第9話 夢

 家に着いたのは、もう昼の十二時を過ぎた頃だった。春の暖かい日差しを浴びて、身体が軽くなったように思う。やはり、人間はお日様に当たった方が元気が出るのだ。先程まで地下で過ごしていたからか、余計に強く感じていた。

 そんな麗らかな春の陽気とは裏腹に、俺の心の中には真っ黒な積乱雲がもくもくと広がり、豪雨に落雷、暴風と大変な荒れ模様となっていた。


 やばい、どうするか……。引っ越しする事、すっかり忘れてたんだよな……。引っ越し先がどこなのか。せめてそれくらい聴いとけばよかったな。

 関東エリア内ならまだいい。奈々に会えなくなるのは残念だけどーー拓也?はて……誰だったかな?ーー継魂者エターナーとしてはなんの問題もない。

 しかし、エリア外となると相当マズイ。かなりマズイ。他のエリアに入った途端、スパイ認定されて殺される可能性大だ。

 いや、もしかしたら関東エリアの情報を知るために生かしてもらえるかも……。あっ、それだと情報が失くなったら即お花畑行きか。

 となると、なんとか本部の人に手を回してもらって、引っ越しを止めるなりなんなりしてもらったほうがいいよな……。それ以外思い浮かばないし。明日、奈々に相談してみよう。うん、よし。


 落ち着くために大きく深呼吸をして、家のインターホンを押した。すると、


「はい?ああ、ケンヤか。朝帰りならぬ、昼帰りだな。はっはっはっ」


 という声と共に、ドアのロックが解除される音が聞こえてきた。


 おいおい、なーんで今日も親父が家に居るんだ?しかも昼に。リストラされたんじゃないだろうな?しかも一晩帰えらず連絡もしなかったのに、心配したっていう気配もゼロときた。親父に心配されるのも気持ち悪いから別にいいんだけどさ。


「ただいまー」


 なんだかんだ言って、やっぱり自分の家は落ち着く。いつも通り、なんの変わりもない感じがそうさせるのだろうか。

 家に帰っただけでこんなセンチになってしまうのは、いろんな事が一度に起きたからだろう。下手すれば死ぬなんて場面も、たった半日のうちに何度もあった。今までなんの変わりばえのしなかった日常を、つまらなく感じたことも少なくなかった。なのに、いざとなると、平穏な日々が恋しくなってしまう。それとも、そんなことは贅沢なのか。

 ともあれ、引っ越すとなれば、またこの安心感を得るようになるのは随分と先になってしまうんだろうな……。……今のちょっと中二病くさかったか。


 俺の家は二階建てだ。二階は階段を上がるとすぐに廊下で、右側の手前と奥に一部屋ずつ。突き当たりに一部屋と、二階は合計三つの部屋で構成されている。


 手前の部屋は親父とお袋の寝室なのだが、何やらごそごそと音が聞こえる。今お袋は家にいないので、間違いなく親父だ。引っ越しの準備でもしているのだろうか?

 一つ奥の部屋は使われていない。物置にされている訳でもなく、ただ空けられている。恐らく親父とお袋が家族計画で、子供は二人と考えていたんじゃないかと勝手に思っている。この家は俺が産まれることがわかってから建てたらしいし。親父が何も考えずに造った可能性も捨てきれないけど。

 それで、残る突き当たりの部屋が俺の部屋だ。

 広さ自体はなかなかのものだが、その分家具の少なさをより目立たせてしまっていた。壁に埋め込まれているクローゼット。服のあまり入っていないタンス。中学生になった時に買ってもらい、最近少し狭くなり始めた机と椅子。あとはベットくらいのものしか置いていない。これ以外の物が必要になることはほとんどないので、これだけで満足している。


 シャワーは本部で借りてきたし、またあの親父と引っ越しの事で言い合いになって力尽きる前に、一度寝ておこう。

 そう決めると、どっと疲れが押し寄せて来た。前に、テストの一夜漬けで三日連続で徹夜した時に匹敵する疲れ方だ。


「よくもまあ、こんな状態で帰ってこれたもんだ」


 他人事のように呟きながら目を閉じると、すぐに意識は薄れていった。




 ふと気がつくと、そこは自分の部屋ではなくなっていた。

 いや、そこは既に部屋ですらなかった。身の周りに置いてあった数少ない家具は見当たらず、前後左右、三六〇度、見渡す限り何も無い空間だった。分かるのは、たった一つだけ。ここが現実ではないということだった。

 そんな空間にも地面と天井は存在するのだが、その色がまた奇妙なものだった。


 黒と白。


 たった二色。その二色が混ざり合うように、蠢いているのだ。白と黒を混ぜて灰色ということではない。二つの色はそれぞれが完全に独立し、まるで間に見えない壁があるかのように入り乱れている。美術の技法のマーブリングで出来る模様が、それに近いかもしれない。正直気味が悪い。息が詰まりそうだ。

 意識はまだはっきりしない。視界もぼやけてしまっている。


「誰かー?誰かいませんかー?」


 大声で叫んだが、その声はどこまでも続く空間に飲み込まれて消えてしまう。

 ふらふらと走り出したが、どれだけ走ろうと見えるのは変わらぬ模様だけ。


「なんなんだよ……」


 疲れ果て、その場に座り込み体操座りで顔を埋める。



 どれだけ時間が経っただろうか?

 何分?何時間?それとも一日?いや、もう一週間経ったような気もする。


 そんな時、おかしな感覚に襲われた。気配とか、殺気とかそういったものじゃなく、自分の中から湧き出てくるような不思議な感覚だった。

 顔を上げる。顔を埋めた時と何も変わらない。

 振り返る。霞そうな人影がある。


「なっ!」


 思わず跳び上がった。

 そいつはどうにもはっきりしなかった。こちらに話掛けているのは口の動きでわかっても、その声は届いてこなかった。

 その事に向こうも気づいたのか、苦笑いしながら頭を掻いた。


 意識が薄れてきた。どうやらこの世界は俺の夢らしい。次に気がついた時にはいつものベッドの上で寝ているのだろう。

 そういえば、こちらの声は向こうに届くのだろうか?試してみよう。


「俺、そろそろ起きるみたいだから。あんたの声が聞こえなかったのは残念だったよ。じゃあな」

「ああ、確かに残念だったよ。今伝えておけばこの先もかなり楽になるのにな」


 あれ?聞こえる?


「それと、『じゃあな』じゃなくて、『またな』だろ。お前とは長い付き合いになりそうだ。って言っても聞こえてねぇか」


 聞こえてるよ!

 そう返したかったが、もう声が出なくなっていた。


「せめて、これだけでも聞こえてくれるとありがたいな」


 なんだよ?


「さっき言った通り、必ずお前はここに戻ってくる。どうしようとな。それまでにお前がどうなっているのか、期待してるぜ?」


 へ?ちょっと待てよ⁈ それってどういう……。



 気がついた時には、そこにはいつもの天井が見えていた。真っ白な壁紙だ。

 起き上がると相当寝汗をかいていた事に気がついた。


 せっかくシャワー浴びたのにな……。また入ってくるか。


 立ち上がろうとすると、強烈な目眩がした。公園の時と同じ感覚だ。膝から崩れ落ちる前にベッドに座り直す。

 立つことを諦め、また横になり、さっきまで見ていた夢について考えた。

 気分の良いものではなかった。悪夢と言っていい。空間的にも、時間的にも、どこまでも続く場所に一人でいることは、とても辛いことだった。

 俺はその世界から目を逸らした。何も見ないように、何も感じないように塞ぎ込んだ。

 前にもあんな事があった気がする。いや、実際にあった。


 あれは小学生の頃だった。現代では、小学生でも携帯の類いを持っているのは当たり前。日常的にネットを使い、ゲームをしたり、調べ物をしたりしているのだ。

 小学生も五、六年になると多少知恵が付いてくる。クラスでは専用掲示板を作り、そこで連絡を取るようになった。

 当時の俺はその例に洩れず、クラスのメンバーと一緒に掲示板を利用していた。

 ある日、俺はそこで気になる書き込みを見つけた。それは所謂愚痴のようなものだったのだが、誰に対するものかはもちろん明かされていないし、書き込んだ奴もそれなりに注意していたようだ。

 しかし、俺はそれが誰のことなのか気づいていた。恐らく、クラスの奴らもなんとなくわかっていたように思う。

 その日は何事もなく終わり、約一週間後。

 気がつくと、新しい掲示板への招待の通知が来ていた。なんだろ?と軽い気持ちでそこに入ったのだが、内容を知って驚愕した。そこには一人を攻撃するような内容が、ズラッと書き連ねてあったのだ。

 その攻撃されている人物は一週間前、掲示板に愚痴を書き込んだ子であった。愚痴の対象にされたのはクラスの人気者だった。その子は自分に対して愚痴を言われていると気づき、次の日に文句を言いに行ったらしい。所詮は小学生なので、大したことは言えないが、とにかく腹をたてたそうだ。

 次の日。人気者の子は取り巻きの何人かと新しく掲示板を作り、そこでケンカ相手を散々罵った。調子に乗った取り巻きは、自分の仲の良い奴をメンバーに加え始めた。

 こうなると広まって行くのは速かった。最初は事情を知らなかった人が乗っかって言っている程度だったのが、規模が大きくなり、クラス全体に広まった頃には特に理由もなく一人の子をイジメるようになってしまった。

 俺が招待を受けたのはそんな頃である。

 イジメられている子は当然そのメンバーに入っていないので、突然イジメられる形となってしまった。理由もわからず、どうしようもない。だんだんと学校に来る日も減ってしまうのだった。


 この事態は流石にまずい。正義感に燃えた当時の俺はそう思っていた。そこで、なんとかしてやろうと掲示板にこう書き込んだ。


『◯◯くん。別に嫌な奴じゃなくない?』


 たった一言。その瞬間は正義の味方を気取って一種の満足感に浸っていた。自分に酔っていたのかもしれない。

 しかしこの場合は『されど』一言になってしまった。

 突然、攻撃の矛先が自分に向かってきたのだ。一人が言えば、全員がそれに加勢する。今のクラスはそんな集団になっていたのである。

 後のことは想像に難くないだろう。元々いじめられていた子と同じ運命を辿ることとなり、家に引きこもった。自分の部屋のベッドの上でうずくまり、目を閉じた。

 その時の気持ちとそっくりだった。

 なにをしたらいいのかわからない、終わりのない、辛い時間が自分を取り巻いている。そんな感覚が……。


 そのまま小学校を卒業し、中学生になった。幸い、イジメの主犯格とは別の学校だったので、それからは何事もなく過ごすことができた。一つ変わったことと言えば、大勢で群れるって事に恐怖を感じるようになったことくらいだ。故に、学校では大体窓際族である。

 高校は家から遠い場所を選んだので小学校からの知り合いはほとんどいなくなり、また新しい生活を始めることができた。高校生活一年目をダラダラと過ごし、今に至る。


 今となっては懐かしく感じるな……。いい思い出ではなくても、ある意味いい経験になったのかもしれない。かと言って、誰かにオススメするわけではないけど。


 携帯を開き、時間を確認すると、既に十五時を回っていた。起き上がってみると既に目眩は消えていたので、風呂場に向かう。

 制服を脱ぎ捨て、洗濯機に放り込み、少し熱めのシャワーを浴びる。暖かいお湯は全身を包み、意識をハッキリとさせてくれた。


 その時、この暖かさは霊刀を造ったときに似ているなと、ふと、思いだした。

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