海神アシェア
狭い塔の一室だった。
円型の室内には装飾品はおろか家具も何も無い。
あるとすれば、隅に大量の布が盛ってあることと、人には到底登れぬ高さに、開きもしない窓が一枚のみである。
幸い今夜は月明かりが強く、ランプを点けずとも手元がよく見えた。
一つだけあるドアから、一人の男が従者と共に現れた。
老人と呼ぶには厳つく、男性と呼ぶには枯れているこの男は、アヴァールの王だ。
付き添いの従者は手に大きな木桶を持っている。
「人魚よ」
しわがれた声に、積まれた布が微かに動く。
もぞもぞと中から現れたのは、年端もいかぬ少女である。
感情のない二つの水色でこちらを見ている。
波立つ青碧の髪には程よく油が塗り込まれていて滑らかで、暖かな海を思わせる。
一糸纏わぬその身体は透き通るほど青白い。
女の象徴である二つのふくらみはさほどなく、腰のくびれも少ない。
色香こそはないが、従者が唾を呑むには十分な美しさだった。
「おいで」
王が呟けば、少女はその身体にゆっくりと擦り寄った。
差し出された手を両手で包み、ゆっくりと口付ける。
「さぁ、私の可愛い人魚よ。今日も、私の為の涙を流してくれるか?」
そそくさと、従者が海水を張った木桶を少女の前に差し出す。
白く細い指が木桶に掛けられた。
水鏡を覗き込み何度か瞬きをすれば、ぽちゃりと軽やかな音をたてて貴石が産み落とされた。
海水の底に鮮やかな七色が輝いた。
まるで神の営みのように神々しい。
美しい処女の目から流れ落ちる涙が輝くその光景に、従者は畏怖に似た感情を覚えてしまう。
「よしよし、良い子だ。他のヘヤン族とは違い、お前は本当に」
少女は、最初こそ拒絶を続けていたのだが、ある時を境にぱったりと感情を失ってしまったらしい。
まるで反応を返す植物のようだと、従者は怖気を感じる。
何よりも、少女をこのような状態にしてしまった王に対して。
輝く虹色をぼんやりと眺めながら、恐れを抱かずにはいられなかった。
ある時、王の元にとある情報が入った。
なんと、ヘヤン族の故郷島に、男子の生き残りが居たというのだ。
王は大いに喜んだ。
「ならば、あの人魚を連れて行き、ヘヤン族をまた繁殖させてみようか」
空は晴天で、絶好の船出日和だった。
少女の世話役として連れてこられた従者は、船の上で日除けの布を広げながら海を眺めていた。
少女は相変わらずの無表情で床に座っている。
「……今、僕らがどこに向かっているか分かってる?」
試しに声をかけてみるが、少女は王以外の言葉には見向きもしない。
従者は大きく溜息を吐いた。
それにしても、さすがアシェアに最も近いと呼ばれる海だ。その青さと来たら、驚く事しか出来ない。
まるで空が海を映しているようだった。
天の青さを、地に張る海が勝ったのだ。
アヴァールは、他の国に比べて信仰深くはない。
“神”という曖昧な存在に頼らなかった事こそが、アヴァールが栄えた理由だとも思う。
だがしかし、ここまで美しい海を見せられてしまえば、神を信じたくもなるというものだ。
何の不純物もないのだろう、深く深くに位置する海底が明瞭に確認できる。
王は上機嫌に歌などを唄っており、当初の予定など忘れているようにも見える。
従者はもう一度少女へ呟いた。
「僕らは今、ヘヤン族の島へと向かってるんだよ。君の生まれ故郷、マーレイへ」
ぴくり、と少女の目尻がかすかに動く。
従者は海の青さに見とれている。
「アシェア神の御座すマーレイへ」
ゆっくりと、その瞳孔が開いていくことに、従者は気付かない。
アシェアという名が、ヘヤン族にとってどれだけ大事なものかを、無信仰である彼には分からないのだ。
マーレイでの絶対的存在であるアシェア。
祖先ともよべる海神とヘヤン族がどのような関係なのかを。
少女がここへ居たのは生まれてからわずか七年の間だったが、そのようなことは関係が無かった。
「あ……あぁ……!」
そこでようやく、傍らに座る少女の異変に気付く。
「どう……したの?」
王のご機嫌な鼻歌が邪魔で、か弱い声が聞こえない。
従者は血色の悪い口元に耳を近づけた。
「ああぁ……、ぁせあ、さま……」
突然、水色の瞳から涙が溢れ出た。
いつもならば王が命じるまで決して出さなかった涙が。
ぼろぼろ、ぼろぼろと。
頬を伝って船底で跳ねた。
その涙を見た従者は、条件反射で少女の頭を海の上へと押し出す。
回収は出来ないのだが、ヘヤンの涙を海水につけるという行動は、息を吸ったら吐くことと同じぐらい当たり前の感覚だった。
ポツリポツリと形成されたチャランが海底へと沈んでいく。
もったいない、と思いながらも、無意味に流させるよりはこちらのほうが生産的だとも思った。
王は気付かない。
船首で海の青さと歌を楽しんでいる。
「あせあさま、あせあさま、あ、せあ、さま――」
まるで助けを求めるように紡がれる名前。
その盲信さに、少しの嫌気が差した。
呼ばれ続ける名前は海神の名であり、所詮は存在しないモノである。
そうやって神にばかり頼って来たから、君達は侵略されたんだよ、と心の内で蔑んだ。
「……どれだけ拝んでも、居もしないカミサマは助けてなんてくれないよ。君達の運命はもう決まっている。死ぬまで陛下の愛玩人形になるんだって」
わざと、聞こえるほどの大きさでそう呟いた。
少女からの反応は無い。
ただ、自らの信仰する神の名を、息継ぎを交えて呼んでいた。
従者は深いため息を吐く。
――だから、無駄だって言ってるじゃん。
そう思った瞬間のことだった。
波が。
突然の高波が、船を襲った。
まるで時が止まったようだった。
天まで伸びる青い壁が、両側から、真っ直ぐ船へと落ちて来たのだ。
船内には、焦るヒマも反応するヒマもなかった。
ただ、皆が間抜けに大口を開け、高波に魅入る。
聴覚が水の音で満たされる直前、か細い、だが希望に満ち溢れたはっきりとした声が、従者の耳をかすった。
「――アシェア様」
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