけれど」
「……」シャマイムは黙って聞いている。
「……あのね」妹が言った。「A.D.とか、合成人間って知っている?」
「人間でありながら魔族のような特殊能力を所持する人間をA.D.、クローンでも無く人間でも無く、遺伝的にわずかに人間とも魔族とも異なる人造人間をこちらでは合成人間と呼称している」
「うん、そんな感じ。 でもね、合成人間には弱点があるの」姉が言った。
「?」
「……肉体を完成させるのはまだ出来たの。 でも、精神がそれに追いつかないと、役立たずなの」妹が交代して言う。「……だから私達はいっぱい実験をされたの。 私達は、まだ耐えられたの。 でもね、メデューサは耐えられなくて、処分されたの……」
「メデューサ?」
「私達の友達。 凄く、凄く良い子だった。 でも、優し過ぎたんだと思う、だから心を壊されて……」
「……」処分。恐らくはあの実験装置や培養装置が無数に並び立っていた中の標本の一つにされたのか、あるいはシャマイム達が研究施設への侵入経路にした地下廃棄物処理施設に放り込まれたのか。「……」
シャマイムの手に、マグカップが二つ現れる。現実世界でのデータを元にシャマイムがここでも再構成したのだ。
そこから立ち込める匂いに、双子の顔が少しだけ明るくなった。
「これ、もっと食べても良い!?」
「是」
それからシャマイムは双子と色々な話をした。双子が今まで置かれていた環境の異常さを時間をかけて認識させて、洗脳やすり込みを一つずつ解除して行った。まるで幼い子供を育てるようだった。自分の意見を言っただけで不当な暴行を受けはしない事、ただし人を傷つける発言は慎む事、ココアは舐めるのではなくて飲むものだと言う事、嬉しい時には嬉しがっても良い事、不条理な暴力や暴言は許されないものだと言う事、悲しくて泣きたい時には泣いても良い事、ごくごく当たり前の事だった。
シャマイムが信じるに値する存在だと分かると、双子はとにかく喋った。今までお喋りなんて許されていなかったので、まるで溜まっていたものを溢れさせるように喋った。
「私達はね、『ゴルゴン』って呼ばれていたの。 本当は三人のはずだったの」
「……」
「……でも、メデューサは処分されちゃった。 いつもどんな時でも三人でいたのに。 『役立たず』って言われて、でもあの子はその意味さえ分からないくらいに壊されていたの、それで処分されたのよ」
「……」シャマイムは黙って聞いていたが、その全ての実情を今では知っていた。
あの老人が一切合切白状したのだ。それをつい先ほどデータ通信でシャマイムも知った。壊れた合成人間や出来損ないの人間もどきは全てデータを取りつくした後にそう言う性癖の連中に、研究費のために売りとばしたのだと。老人はその連中の名前すらぶちまけた。その中には相当な社会的地位を所持する者もいたために、今、大問題になっている。倫理も道徳もどこにも無い、人間の最も醜い部分を、それこそ発覚したら極刑に処されても文句の言えないほどの行為を、公にされるのだから。そして老人は最後に言った、研究所でそうやって処分したもの全てには、遅行性の毒物を注射して、後腐れがないようにした、と。
「……あの」と双子の一人がおずおずと言う。「これから私達、どうされるの?」
「現時点での処遇はまだ決定していない。 だが、我々は絶対に肉体的及び精神的暴行は行わない。 嫌な事は明言すれば配慮する。 ここに存在して我々に不都合な懸案は今後一切発生しない」
「……ええと、つまり、処分されないって事?」
「是」
ぱーっと双子の顔が明るくなった。
「ご飯食べても良いの!?」
「是」
「ぶたれたりしない?」
「無意味な暴力を行使する理由は現時点では存在しない」
「ココア飲みたい!」
「了解した」
――そこに、いきなりエステバンの声が響いた。
『大変だシャマイム、起きてくれ!』
「エステバン?」
その声が悲鳴に近かったので、シャマイムは同調転移接続を強制解除した。
現実では、銃を突き付けられたエステバンと、武装集団に占領されたラボがあった。
「貴様ら、まさか、あの『A.D.造成事件』で告発された連中の――!?」
言いかけたエステバンが、殴られて倒れた。
「分かっているなら死んでもらおうか」
そう言った主犯格らしき男がマシンガンの引き金に指をかける。
シャマイムは事態を悟った。告発された連中が、生きた証人であるあの双子を消そうと彼らを差し向けたのだ。シャマイムは咄嗟に、拳銃サラピスを撃った。それはラボの照明を直撃し、元々密閉空間であったラボは一瞬で闇に覆われた。
「「しまった!」」
「――赤外線視認の開始」シャマイムは視覚を切り替えた。暗闇の中でもシャマイムは即座に行動できるのだ。「戦闘開始」
銃声が入り乱れ、悲鳴が上がり、硝煙と血の匂いが充満する。
「しゃ、シャマイム!」エステバンが叫んだ。
「増援の伝達を要請する、エステバン」彼を背後に庇って、シャマイムは言った。
「分かっている、特務員のみんなを呼んでくるよ!」
シャマイムはエステバンを逃げさせて、そして残った主犯格の男と対峙した。エステバンの開けたラボのドアから、まぶしい光が差しこんでくる。
だが、その隙に主犯格らしきその男は、寝ていた双子を人質に取っていた。双子は銃声と血臭に完全に怯えていて、ラボの隅で寄せ合って震えていた。
「おい、こっちに来い!」男は双子を足蹴にして引きずる。双子の背後に回って、銃を突きつけた。「おい、武器を捨てろ! さもなきゃ分かっているだろうな!?」
「……」
この非常事態を知り、あるいはエステバンに呼ばれて、他の特務員がラボに駆けつけるまで、最短で三〇秒。その三〇秒を稼ぐためにシャマイムはサラピスを手放した。そして、言った。
「貴様が逃げる事は完全に不可能だ。 抵抗を止め、投降しろ」
「誰がそんな事を!」そう言って男はシャマイムに、見せびらかすように電撃弾を装填してみせた。「お前は兵器だから、こう言うのに弱いんだろう?」
シャマイムは動かない。動けば双子が代わりに殺されるからだ。
「あばよ、永遠にな!」
電撃弾がシャマイムに命中した。凄まじい電流が走り、シャマイムの意識が飛びかける。だがシャマイムはその時には三〇秒が経った事を確信していた。
「シャマイム!」我先にランドルフ達がラボに突入してきた。「しっかりしろ、シャマイム!」
「おっと」男は双子を人質に、逃げ出そうとした。「コイツらの命が惜しかったら、出て行きな!」
「くッ!」
その時、双子の手が、金属的な光を放った。そして彼女達はその手を、男の体に触れさせた。
「!?」
それはまるで、古代の伝承に出てくる、恐ろしい化物の女達のようだった。あまりにもその姿は恐ろしくて、直に目にしただけで、人々はことごとく石像と化したと言う。ましてや直に接触すれば――。
男が絶叫をあげた。「ぎゃあああああああああああああああああッ! 体が、体が――!」
ランドルフ達もぎょっとした。男の体が、ぼろぼろと、まるで砂で出来ていたかのように崩れていくのである。否、灰になって散っていくのである。
シャマイムが、どうにか動けるようになった時には、そこには一握りの灰の塊があるきりだった。
「「!」」シャマイムが起き上がった途端に、双子はシャマイムにくっ付いて、離れようとしない。他の特務員達に対して明らかに怯えている。
「い、一体、今のは――」特務員の一人がつぶやくと、シャマイムが言った。
「接触した物体の構成組織原子を異なる原子へと瞬間変異させる能力だ。 A.D.研究所では『ステンノー』、『エウリュアレー』と呼称されていた」
――ラボのモニターに、シャマイム達のボスが映る。
『撃退ご苦労』と彼女は言った。『シャマイム、その子らは異端審問裁判の証人席に立たせる事は出来そうですか?』
「ボス、それには彼女達の声帯の再生と、説得が必要だと自分は判断する。 同調転移接続の再開をエステバンに依頼したい」
彼らのボスは険しい顔をした。虐待の事実は知っていた。しかし目の当たりにすると、どうしても快い気分にはなれない。
『……声帯をも切除されたのですか。 分かりましたわ、そうしましょう』
「シャマイム、大丈夫!?」
あの穏やかな世界に戻った二人と一機は、また会話を始める。
「問題ない」とシャマイムは言った。「自己修復機能も自分には備わっている」
「良かった!」と双子はほっとした顔をする。「ところで、あの人達は誰? 怖い顔をしていたけれど……」
「自分と同じ和平派特務員だ。 敵では無い」
「とくむいん……?」
シャマイムは説明した。この世界では世界戦争が繰り広げられている事、聖教機構の敵対組織万魔殿との第一一九次世界大戦の真っ最中であると言う事、その原因は聖教機構最高指導者『聖王』と万魔殿最高指導者『大帝』が同時に行方不明になったためである事、特務員とは聖教機構の精鋭であり、表に出せる仕事から極秘の仕事までやる上級構成員であると言う事、そして今の聖教機構は内部分裂を起こしていて、強硬派と和平派の対立が激しくなっていると言う事。
「そうなんだ……」と姉は言った。
「……凄く大変なんだね」妹は静かに頷いた。
シャマイムは言ってみたものかどうかためらったが、命令であるので言った。
「異端審問裁判の証人席に立てるか?」
「いたんしんもんさいばん?」
「それ、何?」
「聖教機構の教義に違反した、もしくは存在が大悪だと断定された対象を裁く裁判だ。 判決は全て死刑か死刑に匹敵する科刑だと決定している。 だが異端審問裁判を起こすには証人ないし決定的証拠が不可欠だ」
「シャマイムが出て欲しいって言うなら、私、証人になるよ?」
「……うん。 シャマイムの言う事なら聞くよ」
双子はあっさりと言ったが、シャマイムは違った。
「出廷するか否かは、自分からの要請の有無ではなく、そちらの意志で決めて欲しい」
「……自分の頭で考えろ、って事?」双子が目を丸くした。
「是。 出廷した場合、精神的苦痛を与えられる可能性が非常に高い。 証人として証人席に立った場合、過去の苦痛な出来事を詳細に発言する事を要求される。 よって自分からの要請で出廷するのではなく、出廷の有無は自己の判断で行って欲しい。 自分はどちらでも構わない。 仮に出廷しないと判断しても、我々は一切危害を加えないと約束する。 否、全力で自分が阻止する」
「「……」」双子は考え込んだ。その時だった。
「馬鹿じゃねえの?」邪魔者が、三人の世界に侵入してきた。「そんな事をしたらシャマイム、お前は廃棄処分だ。 廃棄処分って意味分かっているか、そこの乳無しのメスガキ共? 溶鉱炉にぶち込まれるんだよ、一切の存在してきた痕跡を残さないために。 んで、シャマイムの代替品がシャマイムに取って代わる」
I・Cだった。シャマイムは双子を背中に庇いつつ、言った。
「どうやってこの世界に侵入した、I・C?」
「簡単だ、たかが脳波を同調させて世界を転移すれば良いだけなんだからな。 この仮想世界に飛ぶ程度なんざ、
「……シャマイム、この人、誰?」双子はまた怯えている。
「最重要危険人物だ。 接近した場合、危害を加えられる恐れが非常に高い」シャマイムは続けて言った。「この世界に侵入した理由は何だ、I・C?」
「シャマイムがシャマイムだから、間違いなくそこのメスガキ共に『嫌なら出廷しなくても良い』って言うと思ってな。 俺にしては物凄く親切に、『それはいけない事だ』と忠告しに来てやったんだ」
「……」シャマイムは黙る。
「……どうして、いけない事なの?」双子が恐る恐る聞いた。
「メスガキ共、お前らはシャマイムが好きなんだろう?」いやらしい笑いを顔に浮かべて彼は言う。「好きだったら異端審問裁判に出廷しろ。 さもなくばシャマイムは処分されるぞ? 分解されるか溶鉱炉に突き落とされるか、まあ具体的な処分方法は俺もまだ知らんがな」
「……な、何でシャマイムが処分されなきゃいけないの!? シャマイムは何も悪い事していないじゃない! どうして――どうして処分されるの!?」
「命令違反だからさ」I・Cは下卑た様子で言う。「シャマイムの現在の至上任務はメスガキ共、お前達を説得して異端審問裁判に出廷させる事だ。 あそこは楽しいぞ? メスガキ共、お前達のトラウマと言うトラウマを根こそぎ掘り起こされて、あのジジイのしなびたペニスをしゃぶらされましたーって衆人環視の前で言わなきゃならない。 嫌だろう? 嫌だろう、おい? だがそう言わなかったら最後、シャマイムは任務違反で処分される。 処分しなきゃならん。 だってボスの言う事を聞かなかったんだからな。 シャマイムが処分されたとして、まあお前達は虐待はされんだろうな。 ボスは不要な暴力を好まないから。 だがシャマイム無しで今のお前達は生きていけるか? 生きていけるなら否と言え、嫌だったら是と言え。 おい、何を怖がっているんだ、答えろよ、おい?」
「I・C、」と反論しかけたシャマイムは、後ろから抱き付かれて言葉を失う。
「分かった、出る、出るよ!」双子だった。双子が抱き付いて、叫んだのだ。
「凄く嫌だけれど、シャマイムがいなくなる方が嫌だ!」
「……」シャマイムは珍しく、何と言えば良いのか分からないでいる。
「大丈夫」双子は、言った。自分の頭で考えた結果、そう言った。
「シャマイムがココアを淹れてくれるなら、私達、大丈夫だから」
……セカンドレイプと言う言葉があるが、正にそれであった。双子は公衆の面前で二度目の辱めを受けた。しかも今度は徹底的に、忘れたくて、かつ隠しておきたい全てを白状させられたのだ。言いたくも無い事を再生された声帯を使って言わされ、思い出したくも無い記憶をよみがえらされた。傍聴席の人々が顔色を変え、女性が失神しかけるほどの、おぞましい過去の数々を。それは絶望する事さえ許されなかった人生であった。希望や、何らかの望みや、それらを持つ事を許された事などただの一度も無かったのだから。
裁判が結審した日の夜、双子はシャマイムの淹れたココアを飲んだ途端に、泣き出した。わあわあと声を上げて泣く二人の側に、シャマイムはいた。そしてタオルを差し出す。双子の涙と鼻水でそれがぐしゃぐしゃになってしまうと、また新しいタオルを差し出した。泣き疲れた双子が眠ると、シャマイムは二人をベッドに運んで、毛布をかけた。
「……シャマイム」そこにランドルフがやって来た。異端審問裁判が彼らのボスの望みどおりに進行して良かったと思う一方で、そのためにこの双子の酷い過去を目の当たりにした事もあって、複雑な顔をしていた。「この双子を、我々は今後どう処遇するべきだろうか……?」
「ボスの判断に従うべきだ」シャマイムは言った。「だが今は、彼女達が悪夢を見ないようにランドルフに依頼する」
「ああ。 そうだ、そうするよ」ランドルフはゆっくりと手をベッドの方へと突き出した。「――楽しい夢を、お嬢さん方」
『まずは双子の意思を聞きましょう』シャマイムらの主、マグダレニャンがモニターの向こうから言った。『「ステンノー」、「エウリュアレー」、貴方達はこれからどうしたいのですか?』
「……シャマイムと一緒にいたいです」
「シャマイムと一緒にいられるなら、何でもします」
『なるほど』マグダレニャンは少しだけ笑う、シャマイムは基本的に人から嫌われた事が無いのである。兵器であるのにも関わらず。『やはりそうですわねえ。 ……もしもそれを強く望むのであれば、方法が無い訳ではありません』
「「!」」双子の目が輝いた。
『ですが』と彼女は言った。『それは決して楽な道ではありませんわよ?』
「……今まで以上に辛くても、シャマイムが一緒なら大丈夫です」
「そうです、シャマイムが一緒なら、今まで以上に酷い目に遭う事なんて無いです。 だって、シャマイムのココアは美味しいから」
双子は口々にそう言い切った。マグダレニャンはなるほど、ともう一度言って、
『では、特務員訓練施設へ貴方達を移送します。 和平派の正式な特務員になれたならば、貴方達はシャマイムの同僚になりますから、一緒にいられますわ』
「「はい!」」
「訓練は過酷だが、君達ならば特務員になって戻って来られるよ」ランドルフが穏やかに言った。「何せ、君達は己の頭で判断して行動した。 人の言いなりにでは無く、己の意志で動いた。 だから大丈夫だ」
「ランドルフのおじさん、ありがとう!」
「……ありがとう」
双子は少し微笑んで、はにかみつつ言った。
やっと他の人にも笑顔を見せるようになったのか、とランドルフは少し感動した。
『そう言えば』マグダレニャンが訊ねた。『貴方達の名前は何かしら? 「ステンノー」、「エウリュアレー」はどちらかと言えば能力名でしょうし……』
「……N一N-A、F-一〇N‐A、が個体名称でした」
「略してニナ、フィオナって呼ばれていました」
『……そうですか』マグダレニャンは頷いた。『では、ニナ、フィオナをシャマイムは訓練施設へ移送させなさい。 それが終わり次第、シャマイムには次の任務を発令しますわ』
「了解した、ボス」シャマイムは頷いた。
――「待ってくれ!」とグゼがいきなり叫んだ。
『グゼ?』シャマイムは路肩に停車した。
既に彼らはラカサスの郊外にいた。遠くには海が見えていた。
グゼは車窓からきょろきょろと周囲を見渡していたが、
「……ここに俺は来た事がある。 ぼんやりとだが覚えている。 俺はこの景色をずっと昔に見た事がある……間違いない。 ここは俺がいたあの研究所の景色だ」
「お前がガキの頃にいたって言った、あの?」I・Cがのそのそと起き上がった。
「そうだ。 一度俺の親父が潰してくれたのに、まだ存続していたのか……」
「お前の親父が潰した? どう言う事だ?」
「俺は妹を連れて脱走したんだ。 当然、追跡者がいたはずだ。 だが親父が俺達を守るために、研究所ごと潰したんだ。 だから俺は今まで生きていられた」
「お前の親父って魔族だったのか?」
「いや、ただの人間だった。 口癖で人間なんか嫌いだと言っていたが、本当は誰よりも好きだった。 ……まあ、凄腕の暗殺者だったんだがな……」
『自分の推測だが』シャマイムは言った。『グゼの父親は研究者の殺害には成功したが、研究施設の完全破壊までは可能では無かった、よって無人の施設をヴィトゲンシュタイン社が発見し、再利用した可能性がある』
「だろうな。 きっとそうだろう」グゼはつぶやいたが、そこで彼はいきなり形相を変えた。「――危険だ!」
「ケッ、何がどう危険なんだ?」I・Cがうっとうしそうに訊ねた。
「……カルバリア共和国の首都カルバリーにあったヴィトゲンシュタイン本社が聖教機構和平派により滅んだ、とすると研究所もそれを知って施設から撤退するだろう、カルバリアと『デュナミス』が手を組んでいたのだから、当然ヴィトゲンシュタイン社と『デュナミス』が関連していると気付いた和平派の手が研究所まで伸びてくるのは時間の問題だ。 とすれば研究所は置き土産を俺達に残して逃げていくだろう。 それが、俺の感じた『危険』だ」
「あーはいはい分かった分かった」I・Cは面倒そうに、「グゼはだったら後ろで震えていろ。 おいシャマイム、コイツを置いてけ。 邪魔だから」
「――いや」グゼは青ざめた顔ではあったものの、はっきりと言った。「俺は行く。 俺の親父が見たものを、俺も見る必要がある。 それに、もしかしたら俺が使った脱出経路が今でも使えるかも知れない」
『了解した』シャマイムが機械的に答えた。
その脱出経路を使って、二人と一機は研究所の中に入った。ものの見事に無人であった。だが、わずかに漂う何かの腐敗臭、鼻につく消毒液や、錆びた鉄に似た臭いが、そこでかつて何が行われていたのかを如実に語っていた。
「……思い出した。 思い出したくも無かったんだがな……」グゼは空っぽの檻を見つめて言った。「俺はこの中にいて、毎日のように虐待を受けていた。 ……良く死ななかったものだ。 どんどんと周りの子供は死んでいったのに……」
「死ねば良かったのにな」I・Cはどうでも良さそうに言う。「何なら今ここで俺が殺してやろうか?」
「俺がいなくなってもI・C、お前には絶対に女からモテるなんて事は無いぞ。 お前と世界に二人きりになるくらいなら女は自殺する方を選ぶだろう」
「何だと!?」I・Cは逆上した。シャマイムがそれをなだめて、
「現在の至上任務は当研究所の調査だ。 口論では無い。 ……?」
シャマイムが一瞬黙った直後に、サラピスを構えた。グゼはナイフを両手にし、I・Cはムチを手にする。
「へえ」と彼らの前に妖艶なアルビノの美青年が出現して、何かを非常に楽しみにしているかのように口角を吊り上げる。「直にこうやって私が目の前に出てくるのは初めてだね、
「……あー。 『
「魔王、やはりどうも貴様は下品だね。 どうしてだろう、他の大天使の方々には品性があるのに。 どうも貴様は醜いな。 醜くてたまらない」とレスタトは余裕のある様子で言う。I・Cは平然と、
「美醜なんか、美的価値なんざ、ちょっとした事でころころ変わるもんだぜ?」
「I・C、この男はどこの誰だ?」グゼが訊ねるとI・Cは、
「話しただろう、この前に大天使の一匹ラファエルの創り出した怪物連中の一匹がヴァナヘイム本部を強襲して、とんでもない被害を出したって。 コイツはその怪物の筆頭格だ」
「あの世界最強の傭兵都市ヴァナヘイムの中枢を破壊しかけた化物共の筆頭格か……」グゼは脂汗をかいている。何故なら目の前の敵は危険そのものだからだ。
「ついでにラファエルの愛人なんだぜ」どうでも良い事をI・Cは言った。「同性愛者なんざ皆殺しだってソドムとゴモラを滅ぼした癖に、自分達にだけは甘いんだよなあ。 で、ラファエル達は何を企んでいるんだ?」
「貴様を殺す事、さ」レスタトはあっさりと言った。「殺して殺して殺し潰す。 殺して殺して殺し犯す。 殺して殺して殺し尽す。 殺して殺して殺し終わらす」
「この俺が長い事努力して試行錯誤してその挙句諦めた事を、代行してくれるのか、そりゃありがとう。 だったら早速やってくれ。 ほら、今すぐにだ」
「I・C!?」
「I・C、とうとう狂ったのか!?」
I・Cはグゼやシャマイムの制止の声をも聞かずに、レスタトに近付いていく。
「まだ現段階ではその調査中さ。 それに私は、今は個人的な興味で貴様に接触している」レスタトは
「個人的な興味?」
I・Cは手を伸ばせばレスタトに触れられる、その距離で足を止めた。レスタトはまだ微笑んでいる。
「そうだ。 まだ我が主からも他の大天使の皆様からも貴様を殺せとの命令は下っていない。 でも私は一度直に貴様に会って見たかった。 だから今は私は何もしない、いや――する訳には行かないんだよ」
「へーえ。 じゃあ俺は精々その瞬間を楽しみにそれまでの長い時間を潰そう。 そうだな」I・Cは邪悪で残虐な顔をして、「テメエを分解したら結構な暇つぶしになるんじゃないか?」
「止めておくべきだね」レスタトがそう言った時、だった。「大体今はそれどころじゃあないよ?」
「シャマイム逃げろ!」グゼが血相を変えて背後を見た時、シャマイムが、吹っ飛んだ。攻撃をかわすため、自ら床を蹴って飛んだのだ。シャマイムは空中で体勢を変えて、壁面に着地する。
シャマイムは背後にいた敵性体を視認した。がりがりに痩せた幼い少女だった。
「その子はね」レスタトは姿を消した。声だけ、響く。「この研究所で一番危険な合成人間の個体だ。 研究員を何十人も殺傷した。 廃棄処分にしたくても凶暴すぎて高性能すぎて出来なくてね、仕方なく地下のシェルターに封じ込めておいたんだ。 名前はザフキエルと言うのさ。 ――それじゃ、さようなら」
「何で」とI・Cはうんざりした様子で言った。「合成人間のガキってのは、どいつもこいつも貧乳なんだ?」
「何をどう思考したらこの今にそんなどうでも良い事に執心できるんだ!」グゼが怒鳴った。「I・C、貴様は一回死んで来い!」
「それが出来たら俺は最高に嬉しいんだがな」I・Cはまた無防備にザフキエルに近付いていく。「さあ殺せ。 俺を殺せ。 さもなくば俺が殺すぞ?」
「……」ザフキエルは歯を向いてうなっている。まるで猛獣の様である。だが、その顔には必死さと言うものが初めて見えていた。「……!!!!」
ザフキエルはI・Cに襲いかかった。体当たりしたのだ。I・Cの体が、消失した。
「「I・C!?」」シャマイムとグゼが同時に叫んだ。だが返事は無い。
「……」ザフキエルはシャマイムを今度は睨む。だが、次の瞬間ザフキエルはきょろきょろとあちこちを見回し始めた。そうだろう。そうしたくもなるだろう。この空間に満ち溢れた恐ろしいまでの悪意を感じれば。
『……ああ、そうか、そうか。 救世主の残した奇跡の断片、長い歴史の中で消え失せた聖遺物の一つ、
まるで殺人を今やっている快楽殺人鬼のような表情で、彼はザフキエルに迫った。じりじりとザフキエルは後ずさるが、壁にすぐ当たってしまう。ザフキエルはうなった。うなったが、それはまるで己が追いつめられた事を裏付けるかのようなひっ迫したものであった。
「……!」
「どう死にたいんだ? どう俺に食い殺されたいんだ? 最後の最期まで俺に立ち向かうか? 泣きわめいて俺に助命嘆願するか? 色々と体液をぶちまけて惨めに死ぬか? さあ、どれでも俺は構わないぞ!」
「……!!!」ザフキエルはもうかすれた音しか口から発さなくなっていた。
そのザフキエルにI・Cは、ムチを振り下ろした。
――のだが、それはグゼによって途中で止められる。空を打つ音がした。
「もう良い、止めろ!」
「あん?」I・Cが凄まじい視線でグゼを見たが、グゼはそれを無視して、ザフキエルを抱きしめた。
「大丈夫だ」と彼は言う。「もう、大丈夫だからな」
「頭狂ったのは俺じゃなくてお前だったか」I・Cが忌々しそうに、「おい、殺させろよ、何やってんだよ、ああ?」
「……正にお前みたいなヤツらだったんだ、俺がA.D.研究所にいた時の研究員の連中は。 誰もが歪んだ笑顔で俺を見下ろしていた。 今思い出しても反吐が出る」グゼは優しくザフキエルの頭を撫でて、「……ザフキエル、お前もそうだったんだろう? 人から傷つけられてばかりだったから、人を傷つけるしか生き方を知らなかったんだろう?」
ザフキエルの目が真ん丸になって、それから細められるのをシャマイムは確認して、サラピスを降ろした。
「……」ザフキエルは大人しくしている。グゼは懐に片手を突っ込んで、
「これを食べるか?」
と、大福もちを一個取り出した。ザフキエルは数秒間ぽかーんとしていたが、それにかぶりついた。食べ終えると、ザフキエルは何か言いたげにグゼを見る。グゼは頷いた。
「大丈夫だ。 良い子にしていたら、俺がいくらでも買って来てやるから」
「……お前さ、何でそんなものなんかを仕事に、それも修羅場が確定しているような所に持って来るんだ?」
I・Cが不気味そうに言うと、グゼは一言、
「俺は昔から女よりこっちの方が大事なんだ」
『……そうですか、事情は把握しましたわ。 その子を連れ帰りなさい。 ですが万が一、その子が暴れた場合は――』
「ボス、それは大丈夫です」グゼが通信機の向こうのマグダレニャンに断言した。「俺が全責任を持ちます」
『……何についても冷静で慎重ないつものグゼらしくありませんわねえ。 どうしてそこまで言うのですか?』
「……俺もこうだったから、ですよ。 俺の父親が、密航していたのが見つかって行き詰っていた俺達を助けてくれた時、俺は初めて人から優しくされたんです。 今度は俺が優しくする番です」
『……良いでしょう、そこまで言うのならば。 ですが最悪の事態が発生した場合、私は、グゼ、貴方ごと切り捨てるとあらかじめ言っておきましょう』
「分かりました。 それで十分です。 十分すぎるくらいです」
そこでグゼはシャボン玉を夢中で追いかけているザフキエルを見た。グゼが研究施設に残っていた洗剤のようなものと水で作った原液に、雑草の茎を使ったストローで、ザフキエルはシャボン玉を作ってはそれを追いかけて遊んでいた。
「――グゼ、自分は反対だ」シャマイムが珍しく口を挟んだ。「ザフキエルが問題を起こした、あるいは問題を招来した場合を考慮した際の、グゼの
「……似ているんだよ」グゼはつぶやいた。「死んだ俺の妹に似ているんだ」
……「グゼが狂って馬鹿をやりやがった。 アイツ、頭が完全におかしくなった。 女嫌いが回り回って逆走してロリコンに走ったんだぜ。 ああ、俺の所為だって? 知るか馬鹿。 俺の所為じゃない。 ああ、んだと、ああ!? ぎゃあぎゃあうるせえな、ぶっ殺すぞ! ――おいグゼ!」I・Cはそこで通信端末から耳を離し、「お前、他の特務員のクソ共にお前がロリコンに走ったのは俺の所為じゃないって言え!」と怒鳴った。
「分かった」とグゼは頷いて、シャボン玉に飽きたザフキエルをおんぶして通信端末に出た。「I・Cの所為じゃあない。 I・Cのおかげだ。 I・Cがこの子を虐殺しようとしたから俺は止めようと思えたんだ。 I・Cの所為じゃない。 だから、」
そう言いかけたグゼがI・Cに突き飛ばされた。ザフキエルがうなる。だがグゼはザフキエルの頭をぽんぽんと撫でて、それから全く訳の分からないと言った顔でI・Cを見た。
「何で突き飛ばしたんだ?」
「お前は本当に目障りなんだよ」I・Cは鳴り響く通信端末を地面に叩きつけて踏みつぶす。「女にモテるからって有頂天になりやがって。 死ね」
「……俺は一度もそれを自慢した事は無いし、そもそも今回はお前に対して悪意のあるような事を言っていないだろうに」
「お前さ」I・Cは額に青筋を浮かべつつ、「『気付け馬鹿』って言われた事は無いのか?」
「似たような事を言われた事はあるが、その時も何に気付けば良いのか本当に分からなかった。 もし知っているなら教えてくれ」
「馬鹿は死なないと治らないんだぜ?」
「死ぬのは嫌だ。 ザフキエルが暴走するだろうから。 なあ、ザフキエル?」
「……」ザフキエルは頷く。
「じゃあ、帰還しよう」とグゼは珍しく微笑んで言った。「ケーキもアイスも、何でも買ってやるからな、ザフキエル!」
「女性恐怖症の男って割とロリコンになりやすい、ってのは聞いた事があるけれど」ニナがドン引きしている。
「……まさか、グゼもそうだったなんて……」フィオナはその倍は引いていた。
「落ち着きたまえ」老練しているランドルフですら、おろおろしつつ言った。「きっとこれはグゼ君に余程何かの事情があったに違いないのだ」
「だ、だがな、ランドルフさん……」同僚のセシルは目の前で起きている光景を理解したくないので必死である。「俺だって今、俺が麻薬中毒者で幻覚を見ているんだと思いたいんですよ……」
彼らの目にしている光景は、
「ほら、あーん、だ」
「あーん」
「どうだ、美味しいか?」
「もっと!」
「そうかそうか、じゃあ、ほら、あーんだ」
「もっともっと!」
「いや、これ以上は駄目だ、昼ご飯が食べられなくなってしまう」
「けち! ばか! ぐぜ、ばか!」
「何と言われても駄目なものは駄目だ。 でも、午後のおやつはもっと美味しいものだぞ」
「わーい! おやつ、おやつ! もっと、おやつ!」
と言うものだった。
「……僕は心が汚れているんだ」仲間のベルトランがつぶやいた。「微笑ましいと、この光景を見られない僕の心は、とても汚れているんだ」
「それを言ったら俺の心なんか産業廃棄物処理場だ……」半分嘆くセシルに同感して、
「恐らくだが、これをシャマイムがやったのであれば『微笑ましい』と誰もが思えるのだろう。 だがグゼ君がこれをやると、もはや『妖しい』としか見られないのだ……」ランドルフがそう諦め気味に言った。「彼の女性に対する態度はたとえそれが少女であったにせよ、紳士的に接しているつもりが、とても誘惑しているように見えてしまう……」
「そ、そうですね、本当にそうです……」アズチェーナがこくこくと頭を縦に振る。「グゼさんにそのつもりは全く無いのですけれど、て、天性の女殺しじゃないですか。 グゼさんは知らない、ってか知らされていないですけれど、こ、この前もグゼさんを巡って、聖教機構の女性職員の中で流血沙汰がありましたよねえ……」
「ああ、アドニア・ビルの受付嬢の一人に、グゼ君があいさつをしたと言うだけで、他の受付嬢が逆上して、彼女を刺殺しようとした……」ランドルフが額を抑えた。
「死ね死ね死ね死ね。 女に刺されて死ね」I・Cがぶつぶつと呪文のように言っている。「雌と言う雌から敵意と害意を向けられて死ね。 地獄に堕ちやがれ。 地獄で永劫に苦しみ続けろ」
「……!!!」
ザフキエルは驚いている。彼女のぼさぼさの髪の毛を、グゼが洗って乾かして、とかしてから編んだのだ。鏡の向こうの彼女は、可愛らしいピンクのリボンがおさげの先で揺れている姿であった。
「ぐぜ、これ! これ、すき!」
「これだけじゃない、いくらでもあるぞ」とグゼは言葉通りに無数のヘアアクセサリーを取り出した。任務で女に変装する時に彼が使うものだった。「さあどれが欲しい?」
「ぜんぶ!」
「こら、それじゃ髪の毛が何本あっても足りないじゃないか」
「じゃあこれ!」
そう言ってザフキエルはピカピカと輝く蝶々の飾りが付いたヘアピンをつかんだ。
「よし、それを貸してくれ、ここにこう差して……と」
「……」ザフキエルはとても満足した様子である。鏡に映った彼女の頭で、飾り物の蝶々が光っていた。
「グゼ」シャマイムが近付いてくると、ザフキエルはうなり始めたが、グゼが頭を撫でると大人しくなる。「ザフキエルの今後の処遇に関して意見はあるか?」
「閉鎖監獄『ヘルヘイム』に収監される事だけは断りたい。 ……ボスの意向はどう言う感じだ?」
「ザフキエルの能力が過度に危険すぎる場合、『ヘルヘイム』収監を望まれている」
「……」グゼは黙り込んで無表情になった。ザフキエルが怯えたような顔をして、そんな彼を見上げる。「……『聖十字架』だ」彼は言った。
「『聖十字架』?」シャマイムが繰り返すとグゼは、
「かつて救世主をも死に至らしめた処刑機具だ。 救世主の起こした奇跡の残骸がまだ色濃く残っている。 その奇跡は、『そう願って接触した何者をも死に至らしめる』力だ。 それがザフキエルの中に組み込まれている」
「……」シャマイムは少し黙ったが、言った。「自分はそれを過度に危険だと判断する。 ザフキエルはニナやフィオナのように他害性が低くない。 グゼのみに関して攻撃性が低い現状では、危険だと判断する」
「だろうな、だが、俺は……」グゼはザフキエルを抱き上げてシャマイムを見た。「『ヘルヘイム』だけは止めてやりたい。 この子はI・Cよりはマシなんだ、それだけは言える」
「I・Cを比較対象にした場合、ほぼ全人類がI・Cよりは良好だと断言できてしまう。 グゼのためにも自分はザフキエルの『ヘルヘイム』収監を提唱する」
「……ぐぜ、へるへいむ、なに?」ザフキエルが言った。
「とても怖い所だ。 あの研究所よりも酷い所だ。 大丈夫だ、俺がお前をそこに行かせたりなんかしないから。 それじゃ、靴と服を買いに行こうな、ザフキエル」
「グゼ、」シャマイムが何か言いかけたものの、それをグゼは遮った。
「ありがとうな、シャマイム。 だが俺がこの子に関する全責任を持つから……頼む」
そして数時間後、街から戻ってきたグゼは、眠っているザフキエルを背負っていた。眠っている彼女は、夢見がちな女の子が求める可愛らしさの塊のようなピンクのワンピースを着ていて、自分がお姫様だと思い込んでも不自然では無いほど、きらきらに装飾されたサンダルを履いていた。
「……グゼさん、あのう、凄く言いにくいんですけれど」吸血鬼の少女、アズチェーナが恐る恐る言った。「その辺りにしておいた方が良いんじゃないかと思います……」
「何をだ?」と真顔で訊くグゼに、彼女は仰天して、それからなるほどと勝手に一人で納得した。
天然なのだ、グゼは。だから、今までも気づいていないのだろう。何故自分がそこまで女を狂わせるのかを。肝心な所を分かっていないまま、ただ女に対して怯え続けているのだ。正真正銘の女殺しだとアズチェーナは思った。
「いえ、その、あの」アズチェーナはいつものようにびくびくしつつ言った。「グゼさんにも、お仕事とかあるでしょうし……あまり甘やかすのも……」
「いや」グゼは、実にあっさりと言った、「それならもう片付けてきた」
「え」アズチェーナの目が真ん丸になった。「どどどどどどど、どんなお仕事だったんですか!?」
「エステバンが俺をモテなくさせるために実験をしたいと言うから、受けてきた」
「……」アズチェーナは、今やどんよりとした思いでそれを聞いた。
「どうもエステバンの話だと俺の体臭が原因らしい。 風呂には毎日入っているんだが……石けんを変えるべきなんだろうな。 アズチェーナ、俺は臭うか?」
「……え、ええ、かなり……何と言うか、臭いますね……」
他にアズチェーナは答えようが無かった。フェロモンが凄まじいとは言えなかったのだ。言ったが最後グゼは絶望して自殺するかも知れないのだ。
「やっぱり、そうか……」グゼは落ち込んだ顔で、ザフキエルを背負ったまま、エレベーターに乗って消えた。
何と言う事態だろう。和平派特務員の誰もが関わり合いになりたくなくて赤の他人のふりを貫きつつ、しみじみと思った。グゼがザフキエルをお姫様抱っこして歩いてくるのだ。これは何の天変地異の前触れだろうかと。
「ようロリコン」I・Cだけが妬ましそうに憎々しげに声をかける。「確かロリコンは死罪に匹敵する大罪だったはず、だよなあ?」
「ぐぜ、きらい、こいつ、きらい!」ザフキエルが言う。「ちね、ちね!」
グゼはにっこりと彼女に微笑んで、「可愛いお前が汚い言葉を使ったら俺は悲しい。 大丈夫だ、俺がお前を守るから」
爆弾発言だ。耳にした特務員のほとんどがそう思った。グゼがそんな言葉を女に言ったら、それは核爆弾を投下した事と同じになる!
「……!!!」I・Cの顔は嫉妬や色々な負の感情が混ざって、黄色に近い。
「じゃあ今日は字を書く練習をしよう?」
グゼはザフキエルを立たせてから椅子に座らせて、電子タブレットと付属のタッチペンを取り出した。
「じ……?」
「そうだ、字だ。 俺の名前はグゼ、こう言う字を書く」
「……ざふきえるは?」
「ザ、フ、キ、エ、ル、こうだ。 色々なものの名前を書けるようになろう?」
「わかった!」
文字の読み書きの後は、しゃべり方や、食事のマナー。化粧や挨拶、電車やバスの乗り方、果ては護身術まで。
((グゼがもの凄く生き生きしている……))それを見ている和平派の誰もがそう思った。((正真正銘のロリータ・コンプレックスなのか……))
「死ねば良いのに」I・Cはまだ飽きもせずに黄色い顔をしてぶつぶつと唱えている。「もがき苦しんで苦しみぬいて生きてきた全てを悔やんで死ねば良いのに」
「……レスタト。 お前は、少々勇み足が過ぎたようだよ」
「申し訳ありません、まさかあのザフキエルが懐柔されるとは思わなくて……」
「それは私も思わなかった。 一体何が起きたのだろうね?」
「魔王の仕業では……?」
「いいや、否だ。 魔王はあの性格上ザフキエルに攻撃しないと言う事はありえない。 とすると、兵器――なのだろうか?」
「……兵器が攻撃を受ける前に自ら回避行動を取った、そこまでは見ました。 いくら兵器でもあのザフキエルは持て余すはずかと。 ザフキエルは攻撃的そのものですから。 最後の特務員が、でしたら、何かしらの手段を取って懐柔に成功した、のでしょうか?」
「可能性としては、恐らくそれしか無い。 だがあの女狐マグダレニャンがザフキエルの危険性と性能に気付かぬはずが無い。 遅かれ早かれ、ザフキエルは『ヘルヘイム』に送られるだろう。 その移送の前に、レスタト、処分しなさい」
「承知いたしました、ラファエル様」
「ねこ! ぐぜ、ねえ、ねこ!」街を歩くザフキエルは、色々なものに興味津々である。猫は画像でこそ見たものの、本物を見たのは生まれて初めてだったのだ。
「ああ、猫だよ。 こら尻尾を掴むんじゃない、優しくくすぐって撫でてやるんだ」グゼは野良猫の尻尾を掴もうとしたザフキエルの手を止めた。「猫は尻尾をいきなり掴まれると嫌な気分になるんだ。 ザフキエルだっていきなり髪の毛を掴まれたら嫌だろう?」
「わかった!」ザフキエルは猫を撫でた。目を丸くして、「ふわふわ! あったかい!」
「にゃー」猫は鳴いた。
「にゃー!」ザフキエルはまるで返事をするように、鳴き真似をした。
その光景を目を細めて見ていたグゼは、振り返らずにナイフを背後に投げた。
額にそれが突き刺さったI・Cが、ムチを手に血走った目でグゼを睨んでいる。
「にゃー」
「にゃー!」
ザフキエルは猫と遊ぶのに無我夢中で、I・Cに気付いていない。
「ストーキングするな」グゼは冷淡に言った。「余計に気持ち悪いぞ」
「……警察に通報したくてたまらねえ」I・Cは憎悪をむき出しにしている。
「あのな、俺とお前の一体どちらが警察にとって不審者に見えるか、それさえも分からないのか?」
グゼの外見は、もはやイケメンをはるか彼方に通り越して女殺しである。対してI・Cの外見は、不気味な酒臭い不審者そのものであった。
「お前って意外と好戦的なんだよな、死ねば良いのに」
「性善説の体現者であるシャマイムを虐める貴様にかける慈悲なんか、みじんも俺は持っていないからな」
「……」I・Cは歯ぎしりした。
「ぐぜー!」ザフキエルが猫を抱きしめて言う。「ねこほしい、ざふきえる、これほしい!」
「きちんと餌の世話は出来るか? 排泄物の処分は出来るか? 病気になったら看病できるか? 毎日毎晩優しくしてやれるか? 猫はオモチャじゃない。 ちゃんと生きているんだ。 だから責任を持っていなければ飼うべきじゃない」
「…………」ザフキエルはしょんぼりとした顔で、猫を放した。「ねこも、ざふきえるみたいに、いきているの……?」
「そうだ。 みんな生きているんだ」
「わかった……」
「にゃー」と猫は鳴いて、去って行った。
「いい加減にザフキエルの能力の解析及び危険度の診断をしたいんだけれど」狂科学者エステバンは己のラボの前で、そこまで言って、言いかけて、止めた。目の前にいるグゼの顔が険しくなったからである。「……どうして駄目なのか、それだけでも教えてよ。 ボスだっていい加減にしびれを切らしているんだよ? 別に危害を加える訳じゃないんだし、何とかしてよグゼ! ザフキエルが万が一グゼのいない時に暴れた場合の対処法すらこのままじゃ見つからないよ!?」
「あの子のトラウマなんだ、そう言う事は」グゼは低い声で言う。「白衣を着ただけの人間ですら攻撃対象になるくらいだ。 実験も検査も全て断る」
「グゼ」ラボから出てきたシャマイムが言った。「ボスの命令に反抗する事は推奨できない。 ザフキエルを説得し分析だけでも受けさせるべきだと自分は強く進言する」
「……まだ駄目だ」グゼはかすかに殺気すら帯びている。
「否、限界だ、グゼ。 これ以上の拒絶はグゼのためにもならない」
シャマイムは何とか説得しようとする。それでもグゼは断固として譲らなかった。
「シャマイム、頼む、俺はあの子の気持ちが分かるんだ、檻に閉じ込められてありとあらゆる虐待を受けて、誰も助けても庇ってもくれなくて、果てにはたった一つの命を脅かされて、攻撃的に凶暴になるしかなかった、その気持ちが!」
「グゼ、それはザフキエルの『ヘルヘイム』収監をボスに決断させる事項となる」
「……」グゼは目を閉じた。だが首は横に振った。「駄目だ、駄目なんだ」
「……」シャマイムはエステバンに視線を送る。エステバンは頷いて、ラボの中に消えた。シャマイムは麻酔弾の装填された拳銃サラピスを握る。「鎮圧、開始」
「無駄だ」グゼは目を見開いた。放たれた麻酔弾をかわして、シャマイムに迫る。その手に握られた改造スタン・ロッドが、放電した。「ごめんな、シャマイム」
シャマイムが倒れた。
「「シャマイム!」」エステバンからの通信で事態を知った特務員の内、ニナとフィオナが真っ先に駆けつけた。
「グゼ、アンタ狂ったの!?」ニナが叫んで、シャマイムの機体を抱き起した。「しっかりして、シャマイム!」
「……グゼと戦うなんて、夢にも思っていなかったよ……」フィオナが身構えた。
「ぐぜ! ぐぜ、たすけて!」そこにザフキエルが走ってきた。否、必死に逃げてきた。「ざふきえる、へるへいむにいきたくない!」
「逃げるなクソガキ!」I・Cがザフキエルを追いかけてくる。「ぶっ殺すぞ! 実験じゃねえ、検査だっつってんだろうが! 大人しく捕まれよ! だから逃げるんじゃねえクソガキ、そんなに『ヘルヘイム』にぶち込まれたいのか、ああ!?」
「ザフキエル、こっちだ!」すがるように伸ばされたザフキエルの手を握って、グゼは、地上一三階の窓から飛び降りた。
「……グゼの暴走、了解しましたわ。 現時点で行動可能な全特務員に命令します、グゼを鎮圧ないし処分して、ザフキエルを『ヘルヘイム』に収監しなさい」マグダレニャンはそう命令を下してから、ため息をついた。「まさかあのグゼがこのような無謀な行動に出るとは……」
「せめてザフキエルに……ニナとフィオナのように、他害性が無ければ、『ヘルヘイム』送りも免れたのでしょうが……」彼女の側で、秘書のランドルフは重苦しい顔をしている。「ですがザフキエルは、グゼ以外には決して懐かず、多少の進展は見られたものの、頑なに他者を拒み続けた。 恐らくグゼは、ザフキエルを愛してしまったのでしょう。 愛とは全てを奪い全てを与えるものですから……」
『ボス』修復が終わったシャマイムが通信をしてきた。『グゼとフー・シャーが現在市街地にて交戦中。 自分もセシル、アズチェーナ、ベルトランと共に交戦現場に全速力で接近中。 市街地ゆえに能力を全発揮できないフー・シャーの戦況が不利である事を報告。 他の特務員の加勢予定も間近であるため、グゼの鎮圧は数時間程度で終了すると推定』
「むやみに一般人を巻き添えにし、家屋を倒壊させる訳には行きませんから……」マグダレニャンは嘆息した。「フー・シャーに一時撤退命令を。 そして貴方達が一時加勢し、ひとまず総勢五人でグゼを制圧しなさい。 人的被害が無ければ、多少の建造物の被害には目をつむりましょう」
『了解』
「……嫌な気分だな」セシルがシャマイムの車内で、ぼそりと言った。「グゼが悪いんじゃない。 悪いのはザフキエルをあそこまで追い詰めた研究所の連中だ。 あそこまで攻撃性を持たせた狂人共だ。 グゼはただ、守りたいだけなんだろう」
「……グゼさん、もっと早い段階でザフキエルから引き離しておくべきでしたね」アズチェーナも同じ意見であった。「い、今になって引き離したら、きっと、グゼさんは発狂しちゃうんじゃないでしょうか……」
「何があの冷静沈着な男をここまで駆りたてたんだ……?」
ベルトランがふと疑問を口にした、そこでシャマイムが言った。
『グゼはザフキエルに関して「亡くなった妹に似ている」と発言した。 それ以外の原因は現在未発見だ』
「……家族愛、か……」セシルが、苦々しそうに、言った。「グゼはとことん女に恵まれていないな……妹の面影を追いかけただけで、これなのかよ……。 そういやアイツは、『女に本気になると俺は暴走する』とか、昔、言っていたな。 ……だからってここまでだとは思わなかったぜ」
「この最悪の状況下で、アイツは何を選択するんだろうな……」ベルトランが呟く。「破滅か死か、それとも……」
帰るべき故郷も行くあても無く、グゼはザフキエルと手を繋いで逃げている。
フー・シャーが彼らを追跡しているが、追いつけないのは、グゼが様々な罠を仕掛けているからだ。だが、フー・シャーは本気を出していない、と言うか市街地なので本気を出して巻き添えを出す訳には行かないだけである事も、同僚であったグゼはもちろん承知していた。
グゼは今や世界の全てが彼とザフキエルの敵に回った事を感じていた。この世界に彼らは存続する事を許されていない。世界の全てが彼らを殺そうとしている。世界の全てが彼らの存在を拒否している。それでも、それでもグゼはザフキエルを守りたかった。そしてグゼは更なる危険が無数に彼らを包囲するべく動いている事も分かっていた。A.D.としての彼の能力が、それを告げている。
「やあ」とその彼に背後から声をかけてきた者がいた。グゼは振り返ろうとするザフキエルに叫んだ、
「駄目だ、逃げるぞ!」
「どこに逃げるんだい?」声の主は、あのレスタトであった。姿は見えないが、すぐそこにいる。「君は聖教機構和平派を敵に回した、愚かにもザフキエルを『ヘルヘイム』に入れたくない、たったそれだけの理由で。 君は死ぬよ? そしてザフキエルも殺されるだろう。 何ともいやはや、素敵に悲劇だね。 ザフキエルのワガママで君は死ぬんだ」
「ざふきえるが、わがままいったから、ぐぜ、しぬの……?」
か細い声でザフキエルが言った、その彼女の手をグゼは強く握りしめた。
「違う、これは俺の意思だ。 俺が俺の頭で考えた結果こうしたんだ! ザフキエル、コイツの言う事に絶対に耳を貸すな! 惑わされる!」
レスタトの声は、もう嘲りそのものであった。
「人は惑う生き物だ。 だからこそ絶対的なものが必要なのだよ。 絶対者無くしては生きられないほどにか弱いものだ、人は。 か弱い癖に己が全知全能だと思い込み、威張り散らすのさ。 全く愚かで惨めで哀れで情けなくて、醜い生き物だね。 ……さて、ザフキエル、貴様はどうしたいんだい? この男を見殺しにして自分だけ生きるか、あるいはこの男だけは助けたいか、さあどっちだい?」
「……ざふきえる、は……」少女は、無言になった。
彼女をほとんど抱きかかえるようにして、グゼは逃亡しつつ言う。
「駄目だザフキエル、俺はお前に生きていて欲しいんだ! 俺はお前が好きなんだ! ヤツの言葉に耳を貸すな! お前はただお前の意志を貫け! お前は何も悪くない! お前が生きたいと思うのは、何も悪い事じゃないんだ!」
「………………みんな、いきている。 ざふきえるも、いきている。 でも、ざふきえるがいきたい、っていうと、ぐぜはしぬ……」
「俺はちっとやそっとじゃ死なない。 これでも修羅場だの死線だのはいくつもくぐり抜けてきたんだ。 大丈夫だ、ザフキエル、今はとにかく逃げるんだ!」
「だが以前はその修羅場や死線を一緒にくぐり抜けてきた仲間達が、今や君の敵だ。 以前だったら君を保護してくれた上司が今や君を追いつめている。 庇護する者がいないとは何とも不安な事だね。 君は君の世界を敵にしてしまった。 ザフキエル、全ては貴様の所為だ」レスタトの声は、悪魔のささやきだった。
「黙れ!」グゼが叫んで、背後にナイフを投げた。だが今度はその耳元で声がした。
「君も本当は分かっているんだろう? 分かっている癖に認めようとしないだけなんだろう?」
「ッ!」グゼはナイフを振った、けれどかすりもしない。
「ザフキエル、貴様が死ねば全て幸せの内に終わる。 死に方を忘れたのならば、私が教えてやろうか? 貴様は通常の方法では死ねない。 貴様も化物だから」
「黙れ、貴様こそが化物だ!」グゼはザフキエルを抱えて、道の突き当りの階段を駆けのぼる。「何が目的でここにいる!?」
「それは……もう君ならば勘づいているのじゃないかい?」
「外道が!」その時グゼは目線を上にあげた。「――シャマイムか、畜生!」
その直後、まるで豪雨のように爆弾が降り注いだ。それは既に人々が避難した住宅街の区画を、一瞬で丸ごと焼き尽くす。
『……』白い戦闘機の機体が降りてきて、廃墟となった区画を走査した。その結果をシャマイムは仲間に伝える。『グゼはマンホールより地下下水道に潜入したと判断。 これより自分も追跡する』
『『了解』』仲間は、異口同音にそう答えた。
暗闇の中を、グゼとザフキエルは逃げている。まるで暗闇を恐れているかのように、まるで暗闇からも存在を拒絶されているかのように、逃げている。まるで世界にたった二人しかいなくて、孤独に怯えるように、ただただ、走っている。
『――グゼ』その前方から、のそりと異形の化物が姿を現す。それはとても大きく、ほとんどその体は通路を塞いでいた。『投降しろ。 今なら、まだ今なら間に合う。 ボスはお前ほどの優秀な部下を殺すには惜しいとおっしゃっている。 「ヘルヘイム」にそっちの娘が入れられても、命までは奪われないんだ、まだ再会する機会はいくらでもある。 もうお前がこれ以上足掻いても事態は悪化するきりだぞ』
「セシル……」グゼは立ち止まって、ザフキエルから手を離した。
セシルが説得に成功したと通信端末で仲間に言おうとした時、だった。グゼがいきなり、この暗闇の中で、閃光弾を投げつけてきたのは。
『グオッ!? 目、目が――!』セシルの感覚器官の内、人間に例えるならば『目』が一瞬眩んだ瞬間、グゼはザフキエルの手を握りしめて、彼の巨体を駆け上ってその向こう側へと逃げている。包囲網が、突破された。
『逃げられた!』セシルは彼らを追いかけつつ仲間に知らせる。
『えっ、ぐ、グゼさんはどうやって!?』と、アズチェーナ。
『閃光弾だ!』
『……ヤツは恐ろしいまでに人の不意を衝くな……』ベルトランが呟いた。
『是、それがグゼの能力だ』シャマイムは、いつものように冷静である。
『グゼは……でも、一番分かっているはずだ、このままじゃ、自分がどうなるかって……』フー・シャーが途切れがちに言った。
『分かっていても、分かり切っていても、人にはそれをどうしても止められない時ってのがあるんだがな……』セシルがそう言った時、
『お前ら全員無能過ぎ』通信に、誰かが割り込んできた。『グゼなんかぶち殺しちまえよ。 説得しようとか、余計な情けをかけようとか、無駄な事をするからすり抜けられるんだぜ?』
『……I・Cさん……』アズチェーナが、ごくりと唾を飲んだ。
『俺がヤツらを殺してやるよ。 楽しいなあ、本当に! あの憎たらしい野郎の前でザフキエルを殺してやったら、どんな面をするか、今からワクワクするぜ』
『I・C、ボスの命令はグゼを制圧しザフキエルを「ヘルヘイム」に収監する事、だ。 必ずしも両者を殺傷しろとは』と言いかけたシャマイムを遮って、
『逆に聞くが、お前らグゼを殺傷せずにそれが出来るほど、強いのか?』
流れた沈黙に満足したようにI・Cは続ける。
『そうさ、それが正答で真実なんだよ。 全ての人がそれから目を逸らし口をつぐみ耳をふさぐ、だがそれでも直視し叫び聞かねばならないそれ、それこそが真実だ。 さてと、それじゃあ……』
遠くで響いた爆音と、かすかに大地を揺るがした震動に、特務員達は血相を変えた。だが、それよりも、通信端末からの哄笑が何よりも彼らをぞっとさせた。
『ぎゃはははははははははははははは! グゼの野郎、案の定ザフキエルを庇って血まみれだぜ! もっと苦しめ、もっと絶望しろ、もっと悲鳴を! ぎゃははははははははははははははははははは!』
直撃したならば死んでいた。常人ならば絶命していてもおかしくない所を、辛うじて回避した。だが、回避したとは言え、彼はザフキエルを庇うのに精一杯だった。全身が激痛に襲われて、痛覚がマヒしそうだった。空間が破壊されてその余波を受けたなどと彼には分からなかったが、とにかくもう自分が動けない事、ザフキエルが無事である事、だけは分かっていた。地下下水道は酷く破壊されていて、粉じんが辺りに立ち込めていた。
「ぐぜ、ぐぜ!」ザフキエルが半泣きで倒れたグゼにすがりつく。「ぐぜ、しぬ、いやだ、ぐぜ、しぬ、いやだ!」
「逃げ、ろ」グゼは辛うじてそう言えたが、その直後に血反吐を辺りにぶちまける。呼吸が出来なくなり、血圧がゆっくりと下がっていく。内臓もやられているのである。
「ざふきえる、へるへいむにいく、いくから、ぐぜ、しぬ、いやだ……!」
駄目だ、あそこは、煉獄だから。グゼはそう言いたかったのだけれど、もう目がかすんでしまって、ザフキエルの姿を捉える事さえ出来なくなってしまっていた。気配でザフキエルのいる辺りに、最後の力で血まみれの腕を伸ばす。それを抱きしめて、ザフキエルは泣いた。ぽろぽろと涙をこぼした。
どうして俺は、とグゼは思った。どうして俺は……分かっていても破滅へと突進してしまうんだ?女が絡むと、どうして……こんな……。
それでも守りたいと思うのは、許されない事なのだろうか。
「女もクソもねーよ。 守れないのはお前が蛆虫レベルで弱いからに決まっているじゃん」
侮蔑の声が響いて、グゼは次の瞬間、異世界にいた。
そこは地獄であった。ありとあらゆる罪人が、ありとあらゆる罰を受けている。血の赤と闇の黒と死と絶望が渦巻くその阿鼻叫喚の有様に、グゼですら思わず顔を背けた。
なのに、彼の隣のザフキエルは、そこへと向かって歩き出していく。
「駄目だ、止めろ、ザフキエル!」グゼは血相を変えて止めた。
「グゼ、私が死ぬ方法はたった一つだけなの」振り返り、かすかに微笑んで、ザフキエルは流ちょうに言った。「私が私を死なせる、それしか私を殺す方法は無いの。 『死に至る十字架』は認識したものを意志して死なせてやる力。 私は、私を死なせるわ」
「何でお前が死ななきゃいけないんだ! 俺はお前に生きていて欲しいんだ!」
「その代償が、グゼが死ぬ事だったら、私が死んだ方が幸せなの」
「我ながら最高に素敵な世界にご招待できたぜ」I・Cが登場してゲラゲラと笑った。「おい、心中したいなら手助けしてやるぞ?」
「I・C」グゼは彼に詰め寄った。「ここはどこだ、俺はどうして――」
「『まだ生きているのか』って? 『まだ動けるのか』って? そりゃここがいわゆる非物質世界だからだ。 だがもうすぐお前はくたばるはずだぜ。 肉体的にも精神的にもな」
「……貴様はどうするつもりだ」
「ザフキエルもお前もぶっ殺す。 おっと、無駄だぜ、今更足掻いたって。 この世界の主は俺だ。 たとえば――」ぱちんと指をI・Cが鳴らすと、グゼの四肢が切断されてしまう。「こう言う事も朝飯前だ」
「!?」グゼは、どさりと地に落ちた。
「止めて!」ザフキエルが叫んだ。「もうグゼを虐めないで! グゼは悪くない! 私が死ねば全て解決するんだから!」
「うん、じゃ、死ね」そう言ってI・Cはグゼの懐からナイフを抜いて、それをザフキエルに投げつけた。ナイフは彼女の足元で落ちて、彼女はそれを拾う。
「止めろ! ザフキエル、止めろ!」グゼは、もう無い手足を必死で動かす、けれど、それは蜘蛛の巣に囚われた蝶がもがくのと同じであった。
「もう良いの。 もう十分だよ。 人間は信じられないけれど、グゼだけは信じられる。 だから、私はグゼだけには生きていて欲しい。 これが私の今の意思。 ねえグゼ、言ったよね、『みんな生きている』って。 生きるって事、私、ようやく分かったよ、凄く辛い事なんだね。 傷つけられて傷つけて、血と涙を流して、それでも、それでも死ぬべき時まで死ねない。 痛いだけの実験だよね、まるで。 それでも、それでもみんな生きていくのは、それがとても大事な事だから。 だって、私、グゼにだけは生きていて欲しいって思うもの。 グゼが生きているなら、私はとても幸せなの。 ……ありがとう、グゼ」
ザフキエルはそう告げて、微笑み、ナイフを己の首に突き刺した。
「グゼ!」シャマイムがいきなり出現し、絶叫を上げる代わりに己の舌を噛み切ろうとしたグゼの口を押さえつけた。「冷静になる事を要求する!」
だがこの状況下において、グゼが冷静でいられるわけが無かった。グゼはザフキエルの倒れた体を、目を見開いて見つめた。それはさらさらと風に溶けていき、残ったのはあのキラキラと光る蝶のヘアピンだけだった。
「 」
何かをグゼは叫んだが、それはまるで獣の咆哮の様であって、言葉にならなかった。だが、聞く者の胸を貫くような、絶望の叫びであった。
「どうやってここに来たんだシャマイム?」I・Cは聞いた。
「……未確定ではあるが以前にI・Cがニナとフィオナの世界に出現した際に行使した方法を試みた。 実験的手段であったが、今回は成功した。 だが……」
シャマイムは心を壊されたグゼを見て、沈黙した。
「ふーん。 コイツどうする? ぶっ殺して良いよな?」
「……敵性が皆無のため、殺害には反対する」
「あっそ。 じゃ、戻るぜ」
――現実では、グゼは肉体的にも死にかけており、既に他の特務員達が駆けつけていた。
「「……」」
誰も、言葉を出そうとはせずに、グゼの応急処置を協力してやっている。
ザフキエルの遺体は無かった。だが、彼らはグゼの有様や、I・Cのこれまでの行動から、その末路は分かっていたから、追跡しようとは思ってもいなかった。
仁王立ちして行動機能を停止していたシャマイムが、動き出す。
「あ、お帰り、シャマイム」フー・シャーが言った。どうだった?と言いかけて慌てて口を閉じる。シャマイムは首を横に振った。
「そうか……」ベルトランが、グゼの手に握られた蝶のヘアアクセサリーを見つけた。「これは……まさか!」
『……言うな。 そう言う事、だ』大型獣になったセシルがグゼを背中に乗せて運びつつ、言った。ベルトランは、そうか、ともう一度だけ言った。
「……?」シャマイムは、地下下水道の隅に妙なものを発見した。それは首からロザリオのように提げても違和感のないほど小さな、十字架のようなものであった。何で出来ているのかは視認しただけでは分からなかった。それでシャマイムはそれを回収しようと手を伸ばし、触れた。I・Cの形相が変わる。
「触るな!」I・Cがシャマイムを突き飛ばした時には、もうそれはシャマイムの手中にあった。
『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』
……特務員達の誰の声でもない謎の声が聞こえたような気がして、シャマイムは辺りを走査した。いない。特務員以外の者は、いない。けれどシャマイムは自覚した。己がかつての己ではなくなってしまった事を。
「……」シャマイムは十字架が体内に吸収されて、消えてしまった事を知る。同時にシャマイムの思考回路に、何かがそっと入ってきたのを感じた。それは情報であった。
『死なせたいと意志して接触した相手を、死に至らしめる』
「シャマイム!」I・Cがシャマイムの胸ぐらを掴んで、血相を変えて怒鳴った。「畜生、もう吸収しちまったのか!」
「I・C、これは何だ?」
「……」I・Cは、苦痛に顔を歪めた。「救世主の奇跡の断片の一つ、かつて教国で聖遺物として崇められた代物だ。 だが、まさか……お前が適合するとは……」
「適合?」
「……そうさ、聖遺物は奇跡の欠片だ。 救世主の意思の残骸だ。 その意思に適う適合者でなければ扱えない。 無理やりにザフキエルのように融合する手も無い訳じゃないがな、それじゃ能力は不完全なんだ。 まさかシャマイムが……」
「……。 エステバンに解析を依頼する」そう言った直後、シャマイムは謎の景色を目撃する。それは西日が差しこむ安っぽいアパートの、一室の有様だった。突然シャマイムの中で、どす黒い感情がうごめき出す。兵器であるシャマイムが普段は全く感じない、悪意と憎悪と絶望が混ざり合って、そこから生まれたおぞましいものであった。これは何だ。シャマイムは戸惑う。これは何だ。
だが、その光景はあっと言う間に終わり、シャマイムは元の、滅茶苦茶に破壊された地下下水道の中にいた。
「シャマイムさん、どうしたんですか?」アズチェーナが訊ねると、シャマイムはいつもの機械音声で、
「不具合が発生した。 自分にはメンテナンスが必要だと判断する」と答えた。
「グゼが意識不明の重体、しかしザフキエルの処分には成功した……分かりましたわ。 グゼの処分ですが、意識が戻ってからにしましょう。 意識が戻ったとしても、廃人になっていなければ……ですが」
そうは言ったものの、マグダレニャンは恐らくグゼは廃人になってしまっているだろうと分かっていた。以前彼が妹を失った時も、廃人になったからだ。
「マグダ様」ランドルフが沈痛な顔をして、言った。「他に道は無かったのでしょうか?」
彼女の執務室の片隅で、猫がにゃあと鳴いた。
「……。 今更何を考えたとしても、手遅れですわ。 彼の意志と私達の思惑は一致しなかった。 妥協さえ拒まれた。 こんな事を言えば私も強硬派だと思われるでしょうが、こちらの全てを否んだ者へ慈悲を下せるほど私は優しくないのです。 グゼが抱いたザフキエルへの思いがいっそ肉体的な情念であれば、こちらもここまで苦労はしなかったでしょうに……」
肉体的なものならば、肉体的なものでどうにかなった。
けれどそうでは無かったのだ。
「……全てを与え全てを奪う、全てを破壊し全てを再構築する、全ての源であり全ての終焉である……『愛』ですか」ランドルフは目を閉じた。グゼと無邪気に遊んでいたザフキエルの姿を思い浮かべて。
『すき、すき、ぐぜ、すき!』
『ああ、俺も大好きだよ、ザフキエル』
【ACT二】 姉弟
その幼い男の子は、ぼろぼろの服を着ていて、不自然に痩せていて、汚くて、臭くて、おまけに全身、あざと生傷だらけであった。仕方が無いので彼はその男の子を風呂に入れて、傷の手当てをして、それから食事を与えた。貪るように食べながらその男の子は、いきなり泣き出した。
「どうした?」と彼が泣き出した理由を聞くと、
「おいしい、こんなにおいしいものをたべたの、はじめてなんです……」
別に彼はご馳走を作ってやった訳では無い。炊き立てのご飯と熱いみそ汁と漬け物、後は魚の干物を焼いて出しただけである。
「分かった、分かったから、そんなに急いで食べるな、喉に詰まるぞ」
彼が言った直後、男の子は案の定、彼が言った通りに喉に詰まらせた。
「父さん、あの子は……?」彼は父親に聞いてみた。
「……親に売られたのを、買ってきた。 親がバクチ狂いでな、借金の抵当にされたんだ」
「何でまともに育てられないのに子供を作るの? あの子は当たり前の食事さえ与えられた事が無かったみたいなのに」
「……人間も動物の一つだからなァ。 産むだけなら畜生にも出来るさ」
「僕は父さんが父親で本当に良かったよ」
「止せやい、今更お世辞か。 誉めたって小遣いなんざ出さねえぞ。 ……あの子、いや、お前の弟の事、頼んだぜ」
「うん」
……酷く懐かしい夢を見た。
まだ自分が『六道』に所属していて、父親がまだ生きていた時の夢を見た。父親がある日いきなり彼の弟を連れてきたのだ。血縁こそ無かったが、紛れも無く彼の弟になった男の子を。彼の弟は、暗殺者としては優秀なのに、普段の生活ではドジで間抜けで、それももはや怒りを通り越して呆れるほどであった。
彼はぼんやりと目を開けて、周囲を見た。どうしようもない虚無感が彼を覆い尽くしていた。彼は守れなかった。彼を好きだと言ってくれた相手を守れなかった。その無力感が彼を押しつぶして、殺してしまいかけた、時だった。
「
彼は驚いたが、直後、体が激痛に襲われてうめくのが精いっぱいだった。
その青年はちょっと悲しそうな顔をして、彼を上から覗き込む。
「兄ちゃんらしいね」と青年は言った。「守りたくて守れなくて、そんな自分が許せなくて壊れてしまうんだ。 それが大事なものであればあるほど、愛おしくて同時に悲しい。 俺もね、兄ちゃんがいなくなってから、それを知ったよ。 思い知らされたよ」
「……」
「暗殺者って嫌な稼業だよね。 殺したくない人まで殺さなきゃいけない。 それもたかが金のために。 腐れ金なんかじゃ換算できない、本当に良い人まで殺さなければいけないんだ」
「……」
「兄ちゃん、帰ろう、みんな待っているから、帰ろう?」青年は、にっこりと笑った。えくぼが出来た。「嫌だと言っても連れて行くよ」
グゼが病院から誘拐された、と言う情報は即座にマグダレニャンの元に伝えられる。真っ青な顔の院長が、土下座せんばかりに彼女に謝罪する。
「申し訳ございません! 一体誰がどうやってあの重体の患者を連れ出したのか……!」
「彼が自分の意志で失踪した、と言う可能性は?」マグダレニャンが聞くと、
「いえ、それはありえません、彼は意識すらおぼろな状態でした。 そして身体は再生治療をしなければとても動かせないほど損傷していました。 まだ魔族ならばともかく、人間ではとても……」
「そうですか……」マグダレニャンは考え込んだ。「分かりましたわ、こちらでその件は対応しましょう。 しかし最高警備の特別集中治療室から、誰にも見つからずに彼を運び出す……事が可能な相手となると、限られていますわねえ……」
特務員のニナとフィオナが、その誘拐事件を追う事になった。
「でも、あの有様のグゼを連れて行ってどうするつもりなのかな?」ニナが首をかしげる。「拷問や尋問にはとても耐えられる体じゃないし、精神は壊されたんでしょ? 仮に体が治ったとしても廃人じゃあ……」
「……そもそも、何で危険を冒してまでグゼを 病院から連れ出したのか、分からないよね……」フィオナが言う。「もしも情報が得たかったら、他の、街をうろつく特務員をさらえば良いだけなのに……」
「とにかく、徹底的に調べよう!」ニナは言った。「まずは病院に行って、何か手がかりが無いかどうか、調べる事から始めるわよ!」
「ぎゃはははは!」I・Cはご機嫌そのものであった。「グゼが拉致された、何て素敵なんだ! ざまあみろあのクソ野郎め、もっと酷い目に遭え!」
「人の不幸は蜜の味、か」フー・シャーがうんざりした顔でI・Cを見る。
「止めろよ、自分がモテないからってグゼを妬むな」セシルは真っ当な事を言ったが、すぐさま空の酒瓶が飛んできて、それを避ける羽目になった。
「ぎゃはははは、どうせ今頃はヤツは地獄のどん底にいるぜ! 楽に殺してもらえて死ねたらの話だがな!」
緊急特務員会議の行われている一室にいる、誰も彼もがI・Cを苦々しい顔で見ている。I・Cは基本的に会議になんか出てこないのだが、何か裏の意図があったり、気分が良いとデカい面をして堂々と出てくるのだ。
(おい)と新入りであるベルトランがシャマイムに耳打ちした。(コイツはいつもこうなのか?)
(是)シャマイムは空気を呼んで、小声で答える。(I・Cは通常からこのような発言をしている)
ベルトランは納得した。(道理で……誰も彼もが、だからこの男についてはありとあらゆる言葉で罵る訳だ……)
『……話を変えよう』立体映像で登場した情報屋の青年レットが言った。『万魔殿の穏健派と過激派の戦争についてなんだけれど……』
「何か進展があったのかい?」フー・シャーが聞いた。
『その直接のきっかけになった、「帝国」の商都ジュナイナ・ガルダイアでの女帝暗殺未遂事件が起きただろう? あれを起こした謀叛者の帝国貴族達の末路なんだけれど……』
「……ジュリアスは連中をどうしたんですか?」アズチェーナが恐る恐る訊ねると、
『一兵卒にして最前線に送り込んだよ』とレットは言って、長いため息をついた。『確かに情報さえ全て得てしまえば、亡命してきた貴族連中なんて何の役にも立たない。 むしろ帝国でぬくぬくと暮らしていた分、ジュリアスにしてみれば邪魔なんだろうね、強制執行部隊が指揮する部隊に強制的に入れられて、前線で死んで来いって往かされた。 気の毒ではあるけれど、これが現実だ』
「しゃぶれるだけしゃぶって、旨みが無くなったら捨てる、まあそれが普通だな。 馬鹿みたいにただただしゃぶられる方が悪いんだ」I・Cが下卑た笑みを浮かべる。「で、他の情報は?」
『……戦況は穏健派が優勢で、帝国もいずれは改革を終えて加勢しようとしている。 遅くても来年には友軍として動くだろう。 強硬派のシーザーも回復し次第、過激派を追いつめるだろう。 ちょっと気になるのが……』
「どうした、レット?」セシルが問うと、青年レットは、
『僕ら和平派の幹部がもうすぐ総会を開いて、シーザーの代わりに当面の代理戦争をするかどうかを決めるってのは知っているよね。 それの結果が気になる。 それ次第でこの戦争がどうなるか、この世界がどうなるのか、本当に予想さえ出来ない』
「確かに……」特務員の誰かが言った。「そうだ」
『……そういや、グゼの欠員補充はどうするんだい? 新入りとかいるのかい?』
ふとレットが口にすると、新入りの者やI・Cを除く誰もが暗い顔をした。
「あ、あれ、どうされたんです、皆さん……?」アズチェーナが驚いた。
「あのアマを『ヘルヘイム』から臨時で出す……しか無いだろうな。 グゼに匹敵するような新入りは今の所いないしなあ……」
セシルが忌々しそうに言った。普段は女性の事をアマなどと呼ばない彼が、である。
「あのアマ? 誰だそれは」ベルトランが口にすると、シャマイムが答えた。
「名前はローズマリー・ブラック、別名は『メリー・ウィドウ』だ。 男性を誘惑し性交渉を持ってから殺害する事件を五九件連続で発生させ、異端審問裁判にて禁固一〇〇〇年の判決が下された。 ヘルヘイム特別房に現在は厳重隔離されている」
「……?」ベルトランは不審そうに、「言っては悪いがそれだけなのか? 五九人も殺したのは凄まじいと思うが、それだけならば別に魔族としては珍しくないと僕は思うのだけれど……」
「殺害相手はいずれも聖教機構特務員、もしくは」シャマイムが言った言葉にベルトランは目を見開いた。「従軍経験の豊富な軍人、傭兵などだった」
「……なるほど、そうか。 どんな女なんだい?」
「見た目はね、美女だよ。 そりゃあもう飛びきりの。 ……でも僕は妻の方を選ぶ。 世界にあのアマと二人きりになれと言われたら首くくって自殺する。 あれは危険が大好きな男じゃないと、とても、もう……」フー・シャーが少し怯えている。
「グゼが大のお気に入りだったんだ、あのアマは。 でもグゼはあのアマに迫られると言う心労が酷くて、ついには追いつめられてノイローゼで入院したんだよな、この前は……」セシルが苦い顔をしている。
「あのアマは殺す。 犯してから殺してやる」I・Cは会議室のテーブルの上に両足を乗せた。「俺を馬鹿にしたヤツはどんな末路が待っているか、思い知らせてやらねえとな! へへへへ、それが楽しみで今日は特別に会議に出てやったんだ。 ああ楽しみだ、凄く楽しみだ、早く出てこねえかなあ!」
(……どう言う風に馬鹿にされたんだい?)ベルトランがこっそりシャマイムに聞くと、
(I・Cの所持する男性器が平均より小型だと彼女は断言した)
(…………………………馬鹿じゃないのか、I・Cは? 気持ちは分からないでも無いが、自業自得だろうそれは。 何とかならないのか)
(幾度か説得しようと自分も試みたが全て失敗に終わっている)
シャマイムの忍耐強さは、もう表彰しても良いほどの代物ではないかとベルトランは思った。あのI・Cの説得なのだ、シャマイムは相当苦労しただろう。おまけにそれが全て失敗に終わっているとなると……。
彼女は肩の所で切り揃えられた黒髪がさらさらとしていてとても美しく、たたえる雰囲気は清楚で上品であり、少し高めのソプラノの声はまるで小鳥のさえずりの様であった。鮮やかに咲いた一輪の白バラに彼女は似ていて、とてもその本性に外見で気付ける男はいないだろう。
彼女の本性は、人食い蜘蛛である。
「皆様、こんにちは」と首に黒いチョーカーを付けたローズマリー・ブラックは丁寧な挨拶をした。彼女は通称『棺桶』と呼ばれている囚人移送用の大きな箱から姿を見せて、まずそうした。それから彼女を出迎えた特務員達を見渡して、「あら、グゼさんはいらっしゃらないの?」と不思議そうに言った。
「お前がヤツの欠員補充だ」とセシルが不愛想に言った。
「あらあら、そうなの。 残念だわ……」彼女は目に涙をためたが、フー・シャーは同情するどころか、むしろ気持ち悪そうに、
「良い加減グゼの事は諦めてやれよ。 グゼはお前みたいなのが一番苦手なんだ」
「酷い事をおっしゃるのね、フー・シャーさんは。 本当に、酷い……」そこで彼女はベルトランの姿に目をとめて、「あら、そちらの御方は新入りさん?」
「……ああ」ベルトランはかすかに殺気立っていた。「
(おい、俺も変身種だが人を喰った事なんて一度も無いぞ)セシルが悲しそうに耳打ちすると、ベルトランは彼を睨みつけて、
(僕の生きていた時代では、変身種と吸血鬼(ヴァンパイア)の殺人件数がとにかく多かった)
(……分かったよ、分かった)セシルは引っ込んだ。
「んまあ、酷い殿方ね」ローズマリーは悲しそうに、「私はそんな酷い事はしませんわよ」
((嘘つけ))特務員の誰もが似たり寄ったりにそう思った。((『そんな酷い事』が本当は大好きな癖に))
「ところで私が『ヘルヘイム』から出されたと言う事は……一体何が?」
そう訊ねたローズマリーに、
「過激派がテロを予定しているとの情報が入った。 場所はゲルマニクス王国首都ベルリニアだ。 『帝国』と提携した万魔殿穏健派の支持をゲルマニクスは閣議決定した。 そして穏健派を通して『帝国』と親密な関係を構築するべく穏健派への支援を決定した。 同時に我々和平派とも良好な関係の維持を目論み、ゲルマニクスは和平派が過激派との戦争に参入した場合、多額の支援金並びに物資を進呈すると発表。 これを知ったジュリアスが報復行動を取ると声明を発表、強制執行部隊第二班が動員される模様。 ゲルマニクスは和平派に救援を要請した」シャマイムが淡々と説明した。「だがゲルマニクスには穏健派にも救援を要請した可能性もある。 穏健派との対立は現状では好ましくないとボスは判断した。 そのため、殺傷せずに穏健派をけん制でき、テロリストを制圧可能な能力の所有者が必要だとローズマリー・ブラックにも任務を発令した」
「あらあら。 第二班と言いますと、あの市街地戦の得意な……。 分かりましたわ。 精一杯お仕事をさせていただきますわね」ローズマリーはこくんと頷いて、「それにしても、やっぱりお空は青い方が美しいですわね」としみじみと青空を見上げた。
「お前の殺した連中も同じ青い空を見ていたんだ」I・Cがあざけった。「でもその連中の目ン玉えぐって食ったのは、お前だぜ?」
「……相変わらずいやらしい人ね、I・Cさんは」ローズマリーは悲しそうに、「私は反省して罪を償おうと思っているのに……酷い事を……」
((償える罪なら一〇〇〇年間もの禁固刑なんて下されないだろうに……))誰もが、思った。
「オットー坊やは本当に良くやっている」と穏健派幹部アッシャーが少し嬉しそうに言った。「まだ若いのに、エウドニア前線の指揮官なんて大役をきちんと果たして……。 親父のカールや、可愛がっていたシラノが生きていたらどれほど喜んだか……」
「だったら、坊やって呼ぶのは止めてやりなさい」同じく穏健派幹部エウジェニアが苦笑して言った。「気持ちは分かりますけれど、もうあの子は立派な大人になったのよ?」
「それもそうだ。 でも、どうも私にもあの小さくて負けん気が強くて生意気だったオットー坊やの姿が思い出されてしまう」対過激派戦争総司令官、隻眼の男マルクスが穏やかに笑う。「はははは、いかんな、昔の事ばかりに囚われるのは。 ほどほどにせねば老人はこれだからと若い連中に言われてしまうよ」
彼らは小さな円卓を囲んで、和やかに会話している。昼下がりの食事後の、ささやかな憩いの時だった。
『エウドニア前線からの報告!』そこに、緊急の通信が入った。『先ほど強制執行部隊と交戦、多数の捕虜を獲得、その身柄の処分の判断をお願いしたくとの事です!』
「「えっ」」それを聞いた幹部達が一様に絶句した。
「それは……本当なのか? あの強制執行部隊が捕虜になるだと!?」アッシャーが通信機に向かって噛みつくように言った。「それはどう見ても罠だ! 即刻処刑しろ、オットー坊や!」
「賛成です!」エウジェニアが叫んだ。「あの強制執行部隊が捕虜の身分に甘んじるなんてありえません! あれは最後の一人になったとしてもこちらの喉笛に食らいついてくる! 処刑しなければオットー坊やが危険だわ!」
「待て」マルクスが止めた。叩き上げの軍人上がり、かつて「帝国」の『ハルトリャスの魔王』クセルクセス、聖教機構の『覇王』イザークと『獅子心王』アマデウス、亡国クリスタニアの『常勝将軍』オリエルとも渡り合った過去を持ち、『隻眼鴉』と異名を取る彼は流石に冷静だった。「それくらいオットー坊やも分かっているはずだ。 捕虜の素性や態度はどうだ? どんな連中だ? 直に聞きたい、オットー坊やに代わってくれないか?」
『了解』
少し沈黙が流れた後、通信機から若い男の声がした。
『マルクスさん、この、捕虜についてなのですが……』
「名前などは分かるかね?」
『ある程度ならば分かります。 「帝国」に俺が漂着していた時に何名か名前や顔を見聞きしましたから……』
「『帝国』? どう言う事だ? あ」そこまで言ってから、マルクスは事情を悟った。「そうか、そう言う事か!」
『ええ……』通信機の向こうで、オットー坊やが困った顔をして頷くのが見える様だった。『捕虜はいずれも「帝国」の元貴族達で、つい先日強制執行部隊に強制的に配属された者ばかりです』
どうしたものか。マルクス達ですら対応に戸惑っている間、オットーは捕虜の様子を観察していた。
……『帝国』が近年大きな戦争をやったのは、数十年前に亡国クリスタニアを撃破した時だ。だから若い帝国貴族には戦争らしい戦争の経験がほとんど無い、と言って良いだろう。捕虜達はいずれも軽傷を身に負っていて、強制執行部隊ならばそれでも襲いかかってくるのだが、彼らはそれだけで既に戦意を喪失してしまっていた。つまりは新兵が多い、使い物にならない部隊だったのだ。それが何故このエウドニア戦線に送り込まれたか。その理由は恐らく、時間稼ぎだろうとオットーは思っていた。和平派が戦争に参入するか否かを決断するまでは、強制執行部隊は使いたくないのだ。何しろあれはジュリアスの死札である。死札をいつも行使していたら、いざと言う時に疲弊しているかも知れない、それを避けたいのだろう。そのための便利な捨て駒が帝国元貴族達だった。彼らには戦意が無く、だが故郷に帰る事もオットー達の手によって送り返す事も出来ない。そんな事をすれば『帝国』がこれ以上無く激怒して、穏健派への支援を止める可能性もあるのだ。『帝国』に生きる全ての者の太母たる『女帝』を元帝国貴族達に殺されかけたのだから。とは言え、弱々しい捕虜を虐殺すると言うのも気が引ける。それでオットーは判断を上に仰いだのである。
捕虜達は、いずれも疲れ果てた様子で、もはや反抗らしい反抗でさえ出来ないほどであった。何人かは泣いていたし、何人かは震えていた。現実逃避のために目が虚ろな者、子供返りを起こしている者すらいた。
(貴族は……やはりその多くは貴族では無いのだな。 幸せな世界に住み着いていて、この戦争を、残酷な現実を知らない。 その自己完結した『帝国』の小さな世界が幸せだと気付いていれば、こんな目には遭わずに済んだものを……)
彼は、唯一、友達だった帝国貴族、
(JDならば死ぬまで戦っただろう。 JDならば命にみすぼらしくすがりつこうとはしなかっただろう。 JDは貴族だった。 正真正銘の貴族だった。 己の生きる世界に幸せと満足と未知を見出していて……そして、高貴に生きて高貴に死ぬと言う事を知っていた。 なのに……コイツらは……)
オットーは哀れみすら感じた。ある意味ではさげすみつつ。
(自分達から母親のような存在である女帝を裏切った癖に、今更何を……何を己の根幹に据えて生きようと言うのだ? 絶対的に裏切れぬもの無くして、どうやってこれから生きていくのだ? 惨めだ。 あまりにも惨めだ。 その果てが、なれ果てが、これなのだから……)
『坊や』通信端末が鳴った。マルクスの声がする。『オットー坊や、済まないがその捕虜達を連れて捕虜収容所へ行ってくれないか? 指揮官である君の代理にアッシャーが到着したら交代してくれ。 捕虜の待遇や返還などは、その後で考えよう』
「分かりました、マルクスさん」
『……それと、これは内々での頼みなのだが』マルクスが無音通信を始めた。『捕虜収容所でどうやら不正が起きているらしい。 大体はこちらも把握しているが、詳細な調査を君に頼みたい。 調査結果次第では、彼女達の裁断を必要とするかも知れない』
「……何が起きているのですか?」
『……「帝国」からこちら穏健派が色々な金融支援も受けている事は君も知る通りだ。 その金の中でも、捕虜収容所に回された分を、どうやら着服している者がいるらしい。 だが、何のために着服しているか、がいっこうに分からないのだ。 そして……』
マルクスが一度言葉を切った。
『収容所から捕虜がいなくなる事が相次いでいる。 脱走だとか自殺だとか色々と言われているが、私の勘が妙だと言っている。 金の動きと合わせて君に調べてもらいたい。 頼めるかね?』
「了解しました」オットーは、頷いた。
捕虜を収容所に移送している時、だった。オットーは捕虜の中にあの顔を見つけた。やつれて、汚れた顔を。
「オデット……?」
彼が呟いたとほぼ同時に、彼女はオットーの方へと視線を動かし、瞠目した。
「あ、貴方は!」
けれど彼らはそれきり沈黙する。今の二人の立場が、仲良く会話できぬほど相容れないものである事を互いに分かっていたから。
オデットは、かつての『帝国』の大貴族クセルクセスの愛娘であったが、『女帝』暗殺クーデターに加担し、故郷には二度とは戻れぬ身になっていた。一方オットーは、女帝側のクセルクセスと、その悪友であったJDに、クーデターが起きた時は味方した。クセルクセスもJDもクーデターの所為で死んだ。オットーは一瞬、オデットに激しい憎悪さえ抱いた。彼女達があんな真似をしなければ、JDは寝台の中で穏やかに死ねたはずなのだ。JDの笑みを浮かべた死に顔を思い出して、オットーは思わず背負っていた長刀に手をやった。
彼がここで彼女を殺しても、誰も彼を責めはしないし、大した罪にも問われない。彼が長刀を抜くと、捕虜達が悲鳴を上げた。だがオデットは、涙も流さず声も出さず、ただ唇を噛みしめてオットーを見た。それが彼女の答えだった。
オットーは、彼女の青い目を見つめて、鋭く言った。
「お前達はどうして裏切った」
「……『帝国』の肥え太った豚共」彼女は朱唇を開いた。「万魔殿からそう侮辱されるのに、私達は耐えられなかったのよ」
「だったらお望み通りにこの戦争で戦って死ねば良かったものを、どうして捕虜になってまで生きようとする? それこそ豚精神だろうに」
「……」
「理想を追いかけたは良いが、何も現実を知らない。 それはな、自殺行為と呼ぶものだ。 お前達はどうせジュリアスにそそのかされたんだろうが、あの男は利用価値が無いものに対して慈悲を与えたりなどしないのだ、絶対に」オットーは冷酷に言う。「お前の父親を裏切った時、お前は楽しかったか? さぞ楽しかっただろうな、自分達に正義があると信じていたから。 だがそれは幻だった。 だから貴様らは肥え太った豚共と呼ばれるんだ。 否、極上のカモ共だ。 それが今ではどうだ? 故郷に帰りたいだろう? だがもはやお前達に故郷は存在しない。 庇護する者も誰一人いない。 お前達は良いように扱われて動いた挙句に捨てられたんだ。 捨て駒でもここまでは惨めでは無い」
「……貴方には永遠に分からないでしょうね。 『帝国』とて楽園では無く、とても見てはいられない醜い現実があると言う事を……」
「その醜さを直視できないで、それを他人の所為にするなら簡単だな」
「……」
「お前達は貴族でも何でもない。 ただの卑怯者だ。 裏切り者だ。 楽しかったか、お前達の同朋を裏切り『女帝』を痛めつけて、心底それが正しいと疑いもせずに思っていたのか? とても楽しかっただろうな、こうなる前は。
お前達は『女帝』を殺し、その忠臣たる枢密司主席をも殺し、それにお前達がなり代わろうとした。 クーデターの計画内容は聞いたぞ、全て。 そうやってから聖教機構を万魔殿過激派と手を組んで抹消しようとした。 だが、聖教機構がその程度で倒れるほど弱い相手だと思っていたのか。 いいや、その後の事を考えた事はあるのか? 何故『帝国』が、『女帝』が聖教機構に宣戦布告しないか、それは聖教機構が倒れた後の問題の方が深刻だからだ。 かつて大国クリスタニア王国が滅びた後、世界各地で『後クリスタニア問題』と呼ばれる重大な危機がいくつも発生した。 あれがまた繰り返されたならば、と誰もが怯えるほどの重大な危機が。 今でも続いている列強諸国アルビオン王国のエリン問題、アルバイシン王国のデバン解放運動など正にそれだ。 だからこそだ、だからこそ戦争では無く平和をと穏健派は必死に動いている。 倒せるものなら倒したい、しかしもはやその時では無いのだ。 過激派は未来を全く考えようとしないただのテロリスト集団だ。 聖教機構の強硬派も大差無いが。 ……大体お前達はあれを知っていてジュリアスと手を組んだのか?」
「……『あれ』?」
不思議そうな顔をしたオデットらに、オットーは哀れみの視線を向けた。
「『デュナミス』だ。 あの世界最悪の暗殺組織とジュリアスは結託している」
驚く貴族達の顔を見て、オットーはいよいよ彼らに憐憫の情を抱いてしまった。だが、彼らを救ってやりたいとも庇ってやりたいとも、全く思わなかった。
「……知らなかったのか。 そうだろうな、そうだろう。 だがヤツらはお前達の愚かさを利用した。 全く可哀相だな、お前達は」
「そんな……!」オデットの目には、ついに涙が浮かんだ。「私達は、どうして――!」
「知るか」オットーは、現実を突きつけた。長刀はしまったが、より過酷で鋭いその刃を突きつけた。「俺は知りたくも無い。 だがお前達は故郷に戻れずどこにも行けず、ただ今をさ迷うきりだ」
「あー……」I・Cはいつもの無気力無関心無慈悲な態度で、じっと空中のどこかを睨んで歩いている。「また失敗か……畜生」
「きゃああ!」と女の悲鳴が上がった。哀れな通行人の女性であった。「露出狂が出たわ! 警察ー、誰か警察を呼んでー!!!!」
彼女は本当に哀れであった。その直後にI・Cに殴られるのだから。
「うるせえぞドブス。 殺されたいのか?」
「ヒッ、ヒッ……!」恐怖と痛みのあまりに腰を抜かして悲鳴が出ない女性。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」だがその彼女に救いの手を差し伸べた者がいた。「I・Cさんが婦女暴行をしています!!!! 誰でも良いからすぐに化学薬品工場カムパネルラの前に来て下さいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!」
通信端末にそう絶叫したアズチェーナが、駆けよるなり女性を抱きしめて、半泣きで、
「大丈夫ですか、大丈夫ですか!? 病院行きましょう、すぐに!」
「アズチェーナ」I・Cは訊ねた。「どうしてここに来た?」
「ど、どうしたも何もありませんよ!」アズチェーナは泣きわめく、「カムパネルラ本社から硫酸のプールにダイブしたのに生きたまま這い上がって来た不審者が、ふ、不審者が不法侵入してきたって、人間じゃないって、魔族だって、聖教機構和平派に通報があって、同時にその不審者を撮った監視カメラの映像が送られてきたんです! そうしたら……それがI・Cさんみたいで……たまたまみんな出払っていて、あ、あたしが駆けつけたんです……!」
「ああ、それは俺だ。 硫酸槽の中に落ちれば死ねるかなあとか思ったんだが……」
「そそそそそそそんな超絶はた迷惑な自殺未遂をしないで下さい!!!!!」
「何で死んだ後の事を考えなきゃいけないんだ」
「アズチェーナ!」フー・シャーがやっとそこに駆けつける。「今救急車の手配をした! 病院に着くまで彼女を頼む!」
二人を背中に庇い、フー・シャーは目じりを吊り上げてI・Cを見た。
「貴様は本当に良い性格をしているな! 殴り返せない者を殴って楽しむなんて!」
「あのさ、アリをうっかり踏み潰して何が悪いんだ? 命は命だぜ? だが殺人となるとお前らは血相変える癖に、アリを踏みつぶす事は容認して、いや、『踏み殺しても仕方ない』って暗黙の了解があるじゃないか。 俺にとっての殺人ってのはその程度の事、いや、それ以下の事なんだぜ? だって俺は化物だからな」
『I・C』バイクの形を取ったシャマイムが救急車の先導を務めて、そこに到着した。哀れな女性はアズチェーナに付き添われて病院へ行き、フー・シャーとシャマイムが残った。『現在は任務中だ。 任務以外の騒動を発生させる事は看過できない』
「うぜえ。 俺に何を言っているんだ? この俺に。 殺されたくなかったら大人しくしていろ」
『否。 それは不可能だ。 I・C、何故硫酸槽に意図的に落下した?』
「死にたいんだ。 でも死ねなかった。 服だけ溶けた。 駄目だなあれは。 次は活火山の噴火口に落ちてみる」
「……僕らはI・Cが自殺をしてくれると嬉し」死んでくれたらすごく嬉しい、嬉しがる人間しかいないと言いかけたフー・シャーがちょっと口を滑らせて、「……じゃない、別に驚かないけれどさ、I・Cが噴火口に落ちたら噴火が起こりそうだから、止めてくれと言うよ」
「本音は?」とI・Cは睨みつける。
「いや僕にだって良心はあるから本音は言わないよ」フー・シャーは真顔で言った。「I・Cみたいに良心まで無くしたくは無いんでね」
『何故そこまで自殺を画策するか、理由の説明を要求する』シャマイムが言った。
「どいつもこいつも俺を殺してくれないんだ。 俺を殺す事に成功しないんだ。 しょうがないから俺は自殺しようとしている」
『……I・C』シャマイムは説得しようと、『即刻病院の精神科を受診する事を強く推奨する。 I・Cの現在の精神状態は正常では無い。 適切な投薬治療並びにカウンセリングを受ける事を』そこまで言ったのだが、
「黙れ」I・Cはシャマイムを足蹴にした。「そんなもので治るなら俺は苦労してねえよポンコツ!」
「何でそこまで死にたいんだ?」フー・シャーが怪訝そうに、「生きている事がそんなに辛いのか?」
「辛いに決まっているだろうが、死ぬと言う事は絶対的な救済なのに、俺にはそれが欠片も与えられないんだぞ」
「それは……多分……因果応報だよ」フー・シャーがやや自信が無さそうに、「だってI・Cは今まで沢山人の嫌がる事を進んでしたじゃないか。 大勢人を殺したじゃないか、それも面白半分に。 だからその罰だよ……と僕は思う。 でも懺悔して悔い改めれば……」
「『悪い事をいっぱいしたけれど悔い改めましたから赦して下さい』、それで許すヤツなんかキチガイだろうが。 俺はそんなキチガイを一人しか見かけた事が無いぞ」
「一人もいたのかい!?」フー・シャーは驚いた。「……信じられない。 I・Cの所業を知っていて赦すなんて、まるで救世主のような人だねえ……」
「……チッ」I・Cは忌々しそうに舌打ちして、「救世主だったよ、実際に、な」
……ゲルマニクス国王ルートヴィヒ八世は、じっと考え込んでいた。首相のユージンが声をかけようかかけるべきか迷うほど、その顔は深刻そうであった。老年のこの国王は、昔からあまり外向的な性格では無く、哲学者の方が己には向いているだろうと言った事もあった。己の思考に押しつぶされかねないほど、国王は思慮深いのであった。
「……ユージン」その口が開かれた時、ユージンは少しだけほっとした。
「何でございましょうか、陛下?」
「『聖王』と『大帝』亡き後の聖教機構と万魔殿の動向だが……聖教機構に忽然と現れた男をシーザー、万魔殿の方はジュリアス、と言ったな?」
「はい、両者共にいきなり現れ、そしてその神がかったカリスマ性と知性であの世界組織を率いております。 いえ……正確にはあの二つの世界組織の内部分裂を招いたとも言えますが……」
「……そうか」国王は、再び黙りこんだ。
「我々は、これから最善を尽くし、このゲルマニクスが亡国クリスタニアのようにならぬようにします」そこまで言って、ユージンは少し黙った。「……あの国を支えていた一二勇将は、国王が交代した途端に馘首されて実権を失いました。 そして間もなく政治犯として処刑されました。 新国王が絶対王政を維持しようとして、一二勇将が推し進めていたクリスタニアの立憲君主制を阻止するためには彼らが邪魔になったとは言え、あの国は一二勇将無くしては維持できなかった。 あの国は政治体制の移行に失敗して滅んだのです。 今でも覚えています、クリスタニアが事実上滅びたあの日、我々列強諸国は王都クリスタニアンへ攻め上った『帝国』軍にこちらの領地まで攻められぬよう決死の覚悟で国境線を守備していた事を……」
「……」国王はまた物思いにふけっている。
国王の間に流れるのは重苦しい雰囲気。
そこに、
「ねえ、おじい様ー! あ、ユージンのおじ様!」と元気そのものの少年が走ってやって来た。その後ろから若い娘が少年を追いかけてくる。
「こら! ロタール、お話の邪魔をしないの!」
彼女は少年を叱ってそのえりくびを掴んだ、けれど少年はもがいて、
「コローナおねえ様、僕はおじい様と遊びたいの!」
思わずユージンは微笑んで、
「これはこれは、コローナ王女様、ロタール王子様、ご無沙汰をしております」
「ユージンさん、すみません」左目が茶色、右目が緑色のオッドアイの王女は恐縮して、「愚弟がまたワガママを言い出して……お仕事のお話の最中だったのでしょう? すぐに連れ出しますから」
「良い良い」と言ったのは老いた国王だった。本当に嬉しそうに微笑んで、「どれロタール、何の遊びがしたい?」
同じくオッドアイの少年は、無邪気に、「あのね、一二勇将ごっこ! 僕オリエル元帥になるんだ!」
「そうか、分かった」と国王はユージンに目で合図した。
ユージンも笑って、「では失礼いたします、陛下」
王女はため息をついたが、ユージンに並んで部屋を出て行った。
ルートヴィヒ八世には子供がいない。つれ合いも、もう亡くなった。一人息子がいて、結婚して孫が二人産まれた所までは良かったのだが、事故で亡くなった。だからこそ余計に孫が可愛い事をユージンは知っていた。王女のコローナ、王子のロタール。この二人が老いた国王の生きがいである事を、彼は知っていた。あまり雄弁ではなく、言ってしまえば暗い性格のこの国王が、孫と遊ぶ時だけは本当に嬉しそうである事も。
だから彼は会話を王子に邪魔されたと言う不快さよりも、むしろ微笑ましい思いを抱いて、部屋を後にしたのである。
ユージンらが部屋を背中に、廊下を歩きだしてから一〇秒たった時だった。
少年の甲高い絶叫が響いた。同時に銃声。ユージンは咄嗟に王女に叫んだ。
「近衛兵をお呼び下さいまし、王女様!」
「え、ええ!」王女は血相を変えて駆け出した。
そしてユージンは身の危険も問わずに部屋に飛び込んだ。そして立ちすくむ。
国王が、脳天を射抜かれて絶命していた。王子は、どこにもいなかった。
「首相、何事ですか!?」
そう言って近衛兵達が駆け込んできたが、彼らも、同様に立ち尽くした。
最高警備の国王の間で、国王が殺され、そして王子は何者かに拉致された。
「あ、ああ……」ユージンは、ゆっくりと体が震え始めるのを感じた。「陛下……! 王子様……!」
だが返事は無く、音と言えばじわじわと絨毯に染みわたっていく国王の血だまりの、聞こえぬはずのその汚染音が聞こえそうなほどの静けさがあるのみであった。
――それから、幾年月が流れたか。
ユージンは首相を辞めて、王宮や王室の維持・管理を務める宮宰をやっていた。コローナ女王がつい先日結婚したため、彼のやるべき事は沢山あった。もうすぐ結婚式なのである。結婚相手は庶民の出であったが、ゲルマニクス王立音楽劇場で一番と呼ばれるほどのオペラ歌手ハンス・エヴェックであった。
『あれは小鳥の求愛と同じで、鳴き声で口説き落とした』
皮肉が得意な雑誌などはそう書いたが、確かにハンスは美声の持ち主であった。
皮肉を言う者もいたにはいたが、ほとんどのゲルマニクスの国民が、彼らの結婚を祝福していた。先代国王が殺害され、王子が行方不明になってから、幸せと言うものとは遠かった王室に、やっと春がやって来たのである。めでたい事だ、ありがたい事だと誰もが思った。これで後は子供が生まれてくれれば、何の心配も無いのだが……。
ゲルマニクスが穏健派に味方する事を決めて、その報復にジュリアスが動いたのは、そんな時であった。
強制執行部隊第二班が動いたと言う情報を得て、ゲルマニクスの保安部や軍部は最高警備体制に移行した。女王だけは殺されてなるものか。誰も口にこそ言わなかったが、そう強く決意していた。
「御意」と強制執行部隊第二班班長ロイは頭をあげた。きらりとサングラスが光る。まだ若い、青年であった。「全てはジュリアス様、貴方様の意のままに」
「我らに刃向いし愚者を皆殺して来い」ジュリアスは言った。「全て計画通りにやれ。 以上だ」
「はっ」ロイはサングラスをかけたまま、頷いた。
――それから数日後、彼はゲルマニクス王国首都ベルリニアの中央駅にいる。彼は単身では無かった。第二班の工作員であるアルベリッヒが隣にいた。
「それにしてもロイ」アルベリッヒ、通称アルはなれなれしく、とは言ってもそこにあるのは互いに百戦錬磨ゆえの親しさだった、ロイに話しかける。「ジュリアス様も変な命令を下すなあ。 まあ、あの御方に間違いなど無いからな。 これも何かのためなんだろう」
「無駄口を叩くな」ロイは言い捨てて、歩き出す。アルは慌てて後を追う。
「ごめんごめん、怒るなよ、な?」
「不愉快だ。 喋るな」ロイは言い切って、それから足を止めた。バス停がすぐ近くにあった。王宮へ向かうバスに乗るのだ。「行くぞ」
「ああ」アルは、殊勝に頷いた。
穏健派幹部エウジェニアは、現ゲルマニクス首相ハインリヒと面会していた。
「この度は、女王のご結婚おめでとうございます」
「……社交辞令だと分かっていても、ありがとうございます」ハインリヒは物静かに言った。「先国王陛下が殺され、王子が誘拐された時、せめて何らかの組織などから王子の身代をとの要求があればまだ良かったのですが……ご存じのように無しのつぶて。 それ以来ゲルマニクスには厳冬が訪れました。 やっと、それがやっと春が来てくれました。 ありがとうございます」
「いえいえ。 ところで」とエウジェニアは微笑んだ、だがその迫力たるや相当なもので、ハインリヒはかすかに身構えた。「かつて我らが同朋シラノを聖教機構に売ったアルビオンの真似を、ゲルマニクスもするつもりではありませんわよね?」
「……一切ありませんと、断言しましょう。 我々は貴方を聖教機構に引き渡した場合の利点が何らありません、むしろ過激派の思うつぼですらある。 今の我らがゲルマニクスは、何としてでも、何としてでもコローナ女王陛下をお守りしたいのです」
「なるほど。 それならばこちらも善処しますわね」
エウジェニアがそう言った直後、爆音が響いて、両者の顔が強ばった。
「首相!」近衛兵が駆け込んできた。「強制執行部隊の強襲です!」
首相は立ち上がって、「応戦しろ! その間に女王陛下を安全な場所へ避難させるのだ! エウジェニア殿」ハインリヒは彼女を眼鏡越しに見つめて言った。「どうかご助力いただきたい」
「良いですわ」とエウジェニアも立ち上がった。その姿は、とても優美な肉食の獣に似ていた。「強化改造をした変身種の恐ろしさを強制執行部隊に見せつけてやりましょう」
「あッ」アズチェーナは修羅場と化している王宮前広場に駆けつけて、息を吞む。軍隊が強制執行部隊と交戦中なのだ。そのさなかに彼女はとんでもない人物を見つけた。いや、正確にはその人物は獣の姿をしていた。白い虎。それがゲルマニクス軍の後方支援を得て、強制執行部隊と対等に渡り合っているのである。その白虎は良くも悪くも有名だった。「あれは、穏健派幹部のエウジェニアです!」
『……ゲルマニクスめ、女王を守るためには手段を捨てたな』とセシルが通信端末の向こうでうんざり気味に呟いた。『やっぱり穏健派にも助力を乞うたか』
「まあ良いさ、まだ穏健派なら話は通じる」アズチェーナの隣のフー・シャーがそう言って、大きな音叉を手にした。「じゃあ、行くぞ!」
『――貴様らは!』白虎のエウジェニアが駆けてきたフー・シャーとアズチェーナを見て怒鳴った。『ゲルマニクス、やはり穏健派を裏切ったか!』
「まあ裏切った事は裏切ったけれど」フー・シャーは音叉を構えて言う。「生憎ゲルマニクスは貴様を売り飛ばしはしなかった。 加勢する!」
『何だと!?』
「げ、現在のゲルマニクスの至上目的は女王を守る事です!」アズチェーナが叫んだ。「だから、わ、私達をも利用した! でも、こ、この前のアルビオンとは決定的に立場が違います! ほ、本当はあたし達だって貴方を捕まえたいけれど、その命令は出ていません! ――えい!」
アズチェーナの声と共に地面を突き破って現れた植物の触手が、強制執行部隊の数名を捕えた。その数名は直後、フー・シャーの放った超音波により戦闘不能に陥る。それでも、巨大な
だが、それから数秒とせず、ゲルマニクス軍による後方支援が、止んでしまった。
『ゲルマニクス、何をやっている!』エウジェニアが吼えた。『そんなに女王を見殺しにしたいか!』
「貴様らは気が狂ったのか!?」フー・シャーも怒鳴った。「強制執行部隊の恐ろしさを知らないのか!」
『ち、違います!』拡声器を手にした軍人将校が、震える声で言った。『そのオッドアイは……その御目は…………かつて拉致されて行方知れずとなった、ロタール王子のそれなのです!』
それまではゲルマニクスにいた政府の穏健派支持に反対する勢力が、ほとんどいなくなってしまった。代わりにほとんどのマスメディアが騒ぎ立てた。ロタール王子は過激派に拉致され洗脳され、強制執行部隊の一員にされたと。ジュリアスを悪の化身だと言い、鬼畜だと言い、ゲルマニクスの国民がほぼ全員怒り狂った。過激派と戦争だと血の気の多い者は騒ぎ、一方でそれはまだ早い、ここは穏健派の支援に徹するべきだと別の者は主張した。とにかく、過激派へ好意的な感情を抱くゲルマニクスの国民は、ほとんどいなくなってしまった。
ジュリアスはゲルマニクスに対して報復行動を取ると言ったが、もうそれは十分すぎるくらいに取られたのだ。
「おお、おおお、ロタール王子様……」王子のなれ果ての姿を見たユージンは膝から崩れ落ちて、号泣した。「あの時私があの場にもう少し長くいれば、何かが変わったかも知れなかったのです、申し訳ない、申し訳ない……!」
「……」強制執行部隊の男は黙っている。檻の中、全身を拘束着で束縛され、舌を噛まないように猿ぐつわをされていたと言うのもあるが、何よりその鋭いオッドアイは壮絶な敵意を持っていた。
「ユージン殿」エウジェニアは言った。「これからこの男をどうするつもりですか?」
「勿論ロタール王子様はこちらで預かります、何としてでも洗脳を解いて、元のロタール王子様へ戻さねば!」
「だが良く似た他人と言う事もある」渋い顔をしたフー・シャーが言った。「騙されているかも知れないんだ、貴方達は。 シャマイムが来るまでは最低でもそう言う事は待っていてもらう」
「……でも本物だったとしたら、ジュリアスは血も涙も無い最低人間ですよね……」アズチェーナが呟いた。「I・Cさんに匹敵しますよね。 男の子を誘拐して洗脳して、自分の母国や家族相手にテロ行為をさせるなんて……」
「到着が遅れた事を謝罪する」そこにシャマイムがやって来た。シャマイムはゲルマニクスのメディアが所蔵していたロタール王子の映像を分析していたのだ。その映像の中の虹彩が、この男のものと一致するか、これから検証を始めるのだ。「虹彩認識の開始………………………………」
数秒後、シャマイムは言った。
「一致した。 だが念のために遺伝子鑑定も行う。 ロタール王子もしくはゲルマニクス王族の毛髪等はあるか」
「ええ、ございます!」ユージンは胸のロケットを開けて、毛髪を少し取り出した。それを受け取ってシャマイムは、檻の中の男の髪の毛を採取し、鑑定した。
「………………………………一致した」
それを聞いたゲルマニクスの面々が唇を噛んだ。
愛されて幸せに生きるはずだった一人の少年の人生が、滅茶苦茶にされたのだ。何と言う、最も的確で最も許しがたい報復行動だろうか。
『ロタール!!!!』
檻の前に立体映像で女性が現れた。可哀想なくらいに泣いていた。彼女を慰めている青年も泣いていて、どちらがどちらを慰めているのか怪しい所であった。
『何て酷い事をされたの、ロタール! もう大丈夫よ、もう大丈夫よ、ここには貴方を害そうなんて人はいないわ!』
「女王陛下……」ユージンがまた泣き出した。
『ね、コローナ、泣かないで、大丈夫、大丈夫だから』何が大丈夫なのか分からないのに、目を赤くした青年はその言葉を繰り返している。『ロタール君は戻ってきたんだ。 やっと戻ってこられたんだ。 だから、大丈夫だよ』
『ええ、ハンス……!』
「……感情を害するが主張する。 殺害しなければこの男は危険だ」シャマイムが言った。突き刺さるような視線がシャマイムに向く。だがシャマイムは言いきった。「強制執行部隊はジュリアスの切り札だ。 いくら元々が王子であろうと、無関係だ。 危険性は非常に高い。 繰り返す、殺害しなければ危険だ」
「お断りします」ハインリヒがきっぱりと言った。「この御方は、やっと故郷に戻ってくる事が出来たのです。 やっと家族の元へ戻ってこられたのです。 それを殺すなど、とても我々には出来ません!」
「だったら私が」と言いかけたエウジェニアをハインリヒやユージンが殺気立った目で睨んだ。「……本当に愚かですわね。 強制執行部隊は自爆すら恐れぬ連中です。 きっとこの男も体内に爆弾を仕込んでいるでしょう」
「でしたら早急に摘出手術をしなければ!」ハインリヒは叫んだ。
「肉親の情は分かる。 人間の感情も分かる。 だが、強制執行部隊の恐ろしさを貴方達は本当に分かっていないんだ。 アイツらは極限までの身体改造と訓練と実戦経験と洗脳を施されて、もはやまともな人間では無いんだ。 それを故郷だの家族だの……」フー・シャーが説得しようとしたが、ユージンが断固と、
「どうか分かっていただきたい、我々はやっと失われたものを取り戻せたのだと! この御方は強制執行部隊員以前に、ロタール王子様なのだと!」
『……想定外の事態ですわね』部下の特務員達から報告を受けたマグダレニャンは、思わずそう言った。『ジュリアスが王子を誘拐した当時からここまで計算済みだったとしたならば、恐ろしい話ですわ。 万が一、過激派に対してゲルマニクスが敵対行動を取った場合の、最悪の報復手段になりますから』
「ボス」シャマイムがモニターに向かって発言する。「あの強制執行部隊員は処分しなければ危険だ。 ボスからゲルマニクスに処分するよう働きかける事は――」
『やりましょう。 ですが上は女王から下は国民の一人に至るまで大反対を受けるでしょうね。 反対で済めばまだ良い、下手をすればゲルマニクスがこちらへの支援予定を中止する可能性もありますわ』主はため息をついた。
「ゲルマニクスの国民って、あまり感情的にならないと言う先入観があったけれど、とんでもない、泣きっぱなしじゃないか……」フー・シャーが小声でベルトランに言うと、
「それだけ衝撃と感動が大きかったのだろう。 全くダメな連中だ。 感情で行動しても、残るものは後悔だけなのに」ベルトランは言い捨てる。
「……でも、本当に可哀想な酷いお話」ローズマリーは目に涙を浮かべて、「王子は誰からも愛されて可愛がられて、すくすくと育つはずだったのに、その幸福をジュリアスが台無しにして……」
「こ、こ、これから、これからあたし達、どうするべきでしょうか……?」アズチェーナが言うと、
『ゲルマニクスの機嫌を損ねない程度に、強制執行部隊員……いえ、王子を尋問なさい。 同時にテロの発生にも注意するように』
「「了解」」
生きる価値の無い連中だ。ロイはそう思う。彼に泣きながら同情するゲルマニクスの面々を、彼は即座に殺してやりたいと思った。ジュリアス様に刃向った者を殺したい。それは強制執行部隊の誰もが思う事であった。そして彼には殺す事が可能であった。だが、ジュリアスからの命令で、まだ殺してはならないのだ。
「ロタール坊ちゃま!」老婆が檻の前で泣き崩れる。「覚えておいでですか、ばあやのジモーネでございます、覚えておいでですか!?」
「……」ロイは壮絶な殺意の視線で彼女らを睨んだ。
「これから王子は自爆装置の摘出手術を受けられる」ジモーネばあやを慰めるユージンとて、まだ赤い目をしている。「それから、ゆっくりと、時間をかけて、思い出していただければ良いではないか、ジモーネばあ様……」
「ええ、ええ!」老婆はしゃんと立ちあがって、きっとロイの目を見つめた。ロイの目に宿る壮絶な殺意などものともせずに。「ロタール坊ちゃまを、今度こそばあやはお守りいたします!」
いずれ、貴様ら全員を殺してやる。ロイはそう決心した。
摘出手術は成功した。まだ麻酔がかかっているロイの体を、医師や看護師達が手術室から運び出した時、だった。手術室の前にはジモーネやユージンらが大勢詰めかけていた。
「成功です!」医師が言った時には、歓声すら上がった。
だが、次の瞬間、ロイが動いた。麻酔など彼には最初から効いていなかったのである。動いて、手刀で、不運にも間近にいた老婆ジモーネの体を串刺しにした。彼は、摘出手術を受けた後ならばいくらでもゲルマニクスの連中を殺して良い、とジュリアスに言われていたのである。
ジモーネは吐血し、瞠目した。
誰の口からも、悲鳴が上がった。
「ロタール、坊ちゃま……!」
ジモーネは、しかし、二つの眼に力を込めて、きっ、とロイを見据えた。
「ロタール坊ちゃま。 ばあやは、信じておりますよ、お優しいお坊ちゃまに必ずお戻りになられると……」
何だこの老婆は!?ロイは驚愕した。今まで彼が殺してきた人間共は、殺される時に、皆、断末魔を上げ、苦しみ、絶望と死への恐怖に青ざめて死んでいった。なのに、この老婆は――何ら恐怖の無い眼差しで彼をまっすぐに見据えている!
「ジモーネばあ様!」ユージンが絶叫した。直後、老婆ジモーネは、倒れて、絶命した。
ロイは驚きで動けないでいた所を、拘束されて、病室に担ぎ込まれた。
どう言う事だ。ロイは考える。どうしてだ……?彼はらしくもなく戸惑っていた。どうしてあのババアは死の間際に俺をあんな目で見つめた?何故だ。どうしてだ。
『ロタール、それはね……』
悲しみを帯びた優しい声がして、ロイは視線を動かした。
彼らの最優先殲滅対象、ゲルマニクス女王コローナが、いた。だが、立体映像を殺しても無駄だ。それにロイは全身を拘束されていて、とても動ける状態では無かった。それでロイは視線だけで女王を睨んだ。
『……ジモーネばあやも、ロタールの事を愛していたからよ』
はあ?
ロイの率直な感想はそれであった。馬鹿げている、頭がおかしい。けれど女王は続けて言った。
『貴方が何人ゲルマニクスの民を殺そうと、誰も貴方を責めはしない。 それは誰もが貴方を愛しているからよ。 何度でも言うわ。 何人何十人何百人、たとえこの私を殺しても私も貴方を愛している。 ……お帰りなさい、ロタール』
ずきん、とロイの頭が痛んだ。彼には、幼い頃の記憶が無かった。
それからの日々はロイにとって恐怖の日々であった。彼は隙あらば束縛を振り千切って、看護師を殺し、医師を殺し、病院関係者を次々と殺した。
だが、その誰もが憐みの目でロイを見て、恨み言一つ言わずに死んでいくのだ。その中には神様、どうかお許しください、この御方は悪くないのです、とまで言って死んでいく者もいた。
何故だ。ロイは恐怖する。これだけ殺したのに、何故誰も俺を責めようとも罰しようともしない?俺は殺しているのに、殺される側がまるで喜んで死んでいくようだ。何でだ。俺は殺しているのだぞ!?
ロイはついに恐ろしくて恐ろしくて、『ゲルマニクスの連中』を殺す事を止めてしまった。殺そうとするとあのジモーネ達の最期の目を思い出して、怖くなってしまうのだ。これが抵抗して死にたくないと足掻く者達であったら、彼はためらいなく殺し続ける事が出来ただろう。だが違うのだ。まるで殉教する信徒のように無抵抗にかつ穏やかに殺されて死んでいくのだ。こんな化物のように恐ろしい連中を相手にするのはロイにとって初めてであった。それも木を切り倒し岩を壊すのとは訳が違う、己の意志で無抵抗に殺される、と言う事が彼にとっては恐怖の対象であった。俺はキチガイの狂人の異常者に囲まれていると彼は思った。しかもそのキチガイの狂人の異常者達は、同朋の大量殺人者である彼に対して本当に親切に誠実に接するのだ。彼が戻って来てくれて本当に嬉しいと口々に言うのだ。もう、もうロイの理解の範ちゅうを彼らの行為は軽々と飛び越していた。
「何故だ」ロイは怯えながらユージンに訊ねた。ユージンは、ロイが人を殺さなくなったと知って訪れてきたのだった。「何故貴様らは俺を憎まない!?」
「憎むべきはジュリアスであって、貴方様ではちっとも無いですよ」ユージンは悲しそうに、けれど同時にどこか嬉しそうに言った。「でも、どうか、貴方様が殺した方々の事は忘れないであげて下さい」
「――忘れる事が出来たならば俺はこんなに怖くない! 何でだ、何で貴様らは、平然と殺される事が出来るんだ!」
「……ああ、覚えていらっしゃらないのですか……全くジュリアスめ!」ユージンは納得した顔で、「貴方が殺したこの病院の者は、全て貴方がかつて救った者達の、それも志願してやって来た者ばかりだからですよ」
「俺が救った……?」
「……もう十数年も昔になります。 ゲルマニクスのとある原子炉がテロリストによって破壊されて、放射能が周囲を激しく汚染しました。 除染は何とか完了しましたが、風評はそうではない。 その地域は農漁業で経済的に成り立っている地域だったのですが、風評の所為でそれが破たんしかけました。 あの地域のものを食べ、触れると放射能に汚染されて死んでしまう、と。 でもロタール王子様、貴方は食べられたのです。 危険だと言う周囲の反対を押し切って、あの地域で採れた野菜を召し上がった。 たったの一〇にも満たぬ少年が、己の立場と彼らの立場をわきまえて、勇敢な行いをなさったのです。 ……風評は収まりました。 そしてあの地域の者はロタール王子様、貴方を崇拝するようになってしまった。 そして今回、貴方様を洗脳から解くにあたって、それは大変に危険な行いでしたから、決死の者を募ったのです。 そうしたら、彼らが大挙してやって来てくれた。 だから、どうか、彼らを忘れないであげて下さい」
「……」ロイは、黙り込む。
「そうだ、ロタール王子様、ミュージカルなどいかがでしょう?」にこやかにユージンは言った。「エヴェック公が是非に観劇してほしいとの事です。 エヴェック公の親友が演出をしているそうで。 王子様が大好きだった、『ジークフリートの竜退治』ですよ。 英雄ジークフリートが活躍するこの痛快劇が王子様は大のお気に入りでいらっしゃった」
「……」そのエヴェック公、その親友ですら無抵抗にロイを哀れんで死んでいくのだろうと思うと、恐ろしくてロイには殺そうとする意志が湧かなかった。
「だからぶっ殺せっつってるだろ!」I・Cが怒鳴る。「もう何人殺されたか分かっているのか!? 国民全員ぶっ殺させるつもりなのかよ! 馬鹿じゃねえの? 頭に脳みそ入ってますかー?」
「断固としてお断りします」ハインリヒは怒鳴られようと顔色一つ変えない。
「普段のI・Cの言動には賛同しかねるが、こればかりは同意見ですよ」セシルが言った。「下手をすれば女王だって殺しますよ、強制執行部隊はそう言う連中だ。 手遅れになる前に殺すべきです。 ……もう、何十名も病院関係者が殺されているんでしょう?」
「……最近、ロタール王子様は殺さなくなりましたが」
「それは単に一般人の殺戮に飽きただけですよ。 女王が出てくれば即座に牙を剥く。 それが強制執行部隊です」エウジェニアが、特務員達とはやや離れた場所できっぱりと言った。「貴方がたは現実を見ていないだけです」
「……現実? 最悪で殺されるだけでしょう? 生憎と私も王子様に殺されるだけならば何にも恐ろしくない人間でしてね」ハインリヒは淡々と言った。「私もあの原子炉テロの時に王子様に救われた人間の一人ですから」
「も、も、もうこちらの進言は一切聞かない、と言う事ですか!? ちょ、ちょっとした尋問すら完全に拒絶して!」アズチェーナがびくびくしている。「貴方達、みんな、気が狂っていますよ!」
「狂人で結構。 狂気の沙汰で上等。 これがゲルマニクスの総意でございます」
……そこに、拘束着を着せられたロイがユージンに連れられて登場したので、エウジェニアや特務員達は皆、身構えた。だが、異変にすぐに気付く。近くにゲルマニクス首相がいると言うのに、その目には何ら殺気が無かったのである。いや、むしろこの強制執行部隊の男はハインリヒをも怯えた目で見ている。
「おお、王子様、どうぞミュージカルに行ってらっしゃいませ」ハインリヒは一礼した。「きっと楽しい夜になりますよ」
「……」ロイは、うなだれて、連れて行かれた。
特務員達とエウジェニアが何事だと顔を見合わせた。
「他人の空似だよね……?」フー・シャーが思わず言った。
「否」シャマイムが、半信半疑と言った声で、「虹彩が一致した」
「か、歌劇座が血まみれにならなきゃ良いんですけれど……」アズチェーナが呟くと、
「その可能性が非常に高い。 我々の内数名が非常事態に対応するべく歌劇座に向かうべきだと判断する」シャマイムのその言葉に、特務員達は頷いた。
歌劇座に相応しい正装をしたセシルと、ローズマリーの姿を見て、I・Cがいきなり爆笑した。
「セシル、お前超似合ってねえ! ちんちくりんだぜ!」
セシルは恥ずかしそうに、「……俺、こんな格好をしたの、数年ぶりなんだ……」
「お前、特務員になる前は何やってたんだ」
「建築関係の……」とセシルが言った瞬間、訊ねたI・Cはまた吹き出す。
「ドカタか! お前ドカタだったのか! ドカタ君、ミュージカルは初めてじゃねえのか? 礼儀作法は分かっているか、うん?」
「おいI・C、何だその差別発言は!」フー・シャーが激怒した。「それにセシルの前身は確かに建築関係だったけれど、」
「うるせーな! ドカタの癖にいい気になってんじゃねーよバーカ!」
I・Cはご機嫌で酒を飲みに立ち去って行った。
ベルトランがシャマイムに聞く、
「アイツはいつもああなのか……?」
「是。 意識の改善を幾度も要求したが全て断られた」シャマイムは答えた。「そしてベルトラン、セシルの前職業はドカタ、いわゆる土木建築肉体労働者では無い」
「と言うと?」
「第一級建築士だった」
「そうさ!」フー・シャーがかんかんに怒っている。「それも一流の人気建築デザイナーだったんだ! セシル・ラドクリフと言えば僕ですら知っていたし、セシルが仕事を辞めた時、悲鳴が無数に上がったくらいだった! 大体人を職業で差別するなんて……差別して良いのは殺し屋とマフィアくらいなものだ! そもそもだ、肉体労働者の方がI・Cよりも圧倒的に絶対的にまともじゃないか! I・Cなんか人間失格だと言うのに! 僕はI・Cになるくらいなら喜んで土方になってやるね! 土方の方が圧倒的に生産的で素晴らしい仕事だもの!」
「俺は別にどう言われても良いさ。 それじゃ、行くか、ローズマリー」
セシルがそう言って腕を差し出すと、ローズマリーはご機嫌で彼と腕を組んだ。
「うふふふふ、ミュージカルなんて素敵ですわね」
ストーリーは簡単そのもの、昔々、邪悪な竜に苦しめられていた王国があった。竜はどんどんと要求をエスカレートさせて、ついには王女を差し出せと言い出した。否と言うならば国土を荒らすぞと脅したのだ。完全に困った国王の所に、武者修行の旅をしていた騎士ジークフリートがやって来る。王女と彼はお互いに一目で恋に落ち、ジークフリートは竜退治を決心する。邪悪な竜を激闘の末に倒す騎士。勝利の証に竜の舌を切るが、彼は疲れてしまって寝てしまう。ここで出てきたのが悪い騎士で王女を前々から狙っていたハゲネ。彼は竜の角を切り取り、持ち帰って竜を倒したのは自分だと主張し、王女と結婚させろと国王に迫る。竜の体を運ばせて、確かに角が切り落とされているのを見て余計に困る国王。そこに事情を知らないジークフリートが帰って来る。ジークフリートとハゲネ、どちらが竜を倒したかで大騒ぎ。そこで王女が言うのだ、ジークフリート、貴方が竜を倒した証を見せてくださいと。ジークフリートは竜の舌を出す。国王はそれを見て、これはジークフリートが倒して舌を切った後でハゲネが嘘のために角を切り落としたと知る。だってハゲネは竜の舌が無い事を知らなかったのだ。追放されるハゲネ。王女とジークフリートの結婚式で、幕。
勇壮なジークフリートのテーマと、結婚式の祝福のファンファーレが重なって幕が引かれた。アンコールは三回。観客の熱狂と嬉しそうな演者達の顔。何事も、起こらなかった。王族の特等席でロイはぼうっとその光景を見つめていた。そして、考える。俺はこれが好きだったのか?分からない。記憶が無いのだ。だが、『楽しい』と言う感覚を彼は久方ぶりに味わっていた。音楽が楽しくて、物語が楽しい。今までジュリアスの下で活動していた時に味わった楽しさとは根幹から違う、娯楽のための楽しさ。楽しさを求めている観衆に提供される、上質な娯楽。俺は、王子だったら、これを唯唯諾諾と享受できたのか?胸に響く何かがあった。心に訴える何かがあった。それが感動と言うものだと彼は知らなかったが、彼は今、感動していた。
だが、彼に強固に施された洗脳が叫ぶ、これは罠だと。彼を懐柔して強制執行部隊の計画を自白させるつもりなのだと。けれど、けれど、彼は生まれて初めて抱いているこの感情の名前が分からず、戸惑っていた。その名は『幸福感』であった。彼が殺した者達が全て願っていたであろう、彼の幸せ。ロイの混乱と困惑はいよいよ頂点に達した。俺はこれからどうするべきなのだ。決まっている、と洗脳は言う、ジュリアス様の命令に従い計画を実行するべきだ。だが、その計画は、彼に無抵抗で殺される人間を余計に増やすだけの計画であった。止めろ、と恐怖は言う。計画をゲルマニクスの連中に打ち明けて、これ以上俺に無抵抗な人間共を殺させるな。もうこれ以上俺をこの恐怖で震えさせるな!
彼は、昂ぶった感情と混迷を極めた頭を抱えて、歌劇座を後に連れ帰られた……。
『もうお手上げですわ』とマグダレニャンはため息まじりに言った。『殺されるくらいが何だ、と言われてしまったらこちらには説得する材料が何もありません。 最大の代価である己の命すら惜しくないのですから……』
「それなのですが」ローズマリーが報告する。「歌劇座で、元王子は何の問題も起こしませんでした。 これは計画性があるのか、それとも……」
「計画性に決まってんだろ」I・Cが言った。「だって強制執行部隊だぜ?」
「それがな……」セシルがためらいがちに、「元王子は何か、言葉にならない表情をしていたんだ。 感情的な顔と言えば良いのか? 強制執行部隊が感情的になるだなんてまずありえないだろう? これは、ちょっと、おかしいぜ」
「演技だろ。 化けの皮がいつ剥がれるか楽しみだぜ。 その『いつ』に『何が』起きて『どうなるか』はもっと楽しみだがな!」I・Cはいやらしく哂っている。
「で、でも、でも!」アズチェーナが一生懸命に何か言おうとしたが、それを遮って、
「……一〇〇名以上も強制執行部隊隊員を殺した男の言う事だ、あまり気持ち良くは無いけれど、信ぴょう性はあると僕は思う」フー・シャーが苦々しそうに言う。「でも、僕だって本当は元王子の洗脳が解けかけていると信じたい」
マグダレニャンは命令した、『もしも洗脳が解けたのならば……そのベルリニアで強制執行部隊が計画しているテロの内容を自白するでしょう。 その時には、それを阻止なさい』
「「了解」」
「全く、ゲルマニクスの者は全員狂っていますわ」
エウジェニアはそう言って、嘆息した。
「狂っているどころか、全員死兵となったも同然ですよ」彼女の秘書であるMs.カリスが呆れ果ててもうものも言えないと言った顔で言う。「ゲルマニクスの国民は、そんなに王子の事が好きだったんでしょうか?」
「ゲルマニクス原子炉テロの時、王子が大勢の者の命を、生業を、間接的にとは言え救った事は有名です。 幼かった少年が勇気を出した、それだけでゲルマニクスの者でなくとも感動はしてしまうでしょう」
「だからと言って、もう五四名も殺されているのに……」カリスは真紅に塗った己の爪を見て、殺された人間を指折り数えたが、途中で止めた。
「たとえ皆殺しにされようとも、彼らは喜んで死んでいくでしょうよ」エウジェニアは首を横に振った。「死を覚悟した人間ほど恐ろしいものはありません」
「覚悟、ですか……」カリスは呟いた。「『死ぬ、それが何だ』、確かにこう思われたら最後、もう手の打ちようがありませんよね……」
「……」何か思索していたエウジェニアが、ふと思いついたように口にした。「逆に覚悟の無い人間ほど醜くて無様なものもありませんわね」
「それもそうですね。 何となく生きているだけの人間を私は差別します」
「何となく生きられるのは、平和な時代の平和な時だけですわ」エウジェニアは口にした。「しかし誰でもいずれは覚悟を迫られる。 突然に、致命的なまでに重大な覚悟を」
頭が痛い。ロイは激痛に苦しんでいる。誰もいない真夜中の病院のベッドの上で、彼はまるで脳髄を抉り出されるかのような頭の痛みに横たわって耐えていた。痛みはまるで波のように押し寄せては引いていく。ぼんやりと、記憶が、蘇る……。
『手術は成功』
これは誰の記憶だ?
『術後も良好、洗脳状態も非常に良い』
俺の、記憶?
『こら! ロタール、またお洋服を汚して! 十二勇将ごっこで「発明狂」アルトゥールになったからって、実験ごっこなんかしちゃ駄目じゃない!』
俺の……過去?
『ロイ。 お前の名前はロイだ。 お前に使命と救済を与えよう』
……………………。
気配を感じて、彼はふと起き上がる。
「よう、ロイ」アルが病院に潜入してきたのだ。「何で殺すのを止めちまったんだ? あんなゴミみたいな連中、殺すのに造作も無いだろうに」
この瞬間ロイの腹は決まった。
「……殺すのを止めて改心したふりをしていれば、いずれは油断したゲルマニクスの上層部をまとめて殺せるだろうからだ」
アルは納得した顔をした。「ああ、そっか、そうか! お前はやっぱり班長だけあって先を見通しているな。 だが俺達の方も依然順調だ。 もうじきこのベルリニアは壊滅する。 勿論、壊滅する前に、ロイ、お前を迎えに来るよ。 ジュリアス様に成果を報告しに行こう」
「お前は口うるさいのが欠点だ。 実行あるのみだ」
「へいへい、了解。 それじゃあ、な」
アルの姿が消えた。それを確認してから、ロイは呟いた。
「……ゴミみたいな連中を殺す事に、俺がここまで怯えるものか」
穏健派と和平派に用があると言ってゲルマニクス上層部に急きょ呼び出されたので、I・C達とエウジェニアは嫌々ながら一堂に会した。
「で、何だ、呼び出した理由は。 元王子が手に負えませんって今更泣きついたって知るかバーカ」I・Cが開口一番にそう嫌味を言った。
「ベルリニアで予定されている過激派のテロの全貌が判明したからです」嫌味などものともせず、ハインリヒはそう言って、眼鏡を押し上げた。それから恭しく首相自らの手でドアを開けて、「どうぞ、ロタール王子様」
「「!!!」」
I・C達が仰天した、と言うのもあの強制執行部隊の元王子が夢から覚めた顔をして、ドアから入ってきたからである。即座に彼らは戦闘態勢を取った、が、元王子は言った。
「非常に特殊なウィルスを使ったバイオテロだ」
「非常に特殊なウィルス……?」エウジェニアが繰り返した。
「『シボレテ』と俺達は呼称していた。 生物の、高等知性生物の思念に反応する思念呼応型ウィルスだ。 ジュリアスへ好意的感情を抱いていない者全てに感染し、二四時間以内にジュリアスに忠実なゾンビに変える。 シボレテに侵されたゾンビは接触しただけでゾンビを増やす。 だが常温域の水分を媒介としなければ大元の『シボレテ』は増殖・感染できない。 それゆえ俺達は、女王の結婚式の際に一般人にも振る舞われるビールにそれを仕込む予定だった」
「何だとう!?」セシルが目を剥いた。
その女王の結婚式は、明後日なのである。そしてその時にはベルリニアにいるほぼ全員の人間にビールが無料で振る舞われるのだ。間もなくそのビールがベルリニア中に配られるだろう。それが飲めないとなれば無理やりにでも飲もうとする者も出てくるに違いない。おまけにロタール王子の件で、ゲルマニクスにはジュリアスに対して好意的な人間など今や一人もいないのだ。そして、その者が最初の感染者となって――。
だが、彼らの頭にはある疑問が真っ先に浮かんだ。
「どうして急に洗脳が解けたんだ……?」ベルトランが言った。「あれだけ暴れていたのに」
ロイは少し黙っていたが、「……己の意志で無抵抗に俺に殺される人間が、何よりも恐ろしかったからだ。 その彼らをゴミだと言われた時、それは違うと俺はやっと気付いた。 彼らはゴミでは無かった。 覚悟を決めた人間だった。 恐怖から逃れようとして、感情が揺さぶられて、全ての真意を知った時、俺は疑うと言う事を知った。 疑ったから、俺は今ここにいる」
「信じがたいが……あまたの犠牲者がついに奇跡を起こしたんだね……」フー・シャーがぽつんと呟いた。彼らの犠牲は、無駄では無かったのだ!
「早急に対策を講じてベルリニア・バイオテロを阻止するべきだと提言する」シャマイムが言った。
――その莫大な量のビール保冷庫に集結するであろう強制執行部隊第二班に強襲をかけるべく、全方面から穏健派と和平派は接近する事となった。
「ロタール!」
名前を呼ばれてロイは振り返った。振り返ると同時に抱き付かれて抱きしめられた。甘い女性の香りに、彼は一瞬戸惑うが、ややあって、抱きしめ返した。
「……コローナ女王……」
「おねえ様でしょう、ロタール?」にっこりと笑って女王は言った。
「……おねえ、様」ロイは、言った。
「ありがとう。 さぞ辛かったでしょう、洗脳されていたとはいえ、仲間を裏切るなんて……本当にありがとう」
「いえ、別に……」
ここで彼はこの世の終わりが来たかのように彼らの様子を見て号泣している若い男を見る。ハンス・エヴェックであった。
「良かったねえ、本当に良かったねえ、洗脳が解けるなんて、本当に……!」
「こらハンス、声が嗄れてしまうわ! 貴方、披露宴の余興でカンツォーネを歌うんでしょう? それが台無しになってしまうわ!」コローナは泣きながらも笑って言った。
「うん、うん……!」ハンスは嬉し泣きを、かろうじて抑えている。
「おねえ様」ロイは、じっとコローナの眼を見つめて言った。「俺もバイオテロの阻止に行かせて下さい」
「駄目よ!」コローナは血相を変えた。「もう貴方が傷つく必要も危険を冒す必要もどこにも無いのよ!」
「そうだよ! もう君は幸せになって良いんだ!」ハンスも叫んだ。
「……ああ、そう言ってくれるんですか」ロイは生まれて初めて微笑んだ。心底嬉しくて微笑んだ。彼は、彼の幸せを何よりも願ってくれる人間達に囲まれたのだ。それは何と稀有な事で、何と素晴らしい事だろうか。「俺はロタールじゃないのに、そう言ってくれるんですか……」
「何を言っているのロタール、貴方は紛れもなく私の弟よ!」女王は叫んだ。
「俺は」ロイは真実を言った。彼が覚悟を決めたあの夜、一切の記憶も蘇ったのだ。「体こそロタールですが、脳髄はどこかの貧民街の孤児から生体移植した偽者なんですよ。 本当の本物のロタール王子の脳髄は、廃棄槽に捨てられたんですよ」
「嫌! 嫌よ! ロタール!」コローナは行こうとするロタールにすがった。「たとえそうであったとしても、貴方は私の大事な、たった一人の――!」
「駄目だ、行っちゃ駄目だ!」ハンスは彼を止めるために近衛兵を呼ぼうとした。「誰か、誰か来てくれッ! ロタール君を止めるんだ!」
近衛兵達が我先に駆けつけてきたが、ロタールは彼らにも微笑みを向けて言った。
「もう良い。 もう良いんです。 俺は幸せだった。 これがかりそめのものであったとしても、俺は本当に幸せだった。 一時とは言え、貴方の弟になれて本当に良かった。 ……どうかロタール亡王子のために祈ってあげて下さい。 挽歌を、哀歌を、葬送歌を歌ってあげて下さい。
俺は、行きます」
そして次の瞬間、全ての制止を振り切って、ロイは走り出した。
保冷庫は大した警備もされていなかった。ビール泥棒を防ぐ最低限の警備員しかいなかった。彼らは皆、首をへし折られて悲鳴も上げられずに絶命していた。
『ローズマリー、能力の最大行使を許可しましょう』通信端末の向こうでマグダレニャンが冷酷な声で言った。『皆殺しで構いませんわ』
「はい、マグダレニャン様」ローズマリーはにっこりと優しく微笑んで、『分裂』した。彼女の体が分裂して、次々と黒い蜘蛛に変身していく。ぞわぞわと無数の黒い肉食蜘蛛が文字通り蜘蛛の子を散らして保冷庫に侵入していった。
『おぞましい力ですわね』白虎の姿のエウジェニアが呟いた。『同じ変身種ですが、本来ならば変身種一体につき一個しか無い「核」を無数に分裂させる事が出来る突然変異系は、どうも生理的に受け付けませんわよ』
『同感したくないが同感だ』やはり化物の姿になったセシルが言った。
ぎゃあ、と悲鳴が上がったのを合図に、特務員とエウジェニアは分かれて全方位から突入した。
黒い蜘蛛に全身を覆われてのたうち回る強制執行部隊隊員を、彼らは次々と処分して行った。その間I・Cは任務なんか放置して、ビールの樽を片っ端から空にしていた。そして何気なく嬉しそうに、
「こんな任務なら毎日やりたいぜ!」
――そのI・Cが吹っ飛ばされて、樽を弾き飛ばして床に転がった。強制執行部隊の一人がアンプルを懐に、そして全身の体温が一〇〇〇度を超える高熱で覆ってローズマリーをも寄せ付けず、ただ一人で撤退を始めたのである。
「あッ!」アズチェーナが植物のつるでその男を捕縛しようとして、失敗した。つるが一瞬で蒸発したからである。
「この!」と放たれたフー・シャーの超音波をかわして、その男は包囲網をも突破し、逃げて行った。
『マズいぞ! 追え!』セシルが駆け出した。
「ここの後始末は僕に任せろ! みんなで追いかけるんだ!」ベルトランが叫び、誰もがそれに従った。
(何でだ)ただ一人撤退しつつ、アルは混乱していた。(何でこの計画が露呈した!?)
彼はとある場所を目指してまっしぐらに、ところどころに罠や妨害装置を仕掛けつつ、疾走していた。
その場所に到着するなり、『
「お前か」とアルは一瞬安堵したが、次の瞬間全てに気づいて血相を変えた。「お前、まさか!」
「そのまさかだ」ロイは言った。「お前達が計画の遂行に失敗した場合、ここに来るだろう事は俺くらいしか予測できない事だ。 待っていたぞ、アル」
「裏切り者め!」アルは叫んで、表皮の温度を最高温度にまで跳ね上げてロイに突貫した。ロイに体当たりすればその体が蒸発してしまう事は間違いない超高温度であった。だが、ロイはそれをかわした。かわして、ベルリニアの市民の上水道を支える地下貯水槽の上に立ち、アルを挑発した。
「相も変わらずお前は無能だな。 口だけで、実行性が無い」
「黙れ、裏切り者!」とアルはまた突進した。
直後。
アルの姿が消えた。
ロイが仕掛けた罠は単純明快、落とし穴であった。それに、アルは見事にはまったのだ。落とし穴の下はアルのアンプルより放たれたシボレテが増殖しつつあった、水をたっぷりと溜めた貯水タンクであった。アルの断末魔が聞こえた。超高温の塊が冷たい大量の水の中に落ちたのだ。瞬間沸騰した熱湯の中で、アルは温度差に耐え切れずに体が崩壊し、更に溺れて死んだ。シボレテも、高温に耐えきれずに死滅した。同時に、大量の高温の蒸気が発生し、それは辺りを一瞬で焼きながら舐めつくして行った……。
アルを追いかけて貯水タンクに駆けつけた特務員とエウジェニアは、はっと息を飲んだ。既に満ち溢れていた蒸気は温度を下げていて、そこは人が活動できる温度の範囲内にある。
一人の男が、貯水タンクの側でうずくまっていた。焼けただれたその顔にはかすかに勝利の微笑みが浮かび、そして、その目は――。
「ロタール王子!」シャマイムがすぐさま駆け寄って、応急治療をしようとしたが、もはやそれは彼の苦痛を長引かせるだけだとすぐに判断を終える。
「みんなに、」と男はオッドアイを細めて言った。「伝えてくれ、ありがとう、と」
こと切れた。
誰もが絶句して、何と言えば良いのか分からないでいたが、シャマイムだけが動いて、変形するなり男の体を収納した。
「どうするつもりだい、シャマイム……?」フー・シャーが訊ねると、
『遺体を現状のままゲルマニクス側に返還した場合、ゲルマニクス側の狂乱状態が予測される。 よって、最も衝撃を与えない形に遺体を変換する』
「……そうか」と人間の形に戻ったセシルが頷いた。
「そ、そうだ、シボレテ、シボレテは!?」アズチェーナがはっと気づいた。エウジェニアが穴から下を覗き込み、中で死んでいる男とぐらぐらに煮え立った水の有様を見て、
『……ほぼ死滅した、と言って良いでしょうね。 これでどうやらバイオテロは終結したようですわ』
ダイアモンドであった。永遠に輝き続ける砕けぬ金剛石。ロタール王子の体は、それに変えられて遺言と共にコローナ女王の手の中に戻った。
「……」女王はもう泣かなかった。彼女の弟は、もう誰にも害されはしないし、どこにも拉致されて連れても行かれない。ずっと、ずっと彼女と一緒にいる。「ありがとうございました」と彼女は優雅に、特務員とエウジェニアに向かって一礼した。
『任務完了を確認、ご苦労様でしたわ』マグダレニャンは通信端末の向こうで言って、特務員達をねぎらった。それからふと、「それにしても、今回は強制執行部隊隊員が一名限りとは言え洗脳から解かれた事はともかく……特に穏健派と共闘した事は本当に珍しい事態でしたわね」と側に控えるランドルフにこぼした。
「マグダ様」ランドルフは少し考えてから、「穏健派と共闘できた、と言う事は、もしかしたら――」
「まだ可能性の段階ですわ」と彼女は首を横に振った。「ですが、いずれは、と信じたいのも確かです」
「ええ」ランドルフはしっかりと首を縦に振った。そして、「信じましょう」と答えた。
オットーは書類を調べていた。捕虜収容所に来てからと言うもの、彼はその作業を延々と飽きずにやっていた。もう時は深夜であった。彼の背後に、双子と思しき謎の人物の小さな影が現れた。それは徐々にオットーに忍び寄る――。
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