1 風都と逃走少女

 気付けばそこは〝異世界〟だった。

 記憶にない建造物。見慣れない人々。盛んに行き交う客引きの声。色とりどりの果物に始まり、ありとあらゆる品々を陳列する商店の数々。

 どれをとっても少女の現実には存在しない光景だ。いや、というのが語弊のない解釈だろうか。


 ――ここはどこだろう。


 素朴な疑問が少女の頭を過ぎる。胸は不安でいっぱいだ。

 それでもただじっとしているわけにもいかない。少女は今、なのだから。

 一所に留まっていれば、すぐ探知魔法にかかってしまうかもしれない。逃走用に仕掛けてきたダミーでいつまで誤魔化しが利くか。実はもうすでに見つかっていて、追手を差し向けられているかもしれなかった。

 そう考えると余計に『こんな場所で呆けている場合ではない』と逸る気持ちに駆り立てられる。


 ――もう、二度と掴まるわけにはいかない。


 しかし、だからこそ、ガラリと変わった状況を把握しないにはいかなかった。……決して、わずかばかりの好奇心に突き動かされたわけではないのだ。

 内心そんな言い訳をしながら、少女は周囲へと視線を走らせる。

 そこは自然に溢れた場所だった。印象としては『街』より『町』の方が近いかもしれない。ただし、土地の規模と人の往来はとてもその範疇に留まるものではないが。

 都市。それもそんじょそこらの小都市とは比べ物にならない、それこそ少女の知る王都と比較しても遜色ない町風景が、そこに広がっていた。


 続いて上空に視線を移す。

 どこまでも続くと錯覚させるほど澄み渡った蒼穹と、その一部を埋める土塊の群生。いや、小さな浮島の数々か。

 なるほど、少女はこの光景を知っている。


「……フロウ、ソフィア……。……消えた…はずの、空中都市もの、が……こん、な場所、に……あった、なんて……」


 見つからないわけである。大災害以降、忽然と姿を消したと伝えられていたが、空間の捻じれの向こう側――『異空間』にその存在ごと場所を移していたというのだから。


「でも……一体…どう、して……?」


 わからないのは、どうして自分がこの場所にたどり着けたのかだ。

 王城の檻から抜け出した後、逃げた方向を特定されないよう可能な限りの囮をあちこちにバラ撒いてきた。そうしてひたすら〝飛んで逃げてきた〟ことは覚えている。

 西へ、西へ。バカみたいにまっすぐ突き進んだ結果、突然現れた空間の歪みに対処できずそのまま呑まれてしまった。後方の追手を気にしていたのもあるが、あまりに突然のことだったため回避行動などまったく取れなかった。

 そうして気が付いてみれば……冒頭の通り、見知らぬ土地に来ていたのである。

 どことも知れない場所に出て、よくよく観察してみれば、伝承に聞く都市の景観そのもので……それで湧き上がる好奇心を押し殺せというのは、少女にはあまりに難しい要求だった。

 だが、必ずしもそうと決まったわけではない。


「……よく、似た……べつの、場所…………その、可能性、も……捨て、きれない……」


 むしろそうであった方がいろいろ納得できる。

 これだけの規模の都市が丸ごと異界に呑まれたとすれば、とっくに世界など崩壊していてもおかしくない。


「……実際……崩壊、間近…………では、ある……けれど……」


 そのあたりは今のところ、さしたる問題ではない。もっとも重要視されるべきは、歪みの向こうにあった都市がこちら側では考えられない水準の生活を得ている事実だ。

 これは少女にとって天変地異が起こるよりあり得ざることである。それだけにその衝撃は計り知れない。

 どうしてこのような生活水準が保たれているのか……やや混乱気味の思考を巡らせる。


 仮に旧王都が異空間に呑まれたのだとして。それが事実であった場合、その痕跡がまったく残っていないというのはおかしい。大災害から。月日は流れて、普通なら自然の摂理に触れ廃れ、よくある遺跡のように見るも無残な状態となっているはずである。

 仮に巻き込まれた人の手で復旧したのだとして、そもそも人が突発の時嵐に呑まれて無事で済んでいるという話そのものがあまりに馬鹿げている。もはや夢や幻でも見ているような気分である。


 だが、先程のことにしても、少女はなかば死を覚悟したというのに、こうして五体満足で無事生存している。ここの人々も普通に笑顔を浮かべ、怒声を飛び交わし、平静に生き――皆、活き活きと日常を謳歌している。少女が日常的に見慣れた気力のない笑みや、心がヤられてパニックを起こす人間も、ましてや生に絶望して死を懇願する者さえいない。明日の希望に満ち満ちた、なんとも明るい世界だ。

 少女のいた世界とは根幹からして異なる、誰もが切望したその情景に。


 ――異世界。


 ふと、脳裏にそんな単語が過るのは、当然のことだった。

 有り得るのか。少女も直接これを目にする以前ならば、教堂の司祭などが教授する『世界は神の国と精霊の園、そして神の直轄地たるこの大陸だけでそれ以外の場所など存在しない』という言葉に異論など挟まなかっただろう。しかしそれでは今目の前にある光景に説明がつかない。

 もはや有り得る有り得ないの次元ではなくなっている。現に〝ここにある〟のだから。


 それでも、どうしても疑問を抱かずにはいられない。

 ここが仮に『異世界』だとして――どうして今になって発見できたのか。

 こんな場所が存在したというなら。偶発的にでも見つけることが可能だったのなら。


 ――もっと早い段階で他の誰かが見付けだし、言い広め伝えられていてもおかしくないのではないか。


「――――」


 そういえば、と少女は自分をこの場所に導いた決定的な瞬間に思いを馳せる。

 あの歪みは、小柄な人間を一人呑み込む程度のサイズではなかったか。

 それはまるで、自分を迎え入れるためだけの、それ用に調節された〝道〟ではなかったか。

 もしかすると、偶発的な自然現象などでなく、何者かの思惑が介在した作為的現象なのでは……。


「…………きっと、考え……すぎ……」


 そのあたりの事実はどうあれ、今後の少女の行動に特別な変化が生まれるわけではない。


「……逃げ、なきゃ…………もっと……もっと――――遠く、へ……」


 〝王〟の魔の手が届かぬうちに、出来るだけ遠くへ――。

 そうして、少女が再び飛び立とうとした時だった。


「そこのお嬢さん、ちょっといいか?」


「………………ん?」


 一瞬、自分が声を掛けられたという事実に理解が及ばなかった。

 それでも自分を「お嬢さん」呼びしたらしい複数の男性がいる方へ、その数秒の停滞を感じさせない素早い滑らかな動作で振り向いて、小首を傾げる。

 そこにはどこか清廉さを窺わせる何かが含まれていて。

 しかも、その動作につられるように、女性の象徴たる二つの丸い大きな膨らみが慎ましく揺れ動いて。

 それをみた男たちの瞳に、黒い光が宿った。


「悪いがすこし俺たちに付き合って貰うぞ。お前に拒否権はない」


 そう言って口元を歪める獣耳の男の、無遠慮な物言いに。


「…………やっぱ、り……立ち止ま、るんじゃ……なかっ、た……」


 自身へと迫る男の手をとらえて、背には、小さく嘆息した。



      ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 愁人は『ダイブ』を唱えてすぐ、自分の置かれた状況がイマイチ理解できていなかった。

 そこはどこからどう見ても街の一角だ。周囲に次から次へと光のなかから人間――プレイヤーが湧き出てくることからも、ここが初期転送ポイントであることくらいは、容易に想像がつく。

 問題は、どうして自分が「この場にいるのか」である。


 VRオンラインプレイが蔓延る今近、キャラクターの外見はわりと重要視される傾向にある。

 というのも、身バレしては面白くない。現実と違う世界だからこそ現実とは違う容姿であるほうがいい。などといった、実際にプレイするユーザー側の熱い要望に応えている運営体が大半を占めるからだ。現実問題長時間オンラインゲームをプレイする人間の半分以上が社会不適合者だったりするため、こうした取り計らいをしていなければ会社経営にも大きく影響してくるのである。

 そういった事情はゲームをプレイしたことがなくとも、知識として得る機会はいくらでもある。というか、すこし考えればわかることである。当然、愁人もそれくらいのことは知り得ていた。


 つまり、初めは〝キャラクタークリエイト〟からだと。


 そうした段取りをなんとなしに想像しながら来てみたのだが、


「……まさか、俺のアカだけバグってるとか、そういうオチか?」


 特定のアカウントでバグが発生するというのは、十分にあり得る話だった。

 周囲に都合よく鏡があるわけでもなく、自分の容姿を確認する手段がない状態では、今の自分の状態を正確に把握することは難しい。

 わかっていることは、手足を動かした感覚が普段のそれと違わないこと。そして身なりが大変みすぼ……質素だということくらいか。


「まあ、『初期装備』と考えたら案外こんなもんなのかもしれないが。なにせゲームなんてこれっぽっちもやったことないから、その辺の基準がどうにも曖昧だ。せめてもの救いは衣服として最低限の機能を全うしてくれてることか。上半身裸とかじゃなかっただけマシと考えるべきなんだろうな」


 愁人が何のイメージからそう零したのかはさておき、地味めのカラーで上下を包んだ自分の姿をざっと眺め、次に彼が気になったのはプレイヤーなら誰もが最初に悩みぬくアレについてだ。


「紗花の話によれば、この世界で設定されてる種族は全部で六。それぞれに種族領域ホームが存在するらしいから、都市の数も同じ六……でいいんだよな? てことは、おおよそは周りのやつらと似たり寄ったりな姿をしてると考えていいわけだ。つまり羽の生えた虫……いや、蝶か? そういや唯一空を飛べる蝶のような羽をもった種族がいるって話だったか。じゃあこいつがその飛行能力をもつ『胡蝶種フェアリ』と。ステイタスの特徴まではわからんが、まあアクシデントの結果としてはこの結果も意外と悪くないかもな」


 これが闘うことしか脳がなさそうな霊獣種アミュラや大した魅力のない人間種ヒューマだったなら、愁人はすぐにでも『チェンジで!』と叫んでいたことだろう。オンリーワンでなおかつ人の身では体験できない『生身での飛行』を体験できるという魅力には、さすがの彼であっても趣旨が働かないわけがなかった。空中移動では地上のわずらわしさの一切合財を無視できるのだから、明らかに地を往くよりもストレスフリーであるに違いないという理由も含めて。


「まあなんにしても、GMにバグ報告しておくに越したことはないか――」


 と、ここに至って。愁人は自分が致命的な状況に陥っていることに気が付いた。


「ハ、ハハ……メニューウインドウの開きかたわかんねぇ……」


 致命的というどころの騒ぎではない。ある意味死活問題ですらある。

 いざやめたい時にログアウトしようにも、メニューを開かなければボタンを探すことも出来ず、彼の脳信号はすべてキャラクターとリンクしているせいで、リアルの肉体に接触することも不可能。自力での脱出はまず無理だ。消去法でメニューの展開法をだれかに享受してもらうしかなくなるのだが、それを教えてもらう教師役いもうととも現状、連絡の取りようがない。


「いや、アイツが誘ったんだから連絡くらい向こうから寄こすはず……」


 彼の呟きの通り、『奥の手』を除けば〝あちらからの連絡を待つ〟しか方法がなくなるわけだが……現時点でインからおよそ五分といったところ。愁人の体感だが、十分も経っていないのは間違いない。実際よくわからない女神像のようなシンボルが建つここにプレイヤーが集結し始めたのも、ここ数分のことである。彼らがキャラクリ先発組とするなら、βテストを経てすでにキャラを確定させている紗花もそろそろホームに降り立っている頃合いだろう。


「とはいえ俺がキャラクリにかかる時間を考慮せず連絡を寄こすとは考えにくい」


 つまりはあと十分二十分は音沙汰なしと考えて、ここでただじっと待つのも忍びない。観光ついでに散策と洒落込むのが無難なプランだろう。

 そうしてようやく行動指針が確定したところで、なんとなしに周囲の景色を眺めつつ、地表すれすれを駆ける空馬車が前方で止まり、乗員でないとみるや静かに愚痴を零しつつ通りすぎる御者を見送った。通り抜けた後で「ご利用の方は十秒以上静止」の案内板を見て、なんてところにと初期転移させやがると悪態を吐きながらその場を離れる。

 気付けば密集帯を避けるように、静観な方角――東の方へと自然に足を向けていた。


「いやはや、人通りが多いところは面倒事が多いって持論は、どこにいっても通用する鉄板理論だと主張したいね」


 ただでさえトラブル体質なのだ。観光……はオシャレな感じがして嫌いではないが、なんとなく自分の行為とそれとがかけ離れている気がするので散策としておいて、その間くらいは何事もなくのどかな雰囲気を楽しみたいというのが彼の偽りのない本音である。

 百パーセント回避できるという保障はないが、少しでも可能性の高い方を選択する。愁人に限らず誰もが等しく抱く正当な心理だった。


「それにしても不思議な場所だな」


 視線を上げればどこまでも広がる空のほかに、陸地の底のゴツゴツがみえる。空と地底が同時に一望できるという、まさに不思議な光景だった。現実世界ではまずそうそうお目にかかることはないだろう。


「いやま、現実に空中都市とか期待するほうが頭おかしいって話ではあるんだけどな」


 まさか『〇ピュタが実在した』なんて話が都合よく発生するとは思わない。空島は誰もが夢抱く『空想の産物』だからこそ価値があるのである。それでももし世紀の大発見をした場合はバ〇スを唱えず最寄りの警察署までどうぞ。

 そうこうしている間に、この浮島の端がみえてくる。歩いてみると案外狭い。まあその分、見える範囲にある島の数が結構なものなので、総合すれば相当な広さになるのだろうが。


「――ん? あれは……」


 そうしてそのまま、島の崖方面むいて直進していると、視界の端に周囲の景観を崩しかねない無機質な円形の物体が飛び込んできた。


「独特のフォルムにこの音……まるで風が唸るような……そしてその上空で隣接する別の島、か」


 訝しみながら近付いてみると、どうやら何らかの装置のようだった。そこからは風が吹き荒れるような音が漏れ聞こえてくる。そのまま上を見上げれば、おおよその目的が推察できた。


「ははーん、なるほど。浮島の群生がそのまま都市になったような場所だから、自前で空を飛べる俺たちはともかくとして、他の種族はどうやって島間を移動するのかと思ってたわけだが……それ用の装置が準備されてるパターンだったか。『他種族のことは関与しません』って姿勢だったら後々面倒な事が起きたりしてダルいからそれでいいんだが。それに友好のために後付けで設えられたって設定なら、都市の外観ぶっ壊しのフォルムにも納得がいく。ま、だからと言って『自然の一部』をテーマにしたような場所に『鉄細工』を持ち込むのはどうなんだろうって気持ちは消えないけどな?」


 木製の家々が通路に沿って並ぶ場所に、一部とはいえ鉄製のものが混じればどうあっても違和感が先行する。教室でグループ活動をしているのに一人だけ別行動をとる生徒が目につくようなものだ。ただ空間に適していないというだけで異物のような存在感が漂う。


「もしかすると、胡蝶種フェアリは六種族のなかでも立場的なものが低くみられがちなのかもしれないな」


 最悪、そこまで連想されてしまっても仕方がないレベルである。

 しかし、そう考えてみれば確かに、紗花から聞いた他種族のなかでも胡蝶種だけが特別異彩を放っているように感じなくもない。

 とんぼ返りで引き返してきた始まりの広場を眺めてみると、いつの間にやらいろんな種族で溢れ返って、さながらハチ公前のような様相を呈していた。


「確かにあんな目立つ女神像擬き象徴があれば待ち合わせ場所にはピッタリだろうが……知った顔を探すのも一苦労じゃないのか、コレ」


 実に人がごった返すような場所で待ち合わせなどしたことがない愁人らしい言い分だった。

 この世界に携帯などという文明の利器は存在しないが、愁人ができないだけで遠隔通信の手段はあるので、当然人で混雑していても探し人を見付けだすくらいはそんなに骨の折れる作業ではない。彼のような人種のほうがむしろ特別なのである。


 そうとは薄々気付いていながらも知らないフリをする愁人は、まるで無限増殖するように消えては現れる人の群れに辟易としながらも、広場に集った異種族に視線を這わす。


人間種ヒューマはあんまり変わり映えしないからいいとして、種類は豊富だけど獣耳なのが霊獣種アミュラで、パッと見わかりづらいけど耳が長くて下向きに尖がってるのが妖精種エルフィ。図体デカくて腕も長い、褐色肌が地底種ユミールで……残った尖がり耳が上向いてんのが両生スキュアでいいのか?」


 一通り種族の特徴を聞かされていたお陰でそこそこ判別できるが、両生種に至っては水掻きが見づらいので判別は難しい。それこそ話に聞く《人魚モード》とやらになってくれればとりわけ判別もしやすいが、水気のない往来でそんな姿を取るバカがいるはずもなし。


「まあおおまかに判別できてりゃそれでいいだろ」


 実に適当この上ない発言だが、臨時PTを組むなら事前に確認すれば済む話である。誰がどんなプレイをしようが関与する気のない愁人に、これ以上の考察を望むべくもなかった。

 ともあれさっきの話の続きだ。

 こうして六種族を並び立ててみれば一目瞭然。胡蝶種だけが〝カテゴリーエラー〟を起こしているのがおわかりだろうか。

 わかりやすく言えばこういうことである。


「それにしても、どうしてこの六種族のなかにが混じってんだ? 『空』で『肉食』なら〝鳥〟がいただろうに」


 人間はもちろんのこと、獣人にしろ魚人にしろ、基本は他の動物の血肉を喰らって生きている。肉食でも魚色でもなく、蜜食であるチョウ目はどうあってもカテゴリー外だ。なかに花粉を摂食する種もいるそうだが、やはり『捕えて食らう』という項目からは等しく除外されてしまう。


「食物連鎖の位置関係的にも六種族のなかで最底辺。なんとなく裏がありそうな気がするんだよな」


 まあそのあたりの事情も、ストーリーの進行とともに判明していく要素なのだろう。

 何はともあれ一往復。『観光』とは名ばかりの散策をして元いた場所まで戻ってきたわけだが。


「なんだかんだ広場の様子がガラリと変わるくらいの時間は過ぎてんのに、レンラクの『レ』の時もないとなると……紗花のやつ、このタイミングでヤらかしたか?」


 ヤらかした、というのは変な意味でなく、純粋に”トチった〟もしくは〝ドジを踏んだ〟という意味である。

 藤堂紗花という女の子は、気立てがよく家庭的でスポーツ万能、ここに頭脳明晰が加われば文字通りのパーフェクトガール(死語)である。しかし某中等部の人気者アイドルは、幸いと言っていいのかおつむはやや残念な部類に入る。いや、実力派の両親の娘ということもあって、突き抜けて聡明でないだけで決してバカなわけではない。というのも、彼女をその地位に落ち着かせるだけの要素が他にあるのだ。

 それが今回もまた、発動したのではないかと、愁人はそう疑っているのである。


「アイツが『つい見守っていたくなる天然ドジ癒し系アイドル』的なポジションに落ち着いたのも、ここぞというタイミングでドジをヤらかすことが始まりだしな。計算し尽くされた〝あざとさ〟ならそうでもないはずなんだが、〝天然〟ってところが神がかってるよな」


 被害者からすれば結構堪ったものじゃないはずなのだが、その後のアフターケアが意外に適格というか、男に留まらず女の本能的な部分をくすぐる感じらしく、つい許してしまいたくなる不思議な何かがあるとは彼女の友人たちの弁だ。ちなみに愁人は同じ屋根の下で生活しているせいもあるのか、そういう場面に出くわしても「またか」と呆れが先立つため、結局こちらも直接怒りには結び付かない。


「ま、そこにたどり着くまでに長く険しい道のりがあったみたいだけどな」


 『みたい』などとさも誰かに伝え聞いたような言葉を選んでいるが、そうしたことも含めて、すべて彼の綿密な〝情報工作〟の結果であることを一部を除いて誰も知らない。それは紗花本人も同様である。

 具体的にどのような工作を行ったかについては、学校のローカなどでヘマる場面に出くわし、兄という役柄を利用して妹をフォローしつつ周囲に『家でも同じようなもの』をアピールして回っただけ。実際その通りなのでボロが出ることもなく、彼女の自己回収能力が高いせいもあって、他人の手助けをほとんど必要としない。世話を焼くことが少ない分、外野はその様子を安心して見守っていられるというなんともサイクルが形成されるのだ。その話が学校中に広まれば、あとは勝手に彼女の地位が確立されて〝無償の監視がつく〟という手筈である。あえて『無償』と表現したが、一応本人が体を張っているため一方的に得をする関係でないのは言うまでもないだろう。男子生徒に至っては『もしかすると』を期待できる面もあるため、その後周囲の女子からどういう目で見られるかを度外視すれば十分以上の報酬を与えていることになる。

 周囲の監視があるお陰で紗花はイジメにあうこともなく、周囲は彼女に癒される。あくまでWin-Winな関係なのだ。


「何にしても、そろそろこっちでどうにかしなきゃいけない頃合いかもな。……ま、どう考えても赤の他人様の厄介になるより他に方法ないわけだが。一体全体、どうして俺がこんな面倒な思いしなくちゃならないんだ……」


 今日一番の重い溜息を吐きだし、「文句は後で気の済むまで」と瞬時に気持ちを切り替え、当たり障りのなさそうなプレイヤーを求めて広場に視線を彷徨わせた。


「――あれは……いやいや、まさかそんなわけ――」


 ない、と言いたい気持ちを抑え込んで、疑心に駆られる目を擦って改めて多種族入り混じる空間をやや離れた場所から眺めると……どうやら目の錯覚というわけではなさそうだった。


「――ストーカー、にしては性質が悪いな。追いかけられてるのがか弱そうな女の子なのは定番として、追ってる方は一二……五人か? 人混みでちょっとわかりづらいが、見たところ全員いい年の男だな。強姦か? 仮想世界こんなところで? いや全くないとは思わないが、いくらなんでも包み隠さなすぎだろうアレは」


 白昼堂々、人の目がある中での追いかけっこだ。目撃者だけで五万といる。……いや、実際に広場に集まっているのは多くて三百といったところだが、それだけいれば十分すぎた。しかもわざわざ人混みを縫うように逃げていることから、少女は最初からそれを狙ってここに来たのだろう。

 そんな思考の流れから、愁人の視線は自然と少女へ吸い込まれて――


「――っ」


 そうしてようやく、自分が状況認識を誤っていたことに気が付いた。


「おいおいおい、あんな凶悪そうなのを持っていながら……」


 愁人の視線は女性の象徴――暴力的な膨らみを称える胸部へと注がれている。


「おそらくE……いや、Fかもしれない」


 誤解はないだろうが一応。愁人は学年の所属クラスを言い当てているのではなく、カップの話をしているのである。

 にも拘らず彼の視線に淫らな色は含まれておらず、純粋な称賛だけが色濃く映し出されていた。


「あの大きさでとか、どんな体幹してんだよ」


 男である愁人には到底、女性特有の辛さに理解など及ばない。だが、少なくとも、あんな重しがついていてはまともに走ることすら儘ならないだろうことはわかる。


「上下の揺れだけでなく、肩を揺らさないよう、そして風の抵抗が最小限になるよう傾きを工夫してる――いや、まるで風の方が避けてるような……?」


 ――どうしてそう思った?


 一瞬、唐突に湧き上がった自分の思考に、愁人は酷く困惑した。

 理由などさっぱりだが、とにかく『そう感じた』のだからどうしようもない。根拠はなくとも感覚の部分が本能に直接語りかけてくるような不可思議な感覚。これまでに直感が働くような場面はいくらか経験したことのある愁人も、このに体がおかしくなったような気分がして、思わず血の気が引いてしまう。鳥肌が立つ。

 自分が自分でなくなったような……と表現すればご理解いただけるだろうか。


「……まあ、仮初の肉体アバターだから当然なんだけどな」


 それでも慣れない感覚に脳が拒否反応を起こしてしまうのはどうしようもない。


「蛇じゃないが、ピット器官のようなものが備わってたりするんだろうか」


 その件はまた追々確認するとして、今はとにかく目の前のアレである。


「人目はあれど誰も助けに入らない。それどころか傍観……いや、観察している節さえあるのはどういうことだ?」


 観察、と愁人は見たままを言葉にしてみたが、それも微妙に違うのではないかという気さえしている。これは直感的な部分に由来するが。


「そういやこのゲーム、『PvP推奨』だったな」


 それなら周囲の状態にも一応の説明がつく。

 多勢に無勢で一方的な『狩り』のような状況。だからこそ、助太刀に入ればどうなるかなど目に見えている。

 加えて追われる側がそこそこいい身のこなしをしているのがいけない。いざ景気よく飛び込んで、逆に助けられてしまうような事態になれば見る影もない。しかも三百近いプレイヤーの面前で、だ。「アイツ調子に乗って飛び込んだわりに情けねぇ」「ちょーダサーイ」とか言われた日には目も当てられない。

 ただ、少女が間違いなく助けを求めてここにやってきたのは、状況とその表情から一目瞭然だった。


「――っ」


 小さな唇をしっかりと結すび、どうにもならない屈辱に表情を歪めて……否。

 もっと別の部分。まるで世の条理を嘆くような、人の習性を哀しむような、

 悲痛を滲ませた、ガラス細工よりも脆く儚げな表情に――


「……さて、本日二度目の面倒ごと――どうしたもんか」


 愁人もまた、決断を迫られていた。


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