第1話 入学式


-この世界には不思議な石がある。手にした人間に力を与える奇跡の力。


 それはある日、空から突然落ちてきた。無数の煌く小さな石。

 人はそれを<星の石>と名付け、この石がどこから来て、どんな力を秘めているのか研究するため、人々は研究機関を創設した。この石は、水や油、火や電力、刃物や銃器などを駆使しても砕ける事も、溶ける事もなかった。


 だが、とある研究者が発見したのだ。星の石は、人の体液でのみ溶解するというとこ。そしてその溶解した体液の持ち主に、その石の力が宿る事・・・・・・。

 

 それを知った人々は、この力を人間の躍進のために使えないかと模索した。けれど、研究が進むにつれその力のデメリットも見えてきた。


 それは、石の力を使い切ると持ち主は死んでしまい、一冊の書物にされてしまうという事。

そして持ち主が書物になった石は、また持ち主と融合する前の<星の石>に戻る事。


 <星の石>を戦争や内戦に利用する国。石の力を危険視し、使うことを禁じた国。日本政府の動きは後者だった。政府は国内の<星の石>を特定の場所で厳重に保管しようと回収を始めた。だが、闇取引などで回収しきれていない物もあった。


 集められた<星の石>は特定の場所。星の石研究機関<ツァラトゥストラ>内部と、星の石研究者養成学校<定命学園>にあるとされる。

 


◇◇◇



 春の朝の暖かな陽射しが無数の窓から差し込み、僕達がいる全寮制の星の石研究者養成学校、定命学園ていめいがくえんの広い体育館を照らしている。今日はこの学園の入学式。僕、一場春夢いちじょうしゅんむは新入生として、綺麗に並べられた椅子に座って開式を待っていた。

 一緒に開式を待っている他の新入生も、これからの学園生活に希望を抱いているのだろう。瞳は一様に輝いている。僕も同様に不安と希望を心に抱きながら座っている。

 まだ開式しには時間があるようで、新入生や在校生達が小声で喋っているのが聞こえてくる。僕も勇気を出して左隣に座っている黒髪にシルバーフレームの眼鏡をかけた男子に声をかけてみる。


「ねぇ、緊張しない?僕、すごいドキドキしてるんだけど。ここの倍率高かったし入れるか不安だったど、ギリギリ入れてホッとしたんだよね。」

「・・・・・・俺はさほど緊張なんてしてない。入学式なんて学長とかの祝辞を聞くだけだろ。」

「そ、そうなんだけど。なんか緊張しちゃって、アハハ・・・・・・」


 彼は顔をこちらに向けず、眼鏡のレンズ越しに鋭敏な目だけを動かし僕を見据える。少し呆れられたような感じで返されてたじろいでいると、右隣の茶髪の男子が明るい声で話し掛けてくれた。


「そいつ、合格発表と同時に出された試験の成績順位見てからずっと不貞腐れてるんだよ。首席で合格したかったのに次席だったから」

「おい、余計な事喋るな馬鹿」

「次席でもすごいと思うんだけど・・・・・・」


 人懐っこそうな茶髪の男子はどうやら眼鏡の男子と友人のようだ。快活に話してくれる彼は、眼鏡の男子に睨まれながら注意されるも、いつもの事と言わんばかりに気にせず、なおも楽しそうに話し続けてくれる。


「コウシこそ、せっかく話しかけてくれた奴に冷たく当たるなよ。ごめんなぁ。こいつ無愛想だけど根は良いんだぜ。あ、俺は竹馬友之ちくばともゆき。んで、こっちの人見知り無愛想眼鏡マンが雪中高士ゆきなかこうし。君は?」

「おい、変な紹介の仕方するなよ!」

「あ、僕は一場春夢って言います。」

「お前も着々と自己紹介を済ますな!」

「おう春夢な!これからヨロシク春夢」

「うん、こちらこそよろしく!」

「無視すんな!!」


 竹馬に笑顔で肩を叩かれた。叩かれた肩がじんわり痛いが仲良くなれて嬉しかった。そして竹馬が雪中に、僕に挨拶しろと催促をする。催促された雪中が眉間に深い皺を刻みながら深い溜息をついた後、ようやく僕に自己紹介をしてくれた。


「雪中高士だ。よろしく」

「うん!よろしく!」


 そうこうしている内に、開式が始まるという放送が流れ、体育館内にいる僕たちを含む全校生徒が一気に静まり返った。入学式早々、友人が二人出来た事に内心嬉しくて堪らなかった。

 入学式は厳粛に始まった。学長式辞が終わり、次に星の石の特別研究機関である<ツァラトゥストラ>の現責任者からの祝辞、在校生からの祝辞、新入生代表宣誓と順調に行われていく。

 新入生代表宣誓の時、雪中が悔しそうにムッとした顔で新入生代表を務めている男子生徒を睨みつけている。そんなに新入生代表宣誓がしたかったのだろうか。

 入学式が終わり、新入生から先に体育館を退場する。男女別に座っている在校生の間を通り出入り口へと移動していく中、ふと疑問に思った。それは新入生である自分たちは80人程いるのに対して、二年生はその半分居るか居ないか。三年生に至っては両手で数えれる程度しか居なかった事だ。受験の倍率は毎年とても高く、合否で合格し喜ぶ者より落ちて泣く者の方が多いと聞くにしては、先輩たちの数が少なすぎるのだ。三年間でこんなに減るほど授業が厳しいのだろうか?

 一年生はクラスが二つに分かれているようだが、雪中と竹馬も同じクラスのようで安堵した。担任になる教師に誘導されながら体育館を出て、一年生のクラスに向かっている最中、後ろを歩いている竹馬が話しかけて来た。


「なぁ、春夢。なんか先輩達の数、思ってたより少なくなかったか」

「うん、僕もそう思った。そんなに進級試験とか厳しいのかな・・・・・・」


 ぼそぼそ二人で喋っていると、雪中が少しだけ振り向いて話しに入ってきた。新入生代表宣誓の時よりは幾分か表情が和らいだが、それでも少し不満げな顔をしている。


「進級試験も厳しいらしいが、校則も厳しいと聞いた。校則違反をしたら即除籍になるらしい」

「じょ、除籍って退学の事?」

「だろうな」


 それを聞いた僕と竹馬はほぼ同時に両肘を掴み身震いした。あんなに勉強を頑張ってやっと入学出来たのに、校則違反で即退学なんて悲しすぎる。生徒手帳を貰ったらそこに記載されているであろう校則は舐めるように読もうと決意した。

 教室に入ると、ホワイトボードに紙が貼られており、紙には教室の机の位置に名前が記載してあった。その記載通りに着席するよう担任に促される。言われた通り着席すると、机の上には名札と一緒に、小瓶に入った小さな<星の石>が置いてあたった。それはクラスメイト全員の机に同じように置いてあり、全員が動揺を隠しきれずにいた。動揺している新入生に、担任の若い男性教師は教卓とホワイトボードの間に立ち、生徒達に向かって話し始めた。


「さぁ動揺するのもわかるが、皆ちゃんと席に着いてぇ。・・・・・・よし。初めまして、皆入学おめでとう。これから君達の担任になる一蓮托いちれん たくだ。よろしくね。それでは早速、その小瓶に入った星の石について話すとしようか。うん、驚いただろう。だがこれは我が校の決まりでね。毎年新入生には、一人一個ずつ星の石を贈与している。それは、これから君達は三年間にこの星の石に対しての勉強をしていく為に必要だからだ。君達はこの定命学園を卒業した暁には、国立特殊研究機関であるツァラトゥストラで働く事が決まっている。その為には、本物の星の石を一人一人が身近に所持し観察、勉強し、各々の研究に役立ててほしいからだ。だから、贈与された星の石を君達がどう扱うかは君達の自由だ。だが貴重な物だから大切に扱うように。この事について質問はあるかな?」


 まだクラスは動揺の色が濃い。けれど担任の言葉に挙手をする生徒がいた。雪中だ。一蓮は教室の一列目中央、教卓から一番近い席に座り挙手をしている雪中に質問を促した。雪中は立ち上がると、終始笑顔を崩さない一蓮を無感情の瞳で真っ直ぐ見つめ質問をする。

 

「どう扱うか自由と言われましたが。それはこの瓶から星の石を実際に取り出し、自分あるいは他人に融合させても構わないという事ですか?」

「うん、構わないよ。使い方は自由だからね」


 雪中の質問に答える一蓮に、今度は女子生徒が挙手をした。女子生徒の手は少し震えているように見えた。女子生徒は顎先までのやや短い波打つ薄茶色の髪を揺らしながらおずおずと立ち上がると、挙手していた手をもう片方の手で包むように胸元へ持っていき、不安を抱いた瞳で一蓮を見つめる。


「そ、そんな事をしたら被害者が出ます。石の力が消えたらその人は死んでしまうのに、危険過ぎます!」

「そう思うなら、使わなければ良い。もし融合し、石の力が消えて死んでしまった場合は除籍となります。この学園では、生徒全員は研究者の卵であり、実験体モルモットなのです。それを恐れて学園外に逃げようとした者も除籍になります。<退学>ではなく<除籍>というのは『学園を退く』のではなく、『死亡して除名される』からです。だからこの学園は全寮制なんだよ」


 一蓮の返答を聞いて女子生徒は唖然として次の句が出てこない。教室内の生徒は担任の言葉に戦慄し、顔が引きつり青褪める。今度は、教卓から右奥の席に座っていた長いツインテールの気の強そうな女子が、座っていた椅子を後ろに倒さんばかりの勢いで立ち上がり一蓮を睨みつけながら声を荒らげて抗議をした。


「何よそれ、そんな非人道的な事ありえないわ!ふざけないで下さい!!」

「そうだ!そんな事の為に苦労して入学した訳じゃない!」

「意味分かんねぇ事ほざいてんじゃねーぞ!」


 荒々しく抗議する女子生徒に乗じて複数の生徒からも野次が飛ぶ。一蓮はそんな事にも眉一つ動かさずに、にっこりと笑みを顔に貼り付けたまま、生徒に対してすらすらと答えていく。


「嘘じゃないさ。君達の同級生が居る隣のクラスも今同じ話しを担任教師から説明されているはずだよ。耳を澄まして聞いてごらん?」


 そう言いながら、一蓮は口元に人差し指を持っていき、「静かにして聞いてみろ」とジェスチャーをした。その一蓮の行動を見て、クラス全員が口を閉ざし、教卓に佇む一蓮と反対側、生徒達の席から向かって真後ろに位置する隣室へ耳をそばだてる。すると今さっき自分達が言っていた以上の罵詈雑言が飛び交っていた。それを聞いて、担任教師のただの悪い冗談では無い事を察したのか全員押し黙ってしまった。


「ほらね?これでも信じられないと言うなら、放課後に隣のクラスの生徒に尋ねてみると良い。」


 だが、苦虫を噛んだような顔で沈黙している生徒達をさらに追い込むように、一蓮は言葉を続けた。


「皆で仲良く、三年間何事もなく全員で卒業というのも良いだろう。・・・・・・だけどね、卒業してツァラトゥストラで研究者として就職できるのは僅か成績上位の五名のみ。後はただの実験体になってしまうんだ。それでも君達は友達ごっこを続けていられるかい?」

 

 鉄の仮面を被っているかのような一蓮の変化のない笑顔は、最早生徒達に恐怖心しか抱かせない。お互いに顔を見合わせるクラスメイト達。その表情には恐怖と猜疑心、そして瞳からは仄かに芽生え始めた敵対心が、まるで針を刺しあっているかのように鋭く伝わってくる。


「先輩達の数が少ないのは皆、ライバルを一生懸命減らしているから。先輩達を見習わないと、君達の将来は使い捨ての実験体だ」


 一体どうすれば良いのか、困惑した頭では答えが出てこない。僕はただこの状況を理解しようとする事だけで精一杯で、呆然と座っているだけしか出来なかった。俯き手元を見ると、小瓶に入った小さな星の石が青白く輝いていた。




 教室での担任教師の一蓮からの学園や授業に関しての説明を終え、各々に配布された教科書等を鞄に詰め生徒達は教室を出て、これからの居住地である寮に向う。教室を出ると隣のクラスも全く同じ説明を受けたのだろう。入学式ではあんなに輝いていた瞳は今では暗く影を落としている。寮に行き、自室を整理すれば今日やるべき事はとりあえず終わりだ。疲れた。早く休みたい。でも、本当に疲弊していくのはこれからなのだろう。こんな事なら、受験に落ちれば良かった・・・・・・。

 陰鬱な思考に取り憑かれていると、後ろから竹馬が勢い良くもたれ掛かってきた。竹馬の隣には雪中が澄ました顔で立っていた。


「春夢!寮まで一緒に行こうぜ」

「う、うん」

「元気ねぇな。まぁ担任にあんな事言われたんだ、仕方ねぇけどな・・・・・・。でも入学しちまったモンは仕方ねぇさ。三人で協力して行けばなんとかなるって、きっと」

「なれば、良いけどな」

「高士はそぉーやって、すぅーぐ水を差すぅ。そんなんだから友達少ないんだぞ、お前」

「別に多ければ良いものでもないだろう」

「そうか?俺は多ければ多いほど嬉しいけどなぁ。春夢もダチはいっぱいいた方が良いよな?」

「僕は今までまともに友達なんていなかったから・・・・・・一人でも二人でも、友達が出来たってだけで、すごく嬉しい、よ?」


 僕が竹馬の言葉に答えると、なぜか二人とも歩みを止めてこちらを凝視した。気のせいか、二人の顔に哀れみが滲んでる気がする。素直に答えたのだけど、何か変な事を言っただろうか。竹馬に至っては若干涙が見える。


「・・・・・・そうか、そうかぁ。よし、これから俺が春夢のダチ第一号な!困ったらなんでも友之サマに頼るんだぞ!!」


 竹馬からの突然の友達第一号宣言。嬉しくて、嬉しくて、教室での事を忘れてしまいそうだった。自然に笑顔になり頬が紅潮する。


「う、うん!ありがとう!!竹馬くん」

「友之で良いぞ」

「と、友之くん」

「おうよ」

「高士はダチ二号な!」

「こ、高士くん」

「俺は、下の名前で呼んで良いなんて言ってない」


 勢いて下の名前を呼んで見たら、雪中には冷たく拒否されてしまった。友之とのやり取りで膨れたあがった幸福感が徐々に萎んでいく。調子に乗ってはしゃぎ過ぎてしまった・・・・・・。


「ご、ごめん・・・・・・」


 不快に思わせてしまっただろうと、謝罪を述べた。落ち込んでいるのが見るに耐えなかったのか、雪中は僕をしばらく無言で見据えると、息で地面を掘ろうとしている様な大きく深い溜息をした。


「・・・・・・・・・はぁぁーっ。まあいい、名前で呼びたきゃ呼べば良い」

「本当!?ありがとう高士くん!」


 嬉しくてつい高士に正面から抱きついてしまった。高士は僕の予想外の行動に驚き引き剥がそうとしてくる。でも引き剥がそうとする腕の力も僕を傷つけない程度に加減しているのが解り、余計嬉しくなって抱きつく力を強める。友之は高士を野次ってはしゃいでいる。


「アハハッ!高士ったら、照れてやんのぉ。春夢は男だぜぇー?」

「うるさい、これ剥がすの手伝え馬鹿!お前も急に抱きついてくんな!」


 校舎から寮を繋ぐ道の途中で戯れあっている僕ら三人を、校舎内から眺めている人物がいる事など知らずに。


 ***


 定命学園校内、学長室。学長、唯々田九諾いいだくだくはベルベットのカーテンを捲りながら窓越しに寮へ向う生徒達を眺めている。


「今年も沢山の生徒が入学しましたねぇ。あの中で誰が卒業出来るのでしょうねぇ。私は少々心が痛みますよ、藤公とうこうさん」


 学長室の長椅子に座っている藤公逆施とうこうさかせは、学長に話しかけられると手にしていたコーヒーの入ったカップをローテーブルに置き、学長に微笑を返した。


「なに、毎年の事です。私はもう慣れましたよ。唯々田さんこそ、今年度は貴方にとっては特別な生徒が入学されたんでしたね。」


 藤公がそう聞き返すと、唯々田は満面の笑みを見せ、贅肉を溜め込んだ体を揺らしながら藤公へ歩み寄り、対面側のソファーに腰掛け自慢げに話し始めた。


「えぇ、そうなんです。とても賢くてね、入学試験にも首席合格しまして。ほら、入学式で新入生代表宣誓をした彼ですよ。」

「あぁ、あの亜麻色の髪の。男の子にしては、とても中性的で綺麗な顔をしていましたね。体も細身で・・・・・・貴方好みだ。」


 唯々田に含みのある笑みを向けながら新入生代表宣誓をした男子生徒を思い返した。色白の肌に、肩に付くか付かないか程度に伸びた亜麻色の髪は癖がなく、照明の灯りを天使の輪のように反射させていた。穏やかな表情の似合う甘い顔立ちの彼は、きっと女生徒の注目の的になるだろう。彼を見惚れた女生徒達は、後退し始めた黒髪を後ろに雑に撫で付けた肥満体の中年男の学長と彼が、何らかの関係があるとは夢見も見るまい。


「いやはや、母親に似て綺麗に育ったもんですわ。」

「へぇ、そうでしたか」 

「えぇ、あの子の母親もそれは美人で―――」


 藤公と唯々田が話していると、扉の外からノックの音が聞こえてきた。唯々田が入るよう促すと、噂の男子生徒が扉を開けて入ってきた。「失礼します」と言って部屋へ入り、唯々田ににこりと笑顔を向ける。


「初日のガイダンスが終わったので、顔を出しに来ました。お邪魔でしたか?」

「いや、いいよ。調度お前の話しをしていたんだ。首席合格をしてくれて私も鼻が高いとね。新入生代表宣誓、ご苦労様。さぁ、こっちにおいで。お茶でも入れてあげよう」

「ありがとうございます」


 唯々田に促され男子生徒は二人に歩み寄る。唯々田は自分の横のスペースを手で軽く叩き、自分の隣に座れと支持する。男子生徒もそれに応じて唯々田の横に座った。それを確認してから唯々田は立ち上がり男子生徒の分のコーヒーを淹れに、すぐ隣の給湯室へと向かっていった。


「君は確か・・・・・・才子佳人さいしよしひとくん、だったかな」

「はい。藤公さんに覚えて頂けて嬉しいです」

「君はとても優秀だと、唯々田さんから聞いているからね。期待しているよ」

「ありがとうございます。期待に応えられるよう精進します」

「君はどうして、この学園に来ようと思ったのかね?」

「・・・・・・ここに入学して優秀な成績を出せば、あの人に、唯々田学長に認めてもらえるんじゃないかと思ったからです」

「そうか」


 藤公が質問すると佳人は伏せ目がち答えた。何かを察した藤公は、佳人に対してこれ以上その事を訪ねるのを止めた。しばらくして、中身から湯気の立ったコーヒーカップを手にした唯々田が帰ってきた。カップを佳人に手渡すと、唯々田はそのすぐ横へ腰を下ろした。二人掛けのソファーは佳人の体重に唯々田の体重が加わった事で、若干沈んみが深くなった。唯々田が座った位置がより深く沈んでいるのは言うまでもない。コーヒーを飲み干し、藤公は立ち上がる。


「それでは、私はそろそろお暇させて頂きますよ学長。ラボに戻らなくては」

「それはそれは。何も気の利いたことが出来ませんで申し訳ありませんでした。今日はお忙し中来ていただき、誠にありがとうございました。また今後共よろしくお願いしますね」


 唯々田が立ち上がりお辞儀をして、藤公を扉まで見送った。礼を言う唯々田に扉を開いた藤公は笑顔を向けて「もちろん、こちらこそよろしくお願いしますよ」と告げて廊下へ出た。扉を閉め、廊下を歩みだした藤公は、灰色のスーツの上着のポケットから携帯端末を取り出し、ツァラトゥストラにいる部下に連絡をした。程なくして、耳に当てた携帯端末から軽快な声が聞こえてきた。


『はぁあい、藤公総監督ぅ!こちら馬野養うまのようでございまぁすっ!入学式お疲れ様でした!もう直ぐラボにお帰りになられるんですぅ?』

「おや、養かい。ろうの端末にかけたつもりだったのだがね」

『いやいや、この端末は労の物ですぅ。労の隙を見て、ちょっと拝借しましたぁ!』


 その直後端末の向こう側が騒々しくなった。労の叱り声が遠くから聞こえてきた。どうやら養が労に見つかった様だ。


『・・・・・・あっ!ちょっと待って労!今藤公監督と話し、んぎゃーーーっ!!』

『はぁっはぁっ・・・・・・養が大変失礼しました。どうかなさいましたか。』

 

 養の雄叫びの後、養から端末を取り返した藤公の補佐役を勤めている労が代わり、藤公に対応した。結構荒っぽい事をしたのか労の息が荒かった。毎回の事ながら、この二人は兄弟ながら性格が全然違うものだと、藤公は呆れ混じりに苦笑した。兄であり生真面目で無駄な飾りを一切身に纏わない馬野労うまのろうと、その弟であり奇抜な格好と行動で周囲から目立っている馬野養。例えるなら藤公の忠犬と駄犬だ。


「いや、どうという事はない。もう直ぐそちらに帰るよ。後、例の実験の準備をしといてくれ。帰ったら実行する。」

『畏まりました。被検体に指定などはございますか?』

「いや、適当に見繕ってくれて構わない」

『畏まりました。準備しておきます』

「あぁよろしく」


 通信を切り端末をスーツのポケットへ戻すと、藤公は足を止め廊下の窓から外を眺める。雲の合間から夕日が差し込んで、学園の樹々や校舎の壁を暖かなオレンジ色で照らしている。もう直ぐ日が暮れ、星が瞬く。星の煌きと石が呼応して良い実験結果が出れば良いが、と藤公は内心呟きながら廊下を再び歩み始めた。

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