とおの話 新月と一緒に展望室 ×ページ目

 窓から差し込む朝日に、望月は微かに目を覚ました。

 外から甘い匂いがする。

 望月は寝ぼけ眼で、視線だけを窓の外へと向ける。眼下には、お菓子でできた森が広がっていた。

 しかし、それは直ぐにごく普通の森へと変化した。望月は三十秒ほどそれを眺め、先程見た景色が最初に居たお菓子の森であることを理解した。

 まだ眠気で判然としない頭のまま外を眺め続ける。いくつかの景色が流れていく。

 やがて、

「あっ」

 それが何を意味するか理解し、驚きの声を上げた。

 望月は前を見る。帽子屋はどこかに行っていて、テーブルの上にマシュマロの山に埋もれ幸せそうに眠るヤマネが居るだけだった。

 望月はそんなヤマネを抱き上げ、揺さぶって起こす。

 不機嫌そうに望月を見るヤマネに、望月は訪ねる。

「ヤマネさん! 今何ページ目!?」

「……十五ページ目よ」

 眠そうな声でヤマネは答えた。

「そんな、どうして」

 本の口があるのは、本の表紙。望月達は五ページ目からこの汽車に乗っている。

 それはつまり、この汽車は本の出口へと向かっているという事。

「ヤマネさん、帽子屋さんは今どこ!?」

「展望車よ。最後尾」

 望月はヤマネを抱えて、展望車へと走り出した。

 食堂車から展望車まで一気に走り抜ける。少し息切れしながら、望月は展望室へと駆け込んだ。

 展望車は、後部が解放されていた。帽子屋はそこの手すりに寄りかかって、タバコを吸っている。

 タバコを持つのと反対の手には、タバコの箱がある。

 そのパッケージは、タバコを吸わない望月でも知っているくらい、外の世界で有名な銘柄のものだった。

 帽子屋の足元には、スケッチブックが立て掛けられていた。

「ああ、おはよう」

 帽子屋はすぐさま望月に気づき、挨拶をした。

 望月は黙って帽子屋の横に立つ。普段と違う望月の様子に、帽子屋は僅かながらに困惑していた。

「どうしてなの?」

 望月の言葉に帽子屋は一瞬驚きを見せた。それから、すぐに察して、ヤマネを軽く睨む。

「君は、口が軽すぎるんだよ」

「失礼ね。私は言っていないわ。この子が勘付いただけ。詰めが甘いのよ」

 帽子屋は前へと視線を戻し、タバコの灰を外へと落とす。

 それから、帽子屋はしばらく延々と広がる森を見下ろしていた。望月は、黙って帽子屋の言葉を待つ。

 やがて、

「君の考えている通りだよ。私は、君を外に出そうとしている」

 静かにそう言った。

「でも、そんなことをしたら朔さんは――」

 望月は、そこで言葉を区切った。その先は、言いたくなかった。

「永遠にここを出られない」

 淡々と、帽子屋がそう言った。まるで、他人事のように。

「どうして。私なんか助けたって、しょうがないのに」

「君の為じゃないよ」

 淡々と、帽子屋が答える。

 望月が帽子屋を見ると、彼は苦笑いを浮かべた。

「私は、世界から忘れられるのが嫌だった。何百年、何千年後、誰も私を覚えていない。その事実が、私は嫌だった」

 帽子屋のその気持ちは、望月にはきっと分からない。

 望月は、世界から忘れられたいと思ったことすらあるのだから。

「だから、外に出たくて仕方がなかった。そしてヤマネから君が来ることを聞いて、五年待って、一緒に旅してここまで来た」

「それなら、どうして」

 望月は、恩人である帽子屋を外に出したかった。その為に、死ぬ覚悟もした。

 帽子屋だって、それに異論はなかったはずだ。

「私は、もう霜月 朔から遠くかけ離れてしまっている。この世界で、私の心は醜く歪んでしまった。

 正直、昔描いた絵本なんてほとんど覚えてないんだ」

 悲しそうに帽子屋は笑った。望月は、沈痛な面持ちで帽子屋を見上げる。

 でもいいんだ、と帽子屋が優しい笑みを浮かべる。

「君は、如月 朔の分身である絵本を覚えていてくれた。

 そんな君が外に出るということは、昔の私が外に出るのと同義なんだよ」

「違う! 私が出たって、朔さんが出たことにはならない!」

「そうだね。これは、私の身勝手な欺瞞だよ」

 帽子屋は苦笑しながら、頷いた。

 それから、

「見えてきたね」

 そう言って、前を指差した。森が数メートル先で途絶え、代わりに地面に大きな穴が開いていた。

「あそこが出口だ」

 望月は愕然として、その穴を見た。

 あそこに辿り着くまでに、帽子屋を思いとどまらせなければならないと彼女は思った。

 望月は必死に思考を巡らせる。けれど、帽子屋を思いとどまらせる言葉は出てこない。

「君に頼みがある」

 帽子屋は沈痛な面持ちで、望月の手からヤマネを奪い、自分の肩に乗せる。

 それから、望月の手にライターを渡した。嫌な予感がして、望月の顔が一気に青ざめる。

「なん……ですか、これ」

 震える声で尋ねると、帽子屋は真剣な面持ちで答える。

「もしも、君が私の事を覚えていたいと思ってくれているのなら。

 もしそうなら、外に出た後、この世界を燃やして欲しい。

 無機物は一応外に出れるらしいから、ちゃんと持っていけるよ」

 望月は息をのんだ。

 本はこの世界そのものだ。それが失われるということはつまり――。

「そんなこと、できるわけないじゃないですか!」

 望月は思わず叫ぶ。

 手にしたライターが、やけに重く感じる。それはきっと、一人と一匹の命の重さが加わったからだ。

「そうだね。でも、そうしなければ君は私の事を忘れてしまう。

 この本は、外の世界に自身の事を知られたくない。だから、この世界で死んだ人間も食べられた人間も消してしまう。

 それは、外の世界に出たものに対しても変わらない」

「それなら、私もここに残る! そしたら忘れないですむし、私は朔さんと一緒に居られるもの!」

 望月は、いつか自分で言った言葉を思い出す。彼女にとって、外の世界とこの世界の違いは安全かどうかでしかない。

 安全な場所で大好きな人達と一緒に過ごせるというのなら、それはどんなに素敵な事だろうと望月は思った。

 その事の方が、外に出ることより魅力的に感じた。

 帽子屋は、静かに首を横に振った。

「私の目的は、霜月 朔を外に出すこと。君を助けるのは、そのついでだ」

 帽子屋はそう言って、足元のスケッチブックを望月に渡した。

 それは、五ページ目で買ったものだった。

「お土産。外に出たら読むといい」

 望月の目から涙が溢れて、スケッチブックの表紙を伝っていく。

 ここにきてようやく、望月は確信する。帽子屋の心を変えることはできないのだと。

 望月は歪んだ視界の中で、帽子屋も泣きそうな顔をしていたような気がした。

「言ったろう。私の為に、泣く必要はないんだよ」

 帽子屋が、優しく望月の涙を拭う。

「私は君が傷つくのを知っていて、君を外へと送り出すんだ。そういう酷いやつなんだよ」

「そんなことない! 朔さんは、いつだって私に優しかったもの!」

 望月は力強く断言する。帽子屋自身にすら、それを否定させないように。

 帽子屋が声を上げて、楽しそうに笑った。

「ありがとう。私はやっぱり、君に救われてきたんだろうね」

 車内アナウンスが流れて、背表紙に辿り着いたことを告げる。気が付けば、穴の上に汽車は止まっていた。

「さようなら、望月」

 望月の体が欄干の外へと押される。その力に抗う間もなく、望月は落ちていく。

「まっ……」

 とっさに望月は手を伸ばす。けれどその時にはもう、汽車ははるか遠くにあった。


 帽子屋は欄干にもたれ掛り、黒い穴しかない景色を眺める。

 その穴が、帽子屋とヤマネが最後に見る風景だった。

「ねぇ、帽子屋。私が本当は、貴方を救えたとしたら、貴方は私を恨んだかしら?」

 唐突に、ヤマネが尋ねた。

 ヤマネがこうして自分から話しかけるのは珍しく、帽子屋は少し驚いた。

「…………聞かなくても、君は答えを知っているんだろう」

「知っていても、言葉にして貰いたいことだってあるのよ」

 そんなものだろうか、と思いながら帽子屋は気持ちを言葉として整理する。

「君の選択次第では、私が死なない未来があったかも。そう考えたことは何度もあるよ。

 恨んだのは、そういう時だけだ」

 ヤマネは帽子屋の答えに、満足げに笑う。

「私が貴方を助けなかったのは、単に興味がなかったからよ。酷い理由でしょう」

 自傷気味に笑うヤマネに少し驚きながら、帽子屋は答える。

「助ける義理はないだろう」

「そうね。でも、後悔はしてるわ」

 予想外の答えに、帽子屋は黙り込んだ。

 ヤマネは訥々と告白する。

「私は、生まれた時から全てを知っていたわ。だから、退屈だった。

 寝るのが一番いい時間潰しだったから、貴方に会うまで千年寝てたわ」

 人生は先が分からないから楽しい、と言う。

 それなら、ヤマネの人生はとても退屈なものだったのだろう。今だってきっと。

「知っているというのと、実感するのは結構別物なの。

 貴方に抱く好意も、貴方を助けられなかった後悔も、実感するまでは興味のない些末なことでしかなかった」

 予想外の言葉に、帽子屋は目を丸くする。

 ヤマネにとっての帽子屋の存在は、知りすぎた退屈なものの一つに過ぎないはずだからだ。

「知っているからこそ、好きというのもあるのよ。

 だからこそ、この結末へと導いたのだから」

 帽子屋の心を読んだのか、ヤマネがそう言った。

 帽子屋は、七ページ目のドアに挟まっていたマシュマロを思い出し、納得した。

 あれがなければ、この最期はなかった。

 ヤマネは、ずっと霜月 朔が外に出る結末だけを、帽子屋の願いを叶える事だけを考えてくれていたのだろう。

 そんなヤマネを気遣うように、優しい声で帽子屋は言う。

「私は、この選択を後悔してないよ。あるとしたら、君を道連れにしてしまった事位だ」

「いいわよ、知ってて付いて来たのだから」

 淡々とヤマネは言う。

「優しいね」

 帽子屋は全ての重荷から解き離れたような、安らかな表情を浮かべる。

 ヤマネも満足げな顔を浮かべた。

「ねぇ、帽子屋」

 ヤマネは手すりの上に飛び乗って、帽子屋の前に立つ。

 そして、帽子屋に最後の言葉を贈る。

「貴方が居てくれて、良かったわ」

「私もだよ」

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