たいよう1‐3

 普通だったらそのまま家を飛び出すんだろうけど、僕は普通じゃないから、部屋に戻った。

 ちゃんと身支度を整え、次の日の早朝、僕はこの家を出る。


 大きな水玉模様のシャツに、蝶ネクタイをして、チェック柄のパンツに、兄ちゃんが買ってくれたハット。最後に、お気に入りの、いつも着ている猫耳フードの付いた可愛い部屋着用のパーカー。どうだ、お洒落でしょ?あっこさんに見つかったら、変な格好、ってあからさまに苦い顔するんだろうな。でも、最後には僕らしくて可愛いって言ってくれる。


 4時半に、そっと家を出た。5時になるとあっこさんが起きてしまうから。

行く場所は特に決めていなくて、懐かしい場所をみてから、最後は、高いビルの屋上に行きたいなって思っていた。薄暗く、まだほとんど人がいない、近所の道を歩くのはとってもすがすがしい。

 小さい時に家族とよく来た公園とか、レストランとか。二駅歩いて、小学校とか、英語の塾とか。楽しかったな、懐かしいな、なんて、微笑んでみたり。

 でもそんな思い出、本当は全部嘘。

 僕は毎日、勉強しかさせてもらえなかったから。家族とか、友達とか、そんなの、僕にはない。だからせめて最後くらいは良いでしょ、作り物の映像をそこに重ねても。

 気が付くと、すっかり空が明るくなっていた。時計はもっていない。携帯電話も置いてきた。普段運動しない僕が、こんなに長い時間歩くなんて、明日筋肉痛になっちゃうかな。明日なんてないけどさ。

夏だからかな、人が多くて目が回りそう。ここは僕が中学・高校時代にお世話になった街。若者が多くて、おしゃれで、でもすごく汚い。学校と、塾と、そんなくだらない毎日を過ごした場所だけど、唯一思い出があって。良い思い出とも、悪い思い出とも、いえるんだけど。だからここを最後に選んだ。


 僕は小さい時から、女の人が苦手だった。何が原因かは、はっきり分からないけど、ただただ、怖かった。(もちろん、あっこさんは別だ)小学校時代に、同級生の女の子に触られただけでひどい蕁麻疹を発症し、先生を驚かせてしまった。そのせいもあり、中学からは男子校で安全な生活を送っていたが、思春期を迎えた男たちの集団に入り、僕がちゃんと普通の男子であることも知ったし、女の人には触れられないが、興味がない訳ではないということも知ることができた。

 高校2年生になったばかりの春。塾へ行く前に立ち寄った、いつもの駅ビルの中の小さな本屋さんで、誰かにトントンと左肩をたたかれた。振り向くと、僕よりも少し背が高い人が立っていて、男かと思ったら、笑みを浮かべた女性だった。今まで嗅いだことのないような、不思議な、甘い香りがして、ぎょっとした。

「これ、落としましたよ」

 ”研修中 古瀬”という名札を付けた、店員さんだった。僕が落とした定期券を、はい、と差し出した。女性に免疫がない僕はその定期券をつまみ上げるように受け取り、走って本屋を出た。今まで感じたことがない衝撃が頭を突き抜けて、くらくらして、そのまま塾を休んで家に帰って寝込んだ。それからずっとその人のことを考えていて、僕はやっぱりただの男の子だったんだ。時間があれば、本屋さんに行って、本棚の陰から古瀬さんのことを眺めてた。目が合うと、古瀬さんは微笑んでくれて、でも僕はすぐに見てないフリをして。綺麗な黒髪の、ショートカットで、ピアスかイヤリングをいつもしていた。背が高く、細くて、胸はそんなにない。僕はどうするというわけでもなく、ただ見ていただけ。申し訳ないけどこれ以上の面白い話はないんだ。今思えば僕の小さな小さな青春だったんだなぁ、なんて。

 でも、この話は最後には悪い思い出になる。僕は古瀬さんのことで頭がいっぱいで、一時期勉強が手につかなくなって、高校2年生の1回目のテストで、初めて学年で2番になった。僕は、初めて見た2という数字に、驚きはしたが、何も感じなかった。勉強なんて、将来のことなんて、全然興味なかったから。でもそれでは済まされないのが現実。母に、笑っちゃうくらい怒られて怒られて、大変だった。その時の僕は、まだ素直さがあって、少し反省し、本屋に通うことを止めた。でもやっぱり気になって、外から見てしまう。いない。何日かして僕は気づいた。あの日以来、古瀬さんはその本屋から姿を消した。理由がすぐに分かって、怖くなった。僕は青春すら与えてもらえないと知った。もう二度と、こんな悲しい思いはしたくなくって、女の人を、見るのも嫌になった。


 僕は今日、最後にもう一度、本屋に行こうと決めていた。古瀬さんがいないのは分かっていたけど。

 駅ビルの中にあるその小さな本屋は、3年ぶりだがまだしっかりとここにある。あのときにもいた店員さんが、まだ働いていたことに、ドキリとした。

 いつも隠れていた、スポーツ雑誌のある棚に、意味もなく身を寄せた。体育の授業でしかやったことない、バレーボールの雑誌を、いつも開いて読んでるフリしてたっけ。

 店内を一周して、ゆっくりともう一周して、満足した。ここに古瀬さんはいない。


 駅ビルから出た。日差しがまぶしく、ハットのつばをグッと下げた。心残りなことをしいてあげるとしたら、兄に、まだ謝っていないってこと。それだけ。でも今は考えたくない。またあとで、絶対に、謝りに行くから。ごめんね、兄ちゃん。ごめん。

 こうゆうのってすごく衝動的で、突然電車のホームに飛び込む人の気持ちも、今よく分かった。通学中に、人身事故のアナウンスが入るたびに、こんな朝っぱらから、何千人何万人に迷惑かけやがって、なんて思ってたけど、その人たちにも改めて、ごめんなさいを言わなきゃ。

 車通りの多い交差点が目の前に広がっているのをみて、呼ばれてるってこうゆうことだなって。誰にってわけじゃないけど。ふらふらと、そちらに向かって、自分の意志とは関係なく、足が進んでいる気がした。気がしただけだけど。


 でも突然我に返った。あのときと全く同じ、トントンと左肩を叩かれたから。

「あの、道をお尋ねしたいんですが・・・」

 古瀬さんだ。

 いや、違う。まったく違う。その子の黒髪のショートカットが、古瀬さんの影を映してただけ。僕も当時より5㎝ほど背が伸びたけど、それよりもずっとずっと小柄な、女の子。全然違う。

 怖くて逃げだしたくなったけど、身体が動かなかった。その子はきっと僕の挙動不審に、嫌な顔してるかもしれない。

「ここなんですけど、この近くですか?」

 その子が取り出した紙は、見覚えのある紙だった。親切心のかける案内図が示すのは、ほんの100m先にあるお化けビルだった(中学生のとき、ただ黒いというだけで、みんながそう呼んでたから)

「あの、黒いビル。」

「そうですか、ご親切に、どうも。」

 ロボットみたいに表情を変えない、甘い匂いもしない。去っていったその子の顔は3秒で忘れた。


 でもなにか違和感があって、さっきのふわふわした気持ちはどこかへ行ってしまって、僕はだぼだぼのパーカーのポケットに手を突っ込んだ。

「ああ、これか」

 胡散臭い1枚の紙切れと、飴がまた1つ。

 こうゆうのってやっぱり衝動的で。僕は、もう姿は見えないさっきの子の歩んだ道筋をたどった。口の中は、”ママの味”がする。

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