よっつめの話 帽子屋と一緒に8ページ目

 帽子屋の体がぐらりと傾き、その場に倒れる。

「…………ッ!」

 望月は慌てて帽子屋に駆け寄った。帽子屋の体には大きな引っ掻き傷があり、そこから血が溢れ出ていた。

「ど、どうしよう」

 混乱する中、止血しなければ、という思いが湧き上がる。

 望月は包帯だって巻いたことがない。学校の授業で、巻き方のイラストを見たことがあるかないか程度だ。

 けれど、何もしないわけにはいかない。

 望月は慌てて立ち上がって、ベッドのシーツを引きはがす。それから、机から鋏を取り出して、シーツを適当な大きさに切った。

 傷口に当てる形でシーツをきつく巻く。そして、最後に固結びをした。

 すべての傷口に対してそう処置をする。帽子屋の全身が、シーツで覆われてしまった。

 シーツはあっという間に血で赤くなっていく。それに望月はますます焦った。

 もっと何かで巻くべきだろうか。そう思い立ち、鋏を手にベッドへ向かう。

 ベッドの天盤に付いたレース。望月は無心でそれを鋏で切り裂く。

 無心で作業をしていると、何かやわらかいものを踏みつけた。慌てて足元を見ると、ヤマネがそこに伸びている。

『分からないことは、ヤマネに聞くこと。彼女は何でも知っている』

 緊急時用マニュアルの一文を思い出し、望月は鋏をベッドの上に放り投げた。

 ヤマネを持ち上げ、大きく縦に振る。起きない。

 さらに大きく振る。やはり起きない。

 しばらく振った後、望月はヤマネを頭の位置まで持ち上げた。

 ヤマネを起こしたかった。

 ただただ、帽子屋を助けたかった。

 その一心で、望月はその高さからヤマネを落とした。

 ヤマネは絨毯の上に叩き付けられる。

「うぎゃっ」

 小さな悲鳴がヤマネから漏れた。

 ヤマネはゆっくりと起き上がり、立ち上がる。その顔は、相変わらず眠そうだった。

 少しだけ恨めしそうにヤマネは望月を見上げる。

「ご、ごめんなさい」

 望月は、反射的にそう謝った。

「別にいいわ。それより、肩載せて頂戴」

 ヤマネにそう言われ、望月は彼女を右肩に乗せる。

「ヤマネさん、帽子屋さんを助けたいの。どうしたらいい」

 縋るようにヤマネに訪ねる。

「放っておけばいいわ」

 ヤマネの回答は、あっけないものだった。望月は驚きと困惑で混乱する。

「放っておけない! だって、私のせいで――」

「シーツ外してみなさい」

 望月の言葉をヤマネが遮る。望月は首を強く横に振った。

「そんなことしたら血が――」

「いいから。シーツを外してみなさい」

 もう一度ヤマネが言う。有無は言わさない。

 仕方なく、望月は帽子屋へと近づく。

 赤いミイラ状態の彼から、そっとシーツを剥がした。

 シーツの下には生々しい傷が――、

「…………」

 なかった。血はあったが、傷はもう大分塞がっていた。

 望月の目の前でさらに傷は塞がっていき、最後には完全に消える。

「ど、どうして」

 困惑する望月にヤマネは沈痛な面持ちで答える。

「帽子屋は不老不死なの。怪我したり、死んだりしたら、この世界が彼の体を修復するわ」

 望月はそっと、すべてのシーツを剥がした。もうそこに傷はない。

「どうして、帽子屋さんだけ」

 望月がポツリと呟く。

 部屋の外の惨状。それはこの世界の全ての人間が、不死というわけではないと示していた。

「それは、帽子屋に口止めされてるの。でも、酷い話よね。

 死にたくても死ねないんだから」

 労わるようにヤマネは、言った。そして、ヤマネは眠りにつく。

 一人残された望月は、ひとまず帽子屋をベッドの上に乗せた。シーツは無くなったが、絨毯の上よりは寝心地はいいはずだ。

 ベッドの上の鋏を元の場所へと戻す。続けて猫を部屋の外に出し、ドアのカギをかける。

 安全になった部屋で、望月は一人椅子に座って、これからどうするべきかを考えていた。


 空は、沢山の星だけが輝いていた。月はない。

 その星空の下に、望月はいつの間にか立っていた。彼女の足元には、たくさんの紙が落ちている。

 どれもスケッチブックから切り離されたもので、そこには絵と文字が描かれていた。

 その絵のタッチは、いつも望月を元気づけてくれていた勇者の絵本のものに似ていた。

 望月は、一枚の紙を拾い上げる。

「これ」

 そこには、猫と狸が描かれていた。勇者の絵本の作者が描いた別作品だ。

 断片的ではあるが、望月はその絵本を覚えている。

 次から次へと紙を拾い上げていく。どれも、勇者の絵本の作者が描いたものだった。

 懸命に拾い上げ、大事に抱える。

 もう無くさないように、決して忘れないように。

 無我夢中で拾う望月の耳に不吉な音が届いた。

 鋭い刃物が、肉と骨を遮断する嫌な音。

 次の瞬間、一瞬にして全ての紙が血に塗れる。抱えていた紙も赤く染まり、その血が望月の服や体にも付いた。

 それでも望月は抱えていた紙を決して放さず、また紙を拾い上げていく。

 先ほどより早く。

 視界の隅で、青い何かが見えた。望月がそちらに顔を向けると、一枚の紙が炎で燃えていた。

 そのことに望月が驚いていると、また別の紙が燃えだした。

「急がなきゃ!」

 このままでは全ての紙が燃やされてしまう。

そう確信し、望月は無我夢中で紙を拾い続ける。

 拾い上げた紙から、懐かしい暖かさが伝わってきていた。

 それは失われた月の――。


「うわぁ」

 いつの間にか椅子の上で眠っていた望月は、帽子屋のその声で目を覚ました。

 日は完全に沈み、僅かな星の明かりだけが部屋を照らす。月は出ておらず、暗かった。

 椅子を帽子屋の方へと向ける。

 いつの間にか鐘が鳴ったのだろう。帽子屋は、本来のサイズに戻っていた。

 床に転がっていた小さなリュックも、本来のサイズへと戻っている。

 帽子屋は部屋にあった血まみれのシーツや絨毯の血痕を見て、嫌そうな顔をしていた。

 そして、自分の体を見る。貧血が起きたのか、体が大きく揺らいだ。

 また気絶しそうになっていたが、必死に堪えて帽子屋は立ち上がった。

「君がベッドに運んでくれたのかい。悪いね」

 帽子屋は申し訳なさそうにそう言って、望月へと近づく。

 望月は首を横に振る。帽子屋の体に付いた血が、怪我の大きさを物語る。

 ――私が、こんな風にしたんだ。

 自責の念に駆られながら、望月は必死に言葉を絞り出す。

「ねぇ、帽子屋さん。もう止めよう」

「止めるって……何を?」

 怪訝な顔をして帽子屋は訪ねる。望月は、浅く息を吸い込んで答えた。

「私が外の世界にでようとすること」

 案の定、帽子屋は酷く驚いた。普通の人間なら、元の世界に戻りたいと思うはずだ。

 帽子屋は、きっと望月もそうだと考えていたのだろう。

「私ね、本当は元の世界が嫌いなの。世界は鏡みたいに私を映し出すから。

無力で、駄目で、嫌な自分を。それは、この世界も同じ」

 望月は、自分が嫌いだった。

 馬鹿で、運動ができなくて、人付き合いが苦手な自分が。

「帽子屋さんの怪我は、私のせいでしょ。それに、前のページで帽子屋さんを足止めしてしまったもの。

 私は、帽子屋さんに迷惑をかける自分が嫌い。

 こんな風にして、この世界も嫌な私を映し出すの。違うのは、安全か危険かだけ。

 それなら、この世界の安全な場所に行けたなら、それは元の世界に戻ったことと同じ」

 そう語る望月の目から、涙が溢れ出てくる。そんな望月の頬を帽子屋の手が、優しく包み込む。

 少し冷たい手の温度が、頬から伝わってきた。

「迷惑かけたから、なんだって言うんだい。いっぱい迷惑かければいいじゃないか」

「え」

 驚いて、望月は瞬きをする。

「君は気づいてないかもしれないが、私だって迷惑かけ通しなんだよ。

 気絶したり、気分悪くなったり、そのせいで小さくなる前に次のページ行けなかったり。

 でも、それで何が悪いんだ」

「……今度は、もっと酷い目にあわせちゃうかもしれない」

「いいんだよ。

 君は、安全な元の世界に戻りたい。私は、他のページに行ってみたい。

 だから一緒に旅をしてるんだろう。

 安全な場所が見つかって、君がそこに住みたいってなら話は別だけど――それまでは、ひとまず外に出るのを目標に続けよう。

 私たち二人、迷惑かけあって進むんだ」

 相変わらず、望月の目からは涙があふれ続けている。けれどそれは、先ほどとは別の意味を含んでいた。

「帽子屋さん、ありがとう」

 泣きながら望月が笑うと、帽子屋は少し照れくさそうにそっぽを向いた。

 そんな彼を少し微笑ましく思いながら、望月は立ち上がる。

 望月は絨毯の上に落ちていたリュックからハンカチを取り出し、涙を拭く。

 それから、帽子屋へと手を伸ばした。

「行こう、帽子屋さん」

 帽子屋は少し嬉しそうに微笑むと、自分のリュックを背負い望月の手を取った。

 ドアを開ける。そこに、猫の姿はなかった。

 帽子屋に殴られ意気消沈、今日の狩りは終了ということだろう。

 望月は帽子屋の手を引きながら、廊下の死体を踏まないように慎重に歩く。

 そうして少し歩くと、リンゴの絵が描かれたドアへと辿り着いた。

 躊躇うことなく、望月はそのドアを開けた。

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