みっつめの話 ネズミを狩るネコの8ページ目
ドアはあっさり開いた。
見えたのは、大きな屋敷の内部だった。巨大なホール、左右に続く長い廊下、正面にある巨大な階段。
階段は途中で左右に分かれている。
それらを窓から差し込む夕日が照らしている。
ホールには大量のある物が落ちていて、望月と帽子屋は戦慄した。
望月は、帽子屋の手をきつく握る。彼に対する疑心や恐怖は強くあったが、その手の体温は不思議と望月を安心させた。
帽子屋も帽子屋で怖いのか、望月の手を固く握りしめる。望月が心配になるくらい震えていた。
ホールに敷かれた赤い絨毯の上には、小さな死体が大量にあった。
着せ替え人形サイズになった人間の死体。どれも傷だらけで、血の匂いが辺りに立ちこめている。
服装から察するに、皆この屋敷の使用人のようだった。
小さいからか、見慣れないからか。どうも現実味がない。
ただ漠然とした恐怖が、望月の中に湧きあがっていた。
望月が不安気に帽子屋の顔を見上げる。その表情はこわばっていた。
その表情のまま、
「行こう」
帽子屋はそう言って、望月の手を引いて中へと入っていった。
望月はあの兄妹が追えないように、入ってきたドアを閉める。
それから二人は、次のページに続くドアに向かって、左へ曲がる。
真っ直ぐに伸びた廊下の右手にはドア、左手には窓があった。
窓からの光が、廊下にある死体を照らす。
二人はそれを踏まないよう慎重に歩く。そのせいか、帽子屋の歩みがどうも遅かった。
最初は慎重に歩いているだけかと思ったが、それにしても遅い。
「帽子屋さん」
望月は、怪訝に思い声をかける。返事はない。その代わりに、帽子屋は望月の手を握る力を強めた。
「帽子屋……さん?」
望月が怪訝そうに尋ねる。相変わらず返事はない。
望月は、帽子屋の正面へと周りその顔を覗き込む。血の気が失せていて、目から生気を感じない。
帽子屋は望月を一瞥すると、弱々しい声で答えた。
「私、血苦手なんだよ」
「休んだ方が……」
「えっ、いいよ。ここ早く抜けた――」
抜けたいし、と言いかけて帽子屋は空いた手で軽く頭を押さえた。
「いいや、休むか。さすがに辛くなってきた」
望月は頷いて、帽子屋の手を引いて手近なドアへと近づく。
その時だった。突然大きな鐘の音が屋敷中に響いたのは。
強い眩暈に目を瞑る。世界が揺れているような不快感があった。
足元が安定せず、立っているので精一杯だった。
望月は、帽子屋の手を強く握ることでバランスをとり、それが終わるのを待つ。
しばらくすると鐘は止み、同時に眩暈や揺れは収まった。ゆっくりと目を開ける。
そして、巨大なドアを見た。
「小さくなってる」
先程開けようとしたドアは、望月の身長の何十倍もの大きさになっていた。
当然ドアノブに手が届くことはなく、開けることはできない。
視界の隅に見える廊下に散乱していた死体も、今の望月には普通の人間サイズに見えた。
振り返ると、帽子屋も望月同様小さくなっていた。その場でうずくまり、動けなくなっている。
その横で望月達と同サイズの、つまり大体いつも通りの大きさのヤマネが伸びていた。
帽子屋の肩から落ちたことで起きたらしく、小さく唸り声をあげている。
望月は帽子屋のスケッチブックのおかげで、何が起こっているのか理解できた。
スケッチブックには、こう書かれていた。
『八ページ目の屋敷に住む猫は、ネズミを狩るのが趣味。
鐘の音で人間(身に着けているものも)を小さくして、その人間をネズミとして狩ってしまう。
余裕があれば、すぐさまクッキーで大きくなっておこう。
猫が傍にいたりする場合は、小さなドアや穴があるはずなので、それを駆使して逃げよう。
もう一度鐘が鳴ると、狩りが終わって元のサイズに戻る。』
――早く大きくならなきゃ。
鐘楼は大体高いところにあることが多い。先ほど鐘が鳴ったのならば、猫はまだ遠いはずだ。
そう思い、望月は帽子屋と繋いでいた手を放して、リュックを絨毯の上に置く。
そして、リュックに手を入れた瞬間、計ったように二階から足音がした。
かなり速い。あっという間に音は大きくなる。
音は、階段の方角へと向かっていた。降りてくるかもしれない。
そうなったら、クッキーを探すどころじゃない。
幸い、先ほどの大きなドアの横に小さなドアがある。ひとまず、そこから部屋の中へ隠れることができるはずだ。
しかし、一つ問題があった。帽子屋だ。
彼は未だうずくまったままで、動く気配がない。
「帽子屋さん」
急いで片腕にリュックを抱えながら、望月は声をかける。
帽子屋がうずくまったまま、何か言う。しかし、それは小さくて聞き取れなかった。
代わりに、
「私はもう動けない、君だけでも逃げてくれ。だそうよ」
ヤマネがそう言った。
望月は、帽子屋を見る。そして、躊躇わずに空いた手で彼の右腕を引っ張った。
人として見捨てることなどできなかった。
腕を引っ張られ、帽子屋は体制を崩す。その場に倒れこみながら、彼は顔をあげてかなり驚いた様子で望月を見た。
「ヤマネさんも!」
望月がそう言うと、ヤマネはかなり嬉しそうな顔をして、帽子屋の左腕を引っ張る。
「ちょっ、……いたっ!!」
帽子屋は引きずられながら、抗議をする。が、望月はそれを無視する。
かなりの勢いで帽子屋を引きずり、もう少しでドアに手が届くところまで来た。
すぐ傍に見えたドアに、望月はわずかながらに暗慮する。
その時だった。二人と一匹の耳にはっきりと、階段を駆け下りる音が届いたのは。
思わず、望月はその場に硬直する。足音が、階段を降りきった。
足音が近づいてくる。
「来るよ!」
帽子屋が叫んで、望月ははっとする。
慌ててドアを開けて、二人と一匹は部屋の中へと入っていった。
部屋はごく普通の部屋だった。中に死体はない。
天盤付きのベッド、クローゼット、机と椅子、本棚がある。ただし、どれも今の望月達には大きい。
没個性的で、誰か特定の人物の部屋、という感じではなかった。
望月は小さなドアをそっと閉め、じっと耳を澄ませて猫の様子を伺う。
ドアを開ける音が聞こえて、続けて悲鳴が聞こえてきた。
「――ッ」
望月は思わず耳を塞ぎ、目を瞑る。それでも、悲鳴と何かを咀嚼する音が聞こえてくる。
それが止むと、また足音が聞こえてきた。こちらに近づいてくる。
涙目になりながら救いを求めるように帽子屋を見る。彼は、望月に向かって何かを言った。
望月は、耳を塞いでいたせいでよく聞き取れない。帽子屋は構わず、ヤマネに何かを訪ねた。
ヤマネは一度頷いて、走り出す。帽子屋は、望月の腕を掴んでその後を追う。
腕を掴まれながら、望月も慌てて走り出す。足音が、部屋の前までやってきた。
部屋にある大きなドアのノブが回る。音もなくドアが開く。
「見つけた!」
楽しそうな、嬉しそうな、少年のような声。
望月は反射的に振り返り、その声の主を見た。ブーツを履いた三毛猫の雄だった。
「振り返るじゃない、全力で走るんだ!」
帽子屋の叱責が飛んで、望月は二度頷き必死に走る。
前方に小さな穴があった。そこに入れば、猫は望月達を襲えない。
けれど、望月達と猫の間には大きな体格差がある。おまけに、望月は足が遅い。
したがって、すぐに追いつかれた。猫の気配が望月の真後ろまでやってくる。
望月は思わず振り返る。目の前に淡いピンク色が広がる。
それが猫の肉球だと、数秒して気が付いた。
――捕まっちゃう!
望月は思わず目を瞑る。妙な浮遊感があって目を開けると、いつの間にか体が宙に浮いていた。
宙を浮きながら、望月は自分を突き飛ばした体制の帽子屋を見た。
そして、彼が猫に勢いよく引っ掻かれ、大きな傷を負いながら飛んでいくのも。
望月は、絨毯の上に叩き付けられる。慌てて立ち上がると、帽子屋が倒れているのが見えた。
彼の全身が血で赤く染まっている。
「…………」
望月は、ただ茫然とそれを眺めていた。
うまく頭が回らない。何が起こったのか、理解できない。
「半端物はまずいから嫌」
頭上から声がした。猫の声だと、少しして理解した。
猫の腕が伸びてきて、望月の体を掴む。
「外の人間って、ここの人間とはまた違った味がするんだよね。知ってる? すごく甘いんだよ」
猫が楽しそうに言う。
――ああ、食べられちゃうんだ。
望月はひたすら後悔した。自分がもっと俊敏で、賢くて、勇気があればいいと思った。
そしたら、帽子屋はあんな怪我をせずに済み、望月は食べられることなどなかったのにと。
猫が口を大きく開ける。
鋭い歯が見えた。あれで噛まれたら痛そうだと、望月はどこか他人事のように思う。
そのまま猫は、望月を口へと近づける。
「イタッ」
あと少しという所で、猫は小さな悲鳴を上げて腕を下ろした。
「何するんだよ!」
猫が怒鳴る。望月は猫の視線の先を見る。猫の膝にヤマネが居た。
ヤマネは懸命に猫の膝を噛む。ただただ一心不乱に、懸命に。
猫が、足を大きく動かした。それだけでヤマネは壁の近くまで飛ばされていき、そこで気絶した。
「まったく、人が食事しようって時に」
そう言うと、猫は再び望月を食べようとする。
しかし、今度は口まで運ばれることはなかった。誰かの手が、望月を猫から引き離したからだ。
誰かは、望月をやさしく掴んでいた。
「さっきはよくもやってくれたね」
誰かの冷ややかな声。誰かは、猫を空いた拳で殴った。猫はその場に倒れ、気絶する。
それを確認して、誰かは望月を絨毯の上にそっと乗せる。そして、目の前にクッキーを差し出した。
望月はそれを受け取り、数口食べる。すると、酷い眩暈が襲い、地面が揺れた。
目を瞑り、収まるのを待つ。
本来のサイズに戻り、目を開けた望月の足元で、猫は殴られて伸びていた。
それを少し哀れに思いながら、望月は振り返った。
そこに先ほど望月を掴んでいた誰か――猫と同じサイズになった帽子屋が居た。
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