やっつめの話 満月と新月の ×ページ目

 六年前。本の外の世界。

 半袖にスカート姿で、望月は図書館の前で立っていた。

 空はもう真っ暗で、図書館はとっくに閉館している。

 昼間の暑さはすっかり消え失せ、空気は冷たくなってしまっていた。

 望月が腕時計を見ると、七時を差していた。

「な、何やってるんだい! こんな所で!」

 上から慌てた声が降ってきて、望月は上を見上げる。

 そこに朔の顔があった。彼は半袖に薄目の上着を着ていた。

「朔さん」

「今何時だと思ってるんだい! っていうか、まさかずっとここに居たのかい!?」

 畳み掛けるように怒鳴る朔に、望月は思わず体が震えた。

 何か答えなければと思ったが、言葉が出てこない。遂には泣きそうになっていた。

「泣かないでくれよ。私が悪かったから。

 まず順番に……どうしてここに居るんだい?」

 朔は声の調子を落とし、優しく尋ねる。

「ここに居たら、朔さんに会えるかなって」

 小さな声で、望月は答えた。

「どうして」

「会いたかったから」

「あー、聞き方を変えるよ。どうして会いたいと思ったんだい」

 望月は、少しの間だけ黙った。

 それから、今朝のやりとりを思い出し、訥々と語る。

「おばあちゃんと喧嘩したの。今朝」

 望月の両親は亡くなっていて、彼女は祖母と共に暮らしていた。

 大人しい望月と、気が強い祖母。

 祖母は望月の気の弱さにイラついてしまうことも多かったらしく、よく衝突していた。

 だから望月はあまり家に帰ろうとしない。それでも、門限だけはしっかり守ってきたし、祖母に逆らうことはしなかった。

「今回は、何で喧嘩したんだい」

「おばあちゃんが、来月引っ越すよって。それが嫌だって駄々をこねたら、喧嘩になっちゃって」

 そう言って頬を膨らませる望月。なるほどね、と朔は納得した。

「でもなんで、引っ越すことになったんだい」

「おじさん――私のお母さんのお兄さんが、おばあちゃんを心配して、近くに住まないかって。

 おばあちゃんももう年だし、私はまだ小さいし、何かあった時困るからって」

 ふーん、と朔は相槌を打つ。

「私は、朔さんと離れ離れになるなんて嫌だよ。朔さんが居なくなったら、私独りぼっちになっちゃう」

 泣き出しそうな声で、望月はそう呟く。

 朔はそんな彼女に、仕方ないよ、と言った。

「お祖母さんも自分に何かあった時、頼る場所がある方がいいと思ったんだろう。

 お祖母さんは、お祖母さんなりに君の事を考えた結果なんだよ。

 大丈夫、独りにはならないさ。友達ぐらいすぐできるって」

 朔のその言葉に、望月は朔を睨みつけた。

 望月にしては珍しい鋭い眼光に、朔がわずかながらに怯む。

「友達なんて、できるわけないよ。今まで、朔さん以外に友達できたことないもの」

 望月は俯いて、そう断言した。

 朔は、そんなことないよ、とすぐさま返す。

「少し頑張ってみればいい。結論を急ぐ必要はないだろう。

 そうだな。どうしても辛くなったら、連絡をくれよ。会いに行くからさ」

 その言葉に、望月が顔を上げた。その顔は、まだ曇ったままだ。

「結構遠いよ?」

「日本国内なら、まぁなんとかなるさ。頻繁には無理だけど」

「そっか」

 望月の表情がみるみる明るくなり、

「じゃあ、頑張る」

 遂にはそう満面の笑みで答えていた。

 そんな望月に、朔はそっと自分の上着を被せた。

「帰ろう。送ってあげるからさ」

 朔が望月の手を握り、引っ張っていく。

 望月は、その時の手の温度をよく覚えている。

 霜月 朔を忘れてしまった今でも。


 五ページ目。

 突如、悲鳴と怒号が城中を包み込んだ。敵襲を告げる笛が鳴り響く。

「な、何よ」

 フランはとっさに望月へと捕まる。望月は訳も分からず、混乱と恐怖で動けずにいた。

「こちらに来ます」

 女王だけが冷静で、鎌を構えてドアを見据えていた。騒音に紛れて階段を上る音がして、勢いよくドアが開けられる。

 現れたのは、帽子屋だった。その手には小さな槍が握られている。トランプ兵から奪ったのだろう。

 帽子屋は躊躇わず、女王を槍で刺した。急所ばかりを狙って、何カ所も刺していく。

 その動作は機械的で淡々としていて、そこに怒りも憎しみもなかった。

 瞳はただただ冷たく、彼の中にはなんの感情もないようだった。

 やがて女王はその場に倒れる。その顔は青白く、全身は血まみれで、死んだのは望月の目からも明らかだった。

「…………ッ」

 望月の体が恐怖で震える。

「ちょ、ちょっと、どうしちゃったのよ。あいつ」

 怯えるフランを帽子屋の冷たい瞳が捉える。

 このままではフランも殺される。望月は直感的にそう感じた。

 望月は立ち上がり、右手でフランを庇いながら帽子屋を睨む。

「これ以上誰も殺さないで!」

 震える声で、なんとか伝える。望月は、これ以上帽子屋に殺しをさせたくなかった。

 帽子屋は冷たい瞳で望月をじっと見据えたかと思うと、その左腕を強引に引っ張った。

 そして帽子屋は、半ば望月を引きずるようにして部屋を出ていく。

 望月の腕を掴む帽子屋の手は氷のように冷たく、握る力は腕を折らんばかりに強い。

「帽子屋さん!」

 名前を呼ぶが、反応はない。

 手の痛みが増していく。それに顔をしかめながら、望月は目の前に居るのはもう帽子屋ではないのだと確信した。

 望月の知る彼が、もうどこにも存在しない。その恐怖が、彼女の胸の中で膨れ上がっていく。

 何とかして、取り戻したいと思った。

 遠い記憶の彼方へ忘れてしまった大切な人を、この残酷な世界で出会った大切な人を。

 だから、呼びかけてみることにした。帽子屋ではなく、かつての大切な人に。

「……ッ! 朔さん!」 

 かつて望月が、帽子屋を呼んでいたのであろう名前。それが本当に彼の名前だったか、望月に確証はなかった。

 けれど、その声に帽子屋の歩みが止まったことで、望月はかつての彼の名前を知る。

 振り返った彼の瞳は、相変わらず冷たいものだった。

 けれど、その奥に微かに動揺の色が見られた。しかし、それもすぐに消えていく。

 ――駄目だ!

「朔さん!」

 もう一度名前を呼ぶ。

 ――新月から満月へ。君が前へ進めることを祈って、これを送る。

 望月は、勇者の絵本の最後の一文を思い出す。そして、涙で視界が霞む中、しっかりと帽子屋を見た。

「私、朔さんがあの絵本をくれたから、頑張ってこれたんだよ。

 あの絵本が無くなった後も、私が朔さんを忘れてしまった後も、あの絵本の内容を覚えていたから前へ進めたの。

 だから私、ずっと感謝してたの」

 望月は、できる限り朔との思い出を引っ張り出す。

 正直なところ、言葉に残る記憶なんて何も残っていない。

 覚えているのは彼の手の体温と、絵本だけ。

 けれど――。

「覚えていないけど、忘れてしまったけど、それでも貴方のがくれた色んな物が私に力を与えていてくれた」

 それに、と望月は続ける。

「今だって助けてもらってる。朔さんが、迷惑かけてもいいって言ってくれて、こんな私でもいいんだって思わせてくれて。

 それが、凄く嬉しかったの。だから――」

 泣きながら、望月は帽子屋を睨みつける。

 そこには、強い意志があった。その気迫に、帽子屋はわずかながら気圧される。

「私は、このまま朔さんを失いたくなんてない!」

 力の限り望月は叫んだ。

 静寂が訪れる。望月は、涙で前なんてもう見えてはいない。

 彼女は嘆願するように、帽子屋の顔の輪郭をじっと見つめ続けていた。

 ふと、帽子屋の雰囲気が少しだけ和らいだのを望月は感じた。望月の腕を掴んでいた手が離される。

 そして次の瞬間には、乱暴にハンカチで涙を拭われていた。

「まったく、私なんかの為に泣く事なんかないんだよ」

 言い方はそっけないが、そこには確かに優しさがあった。

 久しぶりに聞く、いつもの声。それでまた涙が溢れ出てしまった。

「馬鹿だね、君は。私が何をしようとしたのか知ってるだろう」

 望月の体がぴくりと震えた。

「この世界からの出口はね、この世界の生き物が通ることはできないんだ。

 今までのページのドアみたいに、空いていれば誰もが通れるわけではない。

 だから、私は君を本に食べさせて外へ出ようとした」

 望月は、本に食べられたらどうなるのだろうか、と考えた。

 朔と同じように、消えてしまうのだろうと思った。

「それは今も変わらない。私は、自分の願いの為に君を利用しようとしている」

 淡々と帽子屋は続ける。

 そこには一切の感情がなかったが、何故だか先程のような冷たさは感じられなかった。

「私は、いいよ」

 望月は気が付くと、そう呟いていた。

 帽子屋の動揺が、望月に伝わる。

 望月は、泣きながらも軽く微笑んでもう一度言った。

「本に食べられてしまったっていいの。悲しむ人だって居ないし。

 正直言ってしまえば、消えてしまいたいと思ったことだってあるから」

 望月は誰かを傷つける自分が嫌だった、足手まといな自分が嫌だった。

 消えてしまえば、誰かを傷つけることもなくなる。自分自身を傷つけることも。

 そんな風に、時折考えてきた。

「このまま元の世界へ戻ったって、私は駄目な私のまま。

 誰の役にも立てず、ただ死んでいくに決まってる」

 それは憶測でしかない。けれど、望月は断言した。

 他の未来がない、と言うように。

「でも朔さんは違う。朔さんは誰かを助けることができる。

 勇者の絵本が私を支えてくれたように、朔さんが描いた絵本が将来誰かを支えてくれることもあるかもしれない」

 望月は自分の未来と、帽子屋の未来を想像して比較する。

 彼女の中では、自分の未来はくすんでいて、帽子屋の未来は反比例するように輝いていた。

「だから、いいの」

 言い終えて、望月は自分の体が震えていることに気が付いた。

 本音を言えば、消えるのが怖かった。

 それでもいい、と彼女は自分に必死に言い聞かせる。

 帽子屋が大きなため息を吐くのが、聞こえた。

「やっぱり馬鹿だね。君は」

 帽子屋が望月の頭を優しく撫でる。

 その手は、望月がよく知る温度を宿していた。

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