第五章 トラック運転手・猪鹿長吉
1
“――しもべよ。
日月を操(あやつ)り、海を分け、大地をイナゴやカエルで満たすことのできるわたしに、できないことがあろうか”
――あっ!
光は道路から広場に逃げようとして滑って仰向けに転んだ。
それは、ビュン!
――と空気を切り裂くような音がしたのと、ほぼ同時だった。
リュックと寝袋のおかげで、アスファルトに後頭部を打ちつけずにすんだけど、臀部を芝生との境目で強か打ち、防御のために肘と手も打った。
起き上がろうとするところへ、近場にいた警官が飛びかかって来て、光に覆い被さった。
が、警官は、――ぐっ!
という押し潰されたような声を発した。
その時もまた空気を切り裂く耳触りな音がして。
大柄な防寒服の警官の下敷きになった光は、懸命にもがいた。
だけど警官はぐたっと脱力していて重たい。
そのうち生温かいものが顔に降りかかり、体を濡らした。
――?
見ると、警官の首の辺りから、噴水のように血が噴き出していた。
♤
――ああ、やっちまったか!
てっきり少年が発砲したものだと思って滝川警部は声を漏らした。
取り囲む警官たちも拳銃を取り出しながら後退した。
機動隊員らはジュラルミンの盾に身を隠した。
――それにしては銃声が聞こえなかったな?
と一同は怪訝な顔を見合わせた。
♤
――なんてことだ!
と、一五〇メートル離れた所の岩の上で、ハヤブサ3号は真っ青になって、つぶやいた。
一発目を外し、あわてて狙った二発目がーー。
突然スコープに警備隊員の姿が入ってーー
でももう引き金を引いていたーー。
スコープで覗き見ると、警備隊員の頭と防弾チョッキとの間の首にーー。
……ああ、どうしよう……。
若い狙撃手は狼狽した。
♤
司令車の中で、SAT隊長と無線でやり合っていた黒田警視正も飛び出して来た。
♤
ビル三階の空き部屋を司令室にして、指揮をとっていたSAT隊長もまた、道路脇の広場でなにが起きているのか、窓から首を出して覗いた。
――そこへ、ハヤブサ3号から無線が入った。
♤
光は重たい警官からようやく体を抜き出して、血まみれの格好で立ち上がった。
まわりは拳銃を構えた警官や機動隊のジュラルミンの盾に囲まれている。
なにか自分が英雄になったような気分で、上空からそれを眺めている自分がいた。
警官一人ひとりの顔を見る自分もいた。
時は停滞し、聖なる真っ白な光で満たされていた。
――と、そこへ、急速に近づいて来る大きな影があった。
――ボワン!
という大きな音がした。
道路にいた警官たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げた。
巨大な影は光の横に来て停まった。
「兄ちゃん、乗ってくかい」
と、見たことのある顔がいった。
いつか見た時は、無数の電飾でデコレーションされていて、明け方の薄闇の中で、銀河のように明滅していたけど、今は箱形のボディーに貼りつけられた大小無数の電球が、白けて見えた。
そのかわりに女性演歌歌手の鮮やかな顔が大写しされていた。
呆気(あっけ)にとらわれている警官たちを尻目に、光が助手席に乗り込むと、大型貨物トラックは、
――ボワン!
――ボワン!
と、唸り声を上げて、発進した。
警官たちを蹴散らかして進んだーー。
交通規制しているバリケードも突き破ってーー。
トラックは蛇行するたびに道路脇のなにかにぶつけたーー。
その間、運転手の男は陽気に笑い続けた。
「うわっは・は・は・はーー」
2
「――バカがこのう!」
白髪(しらが)混じりの短髪角刈りの運転手はーー若いのか歳なのかわからないーー後ろを振り返っては、ペットボトルの水を呷って毒づき、豪快に笑った。
――わけがわからない?
わからないけどあの状況では乗り込むしかなかった。
警察が呆気にとらわれているうちに。
天の助けのようなものだった。
男が弁天岬近くでヒッチハイクした時の運転手であることは間違いない。それも今はかなり酔っ払っている。
貨物トラックは石北峠方面に向かって蛇行しながら走っている。
のろのろと。
酔っているせいかとも思ったけど、後続車が追い越しできないように、ワザとそうしているのか、長々と車列の糸を引いている。
クラクションを鳴らされても意に介さず、警笛で応戦、対向車とはニアミスの連続で、危なかしいことこの上ない。
後ろの方でサイレンの音はするものの、パトカーも思うように近づけないようだ。
男が血だらけの光を見ていう。
「兄ちゃんよう、大奮闘だったな。大事ないか?」
光は首を縦に振った。
打ち傷擦り傷は無数にあるけど、骨折やねん挫がないのは幸いだった。
「警察無線聞いてみっか」といって男は、フロントに取りつけた無線機のツマミをまわした。
だが、ピーピーガーガーのノイズばかりで聞き取れない。
「あんだよう!」
すぐに元に戻した。
それから男は無口になった。
何か考えている風だったが、洟(はな)をすすってから、独りごとをぶつぶつつぶやいた。
――笑っちゃうよな。この歳で北海道の先っぽから九州の先っぽまで、明けても暮れても行ったり来たり……。
高速道路なんてお前(めえ)、前がトラブッたら、そのまま突っ込むしかねえんだぞ。ブレーキかけて止まれるような車間距離で走ったら、商売にならねえんだあ……。
毎日が命懸けよう……神経すり減らして……命懸けで稼いだ金は、あっという間に、酒と女にバクチで消えちまう。この歳で家族もいなければ彼女もいねえ……。
食ってウンコ垂れるだけの人生よ。バカバカしくて屁も出ねえ。
大酒喰らってよ、このハコで寝てたら寝過ごしちまって。目え覚めたら、はあ、お天道さまは高々、大捕り物が始まっていたってわけだあ。
たった一人の兄ちゃんを、武装警官が寄って集って打っ叩き、こずきまわしてよ。見ちゃあいられなかった。しかもよく見ると、岬で拾った兄ちゃんじゃねえか。
兄ちゃんのことはあとでニュースで知ったべさ。気の毒な事情だけど、五人も殺しちゃあなあ……。
でもよ、警官が兄ちゃんに銃を向けた時、このハコが獅子のように立ち上がって、吠えたんだあ~。
男は急に、横のフックから無線のマイクをつかみ取った。
そして呼びかけた。
「――山ちゃん、今どこよ?」
一時して返事があった。
――おう、イノシカの兄貴か。わしは今、石北峠下ったとこだども」
「そうか。こっちは層雲峡温泉出たとこよ」
――そっちでなにかあったっかや? パトが何台も突っ走って行ったがのう。
「そうすると、どこかで出合うな。お前も突っ走って来い!」
――なしてよ、道が凍ってるけんが、危ないがな。
「いいから突っ走って来い!」といって男はマイクを切った。
そして後ろを振り返って、徐々にスピードを上げた。
それに連られて後続の車もスピードを上げた。パトカーが三台、すぐ傍まで迫っていた。
そこで男は急ブレーキを踏んだ。
ので、後続の車も次々にブレーキを踏んで、キュルキュルッ~とタイヤを軋(きし)ませる音と、――ドシン! という音がした。
光は思わず後ろを振り返った。
後ろでは次々に玉突き衝突事故を起こしているょうだった。
男は知らぬ顔でスピードをますます上げた。
トンネルにさしかかった。
トンネルに入ると、男は電飾をビカビカ光らせて、大音響で演歌をかけた。
そして長いトンネルを抜けると、ボワン! ボワン! とSLのように警笛を鳴らした。
「あに、もたもた走ってんだよう!」
前の車を威嚇したのだ。
3
前を軽トラと乗用車が走っていた。
前方の信号は赤だった。
「待ってろ、今ブーちゃん飛ばしてやっから」とって男は無線機のつまみを上げた。
すると、交差するほうの信号機が黄色点滅を始めて、前方の赤信号が青に変わった。CB無線の強力電波を飛ばして、信号を変えたのだ。
「へへへ。天皇陛下になったみたいな気分だべ?」
それからの信号機はみな青に変えた。
前を行く車両を次々にごぼう抜きしながら、トラックは国道39号線を突っ走った。
「ははは。バカがこのう」ペットボトルの水を呷って、「兄ちゃんよ、このまま行ったら挟み打ちになる。大雪ダムのとこで273号線のほうさへ逃げよう。間に合えばいいいけどよ」
――と、そこへ無線が入った。
――チョウさんよ、パトは39号と273号の分岐点で、検問を始めたぞ。どういうことかや?
「……そうか。お前そこをーー」
――今通り過ぎた。
「そうか、じゃあ、石狩川あたりで出合いそうだなあ」
――そんな近くまで来たのか、早え~」。
「お前に頼みがある」と男はいった。
光は他人事のような顔をして聞いていた。
♤
猪(いの)鹿(しか)長吉(ちょうきち)(五十二歳)のトラックは検問の車列に並んだ。
外套を着た警官が三人駆け寄って来た。
「降りろ!」警官は荒々しく叫んだ。
三人とも拳銃を露わにして構えている。
「なしてよう。俺がなにしたってよう」
「少年はどこだ!」
「ヒッチハイクの少年のことなら、途中で降りるというから降ろしたっぺよ」
「なにい、貴様! いい加減なこというな! 公務執行妨害の現行犯で逮捕する! 降りろ!」
「あんでよう。俺、ヒッチハイカ―を拾っただけだっぺよう」
猪鹿長吉は引きずり出されて、手錠を打たれた。
だがトラックのどこを探しても真部光の姿はなかった。
♤
石狩川にかかる橋の袂(たもと)で、光は猪鹿長吉の貨物トラックから降りていたのだ。
そして走って来た別のトラックに乗り換えて、再び層雲峡温泉のほうへ逆戻どりしていたのである。
途中、何台ものパトカーが、ビカビカ回転灯を光らせ、サイレンをかき鳴らしながら数珠つなぎになってすれ違って行った。
光は事故処理で混雑する少し手前で降りた。
そして、そこから山に入った。
♤
真っ青な空なのに、目指す黒岳の頂上付近は神の山・シナイ山のようにそこだけ厚い雲で覆われている。
雲の中では無数の稲妻が光り、天が割れんばかりの雷鳴が轟いていた。
――と、大鷲が現れ、羽ばたくと、その雲の一部が光目がけて急速に這い下りて来た。
あっという間に光を包み込んだ。
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