ちはる1‐8
縛られてはいないものの、ほんの一時間ちょっと前と、同じ状況だ。なんとかっていう名前のメガネをかけて、大きな車に揺られている。メガネの画面は、恐怖を煽るような暗闇ではなく、世界遺産を巡るような旅の映像、みたいなもの。映像のリラクゼーション効果もあるのかもしれないが、現に朝ごはん以降食べてないので、お腹が空いてしょうがない。
ヨウとは別の車で、それぞれの家に向かっている。一時帰宅だ。
徹底してあの家の場所がどこだか分からないようにしてある。こんなメガネ、取ってしまえばすぐにこの車がどこの道を通っているか、確認できるけど、さっきのアニメーションとサカキさんの説明を聞いた後でそれが出来る人はいないだろう。いや、ヨウなら、平気でやってのける、かもしれない。
かれこれ、もう1時間ほど走ったような気がする。このままずっと、ドライブしていたい気分でもあったが、そう考えたときに限って、車は止まる。
「到着いたしました。メガネを外して下さい。」
車内にいたのはサトミさん1人。こんな大きな車を運転できるなんて、かっこいいな、と思った。
「それでは、荷物をまとめ次第、すぐにこちらに戻ってきて下さいますようお願い致します。」
重ねて注意喚起されるようなことは無かったが、言われなくても分かる。常にこの時計みたいなもので監視されているわけだから、余計な行動はできない。それにもう、心はしっかりと、この怪しげなアルバイトの方に向いている。
車が止められていたのは、裕太とよく歩く、駅から家までの道だ。気が付けばもう、夏の陽が落ち始めている。何かの希望を持ってこの道を歩いた今朝がすでに懐かしい。
可愛らしい木彫りでできた"佐伯"の表札の前を通る。車がないことに気付いた。休日のこの時間は、裕太は家族で買い物に出掛けることが多い。ほっと肩を撫で下ろし、自分の家の鍵を開けた。
普段なら絶対に思い出さない事を、自分の都合の良い時には鮮明に思い出すものだ。まだ私が小学校低学年だった頃、家族3人で北海道旅行に行った。自分が育った街とは全く違う景色に、心躍らせた、良い思い出・・・。それを何故今思い出したかと言うと、スーツケースが必要だな、と思ったから、ただそれだけ。確か、その北海道旅行に持って行ったブルーの大きなスーツケースが、1階の和室の押入れにしまってあったはずだ。
もう何年も足を踏み入れていなかったこの和室は、お母さんとお父さんの寝室だった。だからこそ、あの日からずっと、ここに立ち入ることができなかった。心を無にして、襖をあけると、全てがそのままで、怖くなった。スーツケースはすぐに見つかり、埃とカビ臭さを我慢しながら、それを取り出す。思い出に浸ることなる、すぐにそこから立ち退いた。
自室に入ると、ようやく帰ってきた、という気持ちになった。生活の中心である部屋にしては狭いが、自分にとっては住み心地の良いサイズ感。これから3週間、あの埃ひとつ無さそうな豪華なモデルルームみたいな場所で生活すると思うと、ゾッとする。
まずは、もうスーツは不要と思い、普段着に着替えた。服は何着必要だろうか、ルームウェアは、下着は、シャンプーやリンスはどうだろうか。スーツケースに物を詰める作業が、なんだか楽しい。なんて、思っている自分はもう、すでに、”外の世界”というものに洗脳されているからなのだろうか。楽しい旅行に行くわけでもなく、大量のカメラが設置された異常な場所に戻るだけ、なのに。
スーツケースを閉める直前に、昨日裕太から貰った、ネコのぬいぐるみが目に留まった。手に取ると、だらりとした手足が揺れ、ふぬけた顔は何かを訴えているような、いないような。10秒だけ、考えた。そして、スーツケースの中に入れた。
部屋を出る直前、誰に見られるというわけでもないのに、無意識に鏡で姿を確認した。淡いレモンイエローのワンピースに、デニム。1年前の夏、裕太と出掛けた先で買ったものだ。グリーンの方が良いと言われたが、黄色の方が好きだからこっちを選んだ。裕太とはとことん、趣味が合わない。そんなことを思い出しながら、電気を消し、部屋を出るのと同時に、インターホンが鳴った。
急ぐこともなく、重たいスーツケースをゆっくりと階段から下ろした。ドアを開ける前に、何と言おうか考える。"私がどこで何してたか、気にならなかった?"とか、"どうしてあの後1度も連絡くれなかったの?"とか、そんな付き合いたてのカップルみたいなことを言ったら、裕太はどんな顔をするだろうか。
ゆっくりとドアを開けると、いつもの、キチッとした格好をした裕太が、嬉しそうな顔をして、立っていた。少しだけ、ほっとした。
「あっちはる、これからうちで・・・」
途中で言葉を止めた裕太の顔は、あからさまに曇る。何を言いたいのか、もちろん分かった。
「裕太・・・」
もう会わないつもりだったし、会っても何も言わない、そう決めていたが、やっぱり私は事あるごとに裕太のことを考えていたし、こうやって触れられことのできる距離にいると、心は大きく揺らいだ。でも、裕太を巻き込んでは、ダメだ。
「おい、ちはる・・・えっ、どこ行くんだよ」
裕太の横を、避けるように通って、門を出た。
後ろは見ていないが、足音を感じる。裕太は何も言わず、私の後を付いて来る。すぐに、佐伯家を通り過ぎた。それでも、裕太は何も言わない。ガラガラというスーツケースを運ぶ音が心臓の音と重なって気持ちが悪い。私はようやく、足を止めた。
「夏休みだから、しばらく、旅行に行くよ。」
短い時間でやっと考えた嘘が、これだ。
「旅行?どこ?今まで旅行なんて、一度も行ったことないのに・・・」
冷や汗が滲む。裕太は間違ってない。私はひとりで旅行になんて、絶対に行かないのに。
「どこでも、良いでしょ」
「こっちは心配してんだよ、行先ぐらい言って行けよ。どうしたんだよ、急に・・・」
これも全てサカキさんに聞かれているのかと思うと、何も言い返せなくて、もう、私は前へ進むしかなかった。
「ちはる!」
裕太に腕を掴まれた。裕太の手は、いつも大きくて、暖かい。不安に怯える子犬のような、裕太の目を、真っ直ぐに見つめた。こういう時って、涙が流れるものなのかもしれないけど、私のそれはとうの昔に枯れてしまった。
裕太の手を、できるだけ優しく、ほどいた。暖かいその手には、もう力がこもっていなかった。
「”外の世界”、見てくる。」
これはきっと、魔法の呪文なんだ。
背を向けた裕太を見送る。私も歩き出す。
「ハル様、お帰りなさいませ。」
悪魔のように黒く光るその大きな車には、私を迎えてくれる人がいる。私はここへ、帰ってきた。再びあのメガネを掛け、車は動き出す。
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