幻想転帰のリバースワールド

蔵敷ぬこ人

人生初の仮想世界は何やらピンチなようです

プロローグ 二つの”願い”

 〝アパシーシンドローム〟という病名をご存知だろうか?

 別名、無気力症候群。学生が陥りやすい傾向が強いことから「学生の無気力シュチューデント・アパシー」とも呼ばれるこれは、ある限られた分野においてのみ気力を失うという特徴にある。よくある話が、大学受験を目指し猛勉強の末、晴れて合格。その後、糸が切れたようにやる気を損なうといったものだ。


 先のケースに限らず、あらゆる方面に適用されることで『症候群』として扱われる精神病の一種だが、藤堂愁人(とうどうしゅうと)がそう診断されたのは、もう随分と前の話である。

 彼の症状は前述とは異なり、学業方面には発揮されない。むしろ学年トップレベルの成績優秀者だ。

 とはいえそれは中学時代の話。晴れて高等学校に進学した今、学年代表として壇上に登ることもなかった彼の成績を知る者は少ない。身内を除けば学校関係者と同高に進学した中学の仲間くらいのものだろう。

 そして同上の人物たちは等しく、少年が肉体運動に関して著しい手抜き行為を働くことも知っている。決して全力で走らず、決して全力で競技に臨まない。『出来ない』のならまだしも、『やらない』のだからいろいろ性質が悪かった。


 たとえ病気のせいとはいえ、意図して怠慢を働く人間に興味を向ける者は少ない。学校中に広まった『シスコンブラコン兄妹』という評判も相まって、卒業前には『秀才ボッチ』の称号まで与えられる始末だった。趣味趣向がわからず、いつも気だるそうに寝ているか、呆けたように空を眺めていることがほとんど。こういうところも、彼をボッチたらしめた一因なのかもしれない。


「――――」


 そんな彼は今、突然部屋を訪れた妹に無言の圧力を飛ばしている最中だ。

 一体全体何度目だと怒鳴り散らしてやりたい衝動を辛うじて抑えながら、対面で委縮ぎみに正座する小柄な少女を目下に、ベッドの上で胡坐に頬杖、指先はリズミカルに頬を叩いていた。


「それで、強情にもまだ吐かないのか?」


「…………」


 最初の問いからかれこれ十分ほど。彼女は終始このように無言を貫いている。

 時刻は日曜朝の九時過ぎ。休日とはいえ、さすがにいつまでも付き合ってやる気のない愁人は、情け容赦なく彼女の罪状を突き付けた。


「まあわかってるさ、おまえの考えることくらい。朝っぱらから欲情して、俺をしようとしてたんだろ?」


「違うよっ!? 興味はすこし……ううん、結構……いやいやおにちゃんになら何されても……じゃなくて誤解だからねっ!」


「……いや、むしろそれのどのあたりが〝誤解〟なのか具体的な回答を訊いておきたいわけだが? 今後の保身のためにも」


 さながら犯罪者をみる尋問官のように、冷たい視線を浴びせかけながら言いつのる兄に、紗花すずかは「しまった」と視線をそらした。

 一部本音が混じってはいたが、事実そう捉えられても仕方がない行為に及んだ彼女は、何としてもイメージダウンに繋がる部分の誤解だけは修正しておく必要があった。


 その場凌ぎでもいい。とにかく犯したミスを正当化させる何かを……と頭を捻るうちに、そもそものきっかけを話せばそれでいいのでは? という思考に落ち着いて、紗花はままよと口をひらいた。


「だ、だいたいおにいちゃんが呼んでもなかなか起きてくれないのが悪いんだもんっ。起きてくれないとせっかく作った朝食がさめちゃうし。だから仕方なく、仕方なく部屋に入って寝顔をちょっと眺めたら直接起こそうと思って……」


「……おまえそれ、言い訳になってない上に〝添い寝行為〟との関連性がないってわかってて言ってるか? しかも目的に及んだ本当の動機の不純さに兄もびっくりだ」


「……」


 そうと言われてまたしてもいろいろ口走っていたことに気付いたのか、再び気まずそうに視線を逸らす紗花。その頬はやんわり色付いている。

 その様子をみてはああ、と深い溜息を吐き出してた愁人は、これ以上の尋問は不毛と判断。妹を追い出しにかかった。


「俺もこうして起きたことだし、おまえの目的はもう達成されただろ。コングラチュレーション。ほら、さっさと出ていった」


「むう、せっかく起こしに来たんだから、『最愛』の相手に対して〝ありがとう〟くらい言ってくれてもいいと思うんだけど」


 だが、そんな兄の態度に妹様はご不満らしい。


「誰がだれの『最愛』だよ。おまえがアホなことしてなけりゃ言ってやったかもしれないが、あんな最悪な起こされ方されちゃその気も引っ込むっての。むしろ謝罪を要求してもいいんだぞ?」


 『最悪な起こされ方』というのは、彼女が就寝中の兄の布団に潜り込んで添い寝をしているうちに、我慢できなくなって抱きついたのが始まりだ。胸いっぱいに兄成分を取り込んでいたまではよかったが、次第に気分が高揚して強くぎゅっとしたくなった紗花は、彼の覚醒が迫っていることなど露知らず思いきりいったのである。当然息が詰まった愁人の目覚めは最悪だった。

 冒頭はその件についての言及だったが、悪ぶれもしない彼女に彼がいろいろ『面倒になった』せいで謝罪すらまだなのである。


「はい、ごめんなさい。そんではい、おにいちゃんも」


「……おまえホントブレねぇな」


 どこまでも自分の欲求に素直な妹であった。

 頑なに『ありがとう』と言わせる気の紗花に呆れを通り越していっそ清々しいものを感じながら、それでも愁人は絶対にそれを口にしない。一応それにも理由があった。


「よくよく考えてみろよ。今日は休日、日曜だ。学校がある平日なら『起こしてくれてありがとう』となるが、土日はたいていのヤツが『どうして起こした』となるはずだ。ちなみに俺も頼んでないし、礼を言う必要性も感じないわけだ」


 言い分はわからなくもないが、ただ怠惰なだけだった。

 それでも全うな理由であることに変わりはない。

 紗花にそれを覆せるだけの意見は咄嗟に浮かばず、


「むむむ、どうしてそんな意地悪ばっかり……」


 と、恨み節を呟くが、


「いやだから、意地悪とか意地悪じゃないとかそういう話じゃなかっただろ今の……ちゃんと人の話を聞いてくれ頼むから」


 むしろ逆に嗜められて彼女の肩が沈んだ。

 藤堂紗花は百人中九十八人が口を揃えて『美少女』と証言するほどの容姿をしているが、同数程度の人間は等しく彼女をこう評価する。


『しっかり者のくせにどこか抜けてる愛玩動物的な何か(ただし兄ラブ)』


 そんな彼女はこうしてしばし、自分の都合のいいように言葉を解釈する節がある。オタク系女子にみられる『脳内事象改変』が度々発生するのだ。もっとも、妄想に『改変』は付き物で、そこに男女の違いなど些末なことと考えれば、女子に限ってこう表現するのはいささか不十分であることを否定はできない。間違いではないのであえて否定はしないが。


「とにかく用がないならさっさと出ていく。着替えも碌にできないだろうが」


 そうして今度こそ妹を部屋から追い出そうとして、愁人は彼女にそう告げる。


「……用ならあるよ」


 だが、言葉とともに真剣な色を宿した紗花の瞳を捉えて、愁人はあげる腰を途中で止めた。

 そして紗花は、兄の部屋を訪れた本当の目的を伝える。


「おにいちゃん、『お願い』があるの――」



  ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



『わたしと一緒にVRMMOをプレイしてほしい』


 そう言って紗花が口にしたVRMMOのタイトルは、『リバースエンド・オンライン』という〝玄人向け〟のゲームであるらしかった。


 とりあえず彼女を部屋から追い出し、着替えを終え、簡単に身なりを整えてから愁人はキッチンへと入った。


「――なるほど。よくある〝異世界ファンタジーもの〟の世界観って認識でいいわけだ?」


 朝食を取りながら大まかなガイダンスを受け、だいたいの内容を把握したところで最初に出てきた言葉がそれだった。

 二度目になるが、愁人には娯楽や趣味と呼べるものはそう多くない。

 よってテレビゲームなどといったサブカルチャーを代表する遊具の類は知識としてあるだけでやったことなど一度もないし、興味自体存在しないのが実情だ。


 それというのも、彼にはちょっとした武術の心得がある。そうした修練の機会があったからこそ、今や多勢が注目する娯楽の類にはあまり趣向が向かなかったのである。小説や漫画といった文学方面にそこそこ理解がある程度でしかないのだ。

 そちら方面に関しては全面的に紗花の領分で、彼女と会話するなかで知識だけが無駄についたのは何とも皮肉が利いた話ではあるが。


 ともあれゲームになど一切触れてこなかった彼にしてみれば、果たして初心者同然の自分が熟練プレイヤーであるについていけるものなのだろうか、と素朴な疑問が湧いてくるのは当然と言える。

 決してやりたくなくて抗弁するわけではないのだが……と内心で言い訳がましく思いながらそのままそれを訊ねてみる。


「正直、紗花の廃人プレイについていける自信がないぞ?」


「わたし廃人のガチプレイヤーじゃないよ! 頑張ったら頑張った分だけおにいちゃんの愛が手に入るなら廃人プレイも考えるけど……えっと、そうじゃなくて。きっと大丈夫だよ。おにいちゃんならすぐ慣れると思うし。おにいちゃんがコツを掴めるまではこっちでペースをあわせるようにみんなとも話して決めてるから」


 なにやらまたしても世迷言を耳にした気がしなくもないが、愁人は努めて馬耳東風と知らぬ存ぜぬを貫き通した。しかしそれ以外のところはいろいろと考えてはいるようで、彼女の配慮や本気度が伝わってくる。そうまで言われてしまっては、なかなか拒否など出来そうもない。ましてや紗花の友人筆頭四人衆にも話が通っているとなれば尚更だ。……いや、兄尚也との『取引』もあるし、元々拒否など考えていなかったけれども。

 取引を承諾している時点で逃げ道など初めから存在していないわけだが、心なしか逃げ出したくなる気持ちを適当な理由をつけてどうにか誤魔化す。一度でも「面倒だ」と投げ出してしまえば、一切手を付ける気が起きなくなってしまう状態なのだ。

 これではあまりにも極端すぎると愁人自身も思う。

 客観的に自分を把握しているからこそ「異常だな」と認識できるが、そうでなければ自分の気持ちにまったく気付かなかっただろう。無自覚にやる気を損ねる。まったく厄介な病である。


 紗花お手製の味噌汁や焼き魚といった朝食の定番メニューを平らげ、「ごちそうさまでした」と手を合わせて食後の紅茶で一息ついたところで、今度は紗花が切り出した。


「それで、本サービスの開始日が今日の十一時なんだけど」


「……それはまた、なかなか急な話だな」


「うん、ごめんね。でも事前に言ってたら、もしかすると途中でおにいちゃんの気が変わったりするかもしれないと思って」


「……ああうん、それは確かに」


 彼女の危惧の通り、現時点でも相当気持ちがブレているのだから、期間を置くことで結果がどちらに転ぶかなど愁人自身にもまったくわからなかった。いや、確率論でいくなら圧倒的に投げ出す可能性のほうが高いかもしれない。なるほど、どうやら此度の件で愁人が彼女を責めるのはお門違いのようである。

 

 妹のごもっともなご指摘に表情を顰めながら、愁人はカップから口を離して溜め息ともつかない息を吐く。前科があるからこそ、紗花がそれを心配するのは当然だった。

 自分が精神的に不安定なせいで、紗花に本来以上の負担を強いているのは理解している。どうにかしたい気持ちはあれど、どうしようもなかったがために今日までこうして燻ってきたのだから。


 なにせ現在の藤堂家は、愁人と紗花の二人暮らし。必然的に本来なら親が担ってくれるはずの仕事――炊事洗濯はもちろん、掃除から雑事にいたるまですべてを自分たちで賄わなくてはならない状態だ。

 そして、意外にもその手の作業が苦手な兄に代わり、その大部分を率先して紗花がこなしてくれている。愁人が家のためにしていることと言えば、週ごと決められた日にゴミを収集して所定の場所に廃棄したりといった程度。あとはたまに妹の我儘を聞いて、ストレスを発散させてやるくらいのものである。それですらその時の気分で真っ当できないこともあるのだから、負担を掛けないわけがなかった。


 海外赴任が長い両親や家を出てアパート暮らしの尚也がいない分、全体的な仕事量はそれほど多いわけではないのだが。彼女の本分は学業で、その上部活も連日きちんとこなして帰ってきている。にも拘らず、彼女は一度も音をあげることなく、家ではいつも幸せそうな笑顔をふりまいているのだ。

 そうした彼女の心の支えになっているのは、惜しみない兄への親愛の情――恋慕の気持ちであることを彼は知らない。愁人と紗花とでは、その部分において互いの認識に大きな隔たりがあるのだ。


 ――ある日突然身内の状況を知り、庇護欲を前面に押し出して状況改善に動いた結果、相互依存状態に陥った末に『妹の今後のために関係改善』を求めた兄。


 ――ある日身内に窮地を救われ、次第に『嫌悪』が『好意』へとすり替わって『兄の愛情』を欲し、『不安定な兄の支えになること』を望んだ妹。


 互いに互いの心に根差す想いなど知らず。

 二人を取り巻く状況の認知度を鑑みれば、そのような結果に落ち着いてしまうのも当然だった。


「まあ、おおむねの事情は理解したが……結局のところ、その、リバーシブル・オンライン……だっけ? なにをするゲームなんだ?」


「『リバースエンド・オンライン』だよ。間違っても裏表どうこうってタイトルじゃないから間違わないように。まあわたしたちも長いから『REO』って略して呼んでるけど」


「ああなるほど。定番だが、それが一番覚えやすいな」


「そうだよね。でも略称ばっか呼んでると、たまに元のタイトル忘れちゃったりするけど」


「……否定はできないな。まあそれはいいとして、肝心のその内容は?」


「さっきも説明したけど一応はファンタジーもの。ただまったりゆるーい感じじゃなくて、ハードコアっていうのかな? けっこう玄人向けの要素を含んでるって話だよ」


「へぇー。玄人向けだとたとえば『PvP』プレイヤー対プレイヤーとか?」


「あるよ。といっても最近のMMOにはあって当たり前の要素なんだけどね。プログラム通りの行動しかしないモンスターばかりだと、そのうち攻略法が確立されちゃってつまんなくなっちゃうし」


「……おまえその発言、間違いなく『廃プレイヤー』そのものだぞ」


「えぇっ!? ち、ちがうもん! わたし廃プレイヤーじゃないもんっ!」


「どーだか」


 頬杖をつきながら対面に心底疑わしいといった視線を向ける愁人。紗花は羞恥からかすこし表情を赤くし涙目になりながら、


「そ、それに、そう思ってるのはわたしだけじゃなくて、みんなだってこの前ダンジョンの最深部で『このあたりのモンスターにも飽きてきちゃったねぇ』って言ってたんだから!」


「いやそれ語るに落ちてるだろ。やっぱり俺、これっぽっちもついて行ける自信ないんだが……」


「だ、だから! 最初はちゃんとペースを合わせるってさっきも言って……!」


「じゃあ紗花は、自分が『玄人プレイしてる』って認めるんだ?」


「――っ!?」


 言葉を重ねるごとにヒートアップしていく彼女へ、愁人は冷や水を浴びせるように発言を被せる。

 ようやく兄に揶揄われたことを自覚した紗花は、衝撃に口をぱくぱくさせた後でさらに頬を紅潮させながら涙を堪えて兄を睨む。ぐぬぬぬ、と唸り声が聞こえてきそうな睨みっぷりだ。

 そんな表情をしても美少女は可愛くみえるのだから得だよななどと益体もない思いを抱きながら、しかし表では「朝の罰な」と口元を不敵に歪めてみせる。紗花もニヤニヤ笑みを貼り付けた兄の意図を察せるくらいには、彼の性格を熟知していた。そうとわかった途端に頬を膨らませ、「おにいちゃんのいけず」とそっぽを向くが、そんな行動でさえ愛嬌が漂うのだから、やっぱり女の子って得だよなと苦笑が漏れてしまうのはどうしようもなかった。

 どんなに容姿が優れていても愁人とは正反対。大違いである。


 人の好意を惹き付ける妹と人の害意を寄せ付ける兄。

 例えるなら『人懐っこい子犬』と『近付くものを威嚇する獰猛な野良猫』といったところだろうか。

 とはいえそうなるようにをした愁人に不満などないのだが。


(紗花がまた〝イジメ〟になんか遭わない環境さえあれば、俺が傍にいなくても問題ないしな)


 愁人が高校に進学してから一月。毎週遊びに来る妹の友達にも確認して、今のところ紗花が面倒事に巻き込まれていないのは確認済み。去年のあいだに彼女たちの協力を得ておいて正解だった。


(もう二度とあんな思いはさせない)


 二人が通う学校は頭につく名前が同じでも、高校と中学とでは敷地が異なる。必然的に目の届かない時間が多くなる分、理解ある誰かが彼女の側にいる必要があった。多くの人の目を惹くというのはそれだけでいろいろ厄介なのだ。大半が好意から始まる興味だとしても、それがいつどのように悪意に転換されるかなどわかったものじゃない。実体験が彼にそう訴えかける。

 なら一人では危険でも、複数なら危険度はぐっと下がるはずだと。

 その上で中学当時の自分の『悪名』を利用すれば対策としては十分だろうと。

 そうすれば、紗花の卒業まで悪い虫はつかないはずだと信じて、去年の一年間は下地作りに費やしてきた。それが高校の方でもそれなりの影響が出ているが、それはまあ仕方のないことだろうと愁人は割り切っている。

 なにせ紗花は人懐っこくて危なっかしいのだ。ただそれも妹の友人ズ曰く、『紗花に〝敵認定〟されない限り』らしいが。


 そんな愁人の陰ながらの努力を知っているのかいないのか、どちらにしても今彼が紗花に向ける視線に彼女を慮る気持ちが含まれていることなど露知らず、ぷんすかしつつも様子が気になるのか時折視線を向ける感じがどうも小動物くさい。反抗すれば捨てられるとでも思っていそうな勢いである。

 おそらく彼女の心中では「不機嫌そうな態度を取ったりなんかして『やっぱり一緒にゲームする気がなくなった』とか言われたりしないだろうか」と恐々しているといったあたりだろう。生憎と愁人は全然関係のないことを考えていたのだった。


 とにもかくにも、互いがすれ違いに気付くことのないまま他愛無い時間が過ぎ、十時を回ったところで紗花が「そろそろ準備をしたい」と言いだしたことでようやく二人は二階へと上がった。

 愁人の自室へと入り、紗花が持ち込んだバイザー型のVRマシンをネットワークに接続。手慣れた様子でソフトのインストールを行い、アカウントの作成を手早く済ませて下準備は完了。もちろんその間に愁人自身もマシンの設定やら動作確認やらを無事に終えている。

 そうして時刻を見てみれば、サービス開始となる十一時まで残りわずかといったところまで迫っていた。


「これでよしっと。それじゃあおにいちゃん、時間がないから手短に説明するね」


「はいはい、よろしくお願いしますよ先生」


「『はい』は一回ですよ、藤堂くん?」


 茶化す愁人にそうおかしそうに笑ってから、紗花は兄のほうへ薄いながらも女性らしい肉付きを帯びた体を寄せて、


「これが電源で、入れたらベッドで横になって目を瞑るの。それから一言『ダイブ』って言えばログインできるようになってるから。一応、このログインコードは変更できるんだけど、今はとりあえずわたしと同じコードで登録してあるから、変更したくなったら言ってね」


「りょーかい」


 一通り説明を終えたらしい紗花に了解の旨と伝えると、至近距離から飛び込むように抱き付いてきた。


「……オイ」


「ふふっ、念願のおにいちゃんとの仮想プレイ。たのしみだなぁ」


「――――」


 念願。思わずその言葉が飛び出てしまうほど紗花は楽しみにしていたのだろう。それがここにきて我慢できず抱き付いてしまったのは、まあ仕方のないことなのかもしれない。しれないが――


「楽しみにしてたのはわかったが、そんなことしてていいのか? ――もう一分切ってるぞ?」


「ふえぇっ!? うそぉっ!?」


 叫ぶや否や、紗花は慌てて部屋を飛び出していく。そしてすぐ左隣から勢いよく扉の閉まる音が聞こえてきて、ようやく部屋が静かになった。


「まったく騒がしいやつだな。……十一時まであと五分あるっていうのに」


 そのまま放置していれば時間ぎりぎりまで抱き付いていそうな雰囲気だったために、愁人は一計を案じたのだ。別に「サービス開始まで一分切った」とは言っていないので、騙しはしたが嘘は口にしていないと本人は主張する。だいたい作業を終了したのが五十分過ぎだったことを考えれば、一分切ったなどという戯言を信じるはずもないのだが。そのあたりは紗花が紗花たる所以なのでどうしようもない話ではあるのだけれども。


「だから目が放せないってのは、実際問題しかないんだよな……脱シスコンの道は険しそうだ」


 もっとも、どんなに片方だけが脱したところでもう片割れが依存したままならそれはまったく意味を成さないという事実に、この時愁人はまだ気付いていない。

 どんな秀才であろうとも、長年人を遠ざけつづけてきた人間にコミュニケーション能力が培われるべくもない。性質上人の悪意には敏感だが、それが好意となるととことん疎くなるのが藤堂愁人という人種である。自分が突き放し続ければその内相手も疎遠になる。その程度のことしか考えていないのである。実際これまでそうして実現してきたのだから無理もない話だが、身内であり等身大以上の好意を抱く紗花にそれは、火に油とまではいかずとも薪をくべる行為に等しい。その事実に愁人が気付くのは果たしていつになるのやら。


 ――だからこそ、


「――おにいちゃん」


「…………」


 サービス開始までの時間の猶予がもう少しだけあると認識した妹が、こうして再び部屋に訪れる可能性にまで至らなかった。

 室内にまで入る気はないのか、控えめにドアを開け、その愛らしい姿の一部分だけを覗かせる。

 そして彼女はこう言うのだ。


「おにいちゃん、またあとで――あっちの世界でね」


「……ああ」


 それだけ言って満足したのか、微笑みを浮かべて来たときと同じように静かに部屋をあとにする。


「……まったく、厄介なやつだ」


 軽々と予想を超える行動を起こす紗花をそう評価して、愁人はバイザーを手にベッドに腰かける。


「さて、これで尚也との『取引』通り、事が進んだわけだが」


 藤堂家の長男にあたる尚也との『取引』。

 その内容は『〝愁人の願い〟を叶える代わりに〝紗花の願い〟をきくこと』。

 本来相容れない二つの『願い』を正常運航させるために、


「どうすれば紗花を改心させられるか――」


 バイザーを装着し、ズレないことを確認してから横になって、シミのない見慣れた天井をバイザー越しに眺め、とくに意味もなく呟きを発する。


「とりあえず、あちらの世界での環境の変化――その可能性に賭けてみるとするか」


 ――対人戦闘があるのはかなり面倒ではあるが。


 まあリアルの肉体は傷付かないし、なんとかなるだろうと愁人は瞳を閉じ、紗花に教わったログインコードを唱和する。


 時刻は十一時ちょうど。

 面倒極まりないもう一つの日常が、こうして幕を開ける。

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