第四章 少女・カレン

    1


 真部光(まなべひかる)のリュックが発見された新潟県は鯨波の海岸付近一帯の大捜索で、捜索隊は小島の海蝕洞の中に、比較的新しい焚き火の跡を発見した。

 灰はまだ温かかった。

 そこの砂地には焚き火を囲む形で二種類の靴跡が残されていた。

 いずれも新しいものだった。

 ほかの砂地にも多数の古い足跡はあったけど、それは過去にこの島を訪れた釣り人のものと思われた。

 ともかくここ一日二日のうちに二人組がいて、焚き火を囲んで暖を取り、釣った魚を焼いて食べた形跡があった。

 焚き木が集められているし、魚(び)籠(く)を置いたと思われるへこみがあり、串を刺した穴もあった。

 だが、迷路のようになった洞窟内の隅々まで捜したけど、何者も発見されなかった。

 鑑識班が靴跡の形を採ると、一方は運動靴によるものと思われた。

 もう一方は長靴(ながぐつ)のようでもあるけど、ソール紋がはっきりしなかった。

 真部光が柏崎市笠島の民家から逃亡する際には、履いていた靴を残して裸足で逃げている。

 少年が運動靴をどこかで調達したものかも知れない。微物検査の結果が出るまで、なんともいえないけど、希望が持てる。

 滝川警部は地元警察の捜索の模様を見守りながら、それにしてはもう一人は何者なのだろうかと思った。

 海上捜索からはなんの手掛かりも得られてない。


 新潟県警の微物検査の結果、血液型はA型とB型であることがわかった。真部光はA型である。

 DNA型判定でも、真部光の家族の口の粘膜から採取したDNAと一致した。

 だがもう一人分については、対照する相手がいない。犯罪歴のあるデーターバンクに一致するものはなかった。

 県警の捜査官の一人は、釣り人が少年に拳銃で脅されて釣り船か、もしくは陸路で逃げているのではないかといった。

 また別の捜査官は、釣り船なら嵐に巻き込まれて遭難してしまった可能性がある、海上保安部の管轄だ。

 それにしては行方不明になったと申し出る家族がいないのはおかしい、と滝川警部は思う。


 事件から約一カ月が経った時だった。

 大阪府警に戻っていた滝川警部のもとに、海上保安部から連絡が入った。

 北海道は渡島半島の西海岸から、国籍不明の小舟が発見されたというのだ。

 小舟は嵐に遭遇、遭難したと見えて、そうとう傷んでいるが、見つかりにくい所に隠していることから、乗組員は密入国したものと思われる。

 もしかして手配の少年は、釣り人ではなく、密入国者と一緒ではあるまいかという。なるほど考えられないことではない。

 早速、滝川警部は北海道に飛んだ。

 それは海上保安部がマスコミに公表する前日のことだった。


    2


 光が家族と北海道旅行したのは十月ごろで紅葉の盛りだった。

 大雪山連峰が冠雪していたかどうかは思い出せないけど、山膚を這うように染めた、鮮やかなダケカンバの黄色と、ナナカマドの赤は、鮮烈に覚えている。

 林の中はひっきりなしに紅葉(もみじ)が舞い散っていた。弟の聖也はまだよちよち歩きで、美しい姉は中学生だった。母も若かった。

 深い谷間から霧が這い上がって来て、足元を流れ、ダケカンバやナナカマドの林を縫って、岩山を、尾根を、幻想的に煙らせて上って行く光景は、何度夢に見たことやらーー。

 そしてその夢から光は目覚めた。


 寝ぼけ顔で見回すと、そこは電車の中だった。

 電車の窓からはうっすらと白い景色が流れている。

 向かい側からじっとこっちを見ている目と出会った。

 同い年くらいの少女だった。

 コンパートメントにはほかに誰も座っておらず、窓側で向かい合う形で二人だけ。

 少女は赤いハイネックセーターの上に、ブルーのフード付きジャンパーを羽織っている。白い毛糸の帽子から出た黒髪は肩までは届いていない。

 少女は目を逸(そ)らせもせず、丸い目の大きな瞳で、じっと光を見つめている。

 不思議な感覚で光も少女を見つめた。頭の隅ではこれは夢だろうかと思っている。

「あんた、大阪の“例の人”でしょう?」と、少女は顔を近づけ、声をひそめていった。「大丈夫、あたし、誰にもいわないから」

 光が戸惑っていると、少女はクスっと笑って、

「可笑しいよね。あたし沖縄から家出して来てんだけどさあ、こっちの人あたしのこと、アイヌだろうていうの。ピリカメノコだって。

 そういえばさあ~あ、こっちのお年寄り、沖縄(しまんちゅう)のオジイ・オバアによく似てんのよね、眉と目が濃いとがさあ~。可笑しいじゃん、本土を挟んでアイヌとシマンチュウが似てるなんて。でも似てんのよね」

 光は少女から目が離せなかった。

 騒がれたらそれでおしまい。乗客はほかにいっぱいいるのだ。

「あんた、どこ行く気? 旭川? それとも上川?」

 光は首を横に振る。

「いやだ。バスに乗り換えて、石北峠越えて網走? あたしと一緒じゃん」

 光は困惑した。

「そうなるとやっぱ層雲峡温泉で一泊ってことになるよね」

 少女は目をそらして窓の外を見た。

 光はほっと小さく息をした。

「あたし……家から持ち出したお金、もうほとんどないんだよね……」

 いやな予感がして来た。

「一度オヤジ誘ってさあ~あ、援交やろうとしたんだけど、ダメ。 ああゆうの、あたし、ダメ! ホテルから逃げ出しちゃった」

(うそだろう……)

「そんでさあ~あ。あんたと一緒だと、お安くなるじゃん、その手のホテルなら。旅館や、観光ホテルなんて、バッカみたいに高いしさあ」

 光は、夢であって欲しいと願った。

 かわいそうなロシアの老人に大方やってしまって、残金は一万円をきっているのだ。

「あ、でも北海道の夕暮れ時ってさあ、雄大で、いいなあ……」白いふっくらした頬の少女は、窓の外に目を向けたままいう。

「こんなところで死ねたらいいよねえ……」

 

    2


 旭川駅で降りた。

 バスで網走に向かうコースをとった。

 少女がいうように。

 もともとそのつもりだったけど、少女には逆らえないものがあった。

 しっかりと腕を取られて、傍目(はため)には恋人同士の旅行者に見えるだろう。

「あんたさあ、そんなんで野宿できると思ってるの? 北海道を甘く見てない?」

 島袋(しまぶくろ)カレンーー少女はそう名乗ったーーは、ダウンジャケットの背中に、丸めた寝袋と大きなリュックを背負って、トレッキングシューズを履いている光を見ていう。

 光も無駄な出費だったと今は後悔している。ディスカウントショップなので安かったけど、その分老人にもっとやればよかった。

 どうせすぐに死ぬんだからと思いながら、心のどこかに生への未練があったのだろうか。

 空は早くも雪模様。バスの中はスキー用具を持った若者たちでごった返している。

「目が覚めたら、雪に埋もれていたなんてことに。クマだっているんだしさあ。冬眠前の食溜(くいだ)めの時期なんだからーー」

「でも、お金が少ないから。ぼくだけなら洞窟なんかで、洞窟だと火を焚(た)ける」

 そうだその手があった。苦し紛れに思い出した。

「だって家から四十万円以上持ち出したんでしょう」島袋カレンは急に声をひそめた。「お姉さんのも含めてーー」

(なんでそんなことまで……)

 その後、家族がどうなったか光は何も知らない。新聞やテレビ、ラジオなどのニュースからーー人々の噂からも、ことさら目と耳を塞(ふさ)いでいたからだ。

 残された家族がどうなったか知るのが怖かったのだ。

 家族を守るためには仕方なかった。

 責任を取って自分が死ねばよいと思うことにしていた。

「……あんたも、もうお金ないの? やだ、どうすんのよ、これからーー」

「五六千円くらいならある」

「……そっかあ、ヤンキーに脅し取られていたんだね。んじゃ、あたしのと合わせても、二万円ないじゃん……」

 急に島袋カレンは無口になった。


 これでこの少女から解放されるだろう。

 自分一人なら野宿して何日だって過ごせる。

 でもそんな必要はない。

 霧に巻かれ、雪に埋もれて、死ねばよいのだ。

 スキー客がいるということは、層雲峡から黒岳へのロープウエーは動いているということだ。

「あたしさあ、風俗で働こうともしたんだ。だって同い年くらいの子が、ひと月に五十万も稼ぐというの聞いたしーーでもダメ! また逃げ出しちゃった。

 結局あたしってさあ、口煩(くちうるさ)い親から逃げ出したんだけど、その親がどこまでもついてくんのよ.どこに逃げてもーー。

 あたしって、どうしてこう融通が利かないんだろう……」

 窓の外は雪だ!

 吹雪だ!


  ♤


 河原でつがいのヒグマがサケを獲っている。

 光とカレンはそれを断崖の上から覗(のぞ)き見ていた。

 急に顔を上げて、大きいオスのヒグマがこっちを見上げた。

 河原は遥か遠くなのに、クマの赤い三日月のような目と目が合った。


 ――カレン、逃げろ!

 ――断崖があるから大丈夫。

 ――魔物だ! ――逃げろ! ――逃げろって!


 ――来る!

 雪を蹴散らかしてヒグマがやって来る。

 二人は必死で逃げた。

 だがたちまち岩間に追い詰められた。

 三百キロ級のヒグマが両手を広げて立ち上がった。


 ――ヒカル、ピストルで撃って!

 ――ダメだ。これはぼくの、贖罪のためのものーー。

 ――そんなこといってる場合じゃ――撃って!

 ー―ダメだ!


  ♤


「――ダメ!」

 といって光は目覚めた。

 少女によりかかっていた体を起こす。

 まだバスの中だった。

 窓の外はもう暗い。

 灯火ひとつない。

 窓に当たって雪が白く流れる。

 黒々とした山がすぐそばに迫っている。

「怖い夢見たんだ。かわいそう。夢は忘れてくれないものね」

「今どの辺?」

「あと十二キロだって、さっき標識がーー」

「……そうか」

「カレンって呼んでくれた。それに、ダメ! っていうの」

「……」

「なにがダメなの?」

「……」


 層雲峡温泉に着いた。

 雪が舞う中、安宿を探して歩いた。

 カレンにしっかりと腕を取られて。

 錠前のように。

 まだスキーシーズンには早く、観光シーズンは終わろうとしていたので、予約なしでもビジネスホテル風の宿に空きが見つかった。

 素泊まりで六千五百円と、ツインにしてはまあまあの値段。一階にはバイキングがあったけど、食料品はその前のコンビニで買い込んだ。

 どこ行くのにもカレンに錠前のようにしがみつかれていた。仕方がない。自分の持ち金は底をつき、カレンのお金に助けられているのだ。自分だけ野宿するといったけど、腕を離してくれない。

 ツイン部屋には当然ベットが二つ並んでいた。

 そのほかには、衣装ラックと姿見と、窓際には申訳程度のテーブルと向かい合わせの椅子があった。

 カーテンとルーム灯がなんとも色っぽい色合い。

 まずは備え付けの浴衣に着替えて、所在なさげにベッドに腰かけた二人は、テレビをつけてみたけど、いたたまれなくなって、「お腹ぺコペコだけど、その前にお風呂に行こうか」ーーとカレンがいう。

「あたし、三日もお風呂に入ってないんだ」

「うん、そうしよう。ぼくだってそうさ」

 光は小樽以来の風呂にありつけるのを喜んだ。その前は一ヶ月近くも入っていなかったのだ。


 風呂から出て、サンドイッチやおにぎりなどの食事がすむと、やることがないので、ベットに横になってテレビを観た。

 ニュースになると光はチャンネルを切り替えた。

「どうしてニュース見ないの? 家のことが心配じゃないの?」

「知りたくないんだ」

 バラエテー番組を観る気分にもなれないし、歌番組も、疲れてもいたので、「もう寝よう」といって光はテレビを切った。

 でもカレンはなかなか寝かせてくれなかった。

 蛍のように目を光らせてボソボソつぶやく。

「あたし……ひとりっ子だからさあ……兄弟がいたらよかったのに……。

 とにかくうちの親ってさ~あ、ダメ・ダメ・ダメって、あたしのやることなすこと注文つけてさあ……自分たちの鋳型(いがた)に嵌(は)めようとすんのよ。

 人前ではー―この子可愛いでしょう、でも引っ込み思案で、おとなしいのよ、つつましいいのはいいんだけど、もうちょっとねえーーなんて勝手に決めつけないでよ!

 ――でも、スカートたくし上げたりしないし、ちゃんと九時の門限は守ってくれる、ほんと、今時の高校生に比べたらねえ、そういう心配はないんだけど、おとなしいと生きて行くのが大変な時代でしょう、もうちょっと活発で、少しはずうずうしくないとねえ。

 ――そうじゃない、そうじゃない!

 と、いつもあたし心の中で叫んでた、勝手に決めつけないでよって。


 ……でもあたし、いつの間にか、そうやって、すっかり鋳型に嵌められていたんだ……。

 臆病で、なにもできないんだもの……。


 ……自分たちは夫婦喧嘩ばっかり。パパの浮気でさあ。尊敬する親だからいうこと聞いていたんだけど。

 ……小学生時分は自慢の親だった。ママは美人で、パパはカッコよくて。

 でもだんだんわかって来ちゃった。

 そうでもないってことが。

 自分勝手な親だってことが。


 ママにはあたししかいなかった。

 パパはあたしを厳格に育てようと口煩いだけ。自分のやってることは棚に上げて!

 罪滅ぼしにべたべたして来たりーー。

 もううんざりして、自分らしく生きたいから家出したの!


 ……でもなにもできない。

 ママのゆうとおり、臆病で、やってやろうと思ってたことが、いざとなると‐―ダメ!

 お年玉などを貯めたお金はどんどん減っちゃうし……あとは泥棒するしかないんだけど、それもできそうにない……。


 ――知ってる?

 あんた英雄になっちゃってるのよ。

 イジメられている誰もが、心の中で思っていてできなかったことを、やっちゃったんだものね。

 でもコメンテーターの偉そうな先生がさあ、テレビでさあ、心配してた。

 ――殺したり殺されたり、奪ったり奪われたり、大虐殺が日常的だったころに記された、象徴的な物語を、そのまま、純粋に信じてしまっているーーって。


  ♤


 光はいつの間にか夢の中にいた。

 夢の中にいて神の声を聞いていた。


“殺しなさい、わたしを信じない者を一人残らず” 


 そしてカレンの首を絞めていた。

 哀願されて。

 これは夢なのだろうかと、思いながら……。


   3


 襤褸(ぼろ)を纏(まと)ったホームレスのような老人と若者を乗せたという、長距離貨物トラック運転手の証言があった。


 ――弁天岬付近で拾って、岩内町まで乗せて降ろしたんだあ~。

 岩内町からバスで小沢駅まで行き、そこで函館本線さ乗り換えて、小樽駅まで行くってよ。

 臭くて汚いホームレスっしょ。


 いやでも目立つ二人だった。

 小樽駅の防犯カメラにもちゃんと映っていた。

 ロシア人風の老人と、農夫のような薄汚れた格好の若い男が、改札口を出るところから、コンコースを歩くところなど。

 コンビニやディスカウントショップでも。

 人々は顔を顰(しか)めながら避けて通っている。画像は粗いけど、若く見えるほうは真部光によく似ていた。

 もう一人の老人は灰色の髪と髭に覆われていて、顔の判別がつかない。ロシア人風の衣装なので、これが不審船の持ち主の密入国者に違いない。


 翌日には、小ざっぱりした格好の二人組がまた駅の防犯カメラに写っていた。

 明らかに一方は真部光であった。

 他方は随分な歳に見える痩せた老人で、やはりどことなくロシア人風だった。

 だが列車に乗ったのは老人だけ、真部光は老人を見送ってから、バスで札幌に向かっている。

 札幌駅の防犯カメラには老人だけが映っていた。


 道警はロシア娘が働く風俗やパブスナックなどに網を張っていて、密入国者の老人がススキノに現れるのを待っていた。

 そして、銀髪をオールバックにテカらせ、横長のサングラスをかけて、赤いベストのスリーピースの上に毛皮のロングコートをひっかけた姿で現れたところを確保した。界隈のフィリピンパブに足を踏み入れる寸前だった。

 アキーモヴィチ(九十一歳)、サハリン州はユジノサハリンスク在住の、自称漁師ということだった。

 だが調べてみると、北海道にはかつて三十年近く住んでいたことがあり、中古の車やバイク、自転車などを買い付けて、サハリン州の業者に売るバイヤーをしていた。

 それもほとんど盗品などだったので、入国管理局から強制送還されていた過去があった。

 なので、再入国を拒否され、老後は日本でという思いから密入国しようとしていたのである。

 そこへ真部少年が現れて、北海道に行きたいというから連れて来てやったのだという。

 本国に問い合わせてみると、詐欺・横領・窃盗などの常習者で、逮捕状が出ていた。

 通称アキモは真部光の行き先については知らないといった。神様と二人連れだから神様に聞けと。

 ロシア紙幣のほかに日本円も持っていたので追求すると、少年から五万円ばかり貰ったといった。ロシア紙幣は同胞のロシア人から、日本円に換金してもらうつもりだった。

 少年は拳銃を持っていたのでなめられてはならじと、殺人を犯して逃げているとウソをいったが、五人も殺して逃げていたなんて、おとろしあ。


 ロシア人のペテン師にそんなに巻き上げられて、残金が少なくなったことを、滝川警部は心配した。

 専門家は、少年の家族の証言や日記などから、少年は離人症(りじんしょう)を発症していた疑いあるという。

 手酷いイジメを受けるようになって、極度のストレスにさらされ、もともとそういう素因もあって発症したのではないか。

 現実感喪失症候群といわれるように、離人症は自分自身の感覚や体験が希薄になって、自己から離れて自分を眺めたり、白昼夢を見て、記憶が曖昧になって、現実と夢とが混沌(こんとん)となってしまう。

 聖書の文言・詩篇などを書き記していて、それを薄れた意識で自己流に解釈し、妄信しているフシがあるから、さらなる暴力に出たり、自殺したりする恐れがあるという。


 警部の懸念が当たった。

 真部光が家出中の少女を銃で脅して連れまわし、層雲峡温泉の宿に宿泊している、という道警本部からの知らせがあった。

 道警は少女の安全確保が第一、場合によっては少年の射殺も已むなしと、SAT(特殊部隊)出動の要請もしている。

 少年が銃を持っていることはロシア人も認めている。それで自殺しようとしているところを引きとめたのだと。

 ――そうとも、恐れるべきは少年の自殺、でも下手に刺激して凶暴化させてしまっては。

 滝川警部は現場に急行した。


    4


「ダメだ……できない」

 光は絞めていた手を離した。

 カレンは咳き込んだ。


 ――なにやってるんだ、絞めろ!


 カレンは自分の首をつかんで喘(あえ)ぐ。

 喘ぎながらいう。

「……あたしはどうなるの? ドロボウもできない……お金を稼ぐこともできない……野たれ死ぬしかないのにーー」

「家に帰れば」

「――いや! 絶対に、いや!」

「じゃあ、働けばいい」

「働くには履歴書がいる、保証人もいるのよ。とっくに試した。現住所が遠いので、家に電話で確かめるといわれた。補導されそうになった。夜の仕事だけよ、デタラメで通るのはーーでも危うくソープランドに売り飛ばされそうになった」


 ――どうせろくなことにはならない、楽にしてやれ、絞めろ!


「変な男が寄って来て、家出だろ、家(うち)に来ないーーなんていわれた。何人も何人も声をかけて来る。そういうのに、ついて行けばいいの?」

「ぼくにはついて来た」

「あんたは別。少しも怖くないーーどうしてかなあ……」


 ――なめられてるんだ!


「なにかの映画で観た。歩く無人って人。そんな感じ。もしかしたらあんたも、死にたいと思ってるんじゃないの?……必死で逃げようとしてないもの」

「……」

「重たいんだけど、下りてくれる」

 カレンは起き上がると、水を飲みに行った。


 戻って来ていう。

「安楽死薬ってさあ~あ、どうしてないんだろ? 需要はあると思うんだけど。リピーターがいないからかなあ」


 ――そんなのがあったらみんな死んじまう。


「とにかく、もう寝よう。ぼくは随分疲れている」

「じゃあ、あっち行って」


 光は本当に疲れていた。

 なにも考えられないほど疲れきっていた。

 まもなく暗闇に引きずり込まれるように意識を失った。

 夢も見ずに熟睡した。

 カレンに起こされるまでーー。

「――ねえ、ねえ、起きて!」

 といって揺り起こされた。

「今何時?」

「八時半過ぎた」

「もうそんな時間? どうしたの?」

「なんか変?」

「なにが変なの?」

「わからないけど、変。通路に誰もいない。こんな時間にだよ。ほかの部屋からも話し声がしないの」

 スキー客の若者がいっぱい泊っているはずだった。

 光はドアをそっと開けて、外を覗(うかが)った。

 シンとしている。

 確かに変だ。

 ガヤガヤとざわめいていなければおかしい。チェックアウトの時間は十時なのだ。

 光とカレンは身支度を整えて部屋を出た。

 カレンに錠前のようにしがみつかれているのは同じだった。

 前より一層に。

 衣服を通して体温を感じるほどにーー。



   5


 二人は三階からエレベーターではなく、階段を下りた。

 用心しながら。

 ぴったり寄り添って。

 途中誰とも出合わなかった。

 一階の最後の階段に足をかけてから、光は壁越しにロビーを覗き見た。

 ロビーにも客の姿はなく、受付の男女が前を向いて立っているのが見えた。

 二人とも明らかにチェックインの時と顔ぶれが違う。交替番とも考えられるけど。


 前の壁に遮られて、レストランとコンビニは見えない。

 こっち側の右手にはエレベーターが二基あるはずだけど、開閉する音はしない。

 ――やはりおかし?


 光はしがみついているカレンにいった。

「カレン、ここで別れよう。何だか危険なにおいがする」

「――いや! 独りにしないで。……連れてって……お願い」


 ――死神が、死神に取り憑かれたようだな、光。


「ぼくには行く所がある」

「あたしには行く所がない」

「網走に行くんじゃなかった?」

「サロマ湖を見て……摩周湖では変なやつに声かけられて」


 ――いいじゃないか、独りで死ぬのは淋しいんだ。太宰治のように、一緒に死んでくれる女(ひと)がいるなんて。神のおぼしめしかも知れない。


  ♤


 ――少年が出て来ました。少女も一緒です。

 黒い衣装の男の受付係は顎(あご)を引いて、口を開けずに喋った。


 ――どんな様子だ?


 ――少女がぴったり寄り添っています。ケガはなさそうです。緊張した顔しておりますが、怯えてる風はないですね。


 ――服装は?


 ――少年は覆面のようなフード付きダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んでます。ダウンジャケットと対(つい)のような銀色のズボンを穿いてます。

 少女は赤いハイネックのセーターの上にブルーのジャンパー、草色のデニムのパンツ姿。白い毛糸の帽子を被ってます。少年の右腕を抱くようにしておりますが……。


 ――よし。感づかれんようにチェクアウトしろ。表に出すんだ。


  ♤


 ――コンビニ班、二人が来たらすみやかに買い物させて、表に出せ。隙(すき)があっても、手出しするんじゃないぞ。


 ――コンビニ班了解!


  ♤


 ――レストラン班、一般客が大勢いる、非常事態に備えて見守るだけだぞ。姿を見せないように、な。


 ――了解しました!

  

  ♤


 ――SAT隊長、配備はどうですか?


 ――ヒットポイント三ヶ所確保しました。


 ――くれぐれも、当方の指示に従っていただきたい。


 ――了解。


  ♤


 ――勝つか負けるか、負ければ、虐殺されるか、奴隷――。

 万軍の主・神に続け! しもべなる、王よ祭司よ民よーー。

 ――力は正義だ!


   6


 温泉旅館の駐車場に司令車は停められていた。

 道路を挟んで、五階建ホテルの玄関が見渡せる所だ。

 ごく普通に見える中型バスだが、屋根に無線アンテナがあり、窓ガラスにはカーテンが引かれてある。

 そして、そこらのホテルや旅館――といわず、会社や商店の駐車場、道路にも、それらしき車両が、その中には、防弾チョッキで着膨れた連中が潜んでいるに違いない。

 通行人だってやけに着膨れている。ビルの屋上に人の頭がチラリと見えた。

(これはいったいなんの騒ぎだ。たかだか少年一人に。残りの銃弾だって二発。それだって、試し撃ちしたかも知れんからーー初めて撃ってあんなに正確に当たるはずがない)

 昨日降った雪が、うっすらと白く輝いているのに足跡をつけながら、滝川警部はゆっくりと司令車に近づいて行った。

 そんなことを心の中でぶつくさいいつつ。

「大阪府警の滝川です」といって車に乗り込む。

 仰々(ぎょうぎょう)しく着膨れた大柄な道警の警視正が、前の席から振り返った。

ヘッドホンを外していう。

「おう。ご苦労さん」

 眉毛が太くて目も鼻も口も大造りの濃い顔。こういう手合いは態度もデカイ。黒田警視正の前には、モニターテレビや無線機などのハイテク機器が並び、係員が二人いて操作している。

「どんな具合ですか?」

「今、コンビニで買い物をしている。菓子パンやら飲み物など、大量に買い込んでいる。遠足にお出かけのようだ。レストランに寄らないのはありがたい。荷物が多いのも」

「――部長! レジを終えました」係員の一人がいう。

「おう」といって警視正はマイク付きのヘッドホンを被る。


 ――各員に告ぐ!

 少年が出て来るぞ。打ち合わせ通りに、な。少女の安全確保が第一。少年とはいえ、五人もの命を奪った、凶悪犯。油断するんじゃないぞ。容赦するな。各自の判断で、拳銃の使用を許可する。


 ――SATの佐藤警視、くれぐれも、シューティングの際にあっては、こちらの許可を取ってからにしていただきたい。


「――ちょっと待ってください!」思わず滝川警部は叫んでいた。

「なんだ?」

 黒田警視正は怪訝な顔で振り返った。「どうした?」ヘッドホンを持ち上げていう。

「銃の使用は止めさせてください!」

「なぜだ?」

「少年は死ぬ気なんです。贖罪のために。命には命をーーと書きつけて家出しているんです。逃げているんじゃない。家出しているだけです。エジプトの奴隷が、神に導かれて荒れ野に出たように」

「おいおい、警部。お前さんはなにをいっとるんだ。この大事な時にーー」

「大事な時だからいってるです。人に危害を加えるつもりなら、とっくにそうしている。何度も何度も追い詰められているのにそうしなかった。拳銃を咥えて死のうとさえしているんです」

「五人も殺しているじゃないか」

「それは正義のためです、彼なりの」

「じゃあなぜ少女を拉致している!」

「少女も家出中です」

 

 係員が叫んだ。

「部長! 出て来ました!」

「いっとくが、この北海道管内では、一人も犠牲者は出さん。つまりは警部、(老いぼれはすっこんどれ)、部外者は口を出さんでくれということだ」

 そういって黒田警視正はヘッドホンをして正面を向いた。


    7


 目映(まばゆ)いばかりの光があった。

 そこへ光とカレンは白い衣装を着て踏み出した。

 ――雪。

 光の腕を取ったカレンが空を見上げていった。

 真青(まっさお)な空からひらひらと雪が舞って来る。

 それはだんだん数を増やした。

 数を増やして塵(ちり)のように降って来る。

 塵ではなかった。

 スズメバチの大群だ!

 ――カレン逃げろ!


 二人は白い衣装をなびかせて逃げる。

 手に手を取り合ってーー。

 それをスズメバチの大群が追いかける。

 羽音を唸(うな)らせて。

 そこらじゅうが飛び交うスズメバチとその唸り声で充満。

 ――救(たす)けてください!

 どこもかしこも固く門を閉ざしている。

 門の内で黒い影の人々は嗤(わら)っている。


  ♤


 目映い光に目眩(めまい)がした。

 雪は止んでいた。

 景色は白い粉を塗(まぶ)したようにうっすらと雪化粧。

 大雪山連峰は真っ白にキラキラ輝いている。

 所々に車の轍(わだち)と黒い足跡を残して温泉町は静かだ。

 ――静か過ぎる?

 人通りがないわけではないけれど。

 どこか欺瞞(ぎまん)めいている。

 コンビニで買い込んだ物をリュックに詰め込んで、光とカレンは腕を組んでホテルの玄関に立っていた。

 入りきれないものはコンビニ袋で下げている。

「行こう?」カレンがいう。

 なんとなくいやな気配がして、光の足は踏み出せない。

 光り輝く神(カムイ)の峰々を見上げた。

「どうしたの? 行こう」

 カレンが腕を揺(ゆ)すって、促(うなが)す。


 ――どこか、誰も知らない村か原野で、カレンと一緒に暮らせたらどんなに幸せだろう。

 ――そうとも、ぼくがなにをした。

 どうしようもないやつらを始末しただけだ。

 一人ではなにもできないクズどもを!

 みんな喜んでいる。

 ――ぼくは英雄だ!

 ――モーゼだ!


 光は促されて、一歩を踏み出した。


  ♤


 ――こちらハヤブサ1号、ターゲットが射程に入りました。

 前頭部、左胸腹部、左腕、左脚――。


 ――誤射の確率は?

 ――五パーセント。風はなく、少女の不測の動きだけです。

 ――そのまま待機せよ。

 ――了解!


  ♤


「ーーなあ、親父さん。警部。心配しなさんなって。銃なんかに頼るもんか。連中はお飾り。本官の許可なしには発砲できないんだ。

 近頃のアサルトライフルは、照準を合わせて固定すれば、定規で線を引くように当たる優(すぐ)れものらしいが、俺は信じちゃあいない。万が一にも間違いがあっちゃあならない。少女を巻き添えにするようなことだけは避けなければ。

 少女に危害が及ぶ時だけ、至近距離での発砲を許可してある。つまりは、SATはお飾りってわけだ」


 ――こちらSAT隊長、いつでも撃てる態勢。前頭部、左胸腹部、左上腕、左脚部。――許可を待ちます。


 ――ああ、そのまま待機してくれ。


 ――そこの自転車乗り、様子はどうだ?


 ――はい。少女は元気そうです。でもあまりにひっつき過ぎていて。少年の顔はフードの覆面を被っているのでわかりません。拳銃は見えません。ダウンジャケットの右ポケットの中で握っているものと思われます。バス乗り場に向かっております。


「バス乗り場まで行かせちゃあ、まずいな」と黒田警視正はつぶやいた。

「どこ行くつもりか知りませんが、別々になるまで行かせたらどうです? いずれ用足しに」と滝川警部はいう。

「バカいっちゃあ、いかんよ。人混みに入ったら、手出しできなくなる」


 ――おい、そこのアベック。思い切って近づいてみろ。刺激はするな。すれ違うだけだぞ。


 ――了解。


  ♤


 前からスキー用具を担いだ男女が近づいて来た。

 急にカレンが光の腕から離れた。

 駈け出して行く。


  ♤


 ――こちらハヤブサ1号、誤射率ゼロ!


 ――ハヤブサ2号、後頭部が射程に入りました!


 ――こちらSAT隊長、好機到来!


 ――アベック! 今だ! 撃て! 撃て!


 ――総員、かかれっ!


    8


「可愛い!」

 柴犬の子犬が近付いて来て、二人を見上げて尻尾を振ったので、思わずカレンは光の腕から離れて犬に駆け寄った。

 そしてしゃがみこんで子犬の頭を撫でようとした。


 この絶好の機会を、すぐ傍まで来ていたアベックに扮した警官が見逃すはずはなかった。

 スキー用具を放り出し、それぞれ拳銃を引き抜くと、腰だめに構えて、「警察だ!」と叫ぶと撃たれる前に撃った。

 光が体をよじってそっちを向いたからだ、ポケットの中の右手を突き出すように。


  ♤


 雑居ビルの屋上と、反対側のマンションの踊り場からも、閃光が瞬いた。


 ――好機到来!

 

 というのを、撃て! と、狙撃手たちは取ったのだ。SAT隊長は、無線を切り替えるのを怠(おこた)るという重大なミスを犯した。


  ♤


 そこらの車両から着膨れた連中が飛び出して、拳銃を握った両手を斜め下に延ばして、駆け寄って来る。


  ♤


 建物の陰や路地からは、完全武装の機動隊員が溢れ出て、ジュラルミンの盾と警棒を持って、ローマ軍のように押し寄せた。


  ♤


 ーーバシッ! 

 --キューン!


 という着弾音に驚いてカレンが振り返った時には、そこに光の姿はなく、アスファルトに着弾した火花が目に入った。

 兆弾がすぐ傍の街路灯を破列させた。

 そして光が身を翻して逃げて行く姿が見えた。

 チャンスなのは光とて同じだったのだ。

 突発的な思いだったけど、それが明暗をわけた。


 ――カレン、悪いけど、連れては行けない。ここで、お別れにしよう。

 君はまだ未熟なだけだ。大人になりきれないうちに巣立とうとした。

 神さまのように見えていた親が、実はそうではなく、傲慢で、自分勝手な支配者で、嫉妬深いだけの、暴君たった。

 大人になればそれが当り前なのがわかるのにーー。

 猛禽類に襲われないうちに安全な巣にお帰り、カレンーー。


 光は全速力で走った。

 両手をポケットから出して。

 拳銃なんか握ってはいない。

 しかし、大きなリュックと寝袋を背負っていたーー。


 ――ヒカル!

 待って!

 置いてかないでよ~ぅ!


 カレンの悲しい声がそれを追いかけた。


  ♤


 少年が拳銃など握っていなかったことは明白。だからいわんこっちゃないと、滝川警部は司令車を飛び出した。

 さすがに追いかける警官らは、拳銃を革帯に納めて、警棒と素手で取り押さえにかかっている。

 光はラグビー選手のように彼らの間隙を縫って逃げまわり、タックルされて転んだり、警棒で打たれたりしたけど、路地から路地へと、猿のようにすばしこく逃げまわった。

 挟み打ちに合い逃げ場を失うとーーどこの家も建物も固く門を閉ざしていたーー塀を乗り越えて屋敷の庭に入り、裏に出て、建物と建物との狭い間をすり抜けて、逃げた。

 だけども、機動隊の盾に次々に路地を封鎖され、逃げ場を失って、またメイン道路に追い出された。


  ♤


 ――こちらハヤブサ3号、タゲットが射程内に入りました。動く標的なので、的中率七十五パーセント。

 隊長からの応答がないーー?

 ので、ハヤブサ3号は、先ほどの「好機到来!」というゴーサインに従って、フリーハンドでシュートした。


  ♤


 ――カレン、ぼくの運命を決めるのは神だ。

 神の山に登って、ぼくは神の審判を仰ぐ。

 もしぼくが万が一にも赦されて、生られるようなことがあったら、君に会いに行くよ。

 もしぼくが死んでイエスのように復活を果たすようなことになったら、君の赤ちゃんとして生まれたい。


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