mission6-44 少年の居場所



「ミハエルくん!」


 ウーズレイとグエンが呆気にとられている隙に、ユナは彼らの間をすり抜けてミハエルに駆け寄った。すぐさまクレイオの歌を口ずさみ、倒れているミハエルの腹部に手をかざす。とくとくと床が赤に染まっていく。ひどい出血だ。クレイオの力で傷口を塞ぐことはできるが、この状態で無理をするのは危険である。


 だがミハエルはよろけながら立ち上がり、再びターニャの前に立って手を広げた。


「愚か者め……何の真似だそれは! 兄への当てつけか!? 一体何がしたいんだお前は!」


 アディールの声は、言葉とは裏腹に悲鳴のような響きを伴っていた。どんなに理不尽な扱いを受けようとも今まで抵抗の素振りすら見せなかった末弟が、処刑しようとしている犯罪者の身代わりになろうとしたのだから。


 微動だにしないミハエルに、アディールはついに吹っ切れたように笑いだした。


「そうか……そうだよな……初めから理解できるはずなどなかった! お前のようなの考えなど!」


 ミハエルの瞳がわずかに揺れる。その表情はとても十三歳の少年のものとは思えない、悲しみと痛みを越えて、諦めを浮かべたような表情だった。


「アディール兄さま」


 小さな呟きが、まるで鋭い刃物のように。


「……やっと、本音で話してくれましたね」


 そう言って、少年は一歩ずつアディールに向かって近づいていく。手には何も持っていない。だがアディールは怯えていた。今のミハエルから醸し出される雰囲気に本能的な恐れを抱いていたのだ。


「やめろ……やめろ、来るな……! ああそうだ、むしろ感謝しなさい……お前を世間の目から隠したからこそ、今まで誰かに狙われることもなく、大巫女としての責務を背負うこともなく、こうして平穏に生きてこれたじゃないか……! 今さら私を殺して何になる!?」


 ミハエルは歩みを止めなかった。


 ただ、虚無な視線を兄に向けて、首を横に振って、


「殺しませんよ。でも——」


 ミハエルがすっとアディールの顔の前に手をかざし、ぼそりと何かつぶやいた。それは一番近くにいたアディールでさえも聞き取ることのできない声だった。だが、すぐさま空間にほとばしった熱気に、彼が何をしたのかを皆が悟った。


 アディールのウグイス色の瞳の上を、激しい炎が踊る。


「あああああああ! 熱いっ! 熱いいいいっ!」


 熱さと痛みに無様に転げ回るアディール。炎はすぐに消えたが、それと共にその場にいる皆の言葉も失われてしまったかのようだった。


 ミハエルだけが、あらゆる感情の入り混じったいびつな笑みを浮かべ、再びターニャの前に立つ。


「迷ってばかりの僕だけど……この人が消えることだけは嫌なんです。だって、初めて僕のことを認めてくれた人だから」


 そう言われたターニャはわざとらしく肩をすくめる。


「君に力があることは分かっていたけど、まさかこんな死よりも酷い仕打ちができる子だとは思ってなかったよ」


「僕は命を奪うことはしません。やっぱりそれは教えに背いてしまうから」


「教え、か。君は君を救えなかった神を信じると言うの?」


 するとミハエルはくすりと笑った。


「ターニャさん、さっきから気になってたんですけど、ひとつ勘違いしてますよ」


「ん?」


「ミトス神教会はそもそも創世神話を語り継ぐための組織。創世神話では、神様はみんな太古の昔に神石に力を残して眠りについてしまった。だから……もともとこの世界に神様なんていないんです。罪を犯しても救ってくれる神様がいないから、人間は他者の命を奪ってはいけない。代わりに力のある者が世界を導かなければいけない——それがミトス神教会の本来の教えです」


「げ……それじゃまるで、あたしが敬虔な信者みたいじゃないか」


 心底嫌そうな表情を浮かべるターニャに、ミハエルはにこやかに頷く。


 二人のやり取りを見て、ルカたちは悟っていた。ミハエルは彼女に唆されたわけでも、騙されているわけでもない。彼が自らついていくことを選んだのだ。長年過ごした牢獄塔でもなく、同じ血の通ったエリィの一族でもなく、彼を牢獄塔の外に連れだした義賊でもなく、銀髪の女スパイの隣にいることを。


「ミハエル……お前、どうして……」


 ルカが理由を問おうとした時、ウーズレイがすっとターニャの側に駆け寄って耳打ちした。


「……そっか、もう時間か」


 そう呟いたかと思うと、彼女の瞳が一瞬剣の柄にはめられた石と同じ色に染まった。ヴァルキリーの神石による”神格化”だ。そして白銀の剣を振り上げると、床に向かって突き刺した。大理石でできているはずの床はあっけなくひび割れ、激しい揺れが部屋中を襲う。


 ひび割れはターニャの場所を中心に徐々に大きくなっていき、辺りは剣から発せられる白銀の光に満たされていく。


「こんなのめちゃくちゃよ……!」


 とっさに近くの柱に掴まるアイラとユナ。


 目の前に広がる景色に、ユナはキッシュで見たものを思い出していた。


「私、前に見たよ……あの力でアンゼルが持っていた神石が破壊されたのを」


「なるほどね。人間が神石を破壊する力なんてありえないと思ってたけど、”神格化”だからできましたってこと? ……冗談じゃないわ!」


 アイラは柱で身体を支えながら、砂弾をターニャに向かって撃った。だがグエンが間に割って入り、再び弾かれてしまった。グエンは背後にいるターニャたちに向かって振り向きざまに叫ぶ。


「あんたら先に行け! ここは俺が食い止めといてやる!」


「ちょっと待って、『行く』ってどこに——」


 アイラが問うより先に白銀の光が一層強くなったかと思うと、爆発のような音が響いてターニャの足元に穴が空いた。その下は空洞になっていて、水路のようなものが見える。


「まさか……!」


 ルカは床に空いた空洞を見て目を見開く。水路には小舟と、それに乗ったエドワーズが見えた。ルカと目が合うなり、エドワーズがそっと視線をそらす。闘技大会が終わってから行方がわからなくなっていたのは、ターニャたちの協力者になっていたからなのだろう。


 ふとナスカ=エラの地図が頭をよぎる。大聖堂のすぐ裏側はティカ湖があり、その湖から街に水を引く役割を果たしているのがおそらく目下に見えている水路だ。そしてその水路を逆行して進み、ティカ湖に出た先にあるものは大陸の外——海につながるイグアの滝。


 ルカが駆け寄ろうとした時には遅かった。ターニャは戸惑うミハエルを脇に抱え、ルカの方を見て言い放つ。


「残念だけど今回はこれでしまいだ。いつか決着をつけよう。不毛な議論と徒労な力比べにさ!」


 そう言ってターニャはミハエルを抱えたまま穴に向かって飛び降りた。その後にウーズレイも続く。


「待て!」


 ルカも後を追おうとしたが、思ったより床下から水路までは高さがあった。三人は真下に来ていた船のクッションの上に飛び降りたようだ。船はすでに進み出し、今から飛び降りて追うことは難しい。


 ルカは床に這いつくばって、空いた穴に向かってありったけの声で叫ぶ。


「ミハエル! おれはあんなので約束を果たしたなんて認めないぞ! おれたちはお前に何にも返せてない! それに……おれはただ、お前とゆっくり話がしたかったよ! 友達になれると……なりたいと思ってたんだ!」


 だがミハエルは返事をしない。その代わり、くるりとルカの方を振り返って、ウグイス色と紫色の瞳を向けてきた。何か、言いたげに。


 やがて船はティカ湖の方へと進んで見えなくなっていく。声の届かない距離まで行ったところでミハエルはルカに背を向けてしまった。


 ルカは強く床を拳で叩く。痛みだけが、自分に返ってきた。







「何も言わないで良かったんですか? 彼らとは面識があったんでしょう」


 エドワーズが操縦する小舟の上。ウーズレイに言われ、ミハエルは首を横に振った。


「いいんです。彼らとは……たぶん、同じ道を歩むことはできませんから」


 ミハエルは船から身を乗り出して進路を見つめる。すでにティカ湖に出てきていて、船はまっすぐイグアの滝の方へと向かっていた。


 イグアの滝とは高地から水平線まで続く段瀑のことだ。激しい水の流れによって、この滝に飲まれたら最後、海面に辿り着く頃には木っ端微塵になっていると言われている。


「全く……こんなところを脱出ルートに使うなんて本当に命知らずだよ。ああ、もう少し長生きしていたかったなぁ」


 ぼやくエドワーズ。だが船に乗る四人の表情には、少しも恐れの色は浮かんでいない。


「ミハエル、君も肝が座っているね」


 ターニャが声をかけると、ミハエルは平然とした表情で答えた。


「だってがここに二人もいますから。怖いものなんてありません。それに」


「ん?」


「全てを破壊する滝なんて、まるでターニャさんみたいだなって思って」


 ミハエルの言葉に、ターニャは腹を抱えて笑いだした。さざ波もほとんど立たない湖の上で、彼女の声だけが賑やかに響く。


 やがて彼女は笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭うと、白銀の剣を掲げた。切っ先を向けたのは、ティカ湖の西端、イグアの滝。




「ならまっすぐ進もうじゃないの。そして——まずは帰ろう、我らがならず者の街・ゼネアへ!」




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