第3話 変曲点

わたしは、希望していた大学に難なく無事合格することができた。


『合格』の二字は、わたしに安堵をもたらしはしたけれど、感動をもたらすことはなかった。


浅沼くんも、言わずもがなという感じではあるが、もちろん合格していた。



当初から浅沼くんとわたしの志望していた大学は違っていて、彼とわたしの距離はまた遠くなった。


物理的に近づいたこともないけれど、実質的に遠くなってしまったことだけはわかった。


わたしたちはおたがいに、距離が縮まる環境を作り出す努力をしていなかった。



ゆえにわたしは、本当に浅沼くんのことが好きなのか、よくわからないままだった。


自分の気持ちにすら、確信が持てなかった。


自分の気持ちだからこそ、行方がわからないのかもしれない。


他人のことだと、まるで透けるように見通せるのに。


わたしは浅沼くんのことを考えずに、自分の将来のことを優先的に考えていた。


恋愛にうつつなんぞ抜かしていられない。


それは建前で、本音は理解しがたい、制御できない自分の気持ちから逃避していた気がする。


将来すらはっきり見通すことができなかった。


たとえ思いどおりになったとしても、自分の何かが満たされることがないことは分かりきっていた。



「浅沼くん。大学、受かったんだってね。風の便りで知りました。おめでとうございます」


「ありがとう、そちらも大学合格おめでとうございます。こちらも風の便りで知りましたよ」



淡々とした会話をした。


合格したという結果を手にしても、言うほどの努力もなく、無理もなかったから、感動もなかった。


ただ、時の流れに乗らざるをえなかった、そんな気がした。


テレビでは合格、不合格で騒ぎに騒いでいる人々が映る。


落ち込んだり、喜んだり。


伝わってくる喜怒哀楽。


それをただ淡々とした気持ちで眺めていた。


自分には、理解できない感情だ。



なんのために大学へ行くんだろう?



とくに、『これを学びたいから大学へ行く』という明確な目的や目標もなく、ただベルトコンベアのように、流れるままに進んでいた。



目の前のやるべきことを淡々とこなすだけ。未来の設計図も立てずに。



周囲の人を見れば、大学受験のための勉強の計画表を立てども、未来の設計図を立てている人はあまり見かけない。


大学へ入学することをステイタスとしていたとしても、未来の設計図を立てていたとしても、それはひどく陳腐で、脆い。


エスカレーター式にのぼっていくことが、そんなに大切なのだろうか。


気の赴くままでいることは、だめなのだろうか。



高校を中退したわたしと仲の良かったあの子は、大学へ進むというこの息苦しいレールを早々に逸していた。



レールというのは、体裁を安定させる術でしかないのかもしれない。



彼女は鳥かごのなかから早々に脱出しているような気がする。



現在は当時から付き合っていた難ありの彼氏とそのまま結婚し、夫婦共働きで子どもを育てている。



そう、彼女には子どもが出来た。



子どもが出来ると女性は変わるというけれど、それは本当で、彼女にも母性が見られるようになった。


そんな彼女にわたしは心底ほっとしていた。


酒や煙草もしばらく絶ったらしく、以前は痩せ過ぎだった体型は、ふくよかになっていて、それと同時に雰囲気も丸くなっていた。


わたしは大学生になり、それをきっかけに親もとを離れて一人暮らしをはじめた。


わたしの新居での初めての来客はもちろん彼女だった。


彼女は喜んで遊びに来てくれた。


正確に言えば、彼女とその子ども。



わたしは、彼女に問う。



「仕事の調子はどう?」


「順調だよー、でも残業とかあって、この子を保育園に預けっぱになるときあるんだよね」


そう言って彼女は子どもの頭を撫でる。


「わたし、バイトと授業入ってないとき面倒みようか?」


「お願いしていい?で、大学のほうはどうなの?」


「とくに……なにもないよ」


大学での生活を回想するが、別段話題に匹敵するものが見当たらなかった。


「オトモダチ出来た?」


「ひとのノートぶん捕ってくやつね。あとは、あの独特でうるさいテンションの人間が構内はびこっているくらいかなぁ……。高校のときと、さほどなにも変わらないよ。これが世間で言う学生ノリなんだなぁって身をもって体感した」



ふたりで笑いながら子どもの真新しい皮膚の弾力ある頬をつついたりして、そんな会話をする。



「それで、あの人とはどうなったの」


「あの人って……、浅沼くんのこと?」


「そうそれ」


「それって……」


「あの人とは辞めたほうがいいと思うよ」



どんな友だちに話しても、そう言われる。


だから、必然とだれにも話したくなくなる。


それでも話さずにはいられないのだけれど。


話さなければ、どんどんと孤立していってしまう気がする。


同調されたいわけでも共感されたいわけでもないけれど、そんな自分の複雑な感情に挟まれてしまい、苦しくなる。



べつに浅沼くんとわたしのあいだには、なにもない。


なにもないから、そのように言われるのだろうか。


他人は盛り上がりを望むから、さらなるこの関係の進展を望むのだろうか。


それは娯楽の一環として?相互的な気持ちがなにより大切なのに?


他人に惑わされるの?



浅沼くんとの関係に進展なんてあるのだろうか。


進展があったとして、いったいどんなふうに変化するのか、想像もできない。



そして、なにより身近にいる信頼できる彼女に浅沼くんのことを言われることが、わたしにはとても胸に響いてくる。


それがたとえどんなことであっても、わたしに影響を与える。


だからこの話題のときは、目を伏せて笑うしかない。



わたしは、浅沼くんとどうなりたいのだろう。


わたしは、なにを望んでいるのだろう。



ぜんぜん違う生活を営んでいるのに、どこかで交差する点と点がある。


冗談で済ませてしまえる境界線も、存在する。



彼女とふわふわとした会話をしながらも、つながりとは何かを頭の片隅で考える。



わたしの指を握る彼女の子どもとわたしはつながっていると言えるんだろうか。



子どもの手はとてもあたたかくて、わたしの胸まであたたかくなった。



時間は、絶えず同じようにくり返している錯覚に陥る。


しかしながら、同じ時間は二度とは来ない。


時間は戻って来ないし、時間を巻き戻すことも出来ない。


ゲームのようにリセットはきかないし、セーブも存在しない。



おだやかさは、退屈なのかな。


孤独であれば、自由なのかな。



大切ななにかを失くさずにいれるのなら、くり返しもわるくないと思う。


でも人は愚かな生きもので、一度失くしてしまわないと、ほんとうに大事な想いに気付けないものだ。


頭でわかっていることと、経験することは違う。



過去には戻ることが出来ない。



人の流れのなかというのは、移ろうものばかりだ。


人も時間も同様に流れてゆく。それはまるで流浪の民のようだ。


とどめておけるものなんて、なにひとつ無い。



自分のこころでさえ、とどめておける気がしない。



あらゆる思いのなかで、「愛」は「欲」というものに変貌して、歪んでゆく。



なにかが汚れてゆく。



傷つけることなく、触れることは出来ないもどかしさ。



すべてが遠く感じて、すべてが傍観者になってゆく感覚にのまれる。






「なあ、佐倉ちゃん、俺はけっこう、お客さんのことをあたたか〜く見守っている人間なんだけど、『この人はアルコールは飲まないんだ』というのは、どうしてもチェックしてんだよね。佐倉ちゃんはその部類の人間だ」


マスターが何を言わんとしているのかわからず、首をかしげる。


「何度か来店してくれたお客さんに、『たしか……お客さん、アルコールは飲まれないんですよね』と、メニューとかを出すとする」


マスターがカウンターの下から厚い黒い革地のしっかりしたメニュー表を取り出した。


この店にメニューなんてあったのかと目を丸めていると、マスターは軽くウインクした。


「あくまでさりげなさを装ってそんなふうなことを言って、お客さん本人も”あ、そうなんです”と安心してリアクションしてくれて、その連れの方も”ホッ”とした表情を見せてくれるから、俺はそんな表情が好きなんだよね」


「わたし、まずメニュー表の存在を知らなかったんですけど。マスター差し出してくれていませんよ」


「佐倉ちゃんとの出会いにメニュー表はいらなかったようだ」


「それはいったいどういう意味ですか……?」


「ん?べつにお酒を飲めなくてもBARに来ていいよってこと」


「はあ……」


「佐倉ちゃんって酒を飲めないことに対して、すごくこう…なんていうか、考えているようだから。酒はまあ、体質もあるし無理をすることでも何でもないんだ」


「それはよく言われます。でも適度に飲めたほうがきっと楽しめますよね」


「それはそうだけど、周りにあわせることはないんだよ」


マスターはいつもみたいに適当にソフトドリンクを出してくれる。


「身辺雑記みたいなエッセイをよく書く人間の本とかを読んでいると、まったくお酒が登場せずに、お菓子やコーヒーがよく出てくるものがある。そういう場合には、『あ、この人もお酒を飲まない人か』と推測することができる。まあ、全体的に見てみても、若いよね」



カウンター横のマスターの趣味がよく現れた本棚を眺める。


ここの本棚には、エッセイみたいなものは置いていないようだが、マスターはそういった本もチェックしてはいるようだ。


「詩人のお酒を飲む人間の場合は、よく作品のなかに、そのままお酒が重要アイテムとして登場したりするけれど、谷川俊太郎の文章には本当にお酒が出てこないなあとずっと気になっていた」


「すると谷川俊太郎が三好達治との思い出について書いた文章で、『酒のおつきあいをできぬぼくは』とあったのを発見して、『ああ、谷川俊太郎は飲まない人なんだ』と知ったんだ」


「へえ……」


マスターの話から新たな知識を得る。


谷川俊太郎がお酒を飲めなかったなんて、知らなかったし、知ろうともしていなかった。


「村上春樹は、エッセイでお酒についてよく書いているんだけど、同じような飲食店をやっていたから、”わかるなあ”としょっちゅう思うんだよね」


「ああ、村上春樹さんはBARかなにか経営されていたんでしたっけ」


「そうそう、音楽にも造詣が深いしね」


「たしか自宅では、スミノフ(ウオッカのこと)をオン・ザ・ロックでレモンをたくさん絞り入れて飲むということを書いていたんだが、この『スミノフ』という銘柄に、『だよなあ』と思ったんだ」


「村上春樹さんは、通っぽいですよね」


「スミノフはどこにでも売っている普通の安いウオッカなんだよ。もう少し安いウオッカもあるけど、そこまで価格を落としてしまうと美味しくないし、お客さんに出すときは、もうちょっと上のランクのウオッカにすべきなんだよね」


「まあ自分が自宅で飲むにはこれかなって感じの銘柄なんだよなぁ」


マスターが、たくさん並んだ酒の列からスミノフの瓶を取り、わたしの目の前に置いてくれる。


スタイリッシュでシンプルなデザインだ。


「このスミノフはどこにでも必ずあるようなもので、シンガポールやアルゼンチンのBARに行っても、スミノフのオン・ザ・ロッックにレモンを搾り入れたものは普通に注文できる。自宅でリラックスして飲むのとまったく同じものを海外で普通に飲めるって、じつは大切だと思わない?」


わたしに同意を求められても、わたしはお酒を飲まない人間なので、あいまいに相づちを打つことくらいしか出来ない。


「あと、村上春樹がたしかイタリアの田舎ですごく美味しいワインを安く見つけてケースで買い求めたというエピソードを書いていたことがあって、これも”わかるな”と、すぐに思ったんだ」


「完全な想像なんだけど、日本で買ったら3~4000円くらいのワインが、1000円弱くらいで見つかったんだと思う。ヨーロッパの田舎ではそういうことがたまにある、という話をワイン好きからよく聞くんだ」


今日のマスターは、ひたすらお酒について語っている。


マスターはお酒の好きな人間である。


「それで『あ、これはケースで買っておこう』って、ついつい思っちゃったんだと想像するね。これはおそらく、飲食店を経営した経験があるからだと思う」


この店は、ワインもずいぶん種類豊富に置いてある。


ワインに詳しくないわたしにも、これは高そうなワインだなとわかるようなものもある。


マスターがお酒の話に花を咲かせているのを機に、お酒の陳列風景を片っ端から眺めていく。


「普通のワイン好きの作家なら、わざわざケースで買わなくても、そのときどきに、ヨーロッパや東京の店頭でおもしろそうなワインを試すのを好むと思うわけ。運ぶのも大変だしさ。でも、ついつい『仕入れ』の気持ちで買っちゃうんだよなー。これはお店をやっている人間は、飲食店に限らず、みんな”わかるなあ”だと思う」


「見つけられたときは嬉しいものなんだよ。数あるなかに、光るものを見つけたときの気持ちってさ」


マスターは自分でつくったお酒を飲みながら、どこか遠くを眺めてそう呟いていた。


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