mission6-40 混沌とする聖地
一方その頃、ナスカ=エラの市街地では。
目を覚ましたルカは、宿の窓の外を眺めながら考えていた。
そうだ。昨晩ユナに励まされて、夜が明けたらもう一度ミハエルに会って話そうと思っていた。そうしたらきっと互いに分かり合えるんじゃないかと。
だがこうして朝を迎えて今、街のあちこちに
もしかしたら、ミハエルとゆっくり話すなんて時間はもう二度と訪れないのかもしれない——と。
「ルカ! 街が、今、大変な騒ぎに……!」
ユナもきっと同じことを思ったのだろう。彼女は寝間着で、短く切り揃えた髪に寝癖を残したまま、慌てた様子で部屋の扉を開けてきた。
「ああ、分かってる。すぐに様子を見に行こう」
ルカは手早く額にバンダナを巻くと、すぐに着替えて荷物を持って部屋を出た。宿の一階ロビーにはすでに準備を済ませたアイラとガザがいる。
「アディールは相当焦っているようね。ターニャ・バレンタインの死刑は今日決行することになったそうよ」
「それで街がこんなに騒がしいのか」
「いや、さっき俺が外に出て軽く状況を見てきたんだがどうも様子がおかしいんだ。時間になっても護送隊が中央広場に来ないとかなんとかで」
ガザの話に、ルカは首を横に傾げる。
「何かトラブルでもあったのかな? いずれにせよミハエルに会いに行くつもりだったんだし、牢獄塔の方に行ってみるか」
「そうね。ガザは予定どおりヴァスカランへ行ってバルバラに状況を伝えてきてちょうだい。きっとあの山の方へは街の情報が伝わるのは遅いでしょうから」
アイラに言われ、ガザは「ああわかった」と頷いて先に宿を出ていく。
「よし、おれたちも行こう。街は騒ぎになっていて動きづらいし、あの地下通路から行くのが良さそうだな」
地上の騒がしさに比べ、神通力の高い者しか通ることのできない地下通路は普段どおりひっそりと静まっていた。だがその静けさが今はかえって落ち着かない。
ミハエルと出会った牢獄塔への入り口までやってくると、三人の中では最も目の利くアイラが前方を指差した。ルカたちもその指が示す方向を見てハッとする。鉄格子が開け放たれているのだ。
「これは……!」
鉄格子は内側から鍵を破壊されている。刃物によって破壊されたのか、そこには切り傷が残っていた。ぶれのない、まっすぐな線だ。
「脱獄の跡、ってことかしらね」
「脱獄ってまさか……」
ルカたちは顔を見合わせる。
彼らが会おうとしているミハエルは曲がりなりにもこの牢獄塔の看守長だ。脱獄者がいるということは、彼はその囚人に脅かされたか、あるいは——
「とりあえず、中の状況を確認しよう」
「そう……だね」
牢獄塔の中は不気味なくらいしんとしていた。ミハエルから「バスティリヤはいつも薄暗くて寒い」という話は聞いていたが、ルカたちが今肌で感じているのはそういった物理的なものではなかった。ここにあるはずのものがない、空虚さ。空になった独房や、ところどころに倒れている看守やミトス神兵団の兵士の姿が、一層その雰囲気を際立たせている。
正面口へたどり着いた頃には、ルカたちはここで何が起きたのかをある程度察していた。本来なら今ごろ中央広場で処刑されているはずのターニャ・バレンタインが脱獄を図ったのだ。他の囚人たちとともに。
そしてミハエルは……まだ見つからない。
正面口にはルカたちにとって見覚えのある人物が倒れていた。ミトス神兵団・師団長のジューダスだ。誰かと戦ったのかボロボロの状態であるが、ルカたちの足音に反応したのか指先がぴくりと動くのが見えた。ユナはすぐさま駆け寄り、クレイオの力で彼の傷を癒す。
「大丈夫ですか?」
ユナがジューダスの身体を起こしてやる。彼は礼を言うと、顔を上げてルカたちに気づき、苦笑いを浮かべて言った。
「ルカ・イージス……闘技大会以来ですね。まさか二度もこのような失態を見せることになろうとは」
「一体何があったんだ」
「君たち旅の人には関係のない話です。これはミトス神教会の問題ですから」
「関係なくはないよ。銀髪女——いや、ターニャとは一度別の街でも会ってるし……それに、ミハエルとは友だちだ」
ルカがそう言うと、ジューダスは驚いたように目を見開いた。
「友だち? あなた、いつあの弟と知り合いに……」
「悪いけど詳しく話してる余裕はない。あんたもそれは分かってるだろ。ターニャとミハエルはどこだ? もしかして……二人は一緒にいるのか?」
ジューダスはルカの問いに対してしばらく黙っていたが、ルカがじっと彼の顔から視線を離さないのに観念したのか、やがてため息を吐きながら話し出す。
「そうです。ターニャ・バレンタインの手錠を外したのは他でもないミハエル。ただ……ミハエルがそうしなくても、おそらく彼女は初めからここを抜け出すつもりだったのでしょう。私の護送隊の中に彼女の部下——確かウーズレイと呼ばれる男が一人紛れ込んでいましたし、後から鬼人族のグエンも乱入してきて私の妨害をしたのです」
「ウーズレイにグエンも……あの女がここに入ったのは何か狙いがあったってことね?」
アイラの問いに、ジューダスは縦に頷く。
「それでミハエルたちはどこへ向かったのか教えてくれ。あいつらが行きそうなところに心当たりはあるか?」
「おそらくもうここにはいないでしょう。彼らはナスカ=エラ脱出を目指したか、あるいは」
「大聖堂……ですよね」
ユナがおそるおそる尋ねる。
「そうです。ターニャ・バレンタインは武器を取り戻すと言っていました。彼女の武器自体はここの地下倉庫にありますが、もしミハエルのものも含んでいるのなら、大聖堂の"祈りの間"へ向かうはずです」
アイラはため息を吐きながら「他に動機もあるでしょうしね」と呟く。ジューダスはきょとんとして首をかしげている。
「他に、とはどういうことですか?」
「あなた自覚ないの? アディールと組んであの子のこと騙していたんでしょう。この牢獄塔から出してやるって嘘ついて、利用するだけ利用して」
それを聞くなり、ジューダスの顔はみるみるうちに青ざめていく。
「な、な……どうしてそれを……!?」
アイラはやれやれと肩をすくめた。
「ま、半分私たちのせいでもあるけれど……あの子は自分で自分の未来を知ろうとしていたわよ。あの眼に頼るんじゃなくて、自分自身の足を使って」
「余計なことを……ぐっ!」
起き上がってアイラに掴みかかろうとしたジューダスの喉元に、黒の大鎌の峰が突きつけられる。ルカが神器を発動したのだ。彼は普段よりも低い声音で言い放つ。
「悪いけどおれたちもあんたたちの味方ってわけじゃない。義賊なんでね。ただ、今はまず逃げたターニャとミハエルを追わないと。ナスカ=エラを出るのにゴンドラを使う以外の手段はあるか?」
「義賊……そうか、あなたたちはブラック・クロスの……!」
ジューダスの表情がかげる。彼は悟ったのだ。
各地でヴァルトロに対抗している義賊がいるということは以前聞いたことがあった。そんな彼らがこの地に入って、自分たちがミハエルを欺いていたことを知っているということはつまり、アディールと共に進めてきた計画はもはや成就する見込みはないということ。
ジューダスの肩から力が抜ける。彼は俯いて、ぼそりと吐き出すようにして言った。
「……この国を出るには、ゴンドラ以外に登山道を徒歩で下る手もありますが、どちらもすでにミトス神兵団によって警戒させています。いくら手練れの者たちとはいえ、あの厳重な警備をかいくぐることはできないはず」
「本当にそれだけか? ターニャ・バレンタインがそこを強行突破する気には思えないんだよなぁ」
ルカがそう言うと、ジューダスはしばらく考え込む。聖地であるナスカ=エラの入国手段は限られている。登山道とゴンドラの他にはないはずだった。だがそれはあくまで入り口の話。ジューダスはふと思い出したように呟いた。
「そういえば……ティカ湖につながるイグアの滝を下っていけば、一応海に出ることはできますね。ただあの滝を生きて下ることができたなんて話、一度も聞いたことがないですけど」
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