君は誰より美しいから

「え? え? え?」

 いっちゃんが両手で頭を押さえながら、何やらぶつぶつと独り言を呟く。

「待ってくれよ、でも、これ、どう考えても、あれじゃねえか――」

「どうしたのいっちゃん?」

 いっちゃんのただならぬ様子ににーこが不安げに声をかける。

「にーこ、落ち着いて聞いてくれ。水木しげるが亡くなったんだよな?」

「うん、去年の十一月三十日に」

「今の季節は?」

「秋でしょ?」

 制服はブレザー。冬服である。

「あたし達の学年は?」

「一年生。どうしたのいっちゃん? そんな当たり前のこと聞いて」

「いいか、よく思い出してくれ。あたし達は、以前に水木しげるが生きていた時点での話をしてるんだ」

「うん?」

「あたしとにーこが出会ったのは、高校に入学してから、この空き教室で先輩と出会ってからだ。つまり今年に入ってからなんだよ。そのあたし達が、一年前に亡くなった水木しげるの存命時の話をしている」

「え? え? え?」

「そうなんだよ。これはつまり――」

「『サザエさん時空』……!」

「そう、世間の時代は変わっていくのに、人物の年代は変わらない――そんな歪んだ時空。あたし達はその中にいる!」

 驚愕の事実のように声高に宣言するいっちゃん。

「へえ、そうなんだ」

 僕は表情を変えず――そもそも僕には顔がない――に答える。

 がくり、といっちゃんとにーこが脱力する。

「先輩! なんでそんな当然のような顔してんだよ」

 そんなことを言われても僕には顔がない。

「いっちゃん、ひょっとして先輩は状況が呑み込めてないんじゃないのかな」

 にーこが擁護半分侮蔑半分といった調子で言う。

「『サザエさん時空』はわかるか? 先輩」

「いや、あんまり」

 いっちゃんとにーこは揃って肩を落とす。

「『サザエさん』はわかるよな。わかる前提で話進めんぞ」

 本当のことを言うと僕はのっぺらぼうなのでそういった記憶もないのだが、いっちゃんのことだからわかるように話してくれるだろうと高をくくる。

「『サザエさん』は今やってるアニメで見れば、登場人物は年を取らない。関係性も両親長女夫婦長男次女孫というのから変わらない。原作では結婚や出産のエピソードもあったけど、現行版のアニメではそういったことは回想でしか扱われない。だが、作中で季節は変遷する。年中行事や季節ごとのイベントは必ずと言っていい程描写されるし、現実の季節と同じ進行をする。それでも登場人物は全く変わらない。成長はしないし、学年は上がらないし、出世もしない。何か変化がある時は、必ず一話内だけの出来事で完結して、終わりには元に戻る」

「うん。じゃあ僕達はそんな感じになっているということかい」

「それは違います。いっちゃんが話したのは『サザエさん』内の『サザエさん時空』です。一番有名な『サザエさん』から名前を取っているんですが、その実これには何種類もパターンがあるんです」

「それはもう『サザエさん時空』じゃないんじゃないのかい」

「ややこしいから全部一緒くたにして、一番わかりやすい作品の名前で呼んでんだ」

「例えば、連載の時期と作中の季節を合わせるんですが、実は一年の中の出来事をザッピングして描いているということにして、一年以上連載が続いても現実の季節と作中の季節が同じで登場人物に変化がないことに説明をつけるというパターン」

「他には作中では年代が進んでなけど、小道具や風俗なんかは最新のものに変わっていくパターン。これは連載が長いと起こり得る。連載開始時には携帯電話なんてものがなかったのに、最新話では普通にキャラクターがスマートフォンを弄ってるとかな」

「じゃあ僕達の場合は……」

 僕は事柄を整理しようとするが、空っぽの僕にそれは無理な相談だった。

「基本的な部分は、『サザエさん』と同じでいいんだ」

 いっちゃんが自分の発言を爆弾を扱うように慎重に選んでいる。

「『サザエさん』はあれで舞台は常に現代だ。明らかに狂ってるけど、あれで現代なんだ。違いは、一話完結形式じゃない――ってとこだな」

 言って、いっちゃんはぶるりと身震いした。

「どうしたんだい?」

「いやさ、マジで頭が変になりそうだぜ。自分達のこれまでの言動を、『一話完結形式じゃない』なんて言い出すのは……」

「わかるよ、いっちゃん」

 そういうにーこも青い顔をしている。

 そういうものなのかと僕は感心する。

 その、僕のなんとも言えない態度を見て、いっちゃんとにーこは小さく笑う。

「やっぱそうだよな」

「それでこそ先輩です」

「どういうことだい?」

 互いに笑いながら、いっちゃんとにーこはどう言うべきか考えているようだった。

「先輩は元から頭がおかしいってことだよ」

「先輩は人とは違う視点の――これは着眼点という意味ではなく――ものの見方をする人です。常識など糞食らえ。まともな倫理観すら持っていない。人間のクズです」

「だから、先輩がそうしていてくれたら、あたし達はまともでいられる」

「私達が理解の範疇を超えた事態に直面しても、隣で先輩がのほほんと構えていてくれたなら、きっと私達はどこまでも大丈夫なんだと思います」

 褒められているのか貶されているのかよくわからない。僕の評価というものはどうしていつもこうなのだろう。

「さて――だ。あたし達の場合は、恐らくは季節の流れが止まっている。夏服は着てないからな。それでも世間の情報は常に最新に更新され続けている」

「さっき言っていた、小道具なんかが最新のものに置き換わっていくパターンだね」

「そうですね。こうした組み合わせでも基本となるからこそ、『サザエさん時空』と呼ばれるんだと思います。私達には、時代の感覚がないってことだよね、いっちゃん」

「ああ。あたし達の感覚も常に最新版に更新され続けている。その時その時が過去を遡って常に今になる。それに加えて、過去にあたし達の間で起こった出来事は、過去に起こったものとして続いていく。一つ一つのエピソードが繋がっているという点で『サザエさん』とは大きく違う」

 いっちゃんはそこでこれでもかと真剣な表情を作る。

「それで一体――どうすればこの状態を解除出来る?」

 僕ははてと首を傾げた。

「今のままで、何か困ることはあるのかい?」

 いっちゃんとにーこは、揃って口をあんぐりと開け、僕の顔――ないのだけど――を穴が空く程見つめた。

「これは予想外だ」

「いや、予想しておくべきでした……」

 いっちゃんが勢いよく諸手を挙げる。

「ああもう! やめだやめ! 先輩と話してたら馬鹿らしくて話になんねえ!」

「うん、その気持ちはよーくわかるけど、一応先輩を諭そうと試みるのも大事だと思うよ?」

 そう言うにーこもげんなりとした顔で、完全にお手上げといった様子だ。

「いいですか先輩。『サザエさん時空』に囚われた者に、未来はありません。私達はいつまでも高校生のままで、こうして延々とくだらない話を続けることになります。それで――」

 にーこは溜め息を吐いて肩を落とす。

「いいんでしょうね。先輩は」

「何か問題があるのかな」

「はい! やめー! 議論にすらなりゃしねえ!」

 いっちゃんがもう自暴自棄のように両手を頭の上でひらひらと振る。

「仮にも前途ある若者が未来を奪われてるってのにそれだもんなァ! 過去がない奴には未来がなくても同じってかァ!」

「いっちゃん言い過ぎ」

「いや、僕は思うんだ」

 僕は表情を変えず――変えられる訳もない――淡々と続ける。

「この状況は、別段何も変わったことはない。僕といっちゃんとにーこが話しているという状況は、特に変わり映えもしないけど、異常で、おかしくて、楽しい状況だ。それが続くことには何の意味もないけど、何の害もない。ただ緩慢と続く日々の一ページを切り取って、貼り付けて、それをまた切り取って見ている。そんな程度のどうでもいい状況なんだよ、今は」

「どうでもいい――ねえ」

 いっちゃんは毒気を抜かれたように机にもたれかかった。

「確かに、『サザエさん時空』としては、今の状況はそれ程狂ってはいないと思います。外見上の時間の流れが止まっている訳ですから、進級したと思ったらまた一年生ということはないです。精神衛生上幾分マシですね」

「そういう問題かよ……」

 乾いた笑いを漏らしながらいっちゃんがにーこを小突く。

「まあ、あたし達が『サザエさん時空』を自覚した時点で、シリアスもクソもないのは事実だ。確かにどうでもいい。でも、一つ確実に言えることがある」

 いっちゃんは僕をびしっと指差す。

「この『サザエさん時空』が始まったのは、先輩がのっぺらぼうになってからだ。先輩がのっぺらぼうになったことと、『サザエさん時空』に突入したことにはなんらかの関わりがあるかもしれないし」

「ないかもしれません」

「いい加減だなあ」

「しょうがねえだろ。どうでもいいんだからさ」

 そう言ういっちゃんにはもう自棄の気はない。

 そう、確かにどうでもいいのだ。僕達が登場人物だと言うのなら、そんなことを気にしたら負けなのだから。

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