みかんの島
室町みのり
第1話
「みかんの島」
「洗車、お願いしますー。」
声をかけられて、和幸は振り向いた。
「なんや、おまえか。」
頬の真っ赤な女の子が、体に合ってない小さな自転車に乗っている。和幸にとって見慣れた姿。
「あんな、明日、私、島に帰るわ。」
「……てことは、親父を説得できてんや。」
「うん、一緒に帰るわ。」
「……そうか、ようやったな、おまえ。良かったな。」
和幸は空を見上げる。大阪の街のたいして広くもない空のへりには、入道雲がのさばっているのに、高いところにはいわし雲。
「もうちょっとで秋やもんなあー。」
和幸と、その女の子が出会ったのは、和幸が近所のおばちゃんに軽自動車を売り込んで、それがうまい具合に行きそうで、気分のいい時だった。
「あんたんとこで買うんやったら、もうちょっと勉強してえな。」
「するする、なんぼでもするでー。」
調子のいいことを言いながら、ファミリー向けの軽自動車を売り込む。姑が病院に通うのに、おばちゃんが
「私でも運転できそうで、おばあちゃんが乗り降りしやすい車が無いか?」
と聞かれたので、オープンスライドドアのこの車を勧めたら、おばちゃんは一目で気に入ったようだった。
「こら、ええなあー。ここんところが、こないに大きいに開いたら、絶対便利やで。」
「そうやろ?ぴったりやろ?まさにおばちゃんのために作られた車やで。」
「そうやなあー。」
などと話が弾み、これは行ける、という確信をもって、浮き浮きしながら商用車を運転しながら、和幸の自宅兼職場に帰っている途中に、泥だらけになって、ちいさな自転車を引きずりながら、とぼとぼ歩いている小学生の女の子を見つけたのだ。
ちょっと郊外のこのあたりは、まだ田んぼも畑も残っていて、女の子はそれのどれかに落ちたと思われる。女の子の様子が気になって、前後に車が見えないのをいいことに、和幸はスピードを緩めて、女の子の横につけた。助手席側の窓を開けて、
「どうしたんや、泥だらけやな?」
女の子に声をかける。
「うちの工場、すぐ左手に見えるんやけど、自転車と足だけでも洗って行ったらどうや?うちのおかんに言うたら、タオルぐらい貸してもらえるで。」
そう言うだけ言って、和幸はゆっくりと車を走らせ、足を止めた女の子がじっとこっちを見ているのをミラーで確認しながら、自分ちの敷地に入った。
店舗の奥に入り、
「おかん~おらへんか?」
と声をかけるが、返事がない。仕方ないので靴を脱いで上がりこみ、タオルを風呂場から持ち出した。
外に出て、アルバイトの良太に
「おかんは?」
と声をかけると、
「さっき、出ていきました。」
とぼそっと不愛想に答えられる。地方出身の大学生の良太は、訛りを気にしてか、いつも無口だ。まあ車検の手伝いに、そんなに愛想がいるわけではないが、もうちょっとなんとかならんかいな、とはいつも和幸も思う。
そこへ、さっきの女の子が、泥だらけの自転車を引きずりながら、入ってきた。女の子が、にらみつけるようにこっちを見て、口を開く。
「……洗車、お願いします。」
和幸は、破顔した。
「おもろいな、おまえ。」
「……だって、自転車、泥だらけやし。」
「そうやけど、洗車って…。おーい、良太、この自転車、洗車したってや。」
「はい。」
良太が近づいてきたので、自転車を良太に渡して、和幸は、女の子に言った。
「そこのホースで、自分の足も洗車しいや。自分も泥だらけやん。」
「ありがと。」
「洗い終わったら、自販機のジュースおごったるわ。」
「うん。」
女の子は、素直に言われた通り、水道につながれたホースに向かう。
「これ、貸したるわ。」
女の子にタオルを投げると、女の子は器用にキャッチした。靴を脱いで洗うようだった。
その間に、和幸は仕事に戻る。タイヤ交換の仕事が入っていて、夕方までに交換して届けないといけない。車をジャッキアップして、擦り切れたタイヤを外していると、女の子が近づいてきた。
「タオル、ありがとう。」
「あー、その辺に置いておいてや。」
振り返ると、女の子の膝の横は大きくすりむいて、痛々しい傷がついてる。
「あー、怪我もしてんや。大丈夫か?」
「大丈夫……。」
「ごめんな、おかん帰るまで、手当てしてやれへん。休憩するとこで、ジュースでも飲んで待っておいてや。」
女の子を休憩所のテーブルに誘導して、後ろのポケットから、小銭入れを出して、自販機の前へ立つ。
「なんのジュースがいい?」
「コーラ。」
素直に答える女の子。
「コーラな、はい。」
目の前に紙コップを置いてやると、女の子は黙って口にする。
「……あの自転車な、あんたの身体にあってへんやん。だから転んで怪我するんやで、もうちょっと自分にあった大きめなの、親に買ってもらいや。」
そう和幸が言うと、女の子は、突然顔を伏せて泣きはじめた。
……つまらんこと、言うてしもうたかもしれん。
和幸は後悔にとらわれる。
そこへ、和幸の母が帰ってきた。
「ただいま、何やカズ、また誰か拾うて来たんかいな…。しかも泣いてるがな。」
「うん、おかん、この子転んで怪我してるみたいやから、手当てしたって。俺、仕事に戻るわ。」
和幸は、タイヤ交換の仕事に戻る。その後も、ちいさな修理の仕事が入っている。泣かせてしまった女の子のことは、母親に任せて、和幸は仕事に専念することにした。
仕事を終えて、和幸は夕飯の席に着くと、嗅ぎなれた匂いがした。
「おかん……またおでんか。夏になんで、おでんなんや。」
「あー、今日はトオルが来るからな。トオルはカント煮き、好きやからな。」
「……あいつ、よう来るな。絶対、うちで食費浮かしてるやろ。」
「何言うてん、もとはトオルもあんたが拾うてきたんやがな。」
言われて和幸は黙り込む。
和幸は、「拾い屋」とあだ名がつけられている。ものを拾うのではなく、どうも人の厄介ごとを拾うのが趣味らしい。お人よし、といえばそれまでだが、お人よしから一歩踏み込んだところに、拾い屋と呼ばれるゆえんがあるような気がする。なんというか、困ってそうな人間のところに、積極的に足を突っ込んでしまう悪い癖があるのだ。
「カズ、あんたな、人の面倒事を拾うのは結構やけど、金だけは貸すな。……せいぜい、財布落として困ってる人間がいても、700円が限界やな。札見せたらあかん、なめられる。」
そう、和幸の母に言い含められている。
「なんで700円やねん。半端やな」
「せまい大阪、ここからどんな端まで行っても地下鉄で700円もかからんやろ。そっから先は自力で帰れるわ。」
「…………。」
「おまけにな、その金は捨て銭や。二度と返って来ん。そう思って、捨てるつもりで渡すんやな。」
「わかった。」
和幸は母親に頭が上がらない。その言いつけを、固く守っている。ただ一つの例外を除いては…。
今日来るトオルも、もともとは駅前でヘッタくそな弾き語りを披露していて、図々しくもギターケースを前に置いていたのだが、そこには1円玉しか入っておらず、あわれに思った和幸が、うっかり自宅に夕食に誘ってしまったのがきっかけで、それから猫のように時々夕飯をたかりにやってくる。
もっとも、トオルの顔が、和幸の母のお気に召したから、そういうことになってしまっているのかもしれないが…。
「あの子の顔な、江木俊夫に似てるんや、若いころの」
「誰やそれ。」
「フォーリーブスやがな。知らんかいな。」
「知るか。」
トオルが男前であるのは確かだ。ミュージシャンを気取ってはいるが、内実はただのヒモをしていて、女に追い出されて食いっぱぐれているところを、和幸が拾ってきてしまったらしい。
その後トオルは、一応和幸の近所に仕事を求めてアルバイトを始め、給料日前になると和幸の母の食事にありつきにくるようになった。
トオルはうらぶれた様子でも、どこか品があるようで、聞いてみると、トオルの父親はそれなりの会社を経営しているらしい。つまりはボンボンなのだが、家には帰りたがらない。まあそのへんの事情に首をつっこんでもしょうがないので、和幸は聞きもしない。
今日の女の子やトオルだけではなく、これまで和幸は、失恋して大泣きしているOLの長い話を4時間ぐらい聞かされたり、自宅の縁側の下で勝手に生まれた猫の始末に困っている人と一緒に、里親探しに奔走したり、拾い屋エピソードには事欠かない。
「なんでこんな性格になってしまったんやろ…」
自分でもうんざりしてしまうことがある。でも、どうも、困っていそうな人がいると、声をかけてしまう。まあ、自分で声をかけるというのがミソで、困っている人に声は自分から声をかけることはあっても、相談事を持ちかけられたりはしないので、これまで詐欺に遭わずに済んでいるのかもしれない。
和幸は、ちょっとだけ、人より苦労して育った、そんな経験が彼を拾い屋にしてしまったのかもしれない。
和幸は、17歳まではごくごく普通の、頭もそこそこ、顔もそこそこ、運動もそこそこの一般的な高校生だったのだが、突然、その夏に、和幸の父が失踪した。ガソリンスタンドを経営しながら、整備士の資格を持った入り婿の父が、細々と小さな修理の仕事を引き受けながらなんとか経営していた和幸の家から、父が消えてしまうと、たちまち家計は苦しくなった。やむなく、ガソリンスタンドで雇っていたアルバイトは全部切って、和幸は家で母と働きながら、苦労して高校を出た。それからも苦学生として専門学校に通って整備士の資格を取り、うまみの少なくなったガソリンスタンドの仕事はやめて、自動車修理と、車検と、軽自動車を売りさばく仕事で、なんとかかんとか持たせている。
「はよ結婚しいや。」
母親は口癖のように言う。和幸は二十四歳。けして焦るほどの年齢ではないが、
「こんな悪条件、なんも知らん若い女の子が、恋だの愛だの夢を見てるうちに、勢いで押し切らんとどうにもならんがな。二十六までに結婚せんと、あんた一生無理やで。」
……それはもっともかもしれないが……このあいだ、めぐみに振られたばかりだ。和幸には、なかなかそういういい話は回ってこない。
「あの子な、早希って言うんやけど。」
和幸が拾ってきたさっきの女の子を話を、母親が持ち出す。
「はあ、見た目と違って可憐な名前やな。」
和幸は、さっきのちんちくりんな女の子を思い返していた。まん丸の顔に真っ赤な頬、黒くてがっしりとした眉毛、短く切りそろえられた前髪。
「早希っていうより、金太郎やな。」
「しょうもないこといいな。早希な、お母さんのところから家出して、お父さんところに来たらしいで。」
「……なんや、うちと一緒の離婚家庭か。」
「うちは離婚してへん、お父ちゃんが勝手におらんようになっただけや。早希のところも別に離婚したわけじゃないみたいなことを言ってたけどな。」
「……なんか、いろいろやな、どっこも。」
「あんたも人の心配はええからな、はよ結婚しいや。」
「またそれかい。」
和幸は、思い出したくもないのに、まためぐみのことを思い出してしまう。
「言っとくけどな、あのめぐみって子は、無理やで。」
「おかんエスパーか……。」
和幸はつぶやく。
「あんな目とオッパイばっかりおっきい子、ほかの男がほっとかんやろ。もうちょっと現実見るんやな。」
和幸は、もう食欲がなくなってきた。
「ごちそうさん……。」
「なんや、もうええんか?残ってるで。」
「夏にそんなにおでん食われへん。トオルに持って帰らして。」
言い捨てて、和幸は二階に上がって行った。
畳の上に寝転んで、めぐみのことを思い浮かべる。よく笑う子だった。大きな口を開けて、「カズ、また今度は誰を拾ってん?」とケラケラ笑ってくれた。……また、戻ってきてくれるかもしれん。未練がましく、和幸はそんなことを考えた。
早希は、それからちょいちょい、和幸のところに現れるようになった。学校の宿題らしきものを持って、前にコーラを飲ませてやった休憩所のテーブルで勉強している。
「おまえ、ここで何してるんや。」
和幸が聞いてみると、
「見たらわかるやろ、夏休みの宿題や。」
と、生意気な答えが返ってきた。覗き込むと、結構難しいことをやっている。
「歴史とかやってるやん。」
「六年やもん、歴史ぐらいやるわ。」
「おまえ、六年か!」
和幸は驚く。
「三年生ぐらいかと思うてたわ……。」
「ひどいな…。確かにクラスで一番小さいけど、三年はないやろ。」
「いや、ちっちゃいのによう家出してきたな、とは思ってたけど…六年か……。」
「……カズのおかんから聞いたんか?」
早希は言う。
「うん。早希はおかんのところから、おとんのところまで家出してきたんやってな、うちのおかんが言ってたわ。」
「うん、そうや。うちの母さん、もともと父さんと大ゲンカして家出して実家に戻ってきたんやけど、離婚はしてへんねん。だから、離婚させに戻ってきた。」
「おまえ、えらいことさらっと言ってるな……。」
和幸は言葉を失う。
「……私な、もう嫌やねん。うちの母親な、ずっと父さんの悪口言ってる。飽きもせんと毎日毎日。結局離婚してないから、ずっと忘れんと悪口言うんやと思うねん。だからな、もう離婚させたいねん。」
「女の子は、ませたこと考えるな……。」
自分が高校の時、父親が出て行って、そんなこと考えたことあるだろうか?…とにかく生活するのにいっぱいいっぱいで、そんなこと考えもしなかった。
「実家、どこや。」
和幸は聞いてみる。女の子ははきはきと答える
「瀬戸内の、みかんの島。」
「みかんの島?みかんって、島でも作れるんか?」
和幸は驚く。女の子は笑って言う。
「島のみかん、うまいで。じいちゃんとばあちゃんがみかん農家やから、私、手伝うねん。今もほんとは手伝ってやりたいけど、この夏は父さんの面倒みたるって約束したから、今年は勘弁させてもらうわ。」
「みかんと言えば、和歌山やと思うてたけどな…。」
ぼんやりと答えながら、見た目に不相応な早希のおしゃべりにびっくりしている。ガキやと思ってたけど、ものすごいしっかりしてるわ、この子…。
「で、なんでここで宿題すんねん。」
「エアコン代の節約や。」
「しっかりし過ぎやろ……。」
「ええやん、どうせ誰もつこうてへんし。ほかの客が来たらよけるわ。て、誰も来たことあらへんけどな。」
「ほっとけや。」
確かにこんな小さな修理工場の休憩所、めったに使われることはない。せいぜい良太が昼飯を食べるときぐらいだ。きれい好きの和幸の母親がきちんと掃除しているし、建前でエアコンもかけてはいるが、確かに誰もいないと無駄遣いかもしれない。
「ま、好きに使いや。」
和幸が言うと、早希はにっこりする。
「おおきに。だいぶ関西弁もどってきたわ。」
「みかんの島は関西違うもんな。」
「うん。ほな勉強するし、もう邪魔せんといて。」
「…誰んちや思てんねん。」
和幸はぶつぶつ言うが、これまで拾ってきた人間と違った面白さを感じてもいた。こんなに意思のはっきりした子、見たことないな…。
しばらく仕事を続けていたら、尻のポケットに入れていた携帯に着信があった。急いで出てみる。
「うん…わかった、いつものとこやな。すぐ行くわ。」
和幸は返事をして、奥にいる母親に、
「ごめん、出てくる。ちょっとだけな、30分で帰るわ。」
と言って、仕事場を後にした。
「ごめんな、ちょっとしか時間が取れへんけど…。」
そう言って、和幸が、古い喫茶店で会っていたのは、………出て行ったはずの和幸の父親だった。
「悪いな、忙しいやろに…。」
父親は小さな声で言う。見慣れた上着は、少しずつ擦り切れてきている。
「おとん、元気にやってるか?」
「うん、元気や…。」
「職場でうまいことやれてるか?」
「ぼちぼちやな……。」
父親は言葉を濁す。今でもあの工場で働いているのか、聞いたこともない。
「……これ、少しやけど。」
なけなしの1万円札を2枚、父親に渡してやる。
「悪いな…いっつも。」
すまなそうに金を受け取る父親。
「なあ……戻って来おへんのか?おかん、別に怒ってないで。」
和幸は言ってみる。けして父親が頷かないのを知りながら。
「それは無理や。今さらや。」
父親はきっぱり言う。
「じゃあ、ありがとな、おおきに、カズ。」
父親は席を立つ。
父親からこうして連絡があるのは、3か月に一度ぐらい、あるかないかだ。和幸がわずかばかりの小遣いを渡したところで、それで暮らしていけるわけはないから、なんらかの形で仕事を持っているのだろう。
そもそも、父親から、金をくれなどと言われたことはない。差し出したものは遠慮せず受け取るが、あの父のことだ、「今日は無いで」と言ったら、「そうか」で済みそうな気もする。
それでも、和幸が父親に金を渡すのは、そうすることで、次の連絡があるような気がするからだ。言いたいことは山ほどあるが、実際に顔を見ると、大したことが言えなくなる。
父親が出て行って、1年ばかり経った頃、父親に似た人を見かけたという人がおり、和幸と母は、父に似た人が働いているという工場へ、父親を捜しに行ったことがある。それは、東大阪の、小さな鉄工所だった。
似たような工場が立ち並ぶ中、母は必死に、父親の働く工場を探した。錆びたトタン屋根の下で、父親の姿を見つけた母は、和幸とともに隠れるように父親の姿を見ていた。
父親は、若い工員に怒鳴られながら、必死で旋盤をまわしていた。
機械の大きな音がするにも関わらず、若い工員の怒鳴り声は、隠れて見ている和幸の耳にも届いた。
「これぐらいしっかりやってもらわんと困るわ。これやからおっさんの新人は使い物にならへん。」
無口な父親は、黙ってぺこぺこと工員に頭を下げ、再び旋盤をまわしはじめた。
母は、そんな様子をじっと見てから、ハンカチで目をぬぐい、
「帰るで。」
と和幸に声をかけた。
「…なんで?声かけへんのか。」
和幸が驚くと、
「今日はええ。出直すわ。」
そう言って母はくるりと工場から背を向けた。そして、それきりその工場に足を向けることは無かった。少なくとも和幸の知る限り。
「……取りあえずな、元気でやってるっていうことが分かったからええねん。」
家についてぽつりと一言、母が言った。
「うちらは今、うちらが食うていくことに精いっぱいや。他人であることを望んだあの人と、ゴタゴタやってもしゃあないねん。」
それから、母は、父のことを時々口にするものの、普段は忘れたように暮らしている。ちょっとずつ生活が安定するにつれ、昔のように笑顔も戻ってきた。
もともと、家であまり存在感の無い父だった。黙々と仕事をして、仕事の休みの日は、母に三千円だけもらって、パチンコに行っていた。勝てば、帰る時間が少し遅くなり、負ければ1時間もしないうちに帰ってきた。戦利品はほとんどなにもなく、玉が尽きる時間が早いか遅いかだけの違いだった。
おしゃべりな母の話を静かな相槌をうちながら聞くが、いいとも悪いとも言わない父だった。何の不満があって出て行ったのか、母にも和幸にもわからない。
2年前、父親のなじみのパチンコ屋で、父親をみかけ、店から出てくるところを捕まえて、さっきの喫茶店に連れて行った。父親を前にしても何も言葉も出ず、しばらく和幸は黙っていた。そして、財布から1万円を取り出して、
「これ、パチンコ代にでもしいや。」
と、父に渡したのだ。和幸が、はじめて人に札を見せた瞬間だった。その時に、携帯電話の番号も教えたため、今のように、数か月に1度、時々連絡がある。何を思って連絡してくるのか、和幸も聞きもしない。ただ、財布にいつも予備の万札をしのばせておいて、いつでも父親からの連絡があっても良いように準備しているだけだ。
そもそも、父と母の結婚も、母の父、つまりは和幸の祖父が健在の頃、嫁き遅れの跡継ぎ娘を、無理に、一人しかいない従業員だった父に押し付けるように、結婚させたという体のものだったようだ。子どもの頃の和幸は参観日になると、人より老けた母が少し気にはなったが、年齢を感じさせないバイタリティで、結構若い母たちの中でも、うまくやっていたようだ。
「うちの店は、私で持ってるからな。」
昔からの母の口癖だった。実際、ほとんどの客は、母の関係で得たものと言って過言ではない。祖父の死後は、母が受けてきた仕事を、父親が黙々とこなして、和幸の家は成り立っていた。
軽自動車を買ってくれたおばちゃんも、もともとは母の友人だ。今でも和幸の家は、母を中心に動いている。
実際に自動車を点検修理したりする仕事をしているのは、和幸なのだが、和幸自身も、どうしても、自分が母の傀儡であるような気がしてならない。……父親もそんな気持であったのではなかろうか。そんなやるせない気分が、何かしら人の役に立ちたい気持ちにつながっているのかもしれない。自分たちを捨てて、家を出て行った父に、過分に同情的になってしまうのも、その辺の心情が影響しているようだ。
たくさんの人間の面倒事を拾ってきた和幸だが、早希のやろうとしていることには、いろいろ考えさせられた。
「あんなちっこいガキでも、なんかしら物事を進めようとしてるんやな…。」
なんとなく人の面倒事を拾い、なんとなくその場しのぎに金を父親に渡すだけの自分が、恥ずかしくなってくる。
早希は毎日のように勉強しにやってくる。だいたい午前中だ。そして、良太ともなんとなく仲良くなったのか、時々ジュースをおごってもらっているようだ。良太も学校が夏休みと言うこともあって、簡単な昼飯を休憩所で取ることも多く、その時に何かしら早希と言葉を交わすようだ。あの無口な良太が、と思うと不思議な気もする。
「なんか、いろんなパワー持った子やな。」
和幸はそう思う。
早希は、昼はお結びだけ持ってきている。早く帰る日も、遅く帰る日もある。聞いてみれば、製造業に従事している父親の夜勤の週は、早めに帰って、朝方帰って寝てから午後3時ごろに起きだす父親の食事を用意してやるらしい。
「寝てる父さんの横で、洗濯とかしてもうるさいだけやしな、それでここに来てるのもあるんやで。」
早希は説明する。
「母さんは、よう夜勤明けの父さんたたき起こしてケンカしよったわ。」
「そうか……。」
子どもとはいえ、いろいろ見てるもんやな。和幸は感心する。
「友達と、遊んだりせえへんのか。」
和幸は聞いてみるが、
「もう小学校1年の時の友達なんか、誰も私を覚えてへんも同じや。ここにいるほうがええ。」
早希はきっぱりと言う。そして、黙々と勉強を続け、時間が来ると小さな自転車に乗って帰っていく。身体に合ってない小さな自転車だが、いつの間にか良太がサドルとハンドルを目いっぱい引き上げてやっていて、小柄な早希なら、それなりに乗れるようになっている。
「どうや、うまいこといってるか?おとんの説得は。」
和幸が聞くと、ふん、と早希は鼻を鳴らした。
「うちの父さんも頑固やからな。」
「そうか…。」
「向こうが頭下げてくるなら、いくらでも判ついたるわ、って言いよるんやけど、母さんは父さんに輪をかけて頑固やから、父さんが母さんのところに出向くしかないと思うねん。」
「そうなんか?」
「でなかったら、うち、なんで家出してきたと思うんや。」
「…それもそうやな。」
和幸はなんとなく納得してしまう。
「母さんが父さんの悪口言うたびに、うちが母さんに『はよ離婚しいや』って言うてるのに、そう言うたら、母さんどっかいって違うことしはじめんねん。」
「さよけ…。」
和幸はしばし考える。
「……ほんまはまだ、離婚したくないんやないか?早希のおかん。」
「そうやろな。」
あっさりと早希は言って、和幸はびっくりする。
「ほな、なんで離婚させようと思てんねん、自分?」
ため息をついて、早希は説明する。
「あのな、母さんは、あくまでも父さんに手をついて、自分に頭を下げて『戻ってきてくれ』、って言ってほしいんやと思うんや。」
「うん。」
「…そうやけど、父さんは絶対そんなことをせえへんと思う。だって、自分が悪いとひとっつも思うてへんもん。」
「そうなんや…。」
「そやから、あの夫婦、もう離婚しかないと思うねん。」
早希は断言する。
「中途半端な状態で何年も過ごすよりも、ちゃんと別れた方が、あとあとでまたちゃんと会えるんやないか、って思うんや、うち。」
「えらいこと考える小学生やな…。」
和幸は感心する。早希はじろっと和幸を見て言う。
「カズのとこも、おとんが出て行ったきりで離婚してへんのやろ。うちと一緒やん。」
「そうやな、その通りや……。」
「おとんと会ったりしてへんのか?」
「………。」
小学生に核心を突かれて、和幸は黙る。
「カズんとこも、うちと一緒やと思うで。」
「………。」
和幸は思い返す。しばしば和幸に父親が連絡してくるのは、もしかしたら、母親と話し合いたいからではなかろうか。父が何も言い出さないうちに、和幸は金を渡してしまったので、なんとなくずるずるそうなっているが、父が何のために連絡してきているのか、そういえば聞いたこともない。いや、聞くのを避けていたと言うべきか。
「そうやな、うちも一緒や…。」
和幸はため息をついた。
「…実はな、俺の携帯に、何か月かに一回、おとんから連絡あるねん。」
「そうなんや。」
「小遣いほしいだけか、思って、会うて、ただ小遣い渡してたけど、それ、違てんのかもしれへんな。」
「そうかもしれへんな。うちにはわからんけど、小遣い欲しいだけやったら、もっとしょっちゅう連絡して来る思うで。うちやったらそうするもん。」
早希のあてずっぽうがなんとなく当たってるような気がして、しばし和幸は言葉を失う。
「…今度、親父に聞いてみるわ。なにがしたいんか。」
「それがええなあ。」
和幸ははっとする。ついつい小学生に真面目に人生相談してしまっている。
「…でも自分とこのおとん、早希に帰られてしもたら、また寂しなるなあ。」
和幸はしみじみと言う。いつの間にか、この金太郎顔の小学生になんとなく愛着がわいてしまっている自分に気づく。自分だけではない、無口な良太も、おせっかいのおかんもであろう。おかんも、よく自分のところのオカズを早希に持たせてやっている。ちんちくりんな見た目に反して、ずうっと中身のしっかりした少女に、皆なにかしら心惹かれるものを感じるのであろう。
和幸の言葉で、また早希の目に涙がじわっと浮かんでくる。和幸は慌てた。
「あんな、あの自転車、うちが保育園の時に買ってもらった自転車なんやけど…。」
「……うん。」
「うちらが出てって5年もたつのに、ピカピカに磨いて、家の中にずっと大事に置いててん、父さん。」
「そうか……。」
「いつか、うちが帰ってくるって、思てたんやろな…父さん。」
「そうなんやなあ……。」
本当は、両親が仲良くやってくれるのが一番だと、早希はわかっているのだ。それでもあえて離婚の道を選ばせるために、小さな胸に決意を秘めて、この大阪に戻ってきたのだろう。
「……とりあえず、早希とこのおとんとおかんが会わへんことには、話しにならへんな…。」
「……そやな。」
「ちゃんと話し合えたらええなあ。」
「そやな。」
テーブルの上の箱ティッシュから一枚紙を取って、自分で涙をぬぐって、早希はきっぱりと言った。
「取りあえずな、夏休みの終わりに、島にうちを送っていくっていう名目で、会わそうと思てるねん。」
「そうか、がんばりや。…コーラおごるわ。」
「おおきに。」
早希の目の前にコーラを置いて、和幸は仕事に戻った。忙しく手を動かしながら、次に父親から連絡があったら、どういう態度でいるべきか、いろいろと考えていた。
その日の夕食後、トオルが帰ってしまった後、和幸は母親に聞いてみた。
「あんな、おかんは、もしおとんと会ったら、なんか言いたいことあるか?」
「なんや唐突に……。」
おしゃべりな母親が押し黙る。
「……何も言いたいことないんか。」
和幸は重ねて尋ねた。
「……出てったあの人に、何を言うんや。」
「戻ってきてほしい、とか、もうちゃんと離婚したい、とか無いんか。」
「せやな……。」
母親が考える。
「ちゃんとやってんのかな、とはいつも思てるけど、もう一回、ここで働いてほしい、とは思てないな。……ただ、時々、顔だけ見せて欲しいな。」
「そうか……。」
「あの人、ここで働いてんのが、窮屈やったんやろな、とは思てる。……可哀相なひとやったんや。」
「そうか…、わかった。」
「何がわかったんや。変な話させて。」
「すまん。」
和幸の母親は、怒ったように食べ終わった食器を重ねて、台所へ持って行ってしまった。次にいつ連絡があるか分かりもしないのに、期待を持たせるようなことは言えなかったが、次に父親から連絡があったら、必ず母に言おう、そう和幸は決心した。
早希は、最後の日、父親と一緒に顔を見せにやってきた。小さな軽自動車のウインドウを開いて、真っ赤な頬の早希が顔をのぞかせて、
「世話になったな、カズ。」
と言う。
「ほうか、帰るんけ。」
和幸はにっこりした。
「ちょっと待ちや。おかんにも言うてくる。」
店の奥に行って、母親を探すが、どこかに出て行ったのか姿が見えない。
「おかん、おらへんわ。ごめんな。……これ、やるわ。」
和幸はキーホルダーを早希に渡した。真っ赤なリンゴに凛々しい眉毛の顔が書いてある妙なキャラクターだが…。
「…なに、このキモカワイイの。」
早希に言われてしまう。
「キモカワイイ言うなや。早希に似てるなあ思て、買うてきてん。お前の顔は、みかん言うより、リンゴやな。」
「ひどいな、全然うちに似てへんわ。でも貰とくわ。おおきに、カズ。」
「うん、こっちこそ。ありがとう。」
「お礼言われるようなこと、うち、してへんで。あんたんところの休憩所に入り浸ってただけやしな。」
「ええねん。こっちが世話になったわ。」
「わけわからんわ。」
眉をしかめて言う早希の言葉を受けて、和幸はニヤッと笑った。
「おーい、良太、早希が帰るんやて。」
そう言うと、のっそりと良太が無骨な顔を見せた。黙ったまま、コーラのペットボトルを差し出す。
「がんばりや。」
一言いうと、また仕事に戻ってしまった。
「ありがとー、良太!」
良太の背中に早希が呼びかけると、背を向けたまま、良太が片手を上げた。
「…このペットボトル、ぬくいな。常温や。」
ひとりごとを言う早希。
「きっと、早希に渡そうと思って、ずっと買って温めてたんやろ。」
和幸が言うと、早希は笑った。
「うちに帰って、冷やして飲むわ。」
「そうしい。」
早希の父親は、そんな会話の間、こちらに目を向けるでもなく、ハンドルを握ったまま、硬い表情で黙っている。そんな早希の父親にちらりと目をやって、和幸は早希に小声で言った。
「俺もな、早希の真似して、がんばってみることにしたわ。」
早希は笑った。
「そうか、そら良かったな。」
「……せやから、ありがとうや。」
「さよけ。どういたしまして。」
澄ました顔で、早希は言う。
「もう行くわ、うち。」
「そうやな。」
ウインドウが閉められる。車が発進して、もう一度車は止まった。再びウインドウが開かれる。真っ赤なリンゴ顔が覗いて、叫んだ。
「いつか、カズもみかんの島に来てな!みかん狩りに来てや!」
「わかった、行くわ!」
和幸は答えると、ニコッと早希が笑って、ウインドウが締まった。車が発進した後で、ふと思った。
「みかんの島ってどこやねん。島の名前、あいつ言うてへんぞ。」
おかしくなって、和幸は笑った。
「しっかりしてるようでも、やっぱり小学生やな。」
和幸は、暑い青い空を見上げた。いつか、瀬戸内のみかんの島に、当てずっぽうで旅してみよう。もしかしたら早希に会えるかもしれない。和幸はふとそう思った。青い海の中に、島が浮かんでみかんの木が連なるところを想像すると力が湧いてくるようだ。
「俺も頑張らんとな。」
一息ついて、和幸は仕事に戻った。父親の連絡は、まだあれからは無い。…でも、再びきっとあるだろう。その時にやるべきことは、わかっている。みかんの島に住むリンゴに教わったのだから。
fin
みかんの島 室町みのり @squall_kitty
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