2 理性と本能

 ――人々からその感情が消え去ったのは、いつ頃のことだっただろうか。

 もう何十年も昔のことに思える。

 いや、実際もう何十年という月日が流れて、もはや未来あすへ託す望みすら薄れ消え入りかけている状態だ。

 それはもう、ほんのささやかなそよ風でさえも、軽く消えてしまいかねないくらいに。


 『まだ大丈夫』『もう少し頑張れる』


 少女がそう思いたいだけかもしれない。

 けれどまだ、ほんのわずかでも。燻る程度であったとしても。

 その灯火が消えていないのであれば――


 そう思って、決死の覚悟で飛び出してきた。逃げ出してきた。

 彼らが失した感情温もりは、きっと絶望的な状況が彼らを追い詰めた結果の、どうしようもない歪みから生まれた、『魂の泣き声』なのだと。

 だから、その原因を取り除くことができれば、すべてが元通りになると


「――っ」


 けれど、現実はあまりにも残酷だった。

 策とも呼べない目晦ましを仕掛けて逃げて逃げて。とにかく〝王の支配圏〟から脱出することだけを考えて、ひたすら飛んだ。

 羽が、体が、疲労のあまりに休息を欲しようとも、長時間の全力飛行でマナが枯渇寸前であろうとも。

 自らを律し……いや

 そうして望む望まずに限らずたどり着いた一つの楽園。

 ――奇跡。と少女の心情を汲むならそんな稚拙な歓声を上げたくなるような場面に出くわして。

 だが次の瞬間。

 そこは、少女に地獄よりも酷い現実を突き付けた。


「――っ」


 ――どうして自分は誰とも知れない〝人間〟に追い掛けられているのだろう。


「――――っ」


 ――どうして自分は人々の注目を集めているのだろう。


「――――――――」


 ――どうして、自分は……


「――……どう、して……?」


 ――誰にも、助けてもらえないのだろう。


 こんな潤沢な資源が溢れる環境で暮らす人々なのだから――

 自分たちの環境とは違って、未来を失したあの人たちとは違って――

 だから、誰かが手を差し伸べてくれるものだと、そう信じていたのに。


 向けられた手は、少女を害する悪意の塊だった。


 少女はその時直感した。

 ――ない。ここには、ないのだ。

 少女の求める答えが――。

 いつか再び迎えられると信じていたはずの、あの感情温もりが――。


 男の手を振り払い、わざと人混みに紛れて逃げて。

 そうして向けられた視線はすべて等しく――同情。憐憫。

 そこにあるのは優しさ温もりでなく、「私はあの子に同情できる心の持ち主なんだよ」という自己顕示欲アピール

 そんなものを向けられたところで、向けられた側には何一つ助けにならないというのに。

 そんなことに気付きもせず、ただ自分とその他を天秤にかけて、無自覚に他人を蹴落としていく。


 ましてここは仮想世界ゲームの内

 プレイヤーにとって他人の命は普段以上に軽く、自分の命は尊く重い。

 だがそんな個人の事情など、少女に知る由もない。

 ここにあるものがすべて。見たモノ感じたモノがすべてである。

 そこはまさしく、少女にとって地獄に等しい環境だと言えよう。


 その上彼彼女らは無自覚に、少女からあらゆるものを奪っていく。

 思い描いていた希望も。訪れると願っていた未来も。だから頑張れると、無茶もできると、踏ん張ってきた過程でさえも、容易く。

 容易く、奪っていってしまう。


「…………ど、う……し……て……」


 涙が、溢れる。

 溢れて、止まらなくなる。

 どこにいても、どんな環境であったとしても。

 人は簡単に――期待を、裏切れる。

 自覚のあるなし問わず、自己のためならば平気で他人を差し出す。蹴落とす。

 そこに慈悲はない。どこまでも無慈悲な、自分優位の裁定があるのみだ。

 人の弱い心に、少女の切なる願いは――届かない。

 少女の心の悲鳴は、もう、誰にも――


「――おいコラ、泣くのか走るのかどっちかにしろ。……危ないだろうが」


「――――――……ぇ?」


 ――声が聞こえた、次の瞬間。

 少女は何が起きたのかも理解できぬ間に、優しい温もりに包まれていた。



    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 腕のなかで、顔を泣き腫らしながら困惑の表情を浮かべる少女を見下ろして、愁人はまあ無理もないかと苦笑を漏らした。


「一応こうなった言い訳をしておくと、おまえが前のやつを躱すのに集中しすぎて俺に気付かなかったせいだからな?」


 『それは〝言い訳〟といわないのでは』と満場一致で総ツッコミが入るようなことを口にしながら、見た目通り柔らかい体を解放してやる。

 現状を簡単に説明しておこう。

 直線にしておよそ五百メートルはあるだろう円形の広場のなかを右に左に。人垣を縫って走り回っていた少女は、いつしかそのコースを彼のいる方角へと移していた。が、誰よりも一線引いた場所からその様子を眺めていたそこに至るには、少しばかり距離がありすぎた。

 瞬きの間にそれを把握して、愁人は逡巡した。


 ――助けに入って〝面倒ごとに巻き込まれる〟か、はたまた見なかったことにしてこの場を立ち去り、今後この時のことを後悔しながら〝面倒な日々を生きていく〟か。


 究極の二択。どちらをとっても〝メンドウ〟が漏れなくついてくるお得なコースに、だが、愁人の本能は〝その迷いこそ何よりもの答えだろ〟と、煮え切らない理性に訴えかけて。

 その結末が少女の逃走経路、その行く先を先読みしての、プレイヤーを利用した死角ブラインドからの〝捕縛〟。

 さも人を躱した先にいた『もう一人のエキストラ』を演じきり、そこに飛び込んでくるのを待ち迎え、彼女の保有する運動エネルギーを体捌きのみで流し切ったのである。

 ぶつかるでなく〝受け止められた〟と自覚した時には腕のなか。そのあまりの衝撃――物理的な意味でなく――に思考停止に陥るのも無理はなかった。


 ようやく朧気おぼろげながら状況に思考が追い付いてきたのか、緑翠石グリーントパーズの瞳に意志の光が戻ってくる。

 そして、


「――っ」


「おっと。だからさっきから〝危ない〟って言ってるだろ。どっかに当たったりしたら痛いじゃ済まないんだからな?」


「……っ!」


 少女に触れる愁人の手を強引に払いのけようとして、それをまたしても呆気なくいなされた彼女は驚きのあまり瞠目をひらいた。

 まるでその行動を予期していたかのような動きを目にし、そうしてようやく警戒のこもった視線を相手の顔へと向ける至った。

 そして、今度はその言葉遣いに似つかわしくな端正な容姿に驚き、しかしその言葉遣いに相応しい気だるげな表情をとらえて、困惑顔を浮かべる。


「はあ。やっとこっちを向いたか」


 そんな少女の百面相など〝どうでもいい〟とばかりに受け流した愁人は、やっとの思いで視線を合わせた少女にそうこぼす。

 そして続け様、この場でもっとも似つかわしくない言葉を落とした。


「とりあえずアレだ。――自己紹介といこうぜ?」


 少女は瞳をぱちくりとさせた。



  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 ――自己紹介といこうぜ?


 突拍子もなくそんな提案をしてきた見知らぬ少年に、少女――リムルは瞬きを繰り返した。

 ――この人、頭がおかしいのだろうか?

 なんとも失礼な話だが、そう思われてもおかしくない流れであるのは誰も否定できない。

 状況を正確に理解しているなら、今の状況で『自己紹介』などという言葉が出てくるはずもない。それを口にするのは理解力の乏しい愚鈍な人間バカか、理解していても自分の欲求を貫き通す生粋の単細胞バカかのどちらかである。どちらにしても〝バカ〟である事実は揺るぎようがない。


 しかし、覇気のなさに目を瞑れば、見た目だけは美少年の人物は、どうも〝ただのバカ〟とは一線を画すことは事実のようで。


(……二かい、とも……完璧に……ちから、を……殺され、た……?)


 リムルは自分以外の力も借りて、相当な速度で疾駆していたはずだった。駆け抜けるべき道はすべて。経験上、その先に障害物などあるはずがなかった。

 だが、今回ばかりは違った。いや、正しくは違ってなどいないのだろう。


(……風が、しるす、先……軌道に、のる、瞬間……ねらって、前に……でた?)


 もしそれが事実なら、なんと優れた観察眼だろうか。

 それだけじゃない。どんなに視えていても肉体がそれについてこなくては成し得ない離れ業だ。リムルがどんなに真似てみたところで、恐らく同じ土俵に上がることすら叶わない。

 先天的な体質か、はたまた生まれ育った環境か。

 後者であれば、一体どんな人生を歩んで来ればその境地にまで至れるというのか。とてもじゃないが、リムルには到底推し量れるものではないことだけは理解できた。


 そう、、リムルという名の少女には。


 しかし、それはそれとしても、彼の発言が今の状況に相応しくないのは紛れもない事実。

 それに付き合ってやる余裕など、今の彼女にあるはずもなかった。

 だが目の前の少年はというと、そんなリムルの心情などお構いなしに、


「あーいや、ちょっと待て。そういや自己紹介ってなにをじゃべればいいんだ? まともに挨拶したことないと、こういう時にどう切り出していいかわかんなくなるんだな……ちょっとだけタメになった」


 などと殊更意味のわからないことを口にする始末。リムルに「なぜ逃げる邪魔をした」と非難したくなる気持ちが湧き上がっても不思議ではなかった。


「…………もし、かして……とっても…………寂しい、ヒト……?」


 しかし、次に自身の口から飛び出した言葉は、リムルがまったく思いもしていなかった言葉だった。自分の声に自分で驚くという器用な真似を披露しながら、それでも意識はその言葉にどう少年が反応するかに注目してしまっている。

 無意識下の行動。

 どうやらリムルは、少年の言動に〝何かを期待している〟らしかった。


「よしよし言い方気をつけろ俺は寂しくなんてこれっぽっちもねぇかんなっ! ……まあ、ボッチなのは自他ともに認める俺のパーソナリティーかもしれないが」


「……ぼ、ち……? ……ぱー……?」


「『ボッチ』は単純に一人ぼっちの簡易版で、『パーソナリティー』ってのは言うなればアイデン……いや、個性って言やわかるか? まあそんな感じだ」


「……ふぅ、ん」


「……おまえもなかなかいい感じのパーソナリティー持ってそうだな。――それも熱狂的なファンがつくレベルで」


「…………ふぁ? ……れべ?」


 よくわからない言葉を連発する少年に、リムルは理解できない旨を体で表現する。

 普通に彼の言葉に反応して会話を成立させてしまっているが、どうして自分がこんなに自然体でいられるのか、彼女にはイマイチ理解できていなかった。

 ただ、目の前の人物に〝敵意がない〟。そのことだけは今のリムルにも感じ取れる。どこかしらから湧き上がる居心地の良さに、警戒心が溶けていく。

 ほんの一瞬前まで『全員で追って来ている風に見せかけて先回りされた』と警戒していた自分はなんだったのかと思いたくなるくらいに。

 とても不思議な感覚だった。


 胸に手を添え、目を瞑り、その〝温かい何か〟を感じ取って。

 そして、そうしている間に一言も発することなく、新鮮な感覚を享受させてくれる人物を見上げ――その表情を冷徹なものへと変貌させていることにようやく気付き、リムルの背筋を震わせた。

 ――と、そこへ。


「――オイオイお前さん。どこのどいつかは知らねぇし知る気もねぇが、その格好、新参者ニュービーだろ?」


「いやいや違ぇだろ。コイツおそらくただの新参者じゃねぇ。新参者ニュービーのなかの初心者ニュービーってとこだろな。ほら、武器の一つも装備しちゃいねぇ」


「それじゃあ何か? コイツはVRMMOのVの字も知らずにオレたちの邪魔をしたって、そういうことかよ? バカか? 死ぬのか?」


「まあ、俺たちにとっては恰好の獲物であることに変わりないな。問題は旦那にヤル気があるかだが……」


「――――」


「おうおう、こりゃあ〝品定め〟する気満々だな。仏頂面してるが目が据わってやがる。それなりに〝上物〟らしい」


「このガキがか? ……へぇ、じゃあまあ、いっちょ品定めといきますか」


「だな」


 そうやって悠長に距離を詰める四つのテノールボイスに、リムルは自分の置かれた状況を思い出して、そっと肩越しに背後をうかがう。


「随分と逃げ回ってくれたなァ、嬢ちゃん?」


「……っ」


 途端に人間種ヒューマのひとりと目が合って、びくりと体を震わせた。

 別に彼らに何をされたわけでもない。

 しかし、リムルは知っている。

 その下卑た瞳に映る色は、〝捕食者〟のそれだ。他人を蔑み貶める者の眼だ。


「…………あ……ぁ……」


 その瞳に、彼女が知る〝最悪の災厄〟のシルエットが重なる。

 恐怖に涙腺が緩み、涙溜まり、視界が歪む。

 知らず知らず、一歩一歩、その足を後退させ――


「――――」


 そうしてまた、暖かな温もりに包まれた。

 自然と、リムルの目線が上を向く。

 そこに映った少年の顔は、今も変わらず極寒を映し――


「いやまあどうでもいいんだが……おまえらアレだな。そのナリで〝ロリコン〟とか蛆虫も拒否するレベルで腐ってんじゃねぇの主に脳ミソココ


 コツコツと、少年――愁人が指先で頭をノックしながらそうこぼし――広場が、静寂に包まれた。

 しかし次にはクツクツ、クスクス、と。

 広場のあちこちで何かを堪えるような音が漏れだした。


 リムルには言葉の意味がイマイチ理解できなかったが、その身振りだけで相対する男たちに〝喧嘩を売った〟ことだけは理解した。

 そして、たった一言、それだけで。

 慌ただしいだけだったこの場の雰囲気が、ガラリと変わったことだけも同様に。

 さらに、もう一つ。


「このクソガキがッ!」


「フザけたこと抜かしやがって!」


「テメェだけはゼッテェただじゃおかねぇ!」


「潰す! 徹底的にブッ潰すッッ!!」


「やれるもんならやってみろよ、〝脳筋五人衆〟」


 観衆オーディエンスを味方につけたことで何倍もの恥辱を嘗めさせられた男たちが、彼の、あまりにもあっさりリムル自分から愁人少年、その事実を。



  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「これからヤツらを撒く。俺が合図を出したら


 少女にだけ聞こえる声量でそれだけ伝えると、愁人は確認もそこそこに単身飛び出した。

 向かうは武器を手に迫り来る四種族混成メンズPTだ。

 挑発に乗った人数は四人。人間種ヒューマが二。残り二人は地底種ユミール両生種スキュアとなる。


(〝旦那〟とか呼ばれてたリーダー格の狼人は傍観か、はたまた様子見か……この面子では見た目からして一番考えなし脳筋っぽかったんだけどな。まあどっちにしても問題ない。むしろ問題があるのは――)


 ――自分の〝ヤル気〟のなさだろうな。


 間近に迫った男たちのせいでその先の考察を打ち切った愁人だが、考えようとしていたことはこれで間違いない。わかってはいたことだが、真面目に相手にする気がない愁人が選ぶのは逃げの一手だ。伏線は打った。あとはそれまでの時間を稼ぐだけ。


 周囲は男のPTが現れた時点で人避けが成されている。一定の距離までだが、元々そこそこ面積のある広場だ。その一角に空白地ができたところで外野の数が減るわけでもない。むしろサービス開始早々、他人のPvPを観戦できるとあって詰めかける人で今にも溢れ出しそうな勢いである。愁人にしてみればとんだ災難でしかないが……観客にしてみれば、まったく運のいいことこの上ない話なのだろう。


「もっとも、誰も彼もが期待してるはずの結末には絶対ならないけどな」


「余裕ブッ扱いてつべこべ抜かしてんじゃねえよ! 爆ぜろッ!」


 そんなことを叫びながら、大上段から大剣を振り下ろす地底種の男の斬撃をごく僅かな動きだけで右に抜け、その剣身の根元を横から掌で押してやる。


「ぐっ」


 するとそれだけで、刀身の重さに引かれて男の体が大きく流れる。あとはすれ違い様、その背に触れて軽く押すだけでいい。それだけで重心の低い地底種の体は、いとも容易く地面に転がった。

 その光景をみた周囲が、一瞬の思考停止を余儀なくされる。


「て、テメェッ! いったい何しやがった!!」


 真っ先に再起動したのは、人間種ヒューマのうちの一人だ。わかりやすく分類するなら『バンダナありとなし』といったところか。今回はなしの方である。


 男の得物は長槍のようだ。サービス開始直後ということもあってか特に装飾華美ということもなく、武骨なシルエットを描くありふれた長槍。

 だがそれも、振るう人間によっては脅威度が格段に違ってくる。


「ラァッ!」


 素人が見れば際立つそれも、愁人から見れば『そこそこ熟練している』程度。渾身の突きを流れるような体捌きで躱し、男の向かって右手に出る。

 しかし、そこはまだ槍の間合いだ。


「ソォイッ!」


 狙ち通りに愁人が飛び込んできたことに口を歪めた男は、気合一閃。突きの姿勢から強引に横薙ぎを繰り出した。

 普通なら予測もつかない攻撃でも、握り手を見れば愁人には相手の得意とする分野くらいわかってしまう。

 むしろそれを誘い出すために飛び込んだ少年は、そこからさらに外側へ。振るわれる支点――男の手元付近に右手を添え、勢いを殺し、槍のしなりの頂点を見極めて矛先付近の棒部分を抱え込む。そして息を吐かせぬうちにそれを外側へと捻じって突き返す。


「うおぉっ」


 上体が面白いように持ち手の逆側――男の右手へと流れ浮き足立つ。いったい自分の身に何が起こっているのか、さぞ男は疑問で仕方がなかっただろう。なにせ種族特徴として筋力ATKの初期設定値がわずかとはいえ勝るはずの人間種ヒューマが、劣るはずの胡蝶種フェアリにいいようにあしらわれるというのは、本来そうそう起こり得ぬ現象だ。MMOでのステイタス差――特に対人戦においては絶対的な優劣を発揮するはず。なのにこれは、果たしてどういうことか。


「ぅおおおおおお――」


 何かのバグか! と考えている間に、男の体はまるで何かに押されるようにして退けられた。しかも、しっかり手にしていたはずの長槍の感触までなくなっていた。

 そうしてようやく、一連の『体術』の正体に思い当たった。


「その動きは合気道か!?」


「さてな」


 叫び声と共に、両生種スキュアの直剣の斬撃がせまる。袈裟から始まり、突き、払い、斬り上げ、払い――と幾条もの剣筋を描くが、愁人は独特なステップで躱す、躱す。奪った槍でいなし、打ち払う。まったく当たらない。掠りもしない。


「クソがッ」


 なかなか当たらないことに込みあげる苛立ち。愁人の余裕を垣間見せる飄々とした態度もまた癇に障るのだろう。


(コイツ、俺たちを相手に手を抜いてやがるッ!)


 舐めるな! 生意気な! ふざけるな! どうして当たらないッ!

 徐々に徐々に、振るう本人も気付かぬうちに荒々しく、粗末な剣筋が窺えるようになっていく。


「――っ」


 そうして出来上がった隙に愁人が飛び付こうとして、突然背後で膨れ上がった気配に咄嗟に上体を捻った。

 鼻先三センチを、氷の礫が横切る。


「オイオイ、今のを避けるっておまえ背中に目でも生えてんのかよ?」


 魔法を放った男の称賛まじりの皮肉に耳も貸さず、愁人は過ぎ去った軌道の先、抉り取られた石畳の惨状を視界に入れて眉を顰める。


「アレが魔法か。まったく面倒な」


 右頬がすこし熱い。かるい裂傷ができているかもしれない。

 やや大きめに避ける必要性を感じながら、魔法使いの声がした方へと視線を向けた。


「ハッ、魔法を見るのは初めてか? ソラッ、もっといくぞッ!」


 ようやく瞳に動揺をやどし表情を歪めた愁人を目にし、魔法使い――バンダナの男の口角が吊り上がる。先太りの杖を振り上げ、詠唱をとなえ始めた。


「その身なりだから杖はブラフかと思ったが……まあ順当に考えて山賊っぽい格好のほうを疑うべきだわな」


 魔法の属性的な括りがどのようになっているのかを愁人は知らない。が、いくらなんでもこんな初期から複数の属性を使用できるとは思わない。

 氷の礫を飛ばしてきたことから水系統とあたりをつけて――バンダナの男を無視して、にじり寄っていた直剣使いの斬撃を払う。


「アッチの邪魔はさせねぇぜ!」


 今ので少し溜飲が下がったのか、牽制するような隙のない剣撃をいくつも繰り出してくる。

 それに槍を合わせつつ、、と。打ち合いの最中にもかかわらず、視線を周囲の人垣へと送り込んだ。


「あぁ? テメェまさか――」


 その反応をみた剣士の男が|のを確認し――、


「今だ!」


 〝合図〟に反応して、それぞれがし、動きを硬直させる。目の前で剣を振るう両生種スキュアの男などはより顕著だ。思わず数秒前に愁人が見た方へと視線を走らせ、


「ぐぉおっ」


「人と手合わせ中に視線を外すなよバカが――ブラフだっての」


 回した持った石突で男の鳩尾を抉り、後方へと突き飛ばす。

 そして引き戻す動作から続け様、


「ほらよっ――コイツは返すぜっ」


「ぅおっ!?」


 一人構わず詠唱を続けていたバンダナへと投げつける。それを危なげながらも杖で打ち払ったのを確認してから、愁人は指示通りの行動を起こした少女の元へと素早く戻った。


「どうやらちゃんと指示に従ってくれたみたいだな」


「……(こくこく)」


 言葉にしないまでも動作で従順さを示すリムル。その重たげな長髪を垂らす小さな頭を乱暴に撫でてやってから、愁人は最初の頃とは打って変わって真剣な眼差しを送ってくる公然ストーカー脳筋五人衆へと向き直り、


「そんじゃ、俺たちこの辺でお暇しますわ〝先輩方〟」


 最後に(おそらく)独学でこの域にまで達した男たちへ。賛辞の意味を込めてそう告げる。


「ハッ、こうまでやられっ放しで逃がすわけが――」


 バンダナの男が息巻いているところを、背後から巌のような手が止める。


「――旦那?」


 その男は、彼を知る者でさえも目を見張るような、獰猛な笑みを貼り付けていた。


「――ああ、そうだとも。。逃がすわけがない」


 そう言ってさらに口角を吊り上げる。見たこともない極上の珍味を前に、興奮が収まらないとでも言うように。

 男の仲間にしても、こうまで抑えが効かないほどに興奮を露わにする彼を目にするのは初めてだった。

 この男にこれだけのこと言わしめる相手。

 なるほど。自分たちがと。


 それと相対する少女の肩がぴくりと震えた。

 触れたままの手からその様子を感じ取り、しかし、そんな逃れられようもなさそうな緊迫した雰囲気のなかでさえも、愁人は軽く一笑して、


「あー、ヤル気に満ちてるとこ悪いが――時間だ」


「――ッ!?」


 そう口にした直後、両者の間に『空馬車』が割り込み停車した。

 位置はちょうど、愁人たちのいる《三歩分前》》。

 『空馬車停留所』と記された、そこに。

 そしてそこは、愁人が初めてこの世界に降り立った場所でもあった。


 愁人は目を大きく見張った少女を問答無用で抱え上げて、目の前の小さな窓に飛びついた。


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