第17話 戦う理由:後編

突然だが、僕たちが中学生だった頃の話をしよう。


それは今から約2年前、とても暑い夏のことだった。


僕たちが通っていた県立遠柳とおやなぎ中学校は地元では有名なマンモス校で、この少子化の時代には珍しく総生徒数が4桁の大台に乗っるほど。


そして生徒が多いということはそれに比例して部活動も活発になる。


実際に、人気の部活だった吹奏楽部、サッカー部、テニス部なんかは部員数も50を越えて、何度も大会で優勝しては表彰を受けていた。


そんな部活の中の1つ、陸上部はその頃特に目覚しい活躍を見せていた。


元々それなりに強かった陸上部ではあるが、その前年度に入学した生徒、つまり僕たちの代である2年生がかなり豊作で、全校集会の度に表彰でその名前が呼び上げられるのが当たり前になっていたほどだ。


そして、そんな陸上部の中でも特に注目株とされていた少女がいる。


柔軟な身体のバネと大胆なフォームは見るものを魅了し、その走りと小麦色に焼けた肌からいつしか『黒豹パンサー』とあだ名されたその少女の名は“服部 奈緒ハットリ ナオ”。


全日本中学生女子100m走の元・最速記録保持者スプリンターである。


彼女は走ることを愛し、彼女は走ることに愛されていた。


彼女が努力すればするだけ記録タイムはグングンと伸びていき、それが楽しかったのだろうか、彼女が走る姿は非常にイキイキとしていて、見るものを元気づけた。


見た目も整っていたし、ファンが多かったのも頷ける。


僕もそのうちの1人だったのは内緒だ。


そして彼女が迎えた中学2年生の夏。


3年の引退が掛かった大きな大会で、彼女はその実力で2年生ながらレギュラーの座を勝ち取った。


種目は彼女が大の得意な100m。


全日本記録保持者という肩書きも相まってその試合には方々から大きな期待と関心が寄せられていた。


対して挑む彼女は気合十分、抜群のコンディションで、後はいつも通り練習の成果を発揮するだけだった――だけのはずだった。


神のイタズラというのは唐突に、予期せぬ所でやってくる。


『左アキレス腱断裂』、それが突如として彼女を襲った悪夢の始まりだった。


原因は過度の練習オーバーワーク、皮肉にも大好きな短距離走が彼女の陸上選手生命を縮めることになってしまったのだ。


スタートの空砲が響いてから程なくして倒れ込んだ彼女はすぐさま病院に搬送され、検査と治療を受けることになる。


だが、神のイタズラは止まらない。


アキレス腱の断裂は手術で快復することが可能、リハビリを頑張れば十分に選手として復帰可能だ――そう励まされていた彼女に突きつけられたのは更なる過酷だった。


長く彼女の走りを支えてきたその身体は、あまりにも早すぎる限界を迎えていたのだ。


『腰の骨盤に炎症が見られる。このまま陸上を続けると歩くことができなくなるかもしれない』


――医師からの無慈悲すぎる宣告。


だが、彼女は諦めなかった。


辛い手術にも厳しいリハビリにも耐え、またいつの日か走れることを夢見て彼女はひたすらに努力した。


しかし、まだまだ悪夢は終わらない。


そして1ヶ月後、ようやく歩けるまでに回復した彼女を待っていたのは神のイタズラでも運命の采配でもなく、純然たる人の悪意だった。


3年生最後の大会で彼女がレギュラーに抜擢されたせいで枠に入れなかった3年生を中心に負の感情が爆発した。


嫉妬、嘲笑、好奇、etc……。


『出る杭は打たれる』を地で行くような“元・天才”に対する苛烈な攻撃。


仲の良かったチームメイトや本来擁護すべき顧問も、走れぬ彼女に用はないとばかりに黙認し知らんぷり続けた。


余談ではあるが、僕のもう1人の幼馴染みが部活を辞めたのもちょうどこの頃だ。


彼女のことを悪く言った部活の先輩と大乱闘を繰り広げたらしい。


照れくさかったのか、自分からは僕らに辞めた理由を語らなかったけど、彼女は大分救われたと思う。


閑話休題。


時に、中学生というのは往々にして大胆である。


彼女に対する攻撃は止まらず、むしろ加速度的にエスカレートしていった。


そして、歯止めがかからなくなった彼ら彼女らは、とうとう彼女自身に手を出してしまったのだ。


『生意気なのよ! 陸上やめちゃえ! 』


――そんな言葉とともに彼女は階段から突き落とされた。


幸いにして、落ちたのは3段ほど。


特に怪我という怪我もなく、身体の傷は多少の打ち身程度で済んだし、もちろん実行犯はこっぴどく叱られ、事件の話が広まったことで彼女に対するバッシングは随分と下火になった――が、彼女はそのまま陸上部を辞めた。


それから彼女は人が変わったかのように明るく振る舞うようになり、陸上のことには1度も触れようとしなくなった。


そして彼女が走らなくなってから2ヶ月後、中学生女子の100m記録が更新されることになる。


たったコンマ数秒、それだけで彼女の栄光は過去のモノへと成り下がってしまったのだ。


不幸な事故で陸上界からその姿を消した天才、遠柳中の黒豹パンサーこと服部 奈緒。


――僕の幼馴染みは、もう走れない。


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


「あ、あはは、アタシったら片付け忘れてたわ……ごめんね、すぐにしまうから……」


写真の頃と比べて随分と白くなった手が小刻みに震え、それに合わせてお盆の上のコップがカチャカチャと音を立てた。


奈緒は僕の方に近づいてくると、近くにあったクロスを陸上の道具たちにかけようとする。


「……アタシったらなんでこんなの出しっぱなしにしてたんだろ。……もう走れないのに」


そう言ってこちらを向いた奈緒は泣き笑いとでも言うべき表情だった。


「おい奈緒、無理すんなよ」


見かねた英司が思わず声をかけたが、奈緒は小さく首を振る。


「ううん、無理なんかしてない。本当に大丈夫だから……」


「僕たちには嘘つかなくてもいいんだよ、奈緒」


「何言ってるのよ輝、アタシはウソなんかついてないわよ。もう陸上は辞めたんだから、ね? 」


「じゃあさ奈緒、1つだけ教えてくれる? 」


「……なに? あ、スリーサイズはダメよ? これでも私は乙女――」


「まだ、走りたい? 」


僕がその質問を口にした瞬間、奈緒の顔は百面相をした。


泣き笑いから一転、ポカンと口を開けて驚きの表情を浮かべると、次第に僕が発した言葉の意味を理解したのかこれまで見たこともないような憎悪の顔でこちらを睨みつける。


「…………ってんじゃない……走りたいに、決まってんじゃないっ!!! 」


憎々しげな奈緒の瞳に浮かぶのは涙。


「なにが『まだ、走りたい? 』よ! そんなの決まってるじゃない! アタシが今までどんな思いで陸上やってきたと思ってんのよ! アンタなら知ってるでしょ!? 」


「うん、知ってるよ」


「なら……なら、なんで今さらそんなこと聞くのよ! なんで放っておいてくれないのよ! せっかく忘れられそうだったのに……なんで……思い出させるのよ……」


唇を噛んで俯く奈緒。


でも、僕は言わなきゃならない。


「知ってるよ、全部知ってる。幼稚園よりもっと前から奈緒の隣でずっと見てきたんだ、知らないはずがあるもんか」


すぅ、と一呼吸置いて続ける。


「奈緒がどれだけ走るのが好きで、どれだけ速くなるために努力して、怪我をした時はどれだけ辛くて、どれだけ悲しくて、どれだけ諦めたくなくて、それでも諦めなきゃいけなくて――そんな奈緒を全部知ってる」


そしてそこにあったスパイクを手に取って奈緒の前に掲げた。


「それにこのスパイクを見ればわかるよ。ちゃんと手入れされてる、それこそ毎日使ってるみたいに」


ハッとした顔になった奈緒は、顔をクシャクシャにして涙をこぼし始める。


思わず取り落としたお盆のコップが擦れあってガチャンと甲高い音を立てた。


「……そうよ、走りたいわよ。でも、無理なの、これ以上走るとアタシは歩けない身体になっちゃうの! 治せるなら治したいわよ! でも、ダメなの、治療にはアメリカに行って何百、何千万円って大金を払わなきゃ手術が受けれないの! しかも手術してももう1回走れるようになる確率は30%も無いって! わかる!? もうどうしようもないのよ! 諦めるしかないのよ! アタシが諦めれば全部丸く収まるの! 」


奈緒は涙を袖で拭って続ける。


「別に誰にどう思われたって構わないの! 知らない人から悪口を言われても、チームメイトに笑われても、例え階段から突き落とされても! それでも輝と英司が支えてくれたから、頑張ってこれたの! 辛い記憶は全部忘れたフリして過ごしてこれたの! 分かってる、全部わかってるの……でも……それでも…………走りたい。走りたい走りたい走りたいっ!! もう1回走りたいの! ワガママなのは分かってる! 色んな人に迷惑かけるのも分かってる! だけどあと1回、あと1回だけでいいから走りたいの! あの風を切る感覚が、土を思いっきり踏みしめる感触が、息切れして頭真っ白になる快感が! 忘れられないのよ! 走りたい! 走りたいよぉっ! 」


感情を爆発させた奈緒はそう言い切ると、わっと泣き崩れた。


「……僕が走らせてあげるよ」


「ふぇっ……? 」


「僕が、奈緒を、もう1回走らせてあげる。手術にいくらかかるか分からないけど、今の僕には1億円あるんだ。それでも足りなかったら報酬ファイトマネーで稼いでやる。それでも治らないなら、《神々の黄昏ラグナロク》っていうクソッタレな遊戯ゲームで優勝すればいい。なんでも願いが叶うっていうならそのくらい楽勝だよ。だから、だからさ……僕らをもっと頼ってよ! 自分だけガマンして終わらせようとしないでよ! 泣きたい時は思いっきり泣いていいから! 絶対に僕がもう1回走らせてあげるから!だから……」


そこからはもう言葉にならなかった。


内側からこみ上げてくる熱い情動を抑えきれずに、奈緒に寄り添ってわんわんと泣いてしまった。


「おいおい、お前まで泣くなよ輝……俺まで……貰い泣きしちまうじゃねえか、くそっ……」


英司も加わって、僕らは3人で泣き続けた。


音叉が共鳴する如く、止まることなく延々と、涙と鼻水で顔をグチャグチャにしながら3人で抱き合って泣いた。


そして気がついたら泣き疲れて眠ってしまっていたようで、目を覚ました時にはもう朝日が僕らの寝顔を照らす時間だった。


1人だけ先に起きてしまった僕は、隣に寝転ぶ奈緒の顔をのぞき込む。


未だ目を覚まさぬ幼馴染みは目を真っ赤に腫らしながらも、どこか清々しそうな笑顔を浮かべていた。

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