mission11-49 麒麟
ニヴルヘイムの自然の寒さとはまた違う、冥界の凍てついた空気がその場を支配する。
屍者たちの咆哮が、高くそびえ立つ覇者の砦を揺らす。
一人のヴァルトロ兵がソニアが無断で飛空艇を使用してどこかへ飛び去ったことと、そして
「ご苦労。でも今すでに一通り話した後なんですよ」
「へ? あなたは——ギャッ!!」
リゲルの右手が骨と化し、鋭い槍のように兵士の胸を貫く。兵士の意識が途絶えたのを確認すると、手を引き抜き、血に
「屍者の身体というのも悪くないですねぇ。疲れも痛みもない。そして何より、私自らの身体で戦える!」
骨がむき出しになった右手は、徐々にかりそめの肉に覆われて元どおりになった。
「自らの身体」とはいうものの、その肌の色は青白くくすんでいて、明らかに血の通った人間とは違う。
容姿は心なしかキリの部屋で最後に見た時よりも一回り若返っているように見えるが、おそらく屍者の生前の理想の姿を再現できる『屍者の王国』の作用だろう。
ルカはちらりとユナの方を見て小声で呼びかける。ユナは「分かってる」と頷き自らの腕輪に手をかざした。
今、リゲルの足元には奇襲を受けたフロワが倒れている。先ほどの兵士と同じく胸を貫かれ、息が浅い。このまま放っておいたら死んでしまう。一刻も早く傷を塞がなければ。
だが、ユナがクレイオの歌を歌おうとした瞬間、リゲルがパチンと指を鳴らした。するとユナの周りに全身黒色に染まった屍兵たちが湧き出す。
「カハハハハッ! 空気の読めないお姫様ですねぇ。十数年耐え忍んできて、ようやく悲願を成し遂げるという時に……!」
リゲルはさらに床に手をつくと、ぐっと指先に力を込めた。するとルカたち一行を取り囲むようにして続々と屍兵たちが湧き出す。
「義賊ブラック・クロス。あなた方との決着はお預けです。せいぜい屍者たちと遊んでいなさい!」
リゲルが指示すると同時、屍兵たちは各々の武器を振り上げて一斉に襲いかかってきた。
「くっ! 一体何がどうなっている? これは、ソニア・グラシールの技と同じ……!」
「手を組んだと言っていたでしょ。たぶん、能力の一部を委譲するなりしたんじゃないかな。キリとそこまで仲が良いとは思わなかったけどね……!」
リュウとターニャが敵の相手をしながら話す。アイラもまた、双銃を手に取り戦ってはいたが、普段よりも集中できておらず照準が定まっていない。
「アイラ!」
ルカが援護に入る。ふらつくアイラを支えてやると、彼女は憔悴した表情で礼を言った。
「大丈夫か?」
「ええ……でも、頭がついていかなくて。あの子、どうして裏切りなんて……」
決別したつもりだった。もう彼に期待しないつもりだった。
それでも、彼がヴァルトロを裏切ったという事実に、彼女自身が裏切られたような気持ちになってしまう。
ルカはぎゅっと唇を強く噛んだ。
「今は無理に戦わなくていいから、とにかく避けるのに専念して」
「……わかったわ」
気がかりではあるが、ルカは彼女の元を離れて戦いに戻る。アイラだけでなく、他のメンバーも屍兵の猛攻に圧され気味だった。マティスとの戦いで体力を消耗した後での奇襲で無理もない。
マティスもまた、”神格化”の力を使用した反動で体力を消費しているはずだが、相変わらずの威圧感でリゲルと対峙していた。
「キリ、いやリゲル。貴様のことはもとより信用したつもりはなかったが、まさかソニアと手を組むとはな」
「カハハハハハ! 私にとっても想定外でしたよ。彼とはずっとそりが合わないと思っていましたから。ですが、ここであなたを殺せば全てが報われるのでね!」
そう言ってリゲルは腰にさげた剣を引き抜く。「キリ」であった頃の彼は体格ゆえに剣を扱わなかったが、元はガルダストリアの軍部出身の叩き上げ宰相、本来並の兵士よりも剣技に
彼はもったいぶって剣を構え……にやりと口角を吊り上げた。
マティスに斬りかかると見せかけ、足元のフロワの手を刺し貫く。
「ああああッ!!!!」
悲鳴をあげるフロワ。
リゲルはわざと剣を捻るように回す。フロワに寄り添うようにしゃがみ込み、彼女が痛みに悶え苦しむのを愉しげに見つめながら言った。
「おお可哀想に。飴でも舐めれば痛みが和らぐんじゃないですか? カハ、カハハハハハ!!」
「下衆が……その不愉快な口を閉じろ、リゲル」
マティスはいつでも大刀を薙ぎ払うことのできる体勢をとっている。だが、リゲルがフロワの側にいるせいでそれができない。今攻撃すればフロワもろとも斬りつけてしまうからだ。
リゲルはにやにやと笑いながら剣をぐりぐりといじり続けていた。
「意外ですねぇ。覇王と怖れられたあなたにも慈悲の心があったとは!」
「……割に合わんからだ。今斬ったとて、屍者である貴様を滅することができるとは限らん」
「ご明察。私の身体はソニアが力尽きない限り何度でも蘇ります。そしてそのソニアは今はもう空の上!」
リゲルは嬉々とした様子で、武器を構えたまま動かないマティスを見上げた。
「さぁ、どうします? その大刀で自らの両腕を斬り落とすんなら、フロワを解放してもいいですよ? もっともあなたのことだ、私ごときに拘束される弱い部下など見捨てるのでしょうけどねぇ!!」
「…………」
マティスは表情こそ変えないものの、その大刀を握る拳を一層強く握った。
こうしている間にもフロワは痛めつけられ、傷口から血が溢れ出している。
「父上……!」
屍兵に組み敷かれながらも、ドーハは父に向かって叫んだ。
彼のいる場所から見える父のたくましい背中は、普段よりどこか寂しげで。
今すぐ助けに向かいたかった。力になれなくとも、側に寄り添いたかった。
どちらを取るにしても酷な選択を、父親だけに課したくはなかった。
だが、すでに体力が限界に達し、"神格化"も解けてしまっている。
ドーハだけでなくマティスに力を貸せる者は、今ここにはいない。屍兵たちの相手で手一杯だった。
マティスは無言のまま、片腕で大刀を掲げる。
振り下ろすその先には——
「陛、下……」
フロワの掠れた声で、マティスはぴたりと動きを止める。よく見ると彼女の肌の表面を鱗のようなものが浮き出て、指先は氷に覆われ鋭い爪の形を成している。
「私のことは、お気になさらず……! 自分で、けじめを……つけます、から……!」
「! まさか……」
フロワは痛みで額に脂汗を浮かべながらも、普段通りのおおらかな表情で微笑んだ。
「ええ、お別れです、陛下。これまでの人生……あなたと共に戦えて、幸せでしたよ……!」
フロワの橙色の髪が燃え上がるように逆立ち始め、彼女の全身を青い鱗が覆いだす。
「な、なんです、これは……!」
うろたえるリゲルを朱色の光を灯した瞳が射抜く。
「そういえば、キリ坊ちゃんには言ってなかったわねぇ……。当然、見せたこともない。だってこの技は……一度限りしか使えないんだもの」
「”神格化”か……!」
フロワが不敵に笑うと、彼女の周囲を渦巻くように蒸気が沸き立った。
もくもくと立ち上がる蒸気の中に見えるフロワの影は徐々に巨大化していき……人の背丈の五倍はある鹿のような四つ足の獣へと形を変えていく。
やがて蒸気の中から現れたその姿は、まさに神獣の中の神獣であった。
青龍のような青い鱗、玄武の甲羅のように硬質な急所を守る鎧、朱雀を思わせる真っ赤な翼、そして白虎のごとく鋭い氷の鉤爪。
悠然とたゆたう橙色のたてがみと、穏やかな瞳だけが、フロワの面影を感じさせる。
その場にいる誰もが、その美しい神獣の姿に見とれていた。リゲルや、屍兵ですらもだ。
フロワであった神獣は天を仰ぐと、高らかに吠えた。獣の鳴き声だが、なぜだか歌っているかのように心地よく響く。
「屍兵が……!」
ルカたちの目の前にいた屍兵たちは、神獣の咆哮にぶるりと身を震わせたかと思うと、漆黒のインクが剥がされるように白化していき動きを止めた。
「うっ、ぐ……! この、力は……!」
リゲルもまた、白化した片腕を押さえている。
「おのれ……! 私はこんなところで終わるわけには……!」
まだ動く右手で剣を持ち、神獣に向かっていく。彼の後を追うように、新たに現れた屍兵たちが続く。
だが、神獣がゆるりと首をもたげて再び
「フロワ……俺の背中を預けられるのはお前だけだった」
マティスはそう呟くと、自らの"神格化"を解いて大刀を背負った。そして口笛を吹くと、先の戦いで彼が開けた窓の穴のあたりに飛空艇が現れた。
「ちょっと待てよ! どこへ行く気だ……!」
ルカの呼びかけに、乗り込もうとしていたマティスは振り返り、くいと顎で飛空艇を指す。
「貴様らも来い。ここはじき崩れるぞ」
確かに、屍兵たちの襲撃とフロワの"神格化"で建物全体が不安定に揺れ、床にはところどころ穴が穿たれている。
「けど……!」
それではフロワを見捨てることになる。
ルカはそう言おうとしたが、言葉を続けられなかった。ドーハに背中を押されたのと……マティスが苦悶に表情を歪めるのを見てしまったから。
ルカたちは言われるがままマティスの飛空艇に乗り込む。
最後になったドーハは、飛空艇の前で未だリゲルと戦う神獣の方を振り返った。
「フロワ……」
ドーハの瞳の端から涙がこぼれる。
彼は、いや、彼とマティスは知っていた。
かつてフロワが自身の”神格化”のことを話してくれていたから。
神獣の頂点に立つ神獣。
その力の代償は、「共鳴者の理性」。
そして、一度”神格化”を発動したら最後、
……元の姿に戻ることは、ない。
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