ななつめの話 一人ぼっちのお月さまの ×ページ目

 六年前。本の外の世界。

 平日の昼間の図書館は、とても空いていた。

 大学生は奥にある机を占拠し、スケッチブックと色鉛筆を用いて絵本を描いていた。

 図書館の裏手は小学校になっており、体育の授業を行う小学生の声が図書館まで届く。

 小学生の声にいくばくかの煩わしさを感じるが、それでもここは大学生にとって理想的な場所だった。

 知り合いに出会う危険性が低く、資料も沢山ある。

 それに何より、子供が居ない。居ても保護者同伴の小さな子だし、専門書等が置かれた机の周囲にはあまり近寄ってこない。

 そう、近寄ってこないはずだった。

「げっ」

 何冊かの資料を手に大学生は固まっていた。その視線の先には、彼が占領していた机がある。

 一人の少女が、立ったままスケッチブックを興味深げに読んでいた。

 かなりゆっくりとしたスピードで、中々読み終える気配がない。だが、大学生は頑張って絵本を読み終えた少女が離れるのを待つことにした。

 まぁ、要するに子供が苦手なのだ。関わりたくないのである。

 大分立って少女は絵本を読み終え――二週目に入った。

 作者としてはそれだけ気に入ってくれたのは嬉しいのだが、席に戻りづらい。

 しかし少女は当分離れそうにないので、大学生は逡巡した後、席に戻ることにした。

 少女は大学生が来たことに気づき、スケッチブックから視線を外す。そして数秒固まった。

「…………ご、ごめんなさい」

 少女は涙目になりながらか細い声で謝る。

 自分は今怖い顔でもしているのだろうか、と大学生は思った。

 少女は相変わらず涙目になりながら、大学生を見つめる。

 大学生はなんとなく自分が悪者になったような、そんな嫌な気持ちを抱えていた。

 大学生としては少女が席を離れてくれればなんでもいいのだが、今それを言うと泣かせてしまう気がした。それは後味が悪い。

 少し考えた後、

「えっ、えっと……それ、気に入ったのかい」

 スケッチブックの感想を求めた。

「う、うん! あのね、猫さんが凄く可愛かった!」

 少女に笑顔が浮かぶ。大学生は、そっか、と気恥ずかしそうに視線を逸らす。

「それより君、学校いいのかい? 

 私もよくサボってたから煩く言う気はないが、大人になってから学校真面目に行っておけばよかったって思うもんなんだよ。

 特に理由がないなら、ちゃんと通っておきなよ」

 この場から離れさせる口実として、大学生は学校を引き合いに出す。その半分は、本心からの言葉でもあったが。

 大学生の言葉に少女は少し首を傾げ、

「今日、開校記念日だよ?」

 不思議そうにそう言った。

 大学生は窓の外を見る。外では、小学生が元気にサッカーの授業を行っていた。

「あのね、見え見えの嘘を吐くんじゃないよ。今思いっきり、授業中じゃないか」

 少女も窓の外を見て、私の学校そこじゃないよ、と小声で言った。

「はい?」

「私、隣町の学校通ってるの。ここなら、学校の知り合いに合う可能性低いし。

 この辺は子供近寄らないから、周りを気にしなくてもいいの」

 隣町にも図書館はある。しかも、ここより大きいのが。

 ただ知り合いに合うのが嫌、それだけの理由で少女はここに来ていた。

「私ね、本の世界が好きなの。そこには、私が嫌いな私がいないから。

 だから、落ち着くの。で、それを誰かに見られたりするのも嫌だから、ちょっと遠いけどここまで来てるの」

「それって、つまり……」

 現実逃避という言葉を飲み込んで、大学生は少女の姿をじっと見据える。

 少女は嫌な物事、例えば自分が嫌いな自分から逃げる為に、非現実の世界へと逃避している。

 別にそれはそれで構わないと大学生は思うのだが、しかし少女のそれはなんだか物悲しかった。

「ねぇ、お兄さん。これ以外の本ってないの? 私、読みたい」

 少女は本の事となると積極的になるらしい。その姿に気圧されながらも、大学生は自分の描いたものを気に入ってくれたことを喜んでいた。

「仕方ないね。家近いから今まで描いたのを何冊か持ってきてあげるよ」

「ありがとう」

 大学生は、満面の笑みを浮かべる少女を視界に入れないように努力した。

 なんというか、眩しかったのだ。

 大学生は、つくづく自分は子供が苦手なのだなと痛感した。

「まぁいいか。今まで見せる相手居なかったし。そうだ、君名前は?」

「私は、青柳 望月。望月って書いて、ミツキって読むの」

「へー奇遇じゃないか。私も月の名前なんだ。

 私は、霜月 朔。朔は新月っていう意味もある。丁度君と反対だね」

 そう言って、朔は笑った。


 現在。本の中の七ページ目。

 氷の描かれたドアの前で、帽子屋は何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。

 そのドアは、六ページ目へと続くもの。その先に、望月は居る。

 本来鍵である望月が居なければ開かない。だが、今のドアはマシュマロが挟まっていて、半開きだった。

 恐らくは、ヤマネの仕業だろう。おかげで、帽子屋もそこを通ることができる。

 帽子屋はしっかりと防寒着を着ていて、望月を追う準備はしてある。しかし、ドアを開けるのを幾ばくか躊躇っていた。

 理由は二つ。

 一つ目は、望月が帽子屋の目的に気づいているということ。だから、今までのように騙して連れて行く手段が取れず、力づくしかない。

 おまけにフランというライバルも居て、面倒くさいことこの上ない。また外から人間が来るのを待った方が、楽そうではある。

 二つ目は、帽子屋が望月と出会った時の夢を見てしまったこと。もうとっくの昔に失くしたはずの感情が、それにより蘇ってしまった。

 だから、帽子屋は分からなくなっていた。自分は自分の願いを叶えたいのか、望月を助けに行きたいのか。

 昔の彼なら、間違いなく望月を助けに行ったことだろう。けれど、今の彼は躊躇わず望月を生贄に捧げたはずだ。

 両方の感情が入り乱れる中、帽子屋はドアを開けた。

 どちらにしても、急がなければならないと感じたからだ。答えを導き出すのは、後でいいと彼は判断した。

 極寒の雪山を歩きながら、帽子屋は色々な事を思い出して、考えていた。

 望月に会ってから、朔は毎日のように図書館に通って彼女に絵本を見せていた。

 その全ての絵本を望月は気に入ってくれて、朔はいつしか彼女に見せる為に絵本を描くようになっていた。

 本の世界に来たのは、そんな矢先の事だった。

 赤い栞の挟まったタイトルのない黒い本。怪訝に思いながら本を取ると、栞が床に落ちた。

 朔はそれを拾って、本を開く。次の瞬間、本の世界にやってきていた。

 不運だったのは、そこが五ページ目だったことと、最初に会ったのが女王だったことだろう。

 五ページ目の女王に朔はチェスを挑まれた。女王に勝てば元の世界に戻る方法を教える、そんな口車に乗せられて。

 そして朔は勝った。朔が強かったわけではなく、女王が驚くほど弱かったのだ。それはもう、わざとなんじゃないかと朔が疑う程度には。

 敗者である女王が勝者である朔に与えたのは、情報ではなく鎌の一太刀だった。

 訳も分からぬ内に首を撥ねられ、朔は死んだ。

 次に目を覚ました時、女王はそれを待っていたかのように朔の時を止めた。さらには名前を奪い、帽子屋と名乗ることまで強制した。

 そして、残酷な真実を告げる。

 朔がこの世界の人間になってしまったこと、外の世界から霜月 朔という人間が消失していること言う事を。

 朔に関する記憶、物、その全てが消えてしまったという事を。

 とはいえ、完全な消失ではない。記憶がひどく曖昧になるだけなのだ。

 曖昧になった記憶が思い出されないまま、ゆっくりと完全に忘れられるという話なのである。

 それに望月が朔の絵本を覚えていたように、直接関わらない記憶は覚えていたりするのだ。

 でもそれも強く覚えていない限り、忘れられるだけのものでしかない。

「…………ッ」

 帽子屋は湧き上がった苛立ちをぶつけるように、拳で強く近くにあった木を殴りつける。

 木の上に乗っていた雪が、帽子屋の上に落ちた。

 帽子屋はその雪を振り払い、再び歩き出す。

 そして、ここにきて何度も思ったことを思う。ヤマネが居てくれて、本当に良かったと。

 ヤマネと出会ったのは、女王の基から何度目かの逃走を図った時の事だ。

 帽子屋は、家と家の狭い隙間に逃げ込んだ。そこで、寝ていたヤマネを踏んでしまったのだ。

 起きたヤマネは、五ページ目からの逃げ方、外に出る方法を教えてくれた。

 そのおかげで、なんとか今日までやってこられた。

 ふと、帽子屋の視界に白い物が入り込む。いつの間にか、雪が降り出していた。

「まずいね。急がないと」

 帽子屋は歩みを早める。その時、空から氷が降ってきて、帽子屋の胸を貫いた。

「あっ……」

 痛みはなかった。刺さった氷もいつの間にか消えていて、服や体には傷一つない。

 けれど、帽子屋の体はどんどん冷たくなっていって、意識も遠のいていく。

『六ページ目は、雪山の世界。誰も居ないけれど、空から降ってくる氷に注意。

 心から温かさを奪われてしまうよ。』

 それが、帽子屋がスケッチブックに書いた注意書き。

 今帽子屋の胸を貫いたのはその氷。だから、今彼から抜けて行っているのは体温だけではなく、心の温かさだった。

 ここで意識を失い、次に目覚めた時、そこに残っているのはもはや帽子屋ではないだろう。

 霜月 朔まで失われた今、彼は帽子屋という存在まで失くすわけにはいかなかった。

 帽子屋は必死に抵抗を試みる。

 だが、空しくもその場に倒れこみ意識を失った。

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