第2話 端点4
浅沼くんは、存在感を放つ。
それはなんて言うか、ことばを選ぶ必要があるのだけれど、イマイチどのことばを選んでみてもピンと来ない。
とりあえず、『華やか』とは、別の部分で存在感を放っている。
BARで遭遇したあのときから、何度か、浅沼くんを地下鉄やバス、道中で見掛けたことがある。
そのたびに浅沼くんが存在するそこだけ色が違って見えた。
一度、浅沼くんらしき人物の影が視界に入ってきてその対象を目で追うも、心の隅のどこかで浅沼くんであるはずがないと思って視線を外す。
それでも不意に入ってくるその人はやはり、紛うことなき浅沼くんなのである。
浅沼くんの横には、噂どおり可愛い彼女がいた。
その事実に少なからずショックを受けつつも、まあそんなものかと納得してしまう自分がいた。
浅沼くんにはよくわからない色気みたいなものを感じるときがある。
つまりはここに起因するんだろう。
モテる人って言うのは、総じてそうだ。
その光景を見て、泣いて逃げるとかそういう乙女な心は持っていない。
どちらかと言えば、浅沼くんを見ると、ドキドキとかハラハラとかそういうのと似たゾクッとする感覚がわき起こる。
浅沼くんとわたしは見えない『なにか』でつながっているような、そんな言いようもない罪悪感すらある。
それを自信だと言ってしまえば簡単なのかもしれない。
浅沼くんに好かれているかもしれないという、自分の驕りももちろんあるだろう。
浅沼くんには、取っ掛かりがない。
たとえばマスターみたいな気軽さは、浅沼くんにはない。
でも、いざ話してみると面白かったり、気さくだったりする。
そして意外にアツい人だということがわかる。
競争心や闘争心をしっかり持っていて、それに向ける実行力も計画力も持っている。
そして、驚くべき集中力。
ときどき一緒にゲームをしたりしたけれど、浅沼くんの技術は単純にすごかった。
やり込んでるなと、ひと目で分かるくらい。
それに対する情報収集能力もずば抜けている。
いったい何時、そんなことを調べ上げているのだろうと不思議に思うくらい。
電車のドア付近の手すりに掴まって立っていると、浅沼くんの彼女(単体)に出会った。
彼女がひとりでいるのはめずらしい。
その出会いは偶然というよりは、もはや必然だった。
彼女も、女の勘というやつでわたしを意識しているらしい。
「こんにちは」
彼女のほうから声を掛けてきた。
「あ、こんにちは」
「あのぉー……つかぬことを伺いますが、あなたは徹のなんなんですかぁ?」
ストレートにも程がある。思わず笑ってしまった。
”つかぬこと”も言い慣れてない人が使えば、まるで聞き慣れぬ言葉のように思える。
彼女から発せられる言葉はどこか異国的だった。
言っていることは至って単純なことなのに、しばしの間、理解する時間を要する。
「あ、いや、浅沼くんとはただのお友だちです」
「リアルの?」
「え?リアル?まあ……そうですね」
リアル……現実を生きているのに、わざわざ現実を強調するのはどういうことだろうと首を傾げると、彼女は饒舌に話しだした。
「あたし、徹とはネットで知り合ったんですぅ」
なるほどと思い、「そうなんですねー」と適当な相づちを打つ。
しかしながら、ネットは「リアル」ではないのだろうか。
やはりネットは仮想現実といわれるものなのだろうか。
仮想現実も現実の分類には入らないのだろうか。
「徹って、ほんっと、どんなときもゲームしてるんですよねぇ移動中もご飯食べているときもずっと」
「家に遊びに行ってもゲームとアニメの話ばっか!」
「徹は頭良いんだから、もっとそーゆー頭の良い話をすればインテリキャラでいけるのに、あれじゃ残念ヲタって感じ。ゲームしている間は全く喋らないしぃ」
浅沼くんがそれを好きなんだから仕方ないということばを飲み込んで、彼女の話を聞く。
彼女は浅沼くんに不満を感じているのだろうか。
それよりも浅沼くんが人を家に招くだけすごいんじゃないか、とか、見当違いな感想を持つ。
「すぐ自分の世界に入っちゃうし、顔が良いのにもったいない」
「しかも徹ってば、友だちガチで少ないんですぅ」
わたしもわりと少ないです、とは言えず笑っている彼女に愛想笑いで返しておいた。
正直、友だちといえる存在なんて自然と少なくなっていってしまうのが世の常だ。
友だちの定義が曖昧だが。
そもそも友だちとはなんだ?
顔見知り、知り合い、知人。
なにが違うのだろう。
人間関係のふかさ?
会話の頻度?
話題の重度?
気持ちの比重?
「で、徹ってば浮気するときも、ぜんぜん顔とか気にしないの」
「へえ、浮気……」
「そう、浮気。おなじくらいゲームが好きだったとか、好きなアニメがおなじだったとか、そーゆーので女の子を連れ込んじゃったりするの」
「あたしよりかわいいとかキレイとかスタイル抜群とか……そーゆー基準でものを見てないから困っちゃうんだよねぇ。はっきりした勝敗がつかなくて」
「でも、あたしからココロが離れたんじゃないから許せるんだぁー。徹って、放っておけないでしょ」
「だからあなたも気をつけてね」
いつぞや友だちに言われた台詞を彼女にまで言われた。
これが本気の心配なのか、牽制なのか、わたしには判断がつかなかった。
まるで呼吸の一動作のように言われる「気をつけてね」。
わたしはいったい、なにに気をつければ良いのかわからないのだけど、ひとまず神妙な顔をしてそのありがたい忠告を受け取るのだった。
彼女の睫毛はバサバサと音を立てそうなくらい長かった。
爪は艶やかな色で、長く、鋭利だった。
染髪された長い髪からは甘い香りがして、顔は化粧からしてひどく人工的に思えた。
それなのに、彼女は女のわたしから見ても魅力ある女性だった。
だから”浅沼くんのココロが~”という話題になったとき、ひとつ言わなくてはいけないのではないかとさえ思った。
だが、これをわたしから言うのはお節介だから止めておいた。
「彼の心は、彼のものだよ」
浅沼くんの彼女に会ったあと、またBARに向かった。
いつの間にか気付かぬうちにわたしも常連になってしまったようだ。
常連のふりをしているだけかもしれない。
常連のようになってみたいだけかもしれない。
そんな不思議な中毒性のある店。
独特の心地よさがある。
一見排他的なのに、一度懐に入るとどこまでも受け入れてくれるような。
「今日、浅沼くんの彼女に会いました」
マスターへと開口一番にそう告げる。
マスターは彼女の存在を知っているようで、口端を上げて「そう……徹の彼女さん、佐倉ちゃんから見てどうだった?」と聞いてきた。
「とっても女の子らしかったです」
率直な感想を述べると、マスターは満足そうに笑った。
「遺伝子レベルで、かい?今日は染色体を用いての男女の違いでも話す?」
男女間というのは、おたがいに理解しがたい行動というものがあるものだ。
たとえば、女の子はとかく、痩せたがったり、おたがい同調や共感して、行動を共にするところ。
それにたいして、男の子は収集癖というか、そういうお金の使いかたをするところ。
今のは単なる一例で、『男の子が、女の子が』といったけれど、ニュートラルな立ち位置にいる人だって、もちろんいる。
そして近年は、ニュートラルの傾向が強いように思う。
中性的なものへの憧れとでも言うのか。
女の子が男の子になりたかったり、男の子が女の子になりたかったり。
それは服装だけだったり、身体面もだったり。
そういうものひとつひとつにも単語が与えられている。
そう、いまはすべてが自由だから、指向も嗜好も選択することができる。
「感情的になることを嫌ったり、本能を押し隠したりしてしまうからさ、陰湿な犯罪が増えると思うんだよね。自分に無理をしすぎると精神を病んじゃうよ。今、流行ってるけどね、心の病気」
「盗撮とかネット犯罪とかストーカーとか……少しばかり距離を置いた犯罪も多いですよね……。あとはサイコパス的な異常犯罪」
「異常なのこわいよねー。手に負えないもん。気をつけなよ、佐倉ちゃん」
ふふふと笑ってわたしも話す。
精神に関することは複雑だ。
複雑だからこそ、魅力を感じる分野でもある。
「そういえば、浅沼くんって存在感ありますよね」
「そこで、敢えての徹を出してくるところが佐倉ちゃんだよねー。なんか徹がサイコパス予備軍みたいに思えて来るんだけど、その言い方だと」
「いいえ、べつにそう言った意味では決してなくてですね、ふと思ったので口にしただけです」
マスターは、ふと思う女のカンって言うやつが一番怖いんだけど、と笑っていた。
「んー、あいつは忍者みたいに気配消してたりするけどね……。まぁ目立つといったら、本人が望まざるともあらゆる面では目立っちまってるし。何はともあれ、佐倉ちゃんの眼から見る徹は、存在感を解き放っているわけだ」
「うーん、たぶん……なんか、他とは違うなって思うんですよね」
「まあ、他とは違うと思わせようという努力をしているのかしているのかわからないけれど、実質、他とは違っちまってるよな」
「ということは、マスターも浅沼くんのことをそう思っているわけですね」
「……あんまり認めたくはないけどな。認めざるを得ない」
マスターは作業中で、軽食の調理中だったためか、後ろを向いており、表情を見ることができなかった。
ただ、少し落ちた声のトーンに表情を窺おうとしている自分がいた。
「あ、そう言えば佐倉ちゃんにまだ俺の連絡先渡してなかったね」
マスターが腰のエプロンで手を拭いてから、名刺を差し出した。
一定の決まりの枠のなかに収まったお洒落なデザインに手書きで付け足された字面に眼がいく。
マスター目当てに来てた女の子には渡していなかったはずだ。
マスターはここでは営業に徹しており、プライベートと仕事をきっちり分ける人間だと見受けられていた。
ゆるいようで、しっかりしている。
わたしが果たしてもらってもいいものだろうかと躊躇していると、マスターがわたしの手を掴んで半強制的に名刺を握らされる。
マスターは適度に強引な人だった。
ふと、会った時の言葉を思い出す。
『追う側と追われる側』
「マスター……、わたし……マスターのこと決して嫌いじゃないんですけど」
そこで一旦、ことばを区切った。
わたしの横にはお酒とソフトドリンクが置いてある。
マスターが酒に慣れないわたしにも少しずつ慣れるように、と、いつも適当に作ってはソフトドリンクとセットにして置いてくれている。
「これをいただいてしまうと、マスターを一途に想う子にバレたら、いつか刺されてしまうんじゃないでしょうか……?」
かるくふざけて、なよっとして、しくしく泣く演技をした。
マスターはそれを見て、一度なんのことを言っているのかわからずきょとんとするも、理解すると吹き出して笑った。
「佐倉ちゃんを刺すような子、ねぇ……いるかねぇ…そんな子……。いるとしたらかなりの強者だわ。あー、もしかしてそれって、俺が守ってやるよって言われたい感じ?そういうフリ?乗らなきゃいけないフリ?」
そこで、おそらく先に来てたのだろうけど、ほかの店でふらっとしていた浅沼くんが戻ってきた。
浅沼くんのこのタイミングに、またマスターと顔を見合わせて笑う。
笑われたことに怪訝な表情を浮かべるも、瞬時に状況を把握して浅沼くんは口を開いた。
「あ、佐倉さんまたマスターに口説かれてんの?」
「マスターいい加減止めろよ。そろそろロリコンで通報すんぞ」
浅沼くんはわたしからマスターの名刺を奪い、その場で破った。
マスターは外国の人がやりそうなジェスチャーで、両手を広げて肩を竦め戯けてみせた。
「あーあ」
「資源を無駄にしてはいけないよ、徹くん」
「テメーのクソでも拭いてろ」
「やだ、浅沼くん。クソだなんてそんなことば下品だよ」
「え」
「てか俺、もう佐倉ちゃんの携帯にアドレス登録させてもらってるけどね」
「「はい?」」
カウンターテーブルに無防備に置いていた自分の携帯を思い出して、そちらを見れば、わたしの携帯は最早、マスターの手のなかにあった。
マスターは、思っている以上に相当なやり手だった。
「あれ、わたしのロック画面をどうやって……」
「そんなんロック画面開いているところを何度か見ていればわかるでしょう」
「わかるもの……ですかね?セキュリティ問題が……」
「佐倉さん、マスターの前で隙を見せたらダメだよ」
「……学びました」
呆れたような浅沼くんの声に、わたしも同様に同じ声色で返す。
「佐倉ちゃん、名刺渡しても絶対、登録しなさそうだからさ~」
「カバンのなかに入れっぱなしとか、悪ければ、ここに置きっぱなしにしていきそう」
マスターの視線がなぜかわたしに痛く突き刺さる。
「あー……」
あー、じゃないよ浅沼くん。なに、その同調と共感。
「佐倉ちゃんの携帯で徹の着信音、ダースベーダーのテーマにしとくわ。ってか、ふたりいつ連絡先交換してたの。俺知らないんだけど。仲間はずれよくない」
「あ、わたし基本マナーモードなので、バイブしか伝わりません」
「ええー、俺のはアルマゲドンの主題歌にしたのにさぁ」
「I Don’t Want To Miss A Thing?」
「佐倉さんの安眠妨害すんなよ。マスターはなんの悩みもなく、安心して目を閉じて眠りなよ、そして起きるな永遠に」
そんな会話をしたは良いが、マスターからのメールも浅沼くんからのメールも、稀にしか来ない。
もちろん、電話もない。連絡先の交換なんてそんなものだ。
ときどき来るメールですらも他愛のない事柄なのに、時候の挨拶のような丁寧さと言えばいいのか、他人行儀というのか、無機質というのか、変わっている。
「今、なにしてるのー?」とか「今日はいい天気だね」とかじゃない。
プライバシーというものがあるから、ふたりの文面には直接触れないでおくけれど、文面に愛想というものは皆目ない。
手紙を書いたり、それに返事を出したりする行為というのは、未来に繋がるのだろうか。
切れてしまえば終わる。
どちらかが一方でも切れてしまえば。
そんな儚い繋がりに重きを置いていない、ふたりらしい。
マスターと浅沼くんは外見的に似ているわけじゃないけど、変なところに共通点があって笑ってしまった。
「仕事柄さ、確実にみんなが盛り上がれる話題っていうのをいくつかもっているんだけど、そのうちのひとつを聞かせてあげようか?」
マスターが不意にそんなことを言い出した。
「どんな話題ですか?」
「アダルトビデオの棚の前、もしくはネットのアダルトサイトの前で、あなたたちはいったいどのジャンルに手を伸ばすか?っていうのね。これは飲み会とかで大人数がいる場でも役に立つよ。出身地と仕事の話とかばっかりでおもしろい話題がないなっていうときに、爆弾を落とす感じで提案すると、盛り上がる」
「ただ単にマスターの趣味じゃなくて?」
「一度騙されたと思って振ってみなよ。こういうアダルトネタは好きなやつのほうが多い。大人も子どもも、大半はそうだ。下ネタというか下世話な話題が好きなやつっているのはわりと多い。そういう話題は、世代や生活する環境が違って共通の話題がないときにいいよ。まあ、佐倉ちゃんはなんか次元がちがう感じするけど」
「べつにいやじゃないですよ。こういう話題、かまととぶるのもちがうし、アダルト話に潔癖を抱いているわけでもないし、ある程度年を経ると、普通ですよね」
「性癖と言うか、性の趣味趣向っていうのはつくづく人それぞれなんだなって勉強になるんだよ。『え、なんで縛るのが好きなの?緊縛プレイ?』とか、『リアルでやるつもりはないんだけど、痴漢ものにすごく興奮する』とか『足がながい女の子をジャケットで選ぶ』とか、みんな自分だけの好みがある」
「そうでしょうね。旬のタレントに酷似したアダルトビデオの女優さんとか観ていると思いますけど、需要と供給がじつにマッチしていますよね。みなさん、いろいろ『自分だけの好み』というものをお持ちなんでしょうね」
「似ているつながりなんだけど、この話題のおもしろいところはここからで、じつはなにかに似ていることに気付くんだ」
「へえ」
「たとえば、好きな音楽とか、好きな料理の味とかにすごく似ている」
「男はよくラーメンやカレーを引き合いに出すけど、この細かいディテールへのこだわりって半端ないんだよね。『豚肉は脂身がすべてだ』とか『ブタよりウシだ』とか『チキンのダシを超えるものはない』とか、『この季節には魚が三陸沖で』とか、もうキリがないんだよなぁ……」
「食通の人の嗜好を語るのとおなじなんですね」
「佐倉ちゃんがここに来たばかりのころ、なんで、ここの人たちは、音楽をジャンルでくくって話すんだろうって思ってたでしょう」
「えっ……なんでわかるんですか?」
「顔に書いてあった。音楽も食べものも、『なにがおいしいとかまずいとか言うのは、下品だ』と考える人がいるんだ。たぶんそれは、好みを語ることがセックスの好みを語ることにも似ていると無意識的にわかっているからなんだと思う」
「つまり佐倉ちゃんは、気持ちがよければそれでいいって思う刹那主義タイプだ、と俺は推測したね」
「ふーん……マスターにそこまで観察されているとは思いもしませんでした。なんていうか、ひとことでまとめると、きもちわるい」
「やめて。ふつうに傷つくからやめて」
「それじゃあ、わたしからも言わせていただきますね。これはよく言われていますが、グルメにこだわりがある方は、性的な探究心がすごくあるそうです。食も性も『粘膜』のなかの快楽ですからね。その快楽に溺れていろいろと追い求めているわけです」
「佐倉ちゃんから見て俺は、食べるものにこだわる男に見える?」
「マスターは、わたしの知らないレストランやカフェ、お洒落な飲食店をたくさん知っていそうです。もともとあらゆる方面に博識でいらっしゃるので」
「ずいぶん遠回しに言うなぁ〜」
「あ、ドラえもんも異様にどらやきにこだわりをお持ちですよね」
「ああ……たしかに……」
「浅沼くんはどうなんだろう……?食に興味があるのかどうなのか、イマイチピンとこない……」
「徹はなぁ……ああ見えてわざわざ遠出をしてでもおいしいものを食べに行くようなやつかもしれないね」
「チェックするポイントが増えましたね」
わたしと浅沼くんは、世間では『受験、受験』と騒がれる年頃であっても、受験勉強とはほど遠いままだった。
時間は、とめどもなく流れてゆく。
おたがい、自らのペース配分で進めていく。
自分の趣味に費やす時間のほうが多いけど、それも間違いではないのだろう。
会う頻度が増えるでも減るでもなく、月に二回ほど会えれば良いほうで、会えないこともあった。
マスターにはBARに行けば会えるけれど、浅沼くんには会えない。
最初のときに感じた、浅沼くんを探してまで会いたいという欲求には駆られないものの、浅沼くんが居ないBARは、ひどく味気なく感じてしまうのだ。
恋愛に現を抜かすと成績が下がると言うけれど、燃え上がることもなく、進行していくこの関係はなんと呼ぶのだろう。
まあ、成績に変動もない。
そんな顕著に変化が望まれる自分でないことはよくわかっている。
これは果たして恋なのだろうか、と自分に問いかけてみる。
いま思えば、その時点でだいたい、大方の人は気付くものなのだろう。
だが、わたしには経験がなく、わからなかった。
いっそ名前を付けてしまえる感情であれば、自分のなかでも落としどころが出来るのに。
いちばん良いのは、目の前の物事に一途に取り組むこと。
そうすれば、いずれと結果が見えてくるから。
たとえ、未来が見えていなくとも、なにが得になるかわからなくても、とりあえず、一生懸命に取り組めば良い。
わたしは目の前に置いてある参考書や教科書を取り、ノートへとペンを走らせた。
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