mission8-9 ヨギ・ヤンハ



 トリシェ競馬場——つまらない走りには容赦ない野次を飛ばし、握りしめた馬券が紙くずに変わるか札束に変わるか、刹那の刺激に酔いしれる人々の吹き溜まり。


 観客席はゴミだらけで、賭けに敗れた人々が八つ当たりしていくのかところどころ椅子や壁が壊れている。だが、レース場の方は元・王立馬術競技場なだけあってきちんと整備されていた。楕円形のコースで、途中に障害物がいくつか設置されている。十頭の馬が一斉にスタートして、一番早くゴールに着いた者が勝ち。至極単純なルールだ。そこに、「イカサマ容認」という要素を抜いて考えれば。


 出馬の直前になり、競技場の中央に設えられた高台の上に薄いサテン生地の青いドレスを着た少女が現れた。彼女は観客席に向かってにっこりと微笑むと、軽やかな足取りでステップを踏み始める。


「うぉぉぉぉぉーーーー! コゼットちゃーーーーん!!」


「今日もカワイイよーーーーっ!」


「こっち見てくれーーーー!」


 これから始まるレースに対してギラギラと目を光らせていた観客たちは、賭け事など忘れてしまったかのように緩んだ表情で歓声を上げる。振り付けによってドレスが舞い上がり、彼女の色白い素肌が露わになるたび、「ひゅうひゅう」と下卑た口笛の音が鳴り響く。


「愛されてるわねぇ、コゼット」


 競馬場の脇にある従業員口で、つなぎの作業着——ここの係員から拝借したものだ——を身にまとったアイラが皮肉混じりに呟いた。元・踊り子の彼女だけでなく、ルカたちの目からしてもコゼットがあまり踊りが上手くないことは明らかだった。適当にステップを踏んで、どちらかというとポージングで観客の目を釘付けにしているような、そんな踊り方だ。


「奴が場外にはけた時に取り押えるんだったな?」


 同じく作業服を着たリュウが作戦を確認する。


「ええ、そうよ。私たちの荷物をどこへやったか、きっちり吐いてもらうんだから」


 息巻くアイラとリュウをよそに、ルカはどこかぼんやりとした様子で言った。


「もうすぐレースが始まるんだよな……ユナは大丈夫かな……」


 アイラはぷっと笑うと、ルカの背中を小突く。


「これであなたも、闘技大会の時にあの子がどんな気持ちで見守ってたか、少しは分かったでしょう?」






 コゼットは踊り終えると拡声器を持って観客席へと叫んだ。


「それじゃ、そろそろここで今日の大目玉……あの方をお呼びするわよー!」


 コゼットの踊りのときとは違う、熱のこもった野太い歓声が湧き起こる。


 やがてコゼットがいる壇上の隣に一人の少年が姿を現した。まだ幼さを残した顔立ちで、黒い短髪に、肌は血のような赤色。額には鬼人族のシンボルである角が二本生えているが、どちらも途中で折れていた。だが立派な鋼の胸当てに、年の割には発達した腹筋が、彼が並の少年ではないことを物語っている。


「よう、てめぇら! オレ様がヨギ・ヤンハだ! 悪いけど今日のレースはオレ様の一人勝ちだぜ! 他の馬券を買った奴は今のうちにカミさんに謝る練習でもしときな! くかかかかか!」


 ヨギは拡声器を通すことなく大声でそう宣言した。会場は一層湧き上がる。挑発されたことに対するブーイングというよりも、単純に彼の走りを早く見たいという期待の方が大きそうだ。


 ヨギよりも五つくらい年上に見えるコゼットであったが、彼女はヨギに対してどこか緊張している様子だった。ごそごそとドレスの隙間から何かを取り出し、上目遣いで彼にそれを差し出す。


 ルカたちは思わず「あっ」と声を出してしまった。あれはユナがメイヤー夫人から受け取ったイェレナ・バレンタインの木箱だ。


「ねぇ、ヨギさま……出場記念に、あたしからプレゼント。受け取ってくれる……?」


 ほんのり頬を赤らめて木箱を渡そうとするコゼット。観客席からはブーイングと歓声が入り混じったどよめきが上がる。だが、ヨギ本人は全く意に介さずといった様子でコゼットの手をはねのけた。


「いらねぇよ! タダでもらうのは性に合わねぇ! どうせならレースの景品にしようぜ! ま、オレ様が勝つんだけどよ!」


 すると再び会場はヨギを支持する声で盛り上がった。


 競技場の脇で一部始終を見ていたアイラたちはほっと胸をなでおろす。


「あのまま受け取られてしまったら取り返しづらくなるところだったわね……とはいえ」


 コゼットが渡そうとしたイェレナの木箱は、レースの景品が並べられた机の上に置かれてしまった。レースで一等にならなければ、あの景品を受け取ることはできない。


「あとはユナ次第、か。頑張れよ……!」






 競技場脇の馬専用の入り口が開き、十頭の馬とそれに乗った騎手たちが姿を現した。先頭を歩くのはヨギが乗る馬で、よく手入れされた黒い毛並みが美しい。そして一番後ろにいるのがユナだった。フードを深くかぶっているので彼女がどんな表情をしているのかは分からないが、縮こまった背中を見るに緊張しているのは明らかだった。


 十頭の馬がスタートラインにつく。


 それまで騒がしかった観客席も、この時ばかりはしんと静まっている。皆、息を飲んで試合の始まりを見届けようとしているのだ。


 スタートライン付近にいるコゼットが旗を上げた。


「レース開始五秒前……四……三……二……一……スタートぉっ!」


 一斉に十頭が走り出し、砂煙が舞い上がる。それに合わせて観客たちの野次も飛び始めた。人々の熱狂と馬たちのかき鳴らす蹄の音で、会場全体が振動しているかのようだ。


「よっしゃぁぁぁぁ! 行くぜぇぇぇぇっ!」


 ヨギはそう叫ぶと、脇に抱えていた鎖鎌をほどきぶんぶんと振り回し始めた。


 武器や道具を使いこなし、戦いながら一位を目指す——これこそがこのトリシェ競馬場ならではのルール。


 とはいえ馬に乗りながら武器を扱うのはそう簡単なことではない。バランスを崩して落馬したり、馬が速度を落としてしまっては本末転倒。プロの騎手でさえ苦戦する、より実戦に近い結果の読めないレース。だからこそゼネアの街の人々を惹きつけてやまないのだ。


 そんなレースにおいて、やはり受付の兵士が言っていた通りヨギの強さは歴然だった。


 鍛えられた筋肉で馬上でもバランスを崩すことなく、力強く鎖を投げつけて他の走者たちを蹴落としていく。攻撃を避けようとしてコースから外れ失格になってしまう者、立ち向かおうとして武器を鎖に絡め取られバランスを崩し落馬する者が続出し、先頭のヨギがコースの半分に差し掛かる頃には、まともに走っているのは残り五頭だけになっていた。


「くかか! お前も落っことしてやるぜ!」


 すぐ後ろを走っている騎手に向かって鎖鎌を構えるヨギ。


 だが、彼がそれを投げる必要はなかった。


 相手の馬が急によろよろと動きを鈍らせ、コースの外に勝手に出ると居眠りを始めてしまったのだ。騎手は必死に呼びかけるが馬は目を覚まさない。


「なんだぁ……?」


 不審がるヨギのすぐ後ろに迫る、フードを被った騎手。ユナは二番手まで追い上げてきていた。


「ははーん、お前が何かやったのか? 見たところ武器もなけりゃ、馬を速く走らせてるわけでもないみてぇだけど。そんなんじゃオレ様には勝てないぜ!」


 ヨギはそう言って鎖を振り回し、後ろに続くユナに向かって投げる。


「武器なら……あるよ」


 ユナが腕輪に手をかざすと、黒流石が液状に弾けて円月輪を形どった。ユナはそれを鎖に向かって投げつける。鎖は円月輪に絡まり勢いを失った。


「チ! 飛び道具か!」


 ヨギが武器を引くと同時に、ユナはもう一度腕輪に手をかざした。黒い円月輪は液状に飛び散って、腕輪に吸収されるように戻っていく。


「やるなぁあんた! ならこれはどうだ?」


 ヨギは前方へと向き直ると、ユナの走るコースの先に向かって鎖を投げた。鎖は障害物として設置されていた樽の山にぶつかり、その衝撃で樽が転がってコース上に散らばった。困惑したユナの馬が一瞬立ち止まろうとする。


「君なら大丈夫だよ……! タレイア、力を貸して!」


 腕輪が薄桃色に光り、同時にユナの乗っている馬は力強くいななきを上げた。そして一瞬躊躇ったのが嘘かのように速度を上げて猛進し、転がった樽を踏み潰して進んでいく。


「おいおいまじかよ……オレ様でもそんな力技は思いつかねぇぜ」


 ヨギは苦笑すると、鎖鎌を身体に巻きつけ馬を走らせることに集中した。ユナの馬はすぐ後ろまで迫っている。あとはシンプルにスピード勝負か……観客たちが固唾かたずを飲んで見守る中、ユナの馬がヨギと並列になった瞬間、ヨギは上体を起こして左手に持つ鎌を構えた。


「こっからは接近戦だぜ! ここまで奮戦したことは誉めてやるが、接近戦でオレ様に勝てる奴はいねぇよ!」


 そう言って勢いよく鎌を振り下ろす。


(まずい——ッ!)


 受け止められるようなものは何も持っていない。


 ユナはとっさに身につけていたローブを脱ぎ、ヨギの方へと放った。風でローブが広がり、ヨギの視界を妨げる。その隙にユナはヨギの馬から距離を取った。真っ二つに裂かれたローブを見て冷や汗が首筋を伝う。


(別に勝たなくていいんだ。ここまでやったら十分だよね……?)


 ユナがそう思った時だった。


 破れたローブが地面に落ち、ヨギとの間に視界を妨げるものが何もなくなり、ヨギはふと馬を止めてしまった。


「え? 女……? しかもあんた……」


 彼は呆然とした表情でユナを見ている。


 ユナはそこでようやく自分の身を隠すものが何もなくなったことに気づき、ハッとした。受付の兵士の話によると、ヨギはターニャの側近だ。もし彼がターニャからブラック・クロスの話を聞いていたとしたら、自分たちがゼネアの街にやってきたことがバレてしまう。これでは何のためにわざわざウェスト・キャニオンを通って、正体を隠してレースに臨んだのか意味がなくなって——




「超かわいいんだけど! あんた、オレ様のモンにならないか!?」




「へ……?」


 唖然としているうちにユナの馬は怒涛の勢いで勝手に走り続け、いつの間にかゴールテープを切っていた。一位になった実感がわかないユナに、観客席からはひたすらブーイングが降り注いでいた。


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