其は我を残月と見る
逢月伽世
一章
夜闇の逃亡
早く早く早く。
逃げなくてはいけない。
◆ ◆ ◆
「早く、こっち!」
声が闇に沈む。
抑えられた声であったが、それはすぐ傍を走る人間にはよく聞こえた。
夜の闇に包まれた深い森の中、出来る限り音を立てないよう走るのは、四人の少年少女であった。
年の頃は全員十代半ばといった、若干幼さの残る顔立ちである。しかし、その表情は険の鋭さばかりが際立っていた。
先頭を走る陽色の髪の少年が、他の三人を先導する形で駆けていく。四人の中で一番背の高い彼は、月明かりもほとんど届かない真っ暗な森の中が鮮明に見えているかのように、一切の迷いを見せずにひたすら進んでいった。
「あっ!」
小さな悲鳴が上がり、一番後ろを走っていた小柄な影が地面に転がる。どうやら伸び放題に育った草に足を取られたらしい。
転げた少女はすぐに立ち上がり、ずれた眼鏡の位置を直してからスカートの裾を叩いて土を落とす。「大丈夫」と言った声には疲れが滲み、肩で切り揃えた艶やかな黒髪は乱れ、汗で頬に張り付いていた。
「……」
少女のすぐそばには、彼女と同じように眼鏡をかけた黒髪の少年が寄り添うように立ち、先を走っていた陽色の髪の少年と、最後の一人、柔らかな茶髪の少年が二人のもとに駆け寄る。
「どこか、休める場所を探そうか」
眼鏡の少女を気遣うように茶髪の少年が口を開くも、「いいえ」と少女自身が首を横に振って拒否をする。
「休んでいる暇なんてないわ。もっと遠くへ逃げないと……」
「でもな、お前さんの体力じゃあもう走れないだろう? 足だってそんなにがくがくに震わせて」
困ったように微笑む彼の瞳は、少女の白くほっそりとした足が小刻みに震えているのを、たしかに捉えていた。
「……」
「おれも、キーナに無理させたくないな。ちょっとだけ先に進んで様子見てくるからさ、そしたら休もう?」
「マサア……」
キーナと呼ばれた少女は戸惑ったように陽色の髪の少年――マサアを見返し、唇を咬んで頷く。たしかに、少年たちの言う通り、彼女にはもう走り続けられる体力は残っていなかった。
「それじゃひとっ走り見てくるから、ケイヤとタヤクはキーナのことを守ってて!」
「あぁ、気を付けて」
タヤクと呼ばれた茶髪の少年が駆け出そうとしたマサアに手を振ったその時。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
深い闇を裂くような、甲高い悲鳴が森に響き渡った。
◆ ◆ ◆
「ふっ……ふっ、ふっ……っ!」
月明かりの乏しい森の中、小柄な影が疾走していた。
空には確かに柔らかな光を湛えた満月が浮かんでいるのだが、少女が走っているのは鬱蒼と茂った深い森の中である。彼女の後に付く影は、より一層黒々と伸びていた。
「ふぅ、ふ……っう……!」
年のころは十を過ぎたあたりだろうか。ふっくらとした頬は走っているせいか真っ赤に染まり、大きな紫色の瞳は真っ直ぐに前を見据えている。愛らしい顔立ちの少女であったが、その顔には大きな痣がいくつも出来ていた。
「ふ、ふっ……!」
高く二つに結わえた髪をふさふさと弾ませながら走る彼女の足元は、裸足であった。泥と傷に塗れ、よくもその状態で走れるものだと思わせるほど酷い有様である。
よく見れば、髪と揃いの色をした薄桃色のワンピースもところどころが解れ、袖から伸びる腕にも痣や傷の跡が見えた。
食い縛る歯の間から漏れる息は荒く乱れ、ともすればカタカタと鳴る歯の根を黙らせているようであった。
小さな足が走り抜ける森の中は、よく言えば豊かな自然のままの姿を保っており、獣道ですら見当たらなかった。
朽ちた葉や折れた枝が少女の足の裏を容赦なく傷つけ、薄い皮は簡単に裂けてしまう。
「ひ……!」
思わず声が漏れる。
痛みに顔を顰めることは多々あったが、それでも少女は決して足を止めなかった。
一歩でも遠くへ。一秒でも先へ。
そうしなければ、自分が助からないことを知っていたのだ。
「――っ!」
がさり、と前方の茂みから音が聞こえ、少女は初めて足を止めた。アメジストのような瞳を大きく見開き、早鐘のように鳴る鼓動と荒い息が耳を突く。
――自分は逃げていたはずだ。
夜も更けた森の中とはいえ、ただひたすら真っ直ぐに、ただ前へと進んでいたはずである。
それなのになぜ、なぜ後ろからではなく、前から音が……――
「――発見した」
恐怖に固まっていた少女の肩が、びくりと震える。
思わず後ずさった少女を囲むように、幾つもの影が森の中に降り立った。
どの影も顔を布のようなもので覆い、両目以外に見える場所はない。身体も首から指先、足先までぴったりとラインが分かる黒っぽい服を纏っており、ベルトや紐で要所要所を動きやすく止めているだけである。
少女は視線だけで周囲を伺い、自分を囲む人間が、少なくとも見える範囲に五人いることを認める。背後を振り返る勇気はなかった。
「この娘か?」
「いや……逃げ出したのは女が二人と男が三人……数が足りない」
「一人だけはぐれた、ということは……」
布によってくぐもった声が、ぼそぼそと夜のしじまに響く。緊張した少女の耳にもその声は聞こえていたが、言っている意味は欠片も理解出来なかった。
小声で言葉を交わしている間も、影たちの鋭い目は少女を射抜くように見つめて離れない。
「この森は“
「しかし、“
「ん……ちょっと待て」
影は全員男のようだ。
警戒しながら会話に耳をそばだてていた少女は、場の空気が少し変わったことに気が付き、思わず一歩後ずさる……が。
「あっ?!」
「ふん……魔力が封じられているのか」
何かにぶつかった、と思ったのとほぼ同時に、両手を一纏めに掴みあげられてしまった。足が地面から離れ、少女の軽い体は宙にぶらりとぶら下げられる。
少女を囲んでいた輪がいつの間にか狭まり、うちの一人が彼女のことを捕まえたのだ。
「……っ」
思わず悲鳴が出そうになるが、それは音にもならず、ただ虚空に消えていく。布の隙間から見える寒々とした黒い目が、少女の瞳をまっすぐに覗き込んでいた。
――な、なにっ?! なんなの?! どうしてわたし、こんな……っ!!
恐怖に怯えていた少女は、いまは混乱の極みに達していた。
彼女は影の集団ではなく、実の親から逃げているはずだったのだ。
祖父母が蓄えていた金を使い果たし、実の娘である自分を売り飛ばそうとしていた親の元から逃げ出していた。
自宅を逃げ出したきっかけは、両親がとうとう人買いを招き入れたから、ということである。
しかし、母親が招いた人買いを自分の部屋の窓からこっそり覗いたときに見た姿は、きっちりとしたスーツを着こんでいて、いま自分を囲っている者たちとは全く服装が違っていた。
――第一、とりかごとか、きゃりばーなんとかとか……そんなの知らないもん!!
人違いだ、と声を大にして叫びたくなったが、両腕を掴まれている怖さと痛さで、口を開くことすら出来ない。あ、とかう、とか、呻くだけだ。
自分が誰かと間違われているのだということは理解出来ている。それを訴えたところで、無事に済むとも思っていない。
思っていない、どころではない。
「どれ」
「っ?!」
自分の腕を掴み上げている男とはまた別の人間が、顔を覗き込んで目を合わせてくる。深い深い紺色のそれは、情や温かみなど一切感じさせなかった。
黒いグローブを嵌めた手が少女の両胸の間に置かれ、指先にぐっと力が込められ沈む。「ぐっ」と声が漏れたが、男は構わずぐりぐりと胸元を抉るだけだ。
そうしていると、ふと風を感じた気がした。
実際に夜風が吹いたわけではなく、無遠慮に抉られている胸元から、すっと風が吹いた……気がしたのだ。
それとほぼ同時にぱきんっ、という小さな音が聞こえて、男の手がようやく離れた。
「あ、う……」
「ふむ……悪くはない魔力だな。年の頃を考えれば、まだ伸び代があるだろう」
「そうか。そういえばあの“鳥”たちには、片翼が足らないものもいたな」
「“炎の器”や“壊れた蒼”ほど成長出来るかは分からんが、まぁいいだろう」
「しかし、何故こんな娘の魔力が封じられていたのか……」
両腕を拘束していた男の手が離れ、どさりと地面に落ちる。思わず「イタっ」と声を上げたが、男たちは誰も彼女を気遣うような素振りを見せない。少女を“少女”ではなく、“モノ”としか扱っていないのだ。
そう意識すると、乱暴に押された胸元が余計に痛く疼き、涙が滲む。
――なんでわたしがこんな目に……!
ぐっ、と歯を食いしばり、自分を囲む男たちを睨むように見つめ返す。幼い少女にしては強気な態度であったが、男たちはそれも意に介さず、じりと囲む輪を狭めていく。
多少魔力があったところで所詮は少女であり、所詮はモノなのだ。
「……こないで!」
悲鳴のような威嚇の声を上げてみるが、いかんせんその声音は震えているうえ小さい。
「……」
実際、男たちはそれまでと全く変わらない調子で彼女に近づいていく……と。
「やっ?!」
素早く伸ばされた腕を、少女は間一髪で逃れた。死角から襲ってきた腕だったが、微かに草が鳴ったような気がしたのだ。
ばくばくと心臓が跳ねる。
しかし少女を休める気など男たちにはさらさらなく、腕はどんどんバラバラに掴みかかってきた。
「やっ、だ! 来ないで!」
叫びながら少女は転がり、或いは這うように逃げ、掴んだ土を勢いよく投げつけたりしながら必死になって男たちの腕を交わし続けた。襟首を掴まれた時にはもうダメかと思ったが、それこそ必死になって上着を脱ぎ捨てて、薄いシャツの姿になって逃れた。
男の手には彼女の抜け殻だけが残されたが、考える間もなく放り捨てる。
夜の冷たい空気に晒された少女の腕はどんどんと冷えていき、体温が根こそぎ奪われていく。
――どうして、どうしてこんな……っ!
自分は親から逃げていたはずなのだ。
なのに、どうしてこんな、見知らぬ男たちに追いかけられなくてはいけないのか。
しかも、この男たちは、別に探してる人物らがいたようなのだ。現にいまも、このまま少女に固執するか、当初の目的に立ち返るか、考えながら自分を狙っている節があると彼女は考えている。
――でも、わたしに興味を無くしたら、わたしは……
知らず知らず“最悪の結末”を考えて、背筋がぞっとした。
男たちの格好は、どうみても普通の格好ではない。顔を隠し、姿を闇に溶け込ませ、まるで
暗殺者はその名の通り、闇に紛れて人を殺すことを生業としているもののことであり、目撃者は
「……仕方ない」
恐怖と思考に没頭していた少女の耳に、一人の男の声がはっきりと聞こえた。その手元でバチンッ、と刃を出すナイフの音も。
「四肢ぐらいならば構わない。早急に確保して“花嫁”たちを追うぞ」
『了解』
静かな夜闇に静かな男たちの声がしじまのように広がり、少女は再び「ひっ」と恐怖による声を漏らした。
いよいよ考えていた“最悪”が、本当に襲い掛かってくるのだ。死では済まない“最悪”が。
月明かりに鈍く光る男たちのナイフを目にしたことで、少女の緊張は一気に高まり、そして切れた。
気が付いた時には、喉から声が迸っていた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
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