誓と護の坩堝-セイトゴノルツボ-

藤野 郁

第0話 静寂の在処

 崩壊ほど一瞬で終わるものはない。どんなに多くの犠牲を払い、多くの困難で造り上げられたものでも、壊されてしまえば簡単には元に戻せない。和平が結ばれてからの二百年も過ぎてさえしまえば、歴史という積み重ねの前では刹那でしかない。


 嵐の前に訪れる静寂しじま。平穏に満ちた小さな国──カヴァレッタ民国は訪れる波乱の足音に気づかないまま、平和の横を通りすぎていく。


「お嬢様はおいくつになられたの?」


 おろしたてのドレスを身にまとった愛らしい少女に一人の老婆が声をかける。老婆は少女の目線に合うようにかがみ、微笑みを浮かべた。少女は自らの手を引く女性──恐らくは少女の母親だろう──を見上げて、こてんと首を傾げてみせる。照れ臭いのかしばしもごもごとしていたが、両手をつきだして片手をチョキ、もう片方をパーにした。


「……ななつ」

「まぁ、もう七歳なのね」


 老婆は大袈裟に驚いてみせると立ち上がって少女の母親と世間話を始める。少女は父親と思われる男性に名前を呼ばれ、走り出した。この日は少女の両親にとって素晴らしい日であったが、それよりも何よりも少女自身にとって特別な日である。それは年に一度の──そして少女にとって七度目の、誕生日。

 両親は誕生日パーティーを開き、大勢の人達に愛娘をお披露目した。招待された沢山の大人達が訪れ、少女を祝福する。


 誕生日パーティーでは、料理こそ少女の好物が並ぶ。しかしその日、少女と同じくらいの年端の子どもは一人も居なかった。そのためか少女は大人たちの会話についていけずに暇を持て余していた。そうして日暮れにこっそりとバルコニーに出る──少女が屋敷にいた者の中で誰よりも早く死を呼ぶ音を聞いたのは、言うなれば必然だったのだろう。


 この世に生を受けてから漸く七年を数える少女は今、歴史の境目に立っていた。突然の出来事に心臓が脈打ち、恐怖が少女を包む。

 鳴り響く銃声。ヒトは身を守るすべもなく、滑稽なほどに小さな弾丸一つで命を奪われていく。それを皮切りに、沢山の騎士がなだれ込んで殺戮の限りを尽くした。非情な剣が空気を裂いて命の詰まった赤い花を散らす。

 数分前までの幸せに満ちた時間は断ち切られ、理不尽な死が笑みを浮かべた。


 遠くで、そして近くで、逃げ回り命を乞うヒトの叫声が遠吠えの如く響く。再びの動乱のいななきを、誰もが悲鳴の中に聞いた。危機を覚えた大人たちが死に飲み込まれないよう逃げ惑う──些か気づくのが遅すぎたのかも知れないが。


 豪華絢爛、輝きに満ちていた世界はたった今壊されてしまった。焦げ付いた独特な硝煙の香りと、誰かの流した血の臭い──嗅ぎなれない匂いが漂い、鼻にこびりついて離れない。先程まで笑っていたはずの老婆は地に伏して虚空を見つめている。


「逃げるのよ」


 近づいてくる死の足音を警戒しながら、母親が少女に闇色の布を被せる。少女が布の合間から空を見上げると、太陽は疾うに沈んでいた──それはまるで今から起きる出来事を見たくないというかのように。太陽という強い光を失った空は、夜が帳を降ろして不穏を語っている。小さく輝く星が瞬いて、泣いているかのようだった。


「でも……!」

「北の森を抜けて、国境を越えるのよ」


 捲し立てるようにそう言って、無理矢理少女を立ち上がらせる。足のすくんだ少女の腕を引いて、裏手の出口まで走った。背後を振り替える少女は刻々と迫る死の姿を見る。恐怖で足がもつれたが、手を引く力の強さで体勢を立て直し足早に走った。逃れることのできない死から少しでも遠ざかるように。

 見慣れたはずの廊下が知らない場所のようにも思える。そしてこんなにも長かったのだろうか──走っても走っても果てにたどり着くことができない。緊張と疲労で息が上がり、喉が乾いて血の味がする。苦しみに口を開いたのとほぼ同時に、裏手の出口まで来ることができた。


「いい? 絶対に戻ってきては駄目よ」


 そう言った母はその瞬間に物言わぬ屍と化し、自らにのし掛かる。脇腹から流れ出る血が思考を奪い、何が起きたのか分からない。何か乾いた音が響いた気がした。しかし遠ざかる意識では正確に思い出すことができない。


「おい、生きているのか?」


 少女は霞む視界の中で、自分を覗き込み問いかけてくる何者かを見る。その顔も姿も、はっきりと捉えることが出来ないまま、少女は身体にすがりつこうとする意識を手放してしまった。遠くで何かが崩れ行く音が儚く響く。


 その日、数多くの命が失われ、世界は悲しみに心を傾けた。そして悲しみは怒りへと変容し、その矛先は悲劇を生み出した者達へと向けられる。世界はカヴァレッタ民国を襲撃した彼ら──魔族に報復を返した。力で劣る人々は数と知略で魔族を圧倒し、多くの魔族とその王を討ち取ることに成功する。魔族にも生まれた怒りは憎しみへと姿を変え、魔族が新たなる王──次代の魔王を擁立すると更なる報復が返される。

 カヴァレッタ民国の悲劇から数年の間、やられてはやり返しの応酬が続いた。それは終わることを忘れ、憎しみは宿怨へと変わり、そうして魔族と人はお互いを怨むことだけを考えることとなる。


 悲しいかな、それは悲劇から十年経った今でも変わらない。

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