1:ぼくら、はじまりのとき
ちはる1‐1
「あ~あ。あんなに勉強したのになぁ。赤点スレスレかよ、俺!」
裕太は自転車を押しながら、こちらをチラリと見た気がした。蝉の鳴き声と重なってよく聞こえなかったけど、多分、そう言った。
駅から自宅までの、15分ほどの短い時間だけど、ここで二人だけの時を、どれだけ過ごしただろうか。でも一度だって手を繋いだことすらない、それが私たちの関係。
「俺やっぱりドイツ語向いてないわ。なんでドイツ文学専攻しちゃったんだろうなぁ。」
私より1つ年下の裕太は、私の後を追いかけて同じ大学の同じ学部に入った。
「・・・あ、別にお前がいたからじゃねぇからな!それだけは絶対に違う!」
「まだ何も言ってないでしょ。」
いつの間にか身長は20㎝以上も差をつけられてしまった。それなのにいつも、小さな子犬みたいだなって思う。
「あんなに私が教えてあげたのにね。この点数じゃ、もう留年かな?」
「おい、見捨てんなって!次次!まだ次があるから!!」
そして裕太は少し間をおいて、何かを言いたそうにしている。緊張したり、動揺してるとき、裕太は必ず左手でメガネの位置を直すんだ。
角を曲がると、そこはもう裕太の家。その隣が私の家。
「ちはる、あのさぁ。明日なんだけど、暇だろ?映画でも見に行かね?」
「・・・裕太、家、通り過ぎたけど」
「うるせぇな!お前んちまで送るから」
あっという間に、うちの前だ。
裕太は当然のように自転車のスタンドを下げ、一緒に家の門を通った。
「何か用?」
「だーかーらー!明日!映画!」
ポストから郵便物を取り出した。一週間半に1度しか開かない割には、郵便物はさほど溜まっていない。
「観たいの無いから」
もちろん扉の前までついてきた裕太は、いつものわざとらしい満面の笑みでこちらを見ていた。
「なに?」
「はいっ!プレゼント」
背負っていたリュックから、ジャーンと効果音を付けて、大きな袋を取り出した。
「いらないって。いつも言ってるじゃん」
「俺はあげなきゃ気が済まないの!」
ぐい、と私の胸元に、リボンの付いた大きな袋を押し付ける。
1年に1度の、アレだ。
「いいから。じゃあね」
押し返そうとしたら、私が持っているトートバッグに、半ば強引に大きな袋を押し込む。
笑顔から一転、ムッとした顔をした裕太は、やっぱり子犬みたいだ。
「ちはるのばーか!勝手にしろ!」
門を飛び出て勢いよく自転車に乗り、5mほどですぐ降りた。自分の家に着いたからだ。
「言っとくけど俺、こう見えても結構モテるんだからな!知らねぇぞ!ばーか!」
捨て台詞を吐き、バタンと家に入った裕太。周りに人がいなくて、本当に良かった。
「なんなの、あいつ」
誰も迎えてくれない、薄暗い玄関にはもうとっくに慣れた。
心なしか気温の低い1階のリビングを通り過ぎ、階段を上がる。2階の角にある、自分の部屋だけが、この世で一番嫌いで、一番安心できる場所だ。
”いらない”なんて言ったけど、部屋に入って、いの一番に大きな袋のリボンを緩める自分に、少しだけ笑ってしまった。
今年は、手足がだらんとしてて、気の抜けた顔をした、ネコのぬいぐるみだった。毎年ひとつずつ増えていくぬいぐるみを、そっとベッドの枕元に置く。
ぬいぐるみと一緒に、同封されていたメッセージカードの存在に気付いた。開くか、開かないか、少し迷ってしまった。目の前にあること、確かなことを知るのは、いつだって怖いから。
”Ich bin in dich verleibt”
結局開いた、そこには、裕太の繊細で柔らかな文字が並んでいた。指でゆっくり文字をなぞり、でも、最後の形容詞で、止めた。
少し考えた後、携帯電話を手にし、裕太に2行だけメッセージを送る。
「ばかはそっちでしょ」
私、今どんな顔してるかな。
ルームウェアに着替え、ベッドに寝転がった。自然と目に入ったカレンダーは、7月。今日は最終日であり、紙をめくらずとも、明日には必ず8月1日がやってくる。
両親が旅に立ち、明日でちょうど丸6年だ。
私は中学生から高校生になって、高校生から大学生になって。でも、なにも変わってない。それはまるで昨日のことのようで。今日帰ってくる、明日は必ず帰ってくる、そんなことを今も毎日、信じて疑ってないんだよ。
裕太と、裕太のお父さんとお母さんには、ずっとずっと守ってもらっている。残されたのは1人の子供と、1冊の通帳だけだったのに、ここまでお世話してもらっているなんて。私は一生かかっても、恩返しできないんじゃないかなって、毎日怖くなるんだ。
裕太は、弟みたいな、そうじゃないような。
いつもそばにいてくれる、でも決して近すぎない距離。遠くもない。その微妙な関係がむしろ、姉弟っぽいのかな、とも思う。
もう一度、もらったメッセージカードを見て、明日で20歳を迎える自分は、裕太とどう向き合えば良いだろうかと、悩んだ。見なかったフリなんて、もうできない。
ふと、先ほど回収した郵便物の中に、ひとつ、妙に目を引く白い封筒が紛れていた。からだを起こし、手を伸ばすと、迷いもなく指でちぎって封を開けた。
ただのアルバイトの募集であった。
すぐにゴミ箱に入れた。でも何故か、最後に書かれた一文が脳裏に焼き付き、離れない。
ゴミ箱からもう一度、紙を取り出して、それを声に出して読んだ。
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