mission8-28 母の罪
「お姉さんは、なんてお名前なんですか?」
「……ターニャ」
少年が「ただのウーズレイ」と名乗ったことに触発されてか、ターニャも自らの姓まで名乗ることはなかった。
ウーズレイは鉄格子の向こうで満足げに無邪気な表情で微笑んだ。怨霊だと思っていたことが申し訳なくなってくるくらいに。
「へぇ、ターニャって言うんですね。きれいな銀髪のお姉さん」
「これが、きれい?」
ターニャは訝しみながら絡まりあった髪をほどく。〈チックィード〉の身分になってからというもの、まともに髪を洗えていないし、栄養のある食事を食べていないのもあって、以前より髪はパサついて傷んでいる。
だが、それでもウーズレイは愛おしそうに鉄格子から手を伸ばしてターニャの髪に触れた。
「お姉さんの髪は、私のお母さんの髪によく似ています。お母さんもよくこうやって髪の毛をぼさぼさにして家に帰ってくるんです。でも、そういう時のお母さんの方がいつもよりにこにこしていて、なんだかうれしそうで、だから『きれい』だなって思うんです」
「ふうん……だから、あたしのこと『お母さん』だと思ったの?」
「はい。まちがえちゃって、ごめんなさい」
ウーズレイはしゅんとした様子で肩を落とした。見たところ、自分より四つは年下の子どもだ。いきなり扉を蹴られ、怒鳴り散らされたのはかなり堪えたのかもしれない。
「……こっちこそ、ごめん。あんなのただの八つ当たりだった」
気まずくなったターニャがそう言うと、ウーズレイはぱっと顔を上げた。
「いいんですいいんです! ちょっとびっくりしたけど、こうやって久しぶりに誰かと話せてうれしいですから」
「久しぶりにって……お母さんとは話さないの?」
すると、ウーズレイはけろりとした表情で答えた。
「ええ。だって、お母さん、もう五年くらい戻ってきてないですから」
「は……!? 五年って……!?」
てっきり帰りが遅いだけで、母親とは一緒に住んでいるものだと思っていた。だが、今の話でターニャはサラから聞いた"嘆きの回廊"の噂を思い出す。あの噂が本当なのだとしたら、彼の母親というのはここに閉じ込められた王の愛人で、彼女はすでに——
「ウーズレイ。君はお母さんが今どこにいるか分かっているの?」
ターニャの問いに、少年は首を横に振った。
「いいえ。ここに住むようになってすぐに、はなればなれになってしまいました。行き先は聞いてません。誰かに聞いてみようと声をかけても、みんな逃げてしまって、あなたみたいにちゃんと話を聞いてくれる人はいませんでしたから」
そうだろうな、とターニャは苦笑いする。こんな薄暗い地下通路で子どもの声がしたら大の大人でも不気味に思って当然だ。噂に言う、ここに閉じ込められた女が死んだ後も”嘆きの回廊”に響く不気味な声というのは、ウーズレイが通行人に向かって呼び掛ける声のことだったのだろう。
「それにしても、君はどうしてここに閉じ込められているの? 君は一体……」
かつて罪を犯した王の愛人が閉じ込められていた場所で、母親の帰りを待つ第一王子によく似た少年。わざわざ尋ねなくとも、彼がここに囚われている理由は想像できた。
ターニャが彼の口から聞きたかったのは、彼の罪の理由ではなかった。
彼自身がそれを知っているかどうか、だ。
だが、ウーズレイはターニャの質問には答えなかった。
「……もうそろそろ寝なきゃ、お母さんに怒られてしまいます。ターニャ、またここに来てくださいね。あなたとお話しできて楽しかったですから」
年不相応な大人びた笑みを浮かべて、ウーズレイは鉄格子のついた扉から離れてしまった。言葉を続けることを拒絶されているような気がして、ターニャもそれ以上は何も言わずにその場を去ることにした。
ウーズレイと出会ったことで、ターニャの過ごす日々が劇的に変わるようなことはなかった。
ただ、いつもの日課に「ウーズレイがいる場所に立ち寄る」というのが増えただけ。
朝早く起きて〈チックィード〉たちをせっつき、反逆者がいれば王の命に従って斬り捨て、夜は王の寝所に呼び出される。相変わらず身体と心をすり減らす日々が続いたが、以前のような自棄の念に襲われることは無くなっていた。
自分自身の救いようのない境遇よりも、気にかかること——ウーズレイがなぜこの地下倉庫に囚われているか——ができたからだ。
話せば話すほど、彼があんな場所に閉じ込められている理由が分からなかった。純真無垢で、気立てもいい。首に入れ墨が入っているわけでもない。第一王子にそっくりということは、王家の血筋を引く者なのだろうが、それであればなぜ第一王子と同じ待遇で城内に住めないのか。
何より、ウーズレイはどんな話をしてもターニャのことを否定しなかった。どんな姿で訪れても「今日もきれいですね」と言い、誰にも褒められることのない彼女の仕事を肯定した。彼と話していると、自らの罪が洗い流されていくような気がした。
だから、自分も彼に何か返してやれないかと思うようになったのだ。
この時のターニャはまだ自覚していなかった。あれだけ手放そうとしていた自らの意志が、ウーズレイの存在によって再度芽吹こうとしていることを。
「”嘆きの回廊”に閉じ込められていたという王の愛人は〈チックィード〉だった……それは間違いないんだね?」
「ああ、俺がこの手で首を斬り落としたんだから間違いねぇ。彼女の首にはちゃんとお前らと同じ桜色の入れ墨があったよ」
冷徹に任務をこなすターニャはいつしか〈チックィード〉の見張り兵士の中でも隊長クラスにまで出世し、〈リリーベル〉の身分のエルロンド城兵士とも顔が利くようになっていた。本来〈チックィード〉の奴隷兵士たちには〈リリーベル〉の兵士からの風当たりが強いのだが、中にはターニャが元貴族ということを知っていて、身分を剥奪された彼女に対しても親身になって接してくる兵士もいたのだ。
それだけ、城内にも王政に対して不満や疑いを持つ者たちが増えていたということなのだが、当時のターニャにとってそんなことは二の次だった。
それよりも、話を聞いて回るうちようやくウーズレイの母親と思わしき女の処刑を担当した兵士に巡りあえたことの方が重要だった。
「彼女はどうして殺されなければいけなかったの? 確かに、〈チックィード〉が〈カメリヤ〉以上の身分の人間に触れることはエルロンド国法で禁じられているけど」
法で定められているとはいえ、実際は黙認されている。何しろ、ターニャの身体に触れる王自身がそれを破っているのだ。愛人になること自体は死刑に処せられるほどの罪ではないはずだ。
兵士はきょろきょろと周囲を見渡したのち、声を潜めてターニャの耳元で囁いた。
「……どうやら毒を盛ろうとしたらしい。第一王子の食事にな」
兵士曰く、その日は第一王子の二歳の誕生日で、豪勢な料理やケーキを作ろうと、厨房には普段以上にたくさんの人々が出入りしていたのだという。女はそこに紛れて、ケーキの盛り付けに用意された第一王子の好物であるエルロンドイチゴに毒を塗った。あとはケーキを出した時にそのイチゴが王子の口に入れば彼女の思惑通りに行く……はずだった。
「だが、その日第一王子は不思議とイチゴを食べようとしなかったんだ。いつもなら一番最初に食べようとするのに、従者たちが食べさせようとしてもそれを拒んだ。そしたら料理人を装っていた女が急に王子のすぐそばまで駆け寄ってきて、彼から皿を奪ったんだ……で、王の前で土下座したかと思うと、毒を盛ろうとしたことを白状して、わんわん泣きだしたんだよ」
「それで、王様は……?」
「相当怒っているようだったね。今までに聞いたことがないくらい冷たい声で、女を地下牢に閉じ込めるように俺たちに命じられた。それからほどなくして、あの女の死刑が決まったんだ」
「ふうん、そっか……そういうことなのね」
「何か気になるのか? 言っておくけど、この話はあの場にいた人間のみにとどめておくように
兵士に念を押され、ターニャは頷いた。
その日の晩、ターニャはいつも通りウーズレイが閉じ込められている部屋の前まで来ていた。
彼との話は他愛もない世間話ばかり。ウーズレイがとにかく外の世界で何が起きているのかを知りたがるので、その質問に答えているうちに夜が更けて、ターニャはいつもウーズレイ自身のことを聞きそびれてしまうのだ。
ウーズレイについて何度か聞こうとしたこともあったが、初めて話した日のように、話題を変えるか、もう寝ると言って問いには答えてはくれない。
だが、今日こそは確かめなければと思っていた。
ウーズレイに出会ってからというもの、ターニャの中でくすぶり続けている違和感の正体をはっきりさせるためにも。
「こんばんは、ターニャ。今日はどんな話を聞かせてくれるんですか?」
嬉々として言うウーズレイに、ターニャは落ち着いた口調で尋ねた。
「ねえ、ウーズレイ。君は、イチゴは好き?」
すると、鉄格子の向こうのウーズレイはかぶりを振った。
「いいえ、嫌いです。あのツブツブした見た目がどうしても気持ち悪くて。それが、何か……?」
「……いや、大したことじゃないよ」
怪訝な表情でターニャの顔を覗き込もうとするウーズレイから目を逸らす。
ターニャはこの時気づいてしまったのだ。
ウーズレイがここに囚われている理由、そして——
(あたしは王様の命令に従ってたくさんの人の命を奪った。なのにウーズレイは……ウーズレイは、彼に罪はないのに王様に閉じ込められている。何が正しいんだ? あたしは何を、信じればいい……?)
……自分の中に小さく芽生え始めた意志と、王の正義の矛盾に。
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