mission8-27 嘆きの回廊
ターニャは思わず背後を振り返った。
もちろん、誰かに「お母さん」と呼ばれるような心当たりはない。
ただ、この
通路にはやはりターニャの他に誰もいない。
疲れているせいで何か物音を聞き間違えたのだろう。
そう思って、もう一度元来た方向に戻ろうとすると、不意に視界の端にぬっと白いものが現れた。
「ひっ……!?」
薄暗い通路に浮かびあがるその白いものは、子どもの手のようだった。通路の壁から生えてきたかのように急に現れ、何かを探るように宙をさまよっている。目を凝らすと、そこには覗き窓だけ鉄格子でできた扉があって、その鉄格子のところから手が伸びているようだ。
「ここです……私はここにいますよ、お母さん……」
その扉の向こうから声がする。
やがて暗闇に慣れてきたターニャは、その鉄格子の隙間から二つの目がこちらを見ていることに気がついた。
目が合って、ターニャの背筋にぞわぞわとした悪寒が走った。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
思わず悲鳴をあげて、ターニャはその扉に背を向けて駆け出す。扉の向こうにいる何かが追いかけてくる気配はなかった。それでも、彼女は無我夢中で走った。全身の疲れなど忘れて、ひたすら〈チックィード〉たちが暮らす地下街へと走っていったのだった。
〈チックィード〉たちは皆地下街に暮らしていたが、王への貢献度によって同じ身分の中でも待遇に差が出ていた。最下層の者たちには居住空間が与えられず、城下町の墓地の方に近い区域で壁に穴を掘って寝る場所を確保しなければならないが、見張り兵士となると王城に近い区域のかつて地下牢として使われていた部屋を居室として使用できる。
とはいえ元が牢屋であるだけに、人が寝て起きるのに必要最低限な設備しかなく、炊事場や浴場は他の〈チックィード〉たちと共用だった。ターニャがもともと暮らしていたバレンタインの家とは天と地の差であったが、案外七年も経つと慣れてしまうものだ。唯一、彼女が貴族だった時と変わらないのは、サラ・メイヤーが毎朝彼女の元に食事を運んでくれるということ。
朝食のスープの香りがして、ターニャはゆっくりと堅いベッドの上で起き上がった。
あまり眠れなかったせいか、頭がぼうっとしていてズキズキと痛い。彼女は寝癖がついているであろう髪を手ぐしでとこうとして、部屋に帰ってきた後は疲労でそのまま寝てしまったことを思い出し、小さくため息を吐いた。
「ターニャ様、昨晩はどちらへ行ってらしたのですか? ずいぶんお戻りが遅かったようですが……」
サラがそう言ってターニャにスープを差し出す。城下町では流通させられない、規格外や腐りかけの食材をごった煮にしたものだ。これでもサラが炊事当番になってからずいぶんましになった。以前は酸っぱい臭いが漂っていたり、食材にたかっていた虫がそのまま中に入っていてもそれが普通だったのである。
「……何度も言ってるでしょ。もううちの給仕係じゃないんだから、様づけはいらないってば。今はあたしもあなたも同じ〈チックィード〉の身なんだから」
そもそも、バレンタイン家の給仕係にすぎなかった彼女まで〈チックィード〉になる必要などなかった。王に咎められたのは謀反の疑いを持たれた貴族の家族だけだ。それでも、一般階級の〈リリーベル〉であったサラは自ら志願してターニャの側にいることを選んだ。
「私はイェレナ様が幼い頃からずっとお側にお仕えしてきました。あなた様は私にとっては孫娘のようなものです。この命ある限り、どこへだってついていきますよ」
「全く……」
ターニャは溜息を吐き、一気にスープを飲み干した。
〈チックィード〉たちの朝は早い。太陽が昇るより前に作業を始め、太陽が沈んで人々が寝静まった頃にようやく疲れ切った身体を堅い寝床に横たわらせる。彼らを監督する立場である見張り兵士は、なおのこと早く起きて遅くまで活動せねばならなかった。
ターニャは衣服を雑に脱いだ後、部屋の隅の桶に入った汲み置きの水を頭からかぶり、身体の汚れを洗い流す。てきぱきと身なりを整えながら、ふと昨晩のことが頭をよぎり、ターニャはサラに尋ねた。
「そういえば知ってる? 王城の地下の一角に、ここにつながる以外の別の通路があって、そこに鉄格子の覗き窓がついた部屋があるんだけど……」
サラは一瞬考え込んだが、やがて何か思い当たるものがあったのか、彼女は顔を上げて言った。
「もしかして、”嘆きの回廊”のことでしょうか?」
「”嘆きの回廊”?」
「ええ、噂で耳にした程度ですが……王城の地下には王様がお持ちの鍵でしか開かない倉庫が一室あって、かつてはそこにとある粗相をしてしまった王の愛人が閉じ込められていたとか……。彼女の嘆く声が四六時中廊下に響いているので、”嘆きの回廊”と呼ばれるようになったそうです」
ターニャは首をかしげる。
昨日聞いた声は女の嘆き声ではなく、幼い少年の声だったはずだ。
「その女は今もそこに?」
「いいえ。結局王様に殺されてしまったそうですわ……それでも”嘆きの回廊”には不気味な声が響き続けているので、怨霊がいるのではないかと恐れられ、城中のひとびとは滅多に近づかないそうです」
サラの話に、ターニャは思わず身震いする。背筋が冷え、肌の表面には鳥肌が立っていた。
「あら、珍しいですねぇ、ターニャ様がそのようなものに怯えるだなんて」
「……そんなことない。常に恐ろしいと思っているよ。あたしが王様の命令に従って斬った人たちが、いつか怨霊になって襲ってくるんじゃないかってね」
「ターニャ様……」
ターニャを気遣うサラの視線が、まだ幼い少女にとっては刃のように鋭く、胸に突き刺さるかのようだった。
そんな風に見られると、余計に惨めになる。
恐れたって仕方のないことは分かっているのだ。それでも王の命令に従わなければ、彼女は自らがここに生きる意味を見失ってしまいそうだったから。
「ごめん、らしくなかったよね。それじゃ行ってきます」
ターニャはサラから目を背けて自室を後にした。これから同胞を斬ることになるであろう、錆びた剣を手に取って。
それから数週間——。
一日中働いた後で、毎晩のように王の部屋に呼び出される日々が続き、ターニャは肉体的に限界を感じ始めていた。常に頭が空っぽになったかのようにぼうっとした状態が続き、まともに安眠することもできないまま身体には血と汗の臭いばかりが染みついていき、生きながら腐っていくような、そんな感覚を覚えていた。
(こんな状態なら、いっそ悪霊に殺された方が楽になるのかもしれない……)
そんな自暴自棄な考えが浮かび、ターニャは気の赴くままに再び”嘆きの回廊”を訪れていた。
「お母さん?」
以前訪れた時と同じように、少年の声が響く。
ターニャは例の格子窓がついた扉の前に立つと、堅い鉄扉を力強く蹴飛ばして、その向こうにいる何者かに向かって怒鳴った。
「言っとくけど、あたしはあんたのお母さんなんかじゃないから! 怨霊ならそんな遠回しな表現じゃなくて、どんな恨みがあるのか具体的に言えっての! こちとら恨まれる心当たりが多すぎていちいち覚えてないんだからさぁ……!」
扉の向こうはしんとしている。やはりあの声は単なる空耳か、実体なきものの声だったのだろうか。そんなもの相手に怒鳴り散らしたなんて、いよいよ末期だ。ターニャが自嘲気味に笑って、その場から立ち去ろうとした時だった。格子窓から白い手がぬっと伸びてきて、彼女の髪に触れる。
王の触れ方とは違う、優しくて柔らかな触り方だった。
がんじがらめになったものを
「……すみません。お母さんが帰ってきてくれたのかと思って……お姉さん、泣いているんですか?」
「へ……?」
ターニャは自覚がなかった。
先ほど怒鳴った時から、自分の瞳からぼろぼろと涙が溢れていることを。
顔を上げると、格子窓の隙間から覗いている二つの瞳と目があった。徐々に暗闇に慣れてきて、ターニャは思わず息を飲む。鉄格子の向こうには第一王子そっくりの少年の顔があったのだ。
「第一王子……!?」
そう呼んでみたものの、ターニャは違和感を覚えていた。
第一王子なら王の隣の部屋で寝ている。このような薄暗い部屋に閉じ込められているはずがない。
「ウーズレイって呼んでください。この場所にいるときは、私は第一王子ではなくただのウーズレイですから」
少年は明らかにターニャより年下であったが、随分と大人びた、どこか達観した微笑みを浮かべてそう言った。
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